第81話 劇の中の二人が『帰る場所』でもめ始めたら、隣の婚約者がつないだ手に少しだけ力を込めました
幕が上がると、最初に見えたのは海だった。
本物の海ではない。舞台の奥いっぱいに張られた濃紺の布へ細かな光が落とされ、その手前では薄い青灰色の布が何層にも重ねられている。舞台袖から吹き込まれる風に合わせて布の端がゆるやかに揺れるたび、客席から見れば暗い海面に小さな波が立っているように見えた。
低い弦楽器が長く音を伸ばし、その上へ笛の細い音が重なっていく。先ほど聞こえた波音も楽器と舞台装置を組み合わせて作られているらしく、一定ではない音の強弱が、本当に遠くから波が寄せては引いているような錯覚を生んでいた。
アマリリアは思わず舞台へ身を乗り出しかけ、すぐに背もたれへ身体を戻した。
面白い。
まだ誰も台詞を口にしていないのに、もう港町にいるような気分になる。
舞台の左側には木造の倉庫があり、右側には二階建ての小さな宿屋らしい建物が作られている。中央奥には港へ続く坂道が描かれ、その先に先ほどの海が見える構成だった。
荷箱を抱えた男たちが舞台を横切る。
魚籠を持った女性が値段を叫び、少年がその間を駆け抜けた。港の鐘が一度鳴ると、奥から大きな帆を模した布がゆっくり動き、船が入港してきたことを表しているらしい。
客席の子供が小さく「あっ」と声を漏らした。
すぐ隣の母親らしい女性が口元へ指を当てるものの、叱るというより自分も笑っている。
アマリリアも少しだけ口元を緩めた。
隣を見る必要はなかった。
つないでいる手から、ライルが少し動いたのが分かる。
おそらく彼も舞台へ身を乗り出しかけたのだろう。
そう思った直後、ライルの親指がアマリリアの指の側面へ軽く触れた。
何かを伝えたいわけではない。
ただ、そこにいることを確かめるような小さな動きだった。
アマリリアも手を離さなかった。
やがて、港町の朝を行き交っていた人々の間から一人の青年が現れた。
肩から大きな筒を下げ、脇には数枚の紙を抱えている。少しくたびれた白いシャツに灰色の上着を羽織り、港の人々と挨拶を交わしながら歩いてくる。
「おい、ノエル! また地図を持って歩いているのか!」
荷箱を運んでいた男が声をかけた。
青年――ノエルは足を止める。
「地図職人が地図を持たずに歩いていたら、その方がおかしいだろう」
「港の地図なら、もう何十枚も描いただろう!」
「昨日と今日で荷置き場が変わった」
「それくらい覚えておけ!」
「覚えているから描くんだよ!」
客席から笑いが起きた。
アマリリアも笑いながら、ほんの一瞬だけ隣を見た。
ライルと目が合った。
彼もこちらを見ていた。
何となく言いたいことが分かる。
「似てないよ」
舞台の台詞に重ならない程度の小声で、ライルが先に言った。
「私、まだ何も言っておりません」
「顔に書いてあった」
「何と?」
「俺が好きそうって」
「それは書いてあったかもしれません」
ライルが肩を揺らした。
アマリリアは舞台へ視線を戻す。
地図職人ノエルは、どうやらこの港町で生まれ育った青年らしい。父も祖父も地図職人で、町の道や港の倉庫、周辺の入り江まで代々記録してきた家に生まれた。
しかし、本人は町を出たがっている。
「この港の地図は、もう描いた」
場面が移り、ノエルが小さな工房で年老いた師匠と向き合っていた。
壁には何枚もの地図が掛けられている。
同じ港町を描いたものなのに、年代によって道の形も海岸線も少しずつ違う。
「描き終わった地図なんてものがあるか」
師匠が言う。
「あるさ。少なくとも、俺にはもう描くものがない」
「昨日、荷置き場が変わったと言って描き直していたのは誰だ」
「そういう話じゃない」
ノエルは紙を机へ置き、窓の向こうに見える海を指さした。
「この港へ来る船は、みんな外のことを知ってる。北の断崖も、南の大河も、海を越えた島も知ってる。俺はそいつらから話を聞いて、聞いた場所を想像して、それでも毎日ここを描いてる」
声に苛立ちが混じる。
「俺は、知らない場所を自分の目で見たいんだ」
客席が静かになった。
先ほどまで笑いを取っていた青年の顔から、軽さが消えている。
アマリリアは舞台を見つめた。
分からないものを、自分の目で見たい。
その言葉だけなら、よく分かる。
むしろ以前の自分なら、強く共感したかもしれない。
知らないなら見に行く。
分からないなら調べる。
見えないものをそのままにしておく方が落ち着かなかった。
ただ、今のノエルの声には、それだけではないものがある。
外を見たいという希望と、この町に残り続けることへの苛立ち。
自分の目の前にあるものを、もう知り尽くしたと決めつけようとする焦り。
師匠はしばらく黙っていた。
やがて机の端に置かれた古い地図を一枚取り、ノエルの前へ置く。
「なら、行けばいい」
ノエルが顔を上げる。
「止めないのか?」
「止めてほしいのか?」
「そういうわけじゃない」
「だったら行け。だが、外へ行けば何か特別なものが見つかると思うなよ。どこへ行っても、道は人が歩いた跡だ。港は人が船を着けた場所だ。地図に描くのは線でも、その線を作るのは人間だ」
ノエルは何も答えない。
師匠は古い地図を丸め、その胸へ押しつけた。
「帰ってきたくなったら帰ってこい」
「帰らないかもしれない」
「それならそれでいい」
そこで場面が暗転した。
楽団の音が少し大きくなり、港の鐘が二度鳴る。
客席から拍手が起きた。
アマリリアも空いている右手で静かに拍手する。
左手はライルとつないだままだ。
そのことに途中で気づいたものの、離す理由もなかった。
舞台が暗い間に大道具が動かされているらしく、木材を滑らせる小さな音が聞こえる。
「好きそう」
アマリリアが小声で言った。
「誰が?」
「ライル様がです」
「やっぱり?」
「地図だけではありません。今の話も」
ライルはすぐには答えなかった。
暗い舞台を見たまま、少し考える。
「うん。好きかも」
「でしょう?」
「でも、俺はあの師匠の方が好き」
アマリリアは意外に思って彼を見た。
「ノエルではなく?」
「ノエルも分かるよ。知らない場所を見たいっていうのは。でも、師匠が『帰ってきてもいいし、帰らなくてもいい』って言ったところが好きだった」
そこで舞台へ再び明かりが戻り始める。
二人は会話を止めた。
アマリリアはライルの言葉を胸の中へ残したまま、次の場面を待った。
◇◇◇
次に現れたのは、三年後の港だった。
それは台詞で説明されるより先に、舞台そのものから伝わってきた。
最初の場面で魚籠を持っていた女性の髪型が変わっている。倉庫の壁には新しい板が一枚足され、港へ続く坂道の端には以前なかった小さな標識が立っていた。
アマリリアはその変化に気づき、思わず目を細める。
舞台の作り手はかなり細かい。
三年という時間を「三年後」と書いた札一枚で済ませず、町そのものを少しずつ変えている。
そして、その港へ一台の荷車が入ってきた。
御者台に座っていたのは、赤茶色の髪を短くまとめた女性だった。
「邪魔よ! そこ、荷車を置く場所じゃないでしょう!」
第一声から強い。
港の若い作業員が慌てて木箱をどかす。
「す、すみません!」
「謝る前に動かして! 馬が止まったら後ろまで詰まるでしょう!」
客席から笑いが起きる。
女性は荷車を所定の場所へ寄せると、ひらりと御者台から降りた。
「ミラ!」
魚籠の女性が駆け寄る。
「久しぶりね!」
「半年ぶり」
「今回は長かったじゃない!」
「北へ回ってたの。峠が崩れて、帰りの道を変えたから」
旅商人ミラ。
冊子に書かれていた、港へ戻ってきた旅商人だ。
彼女はこの港の出身ではないらしい。
けれど何年も前から各地を巡りながら、この港へ繰り返し戻ってきている。
商品を売る。
別の土地の商品を買う。
港の人々から注文を受ける。
旅先の話をする。
そして、また出ていく。
舞台の中でミラは次々と人に呼び止められた。
「東の村の染料は?」
「持ってきた」
「頼んだ針は?」
「荷台の二箱目」
「北の蜂蜜は?」
「今年は不作。代わりに西の果実蜜ならある」
「値段は?」
「去年より高い。嫌なら買わなくていいわよ」
軽快なやり取りに、客席のあちこちから笑いが起こる。
アマリリアも自然に笑っていた。
旅商人というから、もっと華やかな人物を想像していた。
実際のミラはよく喋り、よく怒り、荷物の位置を細かく確認し、値段交渉では一歩も引かない。
けれど、港の人々から好かれている。
彼女が来ると町が少し騒がしくなる。
そんな人物なのだろう。
「ライル様」
「うん?」
「今、フォード商会のことを考えました?」
小声で尋ねると、ライルが一瞬こちらを見る。
「ちょっとだけ」
「私もです」
「今日は仕事しないんじゃなかった?」
「考えただけです!」
「俺も」
二人で笑いを堪える。
旅商人が荷物を仕分ける場面を見れば、どうしても現実の物流が頭をよぎる。
それでも、そこから共同輸送の資料へ思考を伸ばす必要はない。
舞台のミラはミラだ。
今は彼女が何をするのかを見ればいい。
やがて、荷車の底から一本の筒が見つかった。
「これ、何?」
港の少年が勝手に引き抜こうとする。
「触らない!」
ミラが慌てて取り上げる。
「大事なもの?」
「預かり物よ」
「誰の?」
「知らない男」
「知らない男から預かったの?」
「宿代が払えないから、代わりに港まで持っていってくれって」
「怪しい!」
「私もそう思う」
また笑いが起きる。
ミラは筒を眺め、首を傾げる。
「でも、名前は聞いたことがあるのよね。ノエルって地図職人」
アマリリアの隣で、ライルの指がぴくりと動いた。
話がつながった。
三年前に港を出たノエル。
その地図が、本人より先に港へ戻ってきた。
筒を開く。
中から大きな紙が広げられる。
そこには、港から北へ延びる道と山間部の村々が描かれていた。
しかし、普通の地図とは少し違う。
道の横に、小さな文字が大量に書かれている。
『雨季は西の橋を使うな』
『この家では旅人へ水を分けてくれる』
『冬は二つ目の坂道が凍る』
『荷馬車は東側を回った方がよい』
『春だけ渡し船が出る』
ミラが読み上げるたび、客席から小さな笑いが起こる。
「地図って、こんなことまで書くものなの?」
少年が尋ねる。
ミラは紙を見ながら肩をすくめた。
「この人の地図はそうみたいね」
アマリリアは笑った。
隣ではライルが、明らかに楽しそうな顔をしている。
「殿下」
「何?」
「欲しそうです」
「欲しい」
「地図を?」
「うん」
「まだ物語の小道具ですわよ」
「分かってる。でも欲しい」
アマリリアは思わず口元を押さえた。
少し前までなら、舞台の地図を見て「実際の道の記録として正確なのか」と考えていたかもしれない。
今は、ライルが本気で欲しそうにしていることの方が面白い。
舞台ではミラが地図を裏返していた。
そこに短い手紙が貼られている。
『師匠へ。まだ帰らない。北の道は思っていたより面白い。』
客席が静かになった。
ミラは手紙を読み終えると、少し笑った。
「帰らないのに、地図だけ帰ってきたのね」
その台詞で場面が暗くなる。
アマリリアは拍手をしながら、最初の場面を思い出していた。
帰ってきたくなったら帰ってこい。
帰らないかもしれない。
それならそれでいい。
ノエル本人は帰っていない。
けれど、外で見たものを地図にして港へ返している。
そのことが妙に心に残った。
◇◇◇
物語はそこから少しずつ動き始めた。
ミラは次の旅へ出る時、ノエルへ返事を届けるよう師匠から頼まれる。
本人がどこにいるか正確には分からない。
最後に地図を預けた宿の名前だけが手掛かりだ。
「嫌よ」
ミラは即答した。
客席が笑う。
「なぜだ」
「私は商人よ。人探しじゃない」
「道の途中だ」
「北の宿からさらに二日でしょう?」
「知っているじゃないか」
「知ってるから嫌なの!」
師匠とミラのやり取りは軽快だった。
結局、師匠が港でしか手に入らない干し魚を一箱つけることで話がまとまり、ミラは「荷物のついで」と言い張りながら返事を持っていく。
場面は港から街道へ移った。
大道具の転換は巧みだった。
背景の港町が暗くなり、前方へ細い木々が運び込まれる。照明が緑がかった色へ変わり、楽団の音にも鳥の鳴き声を模した笛が混ざった。
アマリリアは舞台装置にも感心しながら、ミラの旅を追った。
途中の村で商売をする。
雨で足止めされる。
荷車の車輪が泥へはまり、村人に助けてもらう。
助けてもらった代わりに予定外の荷物を次の町まで運ぶことになり、ミラは文句を言いながら引き受ける。
旅は、地図の線をそのまま進むだけではない。
人に会うたび、少しずつ予定が変わる。
それでもミラは前へ進む。
そして北の小さな宿で、ようやくノエルと再会した。
再会と言っても、二人は以前に港で数度顔を合わせた程度らしい。
「あんた、ノエル?」
「そうだけど」
「地図職人?」
「そう」
「これ」
ミラが師匠の手紙を胸へ押しつける。
「何?」
「手紙」
「誰から?」
「読めば分かるでしょう!」
客席が笑う。
ノエルは困惑しながら封を開ける。
手紙の内容は客席には読まれなかった。
ただ、ノエルの表情が少しずつ変わる。
最初は笑う。
次に呆れたような顔をする。
最後に、ほんの少しだけ目を伏せた。
「何て?」
ミラが聞く。
「教えない」
「ここまで運んだのに?」
「俺宛てだから」
「干し魚一箱で運ばされたのよ!」
「それ、師匠が払ったんだろ」
「そうよ!」
「じゃあ師匠には教えていいけど、君には教えなくていい」
「面倒くさい男ね!」
また笑いが起こる。
ノエルも笑った。
そこで初めて、アマリリアは最初の場面との違いに気づいた。
港にいた頃のノエルは、どこか苛立っていた。
目の前にあるものへ飽きたと言い聞かせるような焦りがあった。
今は服も汚れ、髪も少し伸び、旅慣れた格好になっている。
けれど表情は以前より穏やかだった。
「港へ帰るの?」
ミラが尋ねる。
「まだ」
「師匠、待ってるんじゃない?」
「待ってないよ」
「何で分かるの」
「そういう人だから」
ノエルは手紙を丁寧に畳み、胸元へしまった。
「帰ってこいとは書いてなかった」
「じゃあ何て?」
「教えない」
「もういいわ!」
ミラが背を向ける。
しかしノエルは少し黙ったあと、その背中へ声をかけた。
「明日、どっちへ行く?」
「西」
「なら途中まで一緒に行っていい?」
「何で?」
「地図にない道があるらしい」
「また地図?」
「仕事だから」
「港を出ても同じことしてるじゃない」
その台詞で、ノエルが固まった。
客席から小さな笑いが漏れる。
ミラは何気なく言っただけらしい。
けれど、ノエルには効いた。
「……そうだな」
彼は自分の地図筒を見た。
「結局、ずっと描いてる」
「嫌なの?」
「いや」
ノエルは少し考え、笑った。
「今は、好きだよ」
その声は静かだった。
アマリリアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
港を出たから地図職人をやめたわけではない。
外へ行ったから別の人間になったわけでもない。
同じことをしている。
けれど、自分で選んでいる。
それだけで、同じ仕事の見え方が変わったのだろう。
隣でライルの手が少し動いた。
今度はアマリリアから、指を絡め直した。
◇◇◇
ノエルとミラの旅が始まってから、劇はさらに賑やかになった。
二人は驚くほど相性が悪い。
ノエルは道を見つけると寄り道したがる。
ミラは荷物の到着日を守りたい。
ノエルは村人から古い道の話を聞くと何刻でも話し込む。
ミラはその横で商品の値段を交渉する。
ミラが近道を選ぶと、ノエルは「その橋は荷車には危ない」と止める。
ノエルが安全な遠回りを選ぶと、ミラは「到着が遅れたらあんたが違約金を払うの?」と怒る。
そのたびに客席から笑いが起きた。
アマリリアも何度も笑った。
途中、ノエルが地図を広げすぎて風に飛ばされ、二人で紙を追いかける場面では、隣の年配女性が声を出して笑っていた。
ライルも肩を震わせている。
「殿下もやりそうです」
アマリリアが囁く。
「俺?」
「古い地図を広げすぎて風に飛ばすところです」
「君が押さえてくれる?」
「まず広げる場所を考えるよう言います」
「そこから?」
「当然でしょう」
「じゃあ一緒に広げる」
「それなら押さえます」
舞台を見ながら交わす小さな会話が楽しい。
感想を長く話す必要はない。
同じ場面で笑ったこと。
少し違うところを見ていたこと。
それを時々確かめるだけで十分だった。
劇の中では季節が移った。
夏の強い日差しを表す黄色い照明から、少し赤みを帯びた秋の光へ変わる。
ノエルとミラは半年近く同じ方向へ旅を続けているらしい。
もちろん、ずっと一緒ではない。
ミラが商売のため別の町へ寄ることもある。
ノエルが地図作りのため村へ残ることもある。
それでも数日後、次の町でまた合流する。
「待ってた?」
ミラが聞く。
「別に」
「宿の前で立ってたじゃない」
「たまたま」
「一刻も?」
「……宿の中が暑かった」
客席が笑う。
アマリリアも笑った。
同時に、妙な既視感を覚える。
隣を見る。
ライルもこちらを見ていた。
「何です?」
「いや」
「何ですの?」
「今日、君が早く起きた話を思い出した」
アマリリアは唇を結んだ。
「舞台を見てくださいませ」
「たまたま早く起きたんだよね?」
「舞台を!」
笑いを堪えながらライルの手を少し強く握る。
その反撃のつもりだったのに、ライルはむしろ嬉しそうに握り返してきた。
これでは効いていない。
アマリリアは諦めて舞台へ戻った。
やがて、物語の雰囲気が少し変わった。
冬を前に、二人は大きな川沿いの町へ着く。
ミラはそこで南へ向かう商隊へ合流する予定だった。
ノエルは西の山へ向かう。
初めて、二人の目的地が完全に分かれる。
「じゃあ、ここまでね」
ミラが言う。
「うん」
「西の山、冬は越えられないわよ」
「麓まで行く」
「春まで?」
「たぶん」
「そう」
それだけだった。
いつものような言い合いがない。
ミラは荷車の紐を確認し、ノエルは地図筒を肩へ掛け直す。
客席も静かになっていた。
「じゃあ」
ノエルが言う。
「また、どこかで」
ミラは少しだけ眉を寄せる。
「どこかって、どこよ」
「分からない」
「商人に待ち合わせを提案するなら場所くらい決めなさい」
「待ち合わせなの?」
「今あんたが言ったんでしょう!」
「『どこかで』って言っただけだよ」
「それを待ち合わせって言うの!」
少しだけいつもの調子が戻り、客席から笑いが漏れる。
けれど、ミラはすぐに笑わなくなった。
「春になったら、どこへ行くの?」
「まだ決めてない」
「港へは?」
ノエルが黙った。
ここまで何度か出てきた港。
師匠のいる場所。
彼が生まれ育った場所。
「帰らないの?」
ミラがもう一度聞く。
「……分からない」
「三年も?」
「まだ見たい場所がある」
「帰ったら見られなくなるの?」
「そうじゃない」
「じゃあ帰ればいいじゃない」
「君には関係ないだろ」
空気が変わった。
アマリリアは無意識にライルの手を握る力を弱めた。
舞台のミラも、一瞬動きを止める。
「そうね」
短い返事だった。
「関係ないわ」
荷車へ向かう。
ノエルが何か言おうとする。
けれど声をかけられない。
ミラは御者台へ乗り、そのまま南へ向かってしまった。
楽団の音が低くなる。
舞台にはノエルだけが残った。
アマリリアは胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
ノエルの言ったことは、間違いではないのかもしれない。
帰るかどうかは本人が決めることだ。
ミラに決める権利はない。
それでも、今の「関係ない」は違う。
半年近く一緒に旅をした相手が、なぜ尋ねたのか。
そこを見ずに言葉だけを返した。
少し前の自分なら、もっと理屈から考えただろうか。
アマリリアは舞台を見たまま、そっと息を吐いた。
隣でライルが動いた。
今度は彼の方から、つないだ手に少しだけ力を込める。
アマリリアは横を見た。
ライルは舞台を見ている。
けれど、表情が少しだけ硬い。
「ライル様?」
小さく呼ぶ。
「うん」
「どうしました?」
少し間があった。
「あとで話す」
それだけだった。
アマリリアは頷いた。
今は劇の途中だ。
急いで聞く必要はない。
つないだ手だけ、そのままにした。
◇◇◇
ノエルは西へ向かわなかった。
翌朝、宿の前で地図を広げる。
西への道を見る。
南への道を見る。
港へ戻る東の道を見る。
何度も見比べる。
「どこへ行くんだい?」
宿の主人が尋ねた。
「西」
「なら、そっちは南だよ」
「分かってる」
「地図職人なんだろ?」
「分かってるって!」
客席から少し笑いが起きる。
けれどノエルは笑わない。
南へ向かったミラを追いたいのか。
港へ帰りたいのか。
予定通り西へ行きたいのか。
本人にも分からないらしい。
宿の主人はしばらく彼を見ていた。
「地図があっても、行き先までは決めてくれないんだな」
ノエルが顔を上げる。
「当たり前だろ」
「なら、そんなに地図を睨むなよ」
主人は笑いながら宿へ戻っていく。
ノエルは一人残された。
やがて地図を畳む。
どこへ行くのかは示されないまま、舞台が暗転した。
場面はミラへ移る。
南へ向かう商隊の中にいる。
こちらも不機嫌だった。
「喧嘩したのか?」
年配の商人が聞く。
「してない」
「顔が喧嘩した顔だ」
「してないって言ってるでしょう」
「じゃあ失恋か」
「荷車から落とすわよ」
客席が笑う。
年配商人も笑いながら馬を進める。
「半年も一緒だったんだろ?」
「一緒じゃない。行き先が重なってただけ」
「そうか」
「そうよ」
「なら、何で春の仕入れ先をあいつの行きそうな町に変えてたんだ?」
ミラが固まる。
客席から「おお」と小さな声が上がった。
アマリリアも思わず目を見開く。
「……商売よ」
「そうか」
「西の山の薬草は高く売れるの」
「そうか」
「何よ、その言い方!」
「何も言ってない」
ミラは怒る。
けれど、その後ろ姿は少し寂しそうだった。
アマリリアはそこでようやく、冊子に書かれていた紹介文の意味が分かった気がした。
『港を離れたい地図職人』
『港へ戻ってきた旅商人』
ノエルは一つの場所から離れようとしている。
ミラはどこにも定住していないように見えて、何度も同じ港へ戻っている。
旅をしているのは同じなのに、二人にとって「帰る」という言葉の意味が違う。
舞台はさらに進んだ。
冬の初め、南の街道で大雨が降る。
川が増水し、商隊は予定していた橋を渡れなくなった。
別の道を使えば三日遅れる。
荷物の一部は傷みやすい。
商人たちが相談する。
その場面で、ミラが荷台から一枚の地図を取り出した。
ノエルが以前渡したものだった。
『雨季は西の橋を使うな』
最初に出てきた書き込み。
ミラがそれを見つける。
「この先に古い渡し場がある」
「今も使えるのか?」
「分からない」
「そんな道へ荷車を入れられない」
「でも、こっちに村がある。渡し場が駄目でも、川の状況を知ってる人はいるはず」
商人たちは迷う。
結局、全員では行かない。
ミラともう一台だけが村へ確認へ向かう。
地図に書かれていた渡し場は使えなかった。
しかし村人から、冬前だけ使える浅瀬が少し上流にあると教えられる。
荷を小分けにし、村の小舟と荷馬を借り、何度も往復して川を越える。
全部の荷車を渡すことはできない。
急ぐ荷だけ先に送る。
残りは遠回りする。
アマリリアは思わず見入った。
地図が答えを出したわけではない。
地図に書かれた古い情報が、その先で誰へ聞けばよいかを見つけるきっかけになっただけだ。
舞台の中の話だ。
仕事ではない。
それでも、好きな考え方だと思った。
隣のライルも同じことを感じたのかもしれない。
つないだ手が、今度は軽く二度動いた。
アマリリアも同じように返した。
言葉にしなくても、何となく分かる。
◇◇◇
川を越えた夜、ミラは焚き火の前でノエルの地図を見ていた。
周囲では商人たちが眠る準備をしている。
ミラは地図の余白へ何かを書き込んだ。
『古い渡し場は使用不可。冬前、水位が低ければ上流の浅瀬。村で必ず確認すること。』
書き終える。
少し考える。
その下へさらに一行加えた。
『地図を信じすぎないこと。』
客席から笑いが起きた。
アマリリアも笑った。
ライルも声を抑えて笑っている。
「良いですね」
アマリリアが囁く。
「うん」
「殿下の古い道の記録にも書いておいた方がよろしいのでは?」
「『古い記録を信じすぎないこと』?」
「はい」
「君が横に書いて」
「なぜ私が?」
「一緒に読んでるから」
アマリリアは少し考えた。
「では、本当に必要になったら」
「書いてくれる?」
「殿下が古い記録だけを信じて、今ある橋を無視しようとしたら」
「そこまでしないよ」
「なら書く必要はありません」
また二人で笑った。
けれど、舞台のミラは笑っていなかった。
書き込みを終えたあと、地図を畳まずに眺めている。
やがて小さく呟いた。
「……これ、返さないと」
誰へ返すのかは言わない。
客席には分かる。
ノエルだ。
アマリリアも分かった。
そして、その瞬間に幕がゆっくり下り始めた。
「え?」
近くの子供が声を漏らす。
アマリリアも同じ気持ちだった。
ここで終わるのかと思ったが、客席の照明が少し明るくなる。
前半終了らしい。
楽団が短い曲を演奏し、幕が完全に閉じた。
拍手が劇場を満たした。
アマリリアも手を離して拍手する。
隣のライルも強く手を叩いていた。
出演者はまだ出てこない。
それでも前半だけで十分な拍手が続く。
やがて休憩を知らせる係員の声が響いた。
「ただいまより一刻の半分ほど休憩となります。後半の開演前には鐘を鳴らしますので、それまでにお席へお戻りください」
客席の空気が一気に緩んだ。
立ち上がる人。
隣同士で感想を言い合う人。
売店へ向かう相談をする人。
前の席の子供は母親へ「ノエルは港に帰るの?」と早速聞いている。
「どうかしらね。後半を見ないと分からないわ」
「ミラは?」
「それも後半ね」
「教えてよ」
「お母さんも知らないもの」
そんな会話が聞こえ、アマリリアは笑った。
自分も知りたい。
ノエルはどこへ行ったのか。
ミラは地図を返せるのか。
二人はもう一度会うのか。
港へ帰るのか。
けれど、今は分からない。
分からないから後半が楽しみだ。
「面白かった」
ライルが隣で言った。
アマリリアは彼を見る。
顔が明るい。
舞台が本当に気に入ったらしい。
「はい。想像していたより、ずっと」
「地図、欲しい」
「そこですの?」
「もちろん話も面白いよ!」
「分かっております」
ライルが笑う。
二人も席を立った。
護衛が少し離れた場所で動く。
先ほど話しかけてきた年配の女性も立ち上がり、アマリリアへ笑顔を向けた。
「面白いですねえ」
「はい」
「うちの人なんて、途中からずっとミラばかり応援しているんですよ」
隣の夫が困った顔をする。
「お前がノエルに腹を立てているだけだろう」
「『関係ない』なんて言うからですよ」
「言い方は悪かったが、帰るかどうかは本人の自由だ」
「ほら、こういうことを言うんです」
女性がアマリリアへ同意を求めるような顔をする。
思わぬところで劇の議論が始まった。
アマリリアは少し考えた。
「私は、帰るかどうかをノエル自身が決めることには賛成です」
夫の顔が明るくなる。
「ただ、ミラがなぜ聞いたのかを考えずに『関係ない』と言ってしまったところは、少しもったいなかったと思います」
今度は女性が満足そうに頷く。
「そうでしょう?」
「お嬢様は公平だ」
夫が感心したように言う。
アマリリアは少し困った。
「公平というより、まだ前半ですから。後半で私の見方も変わるかもしれません」
その言葉を口にしてから、自分で少し驚いた。
以前なら、見たものから一度結論を作ろうとしたかもしれない。
今は、まだ途中だと思える。
劇だから当然と言えば当然なのだが、それでも悪くない感覚だった。
「殿下はどう思われます?」
年配女性が今度はライルへ尋ねた。
夫がまた「おい」と止めようとする。
ライルは気にせず少し考えた。
「俺は……ノエルが帰るかどうかより、どうして帰ることをあんなに避けているのかが気になります」
アマリリアは彼を見る。
「外を見たいから、だけではないと?」
「最初はそう思った。でも、もう三年外にいる。地図も描いてるし、旅も楽しんでる。それでも港の話になると、少し変になるから」
年配女性も夫も黙って聞いている。
ライルは舞台の閉じた幕へ目を向けた。
「帰ったら、外へ出た意味がなくなると思ってるのかなって」
アマリリアの胸に、その言葉が残った。
外へ出た。
変わった。
成長した。
だから、元の場所へ戻ったら以前の自分へ戻ってしまう。
そんなふうに思っているのだろうか。
「なるほどねえ」
年配女性が感心したように頷く。
「それなら、後半がますます楽しみです」
「はい」
ライルも笑った。
夫婦は売店へ向かっていった。
アマリリアとライルはその場に少し残る。
周囲では多くの観客が行き交い、前半の感想を口々に話している。ノエルが悪い、ミラが急ぎすぎだ、師匠が一番好きだ、地図の仕掛けが面白かった――同じ劇を見たはずなのに、話しているところは人によって違う。
アマリリアはそれを聞きながら、ライルへ視線を向けた。
「先ほど」
「うん?」
「ノエルがミラへ『関係ない』と言ったところで、少し手に力を入れましたでしょう?」
ライルが一瞬黙った。
やはり気のせいではなかった。
「気づいてた?」
「つないでいたのですから」
「そうだよね」
彼は少し照れたように視線を逸らす。
アマリリアは急かさなかった。
あとで話すと言った。
今が、その「あと」なのだろう。
周囲には人が多い。
けれど誰も二人の会話を聞こうとしているわけではない。
少し離れた場所で護衛が見守り、売店から焼き菓子の甘い香りが流れてくる。休憩時間のざわめきの中で、二人だけの小さな沈黙が生まれた。
「君が」
ライルがようやく口を開いた。
「いつか、俺に同じことを聞いたら嫌だなと思った」
アマリリアは瞬きをした。
「同じこと?」
「帰るのかって話じゃなくて。俺が何かを決めようとしてて、君が理由を聞いてくれた時に、『君には関係ない』って言うの」
予想していなかった答えだった。
アマリリアはすぐには言葉を返さず、彼の横顔を見た。
ライルは冗談を言っていない。
「言わないようにすればよいのでは?」
「うん。そうなんだけど」
「それだけではありませんね?」
ライルが苦笑した。
「よく見てる」
「何度も申し上げております」
「ノエルも、たぶん言うつもりじゃなかったと思うんだ。聞かれたくないところを聞かれて、反射みたいに出たんじゃないかな」
アマリリアは舞台を思い返した。
確かにそう見えた。
「だから、自分も絶対に言わないとは思わない方がいいのかなって」
「なるほど」
「王子だからっていうのもあるかもしれない。自分で決めることと、人に口を出されたくないことを、間違える時がありそうで」
そこまで言って、ライルは少し困ったように笑った。
「劇を見に来たのに、またこんなこと考えてる」
「構いませんでしょう」
「仕事しない約束だった」
「これは仕事ではありません」
「違う?」
「私は今、第一王子殿下の統治判断について評価しているわけではありません。婚約者が劇を見て何を感じたのか聞いているだけです」
ライルの目が少し丸くなる。
「婚約者」
「何です?」
「いや。嬉しい」
「そこを拾わないでくださいませ」
「でも嬉しい」
アマリリアは呆れながらも、笑ってしまった。
そして少し考え、先ほど拍手のために離したままだった左手をライルへ差し出した。
ライルがそれを見る。
「何?」
「つなぐのでしょう?」
「いいの?」
「先ほどまでつないでいたではありませんか」
彼が手を重ねる。
指が絡む。
アマリリアはその温度を感じながら、言葉を選んだ。
「もしライル様が、私へ『関係ない』と言ったら」
「うん」
「私は怒ります」
「やっぱり?」
「当然です。かなり怒ります」
ライルが少し笑う。
「でも」
アマリリアは続けた。
「それで私が本当に関係なくなるわけではありません」
笑っていたライルの表情が止まった。
「一度ひどいことを言われたからといって、私は『では関係ありませんわね』と消えたりしません。なぜそんな言い方をしたのかくらいは聞きます」
「……うん」
「それでも話したくないなら、その時は待ちます。ただし、話したくないことと、私に関係がないことは別です」
ライルの指が少し強く絡んだ。
アマリリアはそのまま続ける。
「正式な婚約者なのですから、何でもすべて知る権利があるなどとは申しません。でも、殿下が一人で抱えて苦しんでいるのに、『関係ない』の一言で私を外へ置けるとは思わないでくださいませ」
ライルはしばらく何も言わなかった。
休憩中の劇場は騒がしい。
人々が歩き、笑い、菓子を買い、前半の感想を語っている。
その中で彼だけが静かだった。
「アマリリア」
「はい」
「俺、君と婚約してよかった」
声が低かった。
冗談ではない。
アマリリアは一瞬だけ息を止めた。
婚約の始まりを思えば、とても素直には受け取れない言葉でもある。
「……脅して始めた婚約ですけれど?」
「それは忘れてない」
「忘れてくださってもよろしいのですが」
「無理だよ」
「では、せめて美しい思い出として加工してくださいませ」
「どうやって?」
「第一王子殿下とベスター侯爵令嬢が運命的に――」
「脅された」
「ライル様」
「はい」
二人で笑った。
少し重くなりかけた胸の奥が、ほどけていく。
始まりは褒められたものではない。
けれど、今ここにいることまで否定する必要はない。
「私も」
アマリリアはライルを見た。
「ライル様と婚約してよかったと思っております」
今度は彼が黙る番だった。
「……もう一回」
「嫌です」
「何で!」
「聞こえたでしょう?」
「聞こえたけど、もう一回聞きたい」
「本日の回数制限を復活させますわよ」
「それ廃止したよね?」
「再制定します」
「勝手に?」
「発案者は私ですから」
「制度ってそんな簡単に戻していいの?」
「では試行期間を設けます?」
「仕事になってる!」
とうとう二人とも声を抑えて笑った。
近くを通った係員が何事かと一瞬こちらを見たが、すぐに微笑んで通り過ぎていく。
アマリリアは笑いながら、つないだ手を軽く揺らした。
「飲み物をいただきません?」
「うん。喉渇いた」
「焼き菓子も少し気になります」
「買おう」
「夕食がありますから、少しだけです」
「分かってる」
二人は売店へ向かった。
◇◇◇
売店は思った以上に混んでいた。
休憩時間が限られているため、観客が一斉に集まっている。
係員が列を二つに分け、飲み物だけを求める客と、菓子や冊子を買う客を案内していた。
アマリリアは一瞬その動線を見た。
入口側から来た人と階段側から来た人が、売店前で少し交差している。
気になる。
けれど、そこで思考を止めた。
「支配人は呼びません」
自分から言う。
ライルが吹き出した。
「俺、何も言ってない」
「殿下が言う前に申し上げました」
「成長したね」
「その褒め方は納得できませんわ!」
列へ並ぶ。
第一王子と婚約者が普通に列へ入ったため、前にいた客が慌てて道を譲ろうとした。
「殿下、お先に――」
「大丈夫です。俺たちも休憩中なので」
ライルが穏やかに断る。
相手は戸惑いながらも頭を下げ、そのまま前へ戻った。
周囲から少し視線を感じる。
けれど、先ほどより気にならない。
アマリリアは売店の棚を見る。
小さな蜂蜜焼き菓子。
木の実を混ぜた薄焼き。
果実を煮詰めたものを挟んだ小さな菓子。
「どれにします?」
「君は?」
「私が先に聞きました」
「じゃあ木の実」
「では私は果実にします」
「半分ずつにする?」
アマリリアは彼を見る。
「二種類食べたいのです?」
「うん」
「私もです」
「じゃあ決まり」
あまりにも簡単に決まった。
二つ買い、半分ずつ食べる。
市場の日にも似たことをした。
けれど今日は、最初からそうすることが自然になっている。
飲み物と二種類の菓子を買い、壁際の小さな立ち台へ移動した。
ライルが木の実の菓子を半分に割る。
「大きい方、どっち?」
「殿下が食べてくださいませ」
「いいの?」
「私は果実の方を大きくいただきます」
「公平」
「交渉成立です」
木の実の香ばしさと薄い甘みが口へ広がる。
アマリリアは思ったより気に入った。
「美味しいです」
「こっちも」
「果実はまだでしょう?」
「見た感じ」
「見た目で味を決めないでくださいませ」
「じゃあ食べる」
今度は果実の菓子を分ける。
こちらは少し酸味が強い。
ライルが一口食べ、目を細めた。
「酸っぱい」
「私は好きです」
「俺も嫌いじゃない」
「では成功ですね」
「何が?」
「二種類とも選んで」
「うん」
ライルが笑う。
「二人だと、二つ選べるね」
その何気ない言葉に、アマリリアは少しだけ動きを止めた。
市場でも本を交換した。
服も互いに選んだ。
一人なら一つだったものが、二人なら二つになる。
すべてがそうなるわけではない。
けれど、こういう小さな増え方が好きだった。
「次に来た時は、別のものも試しましょうか」
自然に口から出た。
ライルがこちらを見る。
「次?」
「……劇場へ二度来てはいけない理由があります?」
「ない」
顔が明るくなる。
「また来よう」
「今日の後半がひどかった場合は考えます」
「それでも来ようよ。別の演目で」
「そうですね」
アマリリアも笑った。
次。
以前なら、未来について口にする時はもっと大きなものを考えていた。
婚姻。
王家。
国。
役割。
今は、また劇場へ来るという小さな未来を話している。
それでいい。
むしろ、こういう未来も大切なのだと思う。
遠くで一度、鐘が鳴った。
休憩終了が近い。
「戻ろうか」
「はい」
二人は飲み物を飲み終え、席へ戻る流れに加わった。
行き交う人々の間を歩く。
先ほどの年配夫婦も少し前にいる。
夫が何かを言い、妻が笑っている。
同じ劇を見て、違う感想を持ち、それでも一緒に後半を見に戻る。
アマリリアはその後ろ姿を少し眺めた。
「どうしたの?」
「何でもありません」
「本当?」
「はい。ただ」
少し迷ってから、言う。
「何十年か経っても、ああやって同じ劇を見て意見が違うと言い合えたら楽しそうだと思いました」
ライルが足を止めかけた。
「歩いてくださいませ」
「ごめん」
「人が後ろにおります」
「うん」
慌てて歩き出す。
けれどライルは明らかに嬉しそうだった。
「アマリリア」
「何です?」
「俺も、そうしたい」
今度はアマリリアが少し黙った。
周囲には人がいる。
だから足を止めない。
ただ、隣を歩く彼の手へ自分の手を近づけた。
ライルが気づく。
自然に指が重なった。
「では」
アマリリアは前を見たまま言った。
「まずは今日の後半を一緒に見ましょう」
「うん」
大きな未来を今すべて決める必要はない。
何十年後のことなど、分からない。
けれど、今日の後半を一緒に見ることなら決まっている。
次にまた劇場へ来たいという気持ちもある。
そういう小さな約束を重ねていけば、その先に何があるのかは、今すべて分からなくてもいいのだろう。
◇◇◇
席へ戻ると、客席は再び少しずつ暗くなり始めていた。
アマリリアとライルが座ると、隣の年配女性が笑顔を向ける。
「後半、楽しみですね」
「はい」
アマリリアも答えた。
「ノエルがどこへ行ったのか、気になります」
「私はミラが地図を返せるかですね」
夫が横から口を挟む。
「私は師匠がもう一度出てくるかだな」
「あなた、師匠が好きだったの?」
「殿下と同じだ」
突然話を振られたライルが笑う。
「俺も、また出てきてほしいです」
四人それぞれ、気になっているところが違う。
同じ前半を見たのに、待っているものが違う。
アマリリアはそれが面白かった。
やがて二度目の鐘が鳴る。
客席が静まる。
アマリリアは背もたれへ身体を預けた。
隣ではライルが舞台を見ている。
先ほどまでつないでいた手は、一度離れていた。
アマリリアは少し迷った。
前半は自分から重ねた。
休憩中も何度かつないだ。
毎回つなぐ必要などない。
そう思ったところで、ライルの手が座席の間へ置かれた。
掌が上を向いている。
露骨だ。
アマリリアは舞台を見たまま、小さく笑った。
「何です、その手は」
「何でもない」
「明らかに待っておりますでしょう」
「たまたま」
「ノエルの宿前と同じ言い訳ですわよ」
「宿の中が暑いから」
「ここは暑くありません」
「じゃあ……手が寂しい」
アマリリアはとうとう笑ってしまった。
「仕方ありませんわね」
その掌へ自分の手を重ねる。
指が絡んだ。
ライルが満足そうに舞台へ向き直る。
「顔に出ております」
「何が?」
「嬉しいのがです」
「隠さなくていいんだろ?」
劇場前で自分が言ったことを返された。
アマリリアは反論できなかった。
「……そうでしたわね」
舞台の向こうで光がともる。
後半が始まる。
今度の景色は港ではなかった。
雪の残る山道。
その向こうから、一人の男が歩いてくる。
肩には地図筒。
ノエルだ。
客席の空気が一気に集中する。
アマリリアも目を離せなくなった。
彼がどこへ向かっているのか、まだ分からない。
ミラと再会するのかも分からない。
港へ戻るのかも分からない。
それでも今は、答えを先に知りたいとは思わなかった。
隣にライルがいて、同じ舞台を見ている。
何かを感じれば、休憩時間のようにあとで話せる。
意見が違ってもいい。
同じ場面で違うものを見てもいい。
その違いまで含めて、一緒に見ている時間なのだ。
ノエルが雪の残る坂道を下り始める。
遠くから港の鐘とは違う、小さな町の鐘が聞こえてきた。
アマリリアはつないだ手の温度を感じながら、まだ知らない物語の続きを待った。




