第4話 第一王子殿下を夜の私室へお招きしました
旧図書塔を出る頃には、学園を包んでいた夕暮れの色はほとんど消えかけていた。
西の空にはわずかな橙色が残っているものの、校舎の屋根や中庭の木々は既に濃い影へ沈み始めている。昼間は生徒たちの声で満ちていた石造りの廊下も、今は部活動を終えた者たちの足音が遠く響く程度で、窓の外から聞こえる虫の声の方がはっきりと感じられた。
アマリリアは旧図書塔から持ち出した書き写しを鞄へ収め、隣を歩くライルへ視線を向けた。
彼は不機嫌そうな顔をしている。
もっとも、それはアマリリアが彼の婚約者を巡る秘密へ踏み込み始めたからではない。旧図書塔を出る直前に呼び出した護衛騎士ディーンから、散々叱責されたためである。
「殿下。昨日起きたことをお忘れですか」
「忘れていない」
「第一王子が刃物を突きつけられた翌日に、その張本人の屋敷へ夜間訪問するなど、正気とは思えません」
「言い方を考えろ。俺が自分の意思で行くんだ」
「だからこそ正気を疑っております」
ディーンは本気で頭を抱えていた。
アマリリアの隣で話を聞いていた彼は、最初こそ王族への不敬だと怒りを露わにしていたが、説明が進むにつれて別の意味で顔色を悪くしていった。
王家の古い婚約。
《月の花嫁》。
次の満月まで十三日。
そして、アマリリアが書き写したことで反応した謎の文章。
ディーンは詳しい事情を知らされていなかったらしい。特にライルが十八歳になった時点で北の森へ捧げられる可能性があると知った瞬間、剣の柄を握る手が震えていた。
「なぜ、今まで黙っておられたのです」
「お前に話しても、どうにもならないと思った」
「どうにかなるかどうかを決めるのは、殿下お一人ではございません!」
「では、お前ならどうした?」
ライルの問いに、ディーンは答えられなかった。
契約を破れば、国を覆う結界が失われるかもしれない。
守ろうとすれば、第一王子を正体不明の存在へ差し出さなければならない。
護衛騎士としてライルを守りたい気持ちと、王国を守る責任。その二つの間で、ディーンは唇を噛み締めていた。
最終的に、ライルがベスター伯爵家へ向かうことは認められた。
ただし条件として、ディーンを含む護衛騎士三名が同行すること。ライルがアマリリアと二人きりになる場合も、すぐ駆けつけられる距離に待機すること。そして、今夜中に必ず王宮へ戻ること。
アマリリアとしては少々窮屈だったが、王子を連れ出す以上は受け入れるしかなかった。
「殿下」
「何だ」
「まだディーン様に叱られたことを気にしていらっしゃるのですか?」
「気にしていない」
「随分と口数が少ないですわ」
「誰のせいだと思っている」
「ディーン様でしょうか」
「君だ」
即答され、アマリリアは口元に笑みを浮かべた。
「私は殿下を助けるために動いておりますのに」
「その助け方が問題なんだ」
「結果が伴えばよろしいでしょう?」
「だから、結果だけよければ手段を問わない考えを改めろ」
「以前にも聞いた気がいたしますわね」
「昨日言った」
「では、まだ改めるまでの時間が足りませんわ」
ライルは深いため息をついた。
その少し後ろを歩くディーンが、同意するように何度も頷いている。残る二人の騎士は表情こそ崩していなかったが、アマリリアを見る目には明らかな警戒が宿っていた。
正門へ向かう途中、数人の生徒たちとすれ違った。
第一王子が護衛を連れ、アマリリアと並んで歩いている。
それだけでも注目を集めるには十分だった。
「今の、ベスター令嬢ではなくて?」
「殿下と一緒にいらしたわよね」
「昨日、何かあったという噂を聞いたけれど……」
「まさか、本当に婚約のお話が?」
抑えた声で囁く令嬢たちの視線が、アマリリアとライルの間を何度も往復する。
ライルは聞こえていないふりをして歩いていたが、耳の先がわずかに赤い。
「殿下」
「何も言うな」
「まだ何も申し上げておりませんわ」
「君が今から何を言うか分かる」
「まあ。以心伝心ですのね」
「違う」
ライルは歩調を速めた。
アマリリアも遅れずについていく。
その後ろでは、生徒たちの囁きがさらに大きくなっていた。
◇◇◇
ベスター伯爵家の王都屋敷までは、馬車で半刻ほどだった。
王家の紋章を掲げた馬車を使えば周囲の目を引くため、ライルはディーンたちとともに、アマリリアが普段利用している伯爵家の馬車へ乗ることになった。
向かい合わせの座席に、アマリリアとライル。
御者台の隣にディーン。
残る二人の護衛騎士は別の馬車で後方をついてきている。
車内へ入った直後、ライルは座席の下や壁、天井まで慎重に確認した。
「何をしていらっしゃるのですか?」
「仕掛けがないか確認している」
「仕掛け?」
「眠り薬を噴き出す穴や、外から扉を開けられなくする仕組みだ」
「私を何だと思っていらっしゃるのです」
「屋上で第一王子を監禁した令嬢」
「監禁ではありません。話し合いの途中で席を立たれないよう、配慮しただけですわ」
「それを監禁と呼ぶ」
ライルは一通り確認を終えると、ようやくアマリリアの向かいへ腰を下ろした。
馬車が動き出す。
車輪が石畳を転がるたび、細かな振動が座席へ伝わった。窓の外では、学園の高い塀が後方へ流れ、やがて夕刻の王都の街並みへ変わっていく。
商店は閉店の準備を始め、通りには仕事を終えた職人や、夕食の材料を求める人々が行き交っていた。パン屋からは焼きたての香りが漂い、食堂の前では今夜の献立を知らせる看板を店員が外へ運び出している。
アマリリアは窓の外を眺めながら、ふと口を開いた。
「殿下は、王都をこのようにご覧になることがございますか?」
「このように、とは?」
「王家の馬車ではなく、普通の馬車からです」
「たまにな」
「お忍びですの?」
「ああ。だが、ディーンがついてくるから完全なお忍びではない」
御者台の方から、何か言いたげな気配が伝わってきた。
「殿下をお一人にできるわけがございません」
扉越しにディーンの声が聞こえる。
「聞いていたのか」
「殿下の護衛ですので」
「便利ですわね」
「君は余計なことを教えるな」
ライルは窓の外へ顔を向けた。
しばらく街並みを眺めたあと、その表情が少しだけ柔らかくなる。
「王都の外も、見てみたかった」
独り言に近い声だった。
アマリリアはすぐには返事をしなかった。
昨日までであれば、軽い調子で「私と逃げますか」とでも言っていたかもしれない。けれど今は、ライルが次の満月をどのような気持ちで待っていたのかを知っている。
王都の外を見たい。
その願いが、ただの旅行への憧れではないことも。
「契約を破棄できましたら、行けばよろしいではありませんか」
アマリリアが答える。
「簡単に言うな」
「難しく考える必要がございますか?」
「第一王子が好き勝手に国を離れられると思うか?」
「王子の身分が邪魔なら、捨てればよろしいのです」
ライルが驚いたように振り向いた。
「君は本気で言っているのか?」
「王位が欲しいのであれば別ですが、殿下は王になりたいのですか?」
「……分からない」
「では、今すぐ決める必要はございません」
アマリリアは組んでいた脚をゆっくり直す。
「生き延びてから、お考えになればよいのです。王になるか。身分を捨てるか。王都を出るか。好きな方と結婚するか。その全ては、生きていなければ選べませんもの」
ライルは黙った。
車輪の音だけが、しばらく車内へ響く。
「君は、随分簡単に言うんだな」
「難しく言えば、何か変わりますか?」
「変わらないだろうな」
「でしたら、簡単な方がよろしいですわ」
ライルの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
それは昨日まで見せていた皮肉な笑みではない。
自然に零れた、穏やかな笑顔だった。
アマリリアはその表情を見つめ、胸の奥へ妙な温かさが広がるのを感じた。
困った顔も、慌てた顔も好みだった。
けれど、今の笑顔はそれ以上に――。
「何だ?」
見つめすぎたらしい。
ライルが不思議そうに問いかけてくる。
「いいえ。殿下にも、そのように普通に笑えるのだと思いまして」
「俺を何だと思っている」
「諦めを笑顔で隠す、少々面倒な殿方ですわ」
「君にだけは面倒と言われたくない」
「私のどこが面倒ですの?」
「全部だ」
ライルの返答は早かった。
先ほど感じた温かさが少しだけ冷める。
「マイナス二点ですわ」
「何の点数だ」
「将来の夫としての評価です」
「俺たちは互いの婚約を破棄するために協力しているのだろう?」
「今のところは」
「今のところ?」
「先のことは誰にも分かりませんもの」
アマリリアは窓の外へ顔を向けた。
ライルは何か言おうとしたようだったが、結局言葉にはしなかった。
その代わり、車内へ少し気まずい沈黙が流れる。
アマリリアは自分の胸元へ手を当てる。
なぜ、あのようなことを言ったのか。
偽装婚約は、カルロスとの婚約を避けるための手段でしかない。ライルの契約を破棄したあと、自分たちの婚約も解消する予定だ。
それなのに、彼が普通に笑っただけで、胸が少し落ち着かなくなった。
「……不可解ですわね」
「何がだ?」
「独り言です」
「聞こえている」
「忘れてくださいませ」
「嫌だと言ったら?」
「眠っていただきます」
「何を使って?」
「秘密ですわ」
ライルはすぐに座席の端へ身を寄せた。
その反応が面白く、アマリリアは先ほどの戸惑いを忘れて笑った。
◇◇◇
ベスター伯爵家の屋敷へ到着したとき、空は完全に夜の色へ変わっていた。
高い鉄門の両脇には魔石灯が灯され、帰宅した馬車を認めた門番が急いで門を開く。敷地内へ入ると、整えられた庭園の花々が淡い光を受け、夜風に揺れていた。
正面玄関には、既に執事と使用人たちが並んでいる。
その中央には、濃紺の騎士服を纏った青年が立っていた。
アマリリアと同じ銀色の髪。
端正な顔立ちだが、目元には疲労が滲んでいる。
彼こそ、アマリリアの兄アレク・ベスターだった。
本来なら王都騎士団の宿舎にいるはずだが、父の突然の引退と家督継承のため、急遽屋敷へ戻ってきていた。
馬車の扉が開き、最初にアマリリアが降りる。
「お帰り、リリア」
「ただいま戻りました、アレク兄様」
「今日は随分遅かったな。使いの者から、学園で用事があるとは聞いていたが――」
そこまで言ったところで、アレクの言葉が止まった。
アマリリアの後ろから、ライルが馬車を降りてきたからだ。
続いてディーン。
さらに後方の馬車から二人の王宮騎士が降りる。
アレクは何度か瞬きをした。
周囲の使用人たちも、王族の紋章が刻まれた制服を纏う青年を見て、揃って息を呑んでいる。
「第一王子殿下……?」
「夜分に突然訪ねてすまない、ベスター卿」
ライルが口を開いた瞬間、アレクは反射的にその場へ膝をついた。
使用人たちも一斉に頭を垂れる。
「お、お待ちしておりませんでしたので、お迎えの準備が整っておらず――」
「非公式の訪問だ。楽にしてくれ」
「はっ」
アレクは立ち上がったものの、まだ状況を理解できていない。
視線をライルからアマリリアへ移し、説明を求めるように眉を寄せた。
「リリア。これは、どういうことだ?」
「殿下を私の部屋へお招きしましたの」
玄関前の空気が凍りついた。
アレクの顔から血の気が引く。
使用人の一人が手にしていた盆を落としかけ、隣の者が慌てて支えた。
ディーンは予想していたのか、深く目を閉じて額を押さえている。
「お前の……部屋へ?」
「ええ」
「夜に?」
「はい」
「未婚の第一王子殿下を?」
「その通りですわ」
アレクは妹の肩を掴んだ。
「何を考えているんだ!」
「アレク兄様。殿下の御前ですわ」
「誰のせいで取り乱していると思っている!」
「心配せずとも、やましいことはいたしません」
「その言葉を、普段のお前を知らない人間しか信じないと思うな!」
兄から随分な言われようだった。
アマリリアが不満そうに眉を寄せる横で、ライルが口元を押さえている。
「殿下」
「すまない。君にもまともな感覚を持つ家族がいたのだと思って」
「どういう意味でしょうか」
「そのままの意味だ」
アレクは二人のやり取りを見て、さらに顔を引きつらせた。
「リリア。殿下と、いつからそのような関係に」
「昨日からですわ」
「昨日!?」
「正確には、昨日の午前に屋上で初めてまともにお話ししました」
「昨日初めて話した男を、もう私室へ招いたのか!」
「必要がございますので」
「どのような必要だ!」
「アレク卿」
ライルが静かに呼びかけたことで、アレクは口を閉じた。
「誤解させて申し訳ない。ベスター令嬢の部屋にある品を確認するだけだ。護衛も同行する」
「殿下ご自身が、その必要をお認めになっておられるのですか?」
「ああ」
アレクはライルを見たあと、再び妹を見る。
そして深い、深いため息を吐いた。
「分かりました。ただし、俺も同行します」
「兄様は家督継承の書類が残っているのでは?」
「お前と第一王子殿下を二人きりにするくらいなら、徹夜で書類を片づける方がましだ」
「二人きりではありません。ディーン様もいらっしゃいます」
「お前の部下がどこかに隠れている可能性もある」
「今日はおりませんわ」
「本当か?」
「少なくとも、この屋敷の中には」
「外にはいるのか!」
アレクの声が玄関前へ響いた。
庭園の植え込みが、風もないのに僅かに揺れた気がしたが、アマリリアは見なかったことにした。
◇◇◇
屋敷の二階にあるアマリリアの私室は、意外なほど落ち着いた部屋だった。
淡い青を基調とした壁紙。
大きな窓の前には白いカーテンが下がり、その横に読書用の椅子と小さな丸卓が置かれている。棚には文学作品や魔術書、歴史書が整然と並び、化粧台の上にも余計な装飾品はほとんどない。
天蓋付きの寝台だけは伯爵令嬢らしく立派だったが、それ以外は実用性を重視した内装である。
ライルは部屋へ入ると、少し意外そうに周囲を見回した。
「何ですの?」
「いや。もっと異様な部屋を想像していた」
「異様とは?」
「壁に武器が並び、床に侵入者用の罠があり、天井裏に黒装束が潜んでいるような」
「失礼ですわね」
「違うのか?」
アマリリアは答えず、部屋の中央へ進んだ。
アレクがすぐ後ろへ続き、その後ろからライルとディーンが入る。残る二人の護衛騎士は廊下に待機することになった。
これだけの人数が私室へ入ると、さすがに少し狭く感じる。
「首飾りはどこだ?」
「こちらです」
アマリリアは化粧台の前へ立った。
引き出しの奥には、小さな宝石箱が収められている。鍵を開け、蓋を持ち上げると、中には銀色の細い鎖と、月の形をした飾りが入っていた。
華美な品ではない。
小さな三日月の中央へ、透明に近い乳白色の石が嵌め込まれている。
「これが、母の形見ですわ」
アマリリアは両手で首飾りを取り出した。
ライルが隣へ近づき、月の飾りへ顔を寄せる。ディーンも後ろから覗き込んだが、アレクだけは不思議そうに首を傾げていた。
「母上が、このような物を持っていたのか?」
「兄様はご存じなかったのですか?」
「ああ。母上の遺品は、父上が全て管理していたと思っていた」
「これは母が亡くなる少し前、私へ直接くださったものです」
七歳の頃。
母は既に寝台から起き上がることも難しくなっていた。
白く細い指でアマリリアの手を包み、誰にも見つからないよう大切に持っているよう言った。
当時のアマリリアには、その意味が分からなかった。
ただ母がくれた最後の贈り物だったから、父にも兄にも見せず、ずっと自室の奥へ隠していた。
「裏を見せてくれ」
ライルに言われ、アマリリアは月の飾りを裏返す。
そこには第3話で見たものと同じ、細く曲線の多い文字が刻まれていた。
「やはり同じだ」
ライルが鞄から例の書き写しを取り出した。
古い記録に記された文字と、首飾りに刻まれた文字。形の特徴は明らかに一致している。
アレクが険しい表情を浮かべた。
「殿下。これは何の文字なのでしょうか」
「王家にも分からない。だが、ある古い契約に使われている」
「契約?」
「アレク兄様には、全てお話ししてもよろしいのでは?」
アマリリアがライルへ尋ねる。
彼は少し考えたあと、頷いた。
「ベスター家の当主となるなら、いずれ知る必要もあるだろう」
それからライルは、《月の花嫁》について説明した。
幼い頃の魔力暴走。
北の森。
王家と正体不明の存在との契約。
十八歳になった王族を、次の満月に差し出すこと。
アレクは最初こそ静かに聞いていたが、話が進むにつれ、顔から表情が消えていった。
「それでは、殿下は十三日後に……」
「北の森へ行くことになっている」
「そのまま戻らない可能性が高いと?」
「ああ」
アレクは言葉を失った。
騎士団に所属する彼は、ライルへ直接仕える立場ではない。しかし王族を守ることも騎士の役目であり、何より一人の人間が国のために犠牲となる事実を、簡単には受け入れられないようだった。
「父上は、このことを知っていたのでしょうか」
アレクが呟く。
「お父様が?」
「母上の首飾りに、王家の契約と同じ文字が刻まれている。偶然でないなら、父上が何も知らなかったとは考えにくい」
アマリリアは黙った。
父ハロルドが、母の出自について語りたがらなかったこと。
遺品の多くを自分で管理し、アマリリアたちへ触れさせなかったこと。
確かに、何かを隠していた可能性は高い。
「お父様を連れ戻しますか?」
「静養のため領地へ送ったのではないのか」
ライルが問う。
「必要なことができましたので」
「君の場合、必要がなくなったら再び送り返しそうだな」
「よくお分かりですわね」
「分かりたくなかった」
アレクは妹とライルを交互に見た。
「殿下。妹が何か失礼なことをしておりませんか?」
「既に数え切れないほど」
「申し訳ございません」
「兄様。身内だからと、何でも謝ればよいものではございませんわ」
「お前が謝らないから、俺が謝っているんだ!」
アレクの声が部屋へ響く。
しかしアマリリアは兄の怒りを軽く受け流し、首飾りを掌へ載せた。
「殿下。こちらへ触れてみてくださいませ」
「俺が?」
「王家の契約に関わる品なら、殿下の魔力へ反応するかもしれません」
「危険は?」
「分かりません」
「君は本当に迷いなく言うな」
「ですから、まず殿下に」
「普通は持ち主である君が試すところではないのか?」
「私に何かあれば、今後の調査が止まりますわ」
「俺に何かあっても止まる」
「では、一緒に触れましょう」
アマリリアは首飾りを掌へ載せたまま、ライルへ差し出した。
彼は警戒しながら手を伸ばし、指先で三日月の飾りへ触れる。
その瞬間だった。
乳白色の石が、強い銀色の光を放った。
「っ!」
ライルが手を引こうとした。
しかし指が飾りへ吸いついたように離れない。
「殿下!」
ディーンが腰の剣へ手を伸ばす。
同時にアマリリアの掌にも鋭い熱が走り、反射的に首飾りを落とそうとした。だが鎖が指へ絡みつき、まるで生き物のように手首へ巻きついてくる。
「リリア!」
アレクが妹の腕を掴んだ。
次の瞬間、部屋の魔石灯が一斉に消えた。
暗闇。
銀色の光だけが、アマリリアとライルの間で脈打っている。
首飾りから伸びた細い光の糸が、二人の手首を繋いでいた。
「離れろ!」
ディーンが剣を抜き、光の糸へ刃を振り下ろす。
金属音の代わりに、甲高い鐘のような音が響いた。
剣が弾かれ、ディーンの身体が後方へ押し戻される。アレクが受け止めたため転倒は免れたが、二人は衝撃に顔を歪めた。
「何ですの、これは……」
アマリリアは手首へ巻きつく光を見つめた。
熱い。
けれど、痛みはない。
むしろどこか懐かしく、幼い頃に母の腕へ抱かれていたときのような感覚が胸へ広がっていた。
隣に立つライルの呼吸が乱れる。
「殿下?」
「魔力が……吸われている」
彼の顔色が急速に青くなっていく。
アマリリアはライルの手を強く握った。
「しっかりなさいませ」
「言われなくても……」
返事をしたものの、身体が僅かに揺れる。
そのとき、アマリリアの耳元で女性の声が聞こえた。
『見つけた』
柔らかな声だった。
母に似ている。
けれど、母ではない。
『ようやく、月の娘が帰ってきた』
アマリリアは息を呑んだ。
「誰ですの?」
「リリア?」
アレクが問いかける。
どうやら声が聞こえているのは、アマリリアだけらしい。
『偽りの花嫁は、もう要らない』
首飾りの光がさらに強くなった。
部屋の壁も、家具も、兄たちの姿も、銀色の中へ溶けていく。
そしてアマリリアの目の前に、見知らぬ光景が広がった。
夜の森。
空には巨大な満月が浮かび、白い花が一面に咲いている。
花畑の中央には、銀色の髪を持つ女性が立っていた。
顔は光に隠れて見えない。
ただ、その腕の中には、小さな子どもが抱かれている。
黒髪の少年。
五歳の頃のライルだった。
少年は苦しそうに目を閉じ、女性の胸元へ身を預けている。
『この子を助けて』
別の声が聞こえた。
涙に濡れた女性の声。
恐らく、王妃だ。
『何でも差し出します。ですから、どうか息子を』
銀髪の女性が、少年の額へ手を置く。
『この子は、私のものになる』
『……はい』
『十八の月が満ちるとき、迎えに行く』
『はい』
『約束を違えれば、守りは消える』
王妃の嗚咽が聞こえる。
その向こうで、もう一人の男が立っていた。
国王。
まだ若い彼は拳を強く握りながら、何も言わず息子を見つめている。
銀髪の女性が顔を上げた。
光に隠れていた顔が、一瞬だけ見える。
その姿を認めた瞬間、アマリリアの心臓が大きく跳ねた。
「お母様……?」
そこにいた女性は、亡くなった母とよく似ていた。
完全に同じではない。
けれど銀色の髪も、優しげな目元も、唇の形も、記憶に残る母の姿と重なって見える。
女性は幼いライルを抱いたまま、まっすぐアマリリアの方へ顔を向けた。
過去の光景であるはずなのに、確かに目が合った。
『遅かったわね、アマリリア』
「私をご存じなのですか?」
『あなたを待っていた』
「何のために?」
女性の唇が笑みを形作る。
『あなたの花婿を、返すために』
その言葉と同時に、光景が砕けた。
◇◇◇
「アマリリア!」
ライルの声が聞こえた。
気づけば、アマリリアは私室の床へ膝をついていた。
魔石灯には再び光が戻っている。
首飾りは床へ落ち、先ほどまでの銀色の輝きも消えていた。
目の前には、同じように片膝をつくライルがいる。
彼は息を切らしながら、アマリリアの両肩を掴んでいた。
「聞こえるか?」
「……ええ」
「急に目を閉じたまま動かなくなった。何があった?」
ライルの顔が近い。
普段の皮肉も余裕もなく、本気でアマリリアを心配していることが、その目から伝わってくる。
胸の奥が、また妙に落ち着かなくなった。
「少し、近すぎますわ」
「今はそれどころではない!」
「顔が赤いですわよ?」
「君が倒れかけたからだ!」
ライルの声が僅かに震えている。
アマリリアはからかう言葉を続けようとしたが、やめた。
代わりに、彼の胸元へ手を置く。
心臓が早く打っていた。
「殿下も、かなり動揺していらっしゃいますのね」
「当たり前だ。君が突然――」
「ご心配をおかけしました」
アマリリアが静かに言うと、ライルの言葉が止まった。
「珍しいな」
「何がです?」
「君が素直に謝った」
「マイナス一点ですわ」
「なぜ俺が減点される」
「せっかくの私の謝罪を、素直に受け取らなかったからです」
ライルは何かを言い返しかけ、やがて諦めたように息を吐いた。
その後ろでは、アレクとディーンが不安そうに二人を見ている。
「リリア。何が見えた?」
兄に問われ、アマリリアは床に落ちた首飾りへ視線を向けた。
先ほど見た光景。
五歳のライル。
王妃と国王。
そして母に似た銀髪の女性。
「殿下が契約を結ばれたときの光景を見ました」
室内の空気が張り詰める。
「俺が五歳のとき?」
「ええ。北の森で、王妃陛下が貴方を助けてほしいと願われていました」
「《月の花嫁》は?」
「銀色の髪をした女性でした」
ライルの目が細くなる。
「建国王の記録と同じか」
「そして、その女性は……私の母に似ておりました」
「何だと?」
アレクが声を上げた。
「母上が、《月の花嫁》だと言うのか?」
「分かりません。似ていただけです。ですが、あの方は私の名を知っておりました」
「何と言われた?」
ライルの問いに、アマリリアは一瞬だけ迷った。
あなたの花婿を、返すために。
その言葉をそのまま伝えるべきか。
「アマリリア?」
「私を待っていたと」
「それだけか?」
ライルは誤魔化しを見抜いたらしい。
まっすぐな視線が向けられる。
アマリリアは約束を思い出した。
今回の件について、隠し事をしない。
それはライルだけではない。協力する以上、自分も守るべきだろう。
「その女性は、こう言いました」
アマリリアはライルを見つめる。
「私の花婿を、返すために、と」
沈黙。
ライルの顔が徐々に赤くなった。
アレクは妹と王子を交互に見て、口を半開きにしている。
ディーンは天井を仰ぎ、何かに耐えるように目を閉じた。
「誰の花婿だ?」
ライルがようやく声を絞り出す。
「私の、とおっしゃいましたわ」
「相手は?」
「この状況で、他にどなたがいらっしゃるのです?」
「待て。まだ決まったわけではない」
「ですが、《月の花嫁》がそうおっしゃったのです」
「正体不明の存在の言葉を簡単に信じるな」
「殿下は私の花婿になるのがお嫌ですか?」
アマリリアが少し身を乗り出す。
ライルは後ろへ下がろうとしたが、肩を掴んだままだったため、上手く距離を取れない。
「今は契約を解く話をしている!」
「答えになっておりませんわ」
「昨日会ったばかりだぞ!」
「日数に意味がございますか?」
「ある!」
「では、何日経てばよろしいのでしょう」
「そういう問題ではない!」
ライルの声が私室へ響く。
アマリリアはその反応を眺めながら、先ほどまで胸の中にあった不安が少し薄れていくのを感じていた。
母に似た存在。
自分の知らない出生。
月の娘。
考えなければならないことは多い。
けれど、ライルがいつものように慌て、こちらの言葉へ真剣に反応している。それだけで、奇妙なほど心が落ち着いた。
「殿下」
「何だ」
「ひとまず、手を離していただけますか?」
ライルはそのとき初めて、自分がアマリリアの両肩を掴んだままであることに気づいたらしい。
弾かれたように手を離す。
「す、すまない」
「いえ。心配してくださったことは嬉しく思います」
「そうか」
「ですが、もう少し長くても構いませんでしたわ」
「やはり謝る必要はなかったな」
ライルは顔を背けた。
アマリリアは小さく笑ったあと、床の首飾りを拾おうと手を伸ばした。
しかし、触れる直前で止まる。
三日月の中央に嵌め込まれた乳白色の石。
その内部に、先ほどまではなかった文字が浮かび上がっていた。
「殿下」
「どうした?」
「こちらをご覧ください」
ライルたちが近づく。
石の中に見えるのは、古い文字ではない。
現在使われている王国語で、日付が刻まれていた。
『満月まで、十二日』
今日を迎えたことで、残りの日数が一つ減っている。
その下へ、さらに小さな文字が浮かび上がった。
『月の娘と花婿、二人で森へ来たれ』
アマリリアは文章を読み上げた。
ライルの顔から、先ほどまでの赤みが消える。
「二人で……」
「どうやら、《月の花嫁》は殿下だけを迎えるつもりではないようですわね」
アレクが妹の前へ出た。
「リリア。お前まで北の森へ行くつもりか?」
「もちろんです」
「危険すぎる」
「私が行かなければ、殿下の契約を解く手掛かりは得られません」
「だからといって、お前まで帰れなくなったらどうする!」
兄の声には、隠しきれない恐れがあった。
父が突然引退し、自分が家督を継ぐことになった直後。今度は妹が、王家の古い契約へ巻き込まれた。
アレクの立場を考えれば、止めたくなるのも当然だろう。
アマリリアは立ち上がり、兄の正面へ向き直った。
「アレク兄様。私は必ず戻ります」
「何を根拠に」
「私が戻ると決めたからです」
「それは根拠にならない」
「これまで私が、できないことを口にしたことがございますか?」
アレクは答えなかった。
アマリリアは幼い頃から、一度決めたことは必ず成し遂げてきた。
学園主席になることも。
武術を身につけることも。
父が勝手に持ち込んだ縁談を全て潰すことも。
そして今回も、諦めるつもりはない。
「それに、殿下を一人で行かせるわけにはまいりません」
アマリリアはライルへ視線を向ける。
「こちらの方は、何でも一人で抱え込む癖がございますから」
「君に言われたくない」
「私は部下へ頼りますわ」
「脅すときだけだろう」
「情報収集にも頼っております」
「胸を張るところではない」
二人のやり取りを見たアレクは、長く息を吐いた。
「殿下」
「何だ?」
「妹を止めていただけませんか」
「俺にも無理だと思う」
「昨日会ったばかりでも、もう分かりますか」
「ああ。止めようとすれば、別の手段で勝手に森へ入る」
「よくお分かりですわね」
「褒めていない」
アレクは頭を抱えた。
ディーンも同じような表情をしている。
その夜、ベスター伯爵家では、第一王子を迎えたこと以上に大きな問題が生まれた。
十三日後、正確には既に十二日後となった満月の夜。
アマリリアとライルは、二人で北の森へ入らなければならない。
そして首飾りに現れた言葉が正しいなら、その先には《月の花嫁》が待っている。
アマリリアは掌の上に載せた首飾りを見つめた。
母に似た女性。
月の娘。
花婿。
自分が何者なのかも、ライルの契約をどう解くのかも、まだ分からない。
けれど一つだけ、はっきりしたことがある。
この問題は、偶然アマリリアがライルへ婚約を迫ったことで始まったのではない。
何者かは、ずっと以前から彼女がライルの前へ現れることを待っていた。
「殿下」
「今度は何だ?」
「やはり、私たちの出会いは運命だったようですわね」
「絶対に違う」
「では、なぜ私は殿下の花嫁として呼ばれたのでしょう?」
「花嫁ではなく、文には月の娘と書いてある」
「花婿の相手は花嫁では?」
「そうとは限らない」
「往生際が悪いですわ」
「君が早すぎるんだ!」
再び声を上げるライルを見て、アマリリアは楽しそうに笑った。
その足元では、月の首飾りが淡く光っている。
残された時間を数えるように。
そして二人を、満月の森へ導くように。




