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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第88話 止まった回数が多いほど悪いと思っていたら、『止まれたから間違えなかった』という話が出てきました

翌朝、アマリリアが王宮の執務室へ入ると、ライルは最初に彼女の顔ではなく、その手にある鞄を見た。


 視線はほんの一瞬だったが、昨日から何を気にしているのか分かっているアマリリアには十分すぎるほど分かりやすい。扉の近くで外套を預けながら彼を見返すと、ライルは誤魔化すように咳払いをした。


「おはよう、アマリリア」


「おはようございます、ライル様」


「……今日は寒いね」


「そうですわね」


「昨日より」


「ええ」


「鞄、重くない?」


「殿下」


「何?」


「帳面なら持ってきております」


 ライルの顔が明るくなる。


「本当に?」


「昨日、持ってくると申し上げましたでしょう」


「うん。でも、書けるかは分からないって」


「それも申し上げました」


「分かってる」


 そこまで答えてから、ライルは少しだけ残念そうな顔をする。


 アマリリアは笑いそうになった。


「ですから、今は出しません」


「まだ何も言ってないよ」


「顔が言っております」


「そんなに?」


「かなり」


 窓際で書類を確認していたディーンが、何も聞いていないふりをしながら紙を揃える。反対側ではゼインが朝一番に届いた報告の封を切っていたが、こちらも口元がわずかに動いていた。


「二人とも」


 アマリリアが声を向ける。


「何でしょう」


 ディーンが穏やかに答えた。


「私は何も申し上げておりません」


 ゼインも続く。


「私もでございます」


「その反応が既に何か言っております!」


 朝の執務室に、小さな笑いが広がった。


 けれど、それも長くは続かない。


 ディーンが最初の書類を机へ置けば、そこからは仕事の時間になる。


 鞄の中には昨日二人で文字を入れた帳面がある。


 それを知っていても、アマリリアは鞄を開かなかった。


          ◇◇◇


 午前中は、王領東部の冬季街道維持費の確認から始まった。


 今年は初雪が早い可能性があるとして、峠に近い二つの町から砂と砕石の備蓄を例年より前倒ししたいという申請が上がっている。要求量そのものは大きくないが、一方の町だけ前年より三割近く増えていたため、その理由を確認する必要があった。


「昨年の残量は?」


 ライルが尋ねる。


「こちらです」


 ディーンが添付資料を差し出した。


 昨冬は終盤に雨と凍結が重なり、坂道で予定以上に砂を使っている。そのため春時点の残量が少なく、今年の要求量が増えているだけだった。


「なら、前年の購入量だけ見たら多く見えるけど」


「残量まで含めれば、特別に多いわけではありませんわね」


 アマリリアは数字を確認し、申請理由の記載と照らす。


 それでも一つ気になるところがあった。


「こちらの町は、昨年の使用場所が記録されております?」


「町側の詳細記録までは添付されておりません」


「では――」


 言いかけて、止まる。


 知ることはできる。


 問い合わせれば、おそらく記録も出てくる。


 しかし、今それが必要なのか。


 今回確認したいのは、前倒し購入が妥当かどうかだ。昨年終盤に在庫を多く使い、残量が少ないことは既に確認できている。


「……いりませんわね」


 アマリリアは自分で言い直した。


 ライルが横を見る。


「使用場所?」


「はい。少し気になりましたけれど、今回の判断には必要ありません」


「じゃあ聞かない?」


「聞きません」


 ディーンが頷き、余計な照会を書き加えることなく次へ進めた。


 以前なら、気になったものをそのまま残すことに落ち着かなさを覚えていた。


 今も興味はある。


 どの坂道で多く使ったのか。


 そこだけ凍りやすいのか。


 道の構造に問題があるのか。


 けれど、今の書類からそこまで枝を伸ばす理由はない。


「次をお願いします」


 その後も、王都西側の公衆井戸二基の滑車交換、冬季巡回衛兵へ追加支給する防寒手袋、地方役所の古い記録棚修理と、比較的小さな案件が続いた。


 昼前には、一通の報告がディーンの手元へ届いた。


「殿下、アマリリア様。外縁門管理局からです」


 その言葉で、アマリリアは顔を上げる。


 冬季夜間門閉鎖時刻変更。


 通知試行の二件目。


 数日前に担当者が試行用の問いへ記入した写しが届き、アマリリアたちは既に内容を確認している。


「追加ですか?」


「はい。ただし、試行に対する回答ではありません」


 ディーンが封筒から紙を取り出す。


「通常の通知準備が進み、関連部署から一件確認が入ったそうです。その記録の写しです」


「試行とは別?」


 ライルが聞く。


「元の業務上発生したものです」


「では、見ましょう」


 アマリリアが受け取った。


 内容は短い。


 冬季の夜間閉門を半刻早めることについて、外縁門管理局から四つの関連部署へ正式通知の準備が進んでいる。そのうち王都巡回警備の担当部署から、「閉門後に外縁部から戻る巡回班の帰還時刻は変更対象となるか」という問い合わせが入った。


「……あ」


 ライルが声を漏らした。


 アマリリアも同じところを見ていた。


 閉門時刻が変わる。


 ならば、門を利用する者の行動が変わる。


 商人。


 旅人。


 荷車。


 周辺住民。


 そして、門外を巡回して戻る衛兵。


「元の通知には?」


 アマリリアが尋ねる。


「巡回警備部署は通知先に含まれております」


 ディーンが答えた。


「では、漏れてはいなかった?」


「通知先としては」


「でも、向こうは自分たちの帰還時刻も変える必要があるのか分からなかった」


 ライルが言う。


「はい」


 アマリリアは紙を読む。


 問い合わせへの回答も添えられていた。


 巡回班の運用は一律変更しない。


 閉門後に帰還する班については、従来通り警備用の通用手順を使う。ただし冬季は一般門の閉鎖が早まるため、一般利用者と同じ入口へ誘導しないよう、巡回班内で改めて周知する。


「通知は届く予定だった」


 ライルがゆっくり言う。


「でも、届くだけだと、この人たちが何を変えるのかまでは分からなかった?」


「少なくとも、この部署では確認が必要だったのでしょう」


 アマリリアは試行回答の写しを思い出す。


 二件目の担当者は経験豊富だった。


 同じ冬季変更を何度も扱っている。


 試行の問いに対しても、誰の行動が変わるかを考えた結果、既に想定していた対象が中心で、大きな追加はなかった。


 だからといって、通知を受け取る全員が同じ理解をするわけではない。


「これを試行の成果にします?」


 ライルが尋ねた。


 アマリリアはすぐに首を振った。


「できません」


「だよね」


「この問い合わせが、試行の問いを入れたから発生したとは限りません。通常の通知準備でも起きた可能性があります」


「むしろ普通に関連部署へ送ったから聞かれた?」


「はい」


 ディーンが補足する。


「問い合わせを行った部署は、試行の問いそのものを見ておりません」


「では、なおさらです」


 アマリリアは紙を机へ置いた。


「ただ、残す価値はあります」


「何として?」


「通知先に含まれていることと、その相手が自分の行動変更を理解できることは別、という例として」


 ライルが頷く。


「試行が成功した証拠じゃなくて、考える材料?」


「そうです」


 それ以上、二人は結論を広げなかった。


 たった一件の問い合わせだ。


 制度全体を変える根拠にはならない。


 しかし、無視する理由もない。


「エドガーさんにも共有しますか?」


「通常の文書局経路で届く?」


 ライルがディーンへ聞く。


「今回の問い合わせ記録は外縁門管理局内の処理ですので、そのままでは届かない可能性があります」


「では、試行の参考情報として写しを一部」


 アマリリアが言う。


「ただし、『試行で見つかった』とは書かないでください」


「承知しました」


 ディーンが記録する。


「発生経路も一緒に」


「はい」


 そこまで決めたところで、昼の鐘が鳴った。


 アマリリアは机の上の次の書類を見る。


 開けようと思えば開けられる。


 けれど腹が減っていた。


「昼食にしましょう」


 ライルが言うより先に、アマリリアが立ち上がった。


 ライルが少し驚く。


「何です?」


「いや」


「何か?」


「俺が言う前だったから」


「私だって昼食くらい自分から取ります!」


「うん。知ってる」


「その顔は知っている顔ではありません!」


 また執務室の空気が少しだけ緩んだ。


          ◇◇◇


 午後。


 フォード商会の資料を机の中央へ置いた時、アマリリアは昨日読んだ頁をすぐには開かなかった。


「最初に確認しましょう」


「何を?」


「昨日、どこで止めたかです」


 ライルが少し考える。


「積み替え時の作業停止記録」


「はい」


「荷札とか送り先とか積載順に疑問が出た時に、作業を止めた記録」


「そして、倉庫ごとに記録基準が違う」


「責任者を呼んだ時だけ残すところと、作業員同士で確認しただけでも残すところと、荷主への問い合わせがあった時だけ残すところ」


「そこまで覚えていれば十分です」


「褒めた?」


「事実確認です」


「最近それ便利に使ってない?」


「使っておりません!」


 昨日の続きだ。


 けれど、昨日と同じ気持ちで資料を見るわけではない。


 昨夜は帳面に仕事とは関係のない文字を書いた。


 今日はまた仕事の記録を見る。


 どちらも自分の時間であり、片方がもう片方を邪魔している感覚はなかった。


「では」


 アマリリアが頁を開く。


 昨日見た停止理由の例が並ぶ。


 雨で滲んだ荷札。


 同姓の荷主。


 予定と違う積載順。


 別商会と似た色の識別紐。


 一字違いの村名。


 その次の頁には、倉庫別の停止記録件数があった。


 アマリリアは数字を見て、すぐに眉を寄せる。


「……かなり違いますわね」


「一番多いところ、他の三倍くらい?」


「ええ」


 四つの提携倉庫。


 仮に甲、乙、丙、丁とする。


 月間取扱量そのものが違うため、資料には総件数と百件当たりの両方が記されている。


 それでも甲倉庫の停止記録は多い。


 百件当たりでも他より明らかに高い。


「ここだけ問題が多い?」


 ライルが言ってから、すぐに自分で首を振る。


「……って決めちゃ駄目だね」


「はい」


「記録基準が違うから」


「まずそこです」


 甲倉庫は、作業員同士の短時間確認まで記録する。


 乙倉庫は責任者を呼んだ場合。


 丙倉庫は荷主や発送元への問い合わせが発生した場合。


 丁倉庫は責任者判断で記録するため、明確な統一基準がない。


「甲が多いの、当たり前かもしれない」


「少なくとも、その可能性があります」


 アマリリアは次の欄を見る。


 フォード商会側もそれを理解しているらしく、注意書きがあった。


『停止件数のみをもって倉庫別の誤り発生率を比較することはできない。』


「自分で書いてる」


「ええ」


「じゃあ何でこの表を入れたんだろう」


「その説明が下にあります」


 二人で読む。


 この記録を添付した目的は、倉庫間の優劣比較ではない。


 共同輸送の拡大に伴い、積み替え地点で「そのまま進めず確認した事例」がどの程度記録されているか、その存在を示すため。


 ただし記録基準が統一されていないため、全体件数の推移も厳密な比較には用いられない。


「……ずいぶん慎重ですわね」


「ミハイルが?」


「資料を作った方が、です」


「ミハイル本人じゃないかもしれない?」


「商会の集計担当者が作った可能性もあります」


「そっか」


 何でもミハイル個人へ結びつけない。


 フォード商会という組織の資料だ。


 アマリリアはさらに読む。


 停止後の結果。


 そこには大きく四つの分類があった。


 一、記載・表示に問題なしと確認し、そのまま作業再開。


 二、荷札や識別表示をその場で修正。


 三、積載順または置き場所を変更。


 四、発送元・荷主・次の中継先へ問い合わせ。


「一番多いのは?」


「甲倉庫では『問題なしで再開』ですわね」


「半分以上」


「はい」


 ライルが少し考える。


「これだけ見たら、無駄に止まってるようにも見える」


「そうですわね」


「でも、本当に無駄?」


「分かりません」


 止まった。


 確認した。


 問題がなかった。


 結果だけ見れば、止まらなくても同じ場所へ荷は届いたかもしれない。


 だが、その時点の作業員には「問題がない」と分かっていなかった。


「第二共同倉庫の時と似ていますわね」


 アマリリアが言う。


「迷ったら置く前に止まる?」


「はい。ただし、同じものとは扱いません」


「分かってる」


 ライルが先に答えて笑う。


「でも、考え方としては近い?」


「そうかもしれません」


 止まる回数が多い。


 それだけなら、作業が非効率に見える。


 しかし止まったことで誤配送を防いでいるなら、意味は変わる。


 逆に、何でも不安になって止まり続けているなら、負担が大きすぎる可能性もある。


「停止時間は?」


 ライルが尋ねる。


「……ありました」


 次の欄に記載がある。


 ただし、これも全件ではない。


 甲倉庫のみ、簡易確認の開始から再開までをおおまかな区分で記録していた。


 半刻などという長さではない。


 大半はごく短い。


 一分未満。


 一分から三分程度。


 それ以上。


 正確な秒数ではなく、現場の記録区分だ。


「ほとんど短い」


「はい」


「じゃあ負担は小さい?」


「それも、まだです」


「一回が短くても回数が多い?」


「ありますし、止められた作業員本人だけでなく、確認を頼まれた方の手も止まります」


「責任者呼んだら、その人も」


「ええ」


 数字だけで「短いから問題ない」とは言えない。


 アマリリアは次へ進む。


 そこで、一つの事例記録が目に入った。


『北西方面行き混載便。中継時、同一村名の別領荷札と誤認のおそれあり。作業員が積載前に停止。責任者確認後、送り先を訂正。誤積載なし。停止約二分。』


 ライルが声に出さず、口だけで「二分」と動かす。


「これ」


「はい」


「止まらなかったら?」


「誤積載になった可能性があります」


「でも、絶対?」


「分かりません。他の誰かが後で気づいたかもしれません」


「そっか」


「それでも、ここでは止まった時点で訂正できた」


「うん」


 次の事例。


『荷札文字の一部が雨濡れで不鮮明。積載担当が停止。別記録と照合し問題なしと確認、再開。』


「こっちは結局問題なし」


「はい」


「でも止まった理由はある」


「ええ」


 さらにもう一つ。


『識別紐の色が隣接商会の臨時便表示と近似。作業員二名で確認後、責任者へ報告。誤認防止のため当日分のみ結び位置を変更。』


 アマリリアの指が止まる。


「色の件」


「昨日の」


「はい」


 ただし、ここでも劇場へ向かう途中に見た赤と青の布とは結びつけない。


 資料上で確認できるのは、識別紐の色が別商会の臨時便表示と似ていた事例が一件あるということだけだ。


「これ、当日分だけ変えたんだね」


「はい」


「仕組み全体の色をすぐ変えなかった」


「一件ですから」


「でも、その日は誤認しそうだったから結ぶ場所を変えた」


「現場でできる範囲の対応ですわね」


 アマリリアは少し考える。


「こういうものも、中央で全部決めようとすると遅くなります」


「第二倉庫の空箱と同じ?」


「少し似ています。現場がその日の状況を見て、安全に変更できる範囲なら、毎回王宮や商会本部の承認を待つ方が不自然です」


「でも勝手に何でも変えられたら?」


「それも危険です」


「どこまで現場で変えていいか」


「そこですわね」


 話が広がりそうになる。


 アマリリアは一度息を吐いた。


「ただ、今日はフォード商会の現場権限を調べているわけではありません」


「停止記録」


「はい」


「戻ろう」


 二人で頁へ戻る。


 以前なら、今見つけた「現場がどこまで変更できるか」という問いをそのまま追いかけたかもしれない。


 重要ではある。


 だから忘れないよう、余白へ短く印をつける。


 今は追わない。


「次の頁」


 ライルがめくる。


 そこには、停止事例を記録している甲倉庫の責任者による短い備考が載っていた。


『停止回数が増えること自体を問題とは見ていない。迷った荷をそのまま流すよりよい。ただし、同じ理由で繰り返し止まる場合は表示または手順側を直すべき。』


 アマリリアは読み終えても、すぐには口を開かなかった。


 ライルも同じだった。


「……これ、好き」


 先に言ったのはライルだった。


「何がです?」


「考え方」


 彼はもう一度備考を見る。


「止まるな、じゃない。でも、ずっと止まり続ければいい、でもない」


「ええ」


「同じところで何回も迷うなら、人に気をつけろって言うだけじゃなくて、迷わせる側も直す」


「そう読めますわね」


 アマリリアは、第二共同倉庫で行った教育のことを思い出した。


 迷ったら止まる。


 自分だけで決め直さず、別の人や責任者へ確認する。


 それは最後の安全策として有効だった。


 しかし、皆が同じ表示で毎日迷い続けるなら、「もっとよく見なさい」と言うだけでは足りない。


「停止は失敗の数ではない」


 ライルが呟く。


「少なくとも、全部を失敗として数えるのは違いそうです」


「成功の数?」


「それも違います」


「やっぱり?」


「止まっただけで何も防いでいない場合もありますし、必要以上に迷っている可能性もあります」


「じゃあ何の数?」


 アマリリアは考える。


 すぐに言葉へしない。


 表を見る。


 事例を見る。


 備考を見る。


「……迷いが表に出た回数、でしょうか」


「迷い?」


「少なくとも甲倉庫では」


 アマリリアは慎重に言葉を選ぶ。


「作業員が『このまま進めてよいか分からない』と感じ、それを無視せず表へ出した記録です」


「問題があった回数じゃなくて」


「はい」


「問題があるかもしれないって止めた回数」


「その方が近いと思います」


 ライルは何度か頷いた。


「じゃあ、少ない方がいいとも限らないね」


「ええ」


「ゼロなら?」


「本当に迷いがなかったのか、迷っても止めなかったのか、記録しなかったのか。それだけでは分かりません」


「またゼロ件」


「そうですわね」


 二人とも少し笑った。


 第二共同倉庫でも、正式な誤配送がゼロだったからといって、改善策の効果を証明できたわけではなかった。


 ゼロという数字は綺麗だ。


 だからこそ、安心しすぎる。


「ミハイルはこれをどう使ってるんだろう」


 ライルが言った。


「そこは知りたいです」


「聞く?」


 アマリリアは資料の残りを見る。


 停止記録については、まだ数頁ある。


「まだです」


「先に全部?」


「全部、とは決めません」


「必要なところまで?」


「はい」


 次の頁には、停止理由の繰り返しが多かった項目について、倉庫側が行った変更がいくつか載っていた。


 荷札の文字が小さい。


 似た村名を見間違える。


 臨時便の識別紐が紛らわしい。


 積載順変更が口頭だけで伝わる。


 それぞれに対して、小さな改善が行われている。


 文字欄を広げた。


 領名を併記した。


 識別紐の結び位置を分けた。


 積載順変更を簡単な板へ書くようにした。


「全部、大きな制度変更じゃない」


 ライルが言う。


「現場の調整に近いですわね」


「これで停止は減った?」


「その比較は……」


 頁をめくる。


「一部だけあります」


 全項目ではない。


 改善前後の件数を追えているのは二項目だけだった。


 似た村名。


 積載順変更。


 似た村名による停止は、領名併記後に減っている。


 一方、積載順変更に関する停止は、板へ書くようにした後も大きく減っていない。


「一個は減った。一個は変わらない」


「はい」


「じゃあ板は効果なし?」


 ライルはそう言ってから、アマリリアを見る。


 試している顔だった。


「殿下」


「はい」


「分かっていて聞いておりますね?」


「ちょっと」


「性格が悪くなりました?」


「君の影響かな」


「失礼です!」


 アマリリアは呆れながら資料へ戻る。


「停止件数だけでは判断できません。板があることで確認しやすくなり、以前なら止めずに誤ったものまで止めるようになった可能性もあります」


「逆に、板が分かりにくくて止まってる可能性も?」


「あります」


「じゃあ、また行動を見る?」


「見られるなら」


 だが、フォード商会の資料にそこまであるとは限らない。


 王宮が欲しいからといって、何でも記録されているわけではない。


 むしろ、記録がないのが普通のことも多い。


「……ここ」


 アマリリアが小さな注記を見つけた。


『積載順変更板導入後、責任者への口頭確認は減少。ただし作業員同士の短時間確認は記録対象外のため不明。』


「減ってる」


「責任者への確認は」


「でも全体は分からない」


「はい」


「板を見て自分で分かった人が増えたのか、隣の人に聞くようになったのかも分からない」


「その通りです」


 ライルは椅子の背へ少し体を預けた。


「一個分かると、三個分からないの出てくるね」


「それを全部調べようとすると終わりません」


「どこで止める?」


 アマリリアはその問いにすぐ答えなかった。


 資料を見ながら、今知りたいことへ戻る。


 共同輸送が広がった。


 輸送単価が下がり、積載効率が上がり、予定到着時刻の安定性も全体として改善した。


 一方で、小口・急ぎ荷物の扱い、個人運送人の減少、一部路線の小さな遅れなど、平均では見えにくい変化もある。


 そして今は、積み替えが増えたことで荷扱いの問題が増えたのかを見ていた。


「少なくとも」


 アマリリアは言う。


「今日の資料で、『停止記録が多い倉庫ほど問題が多い』とは言えないことは分かりました」


「うん」


「再梱包件数も、単純に悪化の数ではない」


「うん」


「では次に必要なのは、フォード商会がこの記録を何のために取っているのか」


「比較のためじゃないって書いてあったけど、実際にどう使ってるか?」


「はい」


「現場改善?」


「その可能性はあります。でも、資料から推測して確定するのはやめましょう」


「じゃあ、これは聞いていい?」


 アマリリアは少し考えた。


 今回は、資料を読み進めても「フォード商会が停止記録を何に使うか」という運用目的までは明記されていない。


「聞いてよいと思います」


「ミハイルに?」


「まずはフォード商会へ」


「本人じゃなくていい?」


「資料作成担当者が分かるなら、その方が早いかもしれません」


「そっか」


 何でもミハイルとの面会にしない。


 知りたい情報を持っている人へ聞けばいい。


「質問は?」


 ディーンが紙を用意する。


 アマリリアはすぐに何個も並べようとせず、一度止まった。


「一つ目。停止記録は、現在どのような目的で利用しているか」


「はい」


「二つ目――」


 言いかける。


 必要か。


 停止が多いことをどう評価するか。


 改善に使うか。


 責任者評価に使うか。


 倉庫間比較をするか。


 聞きたいことはいくつも浮かぶ。


「……いえ」


 アマリリアは言い直した。


「まず一つでよいです」


 ライルが横を見る。


「一個だけ?」


「利用目的が分かれば、その答えの中に含まれるかもしれません」


「含まれなかったら?」


「その時に次を聞きます」


「なるほど」


 ディーンが質問を書き留める。


「回答期限は?」


「急ぎません」


 ライルが先に答えた。


 アマリリアは彼を見る。


「何?」


「いいえ」


「また褒め――」


「ません!」


「まだ最後まで言ってない!」


「分かります!」


 ディーンがわずかに笑いながら記録を整える。


「では、通常の連絡便でフォード商会へ送ります」


「お願いします」


 これで今日の資料確認は一区切り。


 結論は出ていない。


 共同輸送が良いとも悪いとも決まらない。


 ただ、数字の読み方が一つ増えた。


          ◇◇◇


「それでは、少し休憩を入れましょう」


 ディーンの言葉に、アマリリアは時計を見た。


 思っていたより時間が経っている。


「まだ次の資料を一枚くらい――」


 口に出してから、自分で止まる。


 ライルが何も言わずこちらを見る。


「……何です?」


「何も」


「言いたそうです」


「帳面」


 たった一言だった。


 アマリリアは鞄を見る。


 朝から入れたまま。


「仕事は終わっておりません」


「うん」


「ですから、まだです」


「うん」


「でも、休憩は取ります」


「うん」


「その『うん』をやめてくださいませ!」


「何で!?」


 結局、二人は茶を飲むことにした。


 窓際の小卓。


 昨日、二人の帳面を初めて開いた場所だ。


 今日は帳面を出さない。


 代わりに温かな茶と、小さな蜂蜜菓子が置かれる。


「昨日ここで書いたね」


 ライルが言う。


「はい」


「今日も書けるかな」


「分かりません」


「書きたい?」


 アマリリアは少し考える。


「……少し」


「俺も」


「でも、仕事を早く終わらせる理由にはしません」


「分かってる」


「本当に?」


「昨日、次があるって言ったでしょう」


 ライルは茶を一口飲む。


「今日書けなくても、帳面がなくなるわけじゃない」


「はい」


「君も明日いなくならない」


 アマリリアの手が止まった。


「……それを急に言います?」


「変?」


「変ではありませんけれど」


「俺もいなくならないよ」


「分かっております」


「うん」


 ライルは少し照れたように笑う。


 アマリリアは茶へ視線を落とした。


 次がある。


 明日がある。


 そう思えるから、今日すべてを終わらせなくていい。


 仕事も。


 帳面も。


 二人の時間も。


「でも」


 アマリリアは蜂蜜菓子を半分に割る。


「これは今日食べます」


「何で?」


「明日には硬くなるかもしれません」


「それは今日の方がいいね」


「でしょう?」


 半分をライルの皿へ置く。


「二人なら二つ選べる、じゃなくて今日は一つを半分?」


「そういう日もあります」


「それも帳面に書く?」


「書くほどです?」


「分からない」


「では、次に開いた時に覚えていたら」


「うん」


 それで休憩は終わった。


          ◇◇◇


 夕方。


 本日最後の案件は、午前中に確認した冬季街道備蓄の承認だった。


 必要な理由は揃っている。


 追加照会はしない。


 ライルが署名し、アマリリアが確認し、ディーンが正式処理へ回す。


「本日分は以上です」


 その言葉が出た時、窓の外にはまだ少し明るさが残っていた。


 ライルがすぐにアマリリアを見る。


 しかし何も言わない。


 昨日より学習している。


「……時間は?」


 アマリリアがディーンへ尋ねる。


「ご帰宅予定まで、半刻ほど余裕がございます」


「殿下」


「はい」


「なぜそんなに姿勢が良いのです?」


「別に」


「帳面を書きたいのでしょう」


「うん」


 隠す気はなかった。


 アマリリアは笑った。


「では、少しだけ」


「やった」


「ただし」


「急いで書かない?」


「それもですけれど」


 アマリリアは鞄を開ける。


 昨日持ち帰った帳面を取り出した。


「今日は昨日の続きを埋めるのではなく、今日書きたいことを書きません?」


 ライルが少し驚く。


「劇場の散歩、まだ途中だよ?」


「はい」


「書かなくていい?」


「いつか書いてもよいですし、書かなくてもよいでしょう」


「今日のこと?」


「それも、まだ決めておりません」


「また決めない」


「最初の頁からそういう帳面になりましたので」


「確かに」


 二人は昨日と同じ小卓へ座った。


 インク瓶を開ける。


 帳面を開く。


 最初の頁には、昨日の文字が残っている。


『最初の頁に何を書くか、二人でなかなか決められませんでした。』


 その先に、劇場のこと、焼き林檎のこと。


 まだ余白もたくさんある。


「今日、何が一番残ってる?」


 ライルが尋ねる。


 アマリリアは考えた。


 街道備蓄。


 外縁門の問い合わせ。


 フォード商会の停止記録。


 蜂蜜菓子。


 仕事の記録は書かないと決めている。


 けれど、その仕事をしながら感じたことまで書いてはいけないとは決めていない。


「……止まること」


「仕事じゃない?」


「そのまま書けば仕事ですわね」


「じゃあ駄目?」


「いいえ」


 アマリリアはペンを取った。


 少し考えてから書く。


『今日は、止まることが悪いとは限らないと思いました。』


 ライルが横から読む。


「仕事っぽい」


「少し」


「消す?」


「いいえ」


 アマリリアは続ける。


『分からない時に止まれる方が、間違えたまま進むよりよいこともあります。』


「やっぱり仕事」


「殿下!」


「でも」


 ライルが笑う。


「俺たちにもあるかも」


「何がです?」


「分からない時に、無理に決めない」


 アマリリアはペンを止めた。


 今日、仕事の中で何度もしたことだ。


 分からない。


 だから、すぐ結論を作らない。


 必要なら聞く。


 今でなければ待つ。


「では、殿下も書いてください」


「何を?」


「今のを」


 ペンを渡す。


 ライルは少し考え、下へ書いた。


『二人のことも、分からない時は一度止まって話せばいい。』


 アマリリアはその文字を見つめた。


「……喧嘩の話?」


「昨日したでしょう」


「しましたわね」


「意見が違う時」


「はい」


「俺が勝手に決めそうになった時も」


 ライルの声が少し真面目になる。


「君が全部一人で決めようとした時も」


「私も?」


「君も」


「否定できませんわね」


「俺もだから」


 二人は顔を見合わせた。


 どちらかだけが正しいわけではない。


 どちらも急ぐことがある。


 どちらも自分で抱え込むことがある。


 それなら。


「止まったら」


 アマリリアが言う。


「相手に聞きましょう」


「うん」


「ただし、何でも止めればよいわけではありません」


「仕事みたいになってきた」


「殿下が始めたのでしょう!」


「君が最初に停止記録みたいなの書いた!」


「停止記録とは書いておりません!」


 二人の声が少し大きくなり、ちょうど書類を取りに戻ってきたディーンが扉のところで止まった。


「……失礼いたしました」


「待ってください!」


 アマリリアが呼び止める。


「なぜ出ていこうとするのです!」


「私的なお話かと」


「違います!」


「私的だよ」


「殿下!」


 ディーンは困ったように笑う。


「帳面の内容は拝見いたしませんので、ご安心ください」


「そういう問題ではありません!」


「では私は、必要な書類だけ回収して失礼いたします」


 彼は机から書類を取る。


 その途中、帳面には目を向けなかった。


「ところで」


 ディーンが扉の前で一度だけ振り返る。


「本日のフォード商会への質問は、通常便へ載せております。早ければ明日、遅くとも数日以内には返答があるかと」


「ありがとうございます」


「急ぎではございませんので、明日届かなかった場合もお待ちください」


 わざわざ最後に付け足した。


 アマリリアは眉を寄せる。


「私を何だと思っております?」


「以前でしたら、翌朝に『まだですの?』と聞かれる可能性がございました」


「……」


「否定しないんだ」


 ライルが笑う。


「殿下は黙ってくださいませ!」


 ディーンは一礼し、今度こそ出ていった。


 静かになった部屋で、アマリリアは帳面へ戻る。


「次、何書く?」


「もう十分では?」


「まだ余白ある」


「余白を埋めるために書くものではありません」


「あ」


 ライルが止まる。


「確かに」


「書きたいことがなければ、そこで終わりです」


「じゃあ今日はここまで?」


「……そうしましょう」


 アマリリアはペンを置いた。


 頁の半分以上が白い。


 昨日なら、少し気になったかもしれない。


 せっかく開いたのだから、もう少し書いた方がよいのではないか。


 一頁くらい埋めた方が綺麗なのではないか。


 けれど今日は、空いているところを見ても落ち着いていられた。


「白いね」


 ライルが言う。


「はい」


「気になる?」


「少し」


「俺も」


「でも、埋めません」


「うん」


 ライルが頁の下の余白へ手を伸ばす。


 書くのかと思ったが、指先で紙の端に触れただけだった。


「ここ、次に書いてもいい?」


「もちろんです」


「今日の続きじゃなくても?」


「ええ」


「全然違う日でも?」


「そのための帳面でしょう」


 ライルは嬉しそうに頷いた。


 帳面を閉じる。


「今日は俺が持って帰っていい?」


「昨日は私でしたから、どうぞ」


「インクは?」


「殿下が持ちます?」


「こぼしそう」


「お父様が昨日、ライル様の服へこぼすなと私に言っておりました」


「ハロルド、そこまで心配してたの?」


「私を子供扱いしただけです!」


「じゃあインクは君」


「なぜです!」


「安全だから」


「……まあ、構いませんけれど」


 帳面はライル。


 インクはアマリリア。


 また二つに分かれる。


「これなら」


 ライルが帳面を抱えながら言う。


「次に書く時、どっちか一人だけじゃ書けないね」


 アマリリアは一瞬、彼を見る。


「わざとです?」


「今気づいた」


「本当に?」


「本当」


「……なら、いいです」


「いいの?」


「ええ」


 一人で書けない。


 別にそういう決まりではない。


 王宮には他のインクもあるし、家にもある。


 帳面を持つライルが一人で書こうと思えば書ける。


 けれど、二人ともたぶんしない。


 次に開く時も、自然と相手を待つのだろう。


「では」


 アマリリアは立ち上がる。


「帰りましょう」


「うん」


          ◇◇◇


 王宮を出る頃には、空の端に薄い紫が残るだけになっていた。


 秋の夜気は昨日より冷たく、玄関前に待つ馬の鼻先から白い息がわずかに見える。警備の騎士たちは外套の襟を上げ、灯された街灯の下で交代の確認をしていた。


 ライルとアマリリアは並んで階段を下りる。


「今日さ」


 ライルが言った。


「はい?」


「停止記録、多い方が悪いって最初ちょっと思った」


「私もです」


「君も?」


「数字だけを見た瞬間は」


「よかった」


「何がです?」


「俺だけじゃなかった」


「殿下」


 アマリリアは足を緩める。


「間違った考えが浮かぶこと自体を、それほど怖がらなくてもよいのでは?」


「でも王子だよ」


「だから?」


「俺が間違えたら」


「間違えたまま決めれば問題です」


「うん」


「でも、最初に思ったことを資料を見て変えるなら、それでよいでしょう」


「……止まる?」


「そうですわね」


 アマリリアは少し笑う。


「今日の話を使うなら」


「じゃあ、俺が『停止回数が多い倉庫は悪い』って思って」


「記録基準を見て止まった」


「うん」


「それで十分です」


「君も止まった?」


「もちろん」


「じゃあ二人とも」


「はい」


 ライルはしばらく黙って歩いた。


 玄関前の石畳では、二人の靴音が一定の間隔で響く。


「アマリリア」


「何です?」


「王になってからも、止まっていいかな」


 声の調子が変わった。


 冗談ではない。


 アマリリアは歩みを止めなかった。


 すぐに励ます言葉を返すこともしない。


「何を決める時かによります」


「やっぱり?」


「緊急時に、何日も悩んでいては困ります」


「うん」


「でも、すぐ決める必要がないことまで、王だからという理由だけで即答する必要はないでしょう」


「……うん」


「分からないなら聞けばよいです。時間があるなら調べればよいです。誰かに任せられるなら任せてもよいです」


「君にも?」


「もちろん」


「全部?」


「全部は嫌です」


 即答すると、ライルが吹き出した。


「そこは全部って言ってくれないんだ」


「私は婚約者であって、殿下の代わりに王になるわけではありません」


「分かってる」


「それに、私が間違えることもあります」


「うん」


「そこは否定してくださいませ!」


「今、君が自分で言ったでしょう!」


「少しくらい『そんなことはない』と!」


「嘘になるよ!」


「ひどいです!」


 二人で笑う。


 重くなりかけた話が、少しだけ軽くなる。


 けれど、ライルの問いそのものは消えなかった。


 王になっても止まっていいか。


 アマリリアは、その答えを全部持っているわけではない。


 たぶんライルも、今すぐ完璧な答えが欲しいわけではない。


「ただ」


 アマリリアは馬車の前で立ち止まる。


「一人で止まり続けるのは、やめてくださいませ」


 ライルが彼女を見る。


「一人で?」


「分からないまま、誰にも言わずに考え続けることです」


「……うん」


「それなら、私は怒ります」


「かなり?」


「かなり」


「帳面に書く?」


「怒っている最中は書きません」


「昨日のルール」


「ルールではありません」


 アマリリアは差し出された手へ自分の手を重ねる。


 冷えた空気の中で、ライルの手の温度がはっきり分かった。


「話したくない時は、待つこともできます」


「うん」


「でも、『関係ない』はなしです」


 劇場で交わした話を、ライルもすぐに思い出したらしい。


 指先に少しだけ力が入る。


「言わないようにする」


「絶対とは言わないのですね」


「言っちゃうかもしれないから」


 アマリリアは少し驚いた。


 以前のライルなら、ここで「絶対言わない」と約束したかもしれない。


 それが優しさだと思って。


「……それでよいです」


「いいの?」


「もし言ったら、私は怒ります」


「怖いな」


「そして、なぜ言ったのか聞きます」


「うん」


「殿下は、できれば逃げないでください」


「できれば?」


「絶対と言うと、私まで嘘になりますもの」


 ライルが笑った。


「じゃあ、できるだけ逃げない」


「はい」


「君も?」


「何がです?」


「君が一人で全部抱えようとしたら、俺が聞いていい?」


 アマリリアは少し黙った。


 答えは分かっている。


 でも、口にする時だけはまだ少し照れる。


「……どうぞ」


「怒らない?」


「聞き方によります」


「難しい」


「考えてくださいませ」


「一緒に?」


「それくらいはご自分で!」


 また笑う。


 やがて手を離す時間が来る。


 今日はライルの腕に帳面がある。


 アマリリアの鞄にはインク。


 明日書けるかは分からない。


 フォード商会から返答が来るかも分からない。


 第二共同倉庫の空箱移動が荷量の多い日にどうなるかも、まだ分からない。


 通知試行も、制度化するかどうか決まっていない。


 分からないものが、いくつも残っている。


 けれど、それを全部今夜までに決めなくてもよかった。


「また明日」


 ライルが言う。


「はい。また明日」


 アマリリアは馬車へ乗る。


 扉が閉まり、窓越しにライルを見る。


 彼の腕には生成り色の帳面。


 中には、今日新しく二人で書いた短い言葉がある。


『今日は、止まることが悪いとは限らないと思いました。』


 仕事から始まった言葉だった。


 それがいつの間にか、二人の話になった。


 アマリリアは座席へ背を預ける。


 馬車がゆっくり動き出した。


 止まること。


 待つこと。


 聞くこと。


 分からないままにしておくこと。


 それらは以前の自分なら、どこか「進んでいない状態」のように感じていた。


 けれど今日見た倉庫の記録では、止まったからこそ間違えずに済んだ荷があった。


 もちろん、人と荷物は同じではない。


 仕事と恋愛も同じではない。


 それでも、急いで答えを出さない方がよい時があることくらいは、きっと同じだ。


 窓の外を流れていく王都の灯りを眺めながら、アマリリアはふと笑った。


 次に帳面を開いた時、このことをもう一度書きたいと思うかは分からない。


 別のことを書きたくなるかもしれない。


 何も書かないかもしれない。


 それでいい。


 白い頁は、まだたくさん残っている。


 そして、その頁を埋める日も、埋めない日も、これから先にいくらでもあるのだから。

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