第6話 第一王子殿下と三日後に森へ行くので、まず国王陛下を説得します
三日後。
新月の夜。
北の森へ入る。
それは、アマリリアにとって既に決定事項だった。
母エレナが遺した手紙には、満月を待ってはならないとはっきり記されている。満月の夜を迎えれば、王家が何百年もの間《月の花嫁》という名のもとで繰り返してきた古い契約が完成してしまう。
ならば、その前に動くしかない。
問題は、そのために必要な準備があまりにも多いことだった。
「三日しかないのではありません」
翌朝。
ベスター伯爵家の地下資料室に設けられた大机の前で、アマリリアは集まった面々を見回した。
「三日もあるのです」
「物は言いようだな」
すぐ隣から、ライルの乾いた声が返ってきた。
昨日に続き、第一王子は朝からベスター家へ来ている。
本来なら王宮で政務補佐や王族としての公務があるはずだが、新月までの猶予が三日しかないと判明したことで、予定の大半を強引に変更してきたらしい。
机を囲んでいるのは、アマリリア、ライル、アレク、ディーン、そして前当主ハロルド。
さらに少し離れた場所には、ゼインを含む三名の黒装束が控えていた。
机の上には王都北部の地図。
北の森周辺の地形。
母エレナの日記。
《月の花嫁》に関する王家の記録の写し。
そして昨夜見つかった手紙が並べられている。
「まず、確認いたしましょう」
アマリリアは地図の北部を指差した。
「三日後の新月。私とライル殿下は北の森へ入り、本当の《月守》と呼ばれる存在を探します」
「勝手に俺の参加を決定事項にするな」
「行かないのですか?」
「行く」
「では、問題ございません」
「言い方の問題だ」
「細かなことですわ」
「細かくない」
いつものやり取りに、ディーンがこめかみを押さえた。
一方、アレクは既に慣れ始めたのか、無言で地図へ視線を落としている。
ハロルドだけは、不満そうに腕を組んでいた。
「俺も行く」
「却下です」
「昨日と同じ答えをするな!」
「昨日から条件が変わっておりませんもの」
「エレナのことを一番知っているのは俺だぞ!」
「それについては認めます」
「なら!」
「しかし、お父様は戦えません」
「戦える!」
ハロルドが椅子から立ち上がった。
「俺だって若い頃は剣を振っていた!」
「何年前です?」
「……二十年くらい前だ」
「却下です」
「最後まで聞け!」
アマリリアは父を上から下まで眺めた。
五十代目前。
腹が出ているわけではないが、現役の騎士や冒険者と比べれば明らかに運動不足である。さらに昨日、少し走らせただけで息を切らしていた。
「北の森には魔獣が生息しております」
「分かっている」
「禁足地であるため、通常の討伐も行われておりません。生息する個体が通常より強い可能性もございます」
「分かっている!」
「森で魔獣に襲われ、若い頃のお母様に助けられたのはどなたでした?」
「昔の話だ!」
「今のお父様は、その頃より強いのですか?」
ハロルドが黙った。
「はい。却下ですわね」
「まだ話は終わっていない!」
父の悲鳴を聞き流しながら、アマリリアは次の議題へ移ろうとした。
しかしライルが片手を上げる。
「待て。前伯爵を完全に置いていくのは得策ではないと思う」
「殿下?」
ハロルドの顔がぱっと明るくなった。
「さすが殿下! 話が分かる!」
「森の中へ同行させるとは言っていない」
すぐに顔が曇る。
「では、どういう意味でしょう?」
アマリリアが尋ねる。
「北の森の入口までは連れていく。エレナ夫人がどこから現れ、どの辺りで過ごしていたのか、前伯爵の記憶が役に立つ可能性がある」
「なるほど」
「森の外に臨時拠点を作る。前伯爵はそこまでだ」
「俺は中へ!」
「前伯爵」
ライルが真っ直ぐ父を見る。
王子としての声だった。
「あなたが森で死ねば、アマリリアの判断が鈍る」
「私の?」
アマリリアが反応した。
「鈍らないと言うなよ」
「まだ何も申しておりません」
「言おうとしていただろう」
図星だったため、アマリリアは黙る。
ライルは続けた。
「君は平気な顔をするだろう。だが、父親が目の前で傷つけば必ず気にする。それは普通のことだ」
「……」
「今回の目的は戦うことではない。《月守》へ会い、最初の王が何を奪ったのかを確かめ、俺の契約を正すことだ。余計な危険は減らした方がいい」
アマリリアは父を見る。
ハロルドも娘を見ていた。
少し気まずそうに。
「お父様」
「何だ」
「森の入口までです」
「だが」
「それ以上は認めません」
「リリア」
「お母様のことを知っているからこそ、外で待っていてください」
自分でも意外なほど、穏やかな声が出た。
父もそれを感じたらしい。
しばらく何も言わなかった。
「……分かった」
「随分素直ですわね」
「お前が普通に頼めば、俺だって普通に聞く!」
「では、今後もそういたしましょうか」
「頼むからそうしてくれ」
心底疲れた声だった。
ライルが隣で笑っている。
「殿下」
「何だ?」
「何がおかしいのです?」
「いや。君も普通に話せるんだと思ってな」
「マイナス一点ですわ」
「今の俺のどこに減点要素があった!」
「余計な一言です」
「理不尽だ」
アマリリアは父の件を地図の端へ書き込む。
北の森入口に臨時拠点。
ハロルドはそこまで。
「次に護衛です」
ディーンが待っていたように口を開いた。
「私が殿下へ同行いたします」
「駄目です」
アマリリアが即答した。
今度はディーンが固まる。
「……なぜです?」
「母の手紙には、二人で森へ来るよう書かれております」
「それは《月の娘》と殿下の二名という意味であり、護衛を連れてはならないとは書かれていないでしょう」
「首飾りにも『月の娘と花婿、二人で森へ来たれ』とございました」
「それは人数の指定とは限りません」
「随分と都合のよい解釈をなさいますのね」
「殿下の護衛ですので」
「私も守りますわ」
「それが最も信用できません!」
ディーンの声が地下室へ響いた。
「昨日まで殿下へ刃物を突きつけていた方に、殿下を任せられるとお思いですか!」
「昨日ではなく一昨日ですわ」
「日数の問題ではございません!」
「では、私が殿下を守れることを証明すればよろしいのですね?」
「どうやってです」
アマリリアは少し考えた。
「模擬戦などいかがでしょう」
「私と?」
「はい」
「護衛騎士である私に勝てると?」
「負けるつもりはございません」
ディーンの目つきが変わる。
騎士としての自尊心を刺激したらしい。
アレクが妹を止めるように手を伸ばした。
「待て、リリア」
「何でしょう」
「ディーン殿は王宮近衛に所属する騎士だぞ」
「存じております」
「学園の護身術とは違う」
「私も護身術だけを学んだわけではございません」
アレクの顔が引きつった。
「まさか、お前」
「兄様が騎士団に入る前、置いていった教本を全て読みました」
「読むのと使えるのは別だ!」
「ですので、実践もいたしました」
「誰と!」
アマリリアは後ろの黒装束たちへ視線を向ける。
ゼインたちは無言だった。
「……もういい」
アレクが額を押さえる。
「知らない方がよかった」
「兄様のためになったようで何よりですわ」
「なっていない!」
ライルは完全に面白がっていた。
「やってみればいい」
「殿下!」
ディーンが振り返る。
「もしアマリリアが君に勝てるなら、森の中で俺を守る能力がある証明にはなる」
「ですが」
「俺も彼女と二人で入るべきだと思う」
その言葉に、ディーンが黙った。
ライルは地図へ視線を落とす。
「《月守》が本当に何百年もの間、王家と関わってきた存在なら、大人数で押しかけるべきではない。特に武装した王宮騎士を連れていけば、敵意と取られる可能性もある」
「……確かに」
「森の入口までは護衛を頼む。中は俺とアマリリアで行く」
「殿下」
ディーンは納得しきれていない。
しかしライルの表情を見て、最終的には頭を下げた。
「承知いたしました。ただし、ベスター令嬢の力量は確認させていただきます」
「望むところですわ」
「本気で参ります」
「もちろん。手加減をされては困りますもの」
二人の間へ妙な緊張が走る。
ライルが小さくため息をついた。
「ただし、怪我はするなよ」
「私をご心配くださるのです?」
「二人で森へ行く約束なのに、片方が怪我をしたら困る」
「あら」
アマリリアは口元を緩める。
「それはつまり、私が必要だと」
「そういう意味だ」
「嬉しいですわ」
「なぜそこで恋愛的に受け取る」
「殿下」
「何だ?」
「顔が赤いですわ」
「赤くない!」
また始まった。
アレクとハロルドが同時にため息をつき、ディーンは遠い目をした。
◇◇◇
模擬戦は昼前に行われることになった。
場所はベスター家の裏庭にある小さな訓練場。
もともとはアレクが騎士を目指していた頃に使っていた場所で、今でも定期的に手入れされている。
土を固めた長方形の訓練場。
周囲には木製の柵があり、端には訓練用の武器が並べられている。
アマリリアは制服ではなく、動きやすい白いシャツと黒い細身のズボンに着替えていた。長い銀髪は高い位置で一つに纏めている。
「随分と似合うな」
先に訓練場へ来ていたライルが言った。
「ありがとうございます」
「素直だな」
「殿下からのお褒めの言葉ですもの」
「父上や兄上には違うのか?」
「内容によりますわ」
アマリリアは武器立ての前へ行く。
訓練用の木剣。
短剣。
槍。
細身の剣。
その中から、少し短めの木剣を一本選んだ。
「それでいいのか?」
「はい」
「普段は何を使う?」
「状況によります」
「得意武器は?」
「特にございません」
ライルが眉を上げる。
「全部使えるのか?」
「ある程度は」
「本当に何者なんだ、君は」
「伯爵令嬢ですわ」
「普通の伯爵令嬢は、武器立てを見て迷わない」
そこへディーンがやってきた。
彼も騎士服ではなく訓練用の軽装をしている。手には長めの木剣。
「ルールを確認いたします」
「どうぞ」
「魔術は禁止。刃のある武器も禁止。相手へ明確な有効打を三回与えるか、降参させた方の勝ち」
「よろしいですわ」
「本当にそれでいいのか?」
アレクが柵の外から確認する。
「ディーン殿は実戦経験のある騎士だぞ」
「兄様」
「何だ」
「先ほども聞きました」
「心配しているんだ!」
「でしたら、応援してくださいませ」
「……分かった」
アレクは渋々引き下がる。
その隣では、ハロルドが椅子に座っている。
「リリア!」
「何です、お父様」
「怪我はするなよ!」
「殿下と同じことをおっしゃいますのね」
「父親だからな!」
その言葉に、アマリリアは少しだけ笑った。
ディーンが中央へ進む。
アマリリアも向かい合う。
ライルが二人の間に立った。
「準備は?」
「いつでも」
「問題ございません」
「では――始め!」
ライルが手を下ろした。
直後。
ディーンが踏み込んだ。
速い。
訓練とはいえ、近衛騎士として鍛えられた動きに無駄はない。木剣が斜め上からアマリリアの肩へ振り下ろされる。
アマリリアは受けない。
半歩だけ横へずれた。
剣が肩のすぐ脇を抜ける。
そのまま木剣の柄を相手の手首へ当てようとする。
ディーンがすぐに引く。
二人の木剣が軽くぶつかり、乾いた音が響いた。
「ほう」
ライルの声が聞こえる。
ディーンは一度距離を取った。
「なるほど」
「まだ始まったばかりですわ」
「ええ」
次はディーンが慎重になった。
構えを低くし、アマリリアの足元と肩、視線を同時に観察している。
アマリリアも動かない。
風が吹く。
結んだ銀髪が揺れた。
先に動いたのはアマリリアだった。
真正面へ踏み込む。
ディーンが迎撃する。
木剣が横薙ぎに振られる。
アマリリアは身体を沈め、剣の下へ潜り込んだ。
「っ!」
ディーンの脇腹へ木剣の先端を当てる。
「一本ですわ」
「まだです!」
ディーンがすぐに肘を返す。
アマリリアは身体を捻って避けたが、木剣の先端が肩を掠めた。
「こちらも一本!」
「お見事です」
互いに距離を取る。
一対一。
静かな緊張。
アレクの表情が次第に真剣になっていた。
「本当に、いつの間に……」
「俺も知らん」
ハロルドが呟く。
「お前が知らないこと、多すぎないか?」
「アレク。父親というものは、娘の全てを知っているわけではない」
「格好よく言って誤魔化すな」
そんな会話をよそに、模擬戦は続く。
ディーンの剣が速くなる。
最初は力量を見るために抑えていたのだろう。今は本気でアマリリアの動きを封じに来ている。
上段。
突き。
横薙ぎ。
三連続。
アマリリアは二つをかわし、最後を木剣で受けた。
腕へ強い衝撃が走る。
「力では勝てませんわね」
「当然です!」
「では、別の方法で」
アマリリアは一度押し返した。
ディーンが半歩下がる。
その瞬間。
アマリリアは木剣を手放した。
「なっ?」
木剣が地面へ落ちる。
ディーンの意識が一瞬だけそちらへ向いた。
アマリリアは懐へ入り込む。
片手でディーンの剣を持つ手首を掴み、もう片方の手を胸へ当てる。
「二本目」
「武器なしで!?」
「有効打なら問題ございませんでしょう?」
ライルを見る。
彼は一瞬考えたあと、頷いた。
「有効だ」
「殿下!」
「ルール上は禁止していない」
ディーンが悔しそうに歯を食いしばる。
アマリリアはすぐに離れ、落とした木剣を拾った。
「あと一本ですわ」
「油断しました」
「戦場で油断したと相手へ説明するのですか?」
ディーンの目が鋭くなる。
「いいでしょう」
空気が変わった。
今まで以上に本気になった。
アマリリアは内心で少し楽しくなる。
相手が強いほど、考える余地が増える。
ディーンが踏み込む。
今度は速さよりも、逃げ道を潰す動き。
アマリリアが右へ動けば剣が追う。
左へ行けば身体で塞ぐ。
後退すれば間合いを詰める。
「なるほど」
「逃げ場はありません!」
ディーンの木剣が正面から突き出される。
避ける場所はない。
ならば。
アマリリアは前へ出た。
「何!?」
突きを身体のすぐ横へ流す。
肩がディーンの胸へぶつかる。
同時に足をかけた。
体勢が崩れる。
ディーンが倒れまいと踏ん張る。
その首筋へ、アマリリアの木剣が止まった。
「三本目ですわ」
静寂。
ディーンはしばらく動かなかった。
やがて長く息を吐き、木剣を下ろす。
「……参りました」
ライルが目を見開いていた。
「本当に勝った」
「失礼ですわね」
「いや、強いとは思っていたが」
「私を何だと思っていらしたのです?」
「黒装束に頼り切りの令嬢」
「マイナス三点です」
「一気に増えた!」
アマリリアは木剣を武器立てへ戻す。
ディーンは悔しそうではあるが、先ほどまでの警戒とは少し違う目で彼女を見ていた。
「ベスター令嬢」
「はい」
「殿下を、お任せします」
その言葉に、アマリリアの動きが止まった。
冗談を返そうと思った。
けれど、ディーンの表情が真剣だったため、やめる。
「必ず、お連れして戻ります」
「あなたも戻ってください」
「……ええ」
「殿下だけ戻っても、恐らく殿下が怒ります」
「ディーン!」
ライルの声が飛んだ。
ディーンは僅かに笑った。
「違いますか?」
「そういう話ではない!」
アマリリアはライルを見る。
彼は露骨に視線を逸らした。
「あら」
「何だ」
「私が戻らなければ、怒ってくださるのです?」
「当然だろう。勝手に巻き込んでおいて、一人で消えられたら困る」
「巻き込んだのは私ですわ」
「……そうだったな」
「ですが」
アマリリアは少しだけ笑う。
「嬉しいですわ」
「いちいちそういう言い方をするな」
「本心ですもの」
「本心だから困るんだ!」
ライルが顔を背ける。
ディーンが小さくため息をついた。
ハロルドは遠い目をしながら呟く。
「これは、本当に婚約破棄するのか?」
「お父様」
「何だ」
「余計なことを仰ると、森の入口までの同行も取り消しますわよ」
「黙ります」
素早かった。
◇◇◇
午後。
次に向かったのは王宮だった。
ライルが新月の夜に北の森へ入る。
しかも《月の娘》として反応したアマリリアを伴って。
これは、さすがに国王へ黙って進められる話ではない。
王宮へ向かう馬車の中で、ライルは珍しく落ち着かなかった。
向かい側に座るアマリリアは、それをしばらく眺めていた。
「殿下」
「何だ」
「緊張していらっしゃいます?」
「していない」
「右手の親指をずっと擦っておりますわ」
ライルが手を止めた。
「よく見ているな」
「殿下を観察するのは楽しいので」
「やめろ」
「嫌ですわ」
即答した。
ライルは窓の外を見る。
馬車は王都中心部へ入り、遠くに王宮の高い尖塔が見え始めている。
「国王陛下に反対されると思います?」
「間違いなく反対される」
「なぜ?」
「父上は、俺を犠牲にしたいわけではない」
ライルの声は静かだった。
「だが、王として国を危険に晒すわけにもいかない。《月の花嫁》との契約を壊して何が起きるか分からない以上、新月に勝手なことをするなと言うだろう」
「お母様の手紙があります」
「それだけで何百年続いた王家の記録を否定できるか?」
「では、どう説得なさるおつもりです?」
ライルは少し黙った。
「分からない」
「珍しいですわね」
「俺だって何でも分かるわけではない」
「でしたら、私にお任せくださいませ」
ライルがこちらを見る。
「何をする気だ」
「お話しするだけです」
「その笑顔が怖い」
「失礼ですわ」
「父上を脅すなよ」
「まさか」
「絶対だぞ」
「王宮で国王陛下を脅すほど、私も無謀ではございません」
ライルが疑うような目を向ける。
「何ですの?」
「第一王子を脅した女が言っても説得力がない」
「殿下と陛下では違いますわ」
「どこが」
「殿下の方が可愛らしいです」
「そこではない!」
車外にいたディーンのため息が、扉越しに聞こえた気がした。
◇◇◇
王宮。
謁見に使われる大広間ではなく、王族の私的な会談に使われる小さな応接室へ通された。
室内には四人。
アマリリア。
ライル。
そして、国王アルベルト・アースハルト。
その隣には王妃セレーネが座っている。
国王は四十代半ば。
ライルと同じ黒髪を持つが、息子よりも鋭い顔立ちをしている。王として長く国を率いてきた重みが、ただ座っているだけでも伝わってくる。
王妃は淡い金髪。
柔らかな美貌だが、アマリリアが入室したときから落ち着かない様子でライルを見ていた。
「ベスター伯爵令嬢」
国王の低い声。
「はい」
「まず聞こう」
「何でしょう」
「息子を脅して婚約を迫ったという話は、本当か?」
横でライルが顔を覆った。
王妃も困ったように目を伏せる。
アマリリアは姿勢を正した。
「多少、表現に誤解がございます」
「どの部分に?」
「婚約をお願いしたことは事実です」
「脅した部分は?」
「話を聞いていただくために、少々強引な手段を用いました」
「刃物を首へ突きつけたと報告を受けた」
「私が直接ではございません」
「部下ならよいと?」
「よいとは申しません」
「では?」
「反省はしております」
ライルが勢いよく顔を上げた。
「嘘をつけ!」
「殿下、陛下の御前ですわ」
「君が言うな!」
国王の眉がわずかに動く。
王妃は口元を手で覆っていた。
笑いを堪えているようにも見える。
「……なるほど」
国王が息を吐いた。
「ライルが昨日から妙に騒がしい理由は分かった」
「父上」
「お前がここまで他人に振り回されているところを初めて見た」
「笑い事ではありません」
「そうでもない」
国王の表情が一瞬だけ父親のものに変わった。
しかし、机の上に母エレナの日記と手紙が置かれると、その空気はすぐ消えた。
アマリリアとライルが、ここ数日で分かったことを説明する。
《月の花嫁》が偽りの名である可能性。
本当の守り手は《月守》。
守りの対価は王族の命ではない。
王家が何かを歪めた。
そして、新月の夜に二人で森へ来るよう記された母の手紙。
全てを聞き終える頃には、国王の顔は険しくなっていた。
「認められん」
予想通りの答えだった。
ライルの表情が強張る。
「父上」
「新月の夜に北の森へ入ることは許可できない」
「なぜです」
「理由を聞く必要があるか?」
「あります」
ライルの声も低くなる。
「満月まで待てば、契約が完成する可能性があります」
「それはベスター夫人の手紙に書かれているだけだ」
「母の手紙を疑っておられるのですか?」
アマリリアが尋ねる。
国王は彼女を見る。
「疑っているのではない。だが、一人の女性の記録だけで国の存亡を賭けるわけにはいかない」
「でしたら、殿下を予定通り差し出すのですか?」
王妃の肩が揺れた。
国王の目が鋭くなる。
「言葉を選べ」
「申し訳ございません。しかし、本質は同じです」
「アマリリア」
ライルが制止しようとする。
しかし彼女は止まらなかった。
「陛下は国を守るために、殿下を《月の花嫁》へ差し出す。けれど、その必要が本当にあるのかは確認されていない」
「王家には何百年分もの記録がある」
「その記録自体が間違っている可能性があります」
「可能性だ」
「はい」
「逆に、お前たちの行動で結界が失われる可能性もある」
「ございます」
アマリリアは否定しない。
「だからこそ、確かめに行くのです」
「危険すぎる」
「何もせず殿下を失う方が安全でしょうか?」
国王の表情が硬くなる。
アマリリアは続けた。
「陛下。私は王ではございません。ですから、国全体の責任というものを完全に理解することはできません」
「ならば」
「ですが、選択肢が二つしかないように考える必要もないと思います」
王妃が初めて口を開いた。
「二つ?」
「国を守るか、殿下を守るか」
アマリリアは二人を見る。
「なぜ、どちらも守ろうとなさらないのです?」
国王が黙る。
「無理だと言われたからですか?」
「……」
「古い記録に、そう書いてあったから?」
「ベスター令嬢」
「何百年も同じことをしてきたから?」
アマリリアは首元の月の首飾りへ触れた。
「ですが、お母様の記録が正しければ、その何百年こそ間違っていたのです」
王妃の目に涙が浮かび始めた。
「陛下」
アマリリアは国王を見た。
「殿下は、死にたくないと仰いました」
ライルが息を呑む。
「アマリリア」
「それを陛下へお伝えしたことは?」
ライルは黙った。
国王の表情が変わる。
「ライル」
「……」
「本当なのか」
ライルはすぐには答えなかった。
いつものように、王子としての言葉を探そうとしている。
アマリリアはその横顔を見る。
そして机の下で、彼の手へ自分の指先を触れさせた。
ライルが驚いてこちらを見る。
アマリリアは何も言わない。
ただ、手を引かなかった。
やがて。
ライルが正面へ向き直る。
「死にたくありません」
王妃の涙が頬を伝った。
「父上。母上」
ライルの声は震えていない。
「国を守る責任は理解しています。俺一人で何万人も救えるなら、それを選ぶべきだとも思っていました」
「ライル……」
「でも、嫌です」
短く。
はっきりと。
「生きたい」
王妃が顔を覆った。
国王は何も言わない。
「俺は王子です。いつか国のために命を懸けることもあるでしょう。でも、間違った契約のために、確かめることもせず消えるのは嫌です」
ライルの手が動いた。
机の下で、今度は彼の方からアマリリアの手を握った。
アマリリアは少し目を見開く。
握る力は弱い。
けれど、離れない。
「三日後、森へ行かせてください」
長い沈黙。
国王は目を閉じた。
時間だけが過ぎる。
アマリリアは何も言わない。
今は、父と子の話だった。
やがて国王が目を開く。
「条件がある」
ライルの指が僅かに強くなる。
「何でしょう」
「森の外に近衛隊を配置する」
「はい」
「結界に異常が生じた場合、即座に撤退しろ」
「承知しました」
「そして」
国王の視線がアマリリアへ向く。
「ベスター令嬢」
「はい」
「息子を連れて帰れ」
命令ではない。
父親からの願いだった。
アマリリアはゆっくり頭を下げる。
「もちろんです」
国王の眉が動く。
「随分簡単に言うな」
どこかで聞いた言葉だった。
アマリリアは隣を見る。
ライルも同じことを思ったらしく、ほんの少し笑っている。
「陛下」
「何だ」
「難しく言えば、成功率が上がりますでしょうか?」
国王が一瞬、言葉を失った。
ライルがとうとう吹き出す。
「それ、俺が何度も言われた」
「親子ですわね」
「そういうことではない」
国王は眉間を押さえた。
しかし口元は、ほんの僅かに緩んでいた。
◇◇◇
王宮から出た頃には、空が薄い夕焼け色へ染まり始めていた。
馬車へ向かう回廊。
アマリリアとライルは並んで歩いている。
ディーンは少し離れた後ろ。
しばらく誰も口を開かなかった。
「殿下」
「何だ」
「先ほどから、手が」
ライルが止まる。
見る。
自分の右手。
その先。
アマリリアの左手。
二人は王との会談が終わったあとも、まだ手を繋いだままだった。
「……」
「……」
ライルの顔が一気に赤くなる。
すぐに離そうとする。
しかしアマリリアは握った。
「なぜ離すのです?」
「会談は終わった!」
「だから?」
「だから、もう必要ないだろう!」
「私は嫌ではありませんわ」
「俺が恥ずかしい!」
「そのうち慣れます」
「慣れる予定はない!」
「偽装婚約をするのですから、人前で手を繋ぐことくらい必要でしょう?」
ライルが止まった。
「……それは」
「練習ですわ」
「今はまだ婚約していない」
「三日後に生きて戻れば、正式に協力してくださるのでしょう?」
「ああ」
「でしたら先行練習です」
アマリリアは指を絡めた。
ライルの肩が跳ねる。
「なっ!」
「こちらの方が婚約者らしいですわね」
「普通に繋げ!」
「嫌です」
「なぜ!」
「こちらの方が楽しいので」
「やっぱり俺で遊んでいるだろう!」
回廊へライルの声が響く。
後ろを歩いていたディーンが顔を背けた。
笑っているように見えたが、きっと気のせいだろう。
アマリリアは隣で真っ赤になっている王子を見て、小さく笑った。
新月まで、あと三日。
準備しなければならないことはまだ山ほどある。
装備。
森への経路。
《月守》についての追加調査。
母が残した遺品。
そして最初の王が、何を奪ったのか。
不安がないわけではない。
むしろ、分からないことばかりだ。
それでも。
繋いだ手の温度を感じていると、不思議と進める気がした。
「殿下」
「今度は何だ」
「三日後」
「ああ」
「絶対に戻りましょうね」
ライルがこちらを見る。
先ほどまでの慌てた顔ではなかった。
「君もな」
「もちろんです」
「俺だけ連れて帰って、自分は残るとか考えるなよ」
「そのような趣味はございません」
「君ならやりかねない」
「でしたら、離さないでくださいませ」
「……何?」
「私がどこかへ行きそうになったら、このように手を握って止めてください」
アマリリアは繋いだ手を少し持ち上げた。
ライルは一瞬言葉を失う。
そして小さく息を吐くと、今度は自分から握り直した。
「分かった」
思ったより素直な答えだった。
アマリリアの胸が、僅かに跳ねる。
「……殿下」
「何だ」
「今のはプラス一点ですわ」
「まだ点数をつけていたのか」
「もちろん」
「現在何点だ?」
「秘密です」
「気になるだろう!」
夕暮れの王宮回廊に、二人の声が響く。
その日。
新月の北の森への立ち入りが、国王によって正式に認められた。
残り三日。
そして誰も知らなかった。
その夜、王宮の最奥。
歴代国王だけが立ち入ることを許された封印書庫で。
何百年も開かなかった一冊の古い記録が、誰の手も触れていないまま、ひとりでに開いたことを。
開かれた頁には、古代文字でたった一文だけが記されていた。
『月の娘が王家へ戻ったとき、奪われた名は返される』
そして、その文字の下。
これまで空白だったはずの場所に。
ゆっくりと、新しい文字が浮かび上がっていた。
『最初の罪を知る者は、まだ王宮にいる』




