第79話 劇場前日に仕事を増やさないと決めたら、『何もしない』のではなく明日へ持ち込まないための整理が必要でした
翌朝、アマリリアが目を覚ました時、最初に頭へ浮かんだのは通知試行でも共同輸送でもなかった。
薄い寝台掛けの向こうから差し込む朝日はまだ淡く、窓辺では侍女がカーテンを開いている。昨夜より風は弱まったらしく、庭の木々が揺れる音もほとんど聞こえない。代わりに廊下の向こうから朝食を運ぶ台車の車輪が床を転がる音が届き、ベスター侯爵邸がゆっくり一日を始めていた。
アマリリアは枕元へ手を伸ばし、いつもの癖で置いてある小さな予定紙を見た。
そこには今日の予定が簡潔に並んでいる。
午前、王妃教育。
第二共同倉庫からの定時報告確認。
午後、通常書類整理。
通知試行は、回答が届いた場合のみ確認。
フォード商会資料は予定なし。
そして一番下に、仕事とは明らかに違う文字があった。
『明日 劇場』
「……明日」
声にしてから、自分で少し笑った。
ライルなら、今日会った瞬間に言うだろう。
あと一日、と。
昨日まで毎日数えていたのだから、今日だけ忘れるとは思えない。
むしろ自分より早く言うに違いない。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「ええ」
カーテンを開け終えた侍女が振り返った。
「おはようございます」
「おはようございます」
起き上がると、朝の冷えた空気が頬に触れる。
明日着る灰青色のドレスはすでに最終調整を終え、別室で保管されている。葉を模した木製の腕飾りも、普段使いの小物とは別にして準備されていた。
今日はまだ着ない。
明日だ。
そう思うだけで、胸の奥がくすぐったい。
「お嬢様」
「何です?」
「少し嬉しそうでいらっしゃいますね」
髪を整える準備をしていた侍女が、鏡越しに微笑んだ。
以前なら、反射的に表情を引き締めていたかもしれない。
けれど今日は、その必要を感じなかった。
「ええ。明日、劇場ですもの」
「存じております」
「皆様ご存じなのですか?」
「侯爵家の護衛予定にも関わりますので」
「……それはそうでした」
何となく恥ずかしくなったが、侍女はそれ以上からかわなかった。
ただ、髪を梳く手が少しだけ楽しそうに見える。
アマリリアは鏡の中の自分を見た。
仕事は今日もある。
通知試行は途中だ。
共同輸送の資料も残っている。
第二共同倉庫の本試験も続いている。
それでも、明日は劇場へ行く。
そのために今日すべてを終わらせる必要はない。
昨日まで何度もそう考えてきた。
問題は、それを本当に前日になっても守れるかどうかだった。
◇◇◇
「あと一日」
「やはり言いましたわね」
王宮の執務室へ入ったアマリリアが挨拶を終えるより早く、ライルはそう告げた。
朝の光が大きな窓から差し込む室内には、すでにディーンとゼインもいる。机には通常業務の書類が数束置かれていたが、フォード商会の資料は昨日と同じ位置に閉じたまま積まれていた。
ライルは自分の席へ座ることさえせず、どこか満足そうな顔でアマリリアを見ている。
「今日は俺が先だった」
「競争ではありません」
「君も朝、数えた?」
アマリリアは一瞬黙った。
「……数えてはおりません」
「本当?」
「予定紙に『明日、劇場』と書いてあっただけです」
「見たんだ」
「見ました」
「楽しみ?」
昨日までなら、ここで「毎日聞くのですか」と返しただろう。
今日は素直に頷いた。
「とても」
ライルの顔が明るくなる。
「俺も」
「存じております」
「じゃあ今日も仕事を増やさないようにしないと」
「その言い方ですと、私が放っておけば勝手に仕事を増やす人のようではありません?」
誰も答えなかった。
アマリリアは室内を見回した。
「ディーン?」
「本日の予定を確認いたします」
「ゼイン?」
「私は何も申し上げておりません」
「殿下?」
「……仕事、始めようか」
「全員逃げましたわね!」
朝から声を上げたせいで、扉の外を通りかかった侍女が小さく肩を揺らした。
けれど笑いが落ち着くと、ディーンが本当に今日の予定表を広げた。
「昨日お伝えした通り、通知試行について新規の聞き取り予定はありません。公的倉庫管理局から回答が届いた場合のみ内容を確認します。夜間門についても、通常の通知作成を続けてもらいます」
「はい」
「フォード商会の資料は?」
「本日の予定には入れておりません」
アマリリアは机の端にある資料束へ視線を向けた。
残りは数枚。
読もうと思えば、一枚くらいは読める。
昨日も一枚だけ読んだ。
今日も一枚だけなら、大きな負担ではない。
そう考えかけたところで、ライルがこちらを見ていることに気づいた。
「何ですの?」
「いや」
「今、『読むって言うかな』と思いましたね?」
「ちょっと」
「読みません!」
「まだ何も言ってないのに」
「顔が言っております!」
昨日ゼインへ言ったような台詞を、今日はライルへ向けている。
アマリリアは自分でも可笑しくなりながら、資料束から意識して視線を外した。
「今日は、読まない日にします」
「理由は?」
「劇場前日だから、ではありません」
アマリリアは自分の予定表を指した。
「今日確認すべき通常業務があります。フォード商会の資料は今日でなくても困りません。それだけです」
ライルが嬉しそうに頷いた。
「うん」
「何です、その満足そうな顔は」
「ちゃんと優先順位で決めたなって」
「褒めております?」
「褒めてる」
「では受け取ります」
以前なら「子供ではありません」と反発していたかもしれない。
最近は、ライルからの言葉を素直に受け取ることが増えた。
褒められたから成長したわけではない。
けれど、自分の変化を隣の人が見てくれているのは嬉しい。
「ただし」
アマリリアは人差し指を立てた。
「明日が劇場だから何も仕事をしない、という意味でもありません。今日必要なことは今日します」
「もちろん」
「そして、明日へ持ち込む必要がないものは、今日きちんと区切ります」
「区切る?」
「はい」
アマリリアは机上の書類を見た。
「昨日まで、『全部終わらせなくていい』と考えていました。でも、終わらせないことと、途中のまま放置することは違いますでしょう?」
ディーンがわずかに頷く。
「引き継ぎや再開地点が分からない状態で離れれば、翌々日に余計な確認が増えます」
「そうです。ですから今日は、仕事を増やさない代わりに、どこで止めたかを分かるようにして終えます」
ライルが少し考えた。
「明日、仕事を考えなくて済むように?」
「それもあります」
「いいね」
「殿下もですよ」
「俺も?」
「当然です。明日劇場へ向かう馬車の中で、『警備局の冬季配置案の続きが……』などと言い出したら怒ります」
「言わないよ」
「本当に?」
「君より信用ない?」
「種類が違います」
「どう違うの?」
「私は気になると調べ始めます。殿下は気になると私へ相談し始めます」
「……否定できない」
「でしょう?」
ライルが少し困った顔をし、ゼインが静かに口元を緩めた。
◇◇◇
午前の王妃教育では、セレーネから新しい課題を増やされることはなかった。
王妃の執務室には柔らかな日差しが入り、机の端に置かれた花瓶には淡い黄色の花が数本飾られている。秋が深まり始めたためか、茶も冷たいものではなく温かなものに変わっており、湯気と一緒に甘い香りが立ち上っていた。
今日確認したのは、地方役所から王都へ上がる定例報告の扱いだった。
報告の中には、毎月必ず数字を確認すべき項目もあれば、変化があった時だけ詳しく見る項目もある。セレーネは三つの地方から届いた報告をアマリリアとライルへ並べ、どれを今詳しく見るかだけを尋ねた。
以前なら、アマリリアは三つとも読んだ上で判断しただろう。
今日は表紙と要約欄を確認し、一件だけを選んだ。
「これです」
「理由は?」
「西部の水路補修費だけ、前月の見込みから変化が大きいからです。他二件は定例範囲内ですので、今日は概要確認だけでよいと思います」
「では、残り二件に重要なことがないと断言できる?」
「できません」
アマリリアはすぐに答えた。
「ですが、すべてを同じ深さで見ることもできません。通常範囲内の二件は担当部署が確認しており、異常報告も付いていません。今ここで王族が全部読み直す必要性は低いです」
セレーネは満足そうに頷いた。
「ライルは?」
「俺も西部です。ただ、補修費が増えた理由だけじゃなくて、予定工期が変わったかを先に見たいです」
「どうして?」
「費用だけ増えて工期が同じなら、資材や人手の単価かもしれない。でも工期も延びてるなら、現場条件そのものが変わった可能性があるから」
アマリリアは横に座るライルを見た。
彼はすでに報告書の該当欄へ目を向けている。
以前より、数字を見た瞬間に良し悪しを決めなくなった。
何が変わった数字なのか。
何と一緒に見るべきなのか。
それを自然に考えるようになっている。
「アマリリア」
セレーネに呼ばれ、視線を戻す。
「今、ライルを見ていたでしょう」
「見ておりました」
「何か言いたそうね」
「よく気づくようになったと思いまして」
「本人へ言えば?」
「王妃陛下まで褒めることを推奨しないでくださいませ」
「嫌なの?」
「嫌ではありませんけれど!」
ライルが隣で笑っている。
「俺は嬉しい」
「存じております!」
セレーネは楽しそうに茶を飲んだ。
「二人とも、明日は劇場でしょう」
「はい」
「はい」
返事が重なった。
「今日は何時まで仕事をする予定?」
アマリリアは少し考えた。
「通常通りです」
「遅くまで残らない?」
「残りません」
「明日の朝は?」
「必要な連絡だけ確認します」
ライルが横から付け加える。
「俺も午前の予定は軽くしてもらってる。緊急案件がなければ、昼前には仕事を切り上げる予定」
「良いでしょう」
セレーネは二人を見比べた。
「劇場の日に仕事をしないために、前日に倍働くというのは駄目よ」
「分かっております」
アマリリアは即答した。
「本当に?」
「王妃陛下まで信用してくださいませ!」
「信用しているから確認しているのよ」
「それはディーンもよく使う言い方です!」
壁際に控えていた侍女が、また少し笑った。
セレーネも隠さない。
「それから、明日の劇場について一つだけ」
「何でしょう」
「楽しんできなさい」
あまりにも単純な言葉だった。
けれど、アマリリアは少しだけ目を瞬いた。
王妃教育の場で、何か注意をされると思っていた。
王族としての振る舞い。
護衛との距離。
人目。
そういう話ではなかった。
「……はい」
「ライルも」
「もちろん」
「劇の内容を分析して報告する必要もありません」
「母上、それはアマリリアに言って」
「殿下!」
「だって俺、劇場支配人を呼ぼうとしたことないよ」
「私だって呼んでおりません!」
「呼ばない約束をしただけだね」
「もう!」
セレーネの笑い声に見送られながら、二人は王妃の執務室を後にした。
◇◇◇
執務室へ戻る途中、ディーンが第二共同倉庫からの定時報告を持って合流した。
「本日の報告です」
「問題が?」
アマリリアが尋ねると、ディーンは首を横に振った。
「大きな問題ではありません。むしろ、以前から確認していた表示板の見え方について、現場から一件だけ変更案が出ています」
「どのような?」
「西側区画の詳細表示板です。背の低い作業員から、荷が積み上がった時に上部が見えにくいという意見が以前ありました。現場側で、表示板そのものを低くするのではなく、荷を置いてはいけない範囲を床へ簡単に示す案を試したいとのことです」
アマリリアは歩みを少し緩めた。
「床へ?」
「はい。ただし、恒久的な塗装ではありません。まず紐と小さな木札で、表示板前の空間を塞がないようにするだけです」
「表示を増やすのではなく、表示が見えなくなる原因を減らす?」
ライルが尋ねた。
「現場の説明では、その意図です」
「いいね」
アマリリアもそう思った。
これまでなら、見えにくいと言われれば、表示板の高さを変える、もう一枚増やす、文字を大きくする、と表示そのものへ手を加えることを考えていたかもしれない。
だが今回は、見えなくなる原因が荷による遮蔽なら、荷を置く位置を少し変えるという方法がある。
「試すのに王宮の許可は必要ですか?」
「不要です」
ディーンが答えた。
「通常の倉庫運用範囲です。現場責任者も安全上の問題はないと判断しています」
「では、やっていただきましょう」
「追加の記録は?」
「通常の本試験記録へ、変更した日だけ残してください」
「見えた人数は?」
ライルがわざとらしく尋ねる。
「数えません!」
「何秒早く見つけたかは?」
「測りません!」
「背の高さ別に?」
「殿下!」
ライルが笑い、ディーンまで少し口元を緩めた。
「普通に使って、邪魔なら戻す。それで十分です」
アマリリアは言い直した。
「もし明らかに良かったなら、その時に本試験の結果を見る際、途中で環境が変わったことを忘れないようにすればよいです」
「承知しました」
そこで報告は終わった。
以前なら、現場案が出るたびに詳しい試験条件を作りたくなったかもしれない。
今は、倉庫は研究室ではなく働く場所だと分かっている。
役立ちそうな小さな改善まで、比較条件を守るために止める必要はない。
「今日の倉庫は、それだけ?」
ライルが尋ねる。
「はい」
「じゃあ終わり?」
「終わりです」
「聞き取りに行かない?」
「行きません!」
「完璧」
「その言い方をやめてくださいませ!」
けれど、笑っている自分がいる。
◇◇◇
昼食を終えた後、思いがけず別の短い報告が届いた。
以前、共有厨房の冬季薪置き場について出ていた改善案だった。
西側から吹き込む雨で薪が濡れたことがあり、壁を作れば防げるかもしれない。しかし全面を塞げば、厨房周辺の風通しや煙の流れへ影響する可能性がある。
そのため、管理側と実際に厨房を使う者、さらに建物を扱う職人へ確認を回していた。
「職人から返事が来ました」
ディーンが薄い報告紙を置く。
アマリリアはフォード商会の資料束ではなく、そちらへ手を伸ばした。
「全面壁は勧めない、と」
「はい。現在の風向きと煙抜きを考えると、冬季でも西側を完全に塞ぐのは避けた方がよいとのことです」
「では、屋根?」
「まず屋根の張り出しを少し延ばす案です。それで横雨がどの程度減るかを見る。必要であれば、その後に腰の高さ程度の取り外し可能な板を追加することを検討する、と」
ライルが紙を覗き込んだ。
「最初から両方やらないんだ」
「職人の意見では、屋根だけで十分な可能性があるそうです」
「足りなかったら板?」
「はい」
アマリリアは少し笑った。
「良いと思います」
「すぐ工事する?」
「管理側の通常予算で可能なのですか?」
「屋根の小規模延長だけなら、修繕枠内です」
「では王宮から特別な指示は必要ありませんね」
「ありません」
「なら、管理側で進めていただきましょう」
アマリリアは報告紙を戻した。
大きな制度ではない。
市場全体を変える話でもない。
共有厨房の薪が雨で濡れにくくなるかもしれない。
それだけだ。
しかし、こういう小さな改善も暮らしの一部なのだと思う。
「これも結果を詳しく取る?」
ライルが尋ねる。
「取りません」
「何本濡れたか」
「数えません」
「薪の乾燥時間を」
「測りません!」
「雨量別に」
「殿下、今日はそればかりですわね!」
「止める練習」
「私ではなく殿下が楽しんでいるだけでしょう!」
「ばれた?」
「最初から分かっております!」
笑い声が執務室へ広がった。
ゼインは呆れたような顔をしていたが、やはり口元は少し緩んでいる。
「ただ」
アマリリアは笑いを収めてから続けた。
「次に強い雨があった後、使っている方へ『前より困らなかったか』くらいは聞いてもよいと思います」
「数字じゃなくて?」
「はい。屋根を伸ばしたせいで別の場所へ雨水が落ちるようになった、などということもありますから」
「改善したら終わり、じゃない?」
「でも、毎日観察する必要もありません」
それくらいがちょうどいい。
今はそう思えた。
◇◇◇
午後も半ばを過ぎた頃、公的倉庫管理局から二度目の連絡が届いた。
昨日、オスカーが通常の確認先三か所へ問い合わせていた旧様式の扱いについて、回答が揃ったらしい。
「今、見ますか?」
ディーンが尋ねる。
アマリリアは時計を見た。
今日予定していた通常書類は、あと一束。
この連絡自体は短い。
明日まで待つ必要もない。
劇場前日だからといって、必要な連絡まで避けるのは違う。
「見ます。ただし、これを見た後に新しい問い合わせは始めません」
「承知しました」
ディーンが紙を開く。
「三か所の地方窓口のうち、一か所は旧様式の予備をすでに処分予定として分けて保管。もう一か所は、新様式到着後に旧様式を入れ替える予定。残る一か所では、旧様式の予備が受付棚に残ったままでした」
アマリリアの表情が少し引き締まる。
「実際に配布されていた?」
「現時点では、窓口担当者が申請者へ手渡す形式です。自由に持ち帰る棚ではありません。ただし、担当者からは『施行日を越えて残しておけば、誤って渡す可能性はある』との回答です」
「市場で見た事例と似てる」
ライルが小さく言う。
「似ておりますが、同じではありません」
アマリリアは紙へ目を落とした。
市場では、旧様式が現場へ残り続け、変更を知らない利用者が実際に使っていた。
今回の公的倉庫では、まだ施行前だ。
しかも、誤使用は起きていない。
今の段階で「同じ問題が発生した」とは言えない。
「オスカー殿はどうする予定です?」
「三か所の回答を受け、正式通知とは別に作成予定だった地方窓口向け説明資料へ、『施行前に旧様式の残部を確認し、新様式と混在させないこと』を一文加える案を部署内で確認するとのことです」
「王宮から言ったわけではない?」
「ありません」
「文書局からも?」
「今回の試行質問以外はありません」
アマリリアは静かに息を吐いた。
問いを書いた。
地方窓口を行動が変わる立場として挙げた。
その結果、「新様式を案内するなら旧様式はどうするのか」とオスカー自身が考えた。
通常の確認先三か所へ聞いた。
一か所で旧様式が残っていることが分かった。
説明資料へ一文追加する案が出た。
流れだけを見れば、試行が役立ったように見える。
だが、ここで急いではいけない。
「記録はどうする?」
ライルが尋ねた。
「事実だけです」
アマリリアは指を折る代わりに、紙の余白を順に示した。
「質問記入後、担当者が地方窓口の旧様式扱いを確認したいと判断したこと。通常連絡予定だった三か所へ確認したこと。一か所で施行後の誤配布につながる可能性のある旧様式残部が確認されたこと。地方説明資料への注意文追加を担当部署が検討していること」
「『試行のおかげで防げた』は?」
「書きません」
「どうして?」
「まだ何も起きていないからです。それに、試行がなければ絶対に気づかなかったとも言えません」
ライルが頷いた。
「オスカーさん自身も、説明資料を作る時に気づいたかもしれないって言ってた」
「はい」
「じゃあ、『気づく時期が早まった可能性』は?」
アマリリアは少し考えた。
「それも推測です。本人へ後で感想として聞くことはできますが、こちらから事実としては書きません」
「なるほど」
ディーンが記録を取る。
ゼインが静かに尋ねた。
「残りの地方窓口も確認しますか?」
その問いは、アマリリアが今まさに考えかけたことだった。
三か所のうち一か所に残っていた。
では、他の地方窓口は。
王都から遠いところは。
小規模な窓口は。
忙しい地域は。
確認したくなる。
しかし、今回の目的は全国の旧様式残数調査ではない。
「今はしません」
「一か所で見つかっておりますが」
「だからこそ、担当部署へ任せます」
アマリリアは紙から顔を上げた。
「倉庫管理局が、通知を正しく運用するために追加確認が必要だと判断すれば、通常業務として確認するでしょう。王宮が一か所見つけた途端に全窓口調査を命じたら、結局また私たちが現場の仕事を決めることになります」
ゼインが頷いた。
「では、担当部署の判断待ちで」
「はい」
ライルは少し考え込んでいた。
「これって、試行の質問が役立つかどうかを見るつもりだったのに、実際に何か見つかると、こっちがその問題を解決したくなるんだね」
アマリリアは思わず彼を見た。
「……そうですね」
まさにその通りだった。
試行は、問いが使えるかを見るために始めた。
ところが問いによって実際の不足らしきものが見つかれば、今度はその不足を自分たちで追いたくなる。
試験と実務が完全には分かれない。
第二共同倉庫でも同じだった。
試験中に現場が役立つ改善を見つければ、比較条件を守るためだけに止めるべきではない。
しかし、中央が見つけたものすべてを自分で解決し始めれば、現場の役割を奪う。
「難しいですわね」
「うん」
「でも、少し分かってきました」
「何が?」
「見つけることと、自分で直すことは別です」
アマリリアは言葉にしてから、その響きを確かめた。
「問題を見つけた人が、必ず解決の主担当になる必要はありません。今回なら、旧様式の扱いに気づいたのはオスカー殿です。どう通知へ反映するかは倉庫管理局が考えるべきです」
「俺たちは、試行でどういうことが起きたかを見る」
「はい」
「それで、必要なら制度側を考える」
「その順番です」
今のところは。
そう心の中で付け加える。
それすら絶対の型にはしない。
◇◇◇
夕方になる前に、今日予定していた通常書類の最後の一束も確認し終えた。
アマリリアは筆を置き、机の上を見渡した。
フォード商会の資料は開いていない。
通知試行の公的倉庫側からは一つ進展があったが、追加調査は始めなかった。
夜間門側は何も届いていない。
第二共同倉庫では、表示板前を塞がないための小さな現場改善が始まる。
共有厨房では、まず屋根の張り出しを延ばす方向になった。
どれも終わってはいない。
それでいい。
「では、明日へ持ち込まないための整理をします」
アマリリアが言うと、ライルも自分の書類を閉じた。
「俺も」
ディーンがそれぞれに短い引き継ぎ紙を用意した。
アマリリアは通知試行の記録簿へ栞を挟む。
『公的倉庫――三窓口確認済み。担当部署が説明資料への追記検討。追加調査は王宮から求めず』
『夜間門――回答待ちではなく、通常通知作成継続中。催促不要』
フォード商会の資料には、昨日読んだところまでの簡単な目印だけを残す。
『次回、未読資料から再開。劇場前に読む必要なし』
最後の一文を書いてから、アマリリアは自分で笑った。
「そこまで書く?」
ライルが覗き込む。
「書きます」
「未来の自分に?」
「はい。明後日の私が、どこから再開すればよいか分かれば十分です」
「明日の君は?」
「読みません」
「絶対?」
「読みません!」
「じゃあ俺も書こうかな」
ライルは自分の冬季警備配置案へ栞を挟み、その余白へ何かを書いた。
アマリリアが覗こうとすると、手で隠される。
「何を書きましたの?」
「内緒」
「気になります」
「仕事の内容じゃないよ」
「なら余計に気になります!」
「明日になったら見せる」
「殿下!」
取り上げようとしたが、ライルは笑いながら紙を閉じてしまった。
ディーンが見て見ぬふりをし、ゼインも書類棚へ向いている。
「皆様、殿下に甘くありません?」
「明日の準備が整っているのであれば問題ありません」
ディーンが答えた。
「そういえば」
アマリリアはふと彼を見る。
「明日の護衛予定は?」
「すでに確定しています」
「経路は?」
「確定しています」
「劇場到着時刻は?」
「余裕を持たせています」
「夕食は?」
「予約済みです」
「帰路は?」
「当日の状況に応じて二経路用意しています」
「……私、何もすることがありませんわね」
「デートをしてください」
あまりにも淡々と言われ、アマリリアは言葉を失った。
ライルが隣で吹き出す。
「ディーン、今のもう一回」
「申しません」
「私だって分かっております!」
頬が少し熱い。
けれど、ディーンの言う通りだった。
護衛も移動も予約も、必要な実務はすでに整っている。
明日の自分がすることは、それらをさらに確認することではない。
灰青色のドレスを着る。
葉の腕飾りをつける。
ライルと劇場へ行く。
劇を見る。
夕食を食べる。
その後は、その時に二人で決める。
それでいい。
「では、今日は帰ります」
アマリリアが立ち上がる。
ライルもすぐに立った。
「早い」
「通常の終了時刻です!」
「残業しないだけで早く感じる」
「それは殿下も同じでしょう!」
「確かに」
二人で笑った。
◇◇◇
王宮から戻ったアマリリアを待っていたのは、父ハロルドだった。
侯爵邸の玄関広間に入ると、ちょうど外出から戻ったところらしく、濃い上着を脱いで執事へ渡している。アマリリアに気づくと、一度だけ目を細めた。
「今日は早いな」
「いつも通りです」
「最近のお前なら早い」
「お父様まで!」
ハロルドは何事もなかったように歩き出した。
「明日だからだろう」
「何がです?」
「劇場だ」
「お父様まで数えておりますの?」
「数えていない。予定として知っているだけだ」
「皆様そうおっしゃいます」
並んで廊下を歩く。
窓の外では夕日が庭の木々を赤く染めていた。使用人たちは夕食の準備に入り、奥の方から焼いた肉と香草の匂いが漂ってくる。
「仕事は片づいたのか」
ハロルドが尋ねた。
アマリリアは少しだけ考えた。
「いいえ」
父が横を見る。
「通知の試行は途中です。共同輸送の資料も残っています。共同倉庫の本試験も続いております」
「なら、なぜ帰ってきた」
「今日する仕事が終わったからです」
ハロルドは数秒黙った。
その横顔から何を考えているのかは読み取りにくい。
「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
「何ですの?」
「何がだ」
「何か言いたそうです」
「別に」
「お父様」
アマリリアが足を止めると、ハロルドも少し先で止まった。
「……前なら、『明日休む分まで今日やる』と言い出しただろうと思っただけだ」
やはり皆、同じことを考えている。
「私、そんなに信用がありませんでした?」
「信用していたから仕事を任せられた。加減については信用していなかった」
「ひどい!」
「事実だ」
言い返せないのが悔しい。
ハロルドは再び歩き出した。
「明日は仕事の話をするな」
「ライル様とも約束しております」
「劇場の支配人を呼ぶな」
「それも約束しております!」
「座席が見えにくくても」
「お父様まで同じことを!」
ハロルドの口元がわずかに上がった。
完全に楽しんでいる。
「それから」
「まだありますの?」
「楽しんでこい」
アマリリアは足を止めなかった。
けれど、一歩だけ歩幅が小さくなった。
「……はい」
「それだけだ」
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
ハロルドは前を向いたまま、短く頷いた。
その横顔はいつも通りだったが、少しだけ柔らかく見えた。
◇◇◇
夕食後、アマリリアは明日のために用意された灰青色のドレスを、もう一度だけ見に行った。
着るためではない。
本当に、見るだけだ。
衣装室には柔らかな灯りがともされ、仕立て上がったドレスが専用の台へ掛けられている。劇場の灯りの下でも沈みすぎないよう選ばれた灰青色は、昼間に見るより少し深く、落ち着いて見えた。
市場の日に着た若草色とはまるで違う。
あの日は、ライルが選んだ色を着て王都を歩いた。
木製の腕飾りを買ってもらい、花を受け取り、馬車では彼の肩で少し眠った。
明日は、また別の思い出になる。
「お嬢様」
後ろから侍女が声をかける。
「腕飾りも準備しております」
「見せてくださいませ」
小箱が開かれる。
中には、ライルから贈られた葉模様の木製腕飾りが収められていた。
小さな花の意匠が刻まれたそれは、高価な宝石ではない。
けれどアマリリアにとっては、どんな宝飾品より明日つけたいものだった。
灰青色の袖は、これが自然に見えるよう最終調整されている。
「明日、お願いします」
「かしこまりました」
箱が閉じられる。
アマリリアはもう一度ドレスを見た。
楽しみだ。
素直にそう思う。
劇の内容が期待したほど面白くなくてもいい。
座席が少しくらい見えにくくても、支配人は呼ばない。
夕食までの道で寄り道してもいい。
その後の予定は決めていない。
全部が完璧でなくていい。
ライルと行くのだから、それでいい。
「明日ですね」
侍女が静かに言った。
「ええ」
アマリリアは笑った。
「とても楽しみです」
◇◇◇
同じ頃、王宮では。
自室へ戻ったライルが、昼間アマリリアに隠した紙をもう一度開いていた。
冬季警備配置案の栞として挟んだ紙の裏。
そこには仕事とはまったく関係のない短い一文がある。
『明日は、アマリリアと楽しむ』
自分で書いた文字を見て、ライルは少しだけ恥ずかしくなった。
王子としての予定なら、もっと細かい。
出発時刻。
護衛。
到着。
劇場。
夕食。
帰路。
けれど、自分にとって一番大事な予定は、それだけだった。
アマリリアと楽しむ。
仕事を持ち込まない。
正しい答えを探さない。
予定通りにいかないことがあっても、それを失敗にしない。
市場の日に二人で知った楽しさを、今度は劇場でまた増やす。
ライルは紙を折り、明日使う予定の私物入れへしまった。
机の上には、明日のために用意された濃茶の上着が見える。
アマリリアが選んだ色だ。
「……濃茶」
思わず自分で呟いてから、ライルは笑った。
明日になれば、きっと本人からも言われる。
そして自分も、灰青色と言うだろう。
回数制限は、もうない。
◇◇◇
その夜、アマリリアは寝台へ入る前に、普段使いの手帳を開いた。
仕事の記録ではない。
市場の日にも持っていた、自分の小さな手帳だった。
間には、あの日受け取った花が薄い紙に挟まれている。
少し乾いて色は変わっているが、まだ形は残っていた。
その近くには、以前自分で書いた一文がある。
『二人で選ぶのは楽しい』
アマリリアはしばらくそれを眺めた。
明日の服も、二人で選んだ。
ライルが灰青色を選んだ。
自分が濃茶を選んだ。
夕食の後は決めていない。
それも二人で、その時に選ぶ。
アマリリアは新しい頁を開いた。
何を書くか少し考え、筆を取る。
『明日、劇場。』
そこまで書いて、止まった。
仕事なら、その後に確認事項を書くだろう。
出発時刻。
持ち物。
注意点。
未処理案件。
だが今日は、それらを書かなかった。
代わりに、一行だけ続ける。
『楽しみ。』
たったそれだけだった。
けれど、書いた文字を見ていると、自然に頬が緩んだ。
机には仕事の資料がない。
フォード商会の残り資料も王宮に置いてきた。
通知試行の結果も、夜間門からはまだ届いていない。
明日の朝、何か緊急の連絡があれば確認する。
なければ、そのまま置いていく。
世界は、アマリリアが一日仕事から離れても動く。
倉庫では作業員が荷を運ぶ。
公的倉庫ではオスカーたちが通知を作る。
夜間門ではバルドが今年の変更を整える。
共有厨房では職人と管理者が屋根の修繕を進める。
フォード商会では共同輸送の荷車が今日も街道を走っているだろう。
自分が見ていない間も、人は考え、働き、暮らしている。
それは以前なら少し怖かった。
自分の知らないところで何かが起きること。
自分が確認していないこと。
自分が答えを持っていないこと。
今は、それを当然のこととして受け止められる。
全部を見ることはできない。
だから、必要な時に見る。
知らなければ知ればいい。
任せられるところは任せる。
そして、自分の暮らしを持つ。
アマリリアは手帳を閉じ、灯りを落とす前に窓の外を見た。
夜空には雲が少なく、月明かりが庭の木々を淡く照らしている。
明日も晴れそうだった。
劇場まで、あと一日。
正確には、もう眠って朝を迎えれば、その日が来る。
アマリリアは寝台へ入り、掛け布を肩まで引き上げた。
今日終わらなかった仕事のことは、不思議なくらい頭へ浮かばなかった。
代わりに思い出したのは、最終確認の日に灰青色のドレスを見たライルが、しばらく言葉を失っていた顔だった。
明日は、自分も濃茶の彼を見る。
きっとまた、似合うと思う。
そして今度は、最初からちゃんと言おう。
そう考えながら目を閉じる。
明日は仕事の続きをする日ではない。
ライルと劇場へ行く日だった。




