第8話 新月前日、王家が最後まで隠していた条件を知りました
新月まで、あと一日。
その朝、アマリリアは目覚めるより先に、首元の熱で意識を引き戻された。
「……ん」
薄い天蓋越しに朝の光が差し込み、自室の天井を淡く照らしている。窓の外では鳥が鳴き、廊下の向こうからは使用人たちが朝の仕事を始める足音が微かに聞こえていた。
いつもと変わらない、ベスター伯爵家の朝。
けれど、アマリリアの胸元にある首飾りだけは、明らかに昨日までとは違っていた。
三日月の中央に嵌め込まれた乳白色の石。
そこに、新たな文字が浮かび上がっている。
『新月まで、一日』
その下。
『月の娘よ、選ぶ準備を』
アマリリアは寝台の中でしばらく文章を見つめた。
「選ぶ準備、ですか」
何を選ぶのか。
母エレナの日記には書かれていた。
『月の娘として生きるか、人として生きるか』
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
月の娘として生きる。
人として生きる。
文字だけを見れば、二つは両立しないようにも思える。
自分が月の民の血を引いていることは、ほぼ間違いない。
母エレナは北の森から現れた。
月守に関する文字を読み、月の民の力を使い、死の前には森へ戻ろうとしていた。
そして、その母から生まれたアマリリアは、王家より古い封印に認証されている。
考えれば考えるほど、普通の伯爵令嬢から遠ざかっていく。
「困りましたわね」
アマリリアは仰向けのまま、額へ片手を乗せた。
少し前までの悩みはもっと単純だった。
父が勝手に決めたカルロスとの婚約。
どう潰すか。
それだけだった。
だから、第一王子を脅した。
王家との婚約を成立させれば、公爵家も引き下がるだろうと考えた。
そして事が済めば婚約破棄。
自分は自由になる。
完璧な計画だった。
少なくとも本人はそう思っていた。
なのに今は。
ライルの命。
王家の罪。
月守。
母の正体。
自分自身の出自。
そして新月の森。
「……まったく」
アマリリアは目を閉じた。
その暗闇の中へ、昨日のライルの姿が浮かぶ。
地下封印区画。
《名を失った者》の前。
自分へ手を差し出した彼。
『頼む』
あのとき。
なぜか胸の奥が熱くなった。
最初はただ、カルロスから逃げるための手段だったはずなのに。
今は違う。
ライルを助けたい。
理由をつける必要もないほど、自然にそう思っている。
それが恋なのかと聞かれれば。
「……まだ分かりませんわ」
独り言が部屋へ落ちる。
そのとき。
コンコン。
扉が二度叩かれた。
「お嬢様」
ゼインの声。
「どうぞ」
返事をすると、扉が開いた。
今日のゼインは黒装束ではなく、旅装を整えている。
濃い灰色の外套。
腰には短剣。
背には小型の弓。
新月当日、彼らは森の外側まで同行する予定だ。
「お目覚めでしたか」
「今しがた」
「失礼いたしました」
「問題ございません。それより、準備は?」
「ほぼ完了しております」
ゼインは一枚の紙を差し出した。
「北の森外縁部に設ける臨時拠点。王宮側の近衛二十名、魔術師六名、治癒術師四名。ベスター家側から我々五名。さらにアレク様を含む騎士三名が同行予定です」
「多いですわね」
「国王陛下まで入られるのですから当然かと」
「王が危険な森へ行くのですものね」
「はい」
「お父様は?」
ゼインの表情が僅かに固まる。
「朝から訓練場を三周なさいました」
「それだけ?」
「その後、動けなくなりました」
「……」
「現在は治癒術師が脚を揉んでおります」
アマリリアはゆっくり目を閉じた。
「森の入口までで、本当によかったですわ」
「私もそう思います」
「本人は?」
「『まだやれる』と」
「やれませんわね」
「はい」
ゼインが即答した。
アマリリアは起き上がる。
寝台から足を下ろし、首飾りへもう一度視線を向ける。
「新しい文字が出ました」
「何と?」
「『月の娘よ、選ぶ準備を』」
ゼインの表情が変わる。
「選ぶ?」
「何を、までは書いてありません」
「お嬢様」
「分かっています」
アマリリアは微笑んだ。
「無茶はいたしません」
「昨日、地下封印区画で八百年以上生きている存在へ説教した方のお言葉としては、少々不安が」
「ゼイン」
「失礼いたしました」
「ただ」
アマリリアは窓の外を見る。
「何かを失わなければならない選択なら、少し困りますわね」
「月の娘としての力と、人としての人生」
「母の日記通りなら、そうなる可能性があります」
「もし、月の娘として生きることを選べば?」
「分かりません」
「森へ残ることになる可能性も?」
アマリリアは答えなかった。
それが一番考えたくない可能性だった。
自分が月守の側へ戻る。
森から出られなくなる。
母エレナが最後に森へ戻ろうとしていたことを考えれば、十分にあり得る。
「お嬢様」
「何です?」
「ライル殿下には?」
「まだお話ししておりません」
「なぜ」
「殿下は、私が森に残る可能性を知れば止めます」
「当然でしょう」
「そして自分だけで行こうとするでしょう」
「……否定できません」
「でしょう?」
アマリリアは笑う。
「ですから、まだ言いません」
「それは隠し事では?」
その言葉に、アマリリアの表情が止まった。
ライルと約束した。
今回の件に関して、隠し事をしない。
自分から求めた約束だった。
「……そうでしたわね」
「お嬢様?」
「私から言い出したことを、私が破るのは美しくありません」
「では」
「殿下が来たら話します」
ゼインが安心したように頭を下げた。
「それがよろしいかと」
「ですが」
「はい」
「止められても行きます」
「そこは変わらないのですね」
「もちろんですわ」
「存じております」
ゼインの声には、すっかり諦めが混じっていた。
◇◇◇
朝食を終えて間もなく。
予想通り、ライルが来た。
もはや門番も驚かなくなったらしい。
王家の馬車が門へ近づいた時点で扉は開かれ、使用人たちも慣れた様子で玄関へ整列している。
第一王子が三日連続で伯爵家へ来る。
普通なら、それだけで大事件だ。
しかしベスター家では、既に日常へなりつつあった。
「ごきげんよう、殿下」
「おはよう」
馬車から降りたライルは、昨日より少し疲れた顔をしていた。
「お休みになれました?」
「少しは」
「嘘ですわね」
「なぜ分かる」
「目の下に薄く影がございます」
アマリリアは彼の顔へ少し近づいた。
ライルが反射的に後ろへ身体を引く。
「近い!」
「確認していただけです」
「その距離で確認する必要はない!」
「本当に女性に慣れておりませんのね」
「今それを言うか?」
「いつならよろしいのです?」
「言わなくていい!」
背後でディーンがため息をついた。
「殿下は昨夜、ほとんど封印記録を読まれていました」
「ディーン!」
「事実です」
アマリリアの眉が寄る。
「殿下」
「何だ」
「無理はなさらないでくださいませ」
「君に言われたくない」
「私はよく眠りました」
「それは腹が立つな」
「なぜです?」
「俺が君のことまで考えて眠れなかったのに」
ライルはそこまで言って、止まった。
アマリリアも止まった。
ディーンがゆっくり視線を逸らす。
玄関前の使用人たちが、一斉に聞いていないふりをした。
「……今の」
「違う!」
「まだ何も言っておりませんわ」
「どうせ変な意味に取るだろう!」
「変な意味とは?」
「だから!」
ライルの顔が赤くなる。
アマリリアは少し考えた。
「私の身を案じて、夜も眠れなかったと?」
「契約のことを考えていたんだ!」
「私のことも?」
「……少しは」
小さな声。
アマリリアの胸が、また変な動きをする。
「殿下」
「何だ」
「プラス五点ですわ」
「五点も!?」
「過去最高です」
「基準が分からない!」
「教えません」
「そもそも何点満点なんだ!」
「秘密です」
ライルは頭を抱えた。
「本当に調子が狂う……」
けれど。
その声は少し笑っていた。
◇◇◇
応接室へ移動したあと。
アマリリアは、朝に首飾りへ現れた文字について話した。
「選ぶ準備?」
ライルの表情が一瞬で真剣になる。
「はい」
「なぜ最初に言わなかった」
「今、殿下がいらしたばかりです」
「玄関で言えただろう」
「使用人の皆様の前で?」
「……それは困るな」
「でしょう?」
「だが」
ライルはテーブルを挟んで向かいに座ったアマリリアをじっと見る。
「何を選ばされると思っている」
「恐らく、母の日記にあったものです」
「月の娘として生きるか、人として生きるか」
「はい」
「月の娘を選ぶと、どうなる?」
「分かりません」
「森から出られなくなる可能性は?」
アマリリアは黙った。
ライルの目が険しくなる。
「考えていたな」
「可能性としては」
「いつから」
「母の日記を読んだときから」
「なぜ言わなかった」
「殿下が止めると思ったからです」
「当たり前だ!」
ライルが立ち上がった。
声が応接室へ響く。
「君まで消える可能性があるなら、行かせられるわけがないだろう!」
「殿下」
「何だ!」
「座ってくださいませ」
「今は――」
「私は逃げません」
アマリリアは静かに言った。
ライルの言葉が止まる。
「森へ行きます」
「だから、それを止めている」
「そして戻ります」
「根拠は?」
「ありません」
「なら!」
「でも」
アマリリアは立ち上がった。
テーブルを回り、ライルの正面へ立つ。
「殿下も根拠なく、生きたいと仰ったではありませんか」
「それとこれは違う」
「同じです」
「違う!」
「では、何が違うのです?」
ライルは答えに詰まった。
「殿下はご自分が死ぬ可能性があっても、契約を確かめに行く」
「俺の問題だからだ」
「もう私の問題でもあります」
「なぜ」
「私が月の娘だから」
「それだけか?」
ライルの声が低くなる。
アマリリアは彼の目を見る。
逃げられない。
「それだけではありません」
「では?」
沈黙。
口にするのが、少し怖かった。
父に聞かれたときは誤魔化した。
自分でも、まだ名前をつけたくなかった。
でも。
「殿下を一人で行かせたくないのです」
ライルの目が僅かに見開かれる。
「私が行けば、助けられる可能性があります」
「君が犠牲になる可能性もある」
「では、一緒に帰ればよいでしょう?」
「簡単に言うな」
「難しく言えば――」
「時間は増えない。分かってる」
ライルは苦笑した。
そして。
「ずるいな、君は」
「何がです?」
「俺がいつも言い返せなくなるところを選ぶ」
「意識しておりませんわ」
「余計に悪い」
ライルはゆっくり息を吐いた。
「分かった」
「では」
「ただし条件がある」
「またです?」
「君が何かを選ばなければならない場面になったら、勝手に決めるな」
アマリリアは瞬きをする。
「俺にも話せ」
「殿下に?」
「そうだ」
「私の人生ですのよ?」
「知っている」
「なら」
「俺の命も、俺の人生だった」
アマリリアが止まる。
「君はそこへ勝手に入ってきた」
「……確かに」
「だったら俺にも入らせろ」
その言葉。
妙に胸へ響いた。
「それは」
「ああ」
ライルが少し気まずそうに視線を逸らす。
「言い方が変だったのは分かっている」
「いえ」
「忘れろ」
「嫌ですわ」
「即答するな!」
「とても気に入りましたもの」
「やっぱり忘れろ!」
アマリリアは笑った。
でも。
「分かりました」
今度は真面目に答える。
「何かを選ぶときは、殿下にもお話しします」
「ああ」
「その代わり」
「何だ?」
「殿下も勝手に自己犠牲なさらないでください」
「……分かった」
「約束ですわね」
「ああ」
二人は右手を出す。
握手。
数日前、屋上で交わしたものと同じ。
でも、今は違う。
あのときは取引だった。
今は。
お互いを生きて帰すための約束だった。
◇◇◇
その日の午後。
王宮から、緊急の伝令が届いた。
内容は短い。
『北の森へ入る前に、王家の契約原本を確認せよ』
国王からの指示。
ライルとアマリリアはすぐに王宮へ向かった。
新月前日。
王都上空には薄い雲が広がり、太陽の光も少し弱い。
まるで明日の夜を先取りするように、街全体がどこか静かに感じられた。
王宮へ着くと。
待っていたのは国王アルベルト。
王妃セレーネ。
封印管理官オズワルド。
そして。
見知らぬ男だった。
年齢は六十ほど。
痩せた身体。
青みがかった灰色の長衣。
胸元には王家直属魔術師を示す金の徽章がある。
「この者は?」
ライルが尋ねる。
国王が答える。
「王家契約術師長、バルガスだ」
男は深く頭を下げた。
「ライル殿下。ベスター令嬢」
「契約術師長?」
アマリリアが聞き返す。
「王家に伝わる古い契約を管理する役職です」
「では、《月の花嫁》についても?」
「……はい」
返事が遅い。
アマリリアはすぐに気づいた。
「何か、まだ隠しておられますわね」
男の顔が強張る。
国王が苦い顔をした。
「俺も今日まで知らなかった」
「陛下も?」
「ああ」
ライルの表情も険しくなる。
「父上。何です?」
「バルガス」
「……はい」
契約術師長は手に持っていた古い木箱を机の上へ置いた。
鍵は三重。
それぞれ王家の紋章、神殿の紋章、そして見覚えのある三日月。
バルガスが一つずつ解除する。
最後の三日月だけは開かない。
「ベスター令嬢」
「私ですの?」
「首飾りを」
アマリリアは警戒しながら三日月の首飾りを外す。
木箱へ近づけた。
カチッ。
最後の鍵が開いた。
全員が息を呑む。
箱の中。
入っていたのは、一枚の黒い革。
正確には。
何かの皮に書かれた契約書だった。
「これが原本?」
ライルが近づく。
「はい」
「森の祭壇にあるのではなかったのか」
「そちらは契約を実行するための祭壇です」
「原本は王宮に?」
「代々、契約術師長だけが管理してきました」
ライルの顔から表情が消える。
「なぜ、俺にも父上にも隠した」
「歴代国王からの命令です」
「父上は知らなかったと言った」
「アルベルト陛下より前の代です」
国王の拳が握られる。
「父か」
「はい」
前国王。
既に亡くなっているライルの祖父。
「なぜ、そこまでして隠したのです?」
アマリリアが問う。
バルガスは俯く。
「原本には」
「はい」
「現在王家が伝えている内容とは異なる条件が記されています」
室内の空気が固まった。
「読め」
国王の声。
「今すぐ全部読め」
「陛下」
「命令だ」
バルガスは震える手で黒い契約書を開いた。
古い文字。
途中から王国語訳が添えられている。
「第一条」
男の声が小さく響く。
「《月守の力は王家へ貸与される》」
ライルが眉を寄せる。
「貸与?」
「奪ったのではなく、最初は貸した?」
アマリリアが呟く。
「第二条。《王は月守の民を害してはならない》」
国王の顔が変わる。
「第三条。《月守の名、土地、記憶を侵してはならない》」
沈黙。
地下で聞いた。
名を奪った。
土地を奪った。
歴史から消した。
「全部、破っておりますわね」
「……ああ」
国王の声が低い。
バルガスが続ける。
「第四条。《貸与された力は、王の死とともに月守へ返される》」
ライルが顔を上げる。
「本来は、王が死ねば返る?」
「はい」
「ならなぜ子孫へ残った」
「その次です」
契約術師長の額に汗が浮かぶ。
「第五条。《王が力を血に刻み、子へ継がせた場合、それは契約違反とみなす》」
アマリリアの目が細くなる。
「初代王が、自分の意思で?」
「恐らく」
「力を返したくなかった」
ライルの声。
「だから血統へ固定した」
「はい」
国王が拳を机へ叩きつけた。
鈍い音。
王妃が小さく肩を震わせる。
「続けろ」
「……第六条」
バルガスの声がさらに小さくなる。
「《違反が三代続いた場合、月守は貸与した力を回収する権利を得る》」
「それが七人?」
「恐らく、過去に森へ入った王族は回収対象だったのでしょう」
「そして死んだ」
「はい」
ライルの横顔が硬くなる。
アマリリアは無意識に彼の袖を掴んだ。
ライルが一瞬こちらを見る。
何も言わない。
でも、その手が少しだけ自分の方へ動いた。
「まだございます」
バルガスが言う。
その言葉。
嫌な予感がした。
「第七条。《月守の血を引く者が王家の血と再び結ばれた場合、契約は更新される》」
アマリリアの手が止まる。
「……何ですって?」
ライルも固まる。
国王。
王妃。
全員の視線が二人へ向いた。
「もう一度」
アマリリアが言う。
「《月守の血を引く者が王家の血と再び結ばれた場合、契約は更新される》」
「結ばれる、とは」
ライルの声が少し掠れる。
バルガスが答える。
「婚姻です」
室内。
完全に沈黙した。
「……」
「……」
アマリリアとライルが、ゆっくり互いを見る。
王妃が口元へ手を当てる。
国王は額を押さえた。
オズワルド老人は目を閉じて何か考えている。
「つまり」
アマリリアがゆっくり言葉を選ぶ。
「私が月の民の血を引き」
「俺が王家の血を引く」
ライルが続ける。
「そして俺たちが婚姻すれば」
「古い契約が更新される?」
バルガスは頷いた。
「条件次第では」
「条件?」
まだある。
「第八条」
誰も声を出さない。
「《新たな契約は、双方の自由意思によってのみ成立する》」
アマリリアは息を吐いた。
少し安心する。
強制ではない。
「そして最後」
バルガスが契約書の最下部を見る。
「《どちらか一方でも偽りの意思を持つ場合、契約は成立しない》」
アマリリアの表情が止まる。
「偽りの意思」
「婚姻を契約解除のためだけに利用することはできない、という意味です」
「……」
ライルも何も言わない。
偽装婚約。
まさに自分たちがやろうとしていたことだった。
カルロスとの婚約を逃れるため。
ライルの契約を解くため。
互いの目的のためだけに婚約し。
事が済めば婚約破棄。
その予定だった。
「つまり」
国王が重く言う。
「もし王家と月守の契約を、正式に正常な形へ戻す方法がこれしかないなら」
アマリリアとライルを見る。
「お前たちは、偽りではなく本当に結婚する必要がある」
「……」
ライルの顔が。
ゆっくり赤くなる。
アマリリアも。
なぜか頬が熱い。
「ま、待ってくださいませ」
先に口を開いたのはアマリリアだった。
「私はまだ殿下と出会って五日ほどです」
「分かっている」
ライルも慌てて言う。
「父上。今すぐ結婚しろという話ではないだろう」
「もちろんだ」
「では」
「ただし、新月で契約をどう処理するかによっては、その選択が必要になる可能性がある」
現実が重い。
アマリリアは契約書を見る。
王家と月守。
何百年もの歪み。
正常な契約へ戻す条件。
月守の血。
王家の血。
二人が自由意思で結ばれること。
そして。
偽りでは駄目。
「……」
アマリリアは隣を見る。
ライルも同時にこちらを見た。
目が合う。
二人とも。
すぐに逸らした。
「殿下」
「何だ」
「顔が赤いですわ」
「君もだ!」
「私は暑いだけです」
「さっき俺が同じこと言ったら否定しただろう!」
「今日は少し室温が」
「魔石冷房が効いている!」
「細かい男は嫌われますわ」
「今それを言うか!」
ライルがいつもの調子で叫ぶ。
少し。
本当に少しだけ。
張り詰めていた空気が緩んだ。
王妃が小さく笑う。
「セレーネ」
「ごめんなさい」
「笑い事ではない」
「でも」
王妃は二人を見る。
「悪くないと思ってしまって」
「母上!」
ライルの声が裏返る。
「陛下まで何を」
アマリリアも少し慌てる。
「お二人とも」
「待ってください!」
珍しくアマリリアとライルの声が揃った。
二人は互いを見る。
「真似しないでくださいませ」
「君だろう!」
「私の方が先でした」
「ほぼ同時だ!」
国王が深いため息をついた。
「お前たちは、本当に昨日まで偽装婚約の予定だったのか?」
「「はい」」
また揃った。
今度は王妃がとうとう笑った。
◇◇◇
話し合いが終わった頃には、夕方が近づいていた。
契約原本は、明日の新月に森へ持っていくことになった。
国王。
ライル。
アマリリア。
三人が中心。
森の入口まで、護衛隊とベスター家の者たちが同行する。
そして。
月守の前で。
本当の契約を確認する。
どう修復するのか。
王家に残る力をどう返すのか。
ライルの命を守る方法はあるのか。
そして。
婚姻による新契約が、本当に必要なのか。
それは明日にならなければ分からない。
王宮の廊下を歩きながら。
アマリリアとライルは、珍しく無言だった。
ディーンは少し離れて後ろを歩いている。
「……殿下」
「何だ」
「先ほどの契約」
「ああ」
「どう思われました?」
「どう、と言われても」
「私との結婚です」
ライルが躓きかけた。
「いきなり言うな!」
「ですが、先ほど話題になったでしょう?」
「だからといって廊下の真ん中で言うことか?」
「誰もおりませんわ」
「ディーンがいる!」
「私は聞いておりません」
後ろから即答。
「嘘をつけ!」
「護衛には必要な技能です」
ライルが額を押さえる。
「それで?」
今度はライルから聞いた。
「君はどうなんだ」
「私?」
「ああ」
「殿下との結婚?」
「そうだ」
アマリリアは少し考える。
数日前なら。
簡単に答えられた。
嫌ではない。
むしろ王子という立場も利用できる。
終われば別れればいい。
でも。
今は。
偽りでは成立しない。
本当に。
自由意思で。
ライルと結婚したいと思えるか。
「……分かりませんわ」
正直に答えた。
ライルは少し驚いたようだった。
「君がそんな答えをするとは思わなかった」
「私にも分からないことくらいございます」
「例えば?」
「恋愛です」
ライルが黙る。
「結婚は、家と家の話だと思っておりました」
アマリリアは歩きながら言う。
「父から来た縁談は全て、相手の条件しか見ておりませんでした。嫌なら潰す。それだけです」
「潰す、という表現が物騒だ」
「ですが、殿下は違います」
ライルがこちらを見る。
「困った顔を見ると楽しいです」
「そこからか」
「慌てる顔も好きです」
「嬉しくない」
「でも」
アマリリアは少し笑う。
「殿下が普通に笑うと、もっと好きです」
ライルが止まった。
アマリリアも数歩進んでから振り返る。
「殿下?」
「……」
「どうされました?」
「君は」
ライルの顔が赤い。
「それを無自覚で言っているのか?」
「何がです?」
「もういい!」
ライルは先に歩き出した。
「待ってくださいませ」
「来るな!」
「一緒の馬車でしょう?」
「少し距離を空けろ!」
「なぜです?」
「心臓に悪い!」
「殿下、体調が?」
「君のせいだ!」
アマリリアは首を傾げた。
ディーンが後ろで、静かに天井を仰いだ。
◇◇◇
その夜。
ベスター伯爵家では、明日の出発へ向けて最後の準備が行われていた。
武器。
保存食。
治療薬。
魔力回復薬。
防寒具。
縄。
照明用魔石。
結界杭。
王家の契約原本。
母エレナの日記。
月の首飾り。
全て確認。
アマリリアは自室の机で一覧を見ながら、一つずつ印をつけていく。
コンコン。
「入りなさい」
扉が開く。
アレクだった。
「まだ起きていたのか」
「兄様こそ」
「明日の装備確認だ」
アレクは向かいの椅子へ座る。
しばらく何も言わなかった。
「何です?」
「怖くないのか」
「森が?」
「全部だ」
アマリリアは筆を止める。
「怖いですわ」
アレクが少し驚いた。
「お前が?」
「私にも怖いものくらいございます」
「ライル殿下が消えること?」
「……誰から聞きました?」
「王宮で言ったらしいな」
「噂の回り方が早すぎますわ」
「父上が聞いた」
「お父様」
「今ものすごく複雑な顔で酒を飲んでいる」
「なぜ?」
「娘が王子に持っていかれる、と」
「まだ何も決まっておりませんわ」
「本人に言ってやれ」
「今夜はやめておきます」
「そうしてくれ」
アレクは笑った。
その後。
少し真面目な顔になる。
「リリア」
「はい」
「帰ってこいよ」
短い言葉。
アマリリアの指が止まる。
「当たり前ですわ」
「お前の『当たり前』は信用できない」
「酷いですわね」
「森に残る選択肢が出たら?」
アマリリアは答えなかった。
「ライル殿下のためなら、残るとか言い出しそうで怖い」
「……」
「否定しろ」
「まだ何も分かりません」
「リリア」
「ですが」
アマリリアは兄を見る。
「勝手には決めないと、殿下と約束しました」
「殿下と?」
「はい」
「なら」
アレクは少し安心したように息を吐いた。
「その約束は守れ」
「もちろんです」
「それから」
「何です?」
「もし結婚することになっても」
アマリリアの眉が上がる。
「兄様まで?」
「仮の話だ!」
「はいはい」
「……幸せなら、俺は反対しない」
アマリリアは何も言えなかった。
アレクはそれ以上話さず、立ち上がる。
「寝ろよ」
「兄様も」
「ああ」
扉が閉まる。
一人。
アマリリアは机へ向き直る。
明日。
新月。
北の森。
月守。
王家の罪。
自分の選択。
そして。
「結婚、ですか」
静かな部屋で呟く。
ライルの顔を思い出す。
黒髪。
困った顔。
慌てた声。
真剣な目。
自分へ差し出してくれた手。
生きたいと言った声。
アマリリアは首飾りへ触れる。
「……悪くは、ありませんわね」
言ったあと。
自分で頬が熱くなる。
「何を考えているのですか、私は」
誰もいない。
それなのに。
なぜか恥ずかしい。
アマリリアは寝台へ向かった。
明日に備えなければならない。
その夜。
北の森では。
白い巨樹に生まれた銀色の蕾が。
一つ。
二つ。
三つ。
ゆっくりと増えていた。
そして王宮の地下。
結晶の中で眠る《名を失った者》が目を開く。
『新月』
銀色の瞳。
『ようやく』
その声は。
期待とも。
恐怖とも。
判断できないほど弱かった。
『終われる』
翌日。
王家が八百年以上抱えてきた最初の罪が。
ついに。
北の森で裁かれることになる。




