第5話 お父様、母について隠していることを全部吐いてくださいませ
翌朝。
ベスター伯爵家の王都屋敷には、いつもより早い時間から慌ただしい空気が流れていた。
厨房では朝食の準備をする使用人たちが忙しく動き、廊下では家督継承に必要な書類を抱えた文官が何度も行き来している。前当主ハロルド・ベスターが突然静養へ入り、その翌日には第一王子ライル・アースハルトが夜間訪問し、さらに今度は当主代行となったアレクが「領地へ送った父を至急王都へ戻せ」と命じたのだから、屋敷の者たちが落ち着けるはずもなかった。
そんな騒がしさの中。
アマリリアは自室の窓辺で、昨夜光を放った月の首飾りを見つめていた。
三日月の中央に嵌め込まれた乳白色の石は、今朝になると再び何の変哲もない宝石へ戻っている。
昨夜浮かび上がった、
『満月まで、十二日』
『月の娘と花婿、二人で森へ来たれ』
という文字も消えていた。
けれど、見間違いではない。
アレクも、ライルも、ディーンも確かに見ている。
「月の娘……ですか」
アマリリアは首飾りを指先で摘まみ、朝日に透かしてみた。
光の中へ細かな筋が見える。
傷ではない。
まるで宝石そのものの奥に、複雑な魔術式が封じ込められているようだった。
昨日までは気づかなかった。
けれど、一度首飾りが起動したことで、内部の何かが目覚め始めている。
「私が月の娘」
口にしてみても、まるで実感がない。
ベスター伯爵家の令嬢。
学園では主席。
父親が勝手に決めてきた婚約を潰し、第一王子を脅して偽装婚約を申し込んだ女。
そこまでは理解できる。
しかし突然、
あなたは《月の娘》です。
などと言われても困る。
「お嬢様」
扉の外から声がした。
「入りなさい」
入ってきたのは、いつもの黒装束の一人だった。
ただし今日は顔を隠す布を外している。
三十歳前後の黒髪の男で、名をゼインという。アマリリアが幼い頃からベスター家に仕え、現在では彼女直属の情報収集役をまとめている人物だった。
「前伯爵を乗せた馬車が王都へ入りました」
「思ったより早かったですわね」
「昨夜、お嬢様から最優先との指示を頂きましたので」
「お父様は素直に戻ってきました?」
ゼインが僅かに視線を逸らした。
「最初は、もう王都には帰らないと」
「まあ」
「『私は領地で静かに余生を送る。アマリリアの顔は当分見たくない』と仰っておりました」
「随分な言われようですわね」
「お気持ちは、多少理解できます」
アマリリアがじっと見る。
ゼインは咳払いをした。
「ですが、アレク様から王家に関わる緊急案件であると伝えましたところ、態度を変えられました」
「それなら結構です」
「ただ……」
「何です?」
「馬車から降りようとなさいません」
アマリリアは首を傾げた。
「なぜ?」
「お嬢様が待っているからかと」
「困った方ですわね」
「お嬢様」
「はい」
「普通の父親は、娘を見るだけで馬車から降りられなくなるほど怯えません」
「私も普通に接しているつもりなのですが」
「ティーカップを顔面に投げ、当主の座から下ろし、領地へ強制送還なさいました」
「全て理由がございました」
「理由があれば恐怖が消えるわけではございません」
ゼインの返答に、アマリリアは少し考えた。
確かに、父の立場から見れば最近の自分は多少厳しかったかもしれない。
多少。
「では、今日は優しくお話しいたします」
「本当に?」
「ゼイン」
「失礼いたしました」
男はすぐに頭を下げた。
「それから、もう一つご報告が」
「何でしょう」
「ライル殿下から使者が参っております」
アマリリアの動きが止まる。
「殿下から?」
「はい。前伯爵への聞き取りに、ご自身も同席したいとのことです」
「今から?」
「既に向かっているそうです」
アマリリアは首飾りを宝石箱へ戻しかけ――やめた。
代わりに自分の首へかける。
「随分と積極的ですわね」
「昨日、お嬢様の私室へ夜間訪問された件が、既に使用人の間で噂になっております」
「まあ」
「さらに本日も朝から来訪されるとなれば」
「仲の良い婚約者候補に見えますわね」
「……そう受け取られる可能性は高いかと」
アマリリアは鏡を覗いた。
銀色の髪。
乳白色の石。
首元に三日月が揺れている。
悪くない。
「お嬢様」
「何です?」
「嬉しそうですね」
「気のせいですわ」
「左様ですか」
「ええ」
言いながら、アマリリアは少しだけ口元を緩めた。
◇◇◇
「嫌だ!」
玄関前へ出た瞬間、父の声が響いた。
「私は降りんぞ!」
ベスター家の馬車が一台、正面玄関前に止まっている。
扉は開いている。
だが、その奥でハロルド・ベスターは座席の端へ張りつくように座り、両手で反対側の取っ手を掴んでいた。
前当主として威厳ある姿――とは、とても言えない。
「お父様」
「来るな!」
「まだ何もしておりませんわ」
「お前が笑っているときが一番怖いんだ!」
「失礼ですわね」
アマリリアは馬車へ一歩近づく。
父は一歩分、座席の奥へ下がろうとした。
もちろん、その先は壁である。
「私は領地へ戻る!」
「お話が終われば、お好きになさってください」
「終わるとはどういう意味だ!」
「会話が、です」
「本当だな?」
「ええ」
「身体的に終わるという意味ではないな!?」
「お父様」
「何だ!」
「少々、私への認識に問題がございますわ」
「お前が作った認識だ!」
朝の玄関前に、父の悲痛な声が響く。
使用人たちは全員、仕事へ集中しているふりをしていた。
誰一人こちらを見ない。
しかし耳だけはこちらへ向いているように感じる。
アマリリアはため息をついた。
「今日はお母様についてお聞きしたいだけです」
父の表情が変わった。
先ほどまでの怯えが消える。
代わりに浮かんだのは、明らかな警戒だった。
「……エレナのことを?」
「ええ」
「なぜ今さら」
「首飾りについてです」
父の顔から血の気が引いた。
アマリリアはその反応を見逃さない。
「やはり、ご存じなのですね」
「何の話だ」
「お父様」
「知らん」
「まだ何も聞いておりませんが」
「……」
「馬車から降りていただけます?」
「嫌だ」
「ゼイン」
「お待ちください!」
アマリリアが名前を呼んだだけで、父は勢いよく馬車を降りた。
「降りる! 自分で降りる!」
「最初からそうなさればよろしいのです」
「お前が父親へ普通の接し方を覚えれば済む話だ!」
「それは今後の課題といたします」
「絶対に直す気がないだろう!」
ハロルドはぶつぶつ文句を言いながら屋敷へ入った。
アマリリアもその後へ続こうとする。
すると門の方から馬車が入ってきた。
黒地に金。
王家の紋章。
「早かったですわね」
ハロルドが足を止める。
「王家の馬車……?」
やがて馬車が玄関前で止まり、扉が開いた。
最初に降りたのはディーン。
続いて黒髪の青年が姿を現す。
「ライル殿下!?」
ハロルドの声が裏返った。
ライルは階段を上がりながら、軽く片手を上げる。
「朝早くにすまない、ベスター前伯爵」
「い、いえ! 殿下が我が家へお越しくださるなど!」
父は慌てて礼を取る。
しかし途中で、ライルの視線がアマリリアへ向いていることに気づいた。
さらにアマリリアの首元にある月の首飾りを見る。
そして昨夜、娘が第一王子を屋敷へ招いたことを思い出したらしい。
「……まさか」
父の目が細くなる。
「リリア」
「何でしょう?」
「お前、殿下に何をした」
「その質問、昨日兄様にもされましたわ」
「答えろ!」
「婚約をお願いしただけです」
「誰に!」
「ライル殿下に」
「なぜ!」
「カルロス様と結婚したくありませんので」
ハロルドは固まった。
一度アマリリアを見る。
次にライルを見る。
再び娘を見る。
「お前……公爵家との婚約を潰すために、王子殿下へ乗り換えたのか?」
「乗り換えではありません。そもそもカルロス様に乗った覚えがございませんもの」
「そういう意味ではない!」
ライルが横で肩を震わせている。
父はその様子を見て、さらに混乱した。
「殿下、本当に娘と婚約を?」
「まだ正式には」
「まだ?」
「色々と条件がある」
「条件?」
「お父様」
アマリリアが静かに呼ぶ。
「その話は後です。今はお母様について教えてくださいませ」
父の表情が再び強張った。
ライルも笑みを消す。
空気が変わった。
「応接室へ行こう」
ライルの提案に、誰も反対しなかった。
◇◇◇
応接室には四人だけが入った。
アマリリア。
ライル。
アレク。
そしてハロルド。
ディーンは扉の外で待機している。
ゼインを含む使用人たちも遠ざけた。
王家の機密に関わる話である以上、聞く者は少ない方がよい。
ハロルドは一人掛けのソファへ座り、落ち着かない様子で何度も指を組み直している。
その正面にアマリリア。
隣にライル。
アレクは少し離れた位置へ腰を下ろしていた。
「では、お父様」
「待て」
「何でしょう」
「先に確認したい」
ハロルドはライルへ顔を向けた。
「殿下は、どこまでご存じなのですか」
「《月の花嫁》については知っている」
ハロルドの肩が僅かに揺れる。
「俺が五歳のときに結ばれた契約も。次の満月で北の森へ行かなければならないことも」
「……そこまで」
「それから、昨日この首飾りが反応した」
アマリリアが胸元の首飾りへ触れる。
「お父様。これはお母様から頂いたものです」
「知っている」
「やはり」
「ただ、お前がまだ持っているとは思わなかった」
「母から誰にも渡さないよう言われましたので」
父の目が細くなる。
「エレナが、直接そう言ったのか?」
「ええ」
「……そうか」
父は目を閉じた。
長い沈黙が流れる。
「お父様」
「分かっている」
ハロルドは静かに答えた。
「もう隠せないのだろう」
「最初から隠さず話していただければ、もっと早く済みましたわ」
「お前は母親のことになると、どうなるか分からなかった」
「いつもの私と変わりませんわ」
「それが問題なんだ」
父は一度深く息を吸った。
「エレナは、南部の小貴族の娘ではない」
「やはり」
「俺がそういうことにした」
「では、本当は?」
ハロルドはすぐには答えなかった。
窓の外では朝日が庭園へ差し込み、鳥の鳴き声が聞こえている。
穏やかな朝。
けれど室内だけは、時間が止まったように重かった。
「俺がエレナと出会ったのは、二十五年前だ」
父が話し始める。
「当時、俺はまだ伯爵家の次男だった。家督を継ぐ予定もなく、王国各地を自由に旅していた」
「お父様にも、そのような時代が」
「失礼だな」
「続けてくださいませ」
「お前は本当に……」
父は言い返しかけ、諦めたように続けた。
「北部へ行った帰りだった。道を外れ、森の近くで迷った」
「北の森?」
ライルが反応する。
「禁足地の外側です。中へ入ったつもりはありませんでした。しかし、その夜だけ妙に霧が濃く、気づけば見覚えのない場所にいた」
ハロルドは遠くを見るような目をした。
「そこでエレナに会った」
「お母様が?」
「ああ。月明かりの下に、一人で立っていた。銀色の髪で、白い服を着ていた。最初は森に住む娘だと思った」
「それだけで連れて帰ったのですか?」
「違う。俺が倒れた」
「お父様が?」
「魔獣に襲われて怪我をしていた。逃げるうちに傷が開いて、もう歩けなかったんだ。エレナが俺を助けた」
アマリリアは黙って聞いた。
父と母の出会いについて、詳しく聞くのは初めてだった。
母はその話をほとんどしなかった。
父も。
「エレナは俺の傷を治した。魔術とも神聖術とも違う、見たことのない力だった」
「月の力……」
ライルが小さく呟く。
「恐らく。そのときは分からなかった。俺は数日間、森の中にある小さな家で世話になった」
「お母様は、そこに住んでいたのですか?」
「本人はそう言っていた」
「他に誰か?」
「見なかった」
ハロルドは膝の上で拳を握った。
「傷が治ったあと、俺は王都へ戻ろうとした。そのとき、エレナがついてきた」
「お父様について?」
「ああ」
「なぜ?」
「……俺が誘ったからだ」
アマリリアは瞬きをした。
アレクも少し驚いたように父を見る。
普段の父からは想像しづらい話だった。
「お母様を口説いたのですか?」
「言い方!」
「では、求婚を?」
「まだしていない! ただ、外の世界を見てみたいと言っていたから、一緒に来ないかと誘っただけだ」
「随分と積極的だったのですね」
「若かったんだ!」
父の顔が少し赤くなる。
ライルが口元を押さえた。
「殿下、笑わないでください」
「すまない」
「全く……」
ハロルドは咳払いをした。
「エレナは世間のことをほとんど知らなかった。金の使い方も、貴族の身分も、王都が何なのかさえ」
「本当に人間社会で暮らしていなかったのですわね」
「ああ。だから俺は、遠い地方の娘ということにして連れて帰った」
「ご実家について確認されなかったのです?」
「当時の父――お前たちの祖父には全て話した」
「お祖父様は信じたのですか?」
「最初は信じなかった。だが、エレナの力を見て考えを変えた」
「それで結婚を認めた?」
「……条件付きでな」
父の表情が曇る。
「エレナの正体を、王家へ報告しないこと。家の外では絶対に力を使わないこと。そして、子どもが生まれた場合、その子に異常が現れたら必ず王家へ相談すること」
「異常?」
アマリリアの声が低くなる。
「銀色の瞳。月光への異常反応。人では扱えない魔力。それらが現れた場合だ」
アマリリアは自分の瞳を思い出す。
薄い青。
銀ではない。
魔力も多いが、人間離れしているほどではない。
「私は普通に育ちましたわ」
「ああ。だから俺も、エレナの血は薄れたのだと思った」
「アレク兄様は?」
「俺も特に何も」
アレクが答える。
「だが母上は、リリアにだけ首飾りを渡した」
「そうだ」
父が頷いた。
「エレナは、お前が生まれたときから分かっていたらしい」
「何を?」
「お前がいつか、森へ呼ばれることを」
アマリリアの指が首飾りを強く握る。
「聞いておりませんわ」
「俺も詳しくは聞かされていない。何度尋ねても、時が来れば分かると言うだけだった」
「それで黙っていたのですか?」
「お前を森へ行かせたくなかった!」
父が突然、声を張り上げた。
アマリリアは言葉を止めた。
ハロルドは立ち上がりかけ、そのまま力が抜けたようにソファへ戻る。
「エレナは、お前が七歳の頃に死んだ」
「ええ」
「だが、本当に病死だったのか……俺にも分からない」
「どういう意味です?」
「亡くなる半年ほど前から、エレナは夜になると窓の外を見ていた。満月が近づくたび、森へ帰らなければならないと言うようになった」
アレクの表情が強張る。
「母上は、森へ戻ろうとしていた?」
「ああ」
「止めたのですか?」
「当然だ!」
父の声に、長年押し込めてきた感情が滲んだ。
「妻だったんだ! お前たちの母親だった! どこの誰かも分からない森の存在に返せと言われて、はいそうですかと送り出せるわけがないだろう!」
部屋が静まり返る。
アマリリアは父の顔を見た。
いつもなら軽薄で、自分の都合を優先し、娘に婚約を押し付けた愚かな父。
その父が、今は苦しそうに顔を歪めている。
「エレナは最後まで、俺を責めなかった」
ハロルドの声が震える。
「ただ、お前へ首飾りを渡した。そして『この子が自分で選ぶ日まで、何も教えないで』と言った」
「私が、自分で選ぶ?」
「ああ」
「何を?」
「分からん」
父は首を振る。
「だが、そのあと急に弱った。医師には原因不明と言われた。魔力も生命力も、少しずつ抜けていくようだった」
「月の守りから離れた影響……」
ライルが呟く。
ハロルドが彼を見る。
「殿下」
「何だ?」
「恐らく、エレナは《月の民》です」
「月の民?」
初めて聞く言葉だった。
アマリリアもライルへ顔を向ける。
「ご存じですの?」
「いや。俺も初耳だ」
ハロルドは立ち上がり、応接室の隅にある小さな机へ向かった。
そこへ置いていた革鞄を開く。
「領地へ送られる前、俺はこれだけ持ち出した」
取り出したのは、一冊の薄い日記だった。
革表紙は古く、角が擦れている。
「お母様の?」
「ああ」
「遺品は全て処分したのでは?」
「嘘だ」
「お父様」
「睨むな!」
「まだ何もしておりません」
「目が怖い!」
父は慌てて日記をアマリリアへ差し出した。
「エレナの部屋にあった。だが、ほとんど読めない」
開く。
前半は王国語だった。
王都へ来た日のこと。
初めて菓子を食べたこと。
父と喧嘩したこと。
アレクが生まれた日のこと。
アマリリアが生まれた日のこと。
そこから先、文章が変わっている。
細く曲がりくねった文字。
「同じですわ」
首飾り。
王家の古い契約。
全てに刻まれていたものと同じ文字だった。
ライルもアマリリアの肩越しに覗き込む。
「昨日の文字だ」
「ええ」
「読めるのか?」
「普通には無理です」
アマリリアは頁をめくった。
最後の方に、一つだけ王国語で書かれた文章があった。
『リリアへ』
アマリリアの指が止まる。
その下に続いている。
『あなたがこれを読む頃、きっと私はそばにいません』
息が浅くなった。
『ごめんなさい』
『私はあなたへ、何も教えられません』
『教えれば、あなたは選べなくなるから』
『月の娘として生きるか、人として生きるか』
『それは、あなた自身が決めなければなりません』
アマリリアは無意識に唇を噛んだ。
母の筆跡だ。
幼い頃に何度も見た。
勉強を教えてくれたとき。
誕生日に小さなカードを書いてくれたとき。
間違いない。
『ただ一つだけ』
『もし黒い髪の男の子が、月に奪われそうになっていたなら』
アマリリアの動きが止まった。
ライルも文章を見ている。
アレクとハロルドが近づいた。
『どうか、手を取ってあげて』
『あの子は、本当は月の花嫁へ捧げられる子ではありません』
誰も声を出せなかった。
その次の一文。
『月の花嫁など、最初から存在しないのです』
「……は?」
ライルの口から、間の抜けた声が漏れた。
アマリリアは何度も文章を読む。
「存在しない?」
「どういうことだ」
ライルが日記を受け取る。
「なら、俺は誰と契約した?」
「お母様が嘘を書いたとは考えにくいですわ」
「だが、俺は確かに女を見た。君も昨夜、その姿を見ただろう」
「ええ」
「王家には何百年分もの記録がある。《月の花嫁》へ七人が捧げられている」
「ですが、お母様は――」
そのとき。
日記の文字が光った。
「またか!」
ライルが日記を机へ置く。
薄い銀色の光が頁全体へ広がっていく。
読めなかった文字が次々と形を変え、王国語へ変換されていく。
誰も触れていない。
ただ、アマリリアの首元にある月の首飾りが淡く光っていた。
「読めますわ」
アマリリアは頁をめくる。
最初に現れた文章。
『月の花嫁とは、王家が作った偽りの名』
次。
『本当の契約者は、月そのものではない』
さらに。
『森の奥で王家を守り続けるものは、《月守》』
「月守?」
ライルが呟く。
『月守は、人を求めない』
『血も命も求めない』
『ただ、王家が約束を歪めた』
アマリリアの表情が険しくなる。
「王家が?」
ライルの声にも怒りが混じった。
さらに頁をめくる。
『守りの対価は、王族の命ではない』
『月守が求めたものは――』
文字がそこで途切れている。
アマリリアは次の頁へ進む。
空白。
さらに次。
同じく空白。
「続きは?」
ライルが身を乗り出す。
「ありません」
「破られたのか?」
よく見ると、日記の後半部分には紙を切り取った跡があった。
数頁分。
丁寧ではない。
急いで破ったように、端が不揃いになっている。
全員の視線が、自然とハロルドへ向いた。
「俺ではない!」
父は即座に両手を上げた。
「本当ですか?」
「本当だ! 見つけたときには既にこの状態だった!」
「では、お母様が?」
「分からん!」
アマリリアは切り取られた部分を指先でなぞる。
母が自ら外したのか。
誰かが奪ったのか。
そこに、王家の契約を解くための核心が書かれていた可能性は高い。
「お父様」
「何だ」
「お母様の遺品は、他に?」
父は一瞬、視線を逸らした。
「ございますのね?」
「……少し」
「どれくらい?」
「箱にして、五つほど」
アマリリアは微笑んだ。
父の顔が引きつる。
「お父様?」
「待て、リリア。これは理由が」
「全部処分したとおっしゃいましたわね?」
「お前に見せたくなかったんだ!」
「なぜ?」
「こうなると思ったからだ!」
「どうなっておりますの?」
「王家の古代契約に首を突っ込んでいる!」
「それはお父様が私へカルロス様との婚約を押し付けた結果ですわ」
「それとこれは別だろう!」
「繋がっております」
「偶然だ!」
「運命ですわ」
「どこでそんな言葉を覚えた!」
ライルが小さく笑った。
アマリリアが見ると、彼はすぐに真顔へ戻る。
「何ですの?」
「いや。君の父上にも同情する部分があると思っただけだ」
「殿下」
「何だ?」
「マイナス一点です」
「またか!」
少しだけ空気が緩む。
しかしライルはすぐに日記へ視線を戻した。
「前伯爵。残りの遺品を見せてほしい」
王子の声になっていた。
ハロルドは姿勢を正す。
「殿下。しかし、エレナは娘を巻き込みたくなかったのだと思います」
「もう巻き込まれている」
「ですが」
「昨日、首飾りはアマリリアを《月の娘》と呼んだ。そして俺と二人で森へ来いと告げた。俺たちは既にこの件の中心にいる」
「……」
「俺は死にたくない」
ライルはまっすぐ言った。
ハロルドの目が僅かに見開かれる。
「王子として国を守る責任はある。だが、もし過去の王家が契約を歪め、本来必要のない犠牲を続けてきたのなら、それを正したい」
ライルの手が、日記の上で拳を作る。
「俺のためだけではない。これまで森へ消えた七人のためにも」
部屋に沈黙が落ちた。
アマリリアは隣に座るライルを見る。
第1話で初めて会ったとき。
面倒そうに「知らん、帰れ」と言った男。
黒装束に刃を向けられ、慌てていた王子。
その彼が今は、自分の命だけでなく、何百年も続いた歪みそのものを正そうとしている。
胸の奥に、またあの感覚が生まれた。
この人を助けたい。
それはもう、カルロスとの婚約を逃れるためだけではない。
「お父様」
アマリリアが口を開く。
「私からもお願いいたします」
「リリア」
「お母様が私へ選ばせたかったのなら、私は何も知らないままでは選べません」
首飾りへ触れる。
「月の娘として生きるか、人として生きるか。それが何を意味するのかさえ、まだ分からないのです」
「お前は……森へ行くのか」
「はい」
「殿下と?」
「はい」
ハロルドは苦しそうに目を閉じた。
「エレナと同じだ」
「何がです?」
「止めても聞かないところが」
「お母様も?」
「ああ。最後の半年、何度喧嘩したと思っている」
「お父様が負けたのでしょう?」
「なぜ分かる!」
「何となくですわ」
「その顔で言うな!」
アレクが堪えきれず、口元を緩めた。
父はそれを見て、さらに疲れたように肩を落とす。
「分かった」
やがて、そう言った。
「残りの遺品も見せる」
「ありがとうございます」
「ただし条件がある」
アマリリアとライルが同時に父を見る。
「北の森へ行くなら、俺も連れていけ」
「却下ですわ」
「早い!」
「足手まといになります」
「父親だぞ!」
「存じております」
「エレナのことを一番知っているのは俺だ!」
その言葉で、アマリリアは止まった。
確かに。
母と出会い。
母と暮らし。
母の最期まで傍にいたのは父だ。
アマリリア自身も知らないことを、ハロルドは知っている可能性が高い。
「……検討いたします」
「最初からそう言え!」
「ただし、鍛えていただきます」
「何を?」
「満月まで十二日ありますので、最低限自分の身を守れる程度には」
「俺は伯爵家当主だった男だぞ!?」
「前当主です」
「そこを強調するな!」
「それに、お父様が森で魔獣に襲われてお母様へ助けられたことは先ほど聞きました」
「二十五年前だ!」
「現在の方が衰えておりますわね」
「なぜそんなに父親へ容赦がないんだ!」
父の悲鳴が応接室へ響いた。
ライルが今度こそ笑う。
それは皮肉でも、諦めでもない。
心の底から楽しそうな笑いだった。
アマリリアはその横顔を見て、自分まで少し笑ってしまった。
◇◇◇
それから一刻後。
ベスター家の地下資料室には、五つの大きな木箱が並べられていた。
母エレナの遺品。
衣服。
手紙。
古い書物。
知らない意匠の装飾品。
そして、何に使うのか分からない銀色の道具。
「随分ありますわね」
「これで『少し』なのか?」
ライルが呆れた声を出す。
ハロルドは気まずそうに視線を逸らした。
「捨てられなかったんだ」
その一言だけで、アマリリアは何も言えなくなった。
父は母を愛していた。
今まであまり考えたことがなかった。
婚約を勝手に決めるような父。
都合の悪いことは隠す父。
自分が気に入らなければ騒ぐ父。
けれど、その父にも自分の知らない感情があった。
アマリリアは一つ目の箱を開く。
中には衣服と、数冊の本。
ライルとアレクも手分けして調べ始める。
ハロルドは少し離れた椅子に座り、懐かしそうにそれらを眺めていた。
「殿下」
「何だ?」
「こちらを」
アマリリアが一枚の紙を取り出した。
薄く黄ばんだ紙。
そこには王国語で短い文章が書かれている。
『花嫁ではなく、守り手を選べ』
ライルが眉を寄せる。
「また花嫁か」
「裏にもございます」
裏返す。
『月は王を守らない』
『月が守るのは、約束を守る者』
アマリリアとライルは顔を見合わせた。
さらに箱を探す。
するとアレクが声を上げた。
「リリア。これを見ろ」
二つ目の木箱。
底板の隅。
そこに、小さな窪みがあった。
アレクが板を押す。
カチッ、と音がする。
底が持ち上がった。
「隠し底?」
ハロルドまで立ち上がる。
「俺も知らないぞ」
板を外す。
その下に入っていたのは、一通の封筒だった。
表には、母の字で名前が書かれている。
『アマリリアへ』
アマリリアの手が止まる。
封蝋には、三日月の紋章。
首飾りと同じ意匠だった。
「開けるぞ」
ライルが静かに言う。
アマリリアは頷く。
封蝋へ指を触れた。
その瞬間。
首飾りが光る。
封蝋が自然に割れた。
中から現れたのは一枚の手紙。
アマリリアはゆっくり開く。
『愛しいリリアへ』
『これを読めているなら、あなたはきっと黒髪の王子に出会ったのでしょう』
アマリリアは息を止めた。
隣で、ライルも固まる。
『その子を、どう思いましたか?』
手紙の文章は続いている。
『困った人でしょうか』
『面倒な人でしょうか』
『それとも、少しくらいは気に入りましたか?』
「お母様……」
まるで、全てを見ているような文章だった。
ライルが咳払いをする。
「続きは?」
「急かさないでくださいませ」
『もし気に入らなかったなら、無理に助けなくても構いません』
『これはあなたの人生です』
『月の娘だからといって、誰かのために自分を差し出す必要はありません』
『でも』
そこで改行されていた。
『もし、その子の手を取りたいと思ったなら』
『満月を待ってはいけません』
アマリリアの目が細くなる。
『満月の夜に森へ入れば、古い契約が完成してしまいます』
「何だと?」
ライルが手紙へ顔を近づける。
『月の花嫁という偽りが、もう一度繰り返される』
『だからその前に』
『新月の夜、二人で森へ来て』
アマリリアは窓のない地下室で、無意識に空を見上げようとした。
「新月は、いつです?」
ライルが即座に答える。
「三日後だ」
満月まで十二日。
しかし母の手紙が正しいなら。
残された時間は十二日ではない。
たった三日。
『そこで、本当の月守に会いなさい』
『そして問いなさい』
『最初の王が、何を奪ったのか』
手紙はそこで終わっていた。
誰も動かなかった。
静かな地下室に、魔石灯の微かな音だけが残る。
「三日後」
ライルが呟く。
「ああ」
アマリリアも手紙を見つめたまま答える。
「予定が変わりましたわね」
「十三日あると思っていた」
「今は三日です」
「準備が足りない」
「三日あれば十分でしょう」
「君は本当に簡単に言うな」
「難しく言えば、時間が増えますの?」
ライルがアマリリアを見る。
そして、少し笑った。
「増えないな」
「でしたら、決まりですわ」
アマリリアは母の手紙を丁寧に折りたたむ。
「三日後。新月の夜」
胸元の首飾りを握る。
「私と殿下で、北の森へ参ります」
「俺は最初から行くつもりだ」
「逃げないでくださいませね?」
「それは俺の台詞だ」
「私は逃げませんわ」
「知っている」
あまりにも自然に返された言葉に、アマリリアは少しだけ目を見開いた。
ライルも言ってから気づいたらしい。
二人の視線が重なる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、周囲の音が遠く感じられた。
先に視線を逸らしたのはライルだった。
「と、とにかく準備をするぞ」
「あら。顔が赤いですわ」
「地下が暑いだけだ」
「魔石冷房が効いておりますが」
「うるさい」
「ふふ」
アマリリアは笑った。
まだ恋ではない。
少なくとも、本人はそう思っている。
けれど。
カルロスとの婚約から逃れるためだけに脅した第一王子。
その手を、自分の意思で取りたいと思い始めていることには、まだ気づかないふりをしていた。
そして三日後。
二人は初めて、王家が数百年隠し続けてきた北の森へ足を踏み入れることになる。
そこに待っているのが《月の花嫁》ではなく。
王家に全てを奪われた、本当の守り手であることも知らずに。




