第1話 婚約者ではない殿方から、婚約破棄を宣言されました
「アマリリア・ベスター! 私は貴様とは結婚しない!」
昼休みを迎えたルナティック王立学園の食堂に、よく通る男の声が響き渡った。
銀の食器が触れ合う音も、昼食を楽しんでいた生徒たちの話し声も、その一言を境にぴたりと止まる。高い天井から吊るされた幾つもの魔石灯が白い光を降らせる中、集まった視線は食堂の中央に立つ三人へ一斉に向けられていた。
声を張り上げたのは、金色の髪を丁寧に整えた男子生徒だった。鮮やかな青い瞳に強い怒りを宿し、学園指定の制服を纏った胸を大きく張っている。いかにも自分こそが正義であると言わんばかりの姿勢だったが、規定より少しだけ開けられた襟元と、首に巻かれた派手な装飾布が、その場の緊張感をわずかに損ねていた。
カルロス・ムルール。
この国の宰相を務めるムルール公爵の嫡男であり、容姿だけを見れば、多くの令嬢からため息を向けられても不思議ではない青年である。
そのカルロスの腕には、桃色がかった金髪の女子生徒が大切そうに抱き寄せられていた。華奢な肩を震わせ、潤んだ瞳で周囲を見回している彼女の名はルシア。平民出身でありながら、優れた光属性の魔力を認められて特待生として入学した少女だった。
そして二人の正面には、腰まで届く銀色の髪を持つ令嬢が立っている。
アマリリア・ベスター。
ベスター伯爵家の長女にして、学年主席。座学、魔術、礼法の全てで最高評価を受け、さらに剣術や護身術まで嗜む、教師たちから見れば非の打ち所のない模範生である。
少なくとも、教師たちから見れば。
「何をおっしゃっているのでしょうか」
アマリリアは細い眉をわずかに下げ、心底困ったという表情で問い返した。
それは演技ではない。
本当に何を言われているのか、分からなかったのである。
「聞こえなかったのか! 私は貴様とは結婚しないと言ったのだ!」
「そちらはよく聞こえております。ただ、なぜカルロス様が私との結婚を拒否しておられるのか、その理由が分からないのです」
「まだしらを切るつもりか!」
カルロスが声を荒らげると、腕の中のルシアが怯えたように身を縮めた。すると彼は守るように彼女の肩を抱き直し、アマリリアへ向ける視線をいっそう険しくする。
「貴様は私の愛するルシアに嫉妬し、陰湿な嫌がらせを繰り返していたそうではないか!」
「私が、ルシアさんに?」
「そうだ! 私がルシアを愛していると知り、自分の立場が危うくなったと思ったのだろう!」
アマリリアはゆっくりと瞬きをした。
カルロスがルシアを愛していることも、その事実によって自分の立場が危うくなることも、今日この瞬間に初めて聞いた話だった。
そもそも、これまでカルロスとまともに言葉を交わした回数は片手の指で足りる。廊下ですれ違った際に挨拶をしても、彼はいつも自分を見つめる令嬢たちへ笑顔を振りまくことに忙しく、アマリリアにはろくに視線さえ向けなかった。
その程度の関係である。
「申し訳ございません。やはり、何をおっしゃっているのか分かりませんわ」
「証拠ならある!」
カルロスは勝ち誇ったように顎を上げた。その表情には、今から悪しき令嬢の罪を白日の下に晒す英雄のような誇らしささえ浮かんでいる。
「おい、出てこい!」
彼が周囲の生徒たちへ向けて首を振ると、人垣の中から三人の令嬢が進み出た。いずれも子爵家や男爵家の娘であり、アマリリアとは同学年だが、親しく付き合った記憶はない。
三人は緊張した様子で顔を見合わせると、最初の令嬢がおずおずと口を開いた。
「わ、私はアマリリア様から命じられ、ルシアさんの教本を隠しました」
「私は、階段でルシアさんの足を引っかけるように言われました。断れば、父の仕事に圧力をかけると脅されて……」
「わ、私もです。ルシアさんへ身分を弁えろと言うように命じられました。従わなければ、家ごと学園から追い出すと……」
三人の証言が続くたび、食堂のあちらこちらから息を呑む音が漏れた。
「まさか、ベスター令嬢が……」
「でも、あの方ならやりかねないのではなくて?」
「普段から少し怖いものな」
「笑っているのに、目が笑っていないときがあるし……」
聞こえておりますわよ。
アマリリアは口元に微笑みを浮かべたまま、内心で小さくため息をついた。
三人の令嬢が嘘をついていることは明らかだった。けれど、なぜそのような嘘をつくのかまでは分からない。カルロスに頼まれたのか、ルシアに頼まれたのか、それとも別の誰かが後ろにいるのか。
いずれにせよ、このような衆人環視の中で騒ぎを起こした以上、単なる勘違いでは済まされない。
「どうだ、アマリリア! これでもまだ罪を認めないつもりか!」
カルロスは我が意を得たりとばかりに声を張り上げた。
アマリリアは返事をする前に、食堂の中を見回した。多くの生徒たちは彼女を疑う目で見ているが、中には戸惑いを浮かべている者もいる。日頃のアマリリアを知る者なら、彼女が自らの手を汚さずに誰かを使うような、まどろっこしい真似をするだろうかと疑問を抱くはずだった。
仮にアマリリアが誰かを潰そうと考えたなら、正面から相手の逃げ道を全て塞ぎ、反論の余地さえ与えずに処理する。
教本を隠す。
足を引っかける。
悪口を言わせる。
その程度の幼稚な嫌がらせで満足するほど、アマリリアは優しくない。
「はぁ……」
思わず、ため息が漏れた。
この茶番劇は、いつまで続くのかしら。
カルロスはそのため息を、追い詰められた証拠と受け取ったらしい。口元に勝利を確信した笑みを浮かべ、さらに一歩前へ出ようとした。
そのときだった。
「これは、何の騒ぎだ?」
低く、落ち着いた声が食堂の入口から響いた。
つい先ほどまでざわついていた生徒たちが、一瞬で口を閉ざす。入口付近にいた者たちは慌てて左右へ分かれ、声の主のために道を空けた。
黒髪の青年が、ゆっくりと食堂の中央へ歩いてくる。
端正に整った顔立ち。深い夜を思わせる黒い瞳。制服の胸元には、王族だけが身につけることを許された金色の紋章が輝いている。
ライル・アースハルト。
アースハルト王国第一王子にして、王位継承権第一位。授業を抜け出して屋上で昼寝をするという少々困った癖はあるものの、剣術と魔術の実力は高く、民や下位貴族への態度も穏やかなことから、将来を期待されている王子である。
彼の姿を認めた瞬間、カルロスはどこか得意げに胸を張った。ルシアは潤んだ瞳を大きく見開き、三人の令嬢は露骨に顔色を悪くする。
対して、アマリリアはわずかに肩の力を抜いた。
ようやく話の通じる方が来てくださいましたわ。
「もう一度聞こう。これは何の騒ぎだ?」
ライルは周囲を見回したあと、アマリリアへ視線を向けた。
「ベスター令嬢、説明してくれるか?」
「はい、殿下。もっとも、私にも何が起きているのか、正確には理解できておりません」
「ほう?」
「突然カルロス様から、私とは結婚しないと宣言されました。そのうえ、私がカルロス様への恋情からルシアさんに嫉妬し、そちらのご令嬢方を使って嫌がらせをしたと責められております」
アマリリアは淡々と説明しながら、カルロス、ルシア、そして三人の令嬢へ順番に視線を向けた。
「ですが、私はカルロス様へ恋情を抱いた覚えがございません。ルシアさんと親しくお話ししたこともなく、そちらの三名に何かを命じた事実もございません。ですので、本当に何が何やら分からないのです」
「貴様! 殿下の前でもまだしらを切るつもりか!」
「アマリリア様、私は怒っておりません!」
ルシアがカルロスの腕から半歩前へ出た。その目には涙が浮かび、胸元で両手を固く組んでいる。
「ですから、どうか罪をお認めください。私、アマリリア様がきちんと謝ってくだされば、それ以上は何も望みません」
「そうですわ!」
「謝罪なさるべきです!」
「これ以上、私たちまで嘘つきのように扱わないでください!」
三人の令嬢が揃って声を上げた。
まるで練習してきた合唱のようだった。
それを聞いたライルはしばらく無言で彼女たちを見つめたあと、突然、肩を震わせた。
「くっ……」
「殿下?」
「いや、すまない。これは、なかなか面白い状況だと思ってな」
口元を押さえながら笑いを堪えるライルに、アマリリアは呆れた目を向けた。
「私はまったく面白くございません」
「そうだろうな。だが、一つだけ確認させてくれ」
ライルは咳払いをすると、表情を改めた。
「ベスター令嬢。君は今、誰の婚約者だったかな?」
「もちろん、ライル・アースハルト第一王子殿下の婚約者ですわ」
食堂の空気が、完全に止まった。
「え?」
最初に声を漏らしたのはカルロスだった。
ルシアの涙も止まり、三人の令嬢は揃って口を開けたまま固まっている。周囲の生徒たちも互いの顔を見合わせ、やがて誰かが小さく呟いた。
「では、ムルール公爵令息は……誰との婚約を破棄したんだ?」
その疑問が食堂の隅々にまで伝わった瞬間、堪えきれなくなったライルの笑い声が高い天井へ響き渡った。
話は、数か月前に遡る。
◇◇◇
「リリア。お前の婚約が決まった」
その日、アマリリアは父であるハロルド・ベスター伯爵の書斎へ呼び出されていた。
重厚な木製机の向こうに座る父は、普段よりも落ち着かない様子で指を組み、何度も視線を逸らしている。窓の外には穏やかな午後の日差しが降り注ぎ、庭師たちが整えた花壇では色とりどりの花が咲いていたが、室内にはその明るさと不釣り合いなほど重苦しい空気が漂っていた。
父の言葉を聞いたアマリリアは、手にしていたティーカップを静かに受け皿へ戻した。
「申し訳ございません、お父様。今、何とおっしゃいました?」
「お前の婚約が決まったと言った」
「聞き間違いかもしれません。もう一度お願いいたします」
「だから、お前の婚約が決まったのだ」
父は苛立ちを隠せなくなったのか、声を少し大きくした。
アマリリアはにこやかな笑みを浮かべる。
「申し訳ございません。やはり、よく聞こえませんでしたわ」
「お前の婚約が決まった!」
「もう一度」
「お前の婚約が!」
「もう一度」
「決まったと言っているだろう!」
ハロルドはとうとう椅子から立ち上がり、机を両手で叩いた。
積み上げられていた書類が震え、インク壺の中で黒い液体が小さく波打つ。
アマリリアはそれを眺めてから、静かに立ち上がった。
「なるほど。私の聞き間違いではなかったのですね」
「最初からそう言っている!」
「では、お父様」
アマリリアは微笑んだまま机の向こう側へ回り込む。
「誰の許可を得て、そのような話を進めたのですか?」
「誰の許可だと? 私はお前の父親であり、ベスター伯爵家の当主だぞ! 娘の婚姻を決める権利が私にはある!」
「ええ、一般的にはそうなのでしょうね」
「一般的には?」
ハロルドの頬が引きつった。
アマリリアは父の正面まで歩み寄ると、長い銀髪を肩の後ろへ払い、首をわずかに傾けた。
「ですが、お父様は過去に三度、私へ勝手に縁談を持ち込みました。一度目は相手の子息が私の持参金だけを目当てにしておりました。二度目は既に愛人と子までおりました。三度目は、妻となる女性に学問は必要ないと私の前で堂々と語る方でしたわね」
「そ、それは……」
「そのたびに、今後は必ず私へ事前に相談すると約束なさいました。それなのに、また同じことを繰り返したのですか?」
「今回は相手が違う! ムルール公爵家だぞ!」
父の口から出た家名に、アマリリアの笑みが一瞬だけ止まった。
「ムルール公爵家?」
「そうだ。宰相閣下の嫡男、カルロス・ムルール様がお前の婚約者となる」
「……あのカルロス様が?」
「そうだ!」
ハロルドは娘が怯んだとでも思ったのだろう。勢いを取り戻し、大きく胸を張った。
「公爵閣下は、お前の成績と能力を高く評価しておられる。カルロス様を支える妻として、これ以上の令嬢はいないと仰ってくださったのだ。既に先方へ了承の返事も出してある。今さら取り下げることはできんぞ」
アマリリアは何も言わなかった。
カルロス・ムルールについては、もちろん知っている。
授業中は眠る。課題は従者に代筆させる。剣術訓練では準備運動だけで疲れたと言い出し、魔術の実技では詠唱を間違えて自分の前髪を焦がした。
礼法の授業では教師に対し、将来公爵になる自分が頭を下げる必要などないと言い放ったという。
唯一の長所は、見栄えのよい顔立ち。
それも本人が最もよく理解しており、何か問題を起こすたびに笑顔一つで許されると思っている、筋金入りの愚か者だった。
「お父様」
「な、なんだ」
「私を売りましたね?」
「人聞きの悪いことを言うな! これは名誉ある婚姻だ!」
「公爵家から何を受け取りました?」
「何も受け取ってなどいない!」
父の返答が早すぎた。
アマリリアは机の上へ視線を向ける。書類の山の下から、見慣れない契約書の端が覗いていた。父が慌てて手を伸ばすより早く、アマリリアはそれを引き抜く。
「返せ!」
「領地東部の鉱山採掘権。王都での商会設立に対する援助。さらに、公爵家からの無利子融資ですか」
「それは家のために必要な取引だ!」
「その対価が私なのですね?」
「違う! お前はなぜ、そう物事を悪く捉えるのだ!」
アマリリアは契約書を机へ戻した。
そして腰元へ手を伸ばし、ドレスの内側に隠していた小さな銀の鈴を取り出す。
ちりん。
澄んだ音が書斎に響いた直後、天井裏から微かな物音が聞こえた。
「な、何だ?」
ハロルドが顔を上げた瞬間、黒い影が三つ、床へ静かに降り立った。全身を黒装束で包み、顔の下半分を布で隠した者たちは、音もなくアマリリアの前へ膝をつく。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「お父様は本日をもって当主を退きます」
「なっ!?」
ハロルドが叫ぶ。
アマリリアは父へ向けて微笑んだ。
「一人は兄のアレクへ連絡を。王都の騎士団から戻り次第、当主を引き継ぐよう伝えてください。一人は必要な書類を整え、王宮と貴族院へ提出を。残る一人は、お父様を領地の別邸まで安全にお送りしなさい」
「待て、リリア! 私は退くなど一言も!」
「体調不良により、静養が必要と判断されたことにいたしましょう」
「誰が判断したのだ!」
「私です」
「認められるか!」
ハロルドが扉へ駆け出そうとしたが、黒装束の一人が素早く回り込み、その進路を塞いだ。
「お嬢様。道中、旦那様がお騒ぎになった場合はいかがいたしますか?」
「揺れの少ない馬車をご用意して差し上げてください。眠くなった場合は、よく眠れるお茶を」
「承知いたしました」
「待て! その茶は本当に茶なのか!?」
父の声を背中に受けながら、アマリリアは書斎を出た。
扉が閉まる直前、
「リリア! 話し合おう! 家族ではないか!」
という悲痛な叫びが聞こえたが、今さら家族を持ち出すあたり、反省する気はないらしい。
「まったく、お父様にも困ったものですわ」
アマリリアは廊下を歩きながら、深いため息をついた。
父を当主の座から引きずり下ろしたところで、一度受けた婚約話が消えるわけではない。相手は公爵家であり、しかも既に両家の間で正式な書類が交わされている。
アマリリアに非がないとしても、伯爵家側から一方的に断れば、公爵家の面目を潰すことになる。
「困りましたわね」
カルロスと結婚する。
その未来を想像してみる。
朝、起きない夫を叩き起こす。仕事へ行きたくないと駄々をこねる夫を馬車へ押し込む。失言によって生じた問題を妻が処理し、浪費によって空いた穴を妻が埋め、浮気をすれば相手の令嬢ごと跡形もなく――。
「いけませんわ」
最後の部分は少々魅力的だったが、それ以外は耐え難い。
アマリリアとて一人の女性である。結婚するなら、できることなら愛する相手がよい。自分を裏切らず、言うことを聞き、どこへ行くにも一緒にいて、自分なしでは生きていけないほど深く依存してくれる殿方なら、なお望ましい。
もっとも、そのような理想的な男性は、今のところ存在しない。
「……いえ」
階段の途中で足を止め、アマリリアは考え込んだ。
カルロスとの婚約を無効にするには、より格上の家から婚約を望まれるしかない。公爵家より上となれば、残されるのは王家だけだ。
王家。
未婚の王子。
そして現在、正式な婚約者がいないとされている第一王子。
アマリリアの脳裏に、黒髪の青年の姿が浮かんだ。
「これしかありませんわね」
幸い、同じ学園に通っている。
授業を抜け出して屋上で昼寝をしているという情報も、既に掴んでいる。
アマリリアは再び鈴を取り出した。
「明日、学園の屋上へテーブルと椅子を用意してください。それから、殿下がお好みの茶葉と菓子も」
いつの間にか背後に現れていた黒装束が、静かに頭を下げる。
「承知いたしました」
「念のため、逃走経路も塞いでおきなさい」
「どなたの逃走経路でしょうか」
「殿下です」
黒装束は一瞬だけ沈黙した。
「……承知いたしました」
◇◇◇
翌日の午前。
授業の最中で静まり返った校舎を、アマリリアは堂々と歩いていた。
普段の彼女であれば、理由もなく授業を抜け出すことなどない。けれど今日に限っては、カルロスとの婚約を阻止するという、今後の人生を左右する重大な使命がある。
校舎最上階へ続く階段を上り、屋上へ通じる扉の前で立ち止まる。
扉の向こうからは、人の気配がした。
アマリリアは制服の襟を整え、銀色の髪を指先で軽く直す。教師たちから絶賛された完璧なカーテシーを頭の中で思い浮かべ、深く息を吸った。
「それでは、参りますわ」
勢いよく扉を開く。
重い扉が壁へぶつかり、屋上に大きな音が響いた。
「うわっ!?」
日当たりのよい壁際で横になっていた黒髪の青年が、驚いて身体を起こす。膝の上に置いていた本が床へ落ち、開かれた頁が風にめくれた。
「誰だ?」
不機嫌そうに眉を寄せた青年へ、アマリリアは優雅に一礼した。
「ごきげんよう、ライル・アースハルト第一王子殿下。私はベスター伯爵家長女、アマリリア・ベスターと申します。本日は殿下へお願いがあり、こうして参りました。突然の無礼をお許しくださいませ」
「ベスター伯爵家?」
ライルは眠そうな目でアマリリアを眺めた。
「知らない。帰れ」
そして、まるで近くを飛ぶ虫でも払うように手を振る。
アマリリアのこめかみが、わずかに引きつった。
この無礼な男が王太子候補でなければ、今すぐ屋上から吊るして差し上げるところですわ。
「まあまあ、そうおっしゃらずに。少しだけでもお話を聞いていただけませんか?」
「嫌だ。俺は今から寝る」
「人生を左右する大切なお話ですの」
「君の人生だろう。俺には関係ない」
「これから関係ができますわ」
「作るな」
ライルは落とした本を拾い上げると、再び壁へ背を預けた。
これ以上まともに話しかけても、取り合うつもりはないらしい。
「仕方ありませんわね」
アマリリアが指を鳴らす。
次の瞬間、貯水塔の陰と屋上の縁から黒装束が現れ、音もなくライルの背後へ回り込んだ。二本の短剣が左右から首筋へ添えられる。
「なっ!?」
ライルの顔から眠気が消えた。
「動かないでくださいませ。皆、とても優秀ですから、多少殿下が暴れても刃が逸れることはございません」
「それは安心させるための言葉か!?」
「もちろんですわ」
「どこに安心できる要素がある!」
屋上の扉が背後で閉まり、外側から鍵をかける音がした。
逃げ道がなくなったことを理解したライルの頬が引きつる。それでも王族としての意地なのか、必死に表情を取り繕い、アマリリアを睨みつけた。
「俺をどうするつもりだ?」
「何もいたしませんわ。私は野蛮なことが嫌いですもの」
「その言葉を、俺の首に刃物を当てていない状態で聞きたかった」
「お話を聞いてくださいますか?」
「聞かなければどうなる?」
アマリリアは答えず、にこりと笑った。
ライルは背後の黒装束を横目で確認したあと、深く息を吐く。
「……分かった。聞く」
「ありがとうございます」
アマリリアが再び指を鳴らすと、黒装束たちは短剣を収め、素早く彼女の後ろへ下がった。
「これで落ち着いてお話できますわね」
「俺はまったく落ち着いていないがな」
アマリリアは気にせず、満面の笑顔を浮かべた。
「ライル殿下。私と婚約してくださいませ」
風が吹いた。
屋上の隅に積もっていた落ち葉が舞い上がり、二人の間を横切っていく。
ライルは目を見開いたまま、完全に固まっていた。
「……はい?」
アマリリアの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます、殿下! お受けいただけるのですね!」
「違う! 今のは了承の『はい』ではない!」
「ですが、確かに『はい』とおっしゃいましたわ」
「疑問形だっただろう!」
「細かなことを気にする殿方は嫌われますわよ?」
「人の婚約を細かなことで決めるな!」
ライルは勢いよく立ち上がった。しかし背後で黒装束たちが僅かに動くと、すぐに座り直す。
「……あの者たちを下がらせろ」
「私の大切な護衛ですの」
「護衛は普通、守るためにいるものだ。相手の王子へ刃物を突きつけるためではない」
「私を守るためなら、必要なことですわ」
「俺から何を守っているんだ?」
「お断りの言葉からでしょうか」
「俺の意思を守れ!」
ライルが額を押さえた。
そのとき、屋上の一角にいつの間にか白い円卓と二脚の椅子が用意されていることに気づく。卓上には湯気を立てる紅茶と、色鮮やかな焼き菓子まで並べられていた。
「いつからあった?」
「先ほどからですわ」
「どこから運び込んだ?」
「細かいことはお気になさらず」
「気になるだろう!」
「立ち話も何ですから、座りましょう」
「いや、待て。まだ俺は何も――」
「こちらへどうぞ」
アマリリアが笑顔で椅子を示すと、背後の黒装束たちも揃って椅子へ視線を向けた。
ライルはしばらく抵抗するように立っていたが、やがて諦めた様子で腰を下ろした。
「どうぞ。殿下のお好みの茶葉を用意いたしました」
「なぜ知っている」
「必要な情報でしたので」
「俺の好みを調べたうえで、逃げ道を塞ぎ、護衛に刃物を持たせて婚約を迫っているのか」
「そのように言われますと、少し聞こえが悪いですわね」
「どのように言っても悪い!」
ライルは出された紅茶へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「毒は入っていないだろうな?」
「まあ、失礼ですわ」
アマリリアは自分の前に置かれたカップを手に取り、一口飲んでみせる。
「安全ですわよ」
「同じポットから注いだ保証は?」
「随分と疑り深いのですね」
「この状況で疑わない方がおかしい!」
それでも喉が渇いていたのか、ライルは慎重に紅茶へ口をつけた。
香りを確かめ、舌の上で味わった瞬間、彼の目がわずかに見開かれる。
「……美味い」
「でしょう?」
アマリリアは満足げに微笑んだ。
しばらくしてライルの警戒がほんの少し和らいだ頃、アマリリアは本題へ戻った。
「改めまして、私と婚約していただきたいのです」
「理由を聞こう」
「実は昨日、父から婚約が決まったと告げられました。相手はムルール公爵家のカルロス様です」
「ああ……あれか」
ライルは何かを察したように遠い目をした。
「殿下もご存じなのですか?」
「同じ学園に通っていれば嫌でも知る。先月、魔術の実技で自分の外套に火をつけ、消火用の水魔術を自分ではなく教師へ撃った男だろう」
「その方ですわ」
「なるほど。それは逃げたくもなるな」
ようやく話が通じたことで、アマリリアは父とのやり取りや、公爵家から提示された契約について説明した。自分がカルロスと結婚する意思を持っていないこと、しかし伯爵家から一方的に断れば問題になることも隠さず伝える。
ライルは途中で茶化すことなく、最後まで話を聞いた。
「事情は分かった」
「では、婚約を?」
「まだだ」
「残念ですわ」
「指を鳴らすな」
ライルはアマリリアの右手を見て、すぐに釘を刺した。
「一つ聞く。君は将来、どうしたいんだ?」
「将来、ですか?」
「ムルール公爵家へ嫁ぎたくないことは分かった。だが、俺と婚約すれば王族の一員になる。自由などほとんどない。君が本当に望んでいる人生とは違うのではないか?」
アマリリアは少しだけ目を瞬いた。
脅されている立場でありながら、ライルは彼女の将来を気にしている。
見た目と身分しか取り柄がない王子かと思っていたが、予想よりはまともな人間らしい。
評価を一つ上方修正しておく。
「私はいずれ伯爵家を離れ、市井で穏やかに暮らしたいと思っております」
「ならば、なおさら王子との婚約は向かないだろう」
「ですので、もう一つお願いがございます」
「嫌な予感しかしないが、聞こう」
「カルロス様との婚約が完全に消えましたら、私と婚約破棄してくださいませ」
ライルの口が半開きになった。
「……何?」
「事が済むまでの偽装婚約ですわ。王家との婚約が成立すれば、公爵家も引き下がるしかございません。その後、性格の不一致などを理由に婚約を解消すれば、私は自由になれます」
「待て」
「はい」
「つまり君は俺に、公爵家から婚約を求められた令嬢を横から奪い、公爵家を敵に回し、散々手間をかけた挙句、その令嬢を捨てた王子になれと言っているのか?」
「捨てられたことにするのは私の方です」
「どちらでも俺の評判が落ちるだろう!」
「ご安心ください。婚約破棄はベスター伯爵家から申し出ます。私に王家へ嫁ぐ資格がないという形にすれば、殿下へ傷はつきませんわ」
「どうやって資格がないと証明するつもりだ?」
「そうですわね」
アマリリアは真剣に考え込んだ。
「十人ほどの殿方を侍らせて、一人を椅子に、一人を足置きに、残りは交代で私を扇ぐ役に――」
「待て!」
「何でしょう」
「それは君の趣味か?」
「半分ほどは」
「認めるな!」
「冗談ですわ」
「残り半分が本気ではないか!」
ライルは頭を抱えた。
アマリリアは焼き菓子を一つ摘まみ、優雅に口へ運ぶ。
「王妃教育についていけなかった、殿下と性格が合わなかった、伯爵家が王家との釣り合いを考えて辞退した。理由など幾らでも作れますわ」
「全部適当だな」
「世間は次の話題が現れれば、私のことなどすぐに忘れます。それに殿下の婚約者の座が空けば、多くの令嬢が歓喜するでしょう。殿下の内面ではなく、地位と顔に興味を持つ方々が」
「さらりと世の令嬢と俺の価値を同時に貶したな」
「お気になさらず」
「今日は気にすることばかりだ」
ライルはしばらく黙り込み、カップの中で揺れる紅茶を見つめた。
その横顔からは、先ほどまでの慌てた様子が消えている。何かを深く考えているようだった。
アマリリアは彼の返答を待ちながら、断られた場合の次の手を考える。
第二王子はまだ十歳。国王陛下は王妃を深く愛しているため、側妃を迎える可能性は低い。他国の王族を探すにしても時間が足りない。
やはり目の前の王子を説得するのが最も早い。
最悪の場合は、もう一度黒装束たちに――。
「分かった」
「どちらの腕から参りましょう?」
「何の話だ?」
「失礼しました。こちらの話ですわ」
アマリリアは何事もなかったように笑う。
ライルは不審そうな目を向けたあと、深く息を吐いた。
「君の提案を受けよう」
「……本当に?」
あまりにも予想外の返事だったため、アマリリアは思わず素の声を漏らしてしまった。
ライルはその反応が面白かったのか、口元に笑みを浮かべる。
「何だ。無理やり迫ってきた割に、受け入れられるとは思っていなかったのか?」
「もちろん受けていただくつもりでしたわ。ただ、もう少し説得に時間がかかるものと」
「説得という言葉の意味を一度辞書で調べろ」
「では、本当に私と婚約してくださるのですね?」
「ああ。ただし、条件がある」
当然の要求だった。
この提案ではアマリリアばかりが得をし、ライルにはほとんど利点がない。王族である彼が公爵家との対立を覚悟する以上、それに見合った対価を求めるのは当たり前である。
「何でしょうか?」
アマリリアは姿勢を正した。
ライルは先ほどまでとはまるで違う、晴れやかな笑顔を浮かべる。
「俺には、既に婚約者がいる」
「……はい?」
「その婚約を解消するために力を貸してくれ。それができたなら、君との婚約を受けよう」
今度はアマリリアが完全に固まった。
王国の公式記録に、ライルの婚約者は存在しない。国内の貴族にも、他国の王族にも、それらしい令嬢はいないはずである。
それなのに、目の前の王子は確かに言った。
自分には婚約者がいる、と。
「殿下」
「何だ?」
「婚約者とは、どちらの令嬢でしょうか」
「それは話を受けると約束してから教える」
「先ほど私に、説得という言葉の意味を調べろとおっしゃいましたわね?」
「ああ」
「殿下も取引という言葉の意味をお調べになった方がよろしいのでは?」
「嫌なら断っても構わないぞ」
ライルは実に楽しそうに紅茶を飲んだ。
先ほどまで黒装束に刃を突きつけられていた男とは思えないほど、余裕に満ちた表情である。
アマリリアは気づいた。
自分は、とんでもない相手を選んでしまったのかもしれない。
けれど、ここで引けばカルロスとの結婚が待っている。
「……お受けいたしますわ」
「交渉成立だな」
ライルが差し出した手を、アマリリアは警戒しながら握る。
屋上に吹いた風が、二人の髪を揺らした。
こうして、カルロスとの婚約を逃れたい伯爵令嬢と、素性不明の婚約者から逃れたい第一王子による、奇妙な共犯関係が結ばれた。
このときのアマリリアは、まだ知らなかった。
ライルの婚約者を巡る問題が、父を当主の座から引きずり下ろすよりも、公爵令息を黙らせるよりも、遥かに面倒なものであることを。
そして何より。
偽りの婚約が終わる頃には、自分から婚約破棄を申し出ることなど、到底できなくなっていることを。




