第80話 仕事を置いて劇場へ行くだけのはずなのに、灰青色と濃茶で顔を合わせたところから予定通りにはいきませんでした
劇場へ行く日の朝、アマリリアはいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ完全には明るくなっておらず、薄い青色の空の下でベスター侯爵邸の庭が朝露に濡れている。遠くでは早番の使用人が裏庭を横切り、厨房の煙突から細い煙が上がり始めていたが、屋敷の大半はまだ静かなままだった。
枕元の時計を確かめる。
起床予定より半刻近く早い。
「……早すぎますわね」
もう一度眠ろうかと考え、掛け布を引き上げる。
目を閉じる。
灰青色のドレスが浮かんだ。
濃茶の上着を着たライルが浮かんだ。
劇場のことを考えた。
夕食のことを考えた。
その後は決めていないことまで思い出した。
目を開ける。
「無理ですわ」
諦めて起き上がった。
寝台の横へ足を下ろしたところで、昨夜手帳へ書いた言葉を思い出す。
『明日、劇場。』
『楽しみ。』
もう明日ではない。
今日だ。
たったそれだけのことで、胸の奥が朝から妙に落ち着かない。
政務について考える時の緊張とは違う。何か失敗してはいけないという不安でもない。ただ、待っていた日が本当に来たことが嬉しくて、体の内側に小さな熱が残り続けているようだった。
やがて控えめなノックが聞こえ、朝の支度を担当する侍女が入ってきた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます」
侍女は返事をしたあと、寝台から離れているアマリリアを見て少し目を丸くした。
「もうお起きでいらしたのですね」
「たまたまです」
「左様でございますか」
「何です、その顔は」
「何も」
最近、周囲の人間がこういう顔をすることが増えた気がする。
アマリリアは少し不満だったが、今日は追及しなかった。
窓が開けられると、朝の冷たい空気が室内へ流れ込んでくる。湿った土と草の匂いが薄く混じり、眠気がようやく完全に消えた。
「天気は良さそうですね」
「はい。午後も雨の予報はございません」
「そうですか」
返事をしながら、アマリリアは少しだけ嬉しくなった。
雨なら雨で楽しむつもりだった。
それでも、初めて二人で劇場へ行く日が晴れているのは嬉しい。
「お嬢様」
「はい?」
「今、笑っていらっしゃいました」
「……今日は見逃してくださいませ」
侍女は一瞬驚いたあと、柔らかく笑った。
「もちろんでございます」
◇◇◇
劇場へ向かうのは午後だった。
だからといって、朝から何もすることがないわけではない。
アマリリアは朝食を済ませ、普段より少し簡素な外出着へ着替えて王宮へ向かった。灰青色のドレスは午後の支度まで侯爵邸へ置いていく。
王宮へ着くと、いつもの執務室にはすでにディーンとゼインがいた。
そしてライルもいる。
「おはよう、アマリリア」
「おはようございます、ライル様」
挨拶を交わした。
そのまま二人とも黙る。
昨日までなら、ここで必ずどちらかが日数を口にしていた。
あと四日。
三日。
二日。
一日。
今日はもう数える必要がない。
ライルが先に笑った。
「今日だね」
「はい」
「劇場」
「知っております」
「楽しみ?」
アマリリアは呆れたように彼を見る。
「昨日も聞きましたでしょう?」
「今日になったから」
「毎日確認する必要があります?」
「今日は特別」
「……とても楽しみです」
結局、今日も答えた。
ライルは予想通り嬉しそうにする。
「俺も」
「それも毎日聞いております」
「今日も言いたかった」
「そうですか」
短いやり取りなのに、頬が緩みそうになる。
それを隠そうとしていると、ディーンが机へ三枚の紙を置いた。
「お二人とも、本日の午前中に確認いただきたいものはこちらです」
アマリリアの意識が仕事へ戻った。
「三件だけですか?」
「緊急性のあるものは三件です。その他は明後日以降で問題ありません」
「通知試行は?」
「新しい報告はありません」
「第二共同倉庫は?」
「通常稼働です。昨日開始した表示板前の空間確保についても、現時点で問題報告はありません」
「フォード商会は?」
「資料が勝手に増えることはございません」
アマリリアはディーンを見た。
「私、資料が増えたかどうかを聞いたわけではありません」
「読むご予定があるのかと」
「ありません!」
「安心しました」
「だから皆様、私を何だと思っておりますの!」
ゼインが淡々と口を挟む。
「未読資料を見つけると、内容を確認するまで落ち着かない方です」
「最近は違います!」
「存じております。ですから安心したのです」
「褒められている気がしませんわ!」
ライルが隣で笑っている。
しかし、アマリリア自身も机の端に置かれたフォード商会の資料束を見て、以前ほど強く続きを読みたいとは思わなかった。
気にならないわけではない。
昨日までに読んだ資料から、新しい疑問はいくつも残っている。
共同輸送によって予定到着時刻は全体として安定した一方、集積所を増やした一路線では小さな遅れが増えていた。それが時間制約の強い小口荷と重なるのかは、まだ分からない。
答えは資料束の中にあるかもしれない。
なくても、今日知る必要はない。
「では、三件を確認しましょう」
アマリリアは自分の席へ座った。
「昼前には帰るんだよね?」
ライルも隣へ座る。
「もちろんです」
「途中で新しい問題を見つけても?」
「今日中に対応しなければ困るものなら対応します。そうでなければ置いていきます」
「俺もそうする」
「約束ですわよ」
「うん」
互いに確認してから、仕事を始めた。
◇◇◇
三件の書類は、思っていたより早く片づいた。
一件目は地方水路の補修費変更についての確認。
二件目は冬季用備蓄倉庫の点検日程。
三件目は王都北側の街灯修繕に関する支出承認だった。
どれも判断そのものが難しい案件ではなく、担当部署で必要な確認も済んでいる。
アマリリアは書類へ目を通し、必要な部分だけ確認した。
追加資料を求めない。
関連する過去三年分の数字も開かない。
気になる項目が一つあったが、今日の決定へ影響しないと判断して余白へ印だけ残した。
ライルも自分の担当分を終え、筆を置く。
「終わった」
「私もです」
二人がほぼ同時に顔を上げた。
ディーンが時計を見る。
「予定より少し早いですね」
「では」
アマリリアは立ち上がろうとした。
その瞬間、扉がノックされた。
足が止まる。
ライルも扉を見る。
ディーンが応答すると、若い文官が一人入ってきた。
「失礼いたします。王都外縁門管理局より、冬季閉鎖時刻変更通知について――」
アマリリアとライルの視線が同時に文官の手元へ向いた。
紙がある。
夜間門の通知試行。
昨日まで結果を急がないと決めていた案件だ。
文官は二人の反応など知らず、ディーンへ紙を差し出した。
「担当者より、確認項目への記入を終えたとの連絡です。通常の文書確認と合わせて、内政文書局へ送付されました。こちらはその写しになります」
ディーンが受け取る。
「ありがとうございます」
文官が退室した。
扉が閉まる。
静かになる。
机の上に、新しい紙が一枚ある。
アマリリアは見た。
ライルも見た。
ディーンは何も言わない。
ゼインも黙っている。
「……」
非常に気になる。
夜間門の担当者は十一年の経験があり、同種の冬季通知を六回作っている。
公的倉庫側では、正式通知の主担当が三件目のオスカーが試行質問をきっかけに地方窓口の旧様式残部へ意識を向けた。
では、経験の長い夜間門担当者はどう答えたのか。
問いは役立ったのか。
何も変わらなかったのか。
書きにくかったのか。
アマリリアの視線が紙へ吸い寄せられる。
「読む?」
ライルが尋ねた。
声に笑いはなかった。
彼自身も気になっているのだろう。
アマリリアは時計を見た。
まだ時間はある。
読んでも劇場には間に合う。
一枚だけなら数分だ。
けれど、内容を読めば考える。
何か見つかれば、さらに聞きたくなるかもしれない。
それを止めることもできるだろう。
では、なぜ今読む必要があるのか。
「緊急ですか?」
アマリリアはディーンへ尋ねた。
「いいえ」
「今日中に王宮から返答する必要は?」
「ありません。通常の通知作成工程にも影響しません」
「内政文書局では?」
「通常確認を進めています。今回の写しは、試行対象として共有されたものです」
アマリリアはもう一度紙を見た。
そして、息を吐く。
「では、明後日にします」
ディーンが頷いた。
「承知しました」
紙が未確認箱へ置かれる。
見えなくなった。
「いいの?」
ライルが聞いた。
「良くありません」
「良くないの?」
「気になります!」
ライルが吹き出した。
「ものすごく気になりますけれど、今読まなくても誰も困りません!」
「俺も気になる」
「でしょう?」
「でも明後日?」
「明後日です」
「じゃあ俺も待つ」
それで終わった。
たったそれだけだった。
けれど、アマリリアは妙な達成感を覚えた。
読まなかったことではない。
読むか読まないかを、気分ではなく必要性で決められたことが嬉しい。
「では帰ります」
今度こそ立ち上がる。
ゼインが確認するように尋ねた。
「途中で市場へ寄られますか?」
「寄りません」
「第二共同倉庫は?」
「行きません」
「公的倉庫管理局へオスカー殿の様子を見に?」
「行きません!」
「劇場へ向かわれる前に、劇場周辺の人流だけ確認――」
「ゼイン!」
とうとうアマリリアが声を上げると、ゼインはわずかに笑った。
「確認しただけです」
「絶対に楽しんでおりますわよね!」
執務室に笑いが広がった。
仕事は、そこへ置いていく。
今日のアマリリアにとって、それが最初の予定だった。
◇◇◇
侯爵邸へ戻ると、屋敷の空気が朝とは少し違っていた。
もちろん大騒ぎしているわけではない。
舞踏会でも式典でもなく、第一王子と正式な婚約者が劇場へ出かけるだけだ。
それでも玄関には外出用の馬車について確認する執事がおり、護衛担当者がハロルドと短く話している。衣装室では侍女たちがすでに準備を始めており、アマリリアが戻ったと知ると、一人が階段まで迎えに来た。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りました」
「お支度まで少しお休みになりますか?」
その問いに、アマリリアは少し驚いた。
以前なら「すぐ始めてください」と言ったかもしれない。
しかし、時間には余裕がある。
「お茶をいただいてからにします」
「かしこまりました」
自室へ戻り、軽い茶と菓子を口にする。
窓の外では昼を過ぎた日差しが庭へ落ち、葉の色が鮮やかに見えた。劇場へ出かけるまでにはまだ十分な時間があり、急ぐ必要はない。
それでも落ち着かない。
何度も時計を見そうになる。
手帳を開きそうになって、やめた。
仕事の手帳ではないが、今は何かを書く必要もなかった。
「お嬢様」
茶を片づけに来た侍女が声をかける。
「そろそろお支度を始めましょうか」
「お願いします」
衣装室へ移る。
灰青色のドレスが待っていた。
最終確認ですでに一度着ている。
初めて見るわけではない。
それなのに今日改めて目にすると、まったく違うものに感じられた。
あの日は確認だった。
今日は、この服でライルと出かける。
侍女たちの手で普段着が外され、灰青色の生地が身体へ沿わせられていく。腰回りを整え、背中の留め具を確認し、裾の長さをもう一度見る。
派手ではない。
けれど劇場の照明を受ければ、青とも灰色ともつかない落ち着いた色が柔らかく浮かぶよう仕立てられている。
袖口は少しだけ調整されていた。
そこへ最後に、葉模様の木製腕飾りがつけられる。
小さな花の彫りが、灰青色の布の上に見える。
アマリリアは鏡越しにそれを見た。
「……やっぱり、これがいいですわね」
「とてもよくお似合いです」
侍女が答える。
宝石なら他にもある。
第一王子の婚約者として劇場へ出るなら、もっと高価なものを身につけてもおかしくない。
けれど今日は、これがいい。
市場でライルが選んでくれたもの。
二人で歩いた日の記憶があるもの。
それを、彼が選んだ灰青色のドレスと一緒につける。
「髪は予定通りでよろしいですか?」
「はい」
髪は完全に上げず、後ろ半分をまとめる。
飾りも控えめだ。
大きな宝石ではなく、小さな銀細工を数点。
仕上がっていく自分を鏡で見ながら、アマリリアは少し不思議な気分になった。
王宮へ出る時の自分とは違う。
公式行事のために着飾った自分とも違う。
第一王子の婚約者として見られることは避けられないが、それだけのために着ているのではない。
ライルに見てもらいたい。
そう思って選んだ服ではないのに、彼が選んだものを身につけてみれば、自然とそう思う。
「お嬢様、できました」
侍女たちが一歩下がる。
アマリリアは立ち上がり、鏡の前でゆっくり身体を向けた。
灰青色の裾が静かに動く。
腕を少し上げると、木製の葉が袖口から自然に見えた。
「ありがとうございます」
侍女たちへ礼を言う。
すると、年若い侍女の一人が少し迷ってから口を開いた。
「殿下も、お喜びになると思います」
アマリリアは鏡の中の自分を見たまま、少しだけ頬を緩めた。
「ええ」
今なら、素直にそう思える。
「喜んでくださると嬉しいです」
◇◇◇
階下へ降りると、ハロルドが玄関広間で待っていた。
護衛の最終確認をしていたらしい。
アマリリアの足音に気づき、振り返る。
そのまま一瞬だけ止まった。
「……何ですの?」
「いや」
「何か言ってくださいませ」
「似合っている」
最終確認の日にも聞いた。
けれど今日改めて父から言われると、少し違って聞こえる。
「ありがとうございます」
「前にも言ったが、少し大人っぽく見えるな」
「本当に少しだけなのですね」
「急に別人になられても困る」
「それはそうですけれど」
ハロルドの視線が腕飾りへ移る。
「それもつけたのか」
「もちろんです」
「そうか」
それ以上は言わなかった。
以前なら、第一王子から贈られた品を娘が毎日のように身につけていることへ、もう少し複雑な顔をしただろう。
今も完全に面白くないわけではないらしい。
けれど、外せとは言わない。
アマリリアが嬉しいなら、それでいい。
その線を父なりに守ってくれている。
「ライル殿下は王宮から直接こちらへ来る予定だ」
「はい」
「もうすぐ着くだろう」
その言葉だけで、胸が少し高鳴った。
鏡では何度も確認した。
けれど、ライルがどう見るかは別だ。
「緊張しているのか?」
「しておりません」
「そうか」
「……少しだけです」
ハロルドの眉がわずかに上がった。
「お前が言い直すとは珍しいな」
「最近は正直なのです」
「それは良いことだ」
「お父様に言われると、何となく腹が立ちますわね」
「なぜだ」
「分かりません」
そんな話をしているうちに、屋敷の外から馬車の到着を知らせる声が聞こえた。
アマリリアの視線が玄関扉へ向く。
ハロルドもそちらを見る。
「来たようだな」
執事が扉を開ける。
外の明るい光が玄関広間へ差し込んだ。
◇◇◇
最初に見えたのは護衛だった。
その後ろから、ライルが入ってくる。
濃茶。
アマリリアが選んだ色。
最終確認の日にも見たはずなのに、今日の彼はやはり違って見えた。
濃茶の上着は、普段王宮で身につける濃紺や黒より柔らかい。金糸の装飾は襟と袖に控えめに入り、第一王子としての品格を失わない程度に整えられている。
けれど、公式行事のための服ではない。
アマリリアと劇場へ行くための服だ。
その事実が、見え方を変えているのかもしれない。
ライルも足を止めた。
視線がアマリリアへ向く。
最終確認の日と同じだ。
しばらく何も言わない。
アマリリアは待った。
今日は、先にからかわない。
彼が何を言うのか聞きたかった。
「……灰青色」
「そこからですの?」
思わず笑ってしまった。
ライルも笑う。
「だって言いたかった」
「回数制限はありませんからね」
「うん」
ライルが一歩近づく。
視線がドレスから顔へ戻り、そして袖口に見える腕飾りへ落ちた。
「それもつけてくれた」
「約束しましたでしょう?」
「分かってたけど、嬉しい」
声が柔らかい。
アマリリアは腕を少しだけ動かした。
葉の飾りが光を受ける。
「このドレスにも合います」
「うん」
「ライル様」
「何?」
今度はアマリリアが彼を見た。
濃茶の上着。
自分が選んだもの。
最終確認の日にも似合うと言った。
けれど今日は、もっと素直に言いたい。
「とてもよくお似合いです」
ライルが目を瞬いた。
「……本当?」
「なぜ疑うのです」
「いや、嬉しくて」
「私が選んだのですから、似合っていただかなくては困ります」
「そこは素直じゃない」
「今、十分素直でした!」
「もう一回」
「嫌です」
「灰青色」
「交換条件ではありません!」
二人が笑う。
その少し離れた場所で、ハロルドが腕を組んでいた。
ライルがようやく気づいたように姿勢を正す。
「ベスター侯爵。本日は――」
「娘を返す時刻だけ守れ」
「はい」
「護衛の予定を勝手に変えるな」
「はい」
「劇場の支配人を呼ぶな」
「なぜ私ではなく殿下へ言うのです!」
「お前に言っても聞かない可能性がある」
「ひどい!」
ライルが笑いを堪えている。
「殿下も笑わないでくださいませ!」
「ごめん。でも侯爵の言うこと、ちょっと分かる」
「分からないでください!」
玄関にいた使用人たちも、露骨ではないものの楽しそうな顔をしている。
正式な婚約が発表されたばかりの頃は、第一王子が侯爵邸へ来るたび、もっと緊張した空気があった。
今は違う。
礼節は守られている。
護衛もいる。
立場も変わっていない。
それでも、この家の人々はライルを「お嬢様が好きな人」として見るようになっていた。
アマリリアはその変化が、嫌ではなかった。
「では、行ってまいります」
「ああ」
ハロルドが頷く。
アマリリアが玄関へ向かうと、ライルが自然に手を差し出した。
以前なら、周囲の視線を一度確認したかもしれない。
今日はそのまま取った。
指が重なる。
ハロルドの視線を感じる。
けれど何も言われない。
「お父様」
「何だ」
「行ってまいります」
「楽しんでこい」
昨日と同じ言葉だった。
アマリリアは笑った。
「はい」
◇◇◇
馬車が動き出す。
侯爵邸の門が後ろへ遠ざかり、王都の通りへ出た。
市場の日とは違い、今日は最初から護衛付きの馬車移動だ。劇場周辺では第一王子が訪れることも知られているため、完全なお忍びにはできない。
それでも、車内にはアマリリアとライルしかいなかった。
向かい合わせではなく、同じ側へ座っている。
ライルがもう一度アマリリアを見る。
「何です?」
「いや」
「さっきから見すぎです」
「見ていい日かと思って」
「普段から見ているではありませんか」
「今日は灰青色だから」
「便利な言葉になっておりますわね、それ」
「本当に似合ってる」
今度は冗談ではない声だった。
アマリリアは一瞬返事を忘れた。
最終確認の日にも「綺麗」と言われた。
今日も、同じように胸の奥が熱くなる。
何度言われても慣れない。
けれど、慣れなくてもいい気がした。
「……ありがとうございます」
「うん」
「ライル様も、本当に似合っております」
「ありがとう」
今度は互いにからかわなかった。
馬車の車輪が石畳を一定の調子で進む。
窓の外では王都の午後が流れていく。買い物袋を抱えた人、店先の看板を掛け直す商人、荷車を引く運送人、路地から飛び出して母親に呼び戻される子供。
市場調査を始めてから、こういう景色を見ると以前より多くのものが目に入るようになった。
荷車を見る。
道幅を見る。
店の前に積まれた箱を見る。
人がどこで止まり、何を避けて歩くのかまで、気づけば見ている。
アマリリアは一台の荷車を目で追いかけそうになった。
その荷台には、色の違う布が二枚見えた。
赤と青。
「……」
見覚えがある。
ベルク運送組の色分けかもしれない。
赤はローデン工房。
青はベルク商会預かり倉庫。
確認したくなる。
アマリリアは窓から顔を戻した。
「今、何か見つけた?」
ライルが尋ねる。
「見つけておりません」
「絶対何か見た」
「荷車に赤と青の布がありました」
「ベルク?」
「かもしれません」
「追う?」
「追いません!」
「聞いただけ」
「殿下まで一緒になって調査を始めたら意味がありません!」
ライルが笑う。
「ちゃんと戻ってきたね」
「見えるものは見えてしまうのです」
「うん。それは仕方ない」
その言い方に、アマリリアは少しだけ肩の力を抜いた。
見ないようにする必要はない。
気づかない人になる必要もない。
ただ、気づいたものを全部追いかけなくていい。
「ライル様」
「何?」
「殿下も、もし何か気づいても今日は言わないでくださいませ」
「劇場のことなら?」
「それは言ってください」
「じゃあ、今一個ある」
「何です?」
「君、さっきから何回も腕飾り見てる」
アマリリアは自分の左手を見る。
無意識だった。
「……見ておりました?」
「うん」
「殿下は本当に見すぎです」
「嬉しいから」
「何がです?」
「俺が渡したものを、君が大事にしてくれてるの」
返事がすぐに出なかった。
市場で買ってもらった時は、ただ嬉しかった。
その後も何度もつけた。
今では身につけることが自然になっている。
けれど、それを贈った側がどう感じているかまでは、あまり考えていなかった。
「大事です」
アマリリアは腕飾りへ指先で触れた。
「とても」
ライルの表情が柔らかくなる。
「そっか」
「はい」
アマリリアは少し迷ってから、彼の手を取った。
ライルの指が自然に絡む。
馬車の外には多くの人がいる。
仕事も暮らしも動いている。
それでも今、車内にいる二人が急いで考えなければならないことは何もなかった。
◇◇◇
劇場へ近づくにつれ、通りを歩く人の服装が少しずつ華やかになっていった。
今日の公演を見に行くらしい男女や家族連れが増え、馬車の数も多くなる。劇場前の広場には露店が並び、焼いた木の実や小さな菓子、花飾りなどが売られていた。
「人が多いね」
「人気の公演なのでしょう?」
「そうみたい」
「内容はまだ言わないでくださいませ」
「言わないよ」
「結末も」
「知らない」
「本当に?」
「母上からも聞いてない」
「なら良いです」
馬車が劇場前へ入る。
護衛が先に降り、周囲を確認した。
第一王子の馬車に気づいた人々の間から、小さなどよめきが広がる。
完全な公式訪問ではない。
それでもライルの顔を知る者は多い。
「第一王子殿下だ」
「隣はベスター侯爵令嬢じゃない?」
「婚約者の……」
囁き声が聞こえる。
アマリリアは一瞬だけ背筋を伸ばした。
市場デートの時より、人目は多い。
しかも今日は正式な婚約者として二人でいることが明らかだ。
扉が開き、ライルが先に降りる。
そしてアマリリアへ手を差し出した。
灰青色の裾を整え、彼の手を取る。
馬車から降りた瞬間、周囲の視線が集まった。
以前なら、まず自分がどう見られているかを考えただろう。
第一王子の婚約者として問題がないか。
振る舞いは適切か。
父の家に恥をかかせないか。
今も、それを忘れたわけではない。
けれど、今日はそれだけではなかった。
隣を見る。
濃茶のライルがいる。
「大丈夫?」
小さな声で尋ねられる。
「何がです?」
「見られてるから」
アマリリアは周囲を一度見た。
人々は確かに見ている。
好奇心。
微笑み。
驚き。
中には婚約者同士の距離を確かめるような視線もある。
アマリリアはライルの手を離さなかった。
「構いません」
「いいの?」
「仲が良いと思われるのでしょう?」
「たぶん」
「実際に仲が良いのですから、問題ありません」
ライルが少しだけ目を見開いた。
数日前、王宮の廊下でも似たことを言った。
それでも、これだけ人がいる場所で同じように言うのは少し違う。
「じゃあ、このまま?」
「はい」
手をつないだまま歩き出す。
周囲の囁きが少し増えた。
「手、つないでる」
「本当に仲が良いのね」
「殿下、嬉しそう」
最後の声が聞こえたらしい。
アマリリアが隣を見る。
確かにライルは嬉しそうだった。
「殿下」
「何?」
「顔に出ております」
「何が?」
「嬉しいのが」
「隠した方がいい?」
アマリリアは少し考えた。
「いいえ」
「じゃあ、このまま」
「はい」
劇場の大きな入口が近づく。
石造りの正面には高い柱が並び、その間に今日の演目を示す大きな看板が掲げられていた。開演を待つ人々が列を作り、係員が順番に券を確認している。
アマリリアの視線が自然に人の流れへ向いた。
入口は三つ。
右側は一般席。
中央は上階席。
左側は――。
「アマリリア」
「はい」
「今、入口の人の流れ見た?」
「……見ました」
「分かりにくい?」
「まだ何も言っておりません!」
「支配人は?」
「呼びません!」
近くにいた護衛が、必死に表情を変えないよう前を向いている。
ライルは楽しそうに笑った。
「約束守ってる」
「まだ入口です!」
「劇場の中でも?」
「守ります!」
「椅子の配置が変でも?」
「観察だけです!」
「観察はするんだ」
「見えるものは仕方ありません!」
二人で笑いながら入口へ向かう。
王族用の別入口へ案内されるのかと思っていたが、ディーンが事前に調整したらしく、警備上問題のない範囲で通常の上階席入口から入れるようになっていた。
完全に一般客と同じではない。
護衛もいる。
係員も事前に把握している。
それでも、人のいない裏口から直接特別室へ入るよりは、劇場へ来たという感覚がある。
「これ、ディーンが?」
ライルが小声で尋ねる。
「おそらく」
「後で礼を言おう」
「そうですね」
係員が二人を見て緊張したように姿勢を正した。
「第一王子殿下、ベスター侯爵令嬢。お待ちしておりました」
「今日はよろしく」
ライルが答える。
アマリリアも軽く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
係員は一瞬驚いたようだった。
おそらく、第一王子とその婚約者がもっと堅苦しく入ってくると思っていたのだろう。
「お席までご案内いたします」
中へ入る。
劇場の空気が変わった。
外の明るさから一転し、玄関広間には暖色の照明が灯されている。磨かれた床には人々の足音が重なり、受付付近からは紙券を扱う乾いた音が聞こえた。
香水。
焼き菓子。
木材。
少し古い布。
いくつもの匂いが混ざっている。
壁には過去の演目を描いた絵が並び、階段の手すりには細かな彫刻が施されていた。
「すごい」
ライルが小さく呟いた。
第一王子として劇場へ来た経験はあるはずだ。
けれど、その声は公式訪問の時とは違うのだろう。
「殿下、劇場は初めてではありませんよね?」
「もちろん。でも、前は王族席へ直接入ったから」
「今日は違いますものね」
「うん」
二人は係員の後ろを歩く。
階段へ向かう途中、売店の前を通った。
小さな焼き菓子。
飲み物。
演目の絵が入った紙。
出演者の名前が記された冊子。
アマリリアの視線が、その中の一つへ止まる。
「気になる?」
ライルがすぐに気づいた。
「演目の冊子です」
「買う?」
「内容がどこまで書いてあるのでしょう」
「結末が載ってたら困る?」
「非常に困ります」
係員が振り返り、慌てて答えた。
「本日の冊子には、演目の導入と出演者紹介のみでございます。結末や後半の展開は記載しておりません」
アマリリアとライルが同時に係員を見る。
係員の顔が少し強張った。
「……申し訳ございません。聞こえてしまいまして」
「いえ、助かりました」
アマリリアは笑った。
「では一部いただけます?」
「もちろんでございます」
護衛が支払おうと動いたが、ライルが自分の財布を出した。
アマリリアはその動きを見て、思わず笑う。
「市場の日と同じですね」
「今日はちゃんと持ってきた」
「前も持っておりましたでしょう?」
「君にまた確認されるかと思って」
「もう確認しません!」
冊子を一部買う。
ライルが受け取り、アマリリアとの間で開いた。
「一冊?」
「一緒に見るから」
その言葉が自然すぎて、アマリリアは一瞬だけ黙った。
「嫌だった?」
「いいえ」
むしろ嬉しい。
「一緒に見ましょう」
二人で頁を開く。
今日の演目は、古い港町を舞台にした物語らしい。
港を離れたい若い地図職人と、港へ戻ってきた旅商人。
導入だけが短く書かれている。
「地図職人」
ライルの目が少し輝いた。
アマリリアは横顔を見る。
「殿下、好きそうですわね」
「地図ってだけで?」
「古い道の記録がお好きでしょう?」
「君、本当に見てるね」
「言ったでしょう。よく見ておりますので」
ライルが嬉しそうに笑う。
「でも、港町の地図だから道とは違うか」
「また分析を始めます?」
「まだ始まってないよ」
「では、始まってから考えましょう」
「うん」
冊子を閉じる。
結末は知らない。
どういう話になるのかも分からない。
それが、思った以上に楽しかった。
◇◇◇
案内された上階席は、舞台を斜め前から見下ろす位置にあった。
王族専用の特別室ではなく、一般の上級席を数席だけ警備上調整して確保した形らしい。左右には他の観客もおり、完全に二人だけではない。
それがアマリリアには嬉しかった。
劇場へ来た人々のざわめきが聞こえる。
開演前の期待に満ちた声。
席を探す人。
冊子を読む人。
舞台を指さす子供。
隣同士で何かを話して笑う夫婦。
誰もが、それぞれの理由でここへ来ている。
「ここです」
係員が示した。
ライルが先にアマリリアを通す。
「ありがとう」
座る。
椅子は深い赤色の布張りだった。
アマリリアは背もたれへ身体を預け、舞台を見る。
よく見える。
非常によく見える。
「どう?」
ライルが隣へ座る。
「良い席です」
「椅子は?」
「座りやすいです」
「配置は?」
「殿下」
「確認」
「調査しません!」
また笑ってしまう。
近くの席にいた年配の女性が二人を見て、微笑んだ。
目が合う。
アマリリアは少しだけ会釈した。
女性も嬉しそうに頭を下げる。
「仲がよろしいのですね」
突然そう言われ、アマリリアは目を瞬いた。
女性の隣に座る夫らしい男性が慌てる。
「おい、殿下方に何を」
「だって、楽しそうですもの」
女性は悪びれない。
護衛がわずかに反応したが、ライルが小さく手で制した。
「はい」
ライルが答える。
アマリリアが横を見る。
「仲は良いです」
あまりにも自然に答えるものだから、年配の女性が嬉しそうに笑った。
「それは何よりです」
「ありがとうございます」
今度はアマリリアも答えた。
夫らしい男性はまだ恐縮している。
「申し訳ございません、妻が」
「構いません」
アマリリアは微笑んだ。
「事実ですので」
ライルが固まった。
女性が「あら」と笑う。
アマリリアはそこでようやく、自分が何を言ったのか理解した。
「……何です?」
ライルの視線が痛い。
「いや」
「何ですの?」
「嬉しい」
「それは分かります!」
「もう一回言って」
「言いません!」
年配の女性がますます楽しそうに笑い、夫はとうとう諦めたように肩を落とした。
周囲にも少しだけ柔らかな空気が広がる。
第一王子と婚約者がいることで緊張していた人たちも、二人が普通に話しているのを見て、少しずつ自分たちの会話へ戻っていった。
アマリリアは舞台へ視線を戻す。
幕はまだ閉じている。
その向こうから、演者か裏方が動く小さな音が聞こえる。
「アマリリア」
ライルが小声で呼んだ。
「何です?」
「来てよかった」
「まだ始まっておりませんよ」
「もう楽しいから」
アマリリアは少し黙った。
自分も同じだった。
朝起きた時から。
王宮で仕事を置いてきた時も。
灰青色へ着替えた時も。
濃茶のライルを見た時も。
馬車で手をつないだ時も。
劇場へ入って冊子を一緒に買った時も。
まだ舞台は始まっていない。
それなのに、もう今日の記憶はいくつも増えている。
「私もです」
アマリリアは素直に答えた。
「まだ始まっていないのに、もう楽しいです」
「準備も含めてデートって言っただろ?」
「覚えております」
「じゃあ今日は、朝からずっと?」
「それは少し長すぎません?」
「俺は朝から楽しみだった」
「私も早く目が覚めました」
言ってから、しまったと思った。
ライルの顔が変わる。
「早く?」
「予定より少しだけです」
「楽しみで?」
「……たまたまです」
「朝から?」
「ライル様」
「はい」
「舞台を見ましょう」
「まだ始まってないよ」
「幕でも見ていてくださいませ!」
笑いを堪えるライルの腕を軽く押す。
その時、劇場内の照明が少し暗くなった。
ざわめきがゆっくりと収まっていく。
あちこちで冊子を閉じる音がした。
子供の声を親が静かに制し、客たちの視線が舞台へ集まる。
アマリリアも姿勢を整えた。
ライルの手が、座席の間で少し動く。
触れるか触れないかの距離。
アマリリアは一度舞台を見たまま、その手へ自分の指先を重ねた。
ライルがこちらを見る。
暗くなり始めた客席の中でも、その表情が柔らかくなるのが分かった。
指が絡む。
誰にも見せるためではない。
何かを確かめるためでもない。
ただ、そうしたかった。
舞台の前で楽団が最初の音を鳴らした。
低い弦の響きが劇場全体へ広がり、それまで残っていた小さな話し声が消えていく。
幕の向こうに灯りがともる。
古い港町の波音を模した音が聞こえた。
アマリリアは息を整え、舞台を見る。
仕事のことは、もう頭になかった。
通知試行の結果も。
共同輸送の残り資料も。
第二共同倉庫の表示も。
今、自分が知りたいのは、この幕の向こうで何が始まるのかだけだった。
隣にはライルがいる。
つないだ手は温かい。
そして、ゆっくりと幕が上がった。
劇場デートは、ようやくここから始まる。




