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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第10話 偽装婚約のはずでしたが、どうやら本気で好きになっていたようです


 新月の森。


 月のない空の下で、白い巨樹に咲いた銀色の花が、一つ、また一つと静かに開いていく。


 花弁が開くたび、淡い光の粒が周囲へ零れ落ちた。それは風に流されることもなく、夜の森を漂いながら、黒い鎖へ巻きつかれた巨樹の根元へ吸い込まれていく。


 美しい。


 けれど、アマリリアにはその光景がどこか痛々しく見えた。


 八百年以上。


 いや、それよりさらに長い時間。


 この場所で《月守》は王家が奪ったものを取り戻す日を待ち続けていた。


 そして今。


 その終わりを決めるために与えられた時間は、三刻。


「三刻、ですか」


 アマリリアは小さく呟いた。


 先ほどまで握っていたライルの手は、まだ離れていない。


 彼の体温が手のひらから伝わってくる。


 普段なら、からかう材料にしただろう。


 殿下から手を握ってくださるなんて、と。


 恋人のようですわね、と。


 あるいは、またプラス点を与えて慌てさせたかもしれない。


 けれど今だけは。


 そんな言葉が出てこなかった。


「三刻もある」


 隣でライルが言った。


 先ほど自分へ返された言葉。


 アマリリアは少しだけ笑う。


「私の言葉を随分お気に召したようですわね」


「君が何度も言うから覚えただけだ」


「では、使用料をいただきませんと」


「今、それを取るのか?」


「場を和ませようかと思いまして」


「君が緊張しているのは分かっている」


 あっさりと言われた。


 アマリリアの笑みが僅かに止まる。


「私が?」


「ああ」


「随分なことを仰いますのね」


「いつもなら、もっと面倒なことを言う」


「面倒とは失礼ですわ」


「ほら。少し戻った」


 ライルは微笑んだ。


 その笑顔。


 アマリリアが好きだと思った顔。


 皮肉でも。


 諦めでもなく。


 ただ自然に笑っている彼の顔。


 見ていると、胸の奥が少し落ち着く。


 だから困る。


 もし本当に何とも思っていない相手なら。


 これはもっと簡単だったはずだ。


 月守の契約を正常化するために婚姻が必要。


 それなら婚姻すればよい。


 必要がなくなれば、適当な理由をつけて解消する。


 最初にライルへ持ちかけた偽装婚約と同じ。


 合理的。


 無駄がない。


 自分の得意とする方法だ。


 けれど。


『偽りなら成立しない』


 月守は、はっきり言った。


 互いに相手と生きたいと望まなければ。


 二人の力は混ざらない。


 契約は成立しない。


「アマリリア」


「はい」


「少し歩こう」


「この場所から離れてよろしいので?」


 二人の少し先。


 月守は白い巨樹の根元へ立ったまま、こちらを見ている。


『構わない』


 月守の声が森全体へ響いた。


『答えは』


『この場所にいる限り届く』


「盗み聞きなさるのです?」


 アマリリアが尋ねる。


 月守の銀色の瞳が僅かに細くなる。


『聞かない』


「本当に?」


『必要ない』


「なぜです?」


『答えは』


『心に出る』


 胸元の首飾りが淡く光った。


「……なるほど」


 嘘をついても意味がないらしい。


 ライルが小さく息を吐く。


「ますます逃げ道がないな」


「逃げたいのですか?」


「そういう意味ではない」


「では?」


「君と落ち着いて話したい」


 アマリリアは少しだけ目を見開いた。


「私と?」


「ああ」


「二人きりで?」


「父上の前で結婚について話したいのか?」


 少し離れた場所に国王アルベルトがいる。


 彼もまた、自分の選択を迫られていた。


 王家がこの土地の支配者ではないと認める。


 王としての権利。


 建国以来の正統性。


 王家が土地を所有してきた記録。


 それらを手放さなければならない。


 ライルとアマリリアとは別の意味で、人生を変える選択だ。


 国王も今、白い巨樹の黒い鎖を見つめたまま考えている。


「陛下のお邪魔にもなりますわね」


「行こう」


「はい」


 二人は手を繋いだまま、白い巨樹から少し離れた。


          ◇◇◇


 森の奥。


 白い花が一面に咲く、小さな場所。


 そこだけは巨樹の根が地面から出ておらず、柔らかな草が広がっている。


 近くには小さな泉。


 水面は鏡のように静かで、月のない空にもかかわらず銀色の光を映していた。


 ライルとアマリリアは、その泉の前で足を止めた。


「綺麗ですわね」


「ああ」


「こんな場所へ、普通に遊びに来られたらよかったですのに」


「君と?」


 ライルが聞く。


「誰か他におります?」


「いや」


 ライルは少し気まずそうに髪へ手をやった。


「……それも悪くないな」


「まあ」


「何だ」


「いえ」


 アマリリアは楽しそうに微笑む。


「プラス――」


「今は点数をつけるな」


「まだ何点とは言っておりません」


「言おうとしただろう」


「二点くらいでした」


「結局言うのか」


 二人は泉の横へ腰を下ろした。


 草は柔らかい。


 森へ入ってからずっと歩き続けていたため、腰を下ろした瞬間、思った以上に身体が疲れていることへ気づいた。


 けれど。


 疲労よりも。


 今は、隣にいるライルを意識してしまう。


「では」


 アマリリアが口を開く。


「何からお話ししましょうか」


「まず」


 ライルは膝を立て、その上へ腕を置いた。


「君は森に残りたいか?」


「随分と直球ですわね」


「時間がない」


「三刻もあるのでは?」


「そういうときだけ使うな」


 アマリリアは少し笑った。


 でも。


 答えなければならない。


「残りたくありません」


 言葉にすると。


 想像していたより、簡単に出た。


 ライルがこちらを見る。


「即答だな」


「考える必要がございませんもの」


「月の娘として生きることに、興味は?」


「あります」


「あるのか」


「自分が何者なのかを知りたいですし、母の生まれた場所のことも知りたいです。月守の力にも興味はございます」


「それでも?」


「それでも」


 アマリリアは森の先を見る。


「森へ残りたいとは思いません」


「なぜ?」


「家族がおりますもの」


 父。


 兄。


 屋敷の使用人たち。


 ゼインたち。


 そして。


「学園もまだ卒業しておりませんし」


「そこか?」


「主席のまま卒業するつもりです」


「君らしいな」


「それから、市井で穏やかに暮らす夢もございます」


「覚えていたのか」


「私の夢ですもの」


「王子と結婚したら叶わないぞ」


 その言葉。


 胸へ。


 少し。


 刺さる。


「そうですわね」


 アマリリアは自分の膝へ視線を落とした。


 最初にライルへ言われた。


 俺と婚約したら市井で穏やかに暮らす夢は叶わないのではないか。


 あのときは。


 事が済めば別れればよい。


 そう思っていた。


 でも。


 もし。


 本当にライルと結婚したいと思ってしまったら。


 その夢を諦めることになる。


「それも、考えなければいけませんわね」


「……ああ」


「殿下は?」


「何が」


「私と結婚すれば」


 アマリリアは彼を見る。


「王になる可能性も変わるのでは?」


「なぜ?」


「私は月の民の血を引いております。王家が八百年以上隠してきた真実の中心にいる女です。そんな者を王妃にするとなれば、貴族たちがどう反応するか分かりません」


「気にしない」


「殿下」


「いや」


 ライルは少し考え直す。


「王子としては気にしなければならない」


「でしょう?」


「でも、俺自身はどうでもいい」


 アマリリアは瞬きをした。


「王位が?」


「ああ」


「以前は分からないと仰っていましたわね」


「今も、王になりたくないわけではない」


 ライルは泉を見る。


「俺は父上を尊敬している。国を治める仕事にも興味がある。自分ならもっとできると思うこともある」


「自信家ですのね」


「君に言われたくない」


「それもそうですわ」


「でも」


 ライルの声が少し柔らかくなる。


「王になるために、全てを捨てたいわけじゃない」


「全て?」


「自分で生き方を選ぶこと」


 森の静かな空気に、その言葉が溶ける。


「八年間」


 ライルは続けた。


「俺は十八になったら森へ消えると思っていた」


 アマリリアは何も言わず聞く。


「だから、将来を考えること自体をどこかで諦めていた。王太子教育も受けた。剣も学んだ。政治も。外交も。でも全部、十八までの役割だと思っていた」


「……」


「だから屋上で寝ていたのです?」


「そこへ繋げるのか?」


「授業を抜け出す理由が気になりまして」


 ライルは少し笑った。


「半分はそうかもしれない」


「残り半分は?」


「本当に眠かった」


「マイナス一点ですわ」


「今はつけないと言っただろう」


「我慢できませんでした」


 少しだけ。


 いつもの空気。


 でも。


 ライルはすぐに真面目な顔へ戻る。


「そんな俺に」


「はい」


「君が突然来た」


「黒装束を連れて?」


「ああ」


「殿下の首へ短剣を?」


「その部分を自分から強調するな」


「思い出ですわ」


「最悪の出会いだ」


「私は気に入っております」


「なぜだ」


「殿下の顔がとても可愛らしかったので」


「……」


 ライルが顔を逸らした。


「本当に君は」


「何です?」


「この状況でも変わらないな」


「変わっておりますわ」


「どこが」


「以前より、殿下を好きになっております」


 言葉が。


 口から出た。


「……」


「……」


 静寂。


 アマリリア自身。


 数秒。


 何を言ったのか理解できなかった。


 ライルは完全に固まっている。


 泉の水面だけが。


 銀色の光を静かに揺らしていた。


「今」


 ライルの声が掠れる。


「何と言った?」


「……」


 アマリリアは。


 逃げたいと思った。


 初めて。


 敵からでも。


 父からでも。


 婚約からでもなく。


 自分の言葉から逃げたい。


「アマリリア」


「聞き間違いでは?」


「かなりはっきり聞こえた」


「森の精霊の声かもしれません」


「君の声だった」


「月守が真似を」


「苦しすぎるだろう!」


「では忘れてくださいませ!」


 アマリリアは立ち上がろうとした。


 その手。


 掴まれる。


「待て」


「離してくださいませ」


「嫌だ」


「殿下!」


「散々俺を逃がさなかった君が、自分は逃げるのか?」


 言われた。


 アマリリアは動けなくなる。


 ライルが手を握ったまま、真っ直ぐ見上げている。


「ずるいですわ」


「君にだけは言われたくない」


「今の私は繊細なのです」


「知るか」


「酷い!」


「ちゃんと話せ」


「殿下は鬼です!」


「君に言われたくない!」


 いつものように声を上げた。


 それなのに。


 二人とも。


 顔が赤い。


「……」


「……」


 先に。


 ライルが息を吐いた。


「好きになっている、というのは」


「聞かないでください」


「聞く」


「横暴ですわ」


「王子だからな」


「こういうときだけ権力を使わないでください!」


「使っていない!」


 アマリリアは座り直した。


 逃げられない。


 そして。


 ライルとの約束。


 選ぶときは。


 一人で決めない。


 隠さない。


「……分かりました」


 観念した。


「正直に申し上げます」


「ああ」


「ですが、笑わないでくださいませ」


「笑わない」


「本当に?」


「ああ」


「からかわない?」


「君じゃあるまいし」


「一言多いです」


「悪かった」


 アマリリアは一度深く息を吸った。


「私は」


 自分の指を見る。


 ライルに握られている。


「殿下と出会ったとき」


「ああ」


「正直、利用することしか考えておりませんでした」


「知っている」


「もっと傷ついてくださいませ」


「今さらだ」


「カルロス様との婚約を潰せれば、それでよいと。王家の婚約者になり、事が済んだら婚約破棄。殿下の評判についても、適当に理由を作ればよいと思っておりました」


「酷いな」


「反省しております」


「今回は信じる」


「ありがとうございます」


 少し。


 笑う。


「でも」


 アマリリアの声が小さくなる。


「殿下の婚約問題を知って」


 五歳で。


 命を救う代わりに。


 十八歳で森へ捧げられる。


「死にたくないと仰って」


 その顔。


「笑顔を見て」


 馬車。


 王宮。


 地下。


 森。


 一つずつ。


 記憶。


「気づけば」


 アマリリアは顔を上げた。


「殿下に生きてほしいと思っておりました」


 ライルは黙っている。


「最初は、自分が巻き込んだからだと思いました」


「……」


「次は、共犯者だから」


「協力者だ」


「今そこで直します?」


「すまない」


「それから」


 アマリリアは。


 少し笑う。


「困った顔を見るのが好きだから、と」


「それは本当なのか」


「ええ」


「複雑だ」


「でも、そうではなかった」


「……」


「殿下が他の誰かに取られると思うと、嫌です」


 ライルの目が大きくなる。


「《月の花嫁》に奪われるのも」


 嘘だったけれど。


「王家の契約に奪われるのも」


 嫌。


「どこかの令嬢と結婚されるのも」


 言ってから。


 さらに恥ずかしくなる。


「……嫌です」


 アマリリアはとうとう視線を落とした。


「ですから」


 声が小さくなる。


「多分」


「多分?」


「かなり」


「かなり?」


「……好きなのだと思います」


 沈黙。


 長い。


「何か仰ってくださいませ」


「待ってくれ」


「なぜ?」


「俺にも心の準備が」


「私にはさせなかったではありませんか!」


「俺だってこんな直球で来ると思わなかった!」


「私も思っておりませんでした!」


「なぜ君が怒る!」


「恥ずかしいからです!」


「俺もだ!」


 森へ。


 二人の声が響く。


 どこか遠くで。


 白鹿が。


 こちらを見たような気がした。


「……」


「……」


 また。


 静かになる。


「アマリリア」


「はい」


 ライルは。


 ゆっくり。


 彼女の手を両手で包んだ。


「俺も」


 胸が跳ねる。


「君が好きだ」


「……」


 今度は。


 アマリリアが固まった。


「聞こえたか?」


「……いいえ」


「嘘をつけ」


「もう一度」


「何?」


「聞こえませんでしたので、もう一度」


「絶対聞こえていただろう!」


「大切なところです!」


「恥ずかしいんだよ!」


「私にも二回言わせたではありませんか!」


「一回だ!」


「心の中では何度も!」


「知らない!」


 ライルは真っ赤になった。


 それでも。


 一度。


 深く息を吸う。


「好きだ」


 今度は。


 真っ直ぐ。


「アマリリア」


「……はい」


「君が好きだ」


 アマリリアの顔が。


 今までで一番赤くなる。


「殿下」


「何だ」


「少し黙ってくださいませ」


「自分から言わせておいて!?」


「想像以上の威力でした」


「知らないよ!」


 ライルは頭を抱えた。


 アマリリアは胸へ手を当てる。


 心臓が。


 うるさい。


 こんな感覚。


 知らない。


 誰かに好かれる。


 求められる。


 それが。


 こんなに嬉しい。


「最初は」


 ライルが言う。


「君を危険な女だと思った」


「失礼ですわ」


「事実だ」


「反論できません」


「今も危険だと思う」


「殿下」


「最後まで聞け」


「はい」


「でも」


 ライルが笑う。


「君が来てから、楽しかった」


「……」


「八年間、俺は自分の人生に先がないと思っていた」


 屋上。


 眠る。


 授業を抜ける。


 どこかで。


 諦めていた。


「君はそんな俺の前へ来て」


「脅して?」


「婚約しろと言った」


「改めて聞くと酷いですわね」


「本当にな」


 笑う。


「でも、君は俺の事情を知っても逃げなかった」


「当然です」


「父上にも言いたいことを言った」


「少し反省しております」


「地下のあいつにも説教した」


「必要でした」


「俺のために」


「殿下だけではありません」


「それでも」


 ライルの声が少し柔らかくなる。


「嬉しかった」


 アマリリアの目が揺れる。


「それで」


「はい」


「君が森に残る可能性を考えたとき」


 ライルは。


 手を。


 強く握る。


「嫌だった」


「……」


「俺が助かっても」


「はい」


「君がいなくなるなら、嫌だ」


 アマリリアは。


 言葉を出せなかった。


「だから」


 ライルは少し苦笑する。


「多分、俺もとっくに好きだった」


「多分?」


「君が最初に言っただろう」


「私はかなりと言い直しました」


「では」


 ライルは。


 少しだけ。


 アマリリアへ近づく。


「かなり好きだ」


「……」


「どうした」


「殿下」


「何だ」


「プラス百点です」


「急に桁が!」


「もう点数制はやめます」


「なぜ?」


「好きな方へ点数をつけるのは失礼ですもの」


 ライルが固まる。


「君」


「はい?」


「たまに、とんでもないことを自然に言うな」


「そうでしょうか」


「そのせいで毎回こっちが」


「こっちが?」


「……何でもない」


「教えてくださいませ」


「嫌だ」


「殿下」


「嫌だ」


「では」


 アマリリアは。


 少し。


 身体を寄せた。


「これなら?」


「なっ!」


 肩。


 触れる。


 ライルが硬直する。


「何をしている!」


「恋人なら、このくらい普通では?」


「いつ恋人になった!」


「今?」


「疑問形!」


 アマリリアは楽しそうに笑う。


 ライルは真っ赤だ。


 でも。


 逃げない。


「では」


 アマリリアが尋ねる。


「確認いたしますわ」


「何を?」


「私たちは」


 少し恥ずかしい。


 それでも。


「互いに好き」


「……ああ」


「この先も一緒にいたい」


 ライルは。


 少し考える。


 そして。


「いたい」


 アマリリアの胸が温かくなる。


「結婚は?」


「そこだけ急に現実的だな」


「契約に必要ですので」


 ライルは苦笑した。


「好きだと分かったから、今すぐ結婚を決めろというのも無茶だとは思う」


「ええ」


「でも」


 ライルは真面目な顔になる。


「俺は」


 手。


 離さない。


「君と婚約したい」


 アマリリアの目が少し大きくなる。


「偽装ではなく?」


「ああ」


「カルロス様対策でも?」


「ない」


「月守との契約のためでも?」


「それだけではない」


「では?」


「俺が」


 一呼吸。


「アマリリア・ベスターと婚約したい」


 アマリリアは。


 しばらく。


 何も言わなかった。


「……アマリリア?」


「少々お待ちください」


「何を?」


「とても嬉しいので、落ち着いております」


「落ち着く必要あるか?」


「あります」


「なぜ」


「今すぐ殿下へ抱きつきそうです」


 ライルが止まる。


「……それは」


「嫌です?」


「嫌ではない」


 小さな声。


 アマリリアの目が細くなる。


「では」


「待て!」


 でも。


 もう遅い。


 アマリリアはライルへ腕を回した。


「うわっ」


 勢いは弱い。


 ただ。


 抱きしめる。


 ライルの身体が。


 最初は固い。


 けれど。


 数秒。


 背中へ。


 腕が回る。


「……」


「……」


 アマリリアは。


 ライルの胸元へ顔を寄せた。


 鼓動。


 速い。


「殿下」


「何だ」


「心臓が」


「言うな」


「かなり速いですわ」


「君もだろう!」


「聞こえます?」


「分かる」


「では、お揃いですわね」


「そういう問題か?」


「私は嬉しいです」


「……俺も」


 短い。


 小さな返事。


 でも。


 十分だった。


 しばらく。


 二人は。


 ただ抱きしめ合っていた。


 契約のためではない。


 月守のためでもない。


 王家のためでも。


 カルロスから逃げるためでもない。


 ただ。


 互いが。


 ここにいてほしいから。


          ◇◇◇


 一方。


 白い巨樹の前。


 国王アルベルトは、一人で黒い鎖を見つめていた。


『王』


 月守の声。


「分かっている」


『答えを』


「まだだ」


『恐れるか』


「当然だ」


 アルベルトは苦笑した。


「王家が土地の支配者ではないと認める。それが何を意味するか、お前は分かっているか?」


『知っている』


「貴族制度が揺れる」


『そう』


「領地権も」


『そう』


「王家へ忠誠を誓った者たちの立場も」


『そう』


「下手をすれば内乱だ」


『それも』


 月守は全て認めた。


「それでも返せと」


『返せ』


「簡単に言う」


『簡単ではない』


 月守は。


 黒い鎖へ触れる。


『八百年』


 鎖が鳴る。


『我らは』


『簡単ではなかった』


 国王は黙った。


 何も返せない。


 八百年。


 奪われた名。


 土地。


 記憶。


 未来。


 歴史。


 それに比べれば。


 今の王家が失うものは。


 果たして。


 大きいのか。


「一つ聞きたい」


『何』


「王家が土地の所有権を返せば」


『土地を奪うつもりはない』


 アルベルトが顔を上げる。


「何?」


『我らの望みは』


『支配ではない』


「では」


『正しい名』


 巨樹。


 森。


 大地。


『正しい記憶』


『正しい契約』


「それだけ?」


『それだけ』


 国王は。


 長く。


 息を吐いた。


「人間というのは」


『何』


「自分で奪ったものを、返せと言われると、全てを奪われる気になるらしい」


 月守は何も言わない。


「愚かだな」


『知っている』


「そこは否定してくれ」


『八百年見た』


「……そうか」


 アルベルトは笑った。


 そして。


 白い巨樹へ近づく。


「なら」


 黒い鎖へ。


 触れる寸前で止まる。


「王として決める」


 月守の瞳が。


 国王へ向く。


「王家は」


 声。


 震えない。


「この土地を所有するという権利を放棄する」


 森の空気が。


 揺れた。


「アースハルト王国は、月守から奪った土地と権利を返還する」


 黒い鎖の一つが。


 亀裂。


 パキ。


「ただし」


『条件?』


「この国に暮らす民を守る責任だけは、俺たちに残してほしい」


『……』


「王であることを捨てろと言われた」


『そう』


「だが、俺は王の椅子が欲しいわけではない」


 アルベルトは。


 息子を思う。


 王妃を。


 国を。


 民を。


「守る役目を捨てるつもりはない」


 月守が。


 初めて。


 微かに笑った。


『それが』


「何だ?」


『最初の契約』


 国王の目が見開かれる。


『我らは土地を貸した』


『王にしたのではない』


『守る者として』


「……」


『最初の王は』


『守る役目を』


『所有する権利へ変えた』


 アルベルトは。


 目を閉じた。


「そうか」


 長い。


 本当に長い遠回り。


「なら」


 国王は。


 片膝を地面へついた。


 月守へ。


 王が。


 頭を下げる。


「改めて」


『……』


「この国を守らせてほしい」


 黒い鎖。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 砕ける。


          ◇◇◇


 アマリリアとライルが白い巨樹へ戻ったとき。


 景色は。


 大きく変わっていた。


「これは……」


 巨樹へ巻きついていた黒い鎖。


 半分近くが消えている。


 残った鎖にも亀裂が入っていた。


 国王は巨樹の根元に立っている。


「父上」


「戻ったか」


「何を?」


「俺の方は決めた」


 アルベルトは二人へ向く。


「王家は、この土地の所有権を月守へ返す」


 ライルが息を呑む。


「それは」


「正確には」


 国王は月守を見る。


「誰のものでもない土地へ戻す」


『そう』


 月守が答える。


「王家は支配者ではなく、この国を守る役目として残る」


「貴族院は?」


「荒れるだろうな」


「父上」


「帰ってから考える」


 アルベルトは少し笑った。


「まず帰ることが先だ」


「……はい」


「お前たちは?」


 国王の視線。


 二人。


 アマリリア。


 ライル。


 二人の手は。


 また。


 繋がっている。


 国王の眉が少し上がる。


「その様子だと」


「父上!」


「まだ何も言っていない」


「顔が言っています!」


「そうか」


「陛下」


 アマリリアが一歩前へ出る。


 ライルが嫌な予感を覚えた顔。


「私たち」


「待て!」


「正式にお付き合いすることになりました」


「アマリリア!」


「隠す必要が?」


「言い方!」


 国王。


 数秒。


 息子。


 アマリリア。


 もう一度息子。


「……そうか」


 口元。


 緩む。


「よかったな」


「父上!」


「何を怒る」


「もっと驚いてください!」


「この数日を見ていれば、むしろまだだったのかと思う」


「陛下もそう思われます?」


「思う」


「意見が合いますわね」


「アマリリア!」


 森へ。


 ライルの声。


 月守が。


 静かに三人を見る。


『選んだ?』


 空気。


 変わる。


 アマリリアも。


 ライルも。


 笑みを消した。


「はい」


 アマリリアが答える。


「ですが」


『何』


「一つ訂正させてください」


『何を』


「私は」


 ライルを見る。


「殿下を助けるために結婚するのではありません」


 ライルも。


 彼女を見る。


「殿下が好きです」


 言う。


 今度は。


 逃げない。


「この先も、一緒にいたいと思っております」


『……』


「ですから」


 少しだけ。


 頬が熱い。


「結婚については、正式に婚約してから考えます」


「待て」


 ライルが口を挟む。


「何です?」


「そこは俺にも言わせてくれ」


「あら」


 ライルは。


 アマリリアの隣へ立つ。


「俺も」


 月守へ。


「アマリリアが好きだ」


「殿下」


「君は黙っていろ!」


「はい」


「俺は彼女と生きたい」


 はっきり。


「でも、契約のために今日結婚するつもりはない」


『では』


「婚約する」


 アマリリアが瞬きをした。


 分かっていた。


 先ほど。


 言われた。


 それでも。


 月守の前で。


 国王の前で。


 改めて。


「俺はアマリリア・ベスターへ正式に婚約を申し込む」


「……」


 ライルが。


 彼女へ向き直る。


「アマリリア」


「はい」


「俺と婚約してくれ」


 森。


 白い花。


 銀の光。


 国王。


 月守。


 あまりにも。


 普通ではない状況。


「殿下」


「何だ」


「場所の選択は零点ですわ」


「こんな状況で言うか!?」


「ですが」


 アマリリアは。


 笑う。


「答えは百点です」


「だから点数制はやめたんじゃないのか!」


「最後ですわ」


「本当だな?」


「多分」


「おい」


 アマリリアは。


 ライルの両手を取った。


「お受けいたします」


 ライルの表情が止まる。


「本当に?」


「ご自分から申し込まれたのでしょう?」


「そうだが」


「よろしくお願いいたします」


「……ああ」


 ライルが。


 嬉しそうに。


 笑った。


 アマリリアも。


 自然に笑う。


『偽りなし』


 月守の声。


 二人の胸元。


 ライルの王族紋。


 アマリリアの首飾り。


 同時に光る。


「っ!」


 二人の身体を。


 銀色の光が包む。


「アマリリア!」


「大丈夫です!」


 熱。


 でも。


 痛くない。


 ライルの身体から。


 金と銀の混ざった光。


 それが。


 ゆっくり。


 アマリリアへ。


 しかし。


 全てではない。


 アマリリアからも。


 銀色の光。


 ライルへ。


「力が」


『混ざる』


 月守の声。


『片方へ偏らない』


 光。


 二人。


 繋いだ手。


『王の血へ奪われた力を』


『月の血が受け』


『月の血へ偏る力を』


『王の血が支える』


 アマリリアの髪が。


 浮かぶ。


 ライルの黒髪にも。


 一本。


 二本。


 銀色の光が走る。


「殿下!」


「大丈夫だ!」


 胸。


 熱い。


 でも。


 生命を奪われる感覚はない。


 むしろ。


 何か。


 ずっと歪んでいたものが。


 正しい位置へ戻っていく。


『これが』


 月守。


『本来の契約』


 白い巨樹。


 残っていた黒い鎖。


 一斉に。


 砕ける。


 轟音。


 森全体。


 光。


 国王が腕で顔を庇う。


「ライル!」


「父上!」


「アマリリア!」


「大丈夫です!」


 銀色の花。


 全て。


 開く。


 何百。


 何千。


 白い巨樹が。


 月のない夜に。


 自ら月になったように輝く。


 そして。


 アマリリアの耳へ。


 声。


 懐かしい。


 誰より。


 懐かしい。


『リリア』


「……」


 母。


 振り返る。


 白い光の中。


 一人。


 女性。


 エレナ。


 記憶のまま。


 優しい顔。


「お母様?」


 声が。


 震えた。


 ライルが。


 アマリリアの手を。


 握る。


『大きくなったわね』


 涙。


 アマリリアの目から。


 自分でも気づかないまま。


 零れた。


「お母様」


『ごめんなさい』


「何がです?」


『全部』


「……」


『何も教えられなくて』


「はい」


『一人で選ばせて』


「はい」


『怖かったでしょう』


 アマリリアは。


 泣きながら。


 笑った。


「とても」


 初めて。


 認める。


「怖かったですわ」


『でも』


 エレナの姿。


 優しく。


『一人ではなかったでしょう?』


 アマリリアは。


 ライルを見る。


 彼は何も言わない。


 でも。


 手を。


 強く握っている。


「はい」


 アマリリアは答える。


「一人ではありませんでした」


 母が。


 笑う。


『なら』


 光が。


 薄くなる。


「待って!」


『リリア』


「まだ!」


『幸せになって』


「お母様!」


『自分で選んだ人と』


 消える。


「お母様!」


『それが』


 最後。


『私が一番してほしかったことだから』


 光。


 消えた。


「……」


 アマリリアは。


 その場へ立っていた。


 涙。


 止まらない。


 ライルが。


 隣へ。


 何も言わず。


 彼女を抱きしめた。


「殿下」


「ああ」


「私」


「ああ」


「泣いております」


「知っている」


「見ないでくださいませ」


「無理だ」


「酷いですわ」


「ああ」


「今の私、きっと酷い顔です」


「綺麗だよ」


「……」


「何だ」


「今それを言うのは」


「駄目だったか?」


「反則ですわ」


 アマリリアは。


 ライルの胸へ顔を埋めた。


 泣く。


 声を押さえず。


 七歳で。


 母を失った。


 もう。


 話せないと思っていた。


 でも。


 最後に。


 言えた。


 怖かった。


 一人ではなかった。


「殿下」


「何だ」


「離さないでくださいませ」


「ああ」


「今日だけです」


「明日も離さない」


「……」


「その先も」


 アマリリアは。


 さらに。


 抱きついた。


「殿下」


「何だ」


「好きです」


「知ってる」


「殿下も言ってください」


「さっき言った」


「もう一度」


「君は本当に」


 ライルが。


 少し笑う。


「好きだ」


「はい」


「アマリリア」


「はい」


「好きだ」


 今度は。


 アマリリアも。


 笑った。


          ◇◇◇


 白い巨樹の光が落ち着いた頃。


 月守は。


 三人の前に立っていた。


 先ほどまでより。


 姿が薄い。


「月守?」


『役目が』


「終わるのですか?」


『違う』


『変わる』


「どう変わる?」


 国王が聞く。


『守りは』


『一つの者へ集めない』


 月守の視線。


 アマリリア。


 ライル。


 国王。


『森』


『人』


『王』


『月の血』


『全てで守る』


「新しい契約?」


『本来の形』


 国王が頷く。


「それで、この国は」


『すぐには変わらない』


「結界は?」


『残る』


 アルベルトの肩から。


 少しだけ力が抜ける。


「よかった」


『ただし』


「まだあるのか」


 国王の顔が引きつる。


『王は』


『帰って説明しろ』


「……」


『八百年分』


「一番厳しい条件だな」


『当然』


 アマリリアは思わず笑った。


 ライルも。


 国王がこちらを見る。


「笑うな」


「申し訳ございません」


「顔が笑っている」


「気のせいですわ」


「息子と同じことを言うな」


「似てきたのでしょうか」


「やめてくれ」


「なぜです?」


「これ以上、君のようになったら困る」


「父上!」


 ライルの声。


 いつもの。


 その空気。


 アマリリアは。


 胸の奥で。


 大きく息を吐いた。


 生きている。


 ライルも。


 自分も。


 国王も。


「帰れますのね」


 月守を見る。


『帰れる』


「本当に?」


『疑い深い』


「慎重なのです」


『エレナと同じ』


「お母様も?」


『何度も聞いた』


 アマリリアは少し笑う。


「やはり親子ですわね」


『そう』


 月守の姿が。


 少しずつ。


 光へ変わる。


『娘』


「はい」


『また来い』


「よろしいのです?」


『森は』


『閉じない』


「これからは?」


『正しく名を返せば』


 アマリリアは。


 首飾りへ触れる。


「月の民の名」


『ルーナ』


「ルーナ」


 口にする。


 森。


 揺れる。


 木々。


 白い花。


 光。


『この土地の古い名』


 月守が。


 言葉を紡ぐ。


『ルナティア』


 国王。


 ライル。


 アマリリア。


 三人。


 聞く。


「ルナティア」


『忘れるな』


「はい」


『そして』


 月守が。


 ライルを見る。


『王の子』


「俺?」


『娘を泣かせるな』


「なっ」


 ライルが固まる。


 アマリリアの眉が上がる。


「まあ」


「待て」


『泣かせたら』


「何です?」


『森へ返せ』


「駄目です!」


 ライルが即答した。


 月守。


 笑った。


『なら』


『大切に』


「もちろんです!」


 また即答。


 アマリリアが。


 じっと。


 ライルを見る。


「殿下」


「何だ」


「今の」


「何だ」


「とても嬉しかったです」


「……」


「顔が赤いですわ」


「君もだ!」


 月守の笑い声。


 国王の笑い。


 森。


 新月。


 八百年続いた契約。


 完全に終わったわけではない。


 王家はこれから。


 歴史を正す。


 土地の権利を見直す。


 ルーナの名を戻す。


 消された記録を探す。


 そして。


 ライルとアマリリアも。


 これから。


 本当の婚約を始める。


 偽装ではない。


 取引でも。


 脅しでも。


 契約でもない。


 自分たちで。


 選んだ。


 婚約。


「殿下」


「何だ」


「最初に申し上げたことを覚えております?」


「色々言われすぎて分からない」


「事が済んだら婚約破棄してください、と」


「……ああ」


 ライルの顔が変わる。


 アマリリアは。


 とびきりの笑顔を向けた。


「撤回いたしますわ」


「……」


「婚約破棄は」


 一歩。


 近づく。


「していただかなくて結構です」


 ライルが。


 数秒。


 固まる。


「本当に?」


「何度聞くのです?」


「君は急に考えを変えるから」


「失礼ですわね」


「父上を一日で当主から降ろした」


「必要でした」


「俺を脅して婚約しろと言った」


「必要でした」


「今度は本気で婚約する?」


「必要だからではありません」


「では?」


 アマリリアは。


 もう。


 迷わない。


「貴方と一緒にいたいからです」


 ライルは。


 また。


 顔を赤くした。


「君は」


「はい?」


「やっぱり反則だ」


「何がです?」


「その言い方」


「本心ですもの」


「だからだ!」


 ライルの声が。


 月のない森へ響く。


 アマリリアは笑う。


 国王も。


 月守も。


 そして。


 白い巨樹の花まで。


 風に揺れて。


 笑っているように見えた。


 新月の夜。


 八百年以上続いた《月の花嫁》という偽りの契約は。


 ここで。


 ようやく終わりを迎えた。


 そして同じ夜。


 婚約を押し付けられたために第一王子を脅した一人の伯爵令嬢と。


 そんな令嬢へ振り回され続けた第一王子の。


 偽りではない婚約が。


 静かに。


 始まったのだった。

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