第10話 偽装婚約のはずでしたが、どうやら本気で好きになっていたようです
新月の森。
月のない空の下で、白い巨樹に咲いた銀色の花が、一つ、また一つと静かに開いていく。
花弁が開くたび、淡い光の粒が周囲へ零れ落ちた。それは風に流されることもなく、夜の森を漂いながら、黒い鎖へ巻きつかれた巨樹の根元へ吸い込まれていく。
美しい。
けれど、アマリリアにはその光景がどこか痛々しく見えた。
八百年以上。
いや、それよりさらに長い時間。
この場所で《月守》は王家が奪ったものを取り戻す日を待ち続けていた。
そして今。
その終わりを決めるために与えられた時間は、三刻。
「三刻、ですか」
アマリリアは小さく呟いた。
先ほどまで握っていたライルの手は、まだ離れていない。
彼の体温が手のひらから伝わってくる。
普段なら、からかう材料にしただろう。
殿下から手を握ってくださるなんて、と。
恋人のようですわね、と。
あるいは、またプラス点を与えて慌てさせたかもしれない。
けれど今だけは。
そんな言葉が出てこなかった。
「三刻もある」
隣でライルが言った。
先ほど自分へ返された言葉。
アマリリアは少しだけ笑う。
「私の言葉を随分お気に召したようですわね」
「君が何度も言うから覚えただけだ」
「では、使用料をいただきませんと」
「今、それを取るのか?」
「場を和ませようかと思いまして」
「君が緊張しているのは分かっている」
あっさりと言われた。
アマリリアの笑みが僅かに止まる。
「私が?」
「ああ」
「随分なことを仰いますのね」
「いつもなら、もっと面倒なことを言う」
「面倒とは失礼ですわ」
「ほら。少し戻った」
ライルは微笑んだ。
その笑顔。
アマリリアが好きだと思った顔。
皮肉でも。
諦めでもなく。
ただ自然に笑っている彼の顔。
見ていると、胸の奥が少し落ち着く。
だから困る。
もし本当に何とも思っていない相手なら。
これはもっと簡単だったはずだ。
月守の契約を正常化するために婚姻が必要。
それなら婚姻すればよい。
必要がなくなれば、適当な理由をつけて解消する。
最初にライルへ持ちかけた偽装婚約と同じ。
合理的。
無駄がない。
自分の得意とする方法だ。
けれど。
『偽りなら成立しない』
月守は、はっきり言った。
互いに相手と生きたいと望まなければ。
二人の力は混ざらない。
契約は成立しない。
「アマリリア」
「はい」
「少し歩こう」
「この場所から離れてよろしいので?」
二人の少し先。
月守は白い巨樹の根元へ立ったまま、こちらを見ている。
『構わない』
月守の声が森全体へ響いた。
『答えは』
『この場所にいる限り届く』
「盗み聞きなさるのです?」
アマリリアが尋ねる。
月守の銀色の瞳が僅かに細くなる。
『聞かない』
「本当に?」
『必要ない』
「なぜです?」
『答えは』
『心に出る』
胸元の首飾りが淡く光った。
「……なるほど」
嘘をついても意味がないらしい。
ライルが小さく息を吐く。
「ますます逃げ道がないな」
「逃げたいのですか?」
「そういう意味ではない」
「では?」
「君と落ち着いて話したい」
アマリリアは少しだけ目を見開いた。
「私と?」
「ああ」
「二人きりで?」
「父上の前で結婚について話したいのか?」
少し離れた場所に国王アルベルトがいる。
彼もまた、自分の選択を迫られていた。
王家がこの土地の支配者ではないと認める。
王としての権利。
建国以来の正統性。
王家が土地を所有してきた記録。
それらを手放さなければならない。
ライルとアマリリアとは別の意味で、人生を変える選択だ。
国王も今、白い巨樹の黒い鎖を見つめたまま考えている。
「陛下のお邪魔にもなりますわね」
「行こう」
「はい」
二人は手を繋いだまま、白い巨樹から少し離れた。
◇◇◇
森の奥。
白い花が一面に咲く、小さな場所。
そこだけは巨樹の根が地面から出ておらず、柔らかな草が広がっている。
近くには小さな泉。
水面は鏡のように静かで、月のない空にもかかわらず銀色の光を映していた。
ライルとアマリリアは、その泉の前で足を止めた。
「綺麗ですわね」
「ああ」
「こんな場所へ、普通に遊びに来られたらよかったですのに」
「君と?」
ライルが聞く。
「誰か他におります?」
「いや」
ライルは少し気まずそうに髪へ手をやった。
「……それも悪くないな」
「まあ」
「何だ」
「いえ」
アマリリアは楽しそうに微笑む。
「プラス――」
「今は点数をつけるな」
「まだ何点とは言っておりません」
「言おうとしただろう」
「二点くらいでした」
「結局言うのか」
二人は泉の横へ腰を下ろした。
草は柔らかい。
森へ入ってからずっと歩き続けていたため、腰を下ろした瞬間、思った以上に身体が疲れていることへ気づいた。
けれど。
疲労よりも。
今は、隣にいるライルを意識してしまう。
「では」
アマリリアが口を開く。
「何からお話ししましょうか」
「まず」
ライルは膝を立て、その上へ腕を置いた。
「君は森に残りたいか?」
「随分と直球ですわね」
「時間がない」
「三刻もあるのでは?」
「そういうときだけ使うな」
アマリリアは少し笑った。
でも。
答えなければならない。
「残りたくありません」
言葉にすると。
想像していたより、簡単に出た。
ライルがこちらを見る。
「即答だな」
「考える必要がございませんもの」
「月の娘として生きることに、興味は?」
「あります」
「あるのか」
「自分が何者なのかを知りたいですし、母の生まれた場所のことも知りたいです。月守の力にも興味はございます」
「それでも?」
「それでも」
アマリリアは森の先を見る。
「森へ残りたいとは思いません」
「なぜ?」
「家族がおりますもの」
父。
兄。
屋敷の使用人たち。
ゼインたち。
そして。
「学園もまだ卒業しておりませんし」
「そこか?」
「主席のまま卒業するつもりです」
「君らしいな」
「それから、市井で穏やかに暮らす夢もございます」
「覚えていたのか」
「私の夢ですもの」
「王子と結婚したら叶わないぞ」
その言葉。
胸へ。
少し。
刺さる。
「そうですわね」
アマリリアは自分の膝へ視線を落とした。
最初にライルへ言われた。
俺と婚約したら市井で穏やかに暮らす夢は叶わないのではないか。
あのときは。
事が済めば別れればよい。
そう思っていた。
でも。
もし。
本当にライルと結婚したいと思ってしまったら。
その夢を諦めることになる。
「それも、考えなければいけませんわね」
「……ああ」
「殿下は?」
「何が」
「私と結婚すれば」
アマリリアは彼を見る。
「王になる可能性も変わるのでは?」
「なぜ?」
「私は月の民の血を引いております。王家が八百年以上隠してきた真実の中心にいる女です。そんな者を王妃にするとなれば、貴族たちがどう反応するか分かりません」
「気にしない」
「殿下」
「いや」
ライルは少し考え直す。
「王子としては気にしなければならない」
「でしょう?」
「でも、俺自身はどうでもいい」
アマリリアは瞬きをした。
「王位が?」
「ああ」
「以前は分からないと仰っていましたわね」
「今も、王になりたくないわけではない」
ライルは泉を見る。
「俺は父上を尊敬している。国を治める仕事にも興味がある。自分ならもっとできると思うこともある」
「自信家ですのね」
「君に言われたくない」
「それもそうですわ」
「でも」
ライルの声が少し柔らかくなる。
「王になるために、全てを捨てたいわけじゃない」
「全て?」
「自分で生き方を選ぶこと」
森の静かな空気に、その言葉が溶ける。
「八年間」
ライルは続けた。
「俺は十八になったら森へ消えると思っていた」
アマリリアは何も言わず聞く。
「だから、将来を考えること自体をどこかで諦めていた。王太子教育も受けた。剣も学んだ。政治も。外交も。でも全部、十八までの役割だと思っていた」
「……」
「だから屋上で寝ていたのです?」
「そこへ繋げるのか?」
「授業を抜け出す理由が気になりまして」
ライルは少し笑った。
「半分はそうかもしれない」
「残り半分は?」
「本当に眠かった」
「マイナス一点ですわ」
「今はつけないと言っただろう」
「我慢できませんでした」
少しだけ。
いつもの空気。
でも。
ライルはすぐに真面目な顔へ戻る。
「そんな俺に」
「はい」
「君が突然来た」
「黒装束を連れて?」
「ああ」
「殿下の首へ短剣を?」
「その部分を自分から強調するな」
「思い出ですわ」
「最悪の出会いだ」
「私は気に入っております」
「なぜだ」
「殿下の顔がとても可愛らしかったので」
「……」
ライルが顔を逸らした。
「本当に君は」
「何です?」
「この状況でも変わらないな」
「変わっておりますわ」
「どこが」
「以前より、殿下を好きになっております」
言葉が。
口から出た。
「……」
「……」
静寂。
アマリリア自身。
数秒。
何を言ったのか理解できなかった。
ライルは完全に固まっている。
泉の水面だけが。
銀色の光を静かに揺らしていた。
「今」
ライルの声が掠れる。
「何と言った?」
「……」
アマリリアは。
逃げたいと思った。
初めて。
敵からでも。
父からでも。
婚約からでもなく。
自分の言葉から逃げたい。
「アマリリア」
「聞き間違いでは?」
「かなりはっきり聞こえた」
「森の精霊の声かもしれません」
「君の声だった」
「月守が真似を」
「苦しすぎるだろう!」
「では忘れてくださいませ!」
アマリリアは立ち上がろうとした。
その手。
掴まれる。
「待て」
「離してくださいませ」
「嫌だ」
「殿下!」
「散々俺を逃がさなかった君が、自分は逃げるのか?」
言われた。
アマリリアは動けなくなる。
ライルが手を握ったまま、真っ直ぐ見上げている。
「ずるいですわ」
「君にだけは言われたくない」
「今の私は繊細なのです」
「知るか」
「酷い!」
「ちゃんと話せ」
「殿下は鬼です!」
「君に言われたくない!」
いつものように声を上げた。
それなのに。
二人とも。
顔が赤い。
「……」
「……」
先に。
ライルが息を吐いた。
「好きになっている、というのは」
「聞かないでください」
「聞く」
「横暴ですわ」
「王子だからな」
「こういうときだけ権力を使わないでください!」
「使っていない!」
アマリリアは座り直した。
逃げられない。
そして。
ライルとの約束。
選ぶときは。
一人で決めない。
隠さない。
「……分かりました」
観念した。
「正直に申し上げます」
「ああ」
「ですが、笑わないでくださいませ」
「笑わない」
「本当に?」
「ああ」
「からかわない?」
「君じゃあるまいし」
「一言多いです」
「悪かった」
アマリリアは一度深く息を吸った。
「私は」
自分の指を見る。
ライルに握られている。
「殿下と出会ったとき」
「ああ」
「正直、利用することしか考えておりませんでした」
「知っている」
「もっと傷ついてくださいませ」
「今さらだ」
「カルロス様との婚約を潰せれば、それでよいと。王家の婚約者になり、事が済んだら婚約破棄。殿下の評判についても、適当に理由を作ればよいと思っておりました」
「酷いな」
「反省しております」
「今回は信じる」
「ありがとうございます」
少し。
笑う。
「でも」
アマリリアの声が小さくなる。
「殿下の婚約問題を知って」
五歳で。
命を救う代わりに。
十八歳で森へ捧げられる。
「死にたくないと仰って」
その顔。
「笑顔を見て」
馬車。
王宮。
地下。
森。
一つずつ。
記憶。
「気づけば」
アマリリアは顔を上げた。
「殿下に生きてほしいと思っておりました」
ライルは黙っている。
「最初は、自分が巻き込んだからだと思いました」
「……」
「次は、共犯者だから」
「協力者だ」
「今そこで直します?」
「すまない」
「それから」
アマリリアは。
少し笑う。
「困った顔を見るのが好きだから、と」
「それは本当なのか」
「ええ」
「複雑だ」
「でも、そうではなかった」
「……」
「殿下が他の誰かに取られると思うと、嫌です」
ライルの目が大きくなる。
「《月の花嫁》に奪われるのも」
嘘だったけれど。
「王家の契約に奪われるのも」
嫌。
「どこかの令嬢と結婚されるのも」
言ってから。
さらに恥ずかしくなる。
「……嫌です」
アマリリアはとうとう視線を落とした。
「ですから」
声が小さくなる。
「多分」
「多分?」
「かなり」
「かなり?」
「……好きなのだと思います」
沈黙。
長い。
「何か仰ってくださいませ」
「待ってくれ」
「なぜ?」
「俺にも心の準備が」
「私にはさせなかったではありませんか!」
「俺だってこんな直球で来ると思わなかった!」
「私も思っておりませんでした!」
「なぜ君が怒る!」
「恥ずかしいからです!」
「俺もだ!」
森へ。
二人の声が響く。
どこか遠くで。
白鹿が。
こちらを見たような気がした。
「……」
「……」
また。
静かになる。
「アマリリア」
「はい」
ライルは。
ゆっくり。
彼女の手を両手で包んだ。
「俺も」
胸が跳ねる。
「君が好きだ」
「……」
今度は。
アマリリアが固まった。
「聞こえたか?」
「……いいえ」
「嘘をつけ」
「もう一度」
「何?」
「聞こえませんでしたので、もう一度」
「絶対聞こえていただろう!」
「大切なところです!」
「恥ずかしいんだよ!」
「私にも二回言わせたではありませんか!」
「一回だ!」
「心の中では何度も!」
「知らない!」
ライルは真っ赤になった。
それでも。
一度。
深く息を吸う。
「好きだ」
今度は。
真っ直ぐ。
「アマリリア」
「……はい」
「君が好きだ」
アマリリアの顔が。
今までで一番赤くなる。
「殿下」
「何だ」
「少し黙ってくださいませ」
「自分から言わせておいて!?」
「想像以上の威力でした」
「知らないよ!」
ライルは頭を抱えた。
アマリリアは胸へ手を当てる。
心臓が。
うるさい。
こんな感覚。
知らない。
誰かに好かれる。
求められる。
それが。
こんなに嬉しい。
「最初は」
ライルが言う。
「君を危険な女だと思った」
「失礼ですわ」
「事実だ」
「反論できません」
「今も危険だと思う」
「殿下」
「最後まで聞け」
「はい」
「でも」
ライルが笑う。
「君が来てから、楽しかった」
「……」
「八年間、俺は自分の人生に先がないと思っていた」
屋上。
眠る。
授業を抜ける。
どこかで。
諦めていた。
「君はそんな俺の前へ来て」
「脅して?」
「婚約しろと言った」
「改めて聞くと酷いですわね」
「本当にな」
笑う。
「でも、君は俺の事情を知っても逃げなかった」
「当然です」
「父上にも言いたいことを言った」
「少し反省しております」
「地下のあいつにも説教した」
「必要でした」
「俺のために」
「殿下だけではありません」
「それでも」
ライルの声が少し柔らかくなる。
「嬉しかった」
アマリリアの目が揺れる。
「それで」
「はい」
「君が森に残る可能性を考えたとき」
ライルは。
手を。
強く握る。
「嫌だった」
「……」
「俺が助かっても」
「はい」
「君がいなくなるなら、嫌だ」
アマリリアは。
言葉を出せなかった。
「だから」
ライルは少し苦笑する。
「多分、俺もとっくに好きだった」
「多分?」
「君が最初に言っただろう」
「私はかなりと言い直しました」
「では」
ライルは。
少しだけ。
アマリリアへ近づく。
「かなり好きだ」
「……」
「どうした」
「殿下」
「何だ」
「プラス百点です」
「急に桁が!」
「もう点数制はやめます」
「なぜ?」
「好きな方へ点数をつけるのは失礼ですもの」
ライルが固まる。
「君」
「はい?」
「たまに、とんでもないことを自然に言うな」
「そうでしょうか」
「そのせいで毎回こっちが」
「こっちが?」
「……何でもない」
「教えてくださいませ」
「嫌だ」
「殿下」
「嫌だ」
「では」
アマリリアは。
少し。
身体を寄せた。
「これなら?」
「なっ!」
肩。
触れる。
ライルが硬直する。
「何をしている!」
「恋人なら、このくらい普通では?」
「いつ恋人になった!」
「今?」
「疑問形!」
アマリリアは楽しそうに笑う。
ライルは真っ赤だ。
でも。
逃げない。
「では」
アマリリアが尋ねる。
「確認いたしますわ」
「何を?」
「私たちは」
少し恥ずかしい。
それでも。
「互いに好き」
「……ああ」
「この先も一緒にいたい」
ライルは。
少し考える。
そして。
「いたい」
アマリリアの胸が温かくなる。
「結婚は?」
「そこだけ急に現実的だな」
「契約に必要ですので」
ライルは苦笑した。
「好きだと分かったから、今すぐ結婚を決めろというのも無茶だとは思う」
「ええ」
「でも」
ライルは真面目な顔になる。
「俺は」
手。
離さない。
「君と婚約したい」
アマリリアの目が少し大きくなる。
「偽装ではなく?」
「ああ」
「カルロス様対策でも?」
「ない」
「月守との契約のためでも?」
「それだけではない」
「では?」
「俺が」
一呼吸。
「アマリリア・ベスターと婚約したい」
アマリリアは。
しばらく。
何も言わなかった。
「……アマリリア?」
「少々お待ちください」
「何を?」
「とても嬉しいので、落ち着いております」
「落ち着く必要あるか?」
「あります」
「なぜ」
「今すぐ殿下へ抱きつきそうです」
ライルが止まる。
「……それは」
「嫌です?」
「嫌ではない」
小さな声。
アマリリアの目が細くなる。
「では」
「待て!」
でも。
もう遅い。
アマリリアはライルへ腕を回した。
「うわっ」
勢いは弱い。
ただ。
抱きしめる。
ライルの身体が。
最初は固い。
けれど。
数秒。
背中へ。
腕が回る。
「……」
「……」
アマリリアは。
ライルの胸元へ顔を寄せた。
鼓動。
速い。
「殿下」
「何だ」
「心臓が」
「言うな」
「かなり速いですわ」
「君もだろう!」
「聞こえます?」
「分かる」
「では、お揃いですわね」
「そういう問題か?」
「私は嬉しいです」
「……俺も」
短い。
小さな返事。
でも。
十分だった。
しばらく。
二人は。
ただ抱きしめ合っていた。
契約のためではない。
月守のためでもない。
王家のためでも。
カルロスから逃げるためでもない。
ただ。
互いが。
ここにいてほしいから。
◇◇◇
一方。
白い巨樹の前。
国王アルベルトは、一人で黒い鎖を見つめていた。
『王』
月守の声。
「分かっている」
『答えを』
「まだだ」
『恐れるか』
「当然だ」
アルベルトは苦笑した。
「王家が土地の支配者ではないと認める。それが何を意味するか、お前は分かっているか?」
『知っている』
「貴族制度が揺れる」
『そう』
「領地権も」
『そう』
「王家へ忠誠を誓った者たちの立場も」
『そう』
「下手をすれば内乱だ」
『それも』
月守は全て認めた。
「それでも返せと」
『返せ』
「簡単に言う」
『簡単ではない』
月守は。
黒い鎖へ触れる。
『八百年』
鎖が鳴る。
『我らは』
『簡単ではなかった』
国王は黙った。
何も返せない。
八百年。
奪われた名。
土地。
記憶。
未来。
歴史。
それに比べれば。
今の王家が失うものは。
果たして。
大きいのか。
「一つ聞きたい」
『何』
「王家が土地の所有権を返せば」
『土地を奪うつもりはない』
アルベルトが顔を上げる。
「何?」
『我らの望みは』
『支配ではない』
「では」
『正しい名』
巨樹。
森。
大地。
『正しい記憶』
『正しい契約』
「それだけ?」
『それだけ』
国王は。
長く。
息を吐いた。
「人間というのは」
『何』
「自分で奪ったものを、返せと言われると、全てを奪われる気になるらしい」
月守は何も言わない。
「愚かだな」
『知っている』
「そこは否定してくれ」
『八百年見た』
「……そうか」
アルベルトは笑った。
そして。
白い巨樹へ近づく。
「なら」
黒い鎖へ。
触れる寸前で止まる。
「王として決める」
月守の瞳が。
国王へ向く。
「王家は」
声。
震えない。
「この土地を所有するという権利を放棄する」
森の空気が。
揺れた。
「アースハルト王国は、月守から奪った土地と権利を返還する」
黒い鎖の一つが。
亀裂。
パキ。
「ただし」
『条件?』
「この国に暮らす民を守る責任だけは、俺たちに残してほしい」
『……』
「王であることを捨てろと言われた」
『そう』
「だが、俺は王の椅子が欲しいわけではない」
アルベルトは。
息子を思う。
王妃を。
国を。
民を。
「守る役目を捨てるつもりはない」
月守が。
初めて。
微かに笑った。
『それが』
「何だ?」
『最初の契約』
国王の目が見開かれる。
『我らは土地を貸した』
『王にしたのではない』
『守る者として』
「……」
『最初の王は』
『守る役目を』
『所有する権利へ変えた』
アルベルトは。
目を閉じた。
「そうか」
長い。
本当に長い遠回り。
「なら」
国王は。
片膝を地面へついた。
月守へ。
王が。
頭を下げる。
「改めて」
『……』
「この国を守らせてほしい」
黒い鎖。
一つ。
二つ。
三つ。
砕ける。
◇◇◇
アマリリアとライルが白い巨樹へ戻ったとき。
景色は。
大きく変わっていた。
「これは……」
巨樹へ巻きついていた黒い鎖。
半分近くが消えている。
残った鎖にも亀裂が入っていた。
国王は巨樹の根元に立っている。
「父上」
「戻ったか」
「何を?」
「俺の方は決めた」
アルベルトは二人へ向く。
「王家は、この土地の所有権を月守へ返す」
ライルが息を呑む。
「それは」
「正確には」
国王は月守を見る。
「誰のものでもない土地へ戻す」
『そう』
月守が答える。
「王家は支配者ではなく、この国を守る役目として残る」
「貴族院は?」
「荒れるだろうな」
「父上」
「帰ってから考える」
アルベルトは少し笑った。
「まず帰ることが先だ」
「……はい」
「お前たちは?」
国王の視線。
二人。
アマリリア。
ライル。
二人の手は。
また。
繋がっている。
国王の眉が少し上がる。
「その様子だと」
「父上!」
「まだ何も言っていない」
「顔が言っています!」
「そうか」
「陛下」
アマリリアが一歩前へ出る。
ライルが嫌な予感を覚えた顔。
「私たち」
「待て!」
「正式にお付き合いすることになりました」
「アマリリア!」
「隠す必要が?」
「言い方!」
国王。
数秒。
息子。
アマリリア。
もう一度息子。
「……そうか」
口元。
緩む。
「よかったな」
「父上!」
「何を怒る」
「もっと驚いてください!」
「この数日を見ていれば、むしろまだだったのかと思う」
「陛下もそう思われます?」
「思う」
「意見が合いますわね」
「アマリリア!」
森へ。
ライルの声。
月守が。
静かに三人を見る。
『選んだ?』
空気。
変わる。
アマリリアも。
ライルも。
笑みを消した。
「はい」
アマリリアが答える。
「ですが」
『何』
「一つ訂正させてください」
『何を』
「私は」
ライルを見る。
「殿下を助けるために結婚するのではありません」
ライルも。
彼女を見る。
「殿下が好きです」
言う。
今度は。
逃げない。
「この先も、一緒にいたいと思っております」
『……』
「ですから」
少しだけ。
頬が熱い。
「結婚については、正式に婚約してから考えます」
「待て」
ライルが口を挟む。
「何です?」
「そこは俺にも言わせてくれ」
「あら」
ライルは。
アマリリアの隣へ立つ。
「俺も」
月守へ。
「アマリリアが好きだ」
「殿下」
「君は黙っていろ!」
「はい」
「俺は彼女と生きたい」
はっきり。
「でも、契約のために今日結婚するつもりはない」
『では』
「婚約する」
アマリリアが瞬きをした。
分かっていた。
先ほど。
言われた。
それでも。
月守の前で。
国王の前で。
改めて。
「俺はアマリリア・ベスターへ正式に婚約を申し込む」
「……」
ライルが。
彼女へ向き直る。
「アマリリア」
「はい」
「俺と婚約してくれ」
森。
白い花。
銀の光。
国王。
月守。
あまりにも。
普通ではない状況。
「殿下」
「何だ」
「場所の選択は零点ですわ」
「こんな状況で言うか!?」
「ですが」
アマリリアは。
笑う。
「答えは百点です」
「だから点数制はやめたんじゃないのか!」
「最後ですわ」
「本当だな?」
「多分」
「おい」
アマリリアは。
ライルの両手を取った。
「お受けいたします」
ライルの表情が止まる。
「本当に?」
「ご自分から申し込まれたのでしょう?」
「そうだが」
「よろしくお願いいたします」
「……ああ」
ライルが。
嬉しそうに。
笑った。
アマリリアも。
自然に笑う。
『偽りなし』
月守の声。
二人の胸元。
ライルの王族紋。
アマリリアの首飾り。
同時に光る。
「っ!」
二人の身体を。
銀色の光が包む。
「アマリリア!」
「大丈夫です!」
熱。
でも。
痛くない。
ライルの身体から。
金と銀の混ざった光。
それが。
ゆっくり。
アマリリアへ。
しかし。
全てではない。
アマリリアからも。
銀色の光。
ライルへ。
「力が」
『混ざる』
月守の声。
『片方へ偏らない』
光。
二人。
繋いだ手。
『王の血へ奪われた力を』
『月の血が受け』
『月の血へ偏る力を』
『王の血が支える』
アマリリアの髪が。
浮かぶ。
ライルの黒髪にも。
一本。
二本。
銀色の光が走る。
「殿下!」
「大丈夫だ!」
胸。
熱い。
でも。
生命を奪われる感覚はない。
むしろ。
何か。
ずっと歪んでいたものが。
正しい位置へ戻っていく。
『これが』
月守。
『本来の契約』
白い巨樹。
残っていた黒い鎖。
一斉に。
砕ける。
轟音。
森全体。
光。
国王が腕で顔を庇う。
「ライル!」
「父上!」
「アマリリア!」
「大丈夫です!」
銀色の花。
全て。
開く。
何百。
何千。
白い巨樹が。
月のない夜に。
自ら月になったように輝く。
そして。
アマリリアの耳へ。
声。
懐かしい。
誰より。
懐かしい。
『リリア』
「……」
母。
振り返る。
白い光の中。
一人。
女性。
エレナ。
記憶のまま。
優しい顔。
「お母様?」
声が。
震えた。
ライルが。
アマリリアの手を。
握る。
『大きくなったわね』
涙。
アマリリアの目から。
自分でも気づかないまま。
零れた。
「お母様」
『ごめんなさい』
「何がです?」
『全部』
「……」
『何も教えられなくて』
「はい」
『一人で選ばせて』
「はい」
『怖かったでしょう』
アマリリアは。
泣きながら。
笑った。
「とても」
初めて。
認める。
「怖かったですわ」
『でも』
エレナの姿。
優しく。
『一人ではなかったでしょう?』
アマリリアは。
ライルを見る。
彼は何も言わない。
でも。
手を。
強く握っている。
「はい」
アマリリアは答える。
「一人ではありませんでした」
母が。
笑う。
『なら』
光が。
薄くなる。
「待って!」
『リリア』
「まだ!」
『幸せになって』
「お母様!」
『自分で選んだ人と』
消える。
「お母様!」
『それが』
最後。
『私が一番してほしかったことだから』
光。
消えた。
「……」
アマリリアは。
その場へ立っていた。
涙。
止まらない。
ライルが。
隣へ。
何も言わず。
彼女を抱きしめた。
「殿下」
「ああ」
「私」
「ああ」
「泣いております」
「知っている」
「見ないでくださいませ」
「無理だ」
「酷いですわ」
「ああ」
「今の私、きっと酷い顔です」
「綺麗だよ」
「……」
「何だ」
「今それを言うのは」
「駄目だったか?」
「反則ですわ」
アマリリアは。
ライルの胸へ顔を埋めた。
泣く。
声を押さえず。
七歳で。
母を失った。
もう。
話せないと思っていた。
でも。
最後に。
言えた。
怖かった。
一人ではなかった。
「殿下」
「何だ」
「離さないでくださいませ」
「ああ」
「今日だけです」
「明日も離さない」
「……」
「その先も」
アマリリアは。
さらに。
抱きついた。
「殿下」
「何だ」
「好きです」
「知ってる」
「殿下も言ってください」
「さっき言った」
「もう一度」
「君は本当に」
ライルが。
少し笑う。
「好きだ」
「はい」
「アマリリア」
「はい」
「好きだ」
今度は。
アマリリアも。
笑った。
◇◇◇
白い巨樹の光が落ち着いた頃。
月守は。
三人の前に立っていた。
先ほどまでより。
姿が薄い。
「月守?」
『役目が』
「終わるのですか?」
『違う』
『変わる』
「どう変わる?」
国王が聞く。
『守りは』
『一つの者へ集めない』
月守の視線。
アマリリア。
ライル。
国王。
『森』
『人』
『王』
『月の血』
『全てで守る』
「新しい契約?」
『本来の形』
国王が頷く。
「それで、この国は」
『すぐには変わらない』
「結界は?」
『残る』
アルベルトの肩から。
少しだけ力が抜ける。
「よかった」
『ただし』
「まだあるのか」
国王の顔が引きつる。
『王は』
『帰って説明しろ』
「……」
『八百年分』
「一番厳しい条件だな」
『当然』
アマリリアは思わず笑った。
ライルも。
国王がこちらを見る。
「笑うな」
「申し訳ございません」
「顔が笑っている」
「気のせいですわ」
「息子と同じことを言うな」
「似てきたのでしょうか」
「やめてくれ」
「なぜです?」
「これ以上、君のようになったら困る」
「父上!」
ライルの声。
いつもの。
その空気。
アマリリアは。
胸の奥で。
大きく息を吐いた。
生きている。
ライルも。
自分も。
国王も。
「帰れますのね」
月守を見る。
『帰れる』
「本当に?」
『疑い深い』
「慎重なのです」
『エレナと同じ』
「お母様も?」
『何度も聞いた』
アマリリアは少し笑う。
「やはり親子ですわね」
『そう』
月守の姿が。
少しずつ。
光へ変わる。
『娘』
「はい」
『また来い』
「よろしいのです?」
『森は』
『閉じない』
「これからは?」
『正しく名を返せば』
アマリリアは。
首飾りへ触れる。
「月の民の名」
『ルーナ』
「ルーナ」
口にする。
森。
揺れる。
木々。
白い花。
光。
『この土地の古い名』
月守が。
言葉を紡ぐ。
『ルナティア』
国王。
ライル。
アマリリア。
三人。
聞く。
「ルナティア」
『忘れるな』
「はい」
『そして』
月守が。
ライルを見る。
『王の子』
「俺?」
『娘を泣かせるな』
「なっ」
ライルが固まる。
アマリリアの眉が上がる。
「まあ」
「待て」
『泣かせたら』
「何です?」
『森へ返せ』
「駄目です!」
ライルが即答した。
月守。
笑った。
『なら』
『大切に』
「もちろんです!」
また即答。
アマリリアが。
じっと。
ライルを見る。
「殿下」
「何だ」
「今の」
「何だ」
「とても嬉しかったです」
「……」
「顔が赤いですわ」
「君もだ!」
月守の笑い声。
国王の笑い。
森。
新月。
八百年続いた契約。
完全に終わったわけではない。
王家はこれから。
歴史を正す。
土地の権利を見直す。
ルーナの名を戻す。
消された記録を探す。
そして。
ライルとアマリリアも。
これから。
本当の婚約を始める。
偽装ではない。
取引でも。
脅しでも。
契約でもない。
自分たちで。
選んだ。
婚約。
「殿下」
「何だ」
「最初に申し上げたことを覚えております?」
「色々言われすぎて分からない」
「事が済んだら婚約破棄してください、と」
「……ああ」
ライルの顔が変わる。
アマリリアは。
とびきりの笑顔を向けた。
「撤回いたしますわ」
「……」
「婚約破棄は」
一歩。
近づく。
「していただかなくて結構です」
ライルが。
数秒。
固まる。
「本当に?」
「何度聞くのです?」
「君は急に考えを変えるから」
「失礼ですわね」
「父上を一日で当主から降ろした」
「必要でした」
「俺を脅して婚約しろと言った」
「必要でした」
「今度は本気で婚約する?」
「必要だからではありません」
「では?」
アマリリアは。
もう。
迷わない。
「貴方と一緒にいたいからです」
ライルは。
また。
顔を赤くした。
「君は」
「はい?」
「やっぱり反則だ」
「何がです?」
「その言い方」
「本心ですもの」
「だからだ!」
ライルの声が。
月のない森へ響く。
アマリリアは笑う。
国王も。
月守も。
そして。
白い巨樹の花まで。
風に揺れて。
笑っているように見えた。
新月の夜。
八百年以上続いた《月の花嫁》という偽りの契約は。
ここで。
ようやく終わりを迎えた。
そして同じ夜。
婚約を押し付けられたために第一王子を脅した一人の伯爵令嬢と。
そんな令嬢へ振り回され続けた第一王子の。
偽りではない婚約が。
静かに。
始まったのだった。




