第83話 劇場の後を決めていなかったので、婚約者と夕食を食べながら『帰る場所』の話をすることになりました
劇場の正面玄関を出た時、王都はすでに夕暮れの中にあった。
石造りの建物の向こうへ沈みかけた太陽が空を淡い橙色に染め、劇場前の広場には長い影が伸びている。昼間より冷たくなった風が頬を撫で、観劇を終えた人々の声と、迎えの馬車が石畳を踏む音が重なっていた。
アマリリアはライルと手をつないだまま、劇場の階段をゆっくり下りた。
急ぐ理由はない。
夕食の店は予約してある。
開演時刻や休憩時間のように、今すぐ時計を気にする必要もない。
何より、先ほどまで見ていた舞台の余韻がまだ胸の中に残っていた。
「終わってしまいましたわね」
階段を半分ほど下りたところで、アマリリアは呟いた。
「うん」
ライルも少し名残惜しそうに劇場を振り返る。
「もう少し見たかった」
「私もです。でも、あそこで終わるからいいのでしょうね」
「ノエルがまた旅に出たところまでやったら?」
「さらにその旅が気になって終われなくなります」
「じゃあ、また港に帰るところまで」
「それでは永遠に終わりませんわ」
ライルが笑う。
アマリリアもつられて口元を緩めた。
劇場の中で何度も笑ったはずなのに、不思議と疲れてはいなかった。むしろ頭の中に残っている場面を一つずつ取り出して、ライルと話したくて仕方がない。
けれど、全部を今すぐ話そうとは思わなかった。
夕食がある。
その後の時間もある。
今日という一日はまだ続いている。
劇場前では、先ほど近くの席に座っていた年配夫婦が馬車へ向かっていた。夫の方がこちらに気づき、小さく会釈する。
「殿下、アマリリア様。楽しい時間をありがとうございました」
「こちらこそ」
ライルが自然に答える。
アマリリアも頭を下げた。
「お二人のおかげで、休憩中も楽しかったですわ」
「まあ」
妻が嬉しそうに笑った。
「私たちはいつもあんな調子ですから」
「お前がすぐ私の感想を否定するからだろう」
「あなたが道だの橋だのばかり見ているからでしょう?」
「面白いものは仕方ない」
観劇中とまったく同じ調子で言い合いが始まる。
アマリリアは笑った。
ライルも楽しそうだ。
「でも」
年配女性が夫を見る。
少しだけ声が柔らかくなった。
「同じものを見ても違うところを面白いと思うから、後で話すことがなくならないのかもしれませんね」
夫が一瞬黙った。
「……そうだな」
「あら、素直」
「たまにはな」
「劇のおかげかしら」
「明日には戻る」
「残念です」
二人は笑いながら馬車へ向かっていった。
アマリリアは、その背中をしばらく見送った。
隣でライルも同じ方向を見ている。
「いいね」
「ええ」
どちらからともなく、そんな言葉が出た。
「何十年も一緒にいて、同じ劇を見て」
ライルが言う。
「それでも感想が違って、帰り道で言い合う」
「私は殿下と毎回言い合う予定はありませんけれど」
「じゃあ半分くらい?」
「多すぎます」
「三回に一回」
「回数を決める必要があります?」
アマリリアが呆れて見ると、ライルは楽しそうに笑っていた。
その顔を見ていると、少しくらいなら言い合う未来も悪くない気がしてしまう。
「……まあ、意見が違うこと自体は構いません」
「うん」
「同じものを見て、必ず同じことを思わなければならない方が大変ですもの」
「俺もそう思う」
ライルはつないだ手を軽く揺らした。
「君がどこを面白いと思ったのか聞くの、好きだし」
不意打ちだった。
アマリリアは返事をするまでに少し時間がかかった。
劇場を出た人々が周囲を行き交い、少し離れたところでは護衛が二人の歩調に合わせている。特別な場所でも、二人きりでもない。
それなのに、ライルはこういう言葉を自然に口にするようになった。
「……私も」
アマリリアは前を向いたまま答えた。
「殿下が何を見ていたのか聞くのは、好きですわ」
「本当?」
「何です、その反応は」
「嬉しいから」
「知っております」
「それも嬉しい」
「増やさないでくださいませ」
アマリリアが笑うと、ライルも笑った。
少し前なら、こんな会話を人目のある場所ですることにもっと抵抗があったはずだ。
今も恥ずかしくないわけではない。
けれど、恥ずかしいからやめたいとは思わなかった。
ライルと一緒にいて、楽しそうに見える。
それでいい。
第七十六話の帰り道で、近くの侍女たちに仲が良さそうに見られることを「それなら構いません」と言った。
あれは勢いではなかったらしい。
「馬車、あちらです」
少し前を歩いていたディーンが振り返った。
今日は仕事用の書類束を持っていない。必要最低限の護衛と移動だけを整え、二人の時間には入り込みすぎないよう距離を取っていた。
「夕食は予定通りでよろしいですか?」
「はい」
ライルが答え、アマリリアを見る。
「大丈夫?」
「もちろんです」
「疲れてない?」
「いいえ。むしろお腹が空きました」
「俺も」
ディーンの口元がほんの少し緩んだ。
「それでは、予定通り参ります」
アマリリアは馬車へ乗る前に、もう一度だけ劇場を振り返った。
大きな扉から、まだ観客が出てくる。
あの中で見た物語は終わった。
けれど、今日の記憶はこれからも残る。
市場の日と同じように。
服を選んだ日と同じように。
今度は劇場の日が増えた。
そう思いながら馬車へ乗り込むと、向かいではなく隣へライルが座った。
「近くありません?」
「嫌?」
「いいえ」
「じゃあここ」
「最初から移動する気がありませんわね」
「うん」
堂々と言われてしまい、アマリリアは笑うしかなかった。
◇◇◇
夕食の店は、劇場から馬車でそれほど離れていない場所にあった。
王都中心部の大通りから一本入った静かな通りに建つ、小さな料理店である。
王族が利用するような豪奢な店ではない。
もちろん警備上の確認は事前に行われているし、奥の個室が用意されている。それでも、外から見れば落ち着いた石造りの店で、入口脇には今日使われる香草を束ねた小さな飾りが掛けられていた。
「ここですの?」
馬車を降りたアマリリアは少し驚いた。
「うん」
「もっと……」
「もっと?」
「いえ」
言葉を選ぶ。
「王子殿下が予約した場所ですから、もう少し大きなところを想像していました」
「母上に聞いたんだ」
「王妃陛下に?」
「劇場の後、静かに話せるところがいいって言ったら、ここを教えてくれた」
アマリリアは店を見る。
窓から暖かな明かりが漏れている。
店内からは食器が触れる小さな音と、焼いた肉や香草の匂いが漂ってきた。
「なるほど」
セレーネらしい。
格式より、二人がどう過ごしたいかを考えたのだろう。
「気に入りません?」
「まだ食べてもいないのに判断できません」
「そうだった」
「ですが」
アマリリアは入口を見る。
「雰囲気は好きですわ」
ライルが嬉しそうに笑った。
店へ入ると、店主らしい初老の男性が出迎えた。
王子が来たからといって大げさに騒ぐことはない。深く礼をした後、普段の客を迎えるのと大きく変わらない落ち着いた声で奥へ案内する。
個室は広すぎなかった。
四人用の丸いテーブル。
窓辺には小さな燭台。
壁には王都周辺の風景を描いた絵が二枚。
窓の外には細い通りが見える。
アマリリアは席へ着き、ほっと息を吐いた。
「いいところですわね」
「よかった」
「殿下が料理を作ったわけではありませんのに、なぜそんなに安心するのです?」
「選んだから」
「王妃陛下が」
「最後に決めたのは俺」
「それなら半分くらいは殿下の功績にしておきます」
「半分?」
「増やしてほしいのです?」
「全部」
「欲張りですわね」
笑っている間に、温かな飲み物が運ばれてきた。
香りの弱い果実水だった。
劇場で長く座っていた喉に心地よい。
最初の料理は、薄く焼いたパンと野菜の温かなスープ。
派手ではない。
けれど、湯気と一緒に根菜の甘い香りが立ち上り、一口飲むと身体の内側から温まる。
「美味しい」
アマリリアが素直に言う。
「よかった」
「また殿下が安心しております」
「だから、選んだ責任があるんだって」
「では最後まで責任を持って食べてくださいませ」
「もちろん」
二人でパンを取る。
劇場での話は、すぐには始まらなかった。
スープを味わう。
パンにつける。
今日の料理が何なのか話す。
窓の外を馬車が通る。
そういう何でもない時間が先にあった。
アマリリアは、それが嫌ではなかった。
むしろ好きだった。
大事な話をするなら、すぐ本題へ入らなければならない。
仕事ではそういう時もある。
けれど今は仕事ではない。
劇の感想も、将来のことも、食事の間に自然に出てくればいい。
「アマリリア」
「はい?」
「さっき、劇場で言ってたでしょう」
ライルがパンを小さくちぎりながら言った。
「夕食の時に続きを話そうって」
「ええ」
「何から話す?」
「殿下からどうぞ」
「俺?」
「いっぱいあるのでしょう?」
「ある」
ライルは少し考える。
「じゃあ、師匠」
「やはり」
「やっぱり分かってた?」
「殿下、あの方が出るたびに楽しそうでしたもの」
「そんなに?」
「はい」
アマリリアは笑った。
「最後の『おかえり』も好きだったのでしょう?」
「うん」
ライルの表情が少し柔らかくなる。
「あの人、最初からノエルを止めなかったでしょう」
「ええ」
「三年後に帰ってきても、『もう出るな』って言わなかった」
「そうでしたわね」
「また出るって言われても、『そうか』だけで」
ライルはそこで少し考える。
「たぶん、寂しいとは思うんだ」
「でしょうね」
「でも、自分が寂しいからってノエルを港に置こうとはしない」
アマリリアはスプーンを置いた。
ライルの言葉を聞く。
「帰ってきたことは嬉しい。でも、また出ていくことも止めない」
「殿下は、そこが好きだったのです?」
「うん」
「なぜ?」
聞いてから、アマリリアは少し笑った。
「いえ。説明できなくても構いませんわ」
以前なら、理由を求めていた。
なぜ好きなのか。
何が良いのか。
きれいに言葉へしようとした。
今は、好きなら好きでいいことも知っている。
ライルもそれを覚えていたらしい。
「理由、全部は分からない」
「はい」
「でも、いいなと思った」
「それで十分ですわ」
ライルが嬉しそうに頷く。
次の料理が運ばれてきた。
白身魚を香草と一緒に焼いたものだった。表面は薄く焦げ、添えられた酸味のある果実ソースが香ばしさを引き立てる。
店員が皿を置き、静かに下がる。
扉が閉じてから、ライルが今度は尋ねた。
「君は?」
「私?」
「一番好きだったところ」
アマリリアはすぐには答えなかった。
劇場を出た時には、最後の港だと思っていた。
今も好きだ。
けれど、一番と言われると迷う。
「難しいですわね」
「一つじゃなくてもいいよ」
「そうですわね」
アマリリアは魚を一口食べ、ゆっくり考えた。
「採掘道のところも好きでした」
「道?」
「殿下の隣に座っていた方と同じみたいですけれど」
「理由は違いそう」
「たぶん」
アマリリアは少し笑う。
「古い地図に道が描いてある。でも、今も通れるとは限らない。実際に見て、人に聞いて、使えるか確かめる」
「うん」
「しかも、道が残っていても、隣村の土地へ入るなら勝手には使えない」
そこで言葉を止める。
仕事の話にしようと思えば、いくらでもできる。
制度。
記録。
現場確認。
権限。
今の自分なら、そこから王宮の仕事へ簡単につなげられる。
けれど今日は、それをしないと決めている。
「……面白かったです」
それだけで止めた。
ライルがこちらを見る。
「今、仕事の話にしようとした?」
「少し」
「我慢した?」
「いいえ」
アマリリアは首を振った。
「しなくてもいいと思っただけです」
ライルの目が少し丸くなる。
「劇の中の出来事として面白かった。それで今日は十分ですわ」
「そっか」
「殿下、なぜ嬉しそうなのです?」
「君が本当に仕事を持ち込まなかったから」
「約束しましたもの」
「うん。でも、劇の中にあれだけ材料があったから」
「材料と言わないでくださいませ」
「ごめん」
「殿下も仕事の目で見ておりますわよ」
「確かに」
二人で笑った。
アマリリアはその笑いの後で、ふと劇場で考えたことを思い出した。
「それと」
「うん?」
「ノエルが『また帰ってこられるように出る』と言ったところ」
ライルが静かになる。
「好きだった?」
「はい」
「俺も」
「知っております」
「さっき言ったから?」
「それもありますけれど、劇場で殿下が私の手を強く握りましたもの」
ライルが少し気まずそうな顔をした。
「気づいてた?」
「当然です」
「君も握り返した」
「……それも気づいていたのですね」
「当然」
今度はアマリリアが少し困る番だった。
視線を皿へ落とす。
けれど、話したかったことがある。
「私、少し羨ましいと思いました」
「ノエルが?」
「はい」
「どうして?」
「帰る場所があるからです」
言葉にすると、思ったより重く聞こえた。
ライルの表情がわずかに変わる。
アマリリアはすぐ続けた。
「今、帰る場所がないという意味ではありませんわ」
「うん」
「ベスター侯爵邸があります。お父様もいます。私はあの家が好きです」
それは迷いなく言える。
生まれ育った家。
父と暮らした場所。
嫌なことが一度もなかったわけではない。
婚約を押し付けられた時には本気で腹も立った。
それでも、自分の家であることは変わらない。
「でも、私は殿下と結婚したら、王家へ入りますでしょう?」
「……うん」
「もちろん分かっていたことです。今さら嫌になったわけでもありません」
「うん」
ライルは急かさない。
アマリリアが言葉を選ぶ間、静かに待っている。
「劇を見ていて、少しだけ考えましたの」
アマリリアは自分の指先を見る。
「新しい場所へ行くということは、今までの場所を離れることだと思っていたのかもしれません」
「ベスター家を?」
「はい」
「離れたくない?」
ライルの声に不安はなかった。
責める色もない。
ただ聞いている。
アマリリアはそれが嬉しかった。
「離れること自体が嫌なのではありません」
ゆっくり答える。
「でも、失いたくはありません」
「失わなくていいよ」
ライルの返事は早かった。
アマリリアが顔を上げる。
「君が俺と結婚したら、ベスター家がなくなるわけじゃない」
「ええ」
「帰りたくなったら帰ればいい」
「王太子妃になっても?」
「うん」
「将来、その先の立場になっても?」
ライルは少しだけ困った顔をした。
「毎日帰るのは難しいかもしれないけど」
「それは分かります」
「でも、帰っちゃいけない理由はないでしょう」
ライルは魚を食べる手を止めている。
真面目な顔だった。
「俺も一緒に行っていい?」
アマリリアは瞬いた。
「ベスター侯爵邸へ?」
「うん」
「お父様が嫌がりますわよ」
「それは知ってる」
「玄関で追い返されるかもしれません」
「君だけ入る?」
「殿下を置いて?」
「寂しい」
思わず笑ってしまった。
重くなりかけていた胸の内側が、少しほどける。
「お父様も、本当に追い返したりはしませんわ」
「本当?」
「たぶん」
「たぶん?」
「そこは私にも保証できません」
「怖いな」
「第一王子でしょう」
「ハロルド殿の前ではあまり役に立たない」
「よく分かっておりますわね」
二人で笑った。
それからアマリリアは、もう一つのことを口にした。
「それで、思いましたの」
「うん」
「帰る場所は、一つでなくてもいいのかもしれないと」
ライルが静かに聞いている。
「ベスター侯爵邸を大切にしたまま、殿下と新しい帰る場所を作ってもいい」
「……うん」
「まだ、それがどんな場所なのか分かりませんけれど」
王宮なのだろうか。
王族として暮らす宮殿の一室。
あるいは別の離宮。
もっと先には、国王と王妃として暮らす場所になるのかもしれない。
形は分からない。
それでも、建物そのものだけが「帰る場所」ではない気もしている。
「アマリリア」
「はい」
「俺は」
ライルが一度言葉を止めた。
いつものようにすぐ言うのではなく、少し考えている。
「君がいるところに帰りたい」
アマリリアの手が止まった。
今度こそ完全な不意打ちだった。
「……殿下」
「変だった?」
「変ではありませんけれど」
何と返せばいいのか分からない。
頬が熱い。
劇場ではあれほど人前で手をつないでいられたのに、二人きりの個室でこんなことを言われる方がずっと困る。
「ずるいですわ」
「何が?」
「私が真面目に考えていたのに」
「俺も真面目だよ」
「分かっております。だから困るのです」
ライルが少し笑う。
アマリリアは果実水へ手を伸ばした。
一口飲む。
もう一口。
「そんなに飲んだら料理入らなくなるよ」
「誰のせいです?」
「俺?」
「他に誰がいますの」
「ごめん」
「謝られるのも違います」
「難しい」
「私もです」
また笑った。
笑いながらも、ライルの言葉は胸に残っている。
君がいるところに帰りたい。
建物ではない。
立場でもない。
人。
それなら。
「……私も」
アマリリアはグラスを置いた。
ライルを見る。
「殿下が帰ってくる場所に、いたいですわ」
言った瞬間、今度はライルが固まった。
アマリリアは少しだけ満足した。
「殿下?」
「ちょっと待って」
「何を?」
「今、すごく嬉しい」
「知っております」
「顔に出てる?」
「かなり」
「隠した方がいい?」
「なぜです?」
「君、困るかなって」
アマリリアは首を振った。
「今日は構いません」
「今日だけ?」
「そこは今決めません」
「また?」
「全部を今決める必要はないのでしょう?」
劇の台詞を借りる。
ライルが笑った。
「うん」
「では、そういうことで」
「分かった」
料理は少し冷めてしまった。
それでも、二人とも急いで食べ直すことはなかった。
しばらく互いの顔を見て笑っていた。
◇◇◇
食事の後半は、再び軽い話へ戻った。
ノエルとミラのどちらがより面倒な性格か。
年配商人が貸した金を本当に返してもらえたのか。
師匠は百二十枚の地図を何日かけて整理させたのか。
採掘村の薬草は翌年どうなったのか。
答えのないことを好き勝手に想像する。
「師匠、絶対三日くらい徹夜させてますわ」
「でもノエル、途中で寝そう」
「寝たら地図筒で叩かれます」
「師匠そんなことする?」
「します」
「断定?」
「私の中ではします」
「じゃあミラは?」
「助けません」
「『関係ない』?」
「一回使いましたから、もう使いません」
「回数制なの?」
「同じ冗談を何度も繰り返すと面白くなくなります」
「厳しい」
「大事です」
そんな話をしているうちに、最後の甘味が運ばれてきた。
焼いた林檎に蜂蜜と砕いた木の実を添えたものだった。
温かな林檎へ匙を入れると柔らかく崩れ、甘い香りが立ち上る。
「これ好き」
ライルが一口食べてすぐ言った。
「殿下、甘いもの好きでした?」
「普通だと思う」
「では、これが特に?」
「うん」
アマリリアも食べてみる。
蜂蜜の甘さは強すぎず、林檎の酸味が残っている。
「美味しいですわね」
「でしょう?」
「なぜ殿下が得意そうなのです?」
「今日三回目だね」
「自覚があるなら直してくださいませ」
「でも君も好きだった」
「ええ」
「じゃあ成功」
「何の成功です?」
「店選び」
「王妃陛下が――」
「最後に決めたのは俺」
先ほどと同じやり取りになりかけて、二人とも同時に気づいた。
一瞬見つめ合う。
そして笑った。
「これは繰り返してしまいましたわね」
「面白くなかった?」
「少し面白かったので今回は許します」
「よかった」
アマリリアは焼き林檎をもう一口食べた。
劇場で笑った。
食事でも笑った。
真面目な話もした。
未来のことまで少し話した。
けれど、何一つ「決めなければならない話」にはならなかった。
それが心地よかった。
やがて食器が下げられ、店員が温かな茶を置いていった。
窓の外はすっかり暗い。
通りの灯りが石畳を淡く照らしている。
「さて」
ライルが言った。
「はい」
「ここから、どうする?」
アマリリアは窓の外を見た。
ここから先は、わざと決めていなかった。
劇場へ行く。
夕食を食べる。
その後は、その日の気分で決める。
以前の自分なら落ち着かなかったかもしれない。
何時にどこへ行き、何時に帰るのか。
決めておいた方が安全で効率的だ。
けれど、今は空白があることを楽しめる。
「殿下は何かしたいことがあります?」
「ある」
「ありますの?」
「うん」
「決めていなかったのでは?」
「予定には入れてないよ」
「では何です?」
ライルは少しだけ窓の方を見た。
「歩きたい」
「歩く?」
「少しだけ」
アマリリアは瞬いた。
「どこへ?」
「決めてない」
「目的地なしで?」
「うん」
「殿下」
「嫌?」
ライルの顔には、少しだけ期待がある。
アマリリアは窓の外を見る。
夜の王都。
劇場へ向かう時とは違う。
今から仕事へ行くわけでもない。
市場調査でもない。
何かを確かめる必要もない。
ただ歩く。
「……いいですわね」
「本当?」
「はい」
自分でも少し驚くほど、すんなり答えられた。
「ただし」
「うん」
「護衛の方々を困らせない範囲で」
「もちろん」
「知らない店を見つけても、勝手に入らない」
「うん」
「変わった荷車を見ても追いかけない」
「それ君の注意事項じゃない?」
「……そうですわね」
「あと、道の表示が分かりにくくても調べない」
「それは劇場でも言われました!」
「念のため」
「殿下も古い道を見つけても地図を取り出してはいけません」
「持ってきてない」
「よろしい」
「君も手帳持ってないよね?」
アマリリアは一瞬黙った。
ライルが見る。
「アマリリア?」
「持っておりません」
「今の間は?」
「いつもの癖で確認しただけです」
「本当に?」
「本当に」
二人で笑う。
「では」
アマリリアは立ち上がった。
「歩きましょうか」
「うん」
◇◇◇
店を出ると、夜の空気は思っていたより冷たかった。
アマリリアがわずかに肩をすくめると、ライルがすぐに気づいた。
「寒い?」
「少しだけ」
「馬車に戻る?」
「いいえ」
「でも」
「歩けば温まります」
そう答えたものの、ライルは少し心配そうだった。
アマリリアは笑う。
「本当に大丈夫ですわ」
「寒くなったら言って」
「はい」
護衛が少し距離を空けて前後につく。
ディーンも店の外で待っていたが、二人が少し歩きたいと伝えると、特に驚かなかった。
「承知しました。大通りから二本以上は離れないようお願いいたします」
「分かった」
「お戻りの際は、こちらか西広場へ馬車を回します」
「ありがとう」
「なお」
ディーンがアマリリアを見る。
「本日は視察ではございません」
「分かっております!」
「念のためです」
「皆様、私を何だと思っておりますの?」
少し離れた護衛の一人が視線を逸らした。
もう一人は口元を引き締めている。
笑いを堪えているのが分かる。
「今、笑いました?」
「いいえ」
「笑いましたわよね?」
「任務中ですので」
「答えになっておりません!」
ライルが横で笑っている。
「殿下も!」
「ごめん。でも、みんな同じこと考えてるんだなって」
「失礼ですわね」
「じゃあ、今日は証明しよう」
「何を?」
「君が何も調べずに夜の王都を歩けること」
アマリリアは眉を寄せた。
「なぜそれが挑戦のようになっているのです?」
「難しい?」
「簡単です!」
「じゃあ行こう」
「ええ!」
少し意地になった。
けれど、その意地すら楽しかった。
二人は並んで歩き始める。
夜の王都には、昼間とは違う音があった。
店を閉める木戸の音。
酒場から漏れる笑い声。
帰宅する荷馬車の車輪。
遠くで鳴る鐘。
焼いた肉やパンの残り香。
通り沿いの灯りが、灰青色のドレスと濃茶の上着を柔らかく照らす。
アマリリアはライルの手を取った。
今度は自分からだった。
ライルが少し驚いてこちらを見る。
「何です?」
「いや」
「手をつなぎたくなっただけです」
「うん」
「それ以上の理由はありません」
「聞いてないよ」
「では言わなくてよかったですわね」
「でも嬉しい」
「それも聞いておりません」
「言いたかった」
「仕方ありませんわね」
指を絡める。
市場の日にも歩いた。
王宮の廊下でも何度も手をつないだ。
それでも、夜の王都をこうして歩くのは初めてだった。
「殿下」
「うん?」
「どこへ向かっておりますの?」
「分からない」
「本当に決めていないのですね」
「うん」
「不安ではありません?」
「護衛もいるし、大通りも近いし」
「そういう意味ではなく」
アマリリアは前を見る。
「目的地がないことです」
ライルも少し考えた。
「不安じゃない」
「なぜ?」
「君と歩いてるから」
「……またそれですの?」
「駄目?」
「駄目ではありません」
アマリリアは小さく息を吐いた。
「今日は殿下が強いですわね」
「何に?」
「不意打ちに」
「そんなつもりないんだけど」
「それが一番困ります」
ライルは不思議そうな顔をした。
本当に狙っていないらしい。
だから余計に困る。
けれど、嫌ではない。
しばらく歩くと、小さな広場へ出た。
中央に噴水がある。
夜なので水は止められているが、石造りの縁に数人の若者が座って話していた。近くでは親子らしい三人が屋台で焼き菓子を買っている。
「何か買う?」
ライルが聞く。
「今、甘味まで食べたばかりでしょう」
「そうだった」
「殿下、食べられますの?」
「少しなら」
「意外ですわね」
「君は?」
「私は無理です」
「じゃあやめる」
「殿下が食べたいならどうぞ」
「一人で食べるのもなあ」
「では次の機会に」
「うん」
次の機会。
何気なく言った言葉だった。
けれど、それが自然に未来を含んでいることに気づく。
次がある。
また一緒に出かける。
今度は何をするのか分からない。
それでも、今日が最後ではない。
「アマリリア」
「はい?」
「次、どこ行きたい?」
ちょうど同じことを考えていたらしい。
「次ですか?」
「うん」
アマリリアは少し考える。
市場はまた行きたい。
劇場も別の演目があれば見たい。
ライルの好きな古い道を実際に歩くのも面白そうだ。
けれど、今すぐ一つに決める必要はない。
「まだ決めません」
「そっか」
「ですが」
ライルを見る。
「また出かけたいです」
「うん」
ライルが笑った。
「俺も」
それだけで十分だった。
広場を抜け、また通りへ入る。
目的地はない。
時間だけは少しずつ過ぎていく。
アマリリアは、こういう時間を以前なら「何もしていない」と考えたかもしれない。
今は違う。
ライルと歩いている。
話している。
同じ夜の景色を見ている。
それだけで、ちゃんと今日の一部になっている。
◇◇◇
少し歩いたところで、アマリリアは一軒の店の前で足を止めた。
小さな文具店だった。
もう閉店している。
窓の内側には、紙や封蝋、紐、木製の筆入れなどが並べられている。
「気になる?」
ライルが聞く。
「少し」
「入りたい?」
「閉まっていますわ」
「明日?」
「明日は仕事です」
「次の休み?」
アマリリアは窓越しに商品を見る。
小さな帳面があった。
革張りではない。
もっと簡素な、薄い冊子。
「殿下」
「うん?」
「二人の記録の話をしましたでしょう」
「劇場で?」
「はい」
ライルの古い道の本へ、自分が気づいたことも書いていいかと尋ねた。
ライルは「二人の記録にすれば」と言った。
「別に、殿下の本へ直接書かなくてもいいかもしれません」
「じゃあ?」
「二人で一冊、何か持つのはどうでしょう」
口にしてから、少し恥ずかしくなる。
仕事の記録ではない。
調査手帳でもない。
何を書くかも決めていない。
「今日見た劇とか?」
ライルがすぐ尋ねる。
「それでもいいですし」
「市場の日とか」
「それはもう私の手帳に押し花があります」
「じゃあ、次から」
「何を書くのです?」
「分からない」
ライルが笑う。
「でも、何か残したくなった時に書けばいいんじゃない?」
アマリリアは窓の向こうの小さな帳面を見る。
何を書くかを先に決めない。
用途も決めない。
必要になった時に書く。
「……いいですわね」
「買う?」
「今日は閉まっています」
「次に来よう」
「はい」
アマリリアは頷いた。
「次に」
予定は決めない。
けれど、忘れたくない。
「覚えておいてくださいませ」
「うん」
「私も覚えておきます」
「手帳に書かなくていい?」
「今日は持っておりません!」
「確認しただけ」
「絶対にからかっておりますわね?」
「少し」
「殿下!」
声を上げると、少し前を歩いていた護衛が肩を揺らした。
「また笑いました?」
「いいえ」
「今日は皆様、随分楽しそうですわね」
護衛は答えない。
ライルが笑っている。
アマリリアも結局笑った。
◇◇◇
歩き始めてから、どれくらい経ったのだろう。
大通りへ戻った時、遠くで夜の鐘が鳴った。
ディーンが少し離れたところから近づいてくる。
「そろそろお戻りになられるのがよろしいかと」
ライルがアマリリアを見る。
「どうする?」
「戻りましょう」
迷わず答えた。
もっと歩きたい気持ちもある。
けれど、名残惜しいくらいで終えるのも悪くない。
全部やり切らなくてもいい。
「馬車は西広場へ回しております」
「ありがとう」
ディーンの案内で歩き始める。
帰り道。
その言葉が、今日は少し違って聞こえた。
「ライル様」
「うん?」
「劇の話へ戻ってもいいです?」
「もちろん」
「ノエルが言っていたでしょう。『また帰ってこられるように出る』と」
「うん」
「私、さっきまで帰る場所について考えておりました」
「うん」
「でも」
アマリリアはつないだ手を見る。
「帰る場所を作るには、出かけることも必要なのかもしれませんわね」
ライルが少し考える。
「どういうこと?」
「今日みたいに」
劇場へ行った。
夕食を食べた。
夜の王都を歩いた。
閉まった文具店の前で、二人のための帳面を買おうと話した。
「王宮や家の中だけで一緒にいても、もちろん二人の時間は作れます。でも、こうして外へ出たからできた話もありますでしょう?」
「うん」
「それを持って帰る」
アマリリアはゆっくり言葉を選んだ。
「そうやって、帰る場所にも少しずつ二人のものが増えていくのかもしれません」
ライルが黙る。
少し長い沈黙だった。
アマリリアは不安にはならなかった。
彼が考えている時の沈黙だと分かるからだ。
「じゃあ」
やがてライルが言った。
「いっぱい出かけよう」
「極端ですわね」
「駄目?」
「仕事もあります」
「うん」
「王子としての予定もあります」
「うん」
「私にもあります」
「うん」
「ですから、いっぱいというのが毎日の意味なら無理です」
「そこまでじゃない」
「では」
アマリリアは笑った。
「少しずつ、増やしましょう」
「うん」
「劇場も」
「うん」
「市場も」
「うん」
「知らない場所も」
「うん」
「ただし、視察にしないこと」
「それ大事」
「殿下もですからね?」
「分かってる」
西広場が見えてくる。
馬車が待っている。
今日の外出が終わりへ近づいている。
アマリリアは少しだけ寂しかった。
けれど、それを悪い感情だとは思わなかった。
楽しかったから、終わるのが惜しい。
それだけだ。
◇◇◇
帰りの馬車でも、ライルは隣へ座った。
今度はアマリリアも何も言わなかった。
窓の外を王都の灯りが流れていく。
馬車の揺れは穏やかで、劇場へ向かった時より街路の人影は少ない。
「疲れた?」
ライルが聞く。
「少し」
「寝てもいいよ」
「今日は寝ません」
「市場の帰りは寝たのに」
「あれは不覚でした」
「俺は嬉しかったけど」
「知っております」
「また肩貸すよ」
「今日は起きていたいのです」
「どうして?」
アマリリアは窓の外を見る。
「今日が終わるところまで、ちゃんと覚えていたいので」
言ってから、自分でも少し気恥ずかしくなった。
ライルは笑わなかった。
「そっか」
「はい」
「じゃあ俺も起きてる」
「殿下は最初から寝る予定ではないでしょう」
「一緒に覚えてる」
「……そうしてくださいませ」
アマリリアは少しだけライルへ身体を寄せた。
肩へ頭を預けるほどではない。
腕が触れる程度。
それでもライルは気づき、少し姿勢を調整してくれた。
「今日、楽しかった?」
尋ねられる。
アマリリアはすぐに答えた。
「はい」
「どれくらい?」
「なぜ数にしようとするのです?」
「聞きたくなった」
「とても楽しかったです」
「本当?」
「殿下」
「ごめん」
「ですが」
アマリリアはライルを見る。
「劇場へ行く前より、今の方が次のデートを楽しみにしております」
ライルが固まった。
今日は何度か見た顔だ。
嬉しい言葉を受け取った時、彼は一瞬だけ反応が遅れる。
「それ」
「はい?」
「もう一回言って」
「嫌です」
「何で!?」
「聞いていたでしょう」
「聞いたけど」
「なら十分です」
「今日の分の回数制?」
「その制度は廃止しました!」
「じゃあもう一回」
「嫌です!」
アマリリアは笑った。
ライルも笑う。
馬車の中に二人の声が響く。
御者台までは届かない程度の、小さな笑いだった。
しばらくして静かになる。
窓の外には王宮へ続く道が見えてきた。
帰る。
今夜は、それぞれの部屋へ。
まだ同じ場所へ帰るわけではない。
婚姻までは時間がある。
けれど、いつか。
ライルが帰ってくる場所に自分がいて、自分が帰る場所にライルがいる。
そんな暮らしになる。
以前なら、その未来を考えれば王太子妃としての責任や仕事が先に浮かんだかもしれない。
今も、それらが消えたわけではない。
消す必要もない。
ただ、その中に生活がある。
食事をする。
劇を見に行く。
道を歩く。
言い合う。
笑う。
何でもないものを買う。
帰ってくる。
そういうことも、同じくらい未来の一部なのだ。
「ライル様」
「うん?」
「次のデート」
「うん」
「急いで決めなくていいですけれど」
「うん」
「今日みたいに、仕事とは関係ないところへ行きましょう」
ライルが笑った。
「約束?」
「はい」
「じゃあ約束」
つないでいた手に、もう一度力が込められる。
アマリリアも握り返した。
王宮の門が近づく。
今日のデートは、もうすぐ終わる。
それでも、寂しさだけではなかった。
終わったら、次がある。
外へ出て、また帰る。
そして帰った場所に、今日の記憶が一つ増える。
ノエルの地図には、『ここから先は、まだ見ていない』と書かれていた。
自分たちの先にも、まだ見ていない場所がたくさんある。
どこへ行くのか。
どんな暮らしになるのか。
何を好きになり、何で言い合い、どんなことで笑うのか。
今はまだ分からない。
けれど、空白だからといって、先に全部埋めなくていい。
今日のように一つずつ出かけて、一つずつ持ち帰りながら、二人で書き足していけばいいのだ。
王宮の灯りが馬車の窓へ差し込む。
アマリリアはその光を眺めながら、今日という一日が終わることを、以前ほど惜しいとは思わなくなっていた。
次があると、もう知っているからだった。




