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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第86話 二件の試行を見たベテラン職員は、『この問いを残すなら、使わない時も決めてください』と言いました

翌朝、アマリリアがベスター家の自室で目を覚ました時、最初に目へ入ったのは机の端に置かれた小さなインク瓶だった。


 厚い硝子の中には、まだ一度も使っていない黒いインクが満ちている。昨日、ライルと一緒に立ち寄った文具店で買ったものであり、対になる帳面は今ごろ王宮の彼の部屋にあるはずだった。


「……別々ですのね」


 寝台の上で身を起こしながら呟くと、昨夜と同じことを思っている自分に気づいた。


 帳面だけでは書けない。インクだけでも書く場所がない。次に二人で時間を取った時、どちらか一方が忘れれば最初の頁は始まらないのだから、少々面倒な買い方をしたとも言える。


 けれど、その面倒さが不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、次に二つを揃える理由ができた。


 劇場へ行く約束も、夕食の後に歩いた時間も、文具店へもう一度行こうと決めたこともそうだった。大きな予定を何か月も先まで決めているわけではないのに、少し先に二人ですることが一つずつ残っていく。


「お嬢様、お目覚めですか?」


 扉の外から侍女の声が聞こえ、アマリリアはインク瓶から視線を外した。


「起きております。入ってくださいませ」


「失礼いたします」


 入ってきた侍女は朝の支度を整えながら、机の上へ一度だけ視線を向けた。昨日帰宅した際、アマリリア自身が「これは片づけなくて結構です」と言った品なので、何なのかは当然知っている。


「本日も、そのままでよろしいでしょうか?」


「ええ」


「承知いたしました」


 それだけで終わると思ったが、侍女は髪を整えるためアマリリアの後ろへ回ってから、鏡越しにわずかに笑った。


「随分とお気に入りなのですね」


「インクが?」


「インク瓶を見ておられる時のお顔が、でございます」


 アマリリアは鏡の中の自分を見る。


 特に笑っていたつもりはなかった。


「……皆、最近そういうところばかり見ますわね」


「以前より分かりやすくなられたからではないでしょうか」


「それは褒めております?」


「もちろんでございます」


 即答されてしまった。


 アマリリアは何か言い返そうとしたが、やめた。以前なら「分かりやすい」と評されることに少し抵抗があったかもしれない。感情を読まれることは、自分の手の内を見せることにも似ていたからだ。


 今は、少なくともこの家の中で、嬉しい時に嬉しそうにしていることを隠す理由があまり思いつかなかった。


「では、今日はこの髪型でお願いします」


「かしこまりました」


 窓の外では薄い雲の向こうから朝日が広がり、庭の木々を淡く照らしている。風が枝を揺らすたび、黄や赤へ変わり始めた葉が何枚か落ち、朝露の残る芝の上へ静かに重なっていった。


 今日も仕事がある。


 通知の試行結果について、夜間門側からまだ返事が来ていない。エドガーにも資料を渡したばかりで、いつ意見が戻るかは決めていなかった。共同輸送の資料も残っているし、第二共同倉庫の空箱置き場をずらした結果も、そのうち定例報告へ入ってくるだろう。


 どれも気になる。


 けれど、朝から全部を頭の中へ並べる必要はない。


 アマリリアは支度を終えると、机のインク瓶をもう一度だけ見た。


「行ってまいります」


 誰に言ったわけでもない。


 それでも、その言葉を残して部屋を出た。


          ◇◇◇


 王宮へ着いた時、執務室にはまだライルが来ていなかった。


 ディーンは既に仕事を始めており、窓際の机には朝届いた書類が種類ごとに分けられている。ゼインも少し遅れて入ってきたが、アマリリアが自分の席へ着くなり、その手元を見た。


「お嬢様」


「何です?」


「インクは?」


 アマリリアの手が止まった。


「なぜ持ってくると思ったのです?」


「昨日、殿下と購入されたと伺いましたので」


「どこから聞いたのです!」


「お嬢様が帰宅時に侍女へ説明なさっていたでしょう」


「……そうでしたわね」


 別に秘密にはしていない。


 しかし、ゼインに知られていると途端に面倒な予感がする。


「今日は持ってきておりません」


「では、帳面もまだ始められませんね」


「最初からその予定です。仕事中に書き始めるものではありません」


「安心いたしました」


「何を心配していたのです?」


「『二人の帳面に最初に何を書くかを検討するための時間』が、本日の執務予定へ追加される可能性を」


「しません!」


 ディーンが書類を整理する手を止めずに口を挟む。


「念のため申し上げますと、本日の予定表にはございません」


「当然でしょう!」


「では問題ございません」


 二人とも真顔なのが腹立たしい。


 アマリリアが何か言い返すより先に扉が開き、ライルが入ってきた。朝の挨拶をしながらこちらへ近づいてくる彼の脇には、薄い革張りの書類入れが抱えられている。


 その形を見た瞬間、アマリリアは少しだけ目を細めた。


「殿下」


「おはよう、アマリリア」


「おはようございます。その中に帳面を入れてきた、などとは言いませんわよね?」


 ライルが止まった。


 数秒の沈黙の後、書類入れを胸の前へ少し引き寄せる。


「……何で分かったの?」


「持ってきたのですか!?」


「仕事中に書こうとは思ってないよ」


「でしたら、なぜ!」


「君がインクを持ってくるかもしれないと思って」


「持ってきません!」


「そっか」


 少し残念そうにされても困る。


 ゼインが完全に顔を逸らしている。ディーンも今度ばかりは書類を持つ手が止まり、口元をわずかに押さえていた。


「笑うところではありません!」


「申し訳ございません」


 まったく申し訳なさそうではない。


 ライルは自分の席へ座りながら、書類入れを脇へ置いた。


「じゃあ今日は書けないね」


「仕事をしてくださいませ」


「するよ。ちゃんと」


「帳面を持ってきた人の言葉とは思えません」


「でも、これだけで仕事ができなくなるわけじゃないでしょう?」


 言われて、アマリリアは反論しかけた。


 けれど途中で口を閉じる。


 確かにそうだ。


 机の脇に私物の帳面が一冊あるからといって、仕事ができなくなるわけではない。むしろ「仕事の日は私生活に関わる物を一切持ち込んではならない」と考える方が、最近の自分たちの話とは少し違う気がした。


「……そうですわね」


「いいの?」


「仕事中に開かなければ」


「分かった」


 ライルは嬉しそうに頷いた。


「次から毎日持ってきても?」


「なぜそうなりますの!?」


「今、持っててもいいって」


「今日は、と申しました!」


「言ってないよ」


「意味としてです!」


 ゼインが小さく咳払いする。


「朝の執務を始めてもよろしいでしょうか」


「始めてください!」


「既に始まっております」


 昨日と似たやり取りになってしまった。


 アマリリアは額へ手を当て、ひとまず帳面のことを頭から追い出した。


「ディーン。本日の急ぎは?」


「午前中に判断が必要なものは二件です」


「二件」


「はい。一件目が西部街道沿いの小橋補修に関する資材搬入日の変更確認。二件目が王都南側の共同井戸修繕に伴う一時閉鎖期間の承認です。どちらも担当部署の確認済みで、殿下に最終承認をいただければ進められます」


「通知試行関係は?」


「急ぎではございませんが、夜間門側から今朝返答が届いております」


 アマリリアとライルの視線が同時にディーンへ向いた。


 彼は少しだけ眉を上げる。


「先に急ぎ二件を処理されますか?」


「はい」


 アマリリアが答えるより先に、ライルが言った。


「通知は逃げないから」


 アマリリアは隣を見る。


 ライルもこちらを見た。


「何?」


「いいえ」


「また褒めようとした?」


「まだ何も言っておりません」


「後で?」


「増やしません!」


 とはいえ、内心では少し嬉しかった。


 気になるものがある。


 それでも、先に必要なものを処理する。


 それを二人とも自然に選べるようになっている。


 急ぎの二件は、どちらも大きな問題にはならなかった。小橋補修では雨天で資材搬入が二日ずれたため、通行制限開始日も合わせて後ろへずらす。共同井戸は代替水場が確保されており、一時閉鎖期間も担当部署の見積もりどおりで問題ない。


 ライルは確認すべき点を尋ね、必要な箇所へ署名する。


 アマリリアも横から余計な調査を増やさなかった。


 二件目を終えた頃には、窓から入る光が机の中央まで伸びていた。


「では」


 ライルが手を伸ばす。


「今度こそ通知?」


「ええ」


 ディーンが薄い紙を一枚差し出した。


「夜間門側からの返答です。こちらが先日お送りした王宮側整理案。その下が担当部署からの確認結果です」


 アマリリアとライルは机の中央へ紙を置いた。


 返答は短い。


 長い報告を求めなかったのだから当然だ。


 最初の一文には、


『概ね認識に相違なし』


 とある。


 その下に、二点だけ追記があった。


 一つ目。


『「暗黙の確認内容が可視化された」との整理について、担当者本人は「普段の確認を初めて明確に言葉へした」というより、「書面上、他者が確認できる形に置き直した」と認識している』


 アマリリアはそこを二度読んだ。


「似ていますけれど、違いますわね」


「うん」


 ライルも頷く。


「本人の頭の中では、もう十分言葉になってたのかも」


「ええ。『自分でも曖昧だったものが問いで初めて明確になった』という意味ではない」


「他の人から見えるようになった、の方が近い?」


「そうでしょうね」


 倉庫申請書側でも、王宮の整理が少し意味を強めてしまっていた。


 運搬人そのものを新しく意識したのではなく、新様式変更が運搬人の持参情報へ及ぼす可能性を新たに意識した。


 今度も同じだ。


 王宮側では「暗黙の確認を可視化」と書いた。


 完全に間違っているわけではない。


 けれど、その言葉だけでは「本人の中でも曖昧だった判断が、試行によって初めて整理された」と読める余地がある。


「修正しましょう」


「うん」


 アマリリアは余白へ短く記す。


『本人の判断が新たに明確化された、とはしない。他者から確認可能な形へ書面化された。』


「もう一つは?」


 ライルが次の追記を読む。


『「担当交代時や例年と違う変更が入った年には使える可能性」とした点について、これは制度としての推奨ではなく、担当者個人の感触である。使用場面を定める場合は別途検討が必要』


「これは、私たちもそのつもりでしたわね」


「うん。でも書いておいた方がいい」


「ええ」


 担当者の一言が、いつの間にか制度案へ昇格してはいけない。


 特に「現場の意見を尊重する」と言いながら、現場の一人が言った案をそのまま王国全体の運用へ変えてしまえば、それは尊重ではなく利用に近い。


「二件とも返してよかったね」


 ライルが言う。


「はい」


 アマリリアは倉庫申請書側の修正と、今届いた夜間門側の修正を並べた。


「私たちだけでまとめていたら、どちらも少しずつ意味が変わっていました」


「悪気なく」


「ええ」


「分かりやすくしようとして?」


「おそらく」


 整理とは、削ることでもある。


 長い記録から要点を抜き出す。


 似た内容をまとめる。


 読む人が分かるよう言葉を整える。


 必要な作業だ。


 けれど、整える過程で元の意味より強い言葉へ変わることがある。


「難しいですわね」


 アマリリアは自然に口にした。


 以前なら、難しいと言った直後に答えを探し始めたかもしれない。


 今は、その言葉のまま少し置ける。


 ライルも急いで何かを提案しなかった。


「でも」


 しばらくして彼が言う。


「返して違ったら直す、ならできる」


「そうですわね」


「最初から絶対にずれないまとめを作るより」


「その方が現実的です」


 アマリリアは頷いた。


「ただ、何でも毎回返す必要があるかは別ですわね」


「また負担になる?」


「ええ。短い整理を作るたびに全員へ『この表現でよろしいですか』と送り続けたら、それ自体が新しい仕事になります」


「じゃあ今回は試行だから返した」


「そうです。今後も必要な場面はあるでしょうけれど、返すこと自体を決まりにはしません」


「うん」


 そこでも止まる。


 新しく見つけた良い方法を、すぐ新しい義務にしない。


 アマリリアは二件の修正をディーンへ渡した。


「文書局へ共有する資料も、この表現に直してくださいませ」


「承知しました」


「エドガーさんには?」


「昨日の整理案を既にお渡ししておりますが、まだ意見は届いておりません。今回の修正版も追加で送ります」


「急ぎではないことも、もう一度」


「はい」


 ディーンが答えたところで、扉の外から控えめなノックが響いた。


「どうぞ」


 入ってきた若い職員が一礼する。


「失礼いたします。内政文書局のセイル様より、こちらを」


 ディーンが受け取る。


 アマリリアとライルが同時に見る。


 ディーンも一瞬だけ紙を見てから、わずかに苦笑した。


「どうやら、行き違いになったようです」


「エドガーさんから?」


「はい」


「早くありません?」


「昨日午後に資料を受け取った後、ちょうど同種通知の確認作業があったため、そのついでに目を通されたとのことです。『急ぎではないと承知しているが、忘れないうちに短く返す』と」


「通常業務を止めていません?」


 アマリリアがすぐ聞く。


「その点も書いてあります」


 ディーンが紙を少し上げた。


「『これを書くために残業はしていない』とのことです」


 アマリリアは黙った。


 ライルが吹き出す。


「先回りされてる」


「……私が聞くと思ったのでしょうね」


「絶対そうだよ」


「笑わないでくださいませ」


 けれど、自分でも少し可笑しかった。


 エドガーとは何度も話している。


 こちらが何を気にするか、向こうにもだいぶ知られてしまったらしい。


「読みましょう」


 アマリリアが言う。


 ディーンがその紙を机へ置いた。


 エドガーの返答も長くない。


 冒頭には、二件を読んだ所感が簡潔に記されている。


『二件だけで欄の恒久化を決めないことには賛成する』


 続いて、


『問い自体は悪くない。ただし、残すなら「使う時」だけでなく「使わない時」も考えた方がよい』


 アマリリアの指が止まった。


「使わない時」


 ライルが声にする。


「担当交代時なら使う、とかじゃなくて?」


「それだけではないようです」


 続きを読む。


『文書作成者は、通知ごとに既に複数の確認をしている。新しい問いを一つ追加する時、制度側は「この問いが必要な案件」を考えがちだが、現場側では「この問いを省いてよい案件」が曖昧だと、結局すべてで埋めることになる』


 アマリリアはゆっくり息を吐いた。


「……なるほど」


 使える場面を決める。


 それだけでは足りない。


 例えば「担当交代時や例年と違う変更時に使うとよい」と書く。


 すると真面目な担当者ほど、自分の案件が「例年と違う」に当たるのか迷うかもしれない。迷った結果、安全側に倒して毎回使う。


 あるいは管理する側が、使わなかった理由を尋ねるようになる。


 そうなれば結局、すべての案件で欄を埋めるのと変わらなくなる。


「次です」


 ライルが促す。


 エドガーの字は整っているが、ところどころ書く速度が上がったような線になっている。


『特に、今回の夜間門のような定型性の高い通知では、経験者が既に行っている確認を改めて書かせることで、後任には参考になる可能性がある。一方、毎年残す必要があるかは別。前年の記録があるなら、それを読むだけで足りる場合もある』


 さらに一行。


『ただし「前年を読めばよい」と決めると、前年が間違っていた時に同じ間違いを継ぐ。したがって、これも答えではない』


 ライルが小さく笑った。


「最後に自分で壊した」


「ええ」


 アマリリアも口元を緩める。


「エドガーさんらしいですわね」


 便利な案を出して、そのまま正解にしない。


 前年を参考にすれば負担は減る。


 しかし前年を写せば形骸化する。


 毎回一から考えれば負担が増える。


 ではどうするか。


 まだ答えはない。


 その下には、もっと実務的な指摘が続いていた。


『問いを残すなら、文書本文に入れる欄ではなく、作成途中の確認補助として扱う方がよいと現時点では思う。正式文書の様式へ入れると、空欄を許しにくくなるため』


「空欄」


 アマリリアが呟く。


 これは重要だった。


 正式な様式に欄がある。


 すると、何か書かなければならない。


 本当はその案件では必要がなくても、「該当なし」と書く。あるいは何か書ける相手を探す。欄を埋めること自体が仕事になる。


「今回の試行では?」


 ライルがディーンを見る。


「別紙の確認票です。正式通知本文には入れておりません」


「なら、今のところは大丈夫」


「はい」


 アマリリアは続きを読む。


『なお、二件目の担当者が挙げた「担当交代時」「例年と違う変更時」は理解できるが、それを条件として固定する前に、もう少し実際の作成者へ聞いた方がよい。担当交代がなくても難しい通知はあるし、担当が変わっても単純な通知はある』


 そこまで読んだところで、アマリリアは紙から目を上げた。


「聞いた方がよい」


「うん」


「でも、何人に?」


「そこだね」


 ライルが腕を組む。


「全員に聞く?」


「それはやりすぎです」


「文書局の会議?」


「それもまだ重いですわね」


 アマリリアは考える。


 エドガー自身も「もう少し実際の作成者へ」としか書いていない。


 何人。


 どの経験年数。


 どの部署。


 そうした条件を決めてはいない。


「まず、エドガーさん本人へ聞きたいです」


「何を?」


「『もう少し聞く』というのが、どの程度を想定しているのか」


「会う?」


「急いで会議にはしません」


 アマリリアはエドガーの紙をもう一度見る。


「この返答に、こちらから短く質問を返すだけでもよいかもしれません。あるいは、次に通常業務でこちらへ来る時に聞く」


「どっち?」


「今決めなくてもよいでしょう」


 ライルが頷く。


 その時、ゼインが壁際から口を挟んだ。


「一点、よろしいでしょうか」


「どうぞ」


「エドガー殿へ『どの程度聞けばよいか』を尋ねること自体は問題ないと思います。ただ、文書局側へ意見を求める際に、今回の二件の結果を先に詳しく見せすぎると、皆が同じ問題を探し始める可能性はございませんか」


 アマリリアは動きを止めた。


 ライルもゼインを見る。


「……ありますわね」


 倉庫申請書では、代筆補助者や運搬人。


 夜間門では、暗黙の確認の書面化と形骸化。


 その事例を先に見せてから「この問いは使えますか」と聞けば、回答者はそれらを基準に考えるかもしれない。


「前に倉庫の試験でもあった」


 ライルが言う。


「先に成功例を教えると、みんな同じところを見るかもしれないって」


「ええ」


 表示を見る順番を調べた時もそうだった。


 誰かの見方を先に正解として渡せば、後から答える人の独立した反応を狭める。


「では、聞くとしても」


 アマリリアは紙へ目を落としながら考えた。


「二件の具体的な気づきを全部先に渡す方法だけではありませんわね」


「問いだけ見てもらう?」


「それも一案です。ただし、何も背景を伝えなければ、なぜ聞かれているのか分からず、余計に考え込ませるかもしれません」


「難しいね」


「はい」


 また答えが増えない。


 けれど、不快ではなかった。


 一つ進めば、一つ別の条件が見える。


 それを面倒だと思わなくなったわけではない。むしろ制度を作ることが思っていた以上に面倒だと、以前より強く感じている。


 ただ、その面倒さを「早く正解を決めれば消えるもの」だとは考えなくなった。


「エドガーさんの最後に、まだあります」


 ディーンが指摘した。


 紙の下部には小さな追伸のような一文がある。


『この問いを残すかどうかより、問いがなくても同じ確認ができる人が何を見ているのかを知る方が、場合によっては役に立つかもしれない。もっとも、それを手順化すると別の問題が起きるので、今は思いつきとして記す』


 ライルが読み終えて、椅子の背へ少し身体を預けた。


「また最後に壊してる」


「ええ」


「でも気になる」


「私もです」


 問いがなくても確認できる人は、何を見ているのか。


 通知の内容。


 影響を受ける役割。


 過去の失敗。


 問い合わせの多かった相手。


 自分の経験。


 部署内の慣行。


 それらのどれを、どの順番で見ているのか。


 知ることができれば、単に「この欄を書け」と言うより役立つかもしれない。


 しかし、それを全部手順にすれば、また別の硬い制度になる。


「今日は、ここまでにしません?」


 ライルが言った。


 アマリリアは思わず彼を見る。


「まだ午前中ですわよ」


「通知の話は、って意味」


「なるほど」


「今、聞きたいことが三……」


 ライルが止まる。


 アマリリアも見る。


 彼はゆっくり指を閉じた。


「いくつか出た」


「よろしい」


「危なかった」


「本当に感染しておりません?」


「君からなら、ちょっとくらい」


「嫌です!」


 ゼインがまた横を向いた。


 ディーンは今度こそ普通に笑っていた。


 アマリリアは抗議しようとしたが、自分も可笑しくなり、結局小さく息を漏らした。


「では、通知試行については、今日ここで次の試行を決めません」


「うん」


「エドガーさんへの返答も、急ぎではない」


「うん」


「二件の修正版を文書局へ共有。ただし、他の作成者へ意見を求める方法はまだ決めない」


「うん」


「そして――」


 そこでアマリリアは止まった。


 ライルが眉を上げる。


「何?」


「今、私も三つにまとめかけました」


「感染元」


「うるさいですわ!」


 今度は全員が笑った。


 朝の執務室に、張り詰めたものはない。


 窓の外では秋風が木々を揺らし、乾いた葉が中庭の石畳を転がっている。仕事の話をしているのに、こうして笑える時間があることも、以前のアマリリアには少し珍しかった。


          ◇◇◇


 昼食を挟んだ後、二人はフォード商会の資料には手をつけなかった。


 読みたい気持ちはあった。


 けれど午後には、ライルが出席しなければならない王領道路整備の定例確認が入っていた。アマリリアも同席し、冬前に補修を終える区間と、春へ回す区間の確認をする。


 大きな方針変更はない。


 ただ、北東部の一部区間で石材の到着が遅れており、予定どおり工事を始めると途中で資材が尽きる可能性があるという報告が出た。


「開始日を遅らせればいい?」


 ライルが尋ねる。


 担当官はすぐには頷かなかった。


「その方法もございます。ただ、現在の路面状態では、最初の排水溝補修だけ先に行った方が冬季の傷みを減らせる可能性があります」


「全部一緒に始めなくてもいい?」


「はい。石材を多く使わない部分だけ先行する案です」


 会議室の長机には道路図が広げられており、窓から差す午後の光が山間部を示す線の上へ斜めに落ちている。担当官たちはそれぞれ資料を持ち、石材輸送を担当する者、工事工程を見る者、費用を確認する者で視線の向かう場所が違っていた。


 アマリリアは黙って聞いた。


 以前なら、「では排水溝を先に」とその場で決めたくなったかもしれない。


 だが、工事を分けることで人員配置や通行制限が増える可能性もある。


「先行した場合、通行制限は二度必要になります?」


 尋ねると、工事担当官が図面へ指を置いた。


「区間を分ければ、その可能性があります。ただし排水溝側は道幅を半分残せますので、全面的な制限にはなりません」


「周辺の村へは?」


「まだ案を決めておりませんので、通知しておりません」


「それでよいです」


 決める前に通知して混乱させる必要はない。


 ライルも費用と日程を確認し、最終的には「今日ここで工法を決定せず、担当部署で二案の人員・通行影響だけ比べてから戻す」という扱いになった。


 会議が終わり、廊下へ出たところでライルが小さく息を吐いた。


「前だったら、排水溝だけ先にやろうって言ってたかも」


「私もです」


「良さそうに聞こえたから」


「ええ。でも、良さそうな案ほど、その場では見えていない負担があるかもしれません」


「二案比べるのも負担だけどね」


「そうですわね」


「じゃあ、比べること自体が必要かも考えないと」


 アマリリアは横を歩くライルを見る。


「殿下」


「何?」


「また褒めてもよろしいです?」


「いいの?」


「やめます」


「何で!?」


 廊下にいた若い官吏が驚いてこちらを見た。


 アマリリアは咳払いする。


「声が大きいです」


「君が途中でやめるから!」


「人がおります!」


「じゃあ後で」


「……最近、それを便利に使っておりません?」


「君が最初に使ったんだよ」


 否定できない。


 少し離れて歩いていた護衛の一人が、前だけを見ながら明らかに口元を緩めている。


 アマリリアは気づかないふりをした。


          ◇◇◇


 午後の執務室へ戻ると、第二共同倉庫からの新しい報告はなかった。


 空箱置き場を一間ずらして試している最中なのだから、当然である。まだ一日か二日しか経っていないのに「どうなりました」と尋ねれば、現場は報告のために結果を作らなければならなくなる。


「問い合わせはしません」


 アマリリアが確認すると、ディーンも頷いた。


「次の定例報告まで予定はございません」


「よろしいです」


 机の端にはフォード商会の未読資料がある。


 ライルも一度そちらを見た。


 アマリリアも見た。


 二人とも手は伸ばさなかった。


「今日は読まない?」


「今から開くと、中途半端になりそうです」


「俺もそう思う」


「では明日以降に」


「うん」


 そのまま別の通常案件へ移る。


 税の話でも、大きな制度改定でもない。王都北側にある公共厩舎の屋根補修費、地方役所から上がってきた冬季薪の備蓄確認、王領内の診療所へ配る布類の調達予定。


 どれも国を揺るがす問題ではない。


 けれど、こういう仕事が積み重なって王国の日常が続いている。


 アマリリアは以前より、それを退屈だと思わなくなった。


 大きな問題だけが統治ではない。


 誰かが冬に濡れずに馬を預けられることも、診療所に必要な布が届くことも、暮らしの一部だ。


 そして、それをすべて自分が直接見に行く必要もない。


「アマリリア様」


 ディーンに呼ばれ、顔を上げる。


「何です?」


「診療所向け布類の調達予定ですが、南部二施設のみ昨年より数量が増えております。理由は担当部署の注記にございます」


 アマリリアは紙を見る。


 冬季の簡易寝台を増やしたため。


 それだけだった。


「分かりました」


「確認されますか?」


「何を?」


「昨年との利用者数の差など」


 ディーンの目に、ほんの少し試すような色がある。


 アマリリアは注記をもう一度見る。


 簡易寝台増設は既に別件で承認されている。


 布類の増加量も、その寝台数と大きく矛盾しない。


 不自然な費用増もない。


「今は必要ありません」


「承知しました」


 ディーンはそれ以上何も言わない。


「……今、試しました?」


「何のことでしょう」


「絶対に試しましたわね」


「必要な確認をしただけでございます」


 ゼインが横から言う。


「以前のお嬢様でしたら、昨年三年分程度を並べ始めていた可能性がございます」


「三年と決めつけないでくださいませ」


「そこですか?」


 ライルが笑った。


 アマリリアも自分で可笑しくなった。


「でも、本当に見なくていい?」


 ライルが聞く。


「見てはいけない、ではありません」


 アマリリアは紙を閉じる。


「今、この承認に必要な理由は書かれています。数字も大きく外れていません。それ以上を見る理由が出たら、その時に見ます」


「うん」


「何でも調べないことを目標にするのも違いますから」


「必要なら見る」


「はい」


 見るか、見ないか。


 調べるか、調べないか。


 どちらかを正しい習慣にするのではない。


 その時に必要な方を選ぶ。


 簡単なようで、アマリリアには長く難しかったことだった。


          ◇◇◇


 日が傾き始めた頃、今日の執務は予定どおり一区切りついた。


 机の上に未処理のものは残っている。


 フォード商会の資料もある。


 エドガーへの返答もまだ書いていない。


 通知試行の次段階も決まっていない。


 それでも、今日は終わってよい。


 アマリリアが書類を整えていると、ライルが自分の脇に置いていた革張りの書類入れへ手を伸ばした。


「……殿下」


「まだ開いてないよ」


「分かっております」


「本当に一回も」


「それも分かっております」


 ライルは書類入れから生成り色の布張りの帳面を取り出した。


 右下には、小さな葉の型押しがある。


 昨日、二人で何冊も見比べて選んだものだった。


 新品の表紙はまだ少し硬い。


 頁も真っ白だ。


 アマリリアはそれを見ると、朝に自室の机で見たインク瓶を思い出した。


「今日、持ってきてよかった」


 ライルが言う。


「書けませんわよ」


「うん。でも見せられた」


「昨日一緒に買ったのですから、知っております」


「それでも」


 ライルは帳面を両手で持ったまま、少し照れたように笑う。


「仕事してる間、ここにあったのがちょっと嬉しかった」


 アマリリアは返事を急がなかった。


 仕事と私生活を分ける。


 最近ずっと考えてきた。


 けれど、分けるというのは、壁を作って片方を完全に消すことではないのかもしれない。


 昨日楽しかった記憶を持ったまま仕事をしていい。


 次の楽しみが机の脇にあってもいい。


 それでも必要な仕事はできる。


「では」


 アマリリアは少し考えてから言った。


「明日は私がインクを持ってきましょうか」


 ライルの目が大きくなる。


「いいの?」


「ただし」


「うん」


「仕事中には書きません」


「分かってる」


「執務が終わった後、時間が取れたらです」


「うん」


「急な予定が入ったら延期します」


「うん」


「それから――」


 ライルが笑い始めた。


「何です?」


「条件いっぱいあるなって」


「大切なことです!」


「分かってる。でも」


 彼は帳面の表紙を指でそっと撫でた。


「延期になっても、次があるんでしょう?」


 アマリリアは言葉を止めた。


 昨日、自分が言ったことを覚えている。


『これからも一緒におります。ですから、次があります』


 帳面を書く時間が明日なくても。


 次がある。


 劇場へ行くのも。


 食事へ行くのも。


 散歩するのも。


 何かを一緒に選ぶのも。


 一度の機会へ全部を詰め込まなくていい。


「ええ」


 アマリリアは微笑んだ。


「あります」


 ライルも笑った。


「じゃあ、明日インク持ってきて」


「忘れたら?」


「次」


「殿下が帳面を忘れたら?」


「次」


「急な仕事が入ったら?」


「次」


「……便利ですわね」


「うん」


 けれど、その便利さは嫌ではなかった。


 今すぐでなければ失うものばかりではない。


 待てるものがある。


 延期できる楽しみがある。


 それは、また一緒にいることを前提にできるからだ。


「では、明日」


「うん」


 ライルが帳面をしまう。


 アマリリアも立ち上がった。


 執務室の外へ出ると、夕方の廊下には西日が長く伸びていた。窓枠の影が床へ等間隔に落ち、遠くでは仕事を終えた官吏たちが静かな声で挨拶を交わしている。


 二人は並んで歩く。


 途中でライルが手を差し出した。


 アマリリアは何も言わず、その手を取った。


 指を絡めると、彼の歩幅がほんの少し自分に合う。


「今日も面白かったね」


 ライルが言う。


「何がです?」


「仕事」


「通知ですか?」


「それも。道路も」


「殿下、随分仕事がお好きになりました?」


「前から嫌いじゃないよ」


「そうでした?」


「君とやるようになってから、面白いことが増えた」


 アマリリアは隣を見る。


 夕日のせいだけではなく、ライルの表情は穏やかだった。


「でも、帳面も楽しみ」


「結局そこへ戻りますのね」


「両方欲しいから」


 第84話で交わした言葉だ。


 仕事も。


 デートも。


 どちらかを捨てる必要はない。


「私もです」


 アマリリアは答えた。


 今日は通知試行の結論を出せなかった。


 エドガーから新しい問いも増えた。


 共同輸送の資料は一枚も進んでいない。


 第二共同倉庫も結果待ちだ。


 明日になれば、また別の書類が増えるかもしれない。


 それでも焦りはなかった。


 使う時を考えるなら、使わない時も考える。


 見る時を選ぶなら、見ない時も選ぶ。


 働く時間があるなら、働かない時間も選んでいい。


 それらは何かを怠るための空白ではなく、必要な境目なのかもしれない。


「アマリリア」


「はい?」


「明日、最初の頁、本当にあれでいい?」


 廊下を歩きながらライルが尋ねた。


 候補にしていた言葉を、アマリリアもすぐ思い出す。


『今日も、二人で選ぶのは楽しかった』


 昨日の文具店では、それを最初の頁に書くかもしれないと話した。


 けれど、まだ決定にはしていなかった。


「明日、二人で帳面を開いてから決めません?」


「変えてもいい?」


「もちろんです」


「決めてたのに?」


「候補です。決定ではありません」


「じゃあ、もっといいの思いついたら?」


「そちらにします」


「二人で?」


「二人で」


 ライルは嬉しそうに頷いた。


 アマリリアも、まだ白いままの最初の頁を思い浮かべる。


 仕事なら、空欄を見ると埋めるべきことを考える。


 誰が書くのか。


 何が必要なのか。


 いつまでなのか。


 けれど、あの帳面の空白には期限がない。


 明日埋めてもいい。


 別の日でもいい。


 最初に考えていた言葉を変えてもいい。


 途中で頁を増やしてもいい。


 二人で選んだ帳面なのだから、二人で好きに使えばいい。


「殿下」


「何?」


「明日、楽しみにしております」


 アマリリアがそう言うと、ライルの手に少しだけ力が入った。


「俺も」


 それだけで十分だった。


 二人は夕暮れの廊下を、そのままゆっくり歩いていく。


 通知試行には、まだ答えがない。


 共同輸送にも、倉庫にも、これから見るべきものが残っている。


 けれど、答えが出ていない一日の終わりにも、楽しみにしてよい明日がある。


 そして今のアマリリアは、そのことをもう疑わなかった。

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