第3話 第一王子殿下の婚約者は、人間とは限らないそうです
翌日の放課後。
授業を終えた生徒たちの声が、ルナティック王立学園の中央校舎から中庭へ溢れ出していた。
部活動へ向かう者。寄宿舎へ戻る前に食堂へ寄ろうと相談する者。教師に呼び止められ、提出物について小言を受けている者。石造りの廊下には幾つもの足音が重なり、開け放たれた窓から入る風が、掲示板に貼られた紙の端を小さく揺らしている。
その賑わいの中を、アマリリアは普段と変わらない足取りで歩いていた。
「アマリリア様、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「本日の魔術史の講義、難しかったですわね」
「そうですわね。第三王朝後期の魔術政策は、前後の政治状況を合わせて覚えると理解しやすいと思いますわ」
「まあ。ありがとうございます」
声をかけてきた令嬢へ微笑みを返し、アマリリアは足を止めずに進む。
表面上はいつも通りだった。
しかし制服の内側には、昨日準備した短剣が三本。袖口には毒針が二本。腰の細い革帯には眠り薬の小瓶と、指先ほどの太さに巻いた鋼線が隠されている。
さらに靴の踵には、ごく薄い刃を仕込んであった。
人はそれを重装備と呼ぶのかもしれない。
アマリリアにとっては、一人で未知の場所へ向かう際の最低限の嗜みである。
もっとも、今日はライルから「一人で来い」と明確に命じられている。
そのため黒装束たちは屋敷に残してきた。
少なくとも、学園の敷地内には。
「お嬢様、本当にお一人でよろしいのですか」
今朝、屋敷を出る直前まで、黒装束の一人は何度もそう確認してきた。
「殿下から一人で来るように言われておりますもの」
「我々は遠くから見守るだけでも」
「なりません。殿下は私が命令を守るかどうかも見ているのでしょう」
「ですが、旧図書塔は人目が少なく、結界の死角もございます」
「だからこそ、指定したのでしょうね」
「罠の可能性は?」
「もちろんございますわ」
「でしたら」
「罠であるなら、踏み潰せばよいだけです」
そう答えると、黒装束たちは揃って黙った。
彼らが納得したのか、諦めたのかは分からない。
ただし屋敷を出る際、普段よりも多くの武器を持たされたことから、心配されていることだけは理解できた。
アマリリアは中央校舎を抜け、中庭へ出た。
学園の敷地は広い。
中央には現在使われている五階建ての図書館があり、そこから西へ少し離れた場所に、古い石塔が建っている。
旧図書塔。
王立学園が現在の規模へ拡張される以前、書庫兼研究施設として使われていた建物である。老朽化と蔵書の移動によって、十年ほど前から正式には閉鎖されている。
近づく生徒はほとんどいない。
窓は細く、壁には蔦が絡み、塔の周囲だけ時間から取り残されたように静まり返っている。
古びた木製扉の前まで来ると、アマリリアは一度立ち止まった。
周囲に人の気配はない。
隠されている監視魔術も見当たらない。
ただし、扉の内側から薄い魔力を感じる。警戒結界か、侵入者を記録するための術式だろう。
「なるほど」
ライルは本当に、誰にも知られたくない話をするつもりらしい。
アマリリアは扉へ手をかけた。
鍵は開いている。
軋む音を立てながら押し開くと、乾いた紙と埃の匂いが鼻をくすぐった。
塔の内部は薄暗かった。
壁沿いに古い書棚が残されているが、中身のほとんどは運び出されている。窓から差し込む夕方の光が、空気中を漂う細かな埃を淡く照らしていた。
螺旋階段が上階へ続いている。
書状に指定されていたのは三階。
アマリリアは背後の扉を閉め、足音を抑えながら階段を上った。
一階。
二階。
三階へ近づくにつれ、外から聞こえていた生徒たちの声が遠ざかっていく。
静けさの中で、自分の呼吸と衣擦れの音だけが妙に鮮明に感じられた。
三階へ到着すると、正面に一枚の扉があった。
扉の向こうには、一人分の気配。
アマリリアは腰の短剣へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「殿下。参りましたわ」
「入れ」
中からライルの声が返ってきた。
アマリリアは扉を開く。
三階は、かつて閲覧室として使われていたらしい。
窓際に古い机が一つ。その上には数冊の本と、灯りをともした魔石灯が置かれている。壁には大きな王国地図が掛けられ、部屋の隅には壊れた椅子や書架が積み重ねられていた。
ライルは机の向こう側へ座っていた。
学園の制服姿ではあるが、昨日のように気を抜いた様子はない。黒髪は整えられ、背筋を伸ばし、机の上で両手を組んでいる。
「一人で来たようだな」
「ええ。殿下のご命令通りに」
「命令ではなく条件だ」
「どちらでも同じですわ」
「違う」
ライルはそう答えたあと、アマリリアの全身へ視線を走らせた。
「だが、武器は持ってきたな」
「あら。何のお話でしょう」
「右の袖に針が二本。腰に短剣が一本。左脚に二本。靴にも何か仕込んでいるだろう」
アマリリアは僅かに眉を上げた。
「よくお分かりになりましたわね」
「歩き方が昨日と少し違う」
「たった一日で私の歩き方を覚えたのですか?」
「警戒すべき相手の動きは覚える」
ライルの返答に、アマリリアは少しだけ目を細めた。
褒められたわけではない。
それでも、自分の些細な変化に気づかれたことが妙に心地よかった。
「殿下も武器をお持ちですわね」
「当然だ」
「机の下に剣が一本。右の袖口には魔術触媒。左手の指輪も結界用でしょうか」
「気づいたか」
「警戒すべき相手の装備は確認いたしますもの」
二人はしばらく見つめ合った。
先に笑ったのはライルだった。
「似た者同士だと言われたことは?」
「殿下と私が?」
「疑い深いところはな」
「私は慎重なだけですわ」
「俺も同じだ」
「では、似ておりませんね。私の方が素直ですもの」
「今日一番の冗談だな」
アマリリアは勧められる前に、机の手前に置かれた椅子へ腰を下ろした。
「それで、今日は何をお話しくださるのですか?」
「その前に、昨日の調査結果を聞こう」
「まだ一日も経っておりませんわ」
「何も調べていないのか?」
「まさか」
アマリリアは膝の上で両手を重ねた。
「殿下が五歳の頃、半年近く公の場から姿を消していたこと。九歳から十一歳まで、王都北部の神殿へ定期的に通っていたこと。その二つが、婚約と関係している可能性が高いと考えております」
ライルの目が僅かに動いた。
ほんの一瞬だったが、アマリリアは見逃さない。
「さらに、殿下の婚約が公にされていない理由について、幾つか仮説を立てました」
「聞こう」
「一つ目は、幼少期に結ばれた口約束。二つ目は、他国との非公開契約。三つ目は、神殿を介した魔術的な誓約です」
「他には?」
「殿下ご自身が、婚約者の正体を知らされていない可能性」
ライルの指先が、机の上で僅かに止まった。
反応は小さい。
だが、それだけで十分だった。
「当たりですわね」
「何がだ」
「殿下は婚約者がいることは知っている。けれど、相手の正体を完全にはご存じない」
「推測にすぎない」
「否定なさらないのですね」
「君は何を言っても都合よく解釈しそうだからな」
ライルは椅子の背へ身体を預けた。
「それだけか?」
「いいえ。王宮の公式記録に婚約者が存在しない以上、通常の婚姻契約ではありません。人間同士の契約でない可能性も考えております」
その瞬間、室内の空気が変わった。
ライルの表情から、僅かに残っていた余裕が消える。
窓の外では風が蔦を揺らし、葉が石壁を擦る音が聞こえた。
「なぜ、そう思った」
低い声だった。
アマリリアはゆっくりと答える。
「殿下は昨日、下手に動けば国そのものへ影響が出るとおっしゃいました。高位貴族や他国の王女との婚約なら、確かに外交問題にはなるでしょう。ですが、その程度であれば王家の交渉によって解決できます」
「相手が大国の王女なら、簡単ではない」
「それでも、人間同士の話です」
アマリリアはライルから視線を逸らさなかった。
「殿下が私の能力を試しているのは、単に秘密を守れるか確かめるためではない。普通の貴族社会の常識では辿り着けない相手だからです」
「……続けろ」
「王家が古くから契約を結ぶ存在。国の安寧に関わり、王族の婚姻を求めるほど強い力を持つ者。精霊、神獣、古代種、あるいは――」
アマリリアは一度言葉を切った。
「人ではない何か」
沈黙が落ちた。
ライルは何も答えない。
しかし、その沈黙こそが答えだった。
アマリリアは背筋を伸ばし、僅かに身を乗り出す。
「私の推測は、どこまで正しいのでしょうか?」
「正直に言えば、予想以上だ」
ライルはゆっくり息を吐いた。
「一日も経たず、そこまで辿り着くとは思わなかった」
「では、婚約者は人間ではないのですね」
「そこまでは言っていない」
「ですが、否定もなさいません」
「本当に厄介な令嬢だな」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
ライルは額へ手を当て、しばらく考え込んだ。
やがて覚悟を決めたように手を下ろす。
「全部ではない。だが、君が協力者として最低限知るべきことは話そう」
「お願いいたします」
「まず、俺の婚約は正式な婚姻契約ではない」
「予想通りですわね」
「五歳のとき、俺は死にかけた」
その言葉に、アマリリアの表情から笑みが消えた。
ライルは机の上へ視線を落とし、静かに続ける。
「公式には高熱とされている。だが、本当は魔力暴走だった」
「魔力暴走……」
「俺は生まれつき、王家の中でも魔力が強かった。幼い身体では制御できないほどにな」
魔力は多ければよいというものではない。
肉体が耐えられる量を超えれば、内側から臓器や魔力回路を傷つける。特に幼い子どもの魔力暴走は死亡率が高く、生き延びても後遺症が残ることが多い。
「王宮の医師も、魔術師も、誰も止められなかった。父上と母上は、最後の手段として北の森へ俺を連れていった」
「北の森とは、王都北部の禁足地ですか?」
「ああ」
王都から馬車で半日ほど北へ進んだ場所に、王家が管理する広大な森がある。
一般人の立ち入りは禁止されており、貴族であっても国王の許可なしには入れない。表向きは希少な薬草と魔獣を保護するためとされているが、その最深部に何があるのかは公表されていない。
「森の奥には、王家が建国以前から契約を結んでいる存在がいる」
「精霊王ですか?」
「近いが、違う」
「神獣?」
「それも違う」
ライルは言葉を探すように、一度目を閉じた。
「俺たちは、その存在を《月の花嫁》と呼んでいる」
アマリリアは瞬きをした。
「月の、花嫁?」
「ああ」
「それは個人の名ではなく、呼び名ですわね」
「正体も、本当の名前も分からない。人の姿をしているとも、巨大な獣だとも、霧そのものだとも伝えられている」
「随分と曖昧ですのね」
「王家に残る記録が、時代ごとに違うんだ」
ライルは机の上に置かれていた一冊の古い本を開いた。
革張りの表紙は擦れ、紙は黄ばんでいる。王家の紋章が刻まれているが、通常使われているものより古い意匠だった。
「建国王の時代には、銀髪の女として記録されている。三百年前には白い鹿。百年前には、月光の中から聞こえる声だけだったそうだ」
「同じ存在なのですか?」
「分からない。だが、王家は代々、同じものとして扱っている」
ライルは頁をめくり、ある箇所をアマリリアへ向けた。
そこには古い文字で、短い誓約文が記されていた。
『王家の血が尽きぬ限り、月の守りは国を覆う。されど最も濃き血を持つ者、月の花嫁へその身を捧げよ』
アマリリアは文章を二度読んだ。
「最も濃き血を持つ者……」
「その代の王族で、最も強い魔力を持つ者という意味だとされている」
「それが殿下なのですね」
「ああ」
ライルの声には、自嘲が混じっていた。
「五歳の俺を助ける代わりに、王家は俺を差し出した」
アマリリアは言葉を失った。
昨日まで、ライルの婚約者問題を面白い謎のように捉えていた。
けれど、これは婚約などではない。
生き延びるための代償として、幼い子どもを正体不明の存在へ捧げた。ただ、それを王族らしい言葉で飾り、婚約と呼んでいるだけだ。
「国王陛下と王妃陛下が、お決めになったのですか?」
「他に方法がなかった」
「それは、殿下のお答えではございません」
アマリリアの声が少し低くなる。
ライルが顔を上げた。
「五歳の子どもに決められることではない」
「ですから、ご両親が?」
「ああ」
短い返事だった。
アマリリアの胸の奥へ、冷たいものが広がっていく。
父が自分をカルロスへ売ったと知ったとき、腹は立った。家の利益と自分の自由を天秤にかけ、迷わず利益を選んだ父を軽蔑もした。
しかし、自分は成人に近く、抵抗する力も持っている。
五歳のライルには、それすらなかった。
「殿下は、その《月の花嫁》をご覧になったのですか?」
「一度だけ」
「どのような姿でした?」
「覚えていない」
「覚えていない?」
「森へ連れていかれたとき、俺はほとんど意識がなかった。ただ、冷たい手が額に触れたことと、女の声だけは覚えている」
「何と?」
ライルは少し迷ってから答えた。
「十八になったら迎えに行く、と」
アマリリアは机の上で組んでいた指へ力を込めた。
「殿下は今、お幾つでしたか?」
「十八だ」
「では、今年中に?」
「正確には、次の満月だ」
窓の外へ目を向ける。
夕方の空には、まだ薄い月が浮かび始めたばかりだった。
次の満月まで、二週間もない。
「その日に、《月の花嫁》が殿下を迎えに来るのですか?」
「王家の記録によればな」
「迎えに来たあとは?」
「分からない」
「殿下」
「本当に分からないんだ」
ライルは苦笑した。
「過去に《月の花嫁》へ捧げられた王族は七人いる。全員、満月の夜に森へ入り、そのまま戻らなかった」
「死亡したという記録は?」
「ない。遺体も、遺品も見つかっていない」
「つまり、行方不明」
「王家では、《月の花嫁》と結ばれたと表現する」
「随分と都合のよい表現ですわね」
「俺もそう思う」
アマリリアは椅子から立ち上がった。
じっと座っていられなかった。
窓の近くまで歩き、夕暮れの空を見上げる。
胸の中で、昨日から感じていた苛立ちが形を変えていた。
ライルの婚約者が誰なのか。
その謎への興味は、まだある。
だが今は、それ以上に腹が立っていた。
王家にも。
古い契約にも。
五歳の子どもを救う代わりに、十八歳になったら差し出せと要求した何者かにも。
「それで、殿下は婚約を解消したいのですね」
「ああ」
「なぜ、もっと早く動かなかったのです?」
「動いた」
ライルの声が背後から聞こえる。
「十歳の頃、初めて全てを知った。それから八年、王宮の記録も、神殿の文書も、森に関する伝承も調べた。父上にも契約を破棄できないか何度も尋ねた」
「国王陛下は何と?」
「国を守るために必要な犠牲だと」
アマリリアは振り返った。
ライルの顔には笑みが浮かんでいる。
昨日見たものと同じだった。
怒りも悲しみも、諦めも、全てを皮肉の下へ押し込めた笑顔。
「月の守りが失われれば、王国全土を覆う結界が弱まる。北の魔獣が南下し、国境の封印も崩れる可能性があるらしい。何万人もの命と、第一王子一人の命。王としてどちらを選ぶべきか、答えは明らかだろう?」
「殿下は、納得していらっしゃるのですか?」
「王子としてはな」
「私は殿下ご本人へ聞いております」
ライルの笑みが僅かに止まった。
アマリリアは机へ戻り、彼の正面に立つ。
「王子としての答えではなく、ライル様ご自身はどう思っていらっしゃるのですか?」
「初めて名前で呼んだな」
「今は、そのようなことはどうでもよろしいのです」
「どうでもよくはない。俺たちは昨日会ったばかりだ」
「では、第一王子殿下ご本人は、どう思っていらっしゃるのですか?」
ライルは答えなかった。
窓から入った風が、古い本の頁をゆっくりめくる。
やがて彼は視線を伏せ、静かに口を開いた。
「死にたくない」
それは、とても小さな声だった。
「国を守る責任は分かっている。俺一人で済むなら、それが最善だという理屈も理解している。それでも、死にたくない」
アマリリアは何も言わずに聞いた。
「もっと生きたい。王都の外も見たい。王になれるかどうかは分からないが、自分がどこまでやれるのか試したい。好きな相手と結婚して、子どもを持つことだって……考えたことくらいはある」
最後の言葉だけ、少し照れ隠しのように早かった。
それでも、アマリリアは笑わなかった。
「ですが、誰にも言えなかったのですね」
「言っても困らせるだけだ」
「国王陛下や王妃陛下にも?」
「母上は今でも、俺を差し出すと決めたことを悔やんでいる。父上は国王として決断を変えられない。俺が死にたくないと訴えたところで、二人を追い詰めるだけだ」
「だから、一人で調べていたのですか」
「ああ」
「護衛のディーン様は?」
「事情の一部しか知らない」
「随分と不器用ですわね」
「君に言われたくない」
ライルは顔を上げた。
「だから、君が現れたとき、使えると思った」
「あら」
「王家の事情も、貴族社会の常識も気にせず、第一王子を脅して婚約を迫るような令嬢なら、古い契約を壊すことにも躊躇しないだろう」
「人を破壊専門の道具のようにおっしゃらないでくださいませ」
「違うのか?」
「否定はいたしませんが、言い方というものがございます」
アマリリアは再び椅子へ腰を下ろした。
そして机の上の古い本を、自分の方へ引き寄せる。
「契約の原本はどこにございますか?」
「北の森にある祭壇だ」
「王宮には写しだけ?」
「ああ。原本へ触れられるのは、国王と契約対象者だけだ」
「でしたら、殿下は入れるのですね」
「森へは入れる。だが、祭壇は満月の夜にしか現れない」
「次の満月まで、二週間弱」
「正確には十三日だ」
アマリリアは本の頁をめくりながら考える。
契約を破棄するには、まず内容を正確に把握しなければならない。
王家に残る写しがどこまで正しいのか。何を条件に《月の花嫁》が王国を守っているのか。ライルを差し出さなければ、本当に結界が失われるのか。
そして何より、《月の花嫁》とは何者なのか。
「殿下」
「何だ?」
「最初に一つ、約束してくださいませ」
「内容による」
「今後、私に隠し事をなさらないでください」
「それは無理だ」
即答だった。
アマリリアの眉が寄る。
「私たちは共犯者ですのよ?」
「協力者だ。共犯ではない」
「第一王子を脅して偽装婚約し、王家の古い契約を破壊しようとしているのです。十分に共犯でしょう」
「まだ偽装婚約は成立していない」
「細かなことですわ」
「重要だ」
「では、婚約者候補兼共犯者として申し上げます。情報を隠されれば、正しい判断ができません」
「俺にも話せないことはある」
「例えば?」
「王家の機密だ」
「今さらですか?」
アマリリアは古い本を指先で叩いた。
「正体不明の存在へ第一王子を差し出す契約以上に、重大な機密があるのですか?」
「あるかもしれない」
「では、線引きを決めましょう」
アマリリアは真っ直ぐライルを見る。
「今回の契約と《月の花嫁》に関することは、全て話してください。それ以外の王家の機密は聞きません」
「君が勝手に調べる可能性は?」
「必要がなければ調べませんわ」
「必要があると判断したら?」
「徹底的に調べます」
「やはり信用できないな」
ライルはそう言いながらも、先ほどより表情を緩めていた。
「分かった。今回の件に関することは、俺が知る限り全て話す」
「約束ですわよ」
「ああ」
「破った場合は?」
「必要か?」
「もちろんです」
アマリリアは少し考え、笑顔を浮かべる。
「一日、私の言うことを何でも聞いていただきます」
「断る」
「では、三日」
「増やすな」
「殿下から案を出してくださいませ」
「契約と関係する情報を意図的に隠した場合、君は協力をやめていい」
「それでは殿下が困るだけです」
「違うのか?」
「私は一度受けた仕事を途中で投げ出すのが嫌いなのです」
「では、どうしろと」
「一日、私の言うことを聞いてください」
「そこへ戻るのか」
ライルは警戒するようにアマリリアを見た。
「何をさせるつもりだ?」
「そのときにならなければ分かりませんわ」
「余計に受けられない」
「では、命に関わること、犯罪行為、王子としての立場を著しく損なうことは命じないと約束いたします」
「犯罪行為の基準が君と俺で違いそうだ」
「失礼ですわね」
「昨日の行動を思い出せ」
アマリリアは少しだけ視線を逸らした。
確かに、第一王子を黒装束で囲み、短剣を突きつけ、屋上の扉を施錠した。
一般的には犯罪と見なされる可能性がある。
「では、国法に触れることは命じません」
「本当だな?」
「ええ」
ライルは長い沈黙のあと、諦めたように頷いた。
「分かった」
「約束成立ですわね」
「君は本当に、自分に有利な条件を作るのが上手いな」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
アマリリアは満足して古い本へ視線を戻した。
「次に、この写しをお借りできますか?」
「駄目だ」
「なぜです?」
「王家の機密文書だ。持ち出せるわけがない」
「では、こちらで写します」
「今日中に?」
「当然ですわ」
本は百頁近くある。
文字も古く、ところどころ掠れている。普通に書き写せば数日はかかるだろう。
ライルは疑うような目を向けたが、アマリリアは鞄から紙と筆記具を取り出した。
「準備がよいな」
「何か重要な資料を見せていただけると思っておりましたので」
「俺が何も話さなかったら?」
「少し脅してでも聞き出すつもりでした」
「武器を持ってきた理由はそれか」
「半分ほどは」
「残り半分は?」
「秘密ですわ」
アマリリアは本の最初の頁を開いた。
古い文字を目で追いながら、紙へ素早く書き写していく。
筆先はほとんど止まらない。
ライルは向かい側からその様子を眺めていたが、やがて驚いたように身を乗り出した。
「速すぎないか?」
「この程度、普通ですわ」
「普通の令嬢は、左右の手で別の頁を書き写したりしない」
アマリリアは右手で本文を、左手で注釈を書き写していた。
「時間が惜しいので」
「君は本当に何者なんだ」
「ベスター伯爵家の令嬢ですわ」
「それだけでは説明がつかない」
写しを続けながら、アマリリアは微笑んだ。
「殿下が婚約者の正体を全て教えてくださったら、私の秘密も少しずつお話しいたします」
「取引か?」
「ええ。お互い、知らないことが多い方が楽しめるでしょう?」
「俺は早く全て知りたい」
「焦る殿方は嫌われますわよ」
「またそれか」
旧図書塔の窓から差し込む光は、少しずつ橙色へ変わっていった。
机の上には書き写された紙が重なり、古い本の頁が次々とめくられていく。
その間、ライルは《月の花嫁》について知っていることを話した。
王家の結界は三つの層に分かれていること。
北の森には、月の光が届く夜だけ開く道があること。
過去に捧げられた王族のうち、最も古い者は建国王の弟であったこと。
そして、捧げられた者が消えたあと、国には必ず大きな豊穣の時代が訪れていること。
「まるで、生贄ですわね」
アマリリアが呟く。
「王家では婚姻と呼ぶ」
「呼び方を変えても、本質は変わりません」
「ああ」
ライルは否定しなかった。
やがて本の最後の方まで写し終えたところで、アマリリアの手が止まった。
「殿下」
「どうした?」
「この頁だけ、文字が違います」
開かれた頁には、それまで使われていた古代王国文字とは異なる、細く曲線の多い文字が並んでいた。
ライルも椅子から立ち上がり、アマリリアの隣へ回り込む。
「王宮の学者も読めなかった部分だ」
「何語かも不明なのですか?」
「ああ。精霊文字に似ているが、完全には一致しないらしい」
アマリリアは顔を近づけた。
その拍子に、隣に立つライルの肩と僅かに触れる。
彼が小さく身を引いた。
「あら?」
「何だ」
「殿下、女性に慣れていらっしゃらないのですか?」
「今は文字を見ているんだろう」
「顔が少し赤いですわ」
「夕日のせいだ」
「そういうことにして差し上げます」
「集中しろ」
ライルは咳払いをし、頁へ視線を戻した。
アマリリアもそれ以上からかわず、文字を指先で追う。
読めない。
けれど、どこかで見た記憶があった。
「この文字……」
「知っているのか?」
「いえ。ただ、似たものを見たことがございます」
「どこで?」
アマリリアは記憶を辿った。
屋敷の資料室ではない。
学園の授業でもない。
もっと幼い頃。
母がまだ生きていた頃、彼女の部屋で――。
「母の形見ですわ」
「形見?」
「母が残した首飾りに、同じような文字が刻まれております」
ライルの表情が変わった。
「君の母上は、どこの出身だ?」
「父からは、南部の小貴族の娘だと聞いております」
「家名は?」
「聞かされておりません」
「伯爵夫人だった女性の実家が不明なのか?」
「母は私が七歳の頃に亡くなりました。それ以前から身体が弱く、社交の場にもほとんど出ていなかったそうです。父は母について尋ねると、いつも話を逸らしました」
これまで深く気にしたことはなかった。
父が母を嫌っているのだと思っていたからだ。
しかし今、王家の古い契約書に記された正体不明の文字と、母の形見に刻まれた文字が似ている。
偶然とは思えない。
「首飾りはどこにある?」
「屋敷の私室です」
「明日、見せてくれ」
「殿下が我が家へいらっしゃるのですか?」
「駄目か?」
アマリリアは少し考えたあと、口元へ笑みを浮かべる。
「もちろん歓迎いたしますわ。ただし、正式な訪問となれば、我が家と王家の関係を周囲へ勘繰られます」
「隠れて行く」
「第一王子殿下が伯爵令嬢の私室へ忍び込むのですか?」
「首飾りを見るだけだ」
「世間はそう受け取ってくれるでしょうか」
「誰にも知られなければいい」
「まあ、積極的ですのね」
「言い方を考えろ」
ライルは眉間を押さえた。
アマリリアは楽しそうに笑いながら、本の問題の頁を慎重に写し始める。
その文字を一つずつ紙へ移すたび、胸の奥に奇妙な感覚が広がった。
懐かしい。
読めないはずなのに、意味の分からないはずなのに、ずっと昔から知っていたような感覚がある。
最後の一文字を書き写した瞬間だった。
紙の上の文字が、淡い銀色の光を放った。
「なっ」
ライルが剣の柄へ手を伸ばす。
アマリリアも反射的に椅子から立ち上がった。
銀色の光は書き写した文字の上を流れ、やがて一つの文章へ変わっていく。
古い文字ではない。
現在使われている王国語だった。
『月の娘が帰るとき、偽りの花嫁はその名を失う』
アマリリアとライルは、同時に文章を読み上げた。
光は数秒で消え、紙の上には元の読めない文字だけが残る。
室内に重い沈黙が落ちた。
「月の娘……」
ライルが呟く。
「偽りの花嫁とは、《月の花嫁》のことでしょうか」
「分からない」
「その名を失う、というのは?」
「分からない」
ライルは同じ言葉を繰り返した。
だが、その視線はアマリリアへ向けられている。
「なぜ、君が書き写したら文字が反応した?」
「私にも分かりませんわ」
「君の母上の首飾りと関係があるのか?」
「可能性は高いでしょうね」
アマリリアは光の消えた紙を見つめた。
カルロスとの婚約を避けるため、第一王子を脅した。
ただ、それだけだった。
そのはずなのに、自分の亡き母と、王家が古くから結ぶ異形の婚約が、思いもよらない形で繋がり始めている。
「殿下」
「何だ?」
「明日まで待つ必要はございません」
「どういう意味だ?」
「今から我が家へ参りましょう」
「もう日が暮れるぞ」
「だからこそ、人目を避けられます」
「俺は王宮へ戻らなければならない」
「書き置きをなさればよろしいのでは?」
「第一王子が、そんな簡単な理由で外泊できると思うか?」
「では、誘拐されたことにいたしましょう」
「犯人は誰だ」
「私ですわ」
「堂々と言うな!」
アマリリアは紙と本を手早くまとめ始めた。
「次の満月まで十三日しかございません。一晩を無駄にする余裕はありませんわ」
「それはそうだが」
「それに、殿下も気になるのでしょう? 私の母が何者だったのか。そして首飾りに、何が刻まれているのか」
ライルは言葉を止めた。
迷いは明らかだった。
王子としての立場を考えれば、無断で伯爵家を訪れるなど軽率すぎる。まして未婚の令嬢の私室へ、夜に忍び込むなど許されることではない。
しかし、時間は限られている。
そして今、初めて契約を解くための手掛かりらしきものが現れた。
「……ディーンに伝えてくる」
ライルは根負けしたように答えた。
「一人で行くとは仰らないのですね」
「昨日の今日で、君の屋敷へ一人で行けるか」
「残念ですわ」
「何が残念なんだ?」
「殿下と二人きりの夜になるかと思いましたのに」
「だから、言い方を考えろ!」
ライルの声が旧図書塔へ響く。
アマリリアは笑いながら、写し終えた紙を鞄へ収めた。
その中で、先ほど光った一枚だけが、誰にも気づかれないほど僅かに熱を持っている。
そして紙に記された文字のうち、一つだけ。
《娘》を意味する文字が、アマリリアの銀色の髪と呼応するように、淡く輝き続けていた。




