第9話 新月の森で、王家が奪ったものを返せと言われました
新月当日。
空は、朝から薄い雲に覆われていた。
雨が降り出すほどではない。けれど陽光は弱く、王都の街並みも、いつもより少しだけ色を失って見えた。
ベスター伯爵家の王都屋敷では、夜明け前から使用人たちが慌ただしく動いている。
玄関前には何台もの馬車。
荷を積むための荷車。
王家から派遣された騎士たち。
魔術師。
治癒術師。
そしてベスター家の者たち。
これほど大規模な移動でありながら、目的を知る者はごく僅かだった。
表向きは、王家による北部禁足地の緊急調査。
その中心に第一王子と国王がいることさえ、王宮内部でも限られた者にしか知らされていない。
アマリリアは二階の窓から、その様子を見下ろしていた。
「いよいよですわね」
独り言。
返事はない。
自室には今、誰もいない。
銀色の髪はいつものように下ろさず、高い位置で一つに束ねている。身につけているのは学園の制服でも、令嬢らしいドレスでもない。
黒い細身のズボン。
動きやすい白いシャツ。
その上から、魔獣の爪を通しにくい革製の軽装鎧。
肩には濃い灰色の外套。
腰には短剣を二本。
背には折り畳み式の短弓。
袖口には、もちろん何本かの針。
ただし毒針ではない。
今回は眠り薬を塗ったものだけにしている。
北の森に住む者が敵だと決まったわけではないからだ。
「私も随分、慎重になったものですわ」
鏡に映る自分へ向けて呟く。
その胸元には、母エレナから受け継いだ三日月の首飾り。
今朝からずっと、微かな温かさを保っている。
文字は出ていない。
けれど、森の方角へ身体を向けると僅かに光が強くなる。
まるで道を示しているようだった。
机の上には、持っていくものが並んでいる。
母の日記。
母からの手紙。
王家の契約原本の写し。
本物の原本は国王が持つ予定だ。
アマリリアは一つずつ確認し、鞄へ入れていく。
最後に。
小さな銀色の鈴。
いつも黒装束たちを呼ぶために使うもの。
手に取り。
少し考える。
「……これは必要ありませんわね」
今日、森の奥へ入るのは自分とライル、そして国王。
ゼインたちは外縁で待つ。
呼んでも来られない。
アマリリアは鈴を机へ戻した。
その瞬間。
コンコン。
「リリア」
兄アレクの声だった。
「どうぞ」
扉が開く。
アレクも旅装だ。
騎士服の上から軽い鎧を着け、腰には剣。森の外縁までは同行する。
「準備できたか?」
「はい」
「本当に?」
「何を疑っておりますの」
「短剣を十本くらい隠していないか」
「二本ですわ」
「袖は?」
「眠り針を少々」
「靴は?」
「何も」
「本当か?」
アマリリアは目を逸らした。
「リリア」
「小さな刃が一つだけです」
「やっぱりあるじゃないか!」
「備えですわ」
「殿下に向けるなよ」
「もういたしません」
「もう?」
「細かいことはお気になさらず」
アレクは大きなため息をついた。
「行くぞ。殿下たちも来られた」
「もう?」
「ああ。父上が玄関で騒いでいる」
「なぜです?」
「鎧がきついらしい」
「……」
「昨日から腹を引っ込めようとしているが無理だったそうだ」
「お父様」
アマリリアは目を閉じた。
今日でさえ、父は父らしい。
その事実に、逆に少し安心する。
「兄様」
「何だ」
「行ってきます」
アレクは一瞬黙った。
「まだ屋敷を出てもいないぞ」
「言っておこうと思いまして」
「……そうか」
兄は妹の頭へ手を伸ばしかけた。
けれど、髪を綺麗に纏めていることに気づいて止める。
代わりに肩へ手を置いた。
「帰ってこいよ」
「もちろんです」
「殿下も」
「連れて帰ります」
「父上も」
「森の入口までですから大丈夫でしょう」
「その父上が一番心配なんだ」
「否定できませんわね」
二人は少し笑った。
そして。
並んで部屋を出た。
◇◇◇
「この鎧は絶対に仕立てが悪い!」
玄関へ着くなり、ハロルドの声が聞こえた。
「お父様」
「リリア! 聞いてくれ! 胸当てがきつい!」
「胸ではなく、お腹では?」
「胸だ!」
「では、その下の膨らみは?」
「これは……筋肉だ!」
アマリリアはじっと父を見る。
ハロルドも娘を見る。
数秒。
「少し太った」
「素直でよろしいですわ」
「朝から父を傷つけるな!」
玄関前には、既にライルがいた。
濃紺の軽装鎧。
腰に剣。
普段の王子らしい装いよりずっと簡素だが、動きやすさを優先したものなのだろう。
その横にディーン。
さらに少し離れた場所には国王アルベルト。
王もまた、儀礼用の服ではなく旅装だった。
王妃セレーネは見送りに来ている。
「おはようございます、陛下。殿下」
アマリリアは深く礼を取る。
「おはよう、ベスター令嬢」
国王が返す。
ライルはアマリリアを見る。
上から下まで。
「今日は随分、本格的だな」
「殿下も」
「似合うか?」
「ええ」
「即答?」
「とても」
ライルが僅かに固まる。
「……そうか」
耳が赤い。
アマリリアは少し笑う。
「殿下」
「何だ」
「本日もプラス一点ですわ」
「何もしていない!」
「似合っていますので」
「評価基準がどんどん曖昧になっていないか?」
「その日の気分です」
「それで点数をつけるな!」
国王が横から息を吐いた。
「朝から変わらんな、お前たちは」
「父上」
「緊張しているよりはよい」
国王の声には笑いがあった。
けれど。
王妃だけは笑っていなかった。
彼女はライルの前へ進み。
両手で息子の頬へ触れた。
「母上?」
「少しだけ」
ライルは何も言わなかった。
王妃は十八歳になった息子の顔を、しっかりと目に焼きつけるように見つめる。
「帰ってきて」
「はい」
「絶対に」
「はい」
「また私の知らないところで、一人で諦めたりしないで」
ライルの目が僅かに揺れた。
「……しません」
「約束よ」
「約束します」
王妃は息子を抱きしめた。
ライルの身体が一瞬硬くなる。
けれど。
すぐに母の背へ腕を回した。
アマリリアは視線を逸らした。
ここは自分が見る場面ではない気がした。
そのとき。
「アマリリアさん」
王妃に呼ばれる。
「はい」
顔を向ける。
王妃はライルから離れ、そのままアマリリアの前へ来た。
「息子をお願いします」
「はい」
「それから」
王妃はアマリリアの手を取る。
「あなたも帰ってきてください」
その言葉。
少し意外だった。
「私も?」
「もちろんです」
「ですが私は」
「ライルが一人で帰ってきても、きっと喜びません」
隣でライルが反応する。
「母上!」
「違うの?」
「そういう言い方をしないでください!」
王妃は少し笑った。
「ほら」
「何が、ほらですか!」
アマリリアもつられて笑う。
「必ず戻ります」
「はい」
「殿下も連れて」
「お願いします」
手を離す。
アマリリアはライルを見る。
ライルもこちらを見ていた。
「殿下」
「何だ」
「帰りましょうね」
「ああ」
「三人で」
国王へ視線を向ける。
アルベルトが眉を上げる。
「俺も数に入っているのだな」
「国王陛下を森へ置いてくるわけにはまいりませんもの」
「当然だ」
「お父様も」
ハロルドが胸を張る。
「俺は外で待っている!」
「逃げないでくださいね」
「誰からだ!」
「魔獣から?」
「縁起でもないことを言うな!」
少し笑いが起こる。
そして。
出発の時間になった。
◇◇◇
北の森までは、王都から馬車で半日。
前半は整備された街道。
後半は、森へ近づくにつれて道幅が狭くなっていく。
複数の馬車と騎馬隊が連なり、北へ向かう。
アマリリアが乗っているのは、いつものようにライルと同じ馬車だった。
今日はディーンも同乗している。
国王は別の馬車。
ハロルドとアレクもベスター家の馬車に乗っている。
「静かですわね」
アマリリアが窓の外を見ながら言う。
「森へ近づいているからな」
ライルが答える。
王都を出てから、時間が経つにつれ民家が減った。
畑。
牧草地。
小さな村。
それもやがて消え。
左右には鬱蒼とした木々が増えている。
「この辺りから魔獣が出ます」
ディーンが言う。
「街道沿いは定期的に騎士団が巡回しておりますが、森側へ入れば別です」
「北の森は、なぜ今まで誰も調査しなかったのです?」
「国王命令による禁足地です」
「それは存じております。ですが、研究者などは興味を持つでしょう?」
「過去に何度か侵入者はいたそうです」
「どうなりました?」
ディーンは少し間を置いた。
「戻ってきませんでした」
アマリリアは窓の外を見る。
「なるほど」
「怖くないのか?」
ライルが聞く。
「少しは」
「本当に?」
「殿下は?」
「怖い」
即答だった。
「珍しく素直ですわね」
「この森へ入って消える未来を、八年間考えてきた」
声が静かになる。
「怖くないと言う方が嘘だ」
アマリリアはライルを見る。
十八歳。
まだ若い。
この森を。
死ぬ場所として。
十歳の頃から意識してきた。
その時間を想像すると、胸が痛くなる。
「殿下」
「何だ」
「手を」
アマリリアが右手を出す。
ライルが目を丸くする。
「なぜ?」
「怖いのでしょう?」
「だからといって」
「嫌なら結構ですわ」
引こうとする。
その前に。
ライルが握った。
「……嫌とは言っていない」
「まあ」
「笑うな」
「笑っておりません」
「口元が上がっている」
「嬉しいだけです」
「それを言うな!」
握った手へ力が入る。
どちらから。
分からない。
アマリリアも離さなかった。
向かいに座るディーンは。
完全に窓の外だけを見ていた。
「ディーン様」
「何でしょう」
「こちらを見ないのですね」
「私は景色を警戒しております」
「先ほどから同じ木ばかりですが」
「警戒しております」
「耳が赤いですわよ?」
「気のせいです」
ライルが額を押さえる。
「ディーンまでからかうな」
「面白いので」
「認めるのか!」
馬車の中に少し笑いが生まれた。
そのまま。
手は離れなかった。
◇◇◇
昼を過ぎた頃。
一行は北の森外縁へ到着した。
森の前には、既に先行した近衛騎士たちによって臨時拠点が作られている。
大型の天幕。
治療所。
荷物置き場。
魔術師たちが設置した結界杭。
周囲を警戒する騎士。
そこから先。
僅か数十メートル。
北の森が広がっていた。
「……」
馬車から降りたアマリリアは、しばらく言葉を失った。
大きい。
樹木一つ一つが。
普通の森より明らかに太く、高い。
幹は三人で手を回しても届かないほど。
枝葉が空を覆い、昼間だというのに森の奥は薄暗い。
そして。
静か。
鳥の声がない。
虫の羽音も。
獣の気配も。
何も。
「気持ちが悪いほど静かですわね」
「ああ」
ライルも森を見る。
国王が別の馬車から降りてきた。
「ここから先が禁足地だ」
「陛下は以前?」
「十三年前。ライルを連れてきたときだけだ」
国王の表情が硬い。
「覚えていらっしゃいます?」
ライルが聞く。
「忘れたことはない」
短い返事。
王の目には。
父親としての苦しさがあった。
ハロルドも降りてくる。
鎧を着ているが。
歩き方が既に少しぎこちない。
「お父様」
「何だ」
「無理しました?」
「していない」
「脚が震えております」
「馬車に長く乗っていたからだ!」
「帰りは寝台をご用意しましょう」
「年寄り扱いするな!」
ゼインが近づいてくる。
「お嬢様」
「はい」
「周辺の確認は終了しております。通常の魔獣反応はありません」
「通常の?」
「森内部に、非常に大きな魔力反応がございます」
「どの程度?」
「測定不能です」
昨日と同じ。
《名を失った者》。
地下全体を満たすほどの魔力。
それ以上かもしれない。
「月守でしょうか」
「可能性は高いかと」
ゼインが地図を広げる。
「森の中央付近。以前の記録では、白い巨木があるとされています」
「母の手紙にも」
アマリリアが頷く。
「月守は恐らく、そこに」
「ただし」
「何です?」
「道がございません」
「道がない?」
「物理的にはあります。ですが、森の中で方角を示す魔術が全て狂います」
「羅針盤は?」
「北を示しません」
「地図も役に立たない」
「はい」
国王が口を開く。
「十三年前も同じだった」
「どうやって進まれたのです?」
「案内が来た」
「案内?」
「白い鹿だ」
ライルが見る。
「父上。その話は初耳です」
「言っていなかったからな」
「なぜ?」
「必要がないと思っていた」
「最近そればかりですね」
ライルの声に、ほんの少し棘が混じる。
国王もそれに気づいた。
「……すまない」
素直な謝罪。
ライルが少し驚く。
「これからは、必要がないと勝手に決めない」
「父上」
「お前に言われたからな」
国王はアマリリアを見る。
「そこの令嬢にも」
「私はかなり言いましたわね」
「遠慮がなさすぎたがな」
「反省しております」
「本当か?」
「少し」
「少しか」
空気が少し緩む。
そのとき。
森の奥から。
ガサッ。
音。
全員が身構える。
騎士たちが剣を抜く。
アマリリアも短剣へ手をかける。
木々の間。
白い影。
一つ。
ゆっくり。
森から出てくる。
「鹿……」
白い鹿だった。
普通の鹿より大きい。
角は銀色。
瞳は淡い青。
首元には三日月のような紋様。
国王が息を呑む。
「十三年前と同じだ」
白鹿は人々を恐れない。
ゆっくり近づく。
そして。
アマリリアの前で止まった。
「私?」
白鹿が首を下げる。
鼻先が。
アマリリアの胸元の首飾りへ触れる。
光。
三日月が銀色に輝いた。
『娘』
頭の中。
声。
「聞こえます?」
アマリリアがライルを見る。
「何も」
アマリリアだけ。
『来た』
「ええ」
『遅い』
「申し訳ございません」
『エレナも遅かった』
「お母様をご存じで?」
白鹿の目が。
少し優しく見える。
『泣き虫』
「お母様が?」
『そして怒りっぽい』
アマリリアは少し考える。
「お父様のお話と一致しますわね」
ハロルドが離れた場所から叫ぶ。
「何を言われた!?」
「お母様は泣き虫で怒りっぽかったそうです!」
「余計なことを聞くな!」
白鹿の口元が。
僅かに笑ったように見えた。
『男もいる』
「殿下ですか?」
白鹿がライルを見る。
次。
国王。
『王も』
「はい」
『来い』
白鹿が森へ身体を向ける。
「案内してくださるのです?」
『新月まで』
「まだ夜ではありませんわ」
『森では』
白鹿の声。
『もう新月が始まっている』
その言葉と同時に。
森の奥が。
さらに暗くなった。
昼間なのに。
まるで夕暮れ。
「どういうことだ」
ライルが警戒する。
アマリリアが白鹿の言葉を伝える。
「森の中では、もう新月が始まっているそうです」
「時間が違う?」
国王が眉を寄せる。
「恐らく」
オズワルドは今回、外縁まで同行している。
「古い結界内部では、時間や空間の流れが外界と異なることがあります」
「なら」
ライルが森を見る。
「今、入るしかない」
「ええ」
アマリリアは頷く。
国王も。
三人。
森へ入る。
その前に。
「リリア」
父が呼んだ。
アマリリアは振り返る。
ハロルドが。
こちらへ歩いてくる。
「お父様?」
何か言うかと思った。
でも。
父は何も言わず。
娘を抱きしめた。
「……」
アマリリアの身体が固まった。
「お父様?」
「一回だけだ」
「何が?」
「父親らしいことをさせろ」
声が。
少し震えている。
「エレナを止められなかった」
「……」
「今度は娘まで森へ行く」
「私は戻ります」
「分かっている」
「信じてくださいませ」
「信じている」
ハロルドは娘の頭へ手を置いた。
「だから、帰ってこい」
「はい」
「殿下と一緒に」
「はい」
「それから」
少し離れる。
「もし結婚するなら、先に俺へ言え」
「お父様」
「父親として必要だろう!」
「今言うことですか?」
「今しか言えない!」
アマリリアは。
少し笑った。
「そのときは」
「ん?」
「考えておきます」
「絶対に言わない気だろう!」
「では」
アマリリアは一歩下がる。
「行ってまいります」
「リリア!」
「何です?」
「絶対帰れ!」
「はい!」
今度は。
はっきり答えた。
アレクも前へ出る。
言葉はない。
拳を出す。
アマリリアも拳を合わせた。
「帰ったら」
「はい」
「父上の書類仕事を手伝え」
「それは嫌ですわ」
「そこは断るな!」
最後まで。
家族らしかった。
◇◇◇
森へ入ったのは。
アマリリア。
ライル。
国王。
そして白鹿。
護衛たちは外。
ディーンでさえ。
ライルを見送るしかない。
「殿下」
ディーンが最後に言った。
「はい」
「必ず」
「ああ」
「ベスター令嬢」
「何でしょう」
「殿下を」
「守ります」
「ご自身も」
「戻ります」
ディーンは頭を下げた。
「お願いします」
三人は。
森へ足を踏み入れた。
一歩。
境界を越える。
瞬間。
音が消えた。
「……」
外縁にいた騎士たちの声。
風。
馬。
全て。
振り返る。
そこには。
森しかなかった。
「入口が」
ライルが呟く。
「消えましたわね」
「驚いていないのか」
「多少」
「その顔で?」
「殿下の方が驚きすぎです」
「普通は驚く!」
国王が後ろから言う。
「二人とも。ここで喧嘩するな」
「しておりません」
「していません、父上」
声が揃う。
「ほら」
「何がです!」
ライルが叫ぶ。
アマリリアは少し笑う。
こんな場所でも。
いつも通り。
そのことが。
ありがたかった。
白鹿は先へ進む。
三人も続く。
森の中は暗い。
けれど完全な闇ではない。
木々の幹。
地面の苔。
白い小さな花。
それらが淡い銀色の光を放っている。
「幻想的ですわね」
「綺麗だな」
ライルが言う。
「殿下と意見が合いました」
「悪いか?」
「いえ」
アマリリアは少し微笑む。
「嬉しいです」
「そういうことを自然に言うな」
「なぜ?」
「集中できない」
「森に?」
「君に!」
言ってから。
ライルが固まる。
アマリリアも。
国王が後ろで咳払いする。
「父上」
「何も言っていない」
「顔が笑っています」
「気のせいだ」
「絶対に笑っている!」
白鹿まで。
少し振り返った。
その目が。
笑っているように見える。
「鹿にまで笑われていますわね」
「君のせいだ!」
「まあ」
アマリリアは楽しそうに歩く。
しかし。
森の奥へ進むほど。
空気は重くなる。
一本。
また一本。
木々の幹へ。
黒い亀裂が見え始める。
「これは」
国王が触れようとする。
「陛下」
アマリリアが止める。
地下の教訓。
勝手に触らない。
「そうだったな」
国王は手を引く。
「森が死ぬと言っていた」
ライルが亀裂を見る。
「これが?」
「恐らく」
白鹿が止まる。
『奪われた』
アマリリアへ声。
「何を?」
『力』
「王家に?」
『血へ』
やはり。
ライルの中。
王家の血に。
月守の力。
「返せば、森は戻る?」
『一部』
「一部?」
『足りない』
「何が」
白鹿は答えない。
また歩く。
「白鹿は?」
ライルが聞く。
「力を返しても足りない、と」
「では何が必要だ」
「まだ教えてくれません」
国王の顔が険しい。
「契約の正常化か」
「可能性はございます」
つまり。
婚姻。
アマリリアとライル。
二人とも。
同時に黙る。
「……」
「……」
国王が気づく。
「今は考えなくていい」
「陛下」
「月守へ会ってからだ」
「はい」
「自由意思でなければ意味がないのだろう」
「ええ」
国王はライルを見る。
「王命で結婚させるつもりはない」
「父上」
「お前が選べ」
そして。
アマリリアを見る。
「君もだ」
「ありがとうございます」
その言葉。
少し心が軽くなる。
森へ入って。
どれほど歩いたか。
分からない。
時計を見る。
針が。
止まっていた。
「時間まで止まっていますわ」
「本当に別の空間だな」
ライルが言う。
「疲れておりません?」
「まだ大丈夫だ」
「本当です?」
「本当だ」
「無理をなさったら」
「君に言われたくない」
「その返し、多くありません?」
「君が毎回無茶するからだ」
「私は慎重です」
「地下で八百年生きた存在へ説教した」
「会話ですわ」
「敵意を向けられた相手に正論を叩きつけた」
「必要でした」
「そういうところだ!」
国王が笑う。
「お前たち、森でも変わらないな」
「父上まで」
「悪いとは言っていない」
その瞬間。
白鹿が止まった。
三人も止まる。
前方。
木々が。
大きく開けている。
「……」
アマリリアの呼吸が止まる。
巨大な白い樹。
第7話の最後に。
誰も知らない場所で。
銀色の蕾をつけ始めた樹。
実際に見ると。
想像より遥かに大きかった。
幹は城壁ほど太い。
枝は空を覆い。
その枝先には。
無数の銀色の蕾。
そして。
何本もの黒い鎖。
「鎖……?」
ライルの声。
樹の幹へ。
枝へ。
根へ。
巨大な黒い鎖が巻きついている。
一本一本に。
王家の紋章。
アースハルトの紋章。
国王の顔から血の気が引いた。
「これが……王家の」
『罪』
今度は。
白鹿ではない。
声。
森全体。
大地。
空。
全てから響く。
アマリリアの首飾りが強く光る。
ライルが剣へ手を伸ばす。
「抜かないで」
「分かっている」
手を離す。
白い巨樹の根元。
淡い光。
そこに。
人影が現れる。
女性。
長い銀色の髪。
白い衣。
素足。
顔は。
アマリリアの母エレナに。
とてもよく似ていた。
「お母様……?」
無意識に。
声が出た。
女性がアマリリアを見る。
『違う』
声は優しい。
『私はエレナではない』
「では」
『月守』
ライルの身体が僅かに硬くなる。
国王も。
三人。
その場へ立つ。
ついに。
本当の月守。
『月の娘』
女性がアマリリアを見る。
『王の血』
ライルを見る。
『今の王』
アルベルトを見る。
『ようやく揃った』
「あなたが」
アマリリアが一歩前へ出る。
「殿下を求めていたのですか?」
『違う』
「では」
『返してほしかった』
「力を?」
『力も』
「も?」
『名も』
『土地も』
『記憶も』
『未来も』
女性の後ろ。
白い巨樹。
黒い鎖。
『全て』
国王が口を開く。
「王家が奪った」
『そう』
「俺が返す」
アルベルトは。
即答した。
「どうすればいい」
月守は。
国王を見つめる。
『簡単ではない』
「それでも」
『王は』
女性の瞳が細くなる。
『王であることを捨てられるか』
国王が。
固まった。
「何?」
『最初の王が奪ったものを返すには』
鎖が鳴る。
ジャラ。
ジャララ。
『アースハルトが、この土地の支配者ではないと認めなければならない』
「……」
『王の名』
『王の権利』
『王家が土地を所有するという記録』
『全て』
ライルが息を呑む。
「それは」
国そのもの。
王政。
建国以来の正統性。
全てを揺るがす。
国王がすぐ答えられないのは当然だった。
月守が次に。
ライルを見る。
『そして』
「俺にも条件が?」
『奪った力を返す』
ライルの顔が硬くなる。
アマリリアがすぐ口を挟む。
「命を奪わずに返す方法は?」
『ある』
全員が驚く。
「あるのですか!?」
『ある』
「では、それを!」
『ただし』
月守が。
アマリリアを見る。
嫌な予感。
『月の娘が受け取る』
「……私が?」
ライルが前へ出る。
「待て」
『王の血へ混ざった月守の力』
『娘なら受け止められる』
「その場合」
ライルの声が低い。
「彼女はどうなる」
『選ぶ』
今朝。
首飾り。
『月の娘よ、選ぶ準備を』
「何を選ぶのです?」
アマリリアが聞く。
『力を受け取れば』
『人のままではいられない』
静寂。
ライルの顔色が変わる。
「どういう意味だ」
『月守となる』
アマリリアが息を止める。
『この森へ』
『残る』
「……」
予想していた。
可能性として。
それでも。
実際に言われると。
胸の奥が冷たくなる。
ライルが。
アマリリアの腕を掴んだ。
「駄目だ」
「殿下」
「それは選ばなくていい」
『王の子』
月守が言う。
『まだ終わっていない』
ライルが月守を見る。
『もう一つ』
「何だ」
『新しい契約』
アマリリアとライル。
二人とも。
何を言われるか。
分かった。
『月の血と』
『王の血』
『自由意思で結ばれれば』
王家の契約原本。
第七条。
『力は片方へ偏らない』
「……」
『王の血に残る月守の力を』
『二人で分ける』
ライルが呟く。
「それなら」
『娘は森に残らない』
アマリリアの心臓が大きく跳ねる。
「では」
ライルが。
一歩。
アマリリアの前へ出る。
「俺たちが結婚すれば、アマリリアは人として帰れるのか?」
『結ばれれば』
「それは」
言葉を選ぶ。
「契約のためだけでも?」
『偽りなら成立しない』
やはり。
逃げ道はない。
『互いに』
『相手と生きたいと望まなければ』
『力は混ざらない』
月守の瞳。
銀。
『選べ』
国王。
王であること。
ライル。
王家が奪った力。
アマリリア。
月の娘として森へ残るか。
それとも。
二人で。
本当に。
互いを選ぶか。
誰も。
すぐには答えられなかった。
アマリリアは。
隣を見る。
ライルも。
こちらを見ている。
いつもの。
困った顔ではない。
真剣な目。
「アマリリア」
名前。
殿下でも。
ベスター令嬢でもない。
「はい」
「一つだけ」
「何でしょう」
「俺を助けるために」
ライルの手が。
アマリリアの手を握る。
「俺と結婚しようとは思うな」
胸が。
痛いほど跳ねる。
「殿下」
「それは嫌だ」
声が震えている。
「君が俺を好きでもないのに、俺を助けるためだけに結婚するのは嫌だ」
「……」
「森に残るのも嫌だ」
「随分わがままですわね」
「ああ」
ライルは。
少し笑った。
「だから」
握る手へ。
力。
「ちゃんと考えよう」
「時間が」
「ある」
「ですが」
「月守」
ライルが女性を見る。
「今すぐ答えなければならないのか」
『新月が終わるまで』
「どれくらいだ」
『この森で』
『三刻』
三時間ほど。
長いようで。
短い。
「分かった」
ライルは。
アマリリアを見る。
「三刻ある」
「三刻しか、では?」
「君がいつも言っているだろう」
ほんの少し。
笑う。
「三刻もある」
アマリリアは。
一瞬。
言葉を失った。
自分の言葉。
返された。
「殿下」
「何だ」
「プラス十点ですわ」
「今それを言うのか?」
「過去最高です」
「嬉しくない」
「顔は嬉しそうです」
「うるさい」
アマリリアは。
笑った。
怖い。
選ぶことが。
森へ残ることも。
結婚することも。
どちらも。
人生を変える。
でも。
一人ではない。
ライルの手。
温かい。
「分かりました」
アマリリアは握り返す。
「三刻」
「ああ」
「考えましょう」
「一緒に」
「ええ」
その後ろ。
国王は。
白い巨樹を見ていた。
王家の紋章が刻まれた黒い鎖。
自分にも。
選択。
王であることを捨てるか。
国を。
建国以来の形を。
変えるか。
新月の森。
三人。
それぞれの人生。
そして。
八百年以上続いた王家の罪。
全てを終わらせるための時間は。
残り三刻。
月のない空の下。
白い巨樹の銀色の蕾が。
一斉に。
ゆっくりと開き始めた。




