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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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9/42

第9話 新月の森で、王家が奪ったものを返せと言われました


 新月当日。


 空は、朝から薄い雲に覆われていた。


 雨が降り出すほどではない。けれど陽光は弱く、王都の街並みも、いつもより少しだけ色を失って見えた。


 ベスター伯爵家の王都屋敷では、夜明け前から使用人たちが慌ただしく動いている。


 玄関前には何台もの馬車。


 荷を積むための荷車。


 王家から派遣された騎士たち。


 魔術師。


 治癒術師。


 そしてベスター家の者たち。


 これほど大規模な移動でありながら、目的を知る者はごく僅かだった。


 表向きは、王家による北部禁足地の緊急調査。


 その中心に第一王子と国王がいることさえ、王宮内部でも限られた者にしか知らされていない。


 アマリリアは二階の窓から、その様子を見下ろしていた。


「いよいよですわね」


 独り言。


 返事はない。


 自室には今、誰もいない。


 銀色の髪はいつものように下ろさず、高い位置で一つに束ねている。身につけているのは学園の制服でも、令嬢らしいドレスでもない。


 黒い細身のズボン。


 動きやすい白いシャツ。


 その上から、魔獣の爪を通しにくい革製の軽装鎧。


 肩には濃い灰色の外套。


 腰には短剣を二本。


 背には折り畳み式の短弓。


 袖口には、もちろん何本かの針。


 ただし毒針ではない。


 今回は眠り薬を塗ったものだけにしている。


 北の森に住む者が敵だと決まったわけではないからだ。


「私も随分、慎重になったものですわ」


 鏡に映る自分へ向けて呟く。


 その胸元には、母エレナから受け継いだ三日月の首飾り。


 今朝からずっと、微かな温かさを保っている。


 文字は出ていない。


 けれど、森の方角へ身体を向けると僅かに光が強くなる。


 まるで道を示しているようだった。


 机の上には、持っていくものが並んでいる。


 母の日記。


 母からの手紙。


 王家の契約原本の写し。


 本物の原本は国王が持つ予定だ。


 アマリリアは一つずつ確認し、鞄へ入れていく。


 最後に。


 小さな銀色の鈴。


 いつも黒装束たちを呼ぶために使うもの。


 手に取り。


 少し考える。


「……これは必要ありませんわね」


 今日、森の奥へ入るのは自分とライル、そして国王。


 ゼインたちは外縁で待つ。


 呼んでも来られない。


 アマリリアは鈴を机へ戻した。


 その瞬間。


 コンコン。


「リリア」


 兄アレクの声だった。


「どうぞ」


 扉が開く。


 アレクも旅装だ。


 騎士服の上から軽い鎧を着け、腰には剣。森の外縁までは同行する。


「準備できたか?」


「はい」


「本当に?」


「何を疑っておりますの」


「短剣を十本くらい隠していないか」


「二本ですわ」


「袖は?」


「眠り針を少々」


「靴は?」


「何も」


「本当か?」


 アマリリアは目を逸らした。


「リリア」


「小さな刃が一つだけです」


「やっぱりあるじゃないか!」


「備えですわ」


「殿下に向けるなよ」


「もういたしません」


「もう?」


「細かいことはお気になさらず」


 アレクは大きなため息をついた。


「行くぞ。殿下たちも来られた」


「もう?」


「ああ。父上が玄関で騒いでいる」


「なぜです?」


「鎧がきついらしい」


「……」


「昨日から腹を引っ込めようとしているが無理だったそうだ」


「お父様」


 アマリリアは目を閉じた。


 今日でさえ、父は父らしい。


 その事実に、逆に少し安心する。


「兄様」


「何だ」


「行ってきます」


 アレクは一瞬黙った。


「まだ屋敷を出てもいないぞ」


「言っておこうと思いまして」


「……そうか」


 兄は妹の頭へ手を伸ばしかけた。


 けれど、髪を綺麗に纏めていることに気づいて止める。


 代わりに肩へ手を置いた。


「帰ってこいよ」


「もちろんです」


「殿下も」


「連れて帰ります」


「父上も」


「森の入口までですから大丈夫でしょう」


「その父上が一番心配なんだ」


「否定できませんわね」


 二人は少し笑った。


 そして。


 並んで部屋を出た。


          ◇◇◇


「この鎧は絶対に仕立てが悪い!」


 玄関へ着くなり、ハロルドの声が聞こえた。


「お父様」


「リリア! 聞いてくれ! 胸当てがきつい!」


「胸ではなく、お腹では?」


「胸だ!」


「では、その下の膨らみは?」


「これは……筋肉だ!」


 アマリリアはじっと父を見る。


 ハロルドも娘を見る。


 数秒。


「少し太った」


「素直でよろしいですわ」


「朝から父を傷つけるな!」


 玄関前には、既にライルがいた。


 濃紺の軽装鎧。


 腰に剣。


 普段の王子らしい装いよりずっと簡素だが、動きやすさを優先したものなのだろう。


 その横にディーン。


 さらに少し離れた場所には国王アルベルト。


 王もまた、儀礼用の服ではなく旅装だった。


 王妃セレーネは見送りに来ている。


「おはようございます、陛下。殿下」


 アマリリアは深く礼を取る。


「おはよう、ベスター令嬢」


 国王が返す。


 ライルはアマリリアを見る。


 上から下まで。


「今日は随分、本格的だな」


「殿下も」


「似合うか?」


「ええ」


「即答?」


「とても」


 ライルが僅かに固まる。


「……そうか」


 耳が赤い。


 アマリリアは少し笑う。


「殿下」


「何だ」


「本日もプラス一点ですわ」


「何もしていない!」


「似合っていますので」


「評価基準がどんどん曖昧になっていないか?」


「その日の気分です」


「それで点数をつけるな!」


 国王が横から息を吐いた。


「朝から変わらんな、お前たちは」


「父上」


「緊張しているよりはよい」


 国王の声には笑いがあった。


 けれど。


 王妃だけは笑っていなかった。


 彼女はライルの前へ進み。


 両手で息子の頬へ触れた。


「母上?」


「少しだけ」


 ライルは何も言わなかった。


 王妃は十八歳になった息子の顔を、しっかりと目に焼きつけるように見つめる。


「帰ってきて」


「はい」


「絶対に」


「はい」


「また私の知らないところで、一人で諦めたりしないで」


 ライルの目が僅かに揺れた。


「……しません」


「約束よ」


「約束します」


 王妃は息子を抱きしめた。


 ライルの身体が一瞬硬くなる。


 けれど。


 すぐに母の背へ腕を回した。


 アマリリアは視線を逸らした。


 ここは自分が見る場面ではない気がした。


 そのとき。


「アマリリアさん」


 王妃に呼ばれる。


「はい」


 顔を向ける。


 王妃はライルから離れ、そのままアマリリアの前へ来た。


「息子をお願いします」


「はい」


「それから」


 王妃はアマリリアの手を取る。


「あなたも帰ってきてください」


 その言葉。


 少し意外だった。


「私も?」


「もちろんです」


「ですが私は」


「ライルが一人で帰ってきても、きっと喜びません」


 隣でライルが反応する。


「母上!」


「違うの?」


「そういう言い方をしないでください!」


 王妃は少し笑った。


「ほら」


「何が、ほらですか!」


 アマリリアもつられて笑う。


「必ず戻ります」


「はい」


「殿下も連れて」


「お願いします」


 手を離す。


 アマリリアはライルを見る。


 ライルもこちらを見ていた。


「殿下」


「何だ」


「帰りましょうね」


「ああ」


「三人で」


 国王へ視線を向ける。


 アルベルトが眉を上げる。


「俺も数に入っているのだな」


「国王陛下を森へ置いてくるわけにはまいりませんもの」


「当然だ」


「お父様も」


 ハロルドが胸を張る。


「俺は外で待っている!」


「逃げないでくださいね」


「誰からだ!」


「魔獣から?」


「縁起でもないことを言うな!」


 少し笑いが起こる。


 そして。


 出発の時間になった。


          ◇◇◇


 北の森までは、王都から馬車で半日。


 前半は整備された街道。


 後半は、森へ近づくにつれて道幅が狭くなっていく。


 複数の馬車と騎馬隊が連なり、北へ向かう。


 アマリリアが乗っているのは、いつものようにライルと同じ馬車だった。


 今日はディーンも同乗している。


 国王は別の馬車。


 ハロルドとアレクもベスター家の馬車に乗っている。


「静かですわね」


 アマリリアが窓の外を見ながら言う。


「森へ近づいているからな」


 ライルが答える。


 王都を出てから、時間が経つにつれ民家が減った。


 畑。


 牧草地。


 小さな村。


 それもやがて消え。


 左右には鬱蒼とした木々が増えている。


「この辺りから魔獣が出ます」


 ディーンが言う。


「街道沿いは定期的に騎士団が巡回しておりますが、森側へ入れば別です」


「北の森は、なぜ今まで誰も調査しなかったのです?」


「国王命令による禁足地です」


「それは存じております。ですが、研究者などは興味を持つでしょう?」


「過去に何度か侵入者はいたそうです」


「どうなりました?」


 ディーンは少し間を置いた。


「戻ってきませんでした」


 アマリリアは窓の外を見る。


「なるほど」


「怖くないのか?」


 ライルが聞く。


「少しは」


「本当に?」


「殿下は?」


「怖い」


 即答だった。


「珍しく素直ですわね」


「この森へ入って消える未来を、八年間考えてきた」


 声が静かになる。


「怖くないと言う方が嘘だ」


 アマリリアはライルを見る。


 十八歳。


 まだ若い。


 この森を。


 死ぬ場所として。


 十歳の頃から意識してきた。


 その時間を想像すると、胸が痛くなる。


「殿下」


「何だ」


「手を」


 アマリリアが右手を出す。


 ライルが目を丸くする。


「なぜ?」


「怖いのでしょう?」


「だからといって」


「嫌なら結構ですわ」


 引こうとする。


 その前に。


 ライルが握った。


「……嫌とは言っていない」


「まあ」


「笑うな」


「笑っておりません」


「口元が上がっている」


「嬉しいだけです」


「それを言うな!」


 握った手へ力が入る。


 どちらから。


 分からない。


 アマリリアも離さなかった。


 向かいに座るディーンは。


 完全に窓の外だけを見ていた。


「ディーン様」


「何でしょう」


「こちらを見ないのですね」


「私は景色を警戒しております」


「先ほどから同じ木ばかりですが」


「警戒しております」


「耳が赤いですわよ?」


「気のせいです」


 ライルが額を押さえる。


「ディーンまでからかうな」


「面白いので」


「認めるのか!」


 馬車の中に少し笑いが生まれた。


 そのまま。


 手は離れなかった。


          ◇◇◇


 昼を過ぎた頃。


 一行は北の森外縁へ到着した。


 森の前には、既に先行した近衛騎士たちによって臨時拠点が作られている。


 大型の天幕。


 治療所。


 荷物置き場。


 魔術師たちが設置した結界杭。


 周囲を警戒する騎士。


 そこから先。


 僅か数十メートル。


 北の森が広がっていた。


「……」


 馬車から降りたアマリリアは、しばらく言葉を失った。


 大きい。


 樹木一つ一つが。


 普通の森より明らかに太く、高い。


 幹は三人で手を回しても届かないほど。


 枝葉が空を覆い、昼間だというのに森の奥は薄暗い。


 そして。


 静か。


 鳥の声がない。


 虫の羽音も。


 獣の気配も。


 何も。


「気持ちが悪いほど静かですわね」


「ああ」


 ライルも森を見る。


 国王が別の馬車から降りてきた。


「ここから先が禁足地だ」


「陛下は以前?」


「十三年前。ライルを連れてきたときだけだ」


 国王の表情が硬い。


「覚えていらっしゃいます?」


 ライルが聞く。


「忘れたことはない」


 短い返事。


 王の目には。


 父親としての苦しさがあった。


 ハロルドも降りてくる。


 鎧を着ているが。


 歩き方が既に少しぎこちない。


「お父様」


「何だ」


「無理しました?」


「していない」


「脚が震えております」


「馬車に長く乗っていたからだ!」


「帰りは寝台をご用意しましょう」


「年寄り扱いするな!」


 ゼインが近づいてくる。


「お嬢様」


「はい」


「周辺の確認は終了しております。通常の魔獣反応はありません」


「通常の?」


「森内部に、非常に大きな魔力反応がございます」


「どの程度?」


「測定不能です」


 昨日と同じ。


 《名を失った者》。


 地下全体を満たすほどの魔力。


 それ以上かもしれない。


「月守でしょうか」


「可能性は高いかと」


 ゼインが地図を広げる。


「森の中央付近。以前の記録では、白い巨木があるとされています」


「母の手紙にも」


 アマリリアが頷く。


「月守は恐らく、そこに」


「ただし」


「何です?」


「道がございません」


「道がない?」


「物理的にはあります。ですが、森の中で方角を示す魔術が全て狂います」


「羅針盤は?」


「北を示しません」


「地図も役に立たない」


「はい」


 国王が口を開く。


「十三年前も同じだった」


「どうやって進まれたのです?」


「案内が来た」


「案内?」


「白い鹿だ」


 ライルが見る。


「父上。その話は初耳です」


「言っていなかったからな」


「なぜ?」


「必要がないと思っていた」


「最近そればかりですね」


 ライルの声に、ほんの少し棘が混じる。


 国王もそれに気づいた。


「……すまない」


 素直な謝罪。


 ライルが少し驚く。


「これからは、必要がないと勝手に決めない」


「父上」


「お前に言われたからな」


 国王はアマリリアを見る。


「そこの令嬢にも」


「私はかなり言いましたわね」


「遠慮がなさすぎたがな」


「反省しております」


「本当か?」


「少し」


「少しか」


 空気が少し緩む。


 そのとき。


 森の奥から。


 ガサッ。


 音。


 全員が身構える。


 騎士たちが剣を抜く。


 アマリリアも短剣へ手をかける。


 木々の間。


 白い影。


 一つ。


 ゆっくり。


 森から出てくる。


「鹿……」


 白い鹿だった。


 普通の鹿より大きい。


 角は銀色。


 瞳は淡い青。


 首元には三日月のような紋様。


 国王が息を呑む。


「十三年前と同じだ」


 白鹿は人々を恐れない。


 ゆっくり近づく。


 そして。


 アマリリアの前で止まった。


「私?」


 白鹿が首を下げる。


 鼻先が。


 アマリリアの胸元の首飾りへ触れる。


 光。


 三日月が銀色に輝いた。


『娘』


 頭の中。


 声。


「聞こえます?」


 アマリリアがライルを見る。


「何も」


 アマリリアだけ。


『来た』


「ええ」


『遅い』


「申し訳ございません」


『エレナも遅かった』


「お母様をご存じで?」


 白鹿の目が。


 少し優しく見える。


『泣き虫』


「お母様が?」


『そして怒りっぽい』


 アマリリアは少し考える。


「お父様のお話と一致しますわね」


 ハロルドが離れた場所から叫ぶ。


「何を言われた!?」


「お母様は泣き虫で怒りっぽかったそうです!」


「余計なことを聞くな!」


 白鹿の口元が。


 僅かに笑ったように見えた。


『男もいる』


「殿下ですか?」


 白鹿がライルを見る。


 次。


 国王。


『王も』


「はい」


『来い』


 白鹿が森へ身体を向ける。


「案内してくださるのです?」


『新月まで』


「まだ夜ではありませんわ」


『森では』


 白鹿の声。


『もう新月が始まっている』


 その言葉と同時に。


 森の奥が。


 さらに暗くなった。


 昼間なのに。


 まるで夕暮れ。


「どういうことだ」


 ライルが警戒する。


 アマリリアが白鹿の言葉を伝える。


「森の中では、もう新月が始まっているそうです」


「時間が違う?」


 国王が眉を寄せる。


「恐らく」


 オズワルドは今回、外縁まで同行している。


「古い結界内部では、時間や空間の流れが外界と異なることがあります」


「なら」


 ライルが森を見る。


「今、入るしかない」


「ええ」


 アマリリアは頷く。


 国王も。


 三人。


 森へ入る。


 その前に。


「リリア」


 父が呼んだ。


 アマリリアは振り返る。


 ハロルドが。


 こちらへ歩いてくる。


「お父様?」


 何か言うかと思った。


 でも。


 父は何も言わず。


 娘を抱きしめた。


「……」


 アマリリアの身体が固まった。


「お父様?」


「一回だけだ」


「何が?」


「父親らしいことをさせろ」


 声が。


 少し震えている。


「エレナを止められなかった」


「……」


「今度は娘まで森へ行く」


「私は戻ります」


「分かっている」


「信じてくださいませ」


「信じている」


 ハロルドは娘の頭へ手を置いた。


「だから、帰ってこい」


「はい」


「殿下と一緒に」


「はい」


「それから」


 少し離れる。


「もし結婚するなら、先に俺へ言え」


「お父様」


「父親として必要だろう!」


「今言うことですか?」


「今しか言えない!」


 アマリリアは。


 少し笑った。


「そのときは」


「ん?」


「考えておきます」


「絶対に言わない気だろう!」


「では」


 アマリリアは一歩下がる。


「行ってまいります」


「リリア!」


「何です?」


「絶対帰れ!」


「はい!」


 今度は。


 はっきり答えた。


 アレクも前へ出る。


 言葉はない。


 拳を出す。


 アマリリアも拳を合わせた。


「帰ったら」


「はい」


「父上の書類仕事を手伝え」


「それは嫌ですわ」


「そこは断るな!」


 最後まで。


 家族らしかった。


          ◇◇◇


 森へ入ったのは。


 アマリリア。


 ライル。


 国王。


 そして白鹿。


 護衛たちは外。


 ディーンでさえ。


 ライルを見送るしかない。


「殿下」


 ディーンが最後に言った。


「はい」


「必ず」


「ああ」


「ベスター令嬢」


「何でしょう」


「殿下を」


「守ります」


「ご自身も」


「戻ります」


 ディーンは頭を下げた。


「お願いします」


 三人は。


 森へ足を踏み入れた。


 一歩。


 境界を越える。


 瞬間。


 音が消えた。


「……」


 外縁にいた騎士たちの声。


 風。


 馬。


 全て。


 振り返る。


 そこには。


 森しかなかった。


「入口が」


 ライルが呟く。


「消えましたわね」


「驚いていないのか」


「多少」


「その顔で?」


「殿下の方が驚きすぎです」


「普通は驚く!」


 国王が後ろから言う。


「二人とも。ここで喧嘩するな」


「しておりません」


「していません、父上」


 声が揃う。


「ほら」


「何がです!」


 ライルが叫ぶ。


 アマリリアは少し笑う。


 こんな場所でも。


 いつも通り。


 そのことが。


 ありがたかった。


 白鹿は先へ進む。


 三人も続く。


 森の中は暗い。


 けれど完全な闇ではない。


 木々の幹。


 地面の苔。


 白い小さな花。


 それらが淡い銀色の光を放っている。


「幻想的ですわね」


「綺麗だな」


 ライルが言う。


「殿下と意見が合いました」


「悪いか?」


「いえ」


 アマリリアは少し微笑む。


「嬉しいです」


「そういうことを自然に言うな」


「なぜ?」


「集中できない」


「森に?」


「君に!」


 言ってから。


 ライルが固まる。


 アマリリアも。


 国王が後ろで咳払いする。


「父上」


「何も言っていない」


「顔が笑っています」


「気のせいだ」


「絶対に笑っている!」


 白鹿まで。


 少し振り返った。


 その目が。


 笑っているように見える。


「鹿にまで笑われていますわね」


「君のせいだ!」


「まあ」


 アマリリアは楽しそうに歩く。


 しかし。


 森の奥へ進むほど。


 空気は重くなる。


 一本。


 また一本。


 木々の幹へ。


 黒い亀裂が見え始める。


「これは」


 国王が触れようとする。


「陛下」


 アマリリアが止める。


 地下の教訓。


 勝手に触らない。


「そうだったな」


 国王は手を引く。


「森が死ぬと言っていた」


 ライルが亀裂を見る。


「これが?」


「恐らく」


 白鹿が止まる。


『奪われた』


 アマリリアへ声。


「何を?」


『力』


「王家に?」


『血へ』


 やはり。


 ライルの中。


 王家の血に。


 月守の力。


「返せば、森は戻る?」


『一部』


「一部?」


『足りない』


「何が」


 白鹿は答えない。


 また歩く。


「白鹿は?」


 ライルが聞く。


「力を返しても足りない、と」


「では何が必要だ」


「まだ教えてくれません」


 国王の顔が険しい。


「契約の正常化か」


「可能性はございます」


 つまり。


 婚姻。


 アマリリアとライル。


 二人とも。


 同時に黙る。


「……」


「……」


 国王が気づく。


「今は考えなくていい」


「陛下」


「月守へ会ってからだ」


「はい」


「自由意思でなければ意味がないのだろう」


「ええ」


 国王はライルを見る。


「王命で結婚させるつもりはない」


「父上」


「お前が選べ」


 そして。


 アマリリアを見る。


「君もだ」


「ありがとうございます」


 その言葉。


 少し心が軽くなる。


 森へ入って。


 どれほど歩いたか。


 分からない。


 時計を見る。


 針が。


 止まっていた。


「時間まで止まっていますわ」


「本当に別の空間だな」


 ライルが言う。


「疲れておりません?」


「まだ大丈夫だ」


「本当です?」


「本当だ」


「無理をなさったら」


「君に言われたくない」


「その返し、多くありません?」


「君が毎回無茶するからだ」


「私は慎重です」


「地下で八百年生きた存在へ説教した」


「会話ですわ」


「敵意を向けられた相手に正論を叩きつけた」


「必要でした」


「そういうところだ!」


 国王が笑う。


「お前たち、森でも変わらないな」


「父上まで」


「悪いとは言っていない」


 その瞬間。


 白鹿が止まった。


 三人も止まる。


 前方。


 木々が。


 大きく開けている。


「……」


 アマリリアの呼吸が止まる。


 巨大な白い樹。


 第7話の最後に。


 誰も知らない場所で。


 銀色の蕾をつけ始めた樹。


 実際に見ると。


 想像より遥かに大きかった。


 幹は城壁ほど太い。


 枝は空を覆い。


 その枝先には。


 無数の銀色の蕾。


 そして。


 何本もの黒い鎖。


「鎖……?」


 ライルの声。


 樹の幹へ。


 枝へ。


 根へ。


 巨大な黒い鎖が巻きついている。


 一本一本に。


 王家の紋章。


 アースハルトの紋章。


 国王の顔から血の気が引いた。


「これが……王家の」


『罪』


 今度は。


 白鹿ではない。


 声。


 森全体。


 大地。


 空。


 全てから響く。


 アマリリアの首飾りが強く光る。


 ライルが剣へ手を伸ばす。


「抜かないで」


「分かっている」


 手を離す。


 白い巨樹の根元。


 淡い光。


 そこに。


 人影が現れる。


 女性。


 長い銀色の髪。


 白い衣。


 素足。


 顔は。


 アマリリアの母エレナに。


 とてもよく似ていた。


「お母様……?」


 無意識に。


 声が出た。


 女性がアマリリアを見る。


『違う』


 声は優しい。


『私はエレナではない』


「では」


『月守』


 ライルの身体が僅かに硬くなる。


 国王も。


 三人。


 その場へ立つ。


 ついに。


 本当の月守。


『月の娘』


 女性がアマリリアを見る。


『王の血』


 ライルを見る。


『今の王』


 アルベルトを見る。


『ようやく揃った』


「あなたが」


 アマリリアが一歩前へ出る。


「殿下を求めていたのですか?」


『違う』


「では」


『返してほしかった』


「力を?」


『力も』


「も?」


『名も』


『土地も』


『記憶も』


『未来も』


 女性の後ろ。


 白い巨樹。


 黒い鎖。


『全て』


 国王が口を開く。


「王家が奪った」


『そう』


「俺が返す」


 アルベルトは。


 即答した。


「どうすればいい」


 月守は。


 国王を見つめる。


『簡単ではない』


「それでも」


『王は』


 女性の瞳が細くなる。


『王であることを捨てられるか』


 国王が。


 固まった。


「何?」


『最初の王が奪ったものを返すには』


 鎖が鳴る。


 ジャラ。


 ジャララ。


『アースハルトが、この土地の支配者ではないと認めなければならない』


「……」


『王の名』


『王の権利』


『王家が土地を所有するという記録』


『全て』


 ライルが息を呑む。


「それは」


 国そのもの。


 王政。


 建国以来の正統性。


 全てを揺るがす。


 国王がすぐ答えられないのは当然だった。


 月守が次に。


 ライルを見る。


『そして』


「俺にも条件が?」


『奪った力を返す』


 ライルの顔が硬くなる。


 アマリリアがすぐ口を挟む。


「命を奪わずに返す方法は?」


『ある』


 全員が驚く。


「あるのですか!?」


『ある』


「では、それを!」


『ただし』


 月守が。


 アマリリアを見る。


 嫌な予感。


『月の娘が受け取る』


「……私が?」


 ライルが前へ出る。


「待て」


『王の血へ混ざった月守の力』


『娘なら受け止められる』


「その場合」


 ライルの声が低い。


「彼女はどうなる」


『選ぶ』


 今朝。


 首飾り。


『月の娘よ、選ぶ準備を』


「何を選ぶのです?」


 アマリリアが聞く。


『力を受け取れば』


『人のままではいられない』


 静寂。


 ライルの顔色が変わる。


「どういう意味だ」


『月守となる』


 アマリリアが息を止める。


『この森へ』


『残る』


「……」


 予想していた。


 可能性として。


 それでも。


 実際に言われると。


 胸の奥が冷たくなる。


 ライルが。


 アマリリアの腕を掴んだ。


「駄目だ」


「殿下」


「それは選ばなくていい」


『王の子』


 月守が言う。


『まだ終わっていない』


 ライルが月守を見る。


『もう一つ』


「何だ」


『新しい契約』


 アマリリアとライル。


 二人とも。


 何を言われるか。


 分かった。


『月の血と』


『王の血』


『自由意思で結ばれれば』


 王家の契約原本。


 第七条。


『力は片方へ偏らない』


「……」


『王の血に残る月守の力を』


『二人で分ける』


 ライルが呟く。


「それなら」


『娘は森に残らない』


 アマリリアの心臓が大きく跳ねる。


「では」


 ライルが。


 一歩。


 アマリリアの前へ出る。


「俺たちが結婚すれば、アマリリアは人として帰れるのか?」


『結ばれれば』


「それは」


 言葉を選ぶ。


「契約のためだけでも?」


『偽りなら成立しない』


 やはり。


 逃げ道はない。


『互いに』


『相手と生きたいと望まなければ』


『力は混ざらない』


 月守の瞳。


 銀。


『選べ』


 国王。


 王であること。


 ライル。


 王家が奪った力。


 アマリリア。


 月の娘として森へ残るか。


 それとも。


 二人で。


 本当に。


 互いを選ぶか。


 誰も。


 すぐには答えられなかった。


 アマリリアは。


 隣を見る。


 ライルも。


 こちらを見ている。


 いつもの。


 困った顔ではない。


 真剣な目。


「アマリリア」


 名前。


 殿下でも。


 ベスター令嬢でもない。


「はい」


「一つだけ」


「何でしょう」


「俺を助けるために」


 ライルの手が。


 アマリリアの手を握る。


「俺と結婚しようとは思うな」


 胸が。


 痛いほど跳ねる。


「殿下」


「それは嫌だ」


 声が震えている。


「君が俺を好きでもないのに、俺を助けるためだけに結婚するのは嫌だ」


「……」


「森に残るのも嫌だ」


「随分わがままですわね」


「ああ」


 ライルは。


 少し笑った。


「だから」


 握る手へ。


 力。


「ちゃんと考えよう」


「時間が」


「ある」


「ですが」


「月守」


 ライルが女性を見る。


「今すぐ答えなければならないのか」


『新月が終わるまで』


「どれくらいだ」


『この森で』


『三刻』


 三時間ほど。


 長いようで。


 短い。


「分かった」


 ライルは。


 アマリリアを見る。


「三刻ある」


「三刻しか、では?」


「君がいつも言っているだろう」


 ほんの少し。


 笑う。


「三刻もある」


 アマリリアは。


 一瞬。


 言葉を失った。


 自分の言葉。


 返された。


「殿下」


「何だ」


「プラス十点ですわ」


「今それを言うのか?」


「過去最高です」


「嬉しくない」


「顔は嬉しそうです」


「うるさい」


 アマリリアは。


 笑った。


 怖い。


 選ぶことが。


 森へ残ることも。


 結婚することも。


 どちらも。


 人生を変える。


 でも。


 一人ではない。


 ライルの手。


 温かい。


「分かりました」


 アマリリアは握り返す。


「三刻」


「ああ」


「考えましょう」


「一緒に」


「ええ」


 その後ろ。


 国王は。


 白い巨樹を見ていた。


 王家の紋章が刻まれた黒い鎖。


 自分にも。


 選択。


 王であることを捨てるか。


 国を。


 建国以来の形を。


 変えるか。


 新月の森。


 三人。


 それぞれの人生。


 そして。


 八百年以上続いた王家の罪。


 全てを終わらせるための時間は。


 残り三刻。


 月のない空の下。


 白い巨樹の銀色の蕾が。


 一斉に。


 ゆっくりと開き始めた。

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