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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第2話 第一王子殿下の婚約者は、王宮にも記録がございません


「では、交渉成立ということでよろしいですわね?」


 ルナティック王立学園の屋上に吹く風は、先ほどより少しだけ強くなっていた。


 白い円卓の上では、二人分のティーカップから細い湯気が立ち昇っている。校舎の向こうに広がる王都の屋根は陽光を受け、赤や青の瓦をきらきらと輝かせていたが、その穏やかな景色とは裏腹に、アマリリアの胸中には幾つもの疑問が渦巻いていた。


 自分には、既に婚約者がいる。


 第一王子であるライルは、確かにそう言った。


 しかしアマリリアが把握している限り、王家から第一王子の婚約が発表された事実はない。公的な記録にも、貴族院の書類にも、国外へ送られた親書にも、そのような話は一切記されていないはずだった。


 王族の婚姻は国政に直結する。


 王位継承権第一位の王子に婚約者がいるなら、たとえ相手の名を伏せていたとしても、婚約が結ばれた事実だけは公表されていなければおかしい。


 それなのに、ライルは実に当然のことのように言った。


「俺には、既に婚約者がいる」


 と。


「交渉成立だ」


 ライルはアマリリアの問いに答えると、握っていた手を離した。


 その所作は落ち着いている。先ほどまで黒装束の短剣を首筋へ突きつけられていたにもかかわらず、今では彼の方が主導権を握っているようにさえ見えた。


 アマリリアは離れていく手を見つめてから、正面のライルへ視線を戻す。


「それでは、殿下の婚約者について詳しくお話しくださいませ」


「断る」


「……はい?」


「話を受けると約束したな。だが、今すぐ全てを話すとは言っていない」


 ライルは何食わぬ顔で焼き菓子へ手を伸ばした。


 小さな果実を練り込んだ菓子を一つ摘まみ、香りを確かめてから口に運ぶ。王族らしい優雅な所作だったが、その態度があまりにも自然であるため、アマリリアは一瞬、自分の要求が不当だったのではないかと錯覚しかけた。


 もちろん、すぐに我へ返る。


「殿下」


「何だ?」


「私たちは互いの婚約問題を解決するために協力するのです。相手について何も知らされないままでは、協力のしようがございませんわ」


「その通りだな」


「でしたら」


「だが、君が信用できるか確かめていない」


 ライルは紅茶を一口飲み、静かな目でアマリリアを見た。


「俺を黒装束で囲み、首へ刃物を当て、逃げ道を塞いだうえで婚約を迫った令嬢に、王家に関わる秘密をすぐ話せと言われても困る」


「随分と根に持つのですね」


「まだ四半刻も経っていない」


「過ぎたことをいつまでも気にする殿方は嫌われますわよ?」


「君がそれを言うのか?」


 ライルの眉がわずかに上がった。


 アマリリアは扇子を持っていなかったことを少し残念に思いながら、代わりにティーカップを持ち上げて口元を隠す。


「それに、私は殿下へ危害を加えるつもりなどございませんでした。皆にも刃を当てるだけで、決して傷つけないよう命じております」


「刃を当てられた側からすれば、安心できる要素ではない」


「ですが、実際に傷はございませんでしょう?」


「結果が無事なら手段は問わないという考え方を改めろ」


「検討いたしますわ」


「改めるとは言わないのだな」


 ライルは呆れたように息を吐いた。


 その様子を見て、アマリリアは胸の内で小さく首を傾げる。


 第一王子ライル・アースハルトについて、彼女も当然ある程度は調べていた。


 幼い頃から学問と武術の双方に優れ、王太子としての資質を備えている。臣下や民へ高圧的に接することはなく、派閥争いにも深入りせず、国王と王妃からの信頼も厚い。


 しかし同時に、面倒事を嫌い、王宮を抜け出しては一人で過ごすことを好む。学園でも授業を抜け、屋上や図書塔の使われていない部屋へ隠れることがある。


 真面目なのか不真面目なのか、掴みづらい人物。


 それが、これまでアマリリアが抱いていた印象だった。


 実際に向き合ってみると、思った以上に口が回る。気弱でもなく、ただ流されるだけでもない。黒装束に囲まれた直後こそ動揺したものの、状況を把握してからは落ち着きを取り戻し、今ではアマリリアの無茶な言動へ逐一言葉を返してくる。


 予想していたよりも、ずっと面白い。


 その事実に、アマリリアの口元が自然と緩んだ。


「何だ、その笑顔は」


「殿下が思ったより楽しそうな方で安心したのです」


「俺は少しも楽しくない」


「そうでしょうか。先ほどより顔色がよろしいですわ」


「君に脅されている状況へ慣れ始めただけだ」


「順応が早いのは美点です」


「褒められている気がしない」


 ライルは椅子の背へ身体を預け、空を仰いだ。


 風に黒髪が揺れ、その向こうで白い雲がゆっくり流れていく。しばらく沈黙が続いたが、アマリリアは急かさなかった。


 話す気がない相手を無理に問い詰めれば、余計に口を閉ざす。


 父への取り調べではあまり必要のない配慮だったが、ライルは父よりも頑固そうだった。


「三日だ」


 やがて、ライルが空を見たまま口を開いた。


「三日?」


「三日間、俺の婚約者について自分で調べてみろ」


 アマリリアの目が細くなる。


「調べて分かるような方なのですか?」


「普通に調べても分からないだろうな」


「それでは、試す意味がございませんわ」


「ある。君がどこまで情報を集められるか見たい」


 ライルは身体を起こし、真っ直ぐアマリリアを見た。


「俺の婚約問題は、単に気に入らない令嬢と別れたいという話ではない。下手に動けば王家だけでなく、国そのものへ影響が出る可能性がある。だから、君が本当に信用できるのか、秘密を扱えるだけの能力があるのかを見極めたい」


 先ほどまでの軽い調子が消えていた。


 黒い瞳に宿っているのは、王族としての責任と警戒心だった。


 アマリリアはカップを受け皿へ戻す。小さな音が円卓の上へ響き、屋上に流れていた穏やかな空気がわずかに引き締まった。


「もしも私が何も掴めなければ?」


「君との話はなかったことにする」


「カルロス様との婚約から逃れるための協力も?」


「当然だ」


 ライルの返事に迷いはない。


 アマリリアは笑みを浮かべたまま、円卓の下で指先をゆっくり組んだ。


 随分と強気に出たものだ。


 先ほどまで脅されていた側でありながら、今では完全に条件を提示する側へ回っている。


「殿下」


「何だ?」


「私がこの場で再び指を鳴らす可能性はお考えになりませんの?」


 アマリリアが右手を僅かに持ち上げると、彼女の背後に控えていた黒装束たちが静かに姿勢を変えた。


 ライルは一瞬だけ彼らを見たあと、口元へ薄い笑みを浮かべる。


「できるなら、やってみればいい」


「あら」


「ただし、俺がこの屋上へ来る前、護衛騎士へ一刻経っても戻らなければ捜しに来いと伝えてある。そろそろ時間だ」


 アマリリアの後ろにいた黒装束の一人が、僅かに顔を上げた。


 その反応を見逃さず、ライルの笑みが深くなる。


「それから、この学園の屋上は王家の警備魔術の範囲内だ。俺が強い恐怖や痛みを感じた場合、王宮側へ信号が送られる。先ほどは突然のことだったから反応が遅れたが、今は既に警戒状態になっているだろう」


「……そのような魔術が」


「王族が何の備えもなく一人で出歩いていると思ったか?」


 アマリリアは黙った。


 思っていた。


 正確には、護衛が遠巻きに監視している可能性は考えていたが、黒装束たちが周囲を確認した際に誰も見つけられなかったため、今日は完全に一人なのだと判断していた。


 しかし、直接人を配置するのではなく、王族本人へ警備用の魔術を施していたとは予想していなかった。


「もっとも、君の部下たちも優秀だ。ここまで接近されるまで気配を掴めなかったのは初めてだよ」


「お褒めにあずかり光栄ですわ」


「褒めたのは部下だ」


「彼らを育てたのは私ですので、半分ほどは私への賛辞として受け取ります」


「随分と都合のよい解釈だな」


 ライルはそう言いながらも、少し楽しそうに笑った。


 アマリリアは内心で、彼への評価をさらに一つ上げる。


 ただの怠惰な王子ではない。自分の立場も、周囲の仕組みも、相手の出方も理解している。あえて弱く見せ、相手を油断させることにも慣れているのだろう。


 この王子を無理やり従わせるのは、思った以上に難しいかもしれない。


 だからこそ、興味が湧いた。


「三日でよろしいのですね?」


「ああ」


「期限は三日後の同じ時刻まで?」


「それでいい」


「私が婚約者の正体を突き止めれば、全てを話してくださいますか?」


「正体まで辿り着ければ、隠す意味はなくなる」


「では、約束ですわ」


 アマリリアは右手を差し出した。


 ライルはその手と彼女の顔を交互に見てから、慎重に握る。


「今度は勝手に了承したことにするなよ」


「その必要はございません。既に了承してくださっていますもの」


「本当に油断ならないな」


 握手を終えた直後、屋上の扉が激しく叩かれた。


「殿下! ライル殿下! 中におられますか!」


 緊迫した男の声が響き、続いて複数人の足音が聞こえる。


 アマリリアの背後にいた黒装束たちが、一斉に彼女へ視線を向けた。


「お嬢様」


「撤収なさい」


「はっ」


 三人はほとんど音を立てず、屋上の縁と貯水塔の影へ散った。


「待て」


 ライルの声に、アマリリアが振り返る。


「何でしょうか?」


「この家具はどうする」


 白い円卓と二脚の椅子。食器、菓子、ポット、さらには小さな花瓶まで、屋上には場違いな茶会の一式が残されていた。


 アマリリアはそれらを見渡したあと、にこやかに答える。


「殿下への贈り物ということで」


「置いていくな!」


 ライルの声と同時に、扉の鍵が外側から破壊された。


 勢いよく開いた扉から、学園の制服とは異なる濃紺の騎士服を纏った男たちが飛び込んでくる。先頭に立っていたのは、短く刈った茶髪と鋭い目を持つ青年だった。


 彼は剣の柄へ手をかけながら屋上を見回し、まずライルの無事を確認する。そして次に、円卓を挟んで立つアマリリアへ視線を向けた。


「殿下、ご無事ですか!」


「一応、無事だ」


「一応とはどういう意味です!?」


「説明すると長い」


 青年騎士はライルの首筋を確認し、薄く残る刃の跡を見つけたのか、表情を一変させた。


「貴様、殿下に何をした!」


 剣が鞘から抜かれる。


 その切っ先を向けられても、アマリリアは動じることなく優雅に一礼した。


「初めまして。ベスター伯爵家長女、アマリリア・ベスターと申します」


「名乗りを聞いているのではない! 殿下に何をしたと聞いている!」


「お話し合いを少々」


「首に刃を当てて行う話し合いがあるか!」


 騎士の怒声が屋上へ響いた。


 ライルが片手を上げ、彼を制止する。


「落ち着け、ディーン。俺は無事だ」


「ですが殿下!」


「剣を収めろ。彼女とは話がついた」


「話が?」


 ディーンと呼ばれた騎士は信じられないものを見るようにライルを見た。


 その後ろにいた二人の騎士も、円卓と茶会の跡を交互に眺め、状況を理解できずにいる。


「殿下。この令嬢は、何者なのですか?」


「三日後には俺の婚約者になるかもしれない令嬢だ」


 屋上に沈黙が落ちた。


 アマリリアでさえ、何を言われたのか理解するまで少し時間を要した。


「殿下」


「何だ?」


「その言い方では、既に私を婚約者候補として認めているように聞こえますわ」


「三日後、君が何も掴めなければ終わりだ」


「ですが、掴めば婚約してくださるのですよね?」


「条件を全て満たしたらな」


「十分でございます」


 アマリリアが満足げに微笑む横で、ディーンの顔色が見る見るうちに悪くなっていく。


「婚約者……? この、殿下へ刃物を向けた令嬢が?」


「正確には、部下が向けただけですわ」


「何の弁解にもなっていない!」


「ディーン、声が大きい」


「大きくもなります!」


 ディーンは額を押さえ、何度も深呼吸した。


「とにかく、この件は王宮へ報告いたします。ベスター伯爵家にも正式な問い合わせを――」


「それは困りますわ」


 アマリリアが即座に口を挟む。


「何が困る」


「現在、ベスター伯爵家では父が体調を崩して静養に入り、兄への家督継承手続きを進めております。今お話を送られても、対応する者が定まっておりません」


「昨日まで当主だった者が、今日突然静養に?」


「人の体調とは変わりやすいものですわ」


「何をした」


「心穏やかに領地で過ごしていただいております」


「何をした!」


 ディーンの声が再び大きくなる。


 ライルは額へ手を当てたまま、静かに呟いた。


「ディーン。この令嬢を普通の貴族令嬢だと思わない方がいい」


「殿下は、なぜそのような方との婚約を検討しているのですか!」


「俺も今、それを少し後悔し始めている」


「あら、酷いですわ」


「当然の感想だ」


 アマリリアは胸元へ手を当て、傷ついたような表情を作った。しかしライルは既に彼女の演技を見抜いているらしく、冷たい視線を返すだけだった。


 その反応が妙に心地よく、アマリリアはますます笑みを深める。


「それでは殿下、三日後に」


「ああ。だが、その前に一つだけ忠告しておく」


 ライルの声が低くなる。


「王宮へ直接忍び込むような真似はするな」


「まあ。私を何だと思っていらっしゃるのですか?」


「黒装束を従え、父親を一日で当主から引きずり下ろし、第一王子を屋上で脅す令嬢」


「随分と偏った見方ですわ」


「事実しか並べていない」


 アマリリアは答えず、笑顔のまま一礼した。


「ご忠告、心に留めておきます」


「絶対に守らない顔だな」


「では、ごきげんよう」


「待て、この茶会一式を持って帰れ!」


 背後からライルの声が聞こえたが、アマリリアは振り返らなかった。


          ◇◇◇


 その日の放課後。


 ベスター伯爵家の王都屋敷へ戻ったアマリリアは、自室ではなく地下の資料室へ向かっていた。


 屋敷の地下には、歴代当主が集めた公式文書や領地の記録が保管されている。表向きはそれだけだが、さらに奥にはアマリリアが独自に作らせた情報収集用の部屋が存在していた。


 壁一面に設けられた棚には、国内の貴族家、商会、軍、神殿、王宮関係者について集めた記録が分類されている。中央に置かれた大きな机の上には王都の地図が広げられ、重要人物の動きを示す小さな札が幾つも置かれていた。


 アマリリアが部屋へ入ると、既に三人の黒装束が待っていた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「ええ。早速ですが、第一王子ライル殿下の婚約者について調べます」


 三人のうち、最も背の高い男が僅かに首を傾げる。


「ライル殿下に婚約者はおられないはずですが」


「殿下ご本人が、既にいるとおっしゃいました」


 その言葉に、三人の間へ僅かな緊張が走った。


「公表されていない婚約者、ということでしょうか」


「恐らくは。ですが、単なる秘密の婚約ではないようです。下手に動けば、国へ影響が出る可能性があるとも仰っていました」


「期限は?」


「三日です」


「三日で、王家が隠している婚約者を?」


「ええ」


 アマリリアは机の前へ立ち、王都の地図を見下ろした。


「まず、王宮の公式記録は除外します。そこに記されているなら、私が知らないはずがありません。貴族院の婚姻記録、神殿の誓約書、他国との外交文書にも、直接的な情報は残されていないでしょう」


「では、どこからお調べになりますか?」


「殿下の過去です」


 アマリリアは棚からライルに関する記録を取り出した。


 幼少期の教育係、乳母、護衛、友人、留学歴、病歴。王族に関する資料は厳重に管理されているが、公式行事や人事記録、周囲の貴族たちの動きから推測できることは多い。


「婚約が正式に発表されていないなら、幼少期の口約束、王家同士の密約、神殿を介した誓約のいずれかでしょう」


「魔術契約の可能性もございます」


 黒装束の一人が口を開く。


「ええ。特に、殿下が自分の意思だけでは解消できない様子だったことが気になります」


 嫌いだから別れたい。


 その程度なら、ライルがアマリリアへ協力を求める必要はない。国王へ訴え、相手の家と交渉すれば済む。


 しかしライルは、アマリリアの能力を試そうとしている。


 つまり、相手が誰かを突き止めること自体に意味がある。


「殿下ご自身も、婚約者の正体を完全には把握していない可能性がありますわね」


「婚約者でありながら、相手を知らないということでしょうか」


「あり得ます。幼い頃に結ばれた契約であれば、名前を知らされていないこともあるでしょう」


 アマリリアは資料の頁をめくる。


 ライルが生まれたのは十八年前。王妃は出産後しばらく体調を崩し、王都から離れた離宮で療養していた。その時期、王宮への出入りを許された者は限られている。


 五歳の頃、ライルは一度だけ重い病に倒れた。公式記録では高熱とされているが、半年近く公の場へ姿を見せていない。


 七歳のときには、隣国との国境で起きた魔獣災害の慰問へ同行。


 九歳から十一歳まで、王都北部の神殿で定期的に教育を受けている。


 王子としては不自然な経歴ではない。だが、婚約に繋がる何かがあるとすれば、幼少期の空白が怪しい。


「五歳の病について調べてください。医師、侍女、当時の離宮勤務者を洗い出して」


「承知しました」


「九歳から通っていた北部神殿についても。教育内容と、同時期に滞在していた人物を」


「はっ」


「残る一人は、国外の王族と高位貴族の令嬢を調べなさい。年齢は殿下と同じか、前後五歳まで。特に、過去十八年で公式記録から一時的に消えた者を」


 三人がそれぞれ頷き、部屋を出ようとする。


「待ちなさい」


 アマリリアは呼び止め、机の端を指先で軽く叩いた。


「王宮へ忍び込んではなりません」


 三人が揃って沈黙した。


「お嬢様が、そのように命じられるとは」


「殿下から忠告を受けましたの」


「従われるのですか?」


「まさか」


 アマリリアは微笑む。


「忍び込む必要がないように、外から全て調べなさいという意味です」


「承知いたしました」


 三人は納得したように頭を下げ、今度こそ部屋を出ていった。


 一人残されたアマリリアは、ライルの資料を持って椅子へ腰を下ろす。


 窓のない地下室には、魔石灯の白い光だけが満ちていた。静かな空間で紙をめくる音が響き、時間がゆっくり過ぎていく。


 ライルの婚約者。


 国にも影響を及ぼす存在。


 王宮にも貴族院にも記録がなく、第一王子本人が解消を望んでいるにもかかわらず、簡単には手を切れない相手。


「いったい、何者なのでしょうね」


 アマリリアは小さく呟いた。


 未知の相手を調べることへの高揚感が、胸の奥に広がっていく。


 カルロスとの婚約を避けるために始めた話だったはずが、いつの間にかライルの抱える秘密そのものに興味を持ち始めていた。


 そして同時に、アマリリアは屋上で見たライルの表情を思い出していた。


 自分の婚約者について語ったとき、彼は笑っていた。


 けれど、あれは楽しい笑顔ではない。


 何かを諦め、皮肉で覆い隠すような笑みだった。


「……気に入りませんわね」


 なぜ自分が不快に思うのか、アマリリアにはまだ分からなかった。


 ただ、あの王子が自分以外の誰かによって縛られているという事実が、妙に腹立たしい。


 アマリリアは資料を閉じ、椅子の背へ身体を預けた。


「殿下を脅してよいのは、私だけですのに」


 誰もいない資料室へ落ちた言葉は、思った以上にはっきりと響いた。


 その瞬間、アマリリアは自分の発言に僅かに眉を寄せる。


「……少し違いますわね」


 何が違うのかを考えようとしたとき、部屋の扉が三度、短く叩かれた。


「お嬢様」


 外から聞こえた声は、先ほど調査へ向かった者とは別の黒装束だった。


「入りなさい」


 扉が開き、男が一枚の封筒を手に入ってくる。


「王宮から、ベスター伯爵家宛てに書状が届きました」


「もうですか?」


 アマリリアは封筒を受け取った。


 表には王家の紋章が押され、宛名にはアマリリア・ベスターと記されている。


 屋上での騒ぎについて、正式な呼び出しが来たのだろうか。そう考えながら封蝋を切り、中の書状を開く。


 しかし、そこに書かれていたのは処罰や事情聴取の通知ではなかった。


『明日、放課後。学園旧図書塔三階へ来い。一人で』


 短い文章の下に、ライルの署名がある。


 さらに、その下には小さな追伸が記されていた。


『部下を連れてきた場合、婚約の話は白紙にする』


 アマリリアは何度か読み返したあと、ゆっくり笑みを浮かべた。


「一人で、ですか」


 試されている。


 それは明らかだった。


 ライルはアマリリアが部下の力だけに頼る人間なのか、それとも自分自身で秘密へ踏み込める者なのかを見極めようとしている。


「随分と挑発してくださいますのね、殿下」


 アマリリアは書状を丁寧に畳んだ。


 胸の奥に湧いたのは、不安ではない。


 むしろ、楽しみだった。


 これまでアマリリアへ真正面から条件を突きつけ、行動を制限しようとした者はほとんどいない。父も縁談相手も、彼女の力を知れば怯え、最後には逃げ出した。


 だが、ライルは違う。


 逃げるどころか、自ら次の場所を指定してきた。


「よろしいですわ」


 アマリリアは書状を胸元へ収める。


「一人で来いとおっしゃるなら、一人で参りましょう」


 部屋の隅で控えていた黒装束が、僅かに肩を揺らした。


「お嬢様。本当にお一人で?」


「ええ」


「危険ではございませんか」


「相手は第一王子殿下です。いきなり命を取られることはないでしょう」


「いきなり、でなければ可能性があると?」


「その場合は、返り討ちにいたします」


 アマリリアは当然のことのように答えた。


 そして翌日。


 彼女は約束通り、黒装束を一人も連れず、学園の旧図書塔へ向かった。


 ただし、ドレスの下に短剣を三本、毒針を二本、眠り薬を一瓶、細い鋼線を一巻き隠し持っていたことは、誰にも伝えなかった。

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