第87話 最初の頁に何を書くか迷ったので、『決まらなかったこと』まで二人の思い出にすることにしました
翌朝、アマリリアは自室の机に置いてあった小さなインク瓶を、いつもの仕事鞄の横へ並べた。
王宮へ持っていく書類は既に確認してある。父ハロルドから預かったものもなく、ベスター家として今日中に王宮へ提出しなければならない案件もないため、普段より鞄には余裕があった。
その隣に置かれたインク瓶だけが、明らかに仕事とは関係のない顔をしている。
「……別に、悪いことをしているわけではありませんわよね」
誰に言い訳するでもなく呟きながら、アマリリアは瓶を手に取った。
昨日の朝は机の上に残してきた。
ライルは帳面だけを王宮へ持ってきていた。
今日は自分がインクを持っていく。
ただ、それだけのことだ。
執務中に使うつもりはないし、仕事を早く切り上げるつもりもない。時間が取れなければ次へ延ばすと、昨日二人で確認したばかりだった。
それなのに、仕事用の鞄へ入れるとなると妙に意識してしまう。
瓶を布で包み、鞄の内側へ慎重に収めたところで、背後から扉を叩く音がした。
「お嬢様、朝食のご用意が整いました」
「今参ります」
返事をして立ち上がる。
扉を開けると、待っていた侍女が一礼した後、アマリリアの鞄へ視線を落とした。
「本日はお持ちになるのですね」
「……何を、とは聞きませんわ」
「はい」
「皆、私の持ち物を把握しすぎではありません?」
「昨日、お嬢様ご自身が『明日は持っていくかもしれません』とお話しになっておりましたので」
「私が原因ですのね」
「左様でございます」
逃げ道がなかった。
アマリリアは小さく息を吐き、侍女とともに階段を下りた。
朝食室へ入ると、既にハロルドが席についていた。卓上には焼いたパン、卵、薄く切った燻製肉、秋野菜の温かなスープが並び、開けられた窓からは冷えた朝の空気がわずかに入っている。
「おはようございます、お父様」
「おはよう」
向かいへ座る。
ハロルドは新聞から目を上げ、娘の顔を一度見ると、何事もなかったように紙面へ戻った。
その反応に、逆にアマリリアは少し警戒した。
「……何です?」
「何も言っていない」
「言いたそうです」
「最近、お前の方からそれを言うようになったな」
「王妃陛下にも似たようなことを言われました」
「そうか」
ハロルドは新聞を畳んだ。
「で、何を持っていくんだ」
「なぜ何か持っていく前提なのです!」
「顔だ」
「顔?」
「朝から妙に機嫌がいい」
侍女と同じことを言われた。
アマリリアはスープへ匙を入れながら、誤魔化す意味もないと諦めた。
「インクです」
「王宮にインクくらいあるだろう」
「仕事用ではありません」
「では何に使う」
「……帳面です」
「帳面なら王宮にもある」
「二人のです」
ハロルドの手が止まった。
アマリリアは自分でも説明が足りなかったと気づく。
「先日、ライル様と帳面を一冊買いましたの」
「何を書く」
「まだ決めておりません」
「決めずに買ったのか」
「はい」
ハロルドの眉が少し動く。
咎めているというより、本当に意味が分からないらしい。
「劇場へ行ったことや、二人で食べたものや、次にしたいことを書くかもしれません。何も決めず、その時に書きたいものを書くかもしれません」
「仕事は?」
「書きません」
即答した。
ハロルドが娘を見る。
「そこは決めたのか」
「仕事の記録を始めたら、絶対に仕事用になりますもの」
「それはそうだな」
あっさり同意された。
アマリリアは少し不満になる。
「否定してくださってもよいのですよ?」
「なぜだ。事実だろう」
「……そうですけれど」
「まあ、いいんじゃないか」
ハロルドは再びパンへ手を伸ばした。
「何がです?」
「仕事以外で使う帳面が一冊くらいあっても」
その言い方はあまりにも普通だった。
だからこそ、アマリリアは少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
「はい」
「ただし王宮へ持っていくなら割るなよ」
「子供ではありません」
「インクは服につく」
「分かっております!」
「ライル殿下の服へこぼすな」
「お父様!」
ハロルドの口元がわずかに上がる。
からかわれたと分かり、アマリリアはパンを一口かじった。
けれど、嫌ではなかった。
◇◇◇
王宮の執務室へ着くと、ライルは既にいた。
昨日持ってきた帳面は、今日も革張りの書類入れに収められているらしい。机の横に同じものが置かれているのを見つけた瞬間、アマリリアは自分の鞄を意識した。
ライルも気づいたらしい。
「おはよう、アマリリア」
「おはようございます」
「持ってきた?」
挨拶の次がそれだった。
「何をです?」
「インク」
「仕事は?」
「まだ始まる前」
「ディーンがもう仕事をしております」
窓際で書類を整理していたディーンが顔を上げる。
「私は始めておりますが、殿下の本日の執務開始時刻までは、あと少々ございます」
「ほら」
「なぜ殿下の味方をするのです?」
「事実を申し上げただけでございます」
ゼインはまだ来ていない。
少しだけ助かったと思ってしまう。
「それで?」
ライルが期待を隠さず尋ねる。
アマリリアは鞄を机へ置き、内側から布に包んだ小瓶を取り出した。
「持ってきました」
「本当に?」
「昨日、そう言ったでしょう」
「うん」
ライルは嬉しそうに瓶を見る。
その表情があまりにも分かりやすく、アマリリアは少し笑ってしまった。
「まだ使いませんわよ」
「分かってる」
「仕事が終わってからです」
「うん」
「時間がなければ次です」
「うん」
「それから、仕事を急いで終わらせるのもなしです」
「分かってるよ」
「本当に?」
「昨日も言ったでしょう」
ライルは少しだけ胸を張った。
「次があるから」
昨日と同じ言葉。
アマリリアはそれ以上念を押すのをやめた。
「では、インクはここへ置いておきます」
机の隅へ置く。
帳面はライルの書類入れ。
インクはアマリリアの机。
まだ二つは離れている。
その距離が、なぜか少し可笑しかった。
「お嬢様」
聞き慣れた声がして、アマリリアは扉を見る。
ちょうど入ってきたゼインが、机の上の小瓶へ一度だけ視線を向けた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「本日はお持ちになったのですね」
「なぜ全員同じことを言うのです!?」
「昨日そういうお話でしたので」
「もう結構です!」
ゼインは平然と一礼し、自分の席へ向かった。
「ただし、お嬢様」
「まだ何か?」
「その位置ですと、通常書類を広げた際に腕が当たる可能性があります。もう少し奥へ置かれた方がよろしいかと」
アマリリアは黙った。
確かに。
机の右端は、資料を一時的に置くことが多い。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
腹立たしいが正しい。
インク瓶を窓側の安全な場所へ移す。
ライルが小さく笑った。
「何です?」
「いや。ちゃんと仕事の邪魔にならないところへ置いたなって」
「当然です!」
そうして、今日の仕事が始まった。
◇◇◇
午前中に扱ったのは、昨日から持ち越した大きな案件ではなかった。
最初は王領南部の二つの診療所へ追加配布する冬季用布類の最終確認。昨日、簡易寝台増設に伴う数量増と分かっていた案件で、担当部署から正式な調達日程が届いた。
次は王都北側公共厩舎の屋根補修。
その次は、地方の小規模な水路で見つかった土留め板の傷みについて、冬前に応急補修だけ行うか、春まで待つかの確認だった。
どれも、書類を開いた瞬間に何時間もの調査が必要になるようなものではない。
けれど、だからといって流し読みもしない。
必要なところを見る。
分からなければ聞く。
今決めなくてよければ戻す。
アマリリアは自分の机の端にあるインク瓶を時々視界へ入れながら、それでも仕事中に触れることはなかった。
ライルも帳面を出さない。
最初の一刻ほどは、それが少し気になっていた。
けれど仕事が進むにつれて、意識しなくなった。
それでよかった。
楽しみにしているものが近くにあるからといって、ずっとそれだけを考えている必要はない。
「次です」
ディーンが新しい書類を差し出した。
「第二共同倉庫から、定例報告の一部が届いております」
アマリリアの手が止まる。
「空箱置き場の件?」
ライルもすぐ反応した。
「含まれております」
「もう?」
アマリリアは日付を確認する。
「試し始めてから、まだ数日でしょう」
「はい。今回の報告は空箱移動だけを目的としたものではなく、もともとの定例報告です。その中に現状が一行記されております」
「では、読みます」
報告を受け取る。
第二共同倉庫では、表示板の前に空箱が置かれることで、特に西側の一部位置から表示が見えにくくなることがあった。
そこで現場側の提案により、空箱の仮置き位置を一間ほどずらして試している。
今回の記載は短い。
『空箱仮置き位置変更後、表示板前の遮蔽は現時点で確認なし。荷運び経路への大きな支障も現時点でなし。ただし、荷量の多い日をまだ含まないため継続確認』
「……これだけですわね」
「はい」
ディーンが答える。
「現場から追加説明を求めますか?」
アマリリアは報告を見る。
遮蔽なし。
大きな支障なし。
しかし荷量の多い日はまだ。
「求めません」
自然に答えた。
「次の定例まで待ちます」
「承知しました」
ライルも頷く。
「今うまくいってるから成功、でもないね」
「ええ。逆に、荷量の多い日に一度邪魔になったから失敗、とすぐ決める必要もありません」
「現場が今見てくれてるなら、任せる?」
「はい」
アマリリアは報告を閉じる。
「こちらから『この時間帯も見て』『この荷量の日も見て』と条件を増やさない方がよいでしょう。必要な確認は、今のところ現場で分かっています」
「じゃあ次」
ライルが言う。
「……殿下」
「何?」
「以前なら、もう少し見たがりませんでした?」
「君もでしょう」
「私は否定しておりません」
「俺も否定してないよ」
ライルは笑った。
「でも、今聞いても『まだ分かりません』って返ってくるだけだと思う」
「そうですわね」
「だったら、今は待てる」
アマリリアは少しだけ彼を見る時間が長くなった。
「また?」
ライルが気づく。
「何がです?」
「褒めようとしてる?」
「しておりません」
「昨日も途中でやめた」
「今日はまだ何も始めておりません!」
「じゃあ後で?」
「その制度はありません!」
ゼインが書類から顔を上げる。
「制度化された場合、使用時だけでなく使用しない時も決める必要がございますね」
アマリリアは数秒黙った。
昨日のエドガーの意見を、早速こんなところで使われた。
「……ゼイン」
「はい」
「それは今後、私をからかうための言葉として使用禁止です」
「使用しない条件を明確にしていただけますか」
「全面禁止です!」
「承知しました」
絶対に承知していない顔だった。
ライルが笑いを堪えきれず、とうとう机へ顔を伏せる。
「殿下も笑わないでください!」
「ごめん。でも」
「でも?」
「昨日の話、ちゃんと残ってるなって」
仕事の話が、こういう日常の冗談にもなる。
アマリリアは呆れながらも、少しだけ笑った。
◇◇◇
昼食前、内政文書局から短い返答が届いた。
エドガー本人からではない。
昨日、彼が書いた意見についてアマリリアたちが「もう少し実際の作成者へ聞くとは、どの程度を想定しているのか」と確認した件に対し、文書局側でたまたま同じ部屋にいた職員二人と話したという簡単な連絡だった。
正式な聞き取りではない。
会議でもない。
意見集約でもない。
エドガー自身が、その点を冒頭へ明記している。
『昼前の文書確認待ち時間に二名へ口頭で聞いた。回答を代表意見として扱わないこと』
「徹底していますわね」
アマリリアは思わず言った。
「俺たちが変な使い方しないように?」
ライルが覗き込む。
「それもあるでしょうけれど、エドガーさん自身が嫌なのでしょう。二人に聞いただけの話を『文書局の意見』にされるのが」
「分かる気がする」
二人の職員については、名前すら記されていない。
一人は定型通知を多く扱う中堅職員。
もう一人は部署異動から一年未満だが、文書作成自体の経験はある職員。
エドガーが尋ねたのは一つだけ。
『通知を作る時、「この通知で必ず行動を変える必要がある者は誰か」と毎回書面で答える欄があったらどう感じるか』
最初の職員。
『毎回なら面倒。変更内容が小さい時は、分かりきったことを書くことになる。大きく変わる時なら、考えるきっかけにはなるかもしれない』
二人目。
『異動直後なら助かるかもしれない。ただし、誰を挙げれば正解なのか採点される欄なら嫌だ。後から「この相手を書かなかった」と責任を問われるなら、思いつく限り多く書くと思う』
アマリリアはそこで止まった。
「……これ」
「うん」
ライルの表情からも笑いが消える。
「大事かもしれない」
「はい」
問いの目的は、見落としを減らすことだった。
しかし、それが評価や責任追及に使われると受け取られれば。
担当者は、本当に行動を変える必要がある者だけを書くのではなく、自分を守るために思いつく相手を大量に並べるかもしれない。
そうなれば、問いが生み出す行動そのものが変わる。
「今回の試行では?」
ライルが尋ねる。
「採点しないって伝えたよね」
「はい」
ディーンが記録を確認する。
「正解数を競うものではないこと、見つからなくても問題ないこと、長い報告を求めないことは事前に説明しております」
「それでも、担当者が本当にそう感じたかは?」
アマリリアが尋ねる。
ディーンは少し考えてから答えた。
「そこまでは確認しておりません」
「確認します?」
ライルが聞く。
アマリリアはすぐに頷かなかった。
聞けば答えは得られるかもしれない。
しかし二件の担当者へ、また質問を増やすことになる。
「……今すぐは、やめましょう」
「理由は?」
「二人目の職員の話は重要ですが、まだ『そう感じる人もいる』と分かっただけです。今回の担当者まで同じ不安を持っていたとは限りません」
「うん」
「それに、試行後になって『責任を問われると思いましたか』と聞くと、その質問自体で意識させる可能性もあります」
「そっか」
アマリリアは紙へ視線を戻した。
「ただし、次にもし試すなら、説明の仕方は考えた方がよいです」
「採点しません、だけじゃなく?」
「『多く書くほど良いわけではない』『該当なしでも構わない』など」
「でも説明を増やしすぎると?」
「それもあります」
問い一つを試したいのに、説明文が一頁になったら本末転倒だ。
「……難しいですわね」
「また出た」
「何がです?」
「君の『難しいですわね』」
「言ってはいけません?」
「違う。好き」
アマリリアが止まった。
「仕事中です!」
「言葉が、だよ!」
「先に言ってくださいませ!」
ゼインが静かに書類を閉じた。
「昼食前に随分お元気ですね」
「ゼインは黙っていてください!」
「先ほど全面禁止を承りましたので、通知試行の言葉を用いたからかいはしておりません」
「別の方法ならよいという意味ではありません!」
ディーンが時計を見る。
「ちょうどよいので、ここで昼食にされますか?」
アマリリアは反射的に「まだ」と言いかけた。
けれど、腹が減っている。
通知試行についても、今ここで追加の結論を出す必要はない。
「そうしましょう」
「うん」
ライルも席を立つ。
机の上にはエドガーの紙を残した。
二人の職員の意見。
それは新しい答えではない。
新しい注意点だ。
だから、昼食を遅らせてまで今すぐ処理する必要もなかった。
◇◇◇
午後は、フォード商会の資料を開く時間が取れた。
昨日は読まなかった。
前回までに確認したのは、共同輸送で積み替え回数が増えた荷ほど再梱包記録も増えているように見える一方、品目や距離が異なるため単純比較できないこと。そして共同輸送拡大後、一部の提携倉庫で積み替え時の簡易確認項目が増えており、「再梱包が増えた=状態が悪化した」とも言い切れないことだった。
アマリリアは次の紙をめくる。
今日の資料には、倉庫ごとの再梱包記録開始時期と、簡易確認項目を導入した時期が記されていた。
「昨日気になってたところ」
ライルが身を寄せる。
「ええ。資料内にありましたわね」
「先に聞かなくてよかった?」
「少なくとも、この点については」
全部を読み終える前にミハイルへ質問していたら、既に渡されている資料の内容を聞き直すところだった。
もちろん、それが常に悪いわけではない。
資料が分かりにくければ尋ねるべきだ。
しかし今回は、少し先を読めば書いてあった。
「全部の倉庫が同じ日じゃない」
ライルが表を指す。
「はい」
共同輸送の拡大に合わせて確認項目を増やした倉庫。
数か月遅れて導入した倉庫。
以前から似た確認をしており、記録方法だけ変更した倉庫。
何も変更していない倉庫。
同じ「提携倉庫」でも条件が違う。
「これなら」
アマリリアは表を追う。
「再梱包記録が増えた時期と、確認方法が変わった時期を見比べられる場所がありますわね」
「やる?」
「今日はまず、資料に既に比較があるか見ます」
次の頁。
あった。
二人は顔を見合わせる。
「ミハイル」
ライルが呟いた。
「聞かれそうなことを先に入れておりますわね」
「人を見る男」
「お父様の言葉を便利に使わないでくださいませ」
それでも、少し警戒する。
フォード商会が自分たちに見せたい形で資料を作っている可能性は常にある。
だから「こちらが知りたいことが書いてある=信用できる」ではない。
表には、四つの提携倉庫について、確認項目変更前後の再梱包記録が並べられていた。
一つ目。
簡易確認を増やした直後から、軽微な紐の緩みや箱角の歪みによる再梱包記録が増加。
補償対象となった破損件数には明確な増加なし。
二つ目。
確認方法変更後も再梱包記録はほぼ同程度。
三つ目。
記録方法だけを変更した月に再梱包件数が増えている。
四つ目。
確認方法も記録方法も変更していないが、共同輸送の荷量増加に伴って再梱包の絶対件数は増加。ただし、百件当たりでは大きな変化なし。
「全部違う」
ライルが言った。
「ええ」
「じゃあ『共同輸送で再梱包が増えた』だけだと、かなり雑?」
「そうですわね」
全体件数だけを合計すれば増えている。
しかし内訳を見ると、増えた理由が同じとは限らない。
確認が増えた。
記録方法が変わった。
荷量そのものが増えた。
それらが混ざっている。
「破損が減ったとも言えない?」
「言えません」
「確認が良くなったから補償破損が増えなかった、も?」
「それもまだ」
「うん」
ライルは表の端にある注意書きを読む。
『各倉庫の取扱品目構成は一致しない。再梱包判断基準についても完全な統一なし。』
「比較できるようで、完全にはできない」
「はい」
アマリリアは紙を机へ置いた。
「でも、何も分からないわけではありません」
「何が分かる?」
「少なくとも、全体の再梱包件数が増えたという一つの数字だけで、共同輸送によって荷扱いが悪化したとは言えないこと」
「うん」
「逆に、補償破損が増えていないから問題なし、とも言えません」
「記録されてない軽い破損もあるかもしれないし」
「はい」
さらに、再梱包は「問題」だけではない。
途中で問題を見つけ、最終破損を防ぐ行動でもあり得る。
数字の意味が、見る位置によって変わる。
「次の頁は?」
ライルが尋ねる。
アマリリアはめくる前に時計を見る。
まだ時間はある。
「もう一つくらいなら、急がず読めそうです」
「一枚制度?」
「違います!」
「分かってる」
「からかいましたわね?」
「ちょっと」
アマリリアは呆れながら次の頁を開いた。
そこには、これまでとは少し違う表題があった。
『積み替え時の作業停止記録――荷札・送り先・積載順に疑義が生じた事例』
「停止?」
ライルの声が低くなる。
アマリリアも表題を見つめる。
荷が壊れた後の記録ではない。
積み替え作業中に、何かがおかしいと気づいて止めた記録。
第二共同倉庫で、迷った時に置く前で止まるという共通事項を試していたことが頭をよぎる。
「似ていますけれど」
アマリリアはすぐに言った。
「同じものとして扱わない方がよいです」
「うん。こっちはフォードの共同輸送」
「倉庫も複数でしょうし、止める理由も違うかもしれません」
資料の冒頭には、停止記録がすべての倉庫で同じ基準ではないことが明記されていた。
ある倉庫では、作業責任者を呼んだ場合のみ記録。
別の倉庫では、作業員同士で確認して数分以内に解決したものも記録。
また別の倉庫では、荷主への問い合わせが発生した場合だけ残している。
「これ」
ライルが眉を寄せる。
「合計しても意味が薄い?」
「少なくとも、倉庫同士の件数をそのまま比べるのは危険ですわね」
「多い倉庫の方が問題が多いとは限らない」
「細かく記録しているだけかもしれません」
アマリリアはそこで頁を閉じなかった。
今日はまだ読める。
ただし、数字の比較へすぐ入る前に、記録基準を確認する必要がある。
次の欄には、停止理由の例が記されていた。
荷札の文字が雨で滲んでいた。
同じ姓の荷主が同じ便に二件あった。
予定していた積載順と実際の到着順が変わった。
中継倉庫で追加された識別紐が、別商会の色と似ていた。
送り先の村名が隣村と一字違いだった。
アマリリアの目が最後から二つ目で止まる。
「色」
ライルも気づいた。
「前に馬車で見た?」
「劇場へ向かう途中の?」
「うん。赤と青の布」
アマリリアは思い出した。
共同輸送の荷かもしれないと一瞬考えた。
けれど、デート中だったから追わなかった。
「同じものかは分かりません」
「うん」
「この資料の識別紐が、あの荷車で見た布と同じ仕組みとも限りません」
「聞く?」
「まだです」
即答した。
ライルが頷く。
「資料の続き?」
「はい。それに、あの日見たものを今になって『きっとこれだった』と結びつけるのは危険です」
「赤と青だったことしか覚えてないし」
「そうですわね」
アマリリアは少し笑う。
「あの日、追わなくてよかったです」
「今でも?」
「はい」
「気になるのに?」
「今は仕事中ですから、必要なら調べます。でも、あの日はデートでした」
「うん」
「もし追いかけていたら、劇場へ遅れたかもしれません」
「それは嫌だ」
「私もです」
劇場の幕が上がった瞬間。
ノエルとミラ。
休憩中に分けた二種類の菓子。
夕食。
夜道。
文具店。
あの日にしかなかった時間を思い出す。
荷車を追わなかったことで失った情報があるかもしれない。
けれど、その情報が今必要なら、別の方法で確かめればいい。
「今日はここまでにしましょう」
アマリリアが資料を閉じる。
「次、停止記録の基準から?」
「はい。資料の中に補足があるか先に見ます」
「うん」
フォード商会へ問い合わせるのは、その後だ。
また一つ、未完のまま机へ戻す。
それで午後の執務は終わりに近づいた。
◇◇◇
夕方、最後の書類へ署名したライルが、ゆっくり筆を置いた。
窓の外は既に橙色へ変わり、中庭を行き交う官吏や使用人の影が長く伸びている。廊下側からは、別室で椅子を片づける音や、仕事を終えた者たちの控えめな挨拶が聞こえてきた。
「終わり?」
ライルがディーンを見る。
「本日中に必要なものは以上です」
「追加は?」
「緊急連絡はございません」
「じゃあ」
ライルの視線が帳面を入れた書類入れへ向かう。
アマリリアも、自分の机の窓側を見る。
朝からそこにあったインク瓶。
結局、一度も触らなかった。
「時間、あります?」
ライルが尋ねる。
声が少しだけ慎重だった。
朝のように勢いよく「書こう」とは言わない。
もし予定があるなら次でいい。
昨日そう話したからだろう。
「ございます」
アマリリアは答えた。
「帰宅予定まで、少し余裕があります」
「じゃあ……」
「はい」
アマリリアはインク瓶を手に取った。
ライルも帳面を取り出す。
朝から別々の場所にあった二つが、ようやく同じ机の上へ並んだ。
ディーンが書類をまとめながら二人を見る。
「こちらの机をそのままお使いになりますか?」
「いいの?」
「本日の執務は終了しておりますので。ただ、まだ回収する書類がございますから、窓際の小卓の方が落ち着かれるかと」
執務机で私的な帳面を書くより、その方がいい。
「そうします」
アマリリアが答える。
窓際には二人で座れる程度の小さな丸卓がある。普段は短い打ち合わせや休憩に使う場所で、夕暮れの光が斜めに差し込んでいた。
ライルが帳面を持つ。
アマリリアがインク瓶を持つ。
二人で移動しようとしたところで、ゼインが立ち上がった。
「では、私は失礼いたします」
「まだいても構いませんが」
「お嬢様」
「何です?」
「最初の頁に何を書くかで一刻悩まれた場合、私がいると八つ当たりされそうですので」
「しません!」
「安心いたしました。では」
「待ちなさい!」
ゼインは一礼すると、本当に出ていった。
扉が閉まる。
ディーンも残りの書類を抱える。
「私も別室へこちらを届けてまいります。戻るまでにお帰りでしたら、そのままで結構です」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
二人が礼を言うと、ディーンは微笑んだ。
「よい最初の一頁になるとよろしいですね」
そう言い残し、彼も部屋を出た。
急に静かになる。
日中は人の出入りが絶えない執務室なのに、今は遠くの足音と紙を運ぶ微かな音しかない。
アマリリアとライルは小卓へ向かい合って座った。
真ん中に帳面を置く。
その横にインク瓶。
「……開ける?」
ライルが聞く。
「そのために持ってきたのでしょう」
「うん」
彼が表紙へ手を掛ける。
生成り色の布張り。
右下の小さな葉の型押し。
表紙を開くと、昨日店で見た時と同じ、何も書かれていない最初の頁が現れた。
真っ白だ。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「何を書きます?」
先に尋ねたのはアマリリアだった。
「昨日の候補?」
「『今日も、二人で選ぶのは楽しかった』」
「うん」
「悪くはありません」
「俺も好き」
「では、それにします?」
ライルが少し考える。
「……でも」
「何です?」
「それ、帳面を買った日のことだよね」
「ええ」
「最初の劇場の日から書かなくていい?」
アマリリアは黙った。
確かに。
この帳面を買おうと思ったのは、劇場デートの夜だった。
ならば劇場から書くのも自然だ。
「では、『劇場へ行きました』?」
「日記みたい」
「日記でもよいでしょう」
「そうだけど」
「殿下は嫌です?」
「嫌じゃない。でも、最初の頁だから」
「……特別にしたい?」
「ちょっと」
アマリリアは帳面を見る。
「でしたら、『初めて二人で劇場へ行った』」
「初めて?」
「何です?」
「これから二回目があるみたいで好き」
アマリリアは口を閉じた。
そういう受け取り方をされるとは思わなかった。
「……ありますでしょう」
「うん」
「もう行くと話したではありませんか」
「聞きたかった」
「ずるいですわね」
ライルが笑う。
アマリリアも少し笑った。
「では、それを書きます?」
「待って」
「まだ?」
「焼き林檎も書きたい」
「最初の一頁に?」
「美味しかったでしょう」
「美味しかったですけれど」
「母上も、一頁使っていいって」
「王妃陛下は例としておっしゃったのです!」
「でも書きたい」
アマリリアは腕を組んだ。
「では、劇場と焼き林檎」
「散歩は?」
「増えましたわね」
「文具店も」
「このままでは一日の記録になります!」
「それでもいいんじゃない?」
「先ほど特別にしたいと」
「全部特別だったから」
あまりにも自然に言われ、アマリリアは返す言葉を失った。
ライルは気づかず帳面を見ている。
「劇も面白かったし、君と菓子を半分ずつ食べたのも、夕食も、散歩も、店が閉まってたのも、帳面を選んだのも」
「殿下」
「うん?」
「そういうことを急に言わないでくださいませ」
「何で?」
「……困ります」
「嫌?」
「嫌ではありません」
むしろ逆だ。
自分が大切だと思っている時間を、相手も同じように覚えている。
それが嬉しい。
ただ、嬉しいとそのまま認めると、最近のライルはますます嬉しそうにするので悔しい。
「では、全部書きます?」
アマリリアが尋ねる。
「でも最初の一頁に全部は入らないね」
「二頁目へ続ければよいでしょう」
「最初の一頁だけ特別じゃなくなる?」
「そもそも、なぜ最初だけ特別でなければならないのです?」
言った後、二人とも止まった。
ライルが帳面を見る。
アマリリアも見る。
「……確かに」
「でしょう?」
「最初だから、すごくいいこと書かないとって思ってた」
「私もです」
白い頁を見ると、失敗したくない気持ちになる。
最初の一文。
最初の記録。
せっかく二人で選んだ帳面なのだから、後から見返しても嬉しくなる言葉を残したい。
けれど、そのために悩み続けて何も書けないなら、何のために買ったのか分からない。
「仕事の書類みたい」
ライルが言った。
「何がです?」
「最初から完成した形にしようとしてる」
アマリリアは苦笑した。
「確かに、少し似ておりますわね」
「これ、提出しないのに」
「審査もありません」
「母上にも見せない」
「絶対に見せません」
「父上にも」
「もちろんです」
「ハロルドにも?」
「お父様にもです!」
「じゃあ、間違ってもいい?」
アマリリアは白い頁を見る。
文字を書き間違える。
後から考えが変わる。
最初の予定と違う使い方になる。
仕事の正式文書なら困ることもある。
でも、これは二人の帳面だ。
「よいのではありません?」
「消せないよ」
「線を引けばよいでしょう」
「汚くならない?」
「なりますわね」
「いい?」
「……それも、後から見たら思い出になるかもしれません」
ライルがゆっくり笑った。
「それ好き」
「私も今、少し好きだと思いました」
アマリリアはインク瓶の栓を開けた。
かすかなインクの匂いが漂う。
ライルが文具店で一緒に選んだ細身のペンを取り出した。
「誰が書く?」
「殿下がどうぞ」
「君じゃなくて?」
「帳面を持ってきたのは殿下です」
「インクは君」
「では、じゃんけんでも?」
「何それ」
「知りません?」
「知ってるけど、婚約者同士で最初の頁を書く人をじゃんけんで決めるの?」
「公平でしょう」
「王国の会議より雑じゃない?」
「私物ですからいいのです!」
結局、二人とも笑った。
「じゃあ、本当にやる?」
「やりましょう」
拳を出す。
一度目。
二人とも同じ。
二度目。
また同じ。
三度目で、アマリリアが勝った。
「……私ですの?」
「公平に決まった」
「今になって緊張してきました」
「頑張って」
「他人事ですわね!」
アマリリアはペンを受け取る。
インクをつける。
白い頁の上で手が止まった。
「何書く?」
「……それを決めておりませんでした」
「じゃんけんだけ先にしたね」
「殿下も止めてくださいませ!」
また笑う。
こんなことばかりしている。
けれど、不思議と時間を無駄にしているとは感じなかった。
アマリリアはしばらく考えた後、最初の一行を書いた。
『最初の頁に何を書くか、二人でなかなか決められませんでした。』
ライルが隣から覗き込む。
「それ書くの?」
「事実でしょう」
「うん」
「嫌です?」
「好き」
即答だった。
「では、次を殿下が」
「いいの?」
「一人ずつ書く決まりもありませんから」
ペンを渡す。
ライルが続きを考える。
そして、少し不器用な字で書いた。
『候補は、劇場、焼き林檎、夜の散歩、閉まっていた文具店、二人で選んだこの帳面。多すぎて決まりませんでした。』
「多すぎますわね」
「でも全部でしょう?」
「ええ」
アマリリアは笑う。
その下へ、自分が続ける。
『なので、決まらなかったことから書くことにしました。』
ライルが読んで、しばらく黙った。
「どうしました?」
「いや」
彼は最初の頁を見つめる。
「なんか、俺たちらしいなって」
「どこがです?」
「最初は、君が俺を脅して婚約者にしたでしょう」
「そこから始めますの!?」
「でも、偽物の婚約だったのに、本物になった」
「……はい」
「市場へ行ったら仕事みたいになったこともあるし、仕事をしてたらデートの話になることもあるし」
「今日もそうでしたわね」
「何を書く帳面かも決めずに買って、最初に書いたのが『決まりませんでした』」
アマリリアは頁を見る。
整った文章ではない。
特別に美しい言葉でもない。
誰かへ見せれば、最初の頁なのにそんなことでいいのかと言われるかもしれない。
けれど、自分たちには分かる。
この数行を書くだけで、どれだけ話したか。
何を候補にしたか。
なぜ決められなかったのか。
「いいですわね」
アマリリアが静かに言った。
「うん」
「このままで」
「うん」
「では、日付も書きましょう」
頁の上部へ今日の日付を入れる。
劇場へ行った日ではない。
帳面を買った日でもない。
二人で最初に書いた今日の日付。
それも自然だった。
「次、何書く?」
ライルがすぐ尋ねる。
アマリリアは思わず笑った。
「もう次ですの?」
「まだ時間あるでしょう?」
「少しは」
「じゃあ劇場?」
「焼き林檎では?」
「君、さっき劇場からって」
「殿下が焼き林檎を書きたいと」
「両方」
「またです?」
「二人なら二つ選べる」
劇場の休憩中、二種類の菓子を半分ずつにした時の言葉だった。
アマリリアは思い出して、笑う。
「では、両方」
二頁目へ移る。
今度は最初ほど緊張しなかった。
アマリリアが劇場の題名を書く。
ライルが「地図の小道具が欲しかった」と書く。
アマリリアが横から、
『本当に最後まで欲しがっておりました。』
と追記する。
「それ書く?」
「事実です」
「じゃあ俺も」
ライルがその下へ、
『アマリリアは劇場の入口の人の流れを見て、支配人を呼びそうになったけれど呼びませんでした。』
と書いた。
「呼びそうになっておりません!」
「見てた」
「見ただけです!」
「じゃあ直す?」
「……線を引くのも思い出になると言ったばかりですけれど、これは訂正します」
アマリリアは横へ小さく、
『呼ぼうとはしておりません。』
と書き足した。
ライルが笑う。
「これ、楽しい」
「思っていた使い方と違いますわね」
「どんなの想像してた?」
「もう少し綺麗に、訪れた場所や食べたものを書くのかと」
「嫌?」
「いいえ」
むしろ、こっちの方が二人らしい。
その下には、休憩中に分けた菓子。
ノエルとミラの「帰る場所」の話。
何十年後も同じ劇を見て意見が違うと言い合えたら楽しそうだ、とアマリリアが言ったこと。
そこまで書こうとして、彼女の手が止まる。
「それも書く?」
ライルが尋ねた。
「……書きます?」
「俺は書きたい」
「では」
アマリリアは少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、短く書いた。
『何十年後も、同じ劇を見て違う意見を言い合えたら楽しそうだと思いました。』
ライルがペンを受け取る。
その下へ一言。
『俺も、そうしたい。』
劇場で返されたのと同じ言葉だった。
アマリリアはその文字をしばらく見た。
「殿下」
「うん?」
「これは、ずるいです」
「何が?」
「同じことを書けば、あの時まで思い出すでしょう」
「そのための帳面じゃないの?」
アマリリアは答えられなかった。
確かに、その通りだった。
出来事を正確に保存するための報告書ではない。
短い一言から、二人だけがその時の空気を思い出せればいい。
劇場の暗さ。
つないだ手。
隣にいた年配夫婦。
舞台の雪。
終演後のざわめき。
あの時のライルの声。
「……そうですわね」
アマリリアは小さく笑った。
次の頁には焼き林檎を書く。
ライルが、
『熱かったけど美味しかった。』
と書いた。
「感想が簡単すぎません?」
「美味しかったから」
「もっとありません?」
「君は?」
ペンを渡される。
アマリリアは考え、
『私も美味しいと思いました。また食べたいです。』
と書いた。
ライルが見る。
「君も同じじゃない?」
「……本当ですわね」
二人で笑った。
それでよかった。
料理評論を書くわけではない。
美味しかった。
また食べたい。
それだけで十分な時もある。
◇◇◇
「お二人とも」
不意に声がして、二人は同時に顔を上げた。
いつの間に戻っていたのか、ディーンが少し離れた場所に立っている。
「申し訳ございません。お邪魔するつもりはなかったのですが」
「いつからいましたの?」
「『熱かったけど美味しかった』の少し前から」
アマリリアは反射的に帳面を閉じた。
「読んでおりませんよ」
「本当に?」
「はい。殿下のお声が聞こえただけです」
ライルが笑う。
「別に聞かれてもいいところだったね」
「殿下!」
「焼き林檎でしょう?」
「そうですけれど!」
ディーンは柔らかく微笑んだ。
「そろそろお帰りのお時間です」
窓の外を見る。
夕暮れはかなり深くなっていた。
思っていた以上に時間が経っている。
「……もう?」
ライルが残念そうに言う。
「はい。ただし、急ぎの案件が発生したわけではございません」
「次、だね」
ライルがアマリリアを見る。
アマリリアも頷いた。
「ええ。次です」
帳面を閉じる。
今日は数頁しか進んでいない。
劇場のことも全部は書けなかった。
夕食の後の散歩も、閉まっていた文具店も、帳面を選んだこともまだだ。
それでいい。
「今日はどちらが持ち帰ります?」
アマリリアが尋ねる。
「帳面?」
「はい」
「君が持ってく?」
「殿下が昨日から持っておりますし」
「じゃあ今日は君」
ライルが帳面を差し出す。
受け取った瞬間、少しだけ重く感じた。
物理的には何も変わっていない。
数頁にインクが乗った程度だ。
けれど昨日までの新品とは違う。
二人の文字が入っている。
「インクは?」
ライルが聞く。
「私が持ち帰ります」
「じゃあまた両方君になる」
「そうですわね」
「次に俺が帳面忘れても書けない」
「忘れないでくださいませ」
「でも忘れたら?」
「次です」
「うん」
また同じ答え。
アマリリアは帳面を鞄へ入れ、インク瓶も布で包む。
朝は仕事用の鞄へ私物を入れることを妙に意識した。
帰りはもう、ほとんど気にならなかった。
◇◇◇
王宮の玄関へ向かう廊下を歩きながら、ライルが何度かアマリリアの鞄を見た。
「何です?」
「帳面、そっちにあるなって」
「あります」
「今日、返してって言ったら?」
「嫌です」
「即答」
「今日は私が持ち帰ります」
「分かった」
「そんなに心配なら、明日持ってまいります」
「うん」
「ただし、明日書けるとは限りません」
「分かってる」
ライルは少し間を置いてから続ける。
「でも、今日書けてよかった」
「私もです」
「最初の頁、あれでよかった?」
アマリリアは歩きながら、鞄の中にある帳面を思い浮かべる。
『最初の頁に何を書くか、二人でなかなか決められませんでした。』
特別な名言ではない。
綺麗な愛の言葉でもない。
婚約者同士の記念帳面の最初としては、ずいぶん締まらない。
「よかったです」
それでも迷わず答えた。
「私も、あれがいいです」
「よかった」
「殿下」
「何?」
「これからも、決まらないことがあるのでしょうね」
「いっぱいあると思う」
「意見が違うことも」
「あるね」
「喧嘩も?」
「……あるかも」
ライルの声が少し慎重になる。
アマリリアはそれに気づいて笑った。
「そんな顔をしなくても」
「君と喧嘩するの嫌だなって」
「私も好きで喧嘩をしたいわけではありません」
「じゃあしない?」
「それを今決めても意味がないでしょう」
「そっか」
「意見が違うことまでなくす必要はありません」
劇場で見た年配の夫婦を思い出す。
同じ劇を見ても、気になる人物も、好きな場面も違っていた。
それでも二人は楽しそうだった。
「もし喧嘩したら」
アマリリアは少し考える。
「帳面に書きます?」
「喧嘩したこと?」
「はい」
「嫌じゃない?」
「後から仲直りできたなら、笑えるかもしれません」
「できなかったら?」
「その時は、笑えるまで書きません」
ライルが少し驚いた顔をした後、ゆっくり笑った。
「それ、いいね」
「でしょう?」
「でも君、怒ってる時にすごい長文書きそう」
「殿下!」
「ごめん!」
廊下に笑い声が響く。
通りかかった侍女が一瞬こちらを見て、すぐに微笑みながら一礼した。
アマリリアはもう、それを恥ずかしいとは思わなかった。
玄関へ近づくにつれて、外の冷たい空気が入ってくる。秋の夕暮れは日ごとに早くなり、王宮前の広場では既に街灯へ火を入れる係が動き始めていた。
「アマリリア」
「はい?」
「次の頁、何にする?」
「もう考えますの?」
「駄目?」
「駄目ではありませんけれど」
少し考える。
散歩。
文具店。
今日のこと。
仕事のことは書かないと決めたが、「仕事が終わってから二人で初めて帳面を書いた」と書くなら、それは仕事の記録ではない。
「決めません」
アマリリアは答えた。
「まだ?」
「はい」
「候補も?」
「作りません」
「何で?」
「次に帳面を開いた時、その時に書きたいことを書きましょう」
ライルは一瞬だけ考えた。
それから、嬉しそうに頷く。
「うん。それがいい」
「でしょう?」
「じゃあ次に開くまで分からないね」
「はい」
「楽しみ」
「私もです」
玄関前で二人は足を止めた。
ここからは、それぞれの馬車へ向かう。
ライルがいつものように手を差し出し、アマリリアも自然に自分の手を重ねた。ほんの短い時間だけ指を絡め、離れる前に互いの顔を見る。
「また明日」
「はい。また明日」
手を離す。
アマリリアは馬車へ向かった。
鞄の中には、数頁だけ文字の増えた帳面がある。
まだ何を書く帳面なのか、二人とも正確には説明できない。
訪れた場所の記録かもしれない。
美味しかったものの記録かもしれない。
言い合ったことや、笑ったことや、何十年後にも覚えていたい言葉を書く場所になるかもしれない。
あるいは、そのどれにもならない頁が増えていくかもしれない。
それでいいのだと思えた。
何を書くかを最初にすべて決めなくても、二人で頁を増やしていけば、そのうちこの帳面が何だったのかは後から分かる。
今日の仕事も同じだった。
通知の試行はまだ制度になっていない。
共同輸送の数字も、第二共同倉庫の改善も途中にある。
先に完成形を決めず、見えたものを一つずつ確かめる。
ただ、帳面だけは仕事よりずっと気楽でいい。
間違えても。
決まらなくても。
途中で使い方が変わっても。
二人がそれを面白いと思えれば、それで十分だった。
馬車へ乗り込み、アマリリアは座席へ腰を下ろす。
窓の外では、ライルも自分の馬車へ向かっていた。
途中で振り返る。
目が合った。
彼が笑う。
アマリリアも笑って、小さく手を振った。
馬車が動き始める。
今日の帳面には、ここまで書いていない。
けれど、次に開いた時に覚えていたら書けばいい。
忘れていたなら、それも構わない。
全部を残さなくても、二人で過ごした時間まで消えるわけではないのだから。




