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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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82/111

第82話 帰る場所は一つだと思っていた地図職人が、『また出ていくために帰る』と言ったので少しだけ羨ましくなりました


 雪の残る坂道を、ノエルはゆっくりと下っていた。


 前半の終盤で別れた時より、荷物が増えている。肩に掛けた地図筒は二本になり、背負った革袋の横には小さな木箱まで括りつけられていた。旅の途中で集めたものなのか、歩くたびに箱の中から硬いもの同士が触れ合う乾いた音が聞こえる。


 舞台奥に描かれた山はまだ白いが、足元にはところどころ茶色い地面が見えていた。冬の終わりなのだろう。細い笛の音に混じって、水が滴るような小さな音が響いている。


 アマリリアは、ライルとつないだ手をそのままに舞台を見つめた。


 ノエルがどこへ向かっているのかは、まだ分からない。


 西の山へ行くつもりだった彼が、結局どこまで行ったのかも説明されていない。


 ただ、歩き方が前半とは違う。


 最初に港を出た頃は、前だけを見ていた。旅の途中でも、知らない道を見つければすぐそちらへ向かおうとしていた。


 今は、ときどき足を止める。


 道端の石を見る。


 雪解け水の流れを見る。


 遠くの村を眺める。


 そして地図を開かず、また歩き始める。


「地図を見ませんね」


 アマリリアが声を落とした。


「うん」


 ライルも同じことに気づいていたらしい。


「道を覚えたのでしょうか」


「それもありそうだけど……」


 ライルはそこで言葉を止めた。


 舞台上のノエルが、小さな分かれ道へ差しかかったからだ。


 右には町を示す木札。


 左には何もない。


 ノエルは一度だけ立ち止まり、右へ進んだ。


 客席から小さな笑いが漏れた。


 前半の彼なら、何も書かれていない左へ行きそうだと、多くの観客が思ったのだろう。


 アマリリアもそう思った。


 隣でライルがわずかに肩を揺らす。


「成長しましたわね」


「何が?」


「何も書かれていない道へ毎回突っ込まなくなりました」


「それだけで成長判定するの?」


「大事でしょう」


「君も?」


 アマリリアは一拍置いた。


「……私は昔から、もう少し慎重です」


「本当に?」


「殿下」


「はい」


 小さく笑い合ったところで、ノエルが町へ入った。


          ◇◇◇


 山の麓にある小さな町だった。


 舞台の左右には低い建物が並び、中央に小さな広場がある。港町ほど人は多くないが、冬を越えたばかりの町には活気が戻り始めているらしく、屋根から雪を落とす男や、店先へ商品を並べる女性たちが行き交っていた。


「ノエル!」


 突然、舞台袖から声が飛ぶ。


 ノエルが振り返る。


 そこに立っていたのは、前半でミラと一緒に南へ向かった年配の商人だった。


「あれ?」


「お前、何でここにいる!」


「そっちこそ」


「私は商人だぞ!」


「俺は地図職人だよ」


「答えになってない!」


 客席が笑う。


 年配商人はノエルへ歩み寄ると、その肩や荷物を遠慮なく見回した。


「冬を山で越したのか?」


「麓の村で」


「馬鹿か」


「宿はあったよ」


「そういう話じゃない。春まで動けなくなると分かっていて西へ行ったのか」


「分かってた」


「もっと馬鹿だ」


 ノエルが苦笑する。


 以前なら反発していたかもしれない。


 しかし今は「そうかも」と受け流している。


「ミラは?」


 ノエルが聞いた。


 何でもないような声を作っている。


 けれど、客席には分かる。


 聞きたかったのだ。


 年配商人も分かったらしい。


 わざとらしく眉を上げた。


「誰だって?」


「ミラ」


「知らんなあ」


「一緒に南へ行っただろ」


「そんな名前だったかな」


「赤茶色の髪で、口が悪くて、荷車を――」


「ずいぶん詳しいな」


 客席から笑いが起こる。


 ノエルは言葉に詰まった。


 アマリリアも思わず笑う。


 ライルが隣で囁いた。


「絶対わざとだ」


「ええ」


「この人、前半から好きだな」


「殿下は師匠といい、年上の男性ばかり気に入りますわね」


「変?」


「いいえ。少し面白いだけです」


 舞台では、年配商人がようやくノエルを解放した。


「ミラなら、春になってすぐ北へ向かった」


「北?」


「西の薬草を仕入れるとか言ってな」


 ノエルが固まる。


 客席からざわめきが起こった。


 アマリリアもすぐに思い出した。


 前半で年配商人が暴露していた。


 ミラは春の仕入れ先を、ノエルが行きそうな町へ変えていた。


「……いつ?」


「五日前」


「どの道?」


「西街道から旧採掘村を抜ける方だ」


 ノエルが即座に地図筒へ手を伸ばす。


 しかし途中で止まった。


 年配商人を見る。


「何だ」


「それ、本当に仕入れ?」


「本人に聞け」


「……そうする」


「追うのか?」


 ノエルは答えない。


 今度こそ地図を取り出した。


 広げる。


 町から北西へ延びる道を指でなぞる。


 五日の差。


 荷車と徒歩。


 街道の状態。


 宿場。


 ノエルの目が忙しく動く。


「走れば二日で追いつく」


 小さく呟いた。


 年配商人が呆れた顔をする。


「走るのか?」


「途中で荷馬を借りる」


「金は?」


 ノエルが止まる。


 客席から笑いが起きる。


「……ない」


「地図職人」


「はい」


「お前、三年旅して何を学んだ」


「金は必要」


「遅い!」


 劇場全体が笑いに包まれた。


 アマリリアも肩を揺らした。


 隣ではライルが完全に笑っている。


「好きですわね、あの方」


「うん」


「殿下の側近に欲しいです?」


「ディーンがいるから大丈夫」


「即答ですのね」


「ディーンに聞かれたら怒られる」


「賢明です」


 二人の小声も笑いへ溶ける。


 舞台では年配商人が財布を取り出していた。


「貸す」


「いいの?」


「利子を取る」


「いくら?」


「ミラに追いついたら、帰りに港まで荷を一つ運べ」


 ノエルが眉を寄せる。


「港?」


「嫌なら貸さない」


 ノエルは黙った。


 港。


 その言葉だけで、また表情が変わる。


 年配商人は急かさない。


 財布を手にしたまま待つ。


「……何を運ぶ?」


「まだ決めてない」


「重い?」


「たぶん」


「壊れ物?」


「知らん」


「それで契約しろって?」


「嫌なら走れ」


 ノエルはしばらく考え、手を差し出した。


「借りる」


「よし」


「ただし、荷物の大きさは荷馬一頭で運べる範囲」


「細かいな」


「商人相手だから」


「成長したじゃないか」


 そこでまた笑いが起こる。


 ノエルは借りた金を握り、舞台袖へ駆けていった。


 年配商人はその背中を見送る。


「港まで、な」


 先ほどまでの笑いを少しだけ消し、静かに呟いた。


 アマリリアはその台詞を聞き逃さなかった。


 ライルも同じらしい。


 つないだ指が小さく動いた。


 ノエルはミラを追う。


 けれど、年配商人との約束によって、その先に港へ戻る道が置かれた。


 偶然なのか。


 年配商人が意図したのか。


 まだ分からない。


 アマリリアは結論を作らず、次の場面を待った。


          ◇◇◇


 ミラは旧採掘村にいた。


 ところが、薬草を仕入れている様子はない。


 村の広場で、数人の住民と荷車の車輪を囲んでいた。


「だから、このままじゃ南へ運べないって言ってるでしょう!」


「でも、去年まではこの道を使ってたんだ!」


「去年と今年で崩れてる場所が違うのよ!」


 どうやら冬の雪解けで街道の一部が崩れ、荷車が通れなくなったらしい。


 村では春に採れる薬草を南へ売る予定だった。


 しかし荷車が通れない。


 別の道は遠い。


 小さな荷なら背負って運べるが、量が多い。


 村人たちは困っている。


 ミラも困っている。


「荷馬だけなら?」


「通れると思う」


「何頭ある?」


「村に六頭」


「足りない」


「隣村から借りる?」


「向こうも春の運搬で使う時期よ」


 アマリリアは舞台を見つめた。


 前半の川越えと似ている。


 けれど同じではない。


 あの時は急ぐ荷だけを分けた。


 今回は道そのものが使えない。


 ミラは何度も村人へ尋ねる。


 いつ崩れたのか。


 人は通れるのか。


 荷馬は。


 別の道は。


 以前使われていた採掘道は。


「採掘道ならある」


 年老いた村人が言う。


「どこ?」


「山の裏だ」


「荷馬は通れる?」


「昔は鉱石を運んでた」


「今は?」


「二十年使ってない」


 ミラが額を押さえた。


「それを『通れる』とは言わないのよ」


 客席から笑いが起きる。


 しかし、そこで村の若者が言った。


「地図ならある」


 古い倉庫から一枚の紙が運ばれてくる。


 広げる。


 古い採掘道が描かれている。


 けれど線は途中で途切れていた。


「ここから先は?」


「地図が古すぎて分からない」


「誰か歩いた人は?」


「いない」


「……駄目ね」


 ミラが即答した。


 アマリリアは少し驚いた。


 前半なら、ノエルの地図を手掛かりに村へ聞きに行った。


 今回は、古い地図だけでは動かない。


 危険が分からないからだ。


「まず人だけで見に行く。荷馬は連れていかない」


 ミラが言う。


「私と、道を知ってる人。二人か三人。今日中に戻れるところまで見て、駄目なら諦める」


 村人が頷く。


「薬草は?」


「全部を一度に運ぼうとしない。傷みやすい分だけ背負って、残りは別の道を考える」


 そこでアマリリアは、前半の川の場面を思い出した。


 全部を同じ方法で運ばない。


 急ぐものだけ分ける。


 劇の中でミラ自身も、旅をしながら少しずつ変わっている。


 アマリリアはそれを面白く感じた。


 仕事として見る必要はない。


 それでも、人が経験から変わっていく物語は好きだ。


「行くなら俺も」


 声がした。


 ミラが振り返る。


 舞台袖からノエルが現れた。


 客席が一斉にざわめく。


 隣の年配女性が小さく「来た」と言った。


 ライルの手にも力が入る。


 アマリリアも思わず握り返した。


 ミラは驚いている。


 ノエルも息を切らしている。


 どうやら本当に急いできたらしい。


「……何でいるの?」


「追ってきた」


 ノエルは息を整えながら答える。


「誰を?」


「君を」


 客席から小さな歓声が上がった。


 アマリリアも少しだけ目を見開いた。


 前半のノエルなら、絶対にそんな言い方はしなかっただろう。


 ミラも同じらしい。


 完全に言葉を失っている。


「何で?」


「話がある」


「今?」


 ミラは崩れた街道の方向を指さした。


「見れば分かるでしょう。今それどころじゃないの」


「分かってる」


「じゃあ待って」


「うん」


 ノエルは素直に頷いた。


 そして古い採掘道の地図を見る。


「これ?」


「そう」


「古いね」


「見れば分かる」


「誰が描いた?」


「知らない」


「採掘場が閉じたのは?」


「二十年前」


「その後に山崩れは?」


 ミラがノエルを見る。


「……二度」


「じゃあ地図の線はかなり怪しい」


「だから人だけで確認に行くところ」


 ノエルが頷いた。


「一緒に行く」


「話は?」


「帰ってから」


「急いで追ってきたんでしょう?」


「うん」


「だったら先に言えば?」


「今それどころじゃないって言ったの君だろ」


「……そうだけど」


 客席から笑いが起きる。


 ミラは不満そうな顔をしながらも、口元が少しだけ緩んでいた。


 アマリリアも笑った。


「前半なら言い合っている間に話が逸れていましたわね」


「うん」


「ノエル、待てるようになりました」


「誰かさんみたいだね」


 アマリリアは隣を見た。


「誰のことです?」


「通知の結果を明後日まで待てる人」


「……劇を見てくださいませ」


「はい」


 けれど、アマリリアも笑っていた。


          ◇◇◇


 採掘道の確認には、ノエルとミラ、村の若者二人が向かった。


 舞台の雰囲気が少し緊張したものへ変わる。


 細い山道。


 崩れた石。


 雪解け水。


 古い木橋。


 地図に残る道と、今ある道が少しずつ違う。


 ノエルは地図を見ながら歩くが、地図だけで進まない。


 足元を見る。


 木々の間を見る。


 村の若者へ尋ねる。


「この沢、昔から?」


「子供の頃にはあった」


「二十年前は?」


「分からない」


「じゃあ地図より新しい」


 地図へ書き込む。


 少し進む。


 古い道が崩れている。


 別の踏み跡がある。


「こっちは?」


「炭焼きが使う道だと思う」


「荷馬は?」


「人しか通らない」


 ノエルは少し考え、首を振る。


「使わない方がいい」


 ミラが見る。


「行ってみないの?」


「荷馬が通れないなら、今回必要な道じゃない」


 アマリリアはそこで少し笑った。


 最初のノエルなら「地図にない道だから」と行ったかもしれない。


 今は、何のために道を探しているのかを忘れない。


 劇の中の人物が変わっている。


 それを台詞で「成長した」と説明せず、選ぶ道で見せている。


 アマリリアはこの演目がますます好きになった。


 しばらくして、四人は古い採掘道の途中で立ち止まった。


 大きな岩が道を塞いでいる。


 人なら横を通れる。


 荷馬は無理だ。


「駄目ね」


 ミラが言う。


 村の若者が悔しそうに岩を見る。


「何とか動かせないか?」


「この大きさは無理だ」


 ノエルが周囲を見回す。


 岩の上。


 斜面。


 古い道。


 そして少し離れた場所に残る石積み。


「これ、何?」


「昔の水路じゃないか?」


 若者が答える。


 ノエルが近づく。


 地図を見る。


「地図にはない」


「じゃあ新しい?」


「いや」


 石積みに苔が厚く付いている。


「たぶん地図より古い」


 客席が静かになる。


 ノエルは水路跡をたどる。


 岩を大きく回り込むように続いている。


 途中で崩れているが、幅はある。


「荷馬一頭ずつなら通れるかもしれない」


 ミラが眉を寄せる。


「かもしれない、で連れてこないわよ」


「分かってる」


「じゃあ?」


「今日は人だけで最後まで見る。傾斜と崩れ方を確認して、村に戻って相談する」


 ミラが少し驚いた顔をした。


「何?」


「いや」


「何?」


「あんた、本当にノエル?」


「どういう意味だよ」


「前なら『行ってみよう』って荷馬まで連れてきそう」


「俺を何だと思ってるの?」


「地図を見ると周りが見えなくなる人」


「昔の話だろ!」


「半年くらい前よ!」


 客席が笑う。


 アマリリアも声を抑えた。


 ライルが隣で肩を揺らしている。


「半年は昔です?」


「場合による」


「では、殿下が市場デートで――」


「昔です」


「早いですわね!」


 今度はアマリリアが笑う番だった。


 舞台では四人が水路跡を進み始める。


 その先が本当に使えるかは、まだ分からない。


 劇はそこを簡単に成功させなかった。


 途中には急な傾斜があり、一か所は補修しなければ荷馬が滑りそうだった。


 さらに村まで戻って相談すると、年配の村人から別の問題も出た。


「その水路跡、隣村の山へ入るぞ」


「隣村?」


 ミラが聞き返す。


「昔は採掘場が両方の村にまたがってた。今は境の扱いが違う」


「勝手に荷を通せない?」


「聞いた方がいい」


 ノエルが地図を見る。


 ミラを見る。


 二人とも同時に息を吐いた。


「道があっても、通っていいとは限らない」


 ノエルが言う。


「当たり前でしょう」


「地図には書いてない」


「だから地図を信じすぎるなって書いたのよ」


「何?」


 ミラが止まった。


 しまった、という顔をする。


 ノエルが食いつく。


「今、何て?」


「何でもない」


「俺の地図に何か書いた?」


「書いてない」


「絶対書いた」


「今は道の話でしょう!」


「俺の地図も大事だ!」


 客席が笑う。


 ミラは顔を逸らす。


 ノエルは少し嬉しそうだった。


 アマリリアはその様子を見ながら、胸の奥が温かくなる。


 地図が誰かの手に渡り、その人が使い、その人の知ったことが書き足される。


 最初にノエルが描いた時とは違う地図になる。


 けれど、壊れたわけではない。


 むしろ増えている。


「ライル様」


「うん?」


「今度、古い道の記録を読む時」


「うん」


「私も何か気づいたら、余白へ書いてよろしいです?」


 ライルがすぐこちらを見た。


「いいの?」


「殿下の本ですから、嫌なら別紙にします」


「書いて」


 返事が早い。


「そんなに即答します?」


「君が何を気にしたか残るから」


 アマリリアは少しだけ言葉に詰まった。


 道の情報そのものではなく、自分が何を見たか。


 それが残ることを喜ぶらしい。


「では、勝手に書き込みすぎないよう気をつけます」


「いっぱい書いていいよ」


「それでは殿下の記録ではなくなります」


「二人の記録にすれば?」


 舞台を見ていたはずなのに、アマリリアの意識が一瞬だけ隣へ引かれた。


 ライルは特別なことを言った顔をしていない。


 ただ自然にそう言った。


 二人の記録。


 市場の日に押し花を挟んだ手帳。


 服を選んだ日の記憶。


 古い道の本。


 少しずつ、彼のものと自分のものの間に「二人のもの」が増えている。


「……考えておきます」


「嫌?」


「いいえ」


 アマリリアは小さく首を振った。


「嬉しいので、少し考えているだけです」


 ライルが笑った。


 つないだ手が温かい。


          ◇◇◇


 採掘道の問題は、その場では解決しなかった。


 隣村へ人を送り、通行について相談する。


 補修できるかも確認する。


 それまでは、傷みやすい薬草だけを人が背負って運ぶ。


 残りは村で乾燥させ、少し保存期間を延ばす。


 ミラは予定していた量を一度に買えなくなった。


 村も予定通りには売れない。


 誰にとっても完全な解決ではない。


 それでも、できることから始める。


 アマリリアはその描き方が気に入った。


 大きな岩を皆で動かして道が開通し、すべて丸く収まるような展開ではない。


 道はまだ使えない。


 薬草も全部は運べない。


 それでも話は前へ進む。


 村での相談が終わる頃には、舞台の空が夕方の色へ変わっていた。


 ノエルとミラは宿の裏手にある小さな井戸のそばへ移動する。


 ようやく二人きりになった。


 客席の空気が変わる。


 前半から待たされていた話が、ようやく始まる。


 ミラが先に口を開いた。


「で?」


「何?」


「追ってきたんでしょう」


「うん」


「話は?」


「ある」


「聞いてる」


 ノエルは黙る。


 ミラが眉を寄せる。


「ここまで来て黙るの?」


「言い方を考えてる」


「走ってる間に考えなかったの?」


「道を考えてた」


「地図職人!」


 客席から笑いが起こる。


 ノエルも苦笑した。


 けれど、今度は逃げなかった。


「この前は、ごめん」


 ミラが少し目を見開く。


「『関係ない』って言ったこと」


「……ああ」


「関係あった」


 客席が静まる。


 ノエルは言葉を探しながら続ける。


「君が港へ帰るのかって聞いたのは、たぶん、俺がどうするのか知りたかったからだろ」


「今さら?」


「今さら」


「遅い」


「うん」


 ミラは腕を組む。


「それで?」


「俺、港に帰りたくないんじゃなかった」


 アマリリアは息を浅くした。


 隣でライルも動かない。


「帰ったら、終わる気がしてた」


 ノエルが言う。


「何が?」


「旅が。外に出たことが。知らない場所を見たいって思って港を出たのに、帰ったら『やっぱり港が一番だった』ってことになる気がしてた」


 ライルが休憩中に言っていたことと近い。


 帰ったら、外へ出た意味がなくなると思っているのではないか。


 アマリリアは隣を見なかった。


 ライルも舞台を見ているはずだ。


 今はノエルの言葉を聞きたかった。


「馬鹿ね」


 ミラが言った。


 客席に小さな笑いが起こる。


「うん」


「帰ったら旅が消えるの?」


「消えない」


「描いた地図は?」


「残る」


「見たものは?」


「覚えてる」


「じゃあ何で?」


「分からなかったんだよ」


 ノエルは少し笑った。


「港にいた頃は、外へ出ることばっかり考えてた。出た後は、戻らないことばっかり考えてた」


 そこで一度、息を吐く。


「どっちも、港に決めてもらってたんだと思う」


 ミラが黙る。


「出たいから出るんじゃなくて、港にいたくないから出る。帰りたくないから旅する。そうしてるうちは、どこにいても港のことばっかり考えてた」


 ノエルは苦笑する。


「それに気づいたら、馬鹿みたいだった」


「気づくの遅いわよ」


「うん」


「三年よ?」


「うん」


「私は半年しか付き合ってないのに、何回あんたの地図を拾ったと思ってるの」


「それは関係ないだろ」


 ノエルが言ってから、はっとする。


 ミラの目が細くなる。


 客席から大きな笑いが起こった。


「今のは違う!」


「学習してないじゃない!」


「言葉の意味が違う!」


「同じよ!」


「違うって!」


 重くなりかけた場面が一気に崩れた。


 アマリリアも堪えきれず笑った。


 ライルも隣で声を殺している。


「駄目ですわね」


「うん」


「ライル様も気をつけてくださいませ」


「今の見た後だと本当に気をつける」


 二人で笑いながら、また舞台へ意識を戻す。


 ミラはしばらく怒っていたが、やがて自分でも笑ってしまった。


「それで、帰るの?」


 もう一度尋ねる。


 今度のノエルは逃げなかった。


「帰る」


 短い答えだった。


 ミラの表情が少しだけ動く。


「港へ?」


「うん」


「ずっと?」


「それは分からない」


 ミラが眉を寄せる。


 ノエルは続けた。


「また出ると思う」


「何それ」


「帰って、師匠に地図を見せる。三年分あるから、たぶん怒られる」


「何で?」


「整理してない」


「怒られなさい」


「それから港の地図も描き直す」


「外を見たのに?」


「外を見たから」


 ノエルの声が少し柔らかくなる。


「前に描いてた港と、今見える港が同じか確かめたい」


 アマリリアの胸に、その言葉が静かに落ちた。


 同じ場所へ戻る。


 けれど、見る人が変わっている。


 だから、同じものが同じように見えるとは限らない。


「その後は?」


 ミラが尋ねる。


「また出る」


「どこへ?」


「決めてない」


「またそれ?」


「でも今度は、帰る場所をなくすために出るんじゃない」


 ノエルは笑った。


「また帰ってこられるように出る」


 客席が静かになった。


 アマリリアは、なぜかつないだ手に力を込めた。


 ライルもすぐに返してくる。


 また帰ってこられるように出る。


 外へ行くことと、帰ることは反対ではない。


 どちらかを選べば、もう片方を捨てなければならないわけではない。


 アマリリアはノエルが少し羨ましいと思った。


 彼には港がある。


 出ていく場所でもあり、戻ってくる場所でもある。


 自分にもベスター侯爵邸がある。


 父がいる。


 長く暮らした部屋がある。


 そして、これから王家へ嫁ぐ。


 いつか生活する場所が変わる。


 役割も変わる。


 それでも、どこか一つを選んだら、他を失うわけではないのかもしれない。


 今までの家を大切にしながら、新しい場所を作ってもいい。


 その考えは、まだ輪郭が曖昧だった。


 けれど、嫌ではなかった。


「じゃあ」


 ミラが言う。


「私は?」


 ノエルが固まった。


 客席の空気が一変する。


 アマリリアも瞬きを忘れた。


「え?」


「港へ帰る話は分かった。師匠に地図を見せるのも分かった。また旅に出るのも分かった」


 ミラが一歩近づく。


「私は?」


「……どういう意味?」


「本気で言ってる?」


「いや、分かるけど」


「じゃあ答えて」


 ノエルは困った顔をする。


 客席のあちこちから、笑いを堪える気配がする。


「一緒に港へ来る?」


「何で疑問形なのよ」


「勝手に決めたら怒るだろ」


「それは怒る」


「じゃあどう言えばいいんだよ!」


 とうとう客席から笑いが起こった。


 ミラも少しだけ笑う。


「聞けばいいでしょう」


「今聞いた」


「もっとちゃんと」


「難しいな……」


「地図より簡単よ」


「地図は喋らないから」


「だからあんた、地図ばっかり見てたのね」


 ノエルは頭を掻いた。


 そして、今度は真っ直ぐミラを見る。


「港へ一緒に来てほしい」


 ミラは黙る。


「その後も」


 ノエルが続ける。


「俺がまた旅に出る時、もし行き先が重なってたら、一緒に行きたい」


「重なってなかったら?」


「途中で合流する」


「どこで?」


「決める」


「ちゃんと?」


「場所と日を決める」


「遅れたら?」


「待つ」


「何日?」


「そこまで決めるの?」


「商人には予定が必要なの」


「じゃあ相談して決める」


 ミラはしばらくノエルを見つめた。


 やがて、ふっと笑う。


「少しは成長したわね」


「少し?」


「少し」


「三年旅したんだけど」


「私は半年しか知らないもの」


「じゃあ半年分?」


「そうね」


 ミラは手を差し出した。


「港へ行くわ」


 ノエルがその手を見る。


 握る。


「その後は?」


「それは港で考える」


「決めてないの?」


「今、全部決める必要ある?」


 ノエルが一瞬黙り、それから笑った。


「ないな」


 二人の手がつながった。


 客席から大きな拍手が起きる。


 まだ幕は下りていない。


 けれど、多くの観客が堪えられなかったのだろう。


 アマリリアも右手で拍手した。


 左手はライルとつながったままだ。


「ライル様」


「うん?」


「私たちも、似たようなことを言っておりますわね」


「何が?」


「全部を今決めなくていい、と」


「そうだね」


 ライルが舞台の二人を見ながら笑う。


「でも、あの二人よりは俺たちの方が話し合えてると思う」


「当然です」


「最初から?」


 アマリリアは少し考えた。


 最初。


 第一王子を脅した日。


「……現在の話をしましょう」


「逃げた」


「劇を見てくださいませ!」


 ライルが笑う。


 アマリリアも自分でおかしくなった。


          ◇◇◇


 そこから港へ戻るまでが、すぐに描かれることはなかった。


 ノエルとミラはまず旧採掘村の問題を途中で放り出さなかった。


 隣村との相談結果を待ち、水路跡の一部を補修する。


 荷馬一頭だけで試す。


 最初の一頭が無事に通る。


 それでも六頭全部を一度に通さない。


 二頭ずつ。


 人が前後につく。


 荷物も軽めにする。


 劇の中で数日が過ぎる。


 アマリリアはその描写を嬉しく思った。


 恋愛の話が動いたからといって、目の前の問題が消えるわけではない。


 二人は自分たちの話をしながら、村でやるべきことも続ける。


 最後の薬草が水路跡を通った時、村人たちから歓声が上がった。


 しかしミラは言う。


「来年もこの道を使えると思わないで。雪解けの後は毎年確認して」


 ノエルも地図へ書き込む。


『春、使用前に必ず確認。隣村への連絡必要。』


 その下に、ミラが勝手に書いた。


『地図を信じすぎないこと。』


「やっぱり書いてる!」


「今さら?」


「俺の地図だぞ!」


「間違ってないでしょう?」


「間違ってないけど!」


「ならいいじゃない」


「俺が書きたかった!」


「子供?」


 客席が笑う。


 ノエルは不満そうにしながらも、その文字を消さなかった。


 アマリリアはその様子を見て、またライルの古い記録のことを思い出した。


 二人の記録。


 今度、本当に何か書いてみようか。


 仕事のためではなく。


 ライルが好きな古い道を、一緒に読んだ時に自分が気づいたことを残す。


 それは少し楽しそうだった。


 舞台の季節が進む。


 山の雪が消える。


 木々が緑へ変わる。


 ノエルとミラは港へ向かう。


 途中で商売をし、地図を描き、また喧嘩する。


 しかし前半とは違う。


 別れる時には次に会う場所を決める。


 予定が変われば、伝言を残す。


 ノエルはミラの商売の予定を聞く。


 ミラはノエルが地図を描く時間を最初から予定へ入れる。


 どちらかが全部相手へ合わせるのではない。


 互いのやりたいことを残しながら、一緒に進む方法を探している。


 その積み重ねを、劇は急がず見せた。


 やがて、舞台奥に青い海が戻った。


 最初と同じ港町。


 同じ倉庫。


 同じ宿屋。


 同じ坂道。


 けれど、少し違う。


 倉庫の壁にはさらに新しい板が増えている。


 港の標識も変わった。


 最初に走り回っていた少年は少し背が伸び、今は小さな荷物を抱えて働いている。


 魚籠の女性は相変わらず大きな声で値段を叫んでいる。


 港の鐘が鳴った。


 ノエルが坂道の上で立ち止まる。


 ミラも隣にいる。


「帰ってきたわね」


 ミラが言う。


「うん」


「どう?」


 ノエルはすぐには答えなかった。


 港を見る。


 長い時間をかけて見る。


「……小さい」


 客席から笑いが起こる。


「三年ぶりの感想がそれ?」


「だって、昔はもっと大きいと思ってた」


「外を見たから?」


「たぶん」


 ノエルは少し笑う。


「でも、知らないところが増えてる」


「小さくなったのに?」


「うん」


「変なの」


「俺もそう思う」


 港へ降りる。


 人々がノエルに気づく。


「ノエル?」


「おい、ノエルじゃないか!」


「帰ってきた!」


 次々と声が上がる。


 ノエルは驚き、笑う。


 ミラは少し離れたところで見ている。


 そして最後に、工房の扉が開いた。


 師匠が出てくる。


 客席が静かになる。


 ライルの手が動いた。


 彼が前半から再登場を待っていた人物だ。


 ノエルと師匠が向かい合う。


「ただいま」


 ノエルが言う。


 師匠はしばらく黙っていた。


 そして、ノエルの肩に二本ある地図筒を見る。


 背中の荷物を見る。


 隣のミラを見る。


「多いな」


 第一声がそれだった。


 客席から笑いが起こる。


「三年分だから」


「整理したか?」


 ノエルが黙る。


 師匠の眉が動く。


「してないのか」


「途中までは」


「何枚ある」


「百……」


「百?」


「たぶん二十くらい」


「百二十!?」


「たぶん」


「たぶんで地図を管理するな!」


 劇場全体が笑いに包まれた。


 ライルも肩を震わせている。


「やっぱり好き」


「でしょうね」


 アマリリアも笑った。


 舞台では師匠がノエルの耳を引っ張り、工房へ連れていこうとしている。


「痛い!」


「三年待ったんだ! 今日中に全部出せ!」


「無理だよ!」


「なら明日まで!」


「もっと無理!」


 ミラが笑っている。


 ノエルが助けを求める。


「ミラ!」


「関係ないわ」


 客席が一瞬静まり、次の瞬間、大きな笑いが爆発した。


 ノエルが愕然とする。


「それ言う!?」


「一回言われたから、一回返しただけ」


「根に持ってる!」


「当然でしょう」


「半年も前だぞ!」


「昔じゃないわよ」


 アマリリアは笑いすぎて目元を押さえた。


 ライルも隣で完全に崩れている。


「殿下」


「うん?」


「私も覚えておきます」


「何を?」


「『関係ない』と言われたら、一回返してよいそうです」


「やめて!」


「劇から学びました」


「そこを学ばないで!」


 また笑う。


 こんなふうに劇を見られるとは思っていなかった。


 静かに座り、美しい舞台を眺める。


 もっと格式張った時間を想像していた。


 実際には笑い、囁き合い、手をつなぎ、舞台の人物に腹を立て、次の場面を待っている。


 ただ楽しい。


 それが嬉しかった。


          ◇◇◇


 工房へ戻ったノエルは、三年分の地図を床いっぱいに広げた。


 北の山。


 大河。


 小さな村。


 旧街道。


 渡し場。


 採掘道。


 港から遠く離れた場所の線が、次々と並ぶ。


 師匠は一枚ずつ見る。


 ミラも横から覗く。


「字が増えたな」


 師匠が言う。


「必要だったから」


「線は減った」


「分からない道を勝手に描かなくなった」


「空白が増えた」


「分からないところだから」


 師匠がノエルを見る。


 少しだけ笑った。


「地図らしくなったな」


 ノエルが驚く。


「褒めた?」


「褒めてない」


「今褒めたよな?」


「次」


「絶対褒めた!」


「次を出せ!」


 客席が笑う。


 アマリリアは、その短いやり取りの奥にあるものを感じた。


 最初のノエルは、空白を埋めたがっていた。


 知らない場所へ行きたがった。


 今もその気持ちはある。


 けれど、分からない場所を分からないまま地図へ残せるようになった。


 それを師匠は見ている。


 ライルも同じことを感じたのか、アマリリアへ少し顔を寄せた。


「似てるね」


「誰にです?」


「君」


「……否定しにくいですわね」


 以前なら否定したかもしれない。


 今は笑える。


「でも、私の方が整理は上手です」


「そこ?」


「百二十枚を未整理では持ち帰りません」


「確かに」


「重要です」


 二人で笑った。


 やがて師匠が一枚の地図を取り上げる。


 ミラの書き込みがあるものだ。


『地図を信じすぎないこと。』


「これは?」


「ミラが勝手に」


「いいな」


「師匠まで!?」


「残せ」


「残すけど!」


「なら文句を言うな」


 ノエルは不満そうにしながら、地図を受け取る。


 師匠は次に尋ねた。


「で、いつまでいる」


 工房の空気が少し変わる。


 ノエルは地図を持ったまま答える。


「決めてない」


「そうか」


「しばらく港の地図を描き直す」


「そうか」


「それが終わったら、また出る」


「そうか」


 師匠は何も止めない。


 最初と同じだ。


「今度は帰ってくる」


 ノエルが言う。


 師匠の手が止まった。


「そうか」


 同じ返事。


 けれど、声が少しだけ違った。


 アマリリアはその違いが好きだった。


 大げさに抱きしめない。


 泣かない。


 それでも三年間待っていた人が、帰ってくると言われて安堵したことが分かる。


 ノエルも分かっている。


 だからそれ以上は言わない。


「師匠」


「何だ」


「ただいま」


 先ほども言った言葉を、もう一度言う。


 今度の師匠は、少し間を置いて答えた。


「おかえり」


 劇場が静まり返った。


 アマリリアは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 派手な場面ではない。


 それでも、長く積み重ねられてきたものが、たった二つの言葉へ集まっている。


 隣のライルの指が強く絡む。


 アマリリアも返した。


          ◇◇◇


 それで終わりではなかった。


 最後の場面は、さらに数か月後だった。


 港の地図工房。


 壁には新しい港の地図が掛けられている。


 以前より細かい。


 しかし、ところどころ空白がある。


 ノエルが机で地図を描いている。


 ミラが扉を開ける。


「ノエル」


「何?」


「明日出るわよ」


「早くない?」


「予定通り」


「港の北側がまだ終わってない」


「じゃあ残る?」


 ノエルは地図を見る。


 ミラを見る。


 また地図を見る。


「……三日待って」


「一日」


「二日」


「一日半」


「半日って何?」


「昼に出る」


「分かった」


 交渉成立。


 客席から笑いが起きる。


「どこまで?」


 ノエルが尋ねる。


「南の大河。その後は東」


「東は行ったことない」


「でしょうね」


「地図ある?」


「あるけど古い」


「いいね」


「何がいいのよ」


「分からないところが多そう」


 ノエルが笑う。


 最初と似た言葉。


 けれど、もう焦っていない。


 知らない場所があることを、ただ楽しみにしている。


「帰りは?」


 ノエルが聞く。


 ミラが肩をすくめる。


「秋くらい」


「港に?」


「他にどこへ帰るの?」


 ノエルが少し笑う。


「そうだな」


 ミラが工房を出る。


 ノエルは地図へ向き直る。


 港の地図の端へ、小さな文字を書き込んだ。


『ここから先は、まだ見ていない。』


 筆を置く。


 窓の外から港の鐘が鳴る。


 ノエルは地図を丸めず、そのまま机へ残した。


 立ち上がる。


 舞台の奥に海が見える。


 最初と同じ濃紺の布。


 同じ波音。


 同じ港。


 けれど、アマリリアには最初とはまったく違って見えた。


 ノエルは港を離れたい青年ではなくなった。


 港から出て、港へ戻り、また出ていく地図職人になった。


 ミラもただ戻ってくる旅商人ではない。


 戻る場所を持ちながら旅を続ける人だった。


 そして今度は、二人が同じ港を帰る場所にしている。


 楽団の音がゆっくり大きくなる。


 幕が下り始めた。


 客席から拍手が起こる。


 アマリリアも右手で拍手した。


 ライルも同じだ。


 つないだ左手は、最後まで離れなかった。


 幕が完全に閉じる。


 それでも拍手は止まらない。


 やがて幕がもう一度上がり、出演者たちが並んで現れた。


 ミラ。


 ノエル。


 師匠。


 年配商人。


 港の人々。


 旧採掘村の住民。


 一人ずつ頭を下げる。


 客席の拍手がさらに大きくなる。


 アマリリアも今度はライルの手を離し、両手でしっかり拍手した。


「面白かったです」


 拍手の音に紛れる程度の声で言う。


「うん」


 ライルも舞台から目を離さない。


「すごくよかった」


 顔を見なくても分かる。


 本当に気に入ったのだ。


 アマリリアも同じだった。


 劇が終わるのが少し惜しい。


 けれど、終わったからこそ、これから感想を話せる。


 何が好きだったか。


 どこが面白かったか。


 どこで違うことを考えたか。


 聞きたいことがたくさんある。


 最後に出演者全員が深く礼をすると、幕が閉じた。


 客席の照明がゆっくり戻る。


 あちこちから感想が聞こえ始めた。


 隣の年配女性は目元を拭っている。


「よかったですねえ」


 彼女が笑った。


「はい」


 アマリリアも素直に頷いた。


「とても」


「私は最後の師匠で駄目でした」


「分かります」


 ライルがすぐに同意する。


「『おかえり』のところですよね」


「そうなんです!」


 二人が意気投合した。


 アマリリアは少し笑う。


 夫がこちらを見る。


「私は採掘道の方が面白かったな」


「あなたは本当にそういうところばかりですね」


「実際、道があっても通っていいとは限らないというのは面白いだろう」


「劇ですよ?」


「劇だから面白いんだ」


 夫婦がまた言い合う。


 アマリリアは、そのやり取りを見ながら嬉しくなった。


 休憩前に思った。


 何十年か経っても、同じ劇を見て違うところを面白がり、言い合えたら楽しそうだと。


 今、その光景が目の前にある。


「私、最後の港が好きでした」


 アマリリアが言う。


 三人がこちらを見る。


「最初と同じ場所なのに、違って見えたところです」


 年配女性が頷く。


「分かります。何も変わっていないようで、ずいぶん変わっていましたね」


「はい」


 実際には舞台装置も細かく変わっていた。


 けれど、それだけではない。


 見る側が変わった。


 ノエルが変わった。


 観客も二刻ほど彼を追いかけた。


 だから同じ海が違って見えた。


「殿下は?」


 夫が尋ねる。


 ライルは少し考える。


「俺は……」


 アマリリアも待つ。


「『また帰ってこられるように出る』ってところかな」


 やはりそこなのだ。


 アマリリアは、少しだけ胸が温かくなった。


「私も、あそこは好きです」


 ライルがこちらを見る。


 目が合う。


 それだけで、先ほど舞台を見ながら自分が何を考えたのか、少し話したくなった。


 でも、ここで全部話す必要はない。


 夕食がある。


 その後の予定は決めていない。


 時間はまだある。


「殿下」


「うん?」


「夕食の時に、続きを話しましょう」


「うん」


 ライルが笑った。


「いっぱいある」


「私もです」


 周囲の観客が少しずつ出口へ向かい始める。


 護衛も離れた場所で動き始めた。


 アマリリアは立ち上がる。


 灰青色の裾を整え、腕にある木製の葉模様へ一瞬だけ目を落とした。


 今日、ここへ来るために選んだもの。


 ライルが選んだ服。


 ライルからもらった腕飾り。


 隣には、濃茶の上着を着た本人がいる。


「アマリリア」


「はい」


 ライルが手を差し出す。


 もう理由を尋ねる必要はなかった。


 アマリリアはその手を取った。


 劇は終わった。


 けれど、今日のデートはまだ終わっていない。


 二人は人の流れに合わせ、急がず客席を出る。


 舞台の物語について話したいことは多い。


 夕食も楽しみだ。


 その後どこへ行くかは、まだ決めていない。


 それも今は心地よかった。


 帰る場所があるから外へ出られるのだと、劇の中の地図職人は知った。


 アマリリアはそれを少し羨ましいと思ったけれど、劇場の階段をライルと並んで下りながら、ふと考え直した。


 自分も、これから作ればいいのかもしれない。


 ベスター侯爵邸を失うのではなく、大切な帰る場所として持ったまま。


 そしてライルと一緒に、もう一つの帰る場所を作っていく。


 それが王宮なのか、別の場所なのか、どんな暮らしになるのかは、まだ全部分からない。


 今すぐ地図へ描く必要もない。


 隣を歩くライルの手を握りながら、その先にまだ空白があることを、アマリリアは以前ほど怖いとは思わなかった。


 むしろ、その空白へ二人で何を書き足していくのか。


 今は少し、楽しみだった。

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