第7話 最初の罪を知る者は、王宮の地下で眠っていました
新月まで、あと二日。
前日の夜、王宮最奥にある封印書庫で、誰の手も触れていない古い記録がひとりでに開いた。
その頁には、これまで存在しなかった二つの文章が浮かび上がっていた。
『月の娘が王家へ戻ったとき、奪われた名は返される』
そして。
『最初の罪を知る者は、まだ王宮にいる』
その報せがベスター伯爵家へ届いたのは、翌朝のことである。
◇◇◇
「……朝から王宮ですか」
まだ朝食の皿さえ片づけられていない食堂で、アマリリアは届けられた封書を見つめていた。
窓の外には、朝の柔らかな日差しが庭園へ降り注いでいる。
焼きたてのパン。
卵料理。
果物。
香りのよい紅茶。
本来なら優雅な朝食の時間だった。
しかし、王家の紋章が押された封書によって、その予定は完全に崩れた。
「何が書いてある?」
向かい側に座るアレクが尋ねる。
父ハロルドも、パンを千切る手を止めていた。
アマリリアはもう一度文章を読み直す。
「王宮より至急来るように、とのことです」
「殿下からか?」
「国王陛下のお名前ですわ」
その一言で、ハロルドの顔色が変わった。
「国王陛下から直接?」
「正確には、王宮侍従長を通した正式な呼び出しです」
「何かやったのか?」
「昨日、国王陛下とは穏やかにお話しいたしましたわ」
「お前の『穏やか』は信用できん」
「失礼ですわね」
「第一王子へ刃物を突きつけた女の言葉だぞ!」
「その件は何度も反省したと申し上げております」
「反省している奴は、そんな涼しい顔をしない!」
「では、泣けばよろしいのでしょうか」
「やめろ。絶対に嘘泣きだ」
アレクが深いため息をついた。
「父上。朝からリリアと張り合うな」
「俺が張り合っているんじゃない。こいつが!」
「お父様」
「何だ!」
「パンにジャムをつけすぎです」
「今それを言う必要があったか!?」
ハロルドの声が食堂へ響いた。
そのとき、食堂の扉が軽く叩かれる。
「お嬢様」
「入りなさい」
入ってきたのはゼインだった。
今日は黒装束ではなく、屋敷の使用人に紛れられる落ち着いた服装をしている。
「王宮から追加の伝令です」
「また?」
「ライル殿下が、既にこちらへ向かわれているそうです」
アマリリアは瞬きをした。
「迎えに?」
「そのようです」
アレクが呆れたように妹を見る。
「この数日、殿下は毎日来ていないか?」
「偶然ですわ」
「偶然で第一王子が毎朝伯爵家へ来るか」
「仲が深まっている証拠でしょうか」
「偽装婚約の話だったよな?」
「今のところは」
「今のところ?」
アレクの眉が寄る。
ハロルドもパンを置いた。
「リリア」
「何です?」
「お前、本気で殿下を狙っているのか?」
「狙うという表現は少々野蛮ではありません?」
「では、好きなのか?」
アマリリアの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……何を突然」
「昨日から見ていれば分かる」
「何がです?」
「殿下を見る顔が違う」
アマリリアは紅茶のカップを持ち上げた。
「気のせいですわ」
「そうか?」
「ええ」
カップへ口をつける。
しかし、いつもより少しだけ熱く感じた。
好き。
その言葉を、自分とライルの間へ置くのはまだ早い。
二人は出会って数日しか経っていない。
しかも始まりは、アマリリアが彼を脅して婚約を迫ったという、一般的にはかなり問題のあるものだった。
けれど。
ライルが笑えば、少し嬉しい。
困った顔を見るのは楽しい。
自分を心配してくれると、胸が温かくなる。
手を繋いだときは、離したくないと思った。
あの男が死ぬ未来は、嫌だ。
それだけは、はっきりしている。
「リリア?」
「何でもありません」
アマリリアはカップを置いた。
「今は殿下との関係より、王宮の件が先です」
「逃げたな」
「アレク兄様」
「何だ」
「今日から兄様の夕食だけ、野菜を二倍にするよう厨房へ伝えます」
「なぜだ!」
「健康のためです」
「話題を逸らすためだろう!」
「まったく、朝から騒がしいですわね」
「お前が原因だ!」
兄と父の声が重なる。
アマリリアは聞こえないふりをして、残りの紅茶を飲んだ。
◇◇◇
ライルが到着したのは、それから半刻も経たない頃だった。
今日の彼は学園の制服ではなく、王族としての濃紺の正装を纏っている。
肩には金糸の刺繍。
胸元には王家の紋章。
普段より髪も整えられ、どこから見ても第一王子そのものだった。
「ごきげんよう、殿下」
「朝から呼び出してすまない」
「殿下が呼んだのではないでしょう?」
「父上からだ」
「存じております」
「なら、なぜ俺が謝った」
「さあ?」
「君は本当に……」
ライルは言葉を切った。
そしてアマリリアの顔を少しじっと見る。
「何ですの?」
「いや」
「何でしょう」
「今日は普通だなと思って」
「昨日も普通でしたわ」
「昨日は王宮の回廊で俺の手を離さなかった」
「あれは婚約者としての練習です」
「婚約していない」
「候補ですわ」
「便利な言葉だな、それ」
ライルは小さくため息をついた。
その背後には、当然のようにディーンがいる。
しかし昨日までと違い、ディーンがアマリリアへ向ける目には露骨な敵意はない。
模擬戦で敗れたあと、少しだけ認められたらしい。
「ディーン様」
「何でしょう」
「本日は剣を抜かないのですね」
「必要がなければ」
「昨日は随分怖い顔をなさっていましたのに」
「殿下の首に刃物を当てた者を警戒するのは当然です」
「まだおっしゃいます?」
「一生忘れません」
「執念深い方ですわね」
「あなたにだけは言われたくありません」
ライルが二人の間へ入る。
「朝から喧嘩するな」
「私はしておりません」
「私もです」
「息が合ってきたな」
「「それはありません」」
今度はアマリリアとディーンの声が重なった。
ライルが笑う。
その笑顔を見て、アマリリアは少しだけ胸が軽くなった。
「ところで殿下」
「ああ」
「何が起きたのです?」
ライルの表情が変わる。
「馬車で話す」
短い答え。
それだけで、かなり重要な問題であることが分かった。
◇◇◇
王宮へ向かう馬車の中。
今回はライルとアマリリア、そしてディーンの三人だった。
昨日までなら向かい合わせに座っていたが、今日は机代わりになる小さな板が中央へ固定され、その上に一枚の紙が置かれている。
ライルが王宮から持ち出した写しだ。
「昨夜、封印書庫で起きた」
アマリリアは紙へ視線を落とす。
そこには例の文章が書かれていた。
『月の娘が王家へ戻ったとき、奪われた名は返される』
『最初の罪を知る者は、まだ王宮にいる』
「この記録は、どれくらい古いものですの?」
「少なくとも六百年以上前」
「最初の王――建国王の時代より後?」
「書物自体はな。ただ、中身の一部は建国以前の記録を書き写したものだと言われている」
「誰が見つけたのです?」
「見つけたというより、勝手に開いた」
アマリリアが顔を上げる。
「勝手に?」
「ああ」
「封印書庫には昨夜、誰かいたのですか?」
「夜番の王宮魔術師が二名。ただし古書へ触れてはいない」
ディーンが補足する。
「突然書庫内の警戒魔術が反応し、確認したところ、封印棚の一つが開いていたそうです」
「封印棚まで勝手に?」
「はい」
「随分と親切ですわね」
「俺は怖いがな」
ライルが呟く。
「こちらが調べていることを、向こうも把握しているように見える」
「《月守》が?」
「分からない。《月守》なのか、母上の首飾りに残された何かなのか。それとも別の存在なのか」
アマリリアは紙を手に取る。
「最初の罪を知る者は、まだ王宮にいる」
「問題はそこだ」
「建国から何百年も経っておりますわね」
「人間なら生きていない」
「つまり、人ではない」
「可能性が高い」
アマリリアは窓の外を見る。
王都の街並みが後ろへ流れていく。
「王宮には長命種が?」
「公にはいない」
「公には?」
「地下に、古いものがいくつか封じられている」
アマリリアの目が輝いた。
ライルがすぐに警戒する。
「楽しそうな顔をするな」
「そのように見えます?」
「明らかに」
「王宮の地下に何百年も封印されている何か、と聞けば興味も湧きますわ」
「普通の令嬢は怖がる」
「普通ではないと、もう十分ご理解いただいているでしょう?」
「否定できないのが悔しい」
「褒め言葉として受け取ります」
「だから褒めていない」
ディーンは会話へ割って入った。
「殿下。念のため申し上げますが、地下封印区画への立ち入りは、国王陛下の許可があっても危険です」
「知っている」
「ベスター令嬢」
「はい?」
「勝手に何かへ触れないでください」
「私を子どものように扱っていません?」
「一昨日、正体不明の首飾りへ殿下と一緒に触れ、二人とも倒れかけた方へ申し上げております」
「……」
「反論は?」
「ございませんわ」
珍しく素直に引き下がったアマリリアを見て、ライルが笑った。
「君も負けることがあるんだな」
「殿下」
「何だ」
「マイナス一点」
「俺は何も悪くない!」
馬車の中へ、いつもの声が響いた。
けれど。
アマリリアは紙へ視線を戻しながら、胸の奥に小さな不安を感じていた。
新月まで二日。
時間がない。
そして、調べるたびに新しい謎が増える。
母エレナ。
月の娘。
月守。
王家が歪めた契約。
最初の王が奪ったもの。
最初の罪を知る者。
何か大きなものへ近づいている。
その感覚だけは、確かだった。
◇◇◇
王宮へ到着すると、アマリリアたちは前日と同じ私的な応接室へ通された。
そこには既に、国王アルベルトと王妃セレーネが待っている。
さらにもう一人。
見慣れない老人が立っていた。
白い長髪。
腰の曲がった細い身体。
灰色の法衣。
年齢は七十を超えているように見える。
「紹介しよう」
国王が口を開く。
「王宮封印管理官のオズワルドだ」
老人が深く一礼する。
「ベスター伯爵令嬢。お噂はかねがね」
「どのような噂でしょう」
「第一王子殿下へ刃物を向け、婚約を迫ったと」
アマリリアはライルを見る。
「殿下」
「俺ではない」
「ではディーン様?」
「私でもありません」
老人が小さく笑った。
「王宮では既に有名です」
「……早すぎません?」
「王宮の噂は風より速い」
国王が額を押さえた。
「その話は今はよい」
「私もそう思いますわ」
「原因のお前が言うな」
国王からも突っ込まれた。
アマリリアは一度だけ咳払いをする。
「それで、陛下。封印書庫の件について詳しく伺っても?」
「ああ」
オズワルドが前へ出る。
「昨夜、第三封印棚が自動的に開きました」
「封印が破られた?」
「いいえ」
「では?」
「鍵が自ら許可したのです」
アマリリアは眉を寄せる。
「鍵に意思が?」
「王家の古い封印には、血統認証が使われております。通常は国王陛下、または許可を得た王族の魔力が必要です」
「昨夜は誰も?」
「王族は一人も地下におりませんでした」
「では、何へ反応したのです?」
老人の目がアマリリアへ向く。
「あなたです」
「私?」
「正確には、あなたが王宮へ入ったことへ」
アマリリアは黙った。
「昨日、あなたはライル殿下とともにこの王宮へ来られた。帰られたあと、封印書庫の複数の術式が微弱に反応し始めました」
「王家の血に?」
「いいえ」
オズワルドがゆっくり首を振る。
「王家より古い認証です」
部屋の空気が変わった。
国王もライルも、既に聞いていたのだろう。
驚いているのはアマリリアだけではない。
王妃も不安そうに首飾りを見ている。
「王家より古い……」
「この国が建国される以前、現在の王都一帯には別の民がいたとされています」
「月の民?」
アマリリアが言うと、老人の目が見開かれた。
「その名を、どこで?」
「父から聞きました。母がそうであった可能性が高いと」
オズワルドはしばらくアマリリアを見つめる。
「なるほど」
「何かご存じですの?」
「少しだけ」
「お話しいただけます?」
老人は国王を見る。
アルベルトが頷いた。
「オズワルド。全て話してよい」
「陛下」
「時間がない」
「……承知いたしました」
老人は長椅子へ腰を下ろす。
「王国建国以前。この土地には《ルーナ》と呼ばれる民がいた、と古い記録にございます」
「ルーナ」
「月を信仰した民であり、森と王都一帯を守る巨大な結界を維持していた」
「それが《月守》?」
「恐らく」
アマリリアは身を乗り出す。
「ルーナは、どうなったのです?」
「消えました」
「全員?」
「記録上は」
「なぜ?」
「分かりません」
「建国王が関係しているのでは?」
老人は答えなかった。
その沈黙が、肯定に近い。
「オズワルド殿」
ライルが声を低くする。
「俺たちはもう、建国王が何かを奪った可能性を知っている」
「……」
「隠していることがあるなら話してくれ」
老人は目を閉じた。
しばらくして。
「私が知るのは、伝承だけです」
「構わない」
「初代国王アースハルトは、もともとこの土地の王ではありませんでした」
ライルが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「彼は北方から来た将軍です」
「建国史では、この地の諸侯をまとめた英雄と」
「勝者が残した歴史です」
国王アルベルトが苦い顔をする。
恐らく彼も初めて知る話があるのだろう。
「当時、この地を守っていたのがルーナ。彼らには王という概念がなく、《月守》と呼ばれる存在を中心に暮らしていた」
「初代王は侵略した?」
「断定できません。しかし、戦いがあったことだけは確かです」
「そのあとルーナが消えた」
「はい」
「そして王家が結界を使い始めた」
「はい」
アマリリアは母の手紙を思い出す。
『最初の王が、何を奪ったのか』
「結界ですわね」
全員の視線が集まる。
「初代王が奪ったものは、月守の結界」
「可能性はある」
「ですが、母は《何を奪ったのか》と書いております。単なる魔術ではない気がします」
オズワルドが静かに頷く。
「私もそう思います」
「他に?」
「一つだけ」
老人の声が小さくなる。
「王宮地下には、《名を失った者》が眠っております」
アマリリアの背筋へ冷たいものが走った。
「名を失った者」
封印書庫の文章。
『奪われた名は返される』
繋がった。
「それは、人ですか?」
「分かりません」
「またそれですの?」
「六百年以上、誰も会えておりませんから」
「封印されている?」
「はい」
「なぜ?」
「王家の記録では、《国を滅ぼす災厄》と」
ライルが口を開く。
「六百年前に封印された存在が、建国時の罪を知っているのか?」
「封印されたのが六百年前なだけで、それ以前からいたとされています」
「何歳なんですの」
「少なくとも八百年以上」
「人ではありませんわね」
「恐らく」
ディーンが警戒する。
「そのような存在へ、殿下とベスター令嬢を会わせるのですか?」
「それを決めるために呼んだ」
国王が口を開く。
「昨夜、古書が示した《最初の罪を知る者》が誰なのか。候補は一つしかない」
「地下の《名を失った者》」
アマリリアが言う。
「ああ」
「会います」
「即答するな」
ライルが横から止める。
「ですが他に手掛かりがございません」
「危険性を確認してからだ」
「確認できる方がいないのでしょう?」
「そうだが」
「なら、会うしかありませんわ」
ライルは額を押さえた。
「君は本当に怖いものがないのか」
「ございます」
「何だ?」
アマリリアはライルを見る。
「殿下が満月の夜に消えることです」
ライルが固まった。
言ってから、アマリリア自身も少し驚いた。
部屋が静かになる。
国王が息子を見る。
王妃は何かを察したように目元を柔らかくした。
ディーンは視線を逸らす。
オズワルド老人だけが、面白そうに二人を見ていた。
「な、何を……」
ライルの耳が赤い。
「事実ですわ」
「ここで言う必要があったか?」
「怖いものを聞かれましたので」
「もっと他にあるだろう!」
「例えば?」
「……知らない!」
「でしたら、こちらでよろしいでしょう」
「よくない!」
国王が咳払いした。
「二人とも」
「失礼いたしました」
「すみません、父上」
「仲が良いのは結構だが、今は話を進めるぞ」
「仲がよいわけでは――」
「私はよいと思いますわ」
「アマリリア!」
またライルの声が響く。
王妃がとうとう小さく笑った。
◇◇◇
地下封印区画へ降りることになったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
同行を許されたのは五人。
国王アルベルト。
ライル。
アマリリア。
ディーン。
そして封印管理官オズワルド。
王妃は地上に残る。
国王本人が行く必要はないのではとアマリリアは思ったが、彼は首を横に振った。
「王家の罪が関係しているなら、俺が行く」
それ以上、誰も止めなかった。
王宮中央棟の奥。
壁一面に王家の歴史画が飾られた回廊を抜け、普段は物置として使われている小部屋へ入る。
オズワルドが棚の裏にある紋章へ手を触れた。
魔力が流れる。
石壁が音もなく横へずれた。
その奥に、地下へ続く階段が現れる。
「随分と分かりやすい隠し入口ですわね」
「普通は棚が動きません」
ディーンに真顔で返された。
「それもそうですわね」
階段は深い。
壁には青白い魔石灯が一定間隔で埋め込まれている。
十段。
二十段。
五十段。
地上の音は完全に消えた。
空気も冷たくなっていく。
途中に鉄扉が三枚。
そのたび国王の魔力と、オズワルドが持つ鍵が必要だった。
「侵入されたことは?」
アマリリアが尋ねる。
「私が管理官になってからは一度も」
「それ以前は?」
「記録にございません」
「なら、ありますわね」
「なぜそうなる」
ライルが呆れたように言う。
「『記録にない』は『なかった』ではございませんもの」
「それは正しいが」
「褒めました?」
「いや」
「残念です」
アマリリアは歩きながら周囲を見る。
壁にはところどころ古い文字が刻まれている。
王国語ではない。
母の日記と同じ、月の民の文字にも見える。
「オズワルド様」
「何でしょう」
「壁の文字は?」
「読めません」
「また?」
「申し訳ございません」
「いえ、謝られることでは」
アマリリアは近づこうとした。
「触るな」
ライルに腕を掴まれる。
「まだ触れておりませんわ」
「触ろうとしただろう」
「少しだけ」
「ディーンの忠告を忘れたのか」
「忘れておりません」
「なら近づくな」
腕を掴まれたまま、アマリリアはライルを見る。
「殿下」
「何だ」
「随分と過保護になりましたわね」
「君が無警戒すぎるだけだ」
「少し嬉しいです」
「今はそういう話ではない!」
「声が響きますわよ」
「誰のせいだ!」
地下回廊に声が反響する。
国王が前を歩きながら、肩を揺らした。
息子のこんな姿を見たことがないのだろう。
少し楽しんでいる。
やがて。
長い階段が終わった。
広い石造りの空間。
中央には、巨大な扉があった。
高さは五メートル以上。
黒い石。
表面には無数の鎖を模した彫刻。
そして扉の中央。
三日月の紋章。
アマリリアの首飾りと同じだった。
「……」
全員が止まる。
「これが?」
「《名を失った者》が眠る封印室です」
オズワルドの声が小さい。
「この扉は、歴代の封印管理官も開けられなかった?」
「はい」
「国王でも?」
アルベルトが答える。
「俺も若い頃に一度試した。反応すらなかった」
アマリリアは扉を見つめる。
胸元。
首飾りが、ゆっくり温かくなり始めている。
「殿下」
「俺も分かる」
ライルも自分の胸元へ手を置いていた。
王族の魔力が反応しているのか、周囲の空気が僅かに震えている。
「アマリリア」
「はい」
「俺から離れるな」
「まあ」
「冗談ではない」
「分かっております」
珍しく素直に頷く。
ライルが僅かに驚いた。
「何ですの?」
「いや。今日は素直だと思って」
「私も危険な場所では慎重になります」
「屋上で俺を脅した女と同一人物とは思えない」
「殿下」
「悪かった」
減点される前に謝った。
成長している。
アマリリアは密かにプラス一点を加える。
オズワルドが扉へ近づく。
「本来であれば、ここから先へ進む方法はございません」
「ではどうする?」
「分かりません」
「……」
全員が老人を見る。
「昨夜の古書が、ここへ来れば何か起きると」
「随分と他力本願ですわね」
「面目ございません」
アマリリアは扉へ視線を戻す。
三日月。
月の文字。
月の娘。
名を失った者。
「試してみます」
「何を?」
ライルが警戒する。
「首飾りです」
「待て」
「触れません」
アマリリアは首飾りを外す。
ライルの方へ手を出す。
「殿下も」
「俺も?」
「二人で反応する可能性があります」
「……」
「嫌でしたら私一人で」
「そういう言い方をするな」
ライルが彼女の隣へ立つ。
「一緒にやる」
「ありがとうございます」
アマリリアは首飾りを両手で持つ。
ライルがその上から手を重ねた。
触れた指。
少しだけ心臓が跳ねる。
今はそれどころではない。
そう思うのに、どうしても意識してしまう。
「アマリリア」
「何でしょう」
「集中しろ」
「分かっております」
「今、俺の手を見ていただろう」
「見ておりません」
「見ていた」
「殿下こそ私の顔を見ております」
「君が見ていたからだ!」
「はいはい」
「適当に流すな!」
緊張感が少し薄れる。
ディーンが後ろで深いため息をついた。
「始めますわよ」
「ああ」
二人で首飾りを、扉の三日月へ近づける。
あと少し。
触れる。
瞬間。
ドンッ――。
低い音が地下全体へ響いた。
首飾りが銀色に輝く。
扉の三日月も同じ光を放つ。
壁に刻まれていた文字が、一斉に点灯した。
「離れろ!」
ディーンが叫ぶ。
しかし。
「大丈夫です!」
アマリリアは動かなかった。
痛みはない。
むしろ。
懐かしい。
昨夜首飾りが反応したときと同じ感覚。
母に抱かれているような。
遠い記憶。
扉の向こうから。
音がした。
カチ。
一つ。
カチ。
二つ。
巨大な何かが外れていく。
黒い扉に刻まれた鎖の紋様が、一つずつ消えていく。
そして最後に。
中央の三日月が真っ二つに割れた。
重い扉がゆっくり開く。
冷たい空気。
暗闇。
その奥に。
一人の人影があった。
「……人?」
ライルが呟く。
広い石室。
中央には透明な結晶。
高さ三メートルほど。
その中に、人が閉じ込められている。
細い身体。
長い銀髪。
白い衣服。
見た目は十代後半から二十歳ほどの青年だった。
男性。
目を閉じ。
両腕を胸の前で交差させている。
そして額には。
三日月の紋章。
「これが《名を失った者》……」
国王の声が震える。
オズワルドも息を呑んでいる。
「伝承では化け物のように書かれていた」
「普通の青年に見えますわ」
「普通ではない」
ライルが言う。
「魔力が……分からない」
「分からない?」
「感じないんじゃない。大きすぎて、どこまでがこの男の魔力なのか判断できない」
アマリリアも集中する。
確かに。
石室全体。
床。
壁。
空気。
全てが同じ魔力で満ちているように感じる。
「この地下自体が……」
「この人の力で維持されている?」
二人の言葉が繋がった。
その瞬間。
結晶の中の青年の目が開いた。
「っ!」
全員が身構える。
銀色の瞳。
その目が。
真っ直ぐアマリリアを見る。
『……エレナ?』
声。
耳ではない。
頭の中へ直接響いた。
アマリリアは息を呑む。
「お母様をご存じなのですか?」
青年の眉が僅かに動く。
『違う』
「私はアマリリア・ベスターです。エレナの娘です」
『娘……』
銀色の瞳が細くなる。
次に。
ライルを見る。
『アースハルト』
その声に。
初めて明確な敵意が混じった。
ライルの身体が僅かに硬くなる。
ディーンが前へ出ようとする。
「待って」
アマリリアが止めた。
青年はライルを見つめ続ける。
『また、奪いに来たのか』
「違う」
ライルは即答した。
『王の血』
「そうだ」
『嘘つきの血』
ライルは黙る。
国王の顔が険しくなる。
『契約を盗み』
『名を奪い』
『我らを殺し』
『そして今度は、娘まで』
アマリリアの胸元の首飾りが光った。
『返せ』
青年の声が強くなる。
石室全体が揺れた。
「何をです!」
アマリリアが叫ぶ。
『奪ったものを』
「それが何か分からないから、ここへ来たのです!」
青年の目が彼女へ戻る。
「お母様の手紙には、最初の王が何を奪ったのかを知れとありました」
『エレナが?』
「はい」
アマリリアは首飾りを握る。
「そして、王家の古書には《最初の罪を知る者は王宮にいる》と」
沈黙。
結晶の表面へ、小さな亀裂が入った。
ディーンが剣へ手を伸ばす。
「抜かないでください!」
「しかし!」
「敵意を向ければ、余計に危険です!」
ライルもディーンへ片手を上げる。
「下がれ」
「殿下」
「今は話す」
ディーンは苦しそうに一歩下がった。
青年がそれを見る。
『昔と違う』
「何が?」
ライルが問う。
『アースハルトは、話を聞かなかった』
「初代王のことか?」
『……』
「俺は初代王ではない」
『血は同じ』
「それでも、俺は俺だ」
ライルの声は静かだった。
「俺は、あなたたちに何が起きたのか知りたい」
『なぜ』
「死にたくないからだ」
国王が息を呑む。
青年も僅かに目を見開いた。
「俺は《月の花嫁》へ捧げられる契約になっている」
『花嫁』
青年の顔に。
初めて、明確な怒りが浮かんだ。
『その名を使うな』
石室が大きく揺れる。
天井から細かな石屑が落ちる。
「分かった!」
ライルは声を張る。
「使わない!」
揺れが少し収まる。
「俺も、それが偽りの名だと知ったばかりだ」
『……』
「俺たちは本当の契約を知りたい」
ライルはアマリリアを見る。
「そして、正したい」
アマリリアも頷く。
「私の母は《月守》へ会えと言いました」
青年の目が動く。
「あなたが《月守》ですか?」
長い沈黙。
『違う』
「では?」
『私は――』
そこで。
青年の表情が歪んだ。
『……名が、ない』
悲しそうな声。
アマリリアの胸が締めつけられた。
『奪われた』
「誰に?」
青年の銀の目が。
国王アルベルトへ向いた。
『最初の王に』
誰も言葉を出せない。
『我らの王の名』
『我らの土地の名』
『我らの守りの名』
『全て』
一つずつ。
ゆっくりと。
『アースハルトは奪った』
アマリリアは母の言葉を思い出す。
最初の王が何を奪ったのか。
一つではなかった。
「あなたの、本当のお名前は?」
『分からない』
「思い出せない?」
『奪われたから』
「名を奪うとは、どういうことです?」
『契約魔術』
青年の声が弱くなる。
『名を奪えば、存在を縛れる』
『歴史から消せる』
『記憶から消せる』
『我らは、ルーナではなくなった』
「……」
オズワルド老人が震えている。
「それで歴史にほとんど残っていない……」
『七人』
青年がライルを見る。
『王の子を、七人送ってきた』
「過去の契約者たち」
『違う』
「何が?」
『生贄ではない』
ライルの目が見開かれる。
『返却だ』
アマリリアの背筋が震えた。
「返却?」
『最初の王が奪ったものを返すため』
「人を?」
『王の血に、我らの力を混ぜた』
「何ですって?」
国王が初めて声を荒らげた。
青年は彼を見る。
『アースハルトは月守を殺せなかった』
『だから、力を奪った』
『自らの血へ封じた』
アマリリアはライルを見る。
五歳の魔力暴走。
王家でも異常に強い魔力。
最も濃い血。
「殿下の魔力は……」
『月守の欠片』
「だから契約が殿下を求める?」
『戻すため』
ライルが顔を強張らせる。
「俺が森へ行けば、どうなる」
『力が返る』
「俺は?」
青年は答えなかった。
それだけで。
十分だった。
「死ぬのですね」
アマリリアの声が低くなる。
『人の器から、根を抜けば』
「死ぬ」
『……』
沈黙。
アマリリアの手が震えた。
怒りだった。
何百年も。
王家は知らずに。
自分たちの血へ奪った力を継がせ。
その力が濃くなった子を森へ返してきた。
そして死んだ者たちを。
《月の花嫁と結ばれた》
などと美しい言葉で隠した。
「ふざけていますわね」
「アマリリア」
「ふざけています」
もう一度。
今度ははっきり言った。
「そんなもの、婚約でも契約でもありません」
青年が彼女を見る。
「殿下は返しません」
『……』
「力が必要なら別の方法を探します」
『ない』
「あります」
『ない』
「あります!」
アマリリアの声が石室へ響く。
「探していないだけです!」
『何百年も』
「知りません!」
青年が目を見開く。
「何百年続いたから何です!」
アマリリアはライルの腕を掴んだ。
「この方は生きたいと言っているのです」
『王の血』
「だから?」
『我らを殺した』
「殿下が殺したのですか?」
『……』
「この方は十八歳です。何百年前の罪を、この方へ払わせるのですか?」
青年は答えない。
アマリリアは一歩前へ出る。
「それは、初代王と同じではありません?」
『何』
「自分たちの都合のために、関係のない人間から奪う」
空気が張り詰める。
ディーンの顔が青くなる。
国王さえ、アマリリアを止めるべきか迷っている。
けれど。
ライルだけは止めなかった。
『私と、あの王を同じだと』
「今のままなら」
アマリリアは言い切った。
「私はそう思います」
長い。
本当に長い沈黙。
青年は目を閉じた。
石室の揺れが止まる。
『……エレナにも、似たことを言われた』
「お母様に?」
『あの女は、よく怒った』
「でしょうね」
アマリリアは少し笑った。
「お父様が負け続けていたそうです」
『ハロルド』
「ご存じなのです?」
『うるさい男』
「よく分かります」
緊張の中に、わずかな空気の緩みが生まれる。
青年の口元も。
ほんの少しだけ動いたように見えた。
『新月に来い』
「北の森へ?」
『月守が待っている』
「あなたではないのですね?」
『私は守り手ではない』
「では、あなたは?」
青年はアマリリアを見る。
『私は、鍵』
「鍵?」
『月守を解放する鍵』
「解放?」
また新しい言葉。
『王家が奪ったものを戻さなければ』
『森は死ぬ』
『王国も死ぬ』
「どう戻すのです?」
『新月に』
青年の声が遠くなる。
『娘と』
アマリリアを見る。
『奪った血を持つ者』
ライルを見る。
『二人で来い』
「殿下と私」
『そして』
青年の視線が。
国王へ向いた。
『王も来い』
「俺も?」
アルベルトが驚く。
『最初の王の罪は』
『今の王が終わらせろ』
結晶の光が強くなる。
「待ってください!」
アマリリアが叫ぶ。
「まだ聞きたいことが!」
『時間がない』
「あなたの名前を」
『ない』
「なら、私が呼ぶ名前を決めます」
全員がアマリリアを見る。
ライルが嫌な予感を覚えた顔をした。
「何を考えている」
「名前がないと不便ですわ」
『……』
「ずっと《名を失った者》では寂しいでしょう?」
青年は答えない。
「銀色の髪ですし」
「待て」
ライルが止める。
「君が名付けるのか?」
「何か問題が?」
「ものすごく軽い名前をつけそうで怖い」
「失礼ですわね」
「例えば?」
アマリリアは少し考えた。
「シルバー」
「やめろ!」
ライルの声が響いた。
青年の目が僅かに見開かれる。
「では、ギン」
「もっと駄目だ!」
「殿下は注文が多いですわね」
「八百年以上生きている存在へ、もう少し敬意を持て!」
青年の肩が。
僅かに。
震えた。
アマリリアが見る。
『……ふ』
小さな音。
『ふふ』
笑った。
八百年以上。
名を奪われ。
地下に封じられ。
王家を憎んできた存在が。
初めて。
笑った。
『変な娘』
「よく言われます」
「そこは否定しろ」
ライルが即座に突っ込む。
『名前』
青年が呟く。
『新月に』
「新月に?」
『取り戻せたら』
銀色の瞳が、少し優しくなる。
『そのとき、呼べ』
結晶の亀裂が光る。
次の瞬間。
扉が勢いよく閉じ始めた。
「殿下!」
ディーンがライルを引く。
アマリリアもライルに腕を掴まれ、後ろへ引かれた。
「わっ」
「走れ!」
全員が石室の外へ出る。
最後に国王が通過した瞬間。
巨大な扉が閉じた。
轟音。
光が消える。
静寂。
「……」
誰もすぐには話さなかった。
荒い呼吸だけが響く。
アマリリアは自分の腕を見る。
ライルがまだ掴んでいる。
「殿下」
「怪我は?」
「ございません」
「本当に?」
「はい」
それを聞いてから、ライルは手を離した。
アマリリアは少しだけ残念に思った。
しかし今は、それを口にする場面ではない。
国王が閉じた扉を見つめる。
「新月に、俺も森へ行く」
「陛下」
ディーンが反応する。
「命令だ」
「しかし国王陛下まで危険に」
「俺が行かなければ終わらないと言われた」
「ですが」
「何百年前の罪であっても、王家の罪なら今の王が向き合う」
アルベルトはライルを見る。
「それに」
少しだけ表情が柔らかくなる。
「息子だけを行かせて待っているのは、もう嫌だ」
「父上」
「五歳のときは、俺はお前を差し出した」
「……」
「今度は一緒に行く」
ライルはしばらく父を見ていた。
そして、小さく頷いた。
「はい」
アマリリアはそのやり取りを黙って見ていた。
父と子。
十三年前。
互いに言えなかったことが、少しずつ解け始めている。
「新月まで」
オズワルドが呟く。
「あと二日」
アマリリアは首飾りを握る。
二日。
たった二日。
けれど。
今日、一つだけ大きなことが分かった。
《月の花嫁》は存在しない。
ライルが森へ求められるのは、彼の身体に宿った《月守の力》を回収するため。
そして王家が守られてきた仕組みそのものが。
最初の王による略奪から始まっていた。
「殿下」
「何だ?」
「必ず別の方法を見つけます」
「急だな」
「先ほどの話です」
「俺の中の力を返す方法か」
「はい」
「見つからなかったら?」
アマリリアは即答した。
「見つけます」
「また簡単に」
「難しく言えば――」
「分かった。時間は増えない」
「覚えてくださったのですね」
「何度聞かされたと思っている」
ライルは少し笑った。
「でも」
今度は彼の方から。
アマリリアへ手を差し出した。
「頼む」
アマリリアはその手を見る。
「これは?」
「森へ一緒に行くんだろう」
「はい」
「君一人で勝手に全部背負うな」
「殿下もですわ」
「ああ」
「では」
アマリリアは手を重ねた。
「共犯者ですわね」
「だから協力者だ」
「まだお認めにならないのです?」
「犯罪をする予定はない」
「王家の古い契約を破壊する予定ですが」
「それは犯罪ではない」
「では、革命?」
「物騒な言葉を増やすな!」
地下回廊にライルの声が響く。
アマリリアは笑った。
その笑い声の向こう。
閉ざされた巨大な扉の中で。
銀髪の青年もまた、誰にも聞こえない声で呟いていた。
『エレナ』
『お前の娘は』
『随分と面白い男を選んだな』
そして。
その地下よりも遥か北。
誰も立ち入れない森の最深部で。
一本の巨大な白い樹が、何百年ぶりに小さく枝を揺らした。
葉のない枝先に。
銀色の蕾が、一つ。
ゆっくりと生まれる。
新月まで。
あと二日だった。




