第85話 再梱包が増えた理由を探していたら、壊れた荷物より『壊れる前に止めた荷物』の方が気になりました
翌朝、アマリリアが王宮の執務室へ入った時、前日に机の端へ置いて帰ったフォード商会の資料束は、当然ながら同じ場所に残っていた。
窓から差し込む朝日は昨日より少し弱く、薄い雲を通った光が机の上へ柔らかく落ちている。通知試行の二件については担当部署へ整理案を返す手続きが始まっており、エドガーにも通常業務を圧迫しない範囲で目を通してもらうことになっているため、今朝の時点で王宮側から新たに動かすことはなかった。
「おはようございます」
「おはようございます、アマリリア様」
ディーンがいつものように礼をし、少し離れた机にいたゼインも顔を上げる。
「おはようございます、お嬢様。本日は殿下より先に資料を開かれますか?」
「開きません」
アマリリアは即答した。
それから、ほんの一拍遅れて眉を寄せる。
「……なぜ昨日と同じことを聞くのです?」
「確認です」
「何の確認です?」
「昨日限りの行動だったのか、継続性があるのかを」
「私を試行対象にしないでくださいませ!」
朝から失礼な男である。
ゼインは表情を変えずに手元の書類へ戻ったが、明らかに楽しんでいる。
アマリリアは椅子へ座り、フォード商会の資料には触れず、まず今日の予定表を引き寄せた。午前中に確認が必要なものは多くないが、だからといって共同輸送の資料から始める理由もない。
「ディーン、今日中に判断が必要なものは?」
「二件です。一件は西部街道沿いの橋梁補修に伴う迂回路使用許可の更新。もう一件は王都南部の冬季共同井戸点検に関する支出確認です」
「通知試行関係は?」
「昨日の整理案を両担当部署へ送付済みです。返答期限は設けておりません。文書局へも同じものを共有しております」
「エドガーさんには?」
「閲覧できる時で構わない旨を添えております」
「分かりました」
必要なものだけ確認する。
それを口にすることすら、以前ほど特別なことではなくなった。
アマリリアが橋梁補修の書類を開いたところで、扉が軽く叩かれた。
「おはよう」
ライルが入ってくる。
「おはようございます、殿下」
「今日は待ってた?」
「仕事を始めております」
「あれ?」
「何を期待しているのです?」
「昨日みたいに資料の前で止まってるのかと」
「ゼインと同じことを言わないでくださいませ!」
ゼインが顔を上げる。
「殿下、光栄です」
「褒めてないよね?」
「もちろんです」
「ゼイン!」
朝からまたこの調子だった。
けれど、アマリリアは自分でも気づかないうちに笑っていた。
◇◇◇
午前の早い時間は、予定通り通常の執務へ使った。
西部街道の橋梁補修は、補修そのものではなく迂回路使用許可の期間を五日延ばす必要が生じた案件だった。雨で工事が遅れたわけではなく、橋脚の石材を外したところ、当初の確認では見つからなかった小さな亀裂が二か所見つかり、予定より慎重な補修が必要になったらしい。
「五日延長そのものは問題なさそうですわね」
「うん。ただ、迂回路を使う村にはもう伝わってる?」
ライルが尋ねる。
アマリリアは書類をめくった。
「三日前に仮連絡。正式な延長決定後に改めて知らせる予定、とあります」
「商人にも?」
「定期利用登録のある商会には街道管理所から連絡。臨時利用者には分岐点掲示……」
そこで止まる。
以前なら、掲示の大きさや位置まで確認したくなったかもしれない。
だが今回の書類で求められているのは、迂回路使用許可の期間延長だ。
現地では既に迂回運用が続いている。
新しく道が変わるわけでもない。
「今回の判断に必要なのは、延長して安全上問題がないかですわね」
「うん」
「迂回路側の路面確認は?」
ディーンが該当箇所を示した。
「昨日朝に実施済みです。大型荷車については従来通り重量制限を継続します」
「では、私は異議ありません」
「俺も」
ライルが頷く。
次の共同井戸点検も、冬前の通常点検に一か所追加修繕が必要になったため、既存予算内で項目を組み替えるというものだった。
こちらも大きな問題はない。
二件を終えても、朝の時間はまだ十分に残っていた。
アマリリアは一度背もたれへ身体を預ける。
「では」
「フォード?」
ライルがすぐ言った。
「楽しみにしすぎでは?」
「君もでしょう」
「否定はしません」
昨日閉じた資料束を、今日は二人で開く。
その行為が妙に自然になっていることに気づきながら、アマリリアは前回の紙を一番上へ置いた。
『共同輸送利用荷における積み替え回数別・破損および再梱包記録』
昨日確認したのはここまでだ。
積み替え回数が増えるほど、記録上は再梱包も増えていた。
しかし品目や距離が違う。
さらに共同輸送の拡大と同じ頃、提携倉庫の一部で積み替え時の簡易確認項目が増えている。
だから「積み替えが増えたため荷物が傷みやすくなった」とも、「確認が増えたため問題を早く見つけられるようになった」とも、まだ言えない。
「次、どんな資料だろう」
ライルが少し身を寄せる。
「殿下」
「うん?」
「近いです」
「あ、ごめん」
素直に離れようとする。
「……そこまで離れなくて結構です」
ライルが止まった。
「どっち?」
「今の半分ほど戻ってくださいませ」
「細かい」
「資料を二人で読むのですから、見える距離にいなければ意味がありません」
「はい」
ライルは言われた通り少しだけ戻る。
肩が触れるほどではない。
けれど、同じ紙を無理なく読める距離だ。
ゼインが何か言いたそうにこちらを見た。
「何です?」
「何も」
「絶対に何かありますでしょう」
「距離の調整が非常に具体的だと思っただけです」
「仕事をしてください!」
「しております」
昨日と同じ返事である。
アマリリアはゼインを無視し、次の紙をめくった。
表題は短かった。
『提携倉庫別 積み替え時再梱包記録の開始時期』
「昨日気になったところですわね」
「確認を増やした時期」
「ええ」
資料はすべての提携倉庫を網羅したものではなかった。
フォード商会側で比較可能な記録が残っている七か所について、簡易確認を始めた時期と、再梱包記録の残し方が整理されている。
アマリリアはまず注意書きを読んだ。
『各倉庫で記録開始時期・記載基準が異なる。再梱包の定義も完全には統一されていないため、倉庫間の件数比較には適さない』
「先に書いてある」
ライルが言う。
「親切ですわね」
「ミハイルが?」
「資料をまとめた方が、でしょう」
「ミハイル本人かもしれないよ」
「それならそれで構いません」
「警戒してる?」
「評価しているから警戒する、と父が言っていたでしょう」
「覚えてる」
「私も同じです。資料が丁寧であることと、その資料だけで市場全体を判断してよいことは別です」
「うん」
フォード商会が関わる共同輸送については、かなり丁寧な記録がある。
だが、ここに載っていない運送者もいる。
共同輸送を使わなかった荷主もいる。
依頼そのものを取りやめた七件についても、理由はまだ分からない。
見えるものが多い資料ほど、それだけで全部見えたような気になる危険がある。
アマリリアは七か所の記録を追った。
三か所では、共同輸送拡大より前から積み替え時の簡易確認をしていた。
二か所は拡大とほぼ同時。
一か所は二月ほど後。
残る一か所は、確認そのものは以前からしていたが、「再梱包」として独立記録するようになったのが後からだった。
「ばらばらですわね」
「うん。これなら全体の前後だけ比べても分からないね」
「ええ」
共同輸送の拡大前には再梱包が少なかった。
拡大後には増えた。
その数字だけなら、共同輸送のせいに見える。
しかし、以前は記録していなかった倉庫が途中から記録を始めている。
しかも、確認項目そのものを増やした倉庫もある。
「これ」
ライルが一か所を指した。
「ここだけ、再梱包の意味が違う?」
アマリリアも読む。
一つの倉庫では、紐を締め直しただけでも再梱包として記録していた。
別の倉庫では、箱を開けて中身を確認したり、外装を交換した場合だけ再梱包と呼んでいる。
「同じ『一件』ではありませんわね」
「全然違う」
「紐を一本締め直したものと、箱を交換したものが同じ欄に入っています」
「じゃあ、再梱包件数をそのまま足しても」
「意味が薄いです」
アマリリアはそこで少し考え、紙の余白へ印を付けた。
「これは、追加の数字を出していただくより先に、定義を確認した方がよさそうですわね」
「ミハイルに?」
「まだです」
ライルが笑った。
「また?」
「残りを読みます」
「はい」
次の紙をめくる。
今度は一覧ではなく、短い事例記録だった。
『積み替え時確認により次便への積載を一時停止した事例』
アマリリアの目が止まる。
「停止?」
「壊れてた?」
「読みましょう」
記録されているのは、比較可能な期間内にフォード商会側で把握できた二十三件。
そのすべてが破損ではない。
箱の底板が湿っていた。
縄が一本緩んでいた。
封蝋にひびがあった。
陶器箱の内部から通常より大きな擦過音がした。
木箱の角がつぶれ、積み重ねると上荷が傾く可能性があった。
染料袋の外側に別の荷から漏れた油が付着していた。
それぞれの段階で、次の荷車へ積む前に一度止めている。
「二十三件全部、壊れた荷物?」
「いいえ」
アマリリアは記録を追う。
その場で再梱包して続行。
荷主または発送元へ確認。
中身を確認した上で続行。
別荷として積載。
一日保留。
返送。
対応は分かれている。
最終的に補償対象となる破損が確認されたのは、二十三件のうち一部だけだった。
「じゃあ」
ライルが紙へ近づく。
「壊れた件数じゃない」
「ええ」
「壊れるかもしれないから止めた件数?」
「それも少し違うかもしれません」
「何で?」
「止めなければ本当に壊れたか、私たちには分かりません」
「あ」
ライルが黙る。
アマリリアも記録を見つめた。
例えば、緩んだ縄。
そのまま次の荷車へ積んでも、何事もなく到着したかもしれない。
あるいは途中で荷崩れしたかもしれない。
底板の湿りも同じだ。
すぐ乾いたかもしれない。
重量がかかって抜けたかもしれない。
起きなかった未来は記録できない。
「では、『壊れる前に止めた』とも言い切れませんわね」
「でも、止めたこと自体は本当」
「はい」
アマリリアはそこに線を引いた。
「二十三件の『異常を見つけて、次へそのまま流さなかった』記録です」
「それなら言える?」
「この資料の範囲では」
「うん」
ライルはしばらく考えた。
「これ、近いね」
「何に?」
「倉庫の『置く前に止まった』話」
アマリリアは顔を上げた。
第二共同倉庫。
新しい表示や教育方法を試す中で、「迷った時は置く前に止まる」「自分だけで決め直さず、別の人へ聞く」という共通事項を現場が決めた。
実際、それによって一件の取り違えかけが、置く前に止まっている。
「確かに、似ております」
「間違いが減ったかだけじゃなくて、止まったところを見る」
「ただし、同じものとして扱ってはいけません」
「うん。倉庫は荷物の置き場所で、こっちは荷物の状態だから」
「それに、こちらの二十三件は確認方法も倉庫ごとに違います」
「でも、『最後に壊れたか』だけ見たら途中の行動が消えるのは同じ?」
アマリリアは少し考えてから頷いた。
「そうですわね」
最終破損件数だけを見る。
それなら、途中で紐を締め直した荷も、箱を替えた荷も、異常なしで到着すれば「破損なし」に入る。
それは結果として間違いではない。
しかし、その荷が何の手間もなく届いたわけではない。
誰かが気づいた。
止めた。
確認した。
必要なら直した。
その行動は、最終結果だけでは見えなくなる。
「でも逆に」
アマリリアは言った。
「止めた件数が多いほど良い、とも言えません」
「確認しすぎてる可能性?」
「あります。何でも止めれば輸送は遅れます」
「問題ない荷まで?」
「ええ」
さらに、止める基準が曖昧なら担当者によって差が出る。
慎重な人だけ多く止めるかもしれない。
逆に、忙しい日は見逃すかもしれない。
「止まったことは見る。でも、止まった数を成績にしない」
ライルが言う。
「今のところは、その方がよさそうです」
「また点数にしたら、いっぱい止めた人が良く見えちゃうかもしれないし」
「あるいは、止めた人が悪く見えるかもしれません。『この倉庫だけ停止件数が多い』と」
「どっちにも使えちゃうんだ」
「数字だけなら」
アマリリアは少し嫌な感覚を覚えた。
同じ二十三件でも、「二十三件も異常を発生させた」と書くことも、「二十三件もの破損を未然に防いだ」と書くこともできる。
けれど、今の資料からはどちらも言えない。
分かるのは、二十三件で何らかの異常を認識し、そのまま次へ流さず対応したということだけだ。
「言葉の付け方で、ずいぶん違って見えますわね」
「うん」
「これは覚えておきましょう」
アマリリアは余白へ短く書いた。
『停止件数を、事故件数または防止件数と読み替えない。』
ライルが横から覗く。
「短い」
「長く書く必要があります?」
「ない。分かりやすい」
「なら結構です」
次の紙へ進む。
◇◇◇
そこから先の資料は、二十三件のうち一部について、停止から再出発までどれほど時間がかかったかを大まかに分けたものだった。
正確な分単位ではない。
短時間でその場対応。
次便まで保留。
翌日以降へ繰り越し。
発送元または荷主判断待ち。
分類はその程度だ。
「細かい時間がない」
ライルが言う。
「むしろ、この方が今はよいです」
「何で?」
「一分、二分の違いを見始めると、私が余計なことを考えます」
「自覚あるんだ」
「あります!」
アマリリアは胸を張ることではないと思いながらも答えた。
「それに、輸送距離が違います。ここで十数分止まったことが最終到着へどれほど影響したかは、この表だけでは分かりません」
「次の便に乗れなくなったら大きいかもしれない」
「ええ。一方、その場で縄を締め直して同じ便へ戻ったなら、ほとんど影響しないかもしれません」
記録を見る限り、大半はその場で処理されている。
ただし、数件は次便以降へ回っていた。
その中に、陶器箱があった。
積み替え時に内部から異音がしたため、発送元の指示を待ち、次の便へ回している。
到着は当初予定より遅れた。
しかし中身を確認したところ、陶器の一部に既にひびが入っていた。
「既に?」
ライルが尋ねる。
「積み替えで割れたかは分からない、とあります」
箱の外側に大きな損傷はない。
発送元で詰めた時点からひびがあった可能性も、最初の輸送中に生じた可能性も、積み替え時に生じた可能性も残る。
「原因不明」
「ええ」
「でも止めたから到着は遅れた」
「それは分かります」
「止めなかった方が早く着いた」
「それも、おそらくは」
「でも、壊れた陶器がそのまま届いたかもしれない」
「はい」
ライルが難しい顔をする。
「どっちが良かったんだろう」
「荷主に聞かなければ分からないのでは?」
「あ」
「急ぎで、多少の破損があっても先に欲しかった荷かもしれません。逆に、遅れてでも確認してほしかったかもしれません」
「陶器なら、何に使うかでも違うね」
「ええ」
装飾用か。
商売用か。
儀式に必要だったのか。
注文品なのか。
代替があるのか。
到着予定日の意味が分からなければ、「遅れた」という数字だけでも良し悪しは決められない。
「また荷主側が出てきましたわね」
「資料の外?」
「少なくとも、この紙にはありません」
アマリリアは少し迷ったが、新しい問い合わせはまだ書かなかった。
残り資料がある。
そこに荷主側の記録が含まれている可能性もある。
「次も読みます?」
ライルが尋ねる。
アマリリアは窓を見る。
まだ昼には少し早い。
頭も疲れてはいない。
「もう一つだけ……」
言いかけて止まる。
ライルが笑う。
「一枚制度?」
「違います!」
「今、自分で一つだけって」
「これは制度ではなく、その場の判断です!」
「分かった」
「絶対に分かっていない顔ですわね」
「分かってるよ。今日は次の一資料を読んで、それから一回止めるんでしょう?」
「……はい」
「同じに聞こえる」
「殿下」
「読みます」
笑いながら次の紙を取る。
その表題を見た瞬間、二人とも少し黙った。
『荷主からの破損・遅延申告のうち、積み替え時記録と照合可能だった事例』
「ありましたわね」
「荷主側」
「全部ではありませんけれど」
注意書きには、荷主からフォード商会または提携先へ正式な申し出があり、なおかつ積み替え記録と結びつけられたものだけ、とある。
つまり、申告しなかった荷主は入らない。
軽微だから諦めた人もいるかもしれない。
逆に、問題がなくて何も言わなかった人が圧倒的多数なのかもしれない。
「また見えないところが多い」
「はい」
それでも、読めるものはある。
積み替え時に一度止めた荷のうち、後から荷主が破損を申し出たもの。
積み替え時には異常記録がなかったのに、荷主側で破損が見つかったもの。
到着遅延への不満があったもの。
遅延したが、事前連絡があったため問題なしとされたもの。
分類は細かくないが、アマリリアの目は最後の二つで止まった。
「同じ遅延でも」
「反応が違う?」
「ええ」
一件は、予定より一便遅れたことで荷主から苦情が出ている。
別の一件もほぼ同程度の遅れだったが、積み替え倉庫から途中で連絡が入り、荷主側が了承している。
「連絡したから怒らなかった?」
「それだけでは分かりません」
「荷物の急ぎ具合が違うかもしれない」
「はい。それに、荷主との関係や代替手段も違うかもしれません」
ただ、同じ程度の遅延でも結果が同じではない。
それは分かる。
「到着時間だけ比べても足りない」
ライルが呟く。
「そうですわね」
「予定通り着いたか、遅れたか。それだけじゃなくて、途中で何が起きたかを相手が知ってたかも……」
そこでライルが止まった。
「通知と似てる?」
アマリリアも考える。
決定した。
知らせた。
届いた。
理解した。
利用できた。
これまで通知について考えてきた段階と、輸送はもちろん同じものではない。
無理に重ねるべきでもない。
けれど、「最終結果だけで途中を消さない」という点には共通するところがある。
「似ている部分はあります。ただ、同じ枠へ入れない方がよいですわね」
「うん」
「輸送には輸送の事情があります」
「でも、荷物が遅れたって数字だけ見たら、その人が困ったかまでは分からない」
「ええ。それは言えます」
アマリリアは紙の端へ指を置いた。
「逆もそうです。予定通り届いたからといって、途中で何の負担もなかったとは限りません」
「倉庫で急いで直した人がいるかもしれない」
「はい」
「荷主が予定を変えて待ってたかもしれない」
「それもあり得ます。ただし、この資料からは分かりません」
「不明」
「不明です」
以前なら、その不明を埋めたくてすぐ質問を増やしていた。
今は違う。
不明であることを、そのまま置ける。
そのうえで、後から本当に必要になった時に調べればいい。
「ここで止めましょう」
アマリリアは資料を閉じた。
ライルは今度は何も言わなかった。
「何です?」
「ちゃんと止めたから」
「止めますとも」
「前は止めなかった」
「過去の私を毎回持ち出さないでくださいませ」
「でも、今の君のいいところが分かりやすい」
「……そういう言い方はずるいです」
「何で?」
「怒りにくくなるからです」
ライルが笑う。
アマリリアも結局笑った。
◇◇◇
昼食後、第二共同倉庫から定例の短い報告が届いた。
今日のところ、誤配はない。
表示板前の空間を空ける運用も続いている。
新規・臨時作業者への共通事項の説明についても、大きな問題は報告されていない。
そこまでは、前回から大きな変化がない。
ただし、一つだけ現場から追記があった。
『西側区画にて、空箱を一時置きする際、表示板前を避けるため横通路側へ寄せた結果、荷車の転回時に狭く感じるとの意見二名。現在は空箱の置き場所を一間ずらして試行中。作業責任者判断にて対応。』
「もう直してる」
ライルが言った。
「ええ」
アマリリアは読み直した。
王宮へ許可を求めているわけではない。
報告だけだ。
表示板前を空けた。
その結果、別の場所が少し狭くなった。
現場で空箱置き場をずらした。
今はそれで様子を見ている。
「これでよいですわね」
「王宮から何か言う?」
「今は何も」
「うん」
「ただし、次の定例報告で転回のしづらさがどうなったかは、そのまま書いていただきましょう」
「新しい欄を作る?」
「作りません」
アマリリアは即答した。
ライルが笑う。
「早い」
「必要ありませんもの。通常の自由記載で十分です」
「空箱置き場の位置を全部記録する?」
「しません」
「何間ずらしたかを毎日」
「殿下、楽しんでおりますね?」
「ちょっと」
「やめてくださいませ!」
ライルは声を立てて笑った。
ディーンも報告書を受け取りながら口元を緩めている。
「では、現場判断を継続。王宮から追加指示なし、でよろしいでしょうか」
「はい」
アマリリアは頷いた。
「表示板前を空けること自体が目的にならないようにだけ、気をつけたいです」
ライルが言った。
アマリリアは彼を見る。
「どういう意味です?」
「表示板を見やすくするために空けたんでしょう?」
「ええ」
「でも、それで荷車が通りにくくなって事故が増えたら駄目だよね」
「その通りです」
「だから、『表示板前を空けているか』だけ確認するようになったら、変になる」
アマリリアはゆっくり頷いた。
「目的と手段が逆になりますわね」
「うん」
表示板前を空ける。
それは、表示を見やすくするための手段だ。
倉庫全体を安全かつ分かりやすく使うことより優先される絶対条件ではない。
「では、それも王宮から教えます?」
ゼインが尋ねる。
アマリリアは一瞬考えた。
「いいえ」
「なぜです?」
「現場は既に、転回しづらいことへ気づいて置き場所を変えています。今こちらから『目的と手段を間違えないように』などと送れば、分かっていることを上から言うだけです」
「承知しました」
「もし今後、表示板前を空けること自体に固執して別の問題が続くなら、その時に考えます」
「はい」
ゼインが記録する。
ライルが少し嬉しそうにこちらを見ている。
「何です?」
「何も」
「言いたいことがある顔です」
「君も自然になったなって」
「先ほど殿下へ言ったことを返さないでくださいませ」
「でも本当」
アマリリアは一度口を開き、閉じた。
「……ありがとうございます」
結局、素直に受け取る。
ライルの方が驚いた。
「今日は素直」
「褒められたら受け取ることにしたのです」
「誰に教わったの?」
「父です」
「ハロルド卿?」
「ええ」
「俺が褒めても?」
「内容によります」
「厳しい」
「当然です」
そこだけは譲らなかった。
◇◇◇
午後も半ばを過ぎた頃、ディーンが一通の短い返答を持ってきた。
「アマリリア様。昨日返送した通知試行の整理案について、公的倉庫申請書改定の担当部署から確認が戻りました」
「早いですわね」
「担当者がちょうど確認できる時間だったとのことです。急ぎの返答ではない旨は理解しております」
「内容は?」
「大きな修正なし。ただし、一点だけ表現を変えてほしいとのことです」
アマリリアは紙を受け取った。
昨日の整理では、
『問いによって、通知先一覧に現れにくい記入補助者や申請主体ではない運搬人の役割が意識された』
としていた。
担当部署からの指摘は、そのうち「運搬人」についてだった。
『運搬人の存在自体は従来から認識していた。「役割が意識された」では、存在を新たに知ったようにも読める。今回新たに意識したのは、新様式で受取予定者情報が増えることにより、運搬人が持参すべき情報へ影響する可能性』
アマリリアは読み終え、すぐに頷いた。
「直しましょう」
「うん」
ライルも迷わなかった。
「全然違うね」
「ええ」
運搬人を知らなかったわけではない。
新しい様式変更によって、その人の行動にも間接的な変化が生じるかもしれないと気づいた。
そこを曖昧にすれば、後から「試行によって未知の関係者を発見した」という話に変わってしまう。
「返してよかったですわね」
「うん」
「私たちだけでまとめて終わっていたら、少し意味が変わるところでした」
「担当者にとっては、自分が今まで運搬人を見てなかったみたいに残るし」
「そうです」
アマリリアはディーンへ紙を返した。
「指摘通り修正してください。ほかの表現も、こちらが意味を強くしていないか一度見直しましょう」
「承知しました」
「ただし」
アマリリアは続ける。
「全文をまた担当部署へ何度も往復させる必要はありません。今回の修正を反映し、意味が変わるような追加がなければそれで」
「はい」
返答が早かったからといって、やり取りを増やさない。
一つ直した。
なら全部もう一度確認。
さらに念のためもう一度。
そうやって確認そのものが仕事を膨らませることもある。
「夜間門の方は?」
「まだです」
「では待ちます」
「はい」
それだけで終わった。
待てることが、もう特別ではなくなりつつあった。
◇◇◇
その日の執務を終える少し前、アマリリアは机の上を整理した。
フォード商会の資料は残っている。
通知試行もまだ途中。
共同倉庫も運用継続中。
どれも完結していない。
けれど、今日やるべきところまでは進んだ。
「帰ります?」
ライルが尋ねる。
「ええ」
「今日は寄り道しない?」
アマリリアの手が止まる。
「……何を企んでおります?」
「企んでないよ」
「その聞き方は怪しいです」
「文具店」
アマリリアは瞬いた。
昨日の夜、劇場デートの帰りに見つけた店。
閉店後だった。
二人で使う帳面を買おうと話した。
ただし、次にいつ行くかは決めなかった。
「今日ですの?」
「まだ店が開いてる時間だと思う」
「調べたのです?」
「場所と閉店時刻だけ」
「調べたのではありませんか!」
「でも、君の予定は調べてないよ」
「そこを誇らないでくださいませ」
「駄目?」
ライルは少し不安そうに彼女を見る。
「今日、急に行くのは嫌?」
アマリリアは返事をする前に今日の予定を思い返した。
この後、ベスター邸へ戻って絶対にしなければならないことはない。
父との約束もない。
夕食時刻には多少余裕がある。
王宮の仕事も終わっている。
そして何より。
行きたい。
「……護衛は?」
「ディーンに、帰り道で少し寄れる場合の人数だけ確認した」
「確認済みなのですね」
「店へ行くって決めたわけじゃないよ。寄り道できるかだけ」
以前のライルなら、先に店へ連絡していたかもしれない。
第一王子が訪れるからと店主を待機させ、護衛経路を固め、時間を決めてしまった可能性もある。
今日は違う。
行けるかもしれない余白だけ残した。
行くかどうかは、今二人で決める。
「店側へ連絡は?」
「してない」
「貸し切りも?」
「してない」
「店主を呼び出しても?」
「ない」
「本当に?」
「ハロルド卿に言われたこと、まだ覚えてるよ」
「劇場支配人を呼ぶな、ですわね」
「文具店の店主も同じかなって」
アマリリアは堪えきれず笑った。
「では」
「うん」
「行きましょう」
ライルの顔が明るくなる。
「本当に?」
「私も欲しいのです。二人の帳面」
「うん!」
「ただし」
「何?」
「仕事の記録にはしません」
「セレーネ様との約束?」
「約束ではありませんけれど」
アマリリアは少し考える。
「最初の一頁は、仕事以外にします」
「何書く?」
「まだ決めません」
「焼き林檎?」
「候補には入れておきます」
「劇場?」
「それも」
「灰青色?」
「殿下」
「冗談」
絶対に少し本気だった。
◇◇◇
王宮を出た二人は、昨日の劇場帰りとは違い、馬車で文具店の近くまで向かった。
大通りから一本入った通りは夕方の買い物客でほどよく賑わっており、パン屋からは焼き上がった小麦の香りが流れてくる。向かいの仕立屋では店員が外の看板を片づけ始めていたが、目的の文具店にはまだ灯りがついていた。
「あそこ」
ライルが窓の外を指す。
「ええ。昨日見た店です」
昨日は閉ざされていた木の扉が、今日は開いている。
窓には大小の帳面。
便箋。
封筒。
羽根ペン。
インク壺。
革張りの手帳。
小さな木製の筆箱まで並んでいる。
馬車を降りると、護衛が少し距離を取って周囲へ散った。
第一王子とその婚約者である以上、完全な二人きりにはなれない。
それでも、店の前へ立つ時に大げさな先触れはなかった。
「入ります?」
ライルが聞く。
「そのために来たのでしょう」
「うん」
扉を開く。
小さな鈴が鳴った。
店内は外から見たより奥行きがあり、壁一面の棚へ紙製品が並べられていた。新品の紙と革、乾いた木、わずかなインクの匂いが混ざり、劇場や料理店とはまるで違う静けさがある。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきた店主らしい中年の女性が、二人を見て一瞬固まった。
「……え」
その反応に、アマリリアは少しだけ身構える。
ライルも気づいたらしい。
「普通に見せてもらっていい?」
先にそう言った。
店主は慌てて頭を下げる。
「も、もちろんでございます、殿下。アマリリア様も……どうぞ、ご自由に」
「ありがとうございます」
アマリリアも答える。
店主はまだ緊張している。
けれど、他の客を追い出そうとはしなかった。
店内には若い女性客が一人と、帳簿用の紙を選んでいる年配の男性がいる。
こちらへ何度か視線は向く。
当然だろう。
「どれにする?」
ライルが小声で聞いた。
「まだ入ったばかりです」
「そうだった」
「まず見ます」
「うん」
二人で棚を見る。
大きな帳簿。
持ち歩ける手帳。
紐で綴じた簡素なもの。
革張り。
布張り。
木板を表紙にした丈夫なもの。
「これは?」
ライルが青い革張りを取る。
「綺麗ですけれど、少し立派すぎません?」
「二人のなら立派でもいいんじゃない?」
「何を書くかも決めていないのに?」
「それもそうか」
戻す。
次はアマリリアが、手のひらより少し大きな茶色の布張りを取った。
開く。
紙は柔らかい。
しかし頁数が少ない。
「すぐ終わりそうですわね」
「いっぱい書くつもり?」
「殿下が焼き林檎だけで一頁使うなら」
「使っていいって母上が言った」
「王妃陛下は殿下に許可したわけではありません!」
「でも君もいいって言ったでしょう」
「一頁すべて使うとは言っておりません」
棚の前で言い合っていると、近くにいた若い女性客が小さく笑った。
アマリリアと目が合う。
女性は慌てて口元を押さえた。
「も、申し訳ございません」
「構いません」
アマリリアは答えた。
「少々、くだらない言い合いでしたので」
「くだらない?」
ライルが不満そうだ。
「焼き林檎で一頁使うかどうかです」
「大事だよ」
また女性が笑った。
今度はアマリリアも笑う。
店内の緊張が少しだけほどけた。
昨日の劇場でもそうだった。
人々は最初、第一王子とその婚約者を見て固くなる。
けれど、二人が普通に話し、笑っていると、少しずつ周囲の空気が戻っていく。
アマリリアはそれを嬉しいと思った。
「こちらは?」
今度はライルではなく、店主が少し遠慮がちに一冊を差し出した。
「お二人でお使いになるのでしたら、こちらも人気がございます。革ほど重くなく、頁の追加もできますので」
「追加?」
アマリリアが受け取る。
濃い生成り色の布張り。
背の部分に細い革紐が通してあり、中の紙束を後から足せる作りになっている。
表紙には装飾がほとんどない。
右下に、小さな葉の型押しだけがある。
アマリリアの視線が止まった。
「葉っぱ」
ライルも気づいた。
二人同時に、アマリリアの手首を見る。
今日は劇場用の木製腕飾りを着けてはいない。
それでも思い浮かべたものは同じだった。
市場でライルが選んでくれた、葉模様と小さな花の彫られた腕飾り。
「……これ」
ライルが言う。
「好き?」
「はい」
アマリリアは表紙を撫でる。
豪華ではない。
王子と公爵令嬢が使うものとしては、むしろ驚くほど素朴だ。
だからこそ、いいと思った。
「殿下は?」
「俺も好き」
「では」
「これにする?」
アマリリアはすぐに頷きかけた。
けれど止まる。
ライルがそれを見て首を傾げる。
「他も見る?」
「はい」
「これが気に入ったのに?」
「気に入ったからこそです」
「どういうこと?」
「最初に気に入ったものをそのまま買って、後であちらもよかったと思いたくありません」
「なるほど」
「比べます」
ライルが笑う。
「そこは変わらないんだね」
「変える必要があります?」
「ない」
それから二人は、本当に店内の帳面を一通り見た。
革張りは丈夫だが重い。
小型は持ち歩きやすいが、二人で長く使うには少ない。
大判は書きやすいが、私的な帳面としては少し仕事らしすぎる。
飾りの美しいものもあった。
王都の景色を型押ししたもの。
花模様。
星。
鳥。
それぞれ綺麗だった。
それでも最後には、最初の生成り色の布張りへ戻ってきた。
「やっぱりこれ?」
ライルが聞く。
「はい」
「俺も」
「では、これにしましょう」
店主へ渡す。
「こちらをいただきます」
「ありがとうございます」
店主が丁寧に受け取る。
「紙束は現在入っているものでよろしいでしょうか。少し厚手のものや、薄いものへ変更もできますが」
アマリリアはライルを見る。
「何を書くか決まってないから、普通のでいいんじゃない?」
「私もそう思います」
「では、このままで」
会計を済ませる段階で、二人の手が同時に財布へ向かった。
止まる。
「俺が」
「二人のものです」
「じゃあ君が?」
「なぜそうなるのです?」
「二人とも払おうとしたから」
「半分ずつというのも妙ですわね」
ライルが考える。
「じゃあ、帳面は俺。最初に使うインクは君?」
アマリリアは瞬いた。
「それなら」
「二人で買ったことになる?」
「……なりますわね」
妙に納得した。
ライルが帳面代を払い、アマリリアは同じ店で小さなインク壺を選ぶ。
色は黒。
特別な色にはしなかった。
「青じゃないんだ」
「読みにくいでしょう」
「そこは実用的」
「帳面なのですから当然です」
「仕事にしないよね?」
「黒いインクを使っただけで仕事にはなりません!」
また店主が笑いを堪えている。
アマリリアはもう気にしなかった。
◇◇◇
店を出る頃には、外の空が夕暮れへ傾き始めていた。
ライルが包んでもらった帳面を持ち、アマリリアが小さなインク壺の包みを持つ。
「今日、書く?」
馬車へ戻りながらライルが尋ねた。
「どこでです?」
「馬車?」
「揺れます」
「じゃあ帰ってから?」
「別々の家へ帰りますでしょう」
「あ」
「殿下」
「忘れてた」
「婚姻前です!」
「分かってるよ!」
護衛の一人が視線を逸らした。
アマリリアは少し顔が熱くなるのを感じる。
「では、次に二人で時間がある時にしましょう」
「帳面、どっちが持つ?」
これも考えていなかった。
二人のもの。
しかし今は同じ家に住んでいない。
「殿下が買ったから殿下?」
「インクは君が持ってるよ」
「では別々になりますね」
「それも面白いかも」
「何がです?」
「帳面だけあっても書けない。インクだけあっても書けない」
アマリリアは一瞬黙った。
そして、少し笑う。
「殿下」
「うん?」
「今のは、少々わざとらしいです」
「ばれた?」
「何か綺麗なことを言おうとしましたでしょう」
「ちょっとだけ」
「失敗です」
「厳しい」
「ですが」
アマリリアは自分の持つ小さな包みを見る。
「嫌いではありません」
ライルが嬉しそうに笑う。
「じゃあ帳面は俺が持って帰る」
「はい。インクは私が」
「次に会ったら両方そろう」
「王宮で毎日のように会っておりますけれど」
「じゃあ明日?」
「明日は仕事です」
「仕事の後」
「……書く内容が決まってからです」
「焼き林檎」
「まだ言いますの?」
「候補」
「劇場も候補です」
「散歩も」
「文具店も増えました」
「今日のこと、今日買った帳面に書く?」
それも悪くない。
アマリリアはそう思った。
何を書くかを決めるために会議をする必要はない。
最初の一頁に何を書くべきか、意味を持たせすぎる必要もない。
焼き林檎でもいい。
劇場でもいい。
今日、二人で帳面を選んだことでもいい。
「その時に決めましょう」
「うん」
ライルが馬車の扉を開ける前に、もう一度包みを見る。
「楽しみ」
「私もです」
今度は、アマリリアもすぐに言えた。
◇◇◇
帰りの馬車が王都の通りを進む。
窓の外では、夕方の荷車が行き交っていた。
一台の荷車が道端で止まり、御者と若い作業員が積荷の縄を締め直している。
アマリリアの目がそこへ向いた。
今日読んだ資料が頭に浮かぶ。
止まる。
確認する。
直す。
それからまた進む。
「気になる?」
ライルが尋ねた。
「少し」
「見に行く?」
「行きません」
即答する。
ライルが笑った。
「何も言ってないのに」
「今、言いましたでしょう!」
「聞いただけ」
「ゼインのようなことを言わないでくださいませ!」
「似てきた?」
「困ります!」
二人で笑う。
荷車はやがて縄を締め終え、再び走り始めた。
あの荷物に何か問題があったのかは分からない。
単に出発前の確認かもしれない。
だから、そこへ勝手な意味を与えない。
ただ、自分が以前より「止まったこと」を見るようになったのは確かだった。
失敗したか。
成功したか。
届いたか。
届かなかったか。
数字の最後だけを見れば、途中で誰が何をしたのかは消えてしまう。
今日の資料で見えた二十三件もそうだった。
壊れた荷物が二十三件ではない。
破損を防いだ荷物が二十三件でもない。
何かに気づき、そのまま次へ流さず一度止めた記録が二十三件ある。
今は、それで十分だ。
「アマリリア」
「はい?」
「帳面の最初」
「まだ焼き林檎を諦めていないのです?」
「違うよ」
ライルは膝の上に置いた包みを軽く押さえる。
「『二人で選ぶのは楽しい』って書くのは?」
アマリリアは目を見開いた。
市場デートの後、自分の普段使いの手帳へ書いた言葉。
『二人で選ぶのは楽しい』
それをライルへ話したことがあった。
「覚えていたのですか」
「うん」
「……それは、私の手帳にもう書いてあります」
「じゃあ駄目?」
アマリリアは少し考える。
同じ言葉を、別の帳面へ書く。
以前なら重複だと思ったかもしれない。
けれど、これは記録整理ではない。
二人の帳面だ。
「少し変えましょう」
「どうする?」
「『今日も、二人で選ぶのは楽しかった』」
ライルがゆっくり笑った。
「それがいい」
「最初の一頁にするかは、まだ決めておりませんよ」
「ええ?」
「候補です」
「かなり有力?」
「それも、その時に決めます」
「分かった」
残念そうに言いながら、ライルは嬉しさを隠せていない。
アマリリアは窓の外へ視線を戻した。
仕事には、まだ分からないことがたくさんある。
共同輸送の再梱包記録も、停止した二十三件も、荷主側の反応も、今ある資料だけでは一つの答えにまとめられない。
通知試行も同じだ。
共同倉庫の表示も、改善すれば別の場所に新しい不便が現れる。
それでも、分からないから進めないわけではない。
分からないところを分からないまま残し、今日分かったところまで進めばいい。
そして仕事ではない時間にも、まだ決まっていないものがある。
二人の帳面の最初の一頁。
次のデート。
婚姻後に何を置く部屋。
どんな暮らしをするのか。
こちらの空白は、不安より楽しみの方が大きかった。
全部を今決めなくていい。
次に二人で選べばいい。
馬車が夕暮れの王都を進む中、ライルの膝には生成り色の帳面があり、アマリリアの手にはまだ包みを開けていない黒いインクがある。
二つは今夜、それぞれ別の場所へ帰る。
けれど、次に二人がそろえば、一冊の帳面へ同じ時間を書き始められる。
アマリリアはそれを思い浮かべ、誰に見られているわけでもないのに小さく笑った。
壊れたかどうかだけでは見えない途中がある。
届いたかどうかだけでは見えない途中がある。
そして、どこへ辿り着くかまだ決まっていなくても、途中そのものを楽しめる時間もある。
今日のアマリリアにとっては、その最後の一つが、何より大切に思えた。




