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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第78話 共同輸送の路線別資料を見たら、同じ仕組みなのに『便利になった道』と『寄り道が増えた道』では話が違いました


 翌朝、アマリリアが王宮の執務室へ入って最初に見たのは、通知試行の記録簿ではなかった。


 正確には、一度そちらへ視線を向けたものの、机の端に昨日と変わらない厚さで置かれていることを確認しただけで、手を伸ばさなかった。


 公的倉庫の様式改定について、オスカー・レイは地方窓口で旧様式がどう扱われているかを通常業務の中で確認することになっている。夜間門の閉鎖時刻変更を担当するバルド・ケインは、すでに普段から関係者の行動変化を考えており、今回の二つの質問では新しい気づきがほとんどなかった。


 どちらにも、今日までに答えを返すよう求めてはいない。


 だから、何も届いていない。


 それで正常だった。


「おはようございます」


 窓際で書類棚を確認していたディーンが振り返る。


「おはようございます」


 アマリリアは上着を整えながら席へ向かい、椅子を引いた。


 朝の王宮は、昨日より少し冷えていた。雲は薄いものの風があり、中庭の木々から落ちた葉が石畳の上を滑るたび、乾いた音が窓越しにかすかに届く。部屋の隅には朝のうちだけ小さな火鉢が置かれ、炭の熱が冷えた空気をゆっくり和らげていた。


「通知試行から何か届きました?」


 尋ねてから、アマリリアは一瞬だけ眉を寄せた。


 ディーンがこちらを見る。


「ありません」


「そうですか」


「確認しますか?」


「しません」


「倉庫管理局へ?」


「しません」


「夜間門担当へ?」


「しません!」


「承知しました」


 淡々と答えられたことで、妙に負けた気がする。


「念のため聞いただけですわよ」


「何も申し上げておりません」


「その『何も言っていない』が一番腹立たしい時がありますわね」


 ディーンは返事をせず、次の書類へ視線を落とした。


 アマリリアも机へ向き直る。


 昨日の自分なら、待つと決めた。


 今日の自分は、その決定を守ればいい。


 通知試行の結果が返ってこないことを「進んでいない」と考える必要はない。担当者たちは通知試行だけを仕事にしているわけではなく、それぞれの通常業務の中で必要な確認をしている。


 そこへ王宮から「どうなりました」と聞けば、それだけで優先順位を変えさせるかもしれない。


「……何も届いていないことを確認できたので、十分です」


「はい」


「今のは褒めてもよろしいところでは?」


「私からアマリリア様を?」


「やはり結構です」


 朝から何を言っているのだろう。


 そう思ったところで扉が開き、ライルが入ってきた。


「おはよう、アマリリア」


「おはようございます、殿下」


 ライルはいつものように隣の席へ向かいながら、机の上を一度見渡した。


「通知、来た?」


「来ておりません」


「聞きに行く?」


「行きません!」


「うん。知ってた」


「では、なぜ聞いたのです?」


「確認」


「皆様、私で遊んでおりません?」


 後ろから入ってきたゼインは何も答えず、壁際へ向かった。


 その沈黙が答えのようで腹立たしい。


 ライルは笑いながら椅子へ座り、朝一番に届いていた別の報告書へ手を伸ばした。


 そこでアマリリアは気づく。


「殿下」


「何?」


「今日は、まだ言っておりませんね」


 ライルが手を止める。


 数秒考えたあと、ぱっと顔を上げた。


「あと二日」


「やはり忘れておりませんでしたのね」


「忘れるわけないだろ」


「昨日、毎日報告するとおっしゃっていましたものね」


「うん。だから君も」


 期待に満ちた顔で見られる。


 アマリリアはわざと少し間を置いた。


 ライルの眉がわずかに下がる。


 それを見てから、笑った。


「楽しみです」


 たったそれだけで、ライルの顔が明るくなった。


「俺も」


「それでは仕事を始めましょう」


「切り替え早くない?」


「仕事の時間ですもの」


 けれど、自分の声が少し弾んでいることには気づいていた。


          ◇◇◇


 午前中は、通知試行にも共同輸送にも触れなかった。


 アマリリアには王妃教育の一環として確認する地方予算の概要があり、ライルには警備局から上がってきた冬季配置案への確認事項がある。どちらも今日中にすべて終わらせる必要はないが、決められた時間に確認しておくべき通常の仕事だった。


 以前なら、気になる案件が一つあるだけで、その周辺へ意識の大半を持っていかれていたかもしれない。


 今も気にならないわけではない。


 フォード商会の残り資料は机の端にある。


 昨日見た遅延資料では、共同輸送拡大後、主要四路線全体で予定時刻からのずれが減っていた。一方、途中集積所を二か所追加した路線では、半刻以内の遅れが増えている。


 その遅れが誰を困らせたのか。


 前日に見た「次の共同便まで待てない小口荷」と関係するのか。


 答えが残りの束にあるかもしれない。


 それでも午前は開かない。


 窓の外で雲が流れ、日差しが机の上へ入ったり消えたりする。そのたび書類の白さが変わる中、アマリリアは地方予算の数字へ視線を戻した。


「北東部の道路補修費、前年より増えておりますね」


 向かいのディーンへ確認すると、彼は関連資料を一枚取り出した。


「春先の雪解けで損傷した区間が含まれています。新規拡張ではありません」


「では、維持費の増加として見た方がよいですね」


「はい」


 そこで終える。


 なぜその道が壊れたのか。


 荷車の通行量が増えたのか。


 どの村が一番使っているのか。


 調べようと思えば調べられる。


 だが、今見ているのは予算概要であり、道路研究ではない。


 必要な確認だけを済ませ、次の項目へ移る。


 それが以前よりずっと自然にできるようになったことに、アマリリア自身が少し驚いていた。


 昼前になると、ライルが自分の資料を閉じた。


「終わった?」


「今日見る分は」


「俺も」


 アマリリアは机の端へ目を向けた。


 フォード商会の資料束がある。


 ライルも同じ方向を見た。


「昼食」


「分かっております」


「一枚だけ先に、とか」


「読みません!」


「よし」


「殿下はいつから私の監督役になりましたの?」


「三日前くらい?」


「最近すぎます!」


 ライルが笑い、アマリリアも椅子から立ち上がった。


 今日の資料は午後に一枚。


 そう決めている。


 決めたことを守るのに、毎回大きな覚悟が必要なわけではない。


 昼食は昼食として食べればいい。


          ◇◇◇


 午後、フォード商会の資料束から次の一枚を取り出したのは、予定していた仕事を一つ終えた後だった。


 アマリリアの隣にはライルが座り、向かいにはディーン、少し離れた壁際にはゼインがいる。


 今日の表題は、『共同輸送拡大後の主要路線別利用傾向』。


「路線別ですね」


 アマリリアは表題を確認し、紙を机へ広げた。


「昨日、遅れが増えてた路線のこともあるかな」


「あるかもしれません」


「最初からそこだけ見ない?」


「はい。四路線全部を見ます」


 資料は昨日と同じ四路線を対象としていた。


 ただし、今回は到着時刻ではなく、共同輸送を利用する荷の種類、利用頻度、途中集積所での積み替え量、同一路線で個別輸送を併用する割合などが大まかに整理されている。


 フォード商会が関与した荷だけの資料であり、市場全体を示すものではないという注意書きも、上部に改めて記載されていた。


「毎回書いてありますね」


 ライルが注意書きを指す。


「大事なのでしょう。フォード商会の数字が大きくても、市場そのものではない、と」


「ミハイルさんらしい?」


「どうでしょう」


 アマリリアは少し考えた。


「少なくとも、彼は自分の数字だけで市場全体を語るなとは最初から言っております」


「うん」


「だからといって、数字の出し方まで完全に中立だと決める必要もありません」


「見るけど、信じすぎない?」


「疑いすぎもしません」


「難しいね」


「難しいですわね」


 二人で同時に紙へ視線を戻す。


 まず、主要街道をほぼ直線的に結ぶ第一路線。


 共同輸送拡大後、定期利用する商人が増え、同じ送り主が一定の曜日に荷を出す割合も高くなっている。途中集積所は一か所だけで、荷の積み替えも比較的少ない。


「ここは分かりやすいですね」


 アマリリアが指で数字を追う。


「運賃は下がって、予定時刻からのずれも減って、定期利用も増えています」


「前の資料だけなら、一番うまくいってるように見える」


「はい」


「今の資料でも?」


「少なくともフォード商会が持っている数字では、大きな問題は見えません」


 ライルは少し考えたあと、紙の余白を指した。


「でも、『見えません』なんだ」


「ええ。『ありません』ではありません」


 フォード商会の記録から消えた利用者がいる可能性は、すでに前の資料で見ている。


 個人運送者が廃業したり、別の商会へ移ったり、追跡できなくなったりしている。


 この路線が全員にとって良くなった、とまでは言えない。


「ただ、今すぐこの路線の問題を探しに行く必要もありません」


「うまくいってるように見えるから?」


「今ある資料の範囲では、優先して確認したい違和感が少ないからです」


「問題がない証明じゃなくて、今の優先順位が低い」


「そういうことです」


 第二路線も似ていた。


 都市間の定期荷が多く、共同輸送との相性が良い。積載率は上がり、空荷で戻る割合も減っている。


 ただし第一路線より農産物が多く、季節による利用量の差が大きい。


「平均だけ見ると同じように良く見えるけど、季節差がある」


 ライルが呟く。


「はい。今の資料は一年分をまとめていますから、収穫期だけ切り出せば違う可能性があります」


「見る?」


 アマリリアは一瞬だけ考えた。


「今は見ません」


「即答じゃなかった」


「少し気になっただけです!」


「記録は?」


「『季節差あり』だけ残します。必要になったら戻れます」


 ディーンが短く書き留める。


 三番目の路線へ移る。


 ここで、数字の形が少し変わった。


「個別輸送との併用が多いですね」


 アマリリアが眉を寄せる。


「共同輸送を使ってるのに?」


 ライルが表へ身を寄せた。


「同じ送り主が、共同便と個別便を両方使っています」


 第一、第二路線では、共同輸送の定期利用者ほど個別輸送の利用が減っている。


 しかし第三路線では、共同輸送を利用するようになった商人の一部が、個別輸送も継続していた。


「理由欄があります」


 資料の下部には、フォード商会が把握できた範囲での簡単な理由がまとめられていた。


 共同便に載せるほど量がまとまらない荷。


 共同便の出発日と合わない荷。


 途中集積所を経由させたくない壊れやすい品。


 到着時刻を個別に指定したい荷。


 アマリリアは昨日までに見た資料を思い出した。


「『待てない荷』と少し重なりますね」


「でも、全部じゃない」


「はい」


 共同便を待てないから個別輸送を使う場合もある。


 だが、壊れやすいから積み替えを避けたい、という事情は時間だけではない。


「昨日まで、急ぎの小口荷に意識が寄っておりました」


 アマリリアは自分の考えを口にした。


「共同輸送に合わない理由は、速さだけではありませんね」


「荷物の性質もある?」


「あります。送り主が時間を指定したい場合もあります」


「じゃあ、『共同輸送に入らない荷』を全部『急ぎ』って呼んだら違う」


「違います」


 ディーンが記録へ一行加える。


 ゼインが壁際から言った。


「大きな仕組みへ乗らない理由を一つにまとめれば、対策も一つにしたくなります」


 アマリリアは頷いた。


「『急ぎ荷用の特別便を作れば解決』などと考え始めるかもしれませんね」


「それで壊れやすい品まで積み替えられたら意味ないな」


 ライルが苦笑する。


「ええ」


 ここでも、原因は一つではない。


 便利な分類ほど、中身の違いを消す。


「第三路線は、共同輸送と個別輸送が役割を分けている可能性がありますね」


「個別輸送が残ってることを、『共同輸送が広がってない失敗』って見る必要もない?」


 アマリリアはライルへ視線を向けた。


「そうですね」


 共同輸送の利用率を高めること自体を目標にすれば、個別輸送が残ることは「置き換えられていない」と評価されるかもしれない。


 だが、荷の性質によって使い分けているのなら、それはむしろ必要な選択肢が残っているとも考えられる。


「全部を一つへまとめる必要はありませんものね」


「昨日、母上も似たこと言ってた。大きな仕組みに例外を全部入れたら重くなるって」


「はい」


 共同輸送を便利にすることと、すべての輸送を共同輸送へ変えることは同じではない。


 アマリリアはその点だけを記録へ残し、四番目の路線へ進んだ。


 昨日、半刻以内の遅れが増えていた路線だ。


 途中集積所が二か所追加され、積載率を上げる代わりに、後半の到着が遅れやすくなっている。


 今日の資料では、その理由がもう少し見えた。


「小集積所からの利用が増えておりますね」


 共同輸送拡大前、この路線では主要な町から直接積む荷が中心だった。


 拡大後は、街道から少し外れた地域の荷を二つの小集積所へ集め、そこから共同便へ載せる仕組みが追加されている。


「前は共同便を使いにくかった人が使えるようになった?」


 ライルが尋ねる。


「少なくとも、この資料ではそう読めます」


 小集積所から共同便へ載せられた荷の件数は増えている。


 送り主の中には、小規模農家、町外れの工房、複数の小商店をまとめた荷も含まれていた。


「寄り道が増えたから遅れた、って昨日見たけど」


「はい」


「でも、その寄り道があるから使えるようになった人もいる」


 アマリリアはしばらく紙を見つめた。


 昨日までなら、積載率を高めるために集積所を増やした結果、遅れが増えた、と整理していた。


 それは間違いではない。


 だが、それだけではなかった。


 集積所を増やしたのは、荷をたくさん積むためだけではない。


 主要街道へ直接荷を持ち込めなかった小さな利用者を拾う役割もある。


「……便利になった人と、遅くなった人が、同じ変更の中にいるのですね」


 アマリリアが呟く。


「同じ人かもしれない」


 ライルの言葉に、彼女は顔を上げた。


「どういう意味です?」


「小集積所から初めて共同便を使えるようになった人が、前より安く運べるようになった。でも、集積所を二つ回るから到着は少し遅い。だったら、その人にとっては『便利になったけど遅くなった』かもしれない」


 アマリリアは返事をせず、もう一度資料へ視線を落とした。


 良くなった人。


 悪くなった人。


 そう分けること自体が、早すぎる場合がある。


 一人の利用者にとっても、価格は良くなり、時間は悪くなり、利用可能性は良くなることがある。


「殿下」


「何?」


「今のは、とても大事だと思います」


 ライルの顔が明るくなる。


「今日も褒められた」


「そこへ戻らないでくださいませ!」


「でも毎日」


「数える制度ではありません!」


 笑いが起きたあと、アマリリアは少し時間を置いてから続けた。


「同じ変更の効果を、人ごとに一つの良し悪しへまとめるのも危険ですね」


「安くなった、遅くなった、使えるようになった。別々に見る?」


「必要なら、です」


「また『必要なら』」


「便利な言葉なのです」


「三つの次は『必要なら』に頼ってない?」


 アマリリアの動きが止まった。


 ゼインが顔を伏せた。


 ディーンは筆を持ったまま静止している。


「……殿下」


「はい」


「最近、私への指摘が鋭くなっておりません?」


「君をよく見てるから」


 以前にも聞いた言葉だった。


 けれど、今はそれが仕事の癖にまで及んでいる。


 アマリリアは少し悔しい。


 同時に、かなり嬉しい。


「では訂正します。必要なら、ではなく――今は、この資料から分かる範囲で三つの変化を分けて残します」


「三つ?」


「違います! たまたま三つです!」


 とうとうゼインが咳払いでは誤魔化しきれず、口元を手で覆った。


「ゼイン!」


「失礼いたしました」


「絶対笑いましたわよね?」


「数字に意味はございません」


「今それを言います!?」


 室内の空気が一気に緩んだ。


 アマリリア自身も笑いながら、改めて記録をまとめる。


 第四路線。


 小集積所追加後、小規模利用者の共同便利用が増加。


 同時に、後半区間で半刻以内の遅れが増加。


 価格、到達可能性、時間の変化を一つの評価へまとめない。


 遅延が実害だったかは不明。


 小集積所利用者自身がどう評価しているかも不明。


 そこで筆を止めた。


「聞き取りは?」


 ディーンが確認する。


 アマリリアは資料束を見た。


 残りはまだある。


「しません」


「フォード商会にも?」


「まだ聞きません」


「小集積所にも?」


「聞きません」


「利用者にも?」


「今は」


 そこまで言って、ライルを見る。


 彼が少し笑っている。


「……残りの資料を先に見ます」


「うん」


「その上で、資料にないものだけ考えます」


「『必要なら』じゃなかった」


「殿下!」


 また笑われた。


          ◇◇◇


 資料を閉じたあと、アマリリアは今日の一枚を昨日までの資料へ重ねた。


 共同輸送について、少しずつ見えるものが増えている。


 小規模な個人運送者は減っている。


 その全員が共同輸送のせいで消えたわけではない。


 主要路線では単位当たり運賃が下がり、積載量が増え、空荷で戻る割合が減っている。


 小口で待てない荷の一部は、別の運送者、自前の荷車、特別便、翌日待ちなどへ流れている。


 予定到着時刻からのずれは全体では減ったが、一部路線では小さな遅れが増えた。


 そして今日、その遅れが増えた路線では、小集積所を追加したことで、以前は共同輸送へ乗りにくかった小規模利用者が使えるようになっていた。


「良くなった、悪くなった、で報告したくないですね」


 アマリリアが言うと、ライルも頷いた。


「どっちもあるから?」


「それもあります。でも、それだけではなくて……」


 言葉を探しながら、今日の表を指でなぞる。


「同じ人の中にも、良くなった部分と悪くなった部分があり得ます。安くなった代わりに少し遅い。それでも以前は利用できなかった共同便を使えるようになったなら、その人がどう感じるかは数字だけでは決められません」


「じゃあ、いつか聞く?」


「おそらく」


「誰に?」


「それはまだ決めません」


 ライルが頷く。


 以前なら、「小集積所の利用者十名へ聞き取りを」とその場で言っていたかもしれない。


 今は、残りの資料を先に見る。


 それで足りなければ、初めて誰へ聞くか考える。


 ミハイル本人に聞けば早いこともある。


 だが、彼一人の説明で市場全体を埋めない。


「フォード商会の資料、あとどのくらい?」


 ライルが束を横から覗き込む。


「まだ数枚ありますね」


「劇場までに全部読める?」


 アマリリアは束とライルを交互に見た。


「読みません」


「即答」


「劇場までに終わらせる必要はありませんもの」


「うん」


「明日も一枚読むかどうかは、明日の予定を見て決めます」


「読まない日もあり?」


「あります」


「本当に?」


「あります!」


 言い切ると、ライルが嬉しそうに笑った。


「何ですの?」


「いや、前より劇場がちゃんと守られてるなって」


「最初から守るつもりでした!」


「最初は『前日までに全部終わらせよう』ってしそうだった」


 否定できない。


 アマリリアは少しだけ視線を逸らした。


「……今は、しません」


「うん」


「仕事が終わらないからではありません。終わらせる必要がないからです」


「分かってる」


 その言い方が優しかった。


 できなかったのではない。


 やらないと選んだ。


 そこをライルが分かってくれていることが、妙に嬉しかった。


          ◇◇◇


 午後も遅くなった頃、ディーンが一通の封書を持ってきた。


「公的倉庫管理局からです」


 アマリリアの視線が封書へ吸い寄せられる。


「早かったですね」


「ただし、試行結果の正式回答ではありません」


 その一言で、伸びかけた手が止まった。


「では?」


「オスカー殿から、『地方窓口の旧様式保有状況について、通常の確認先三か所へ問い合わせた。回答は揃っていないため、揃い次第通常の通知作成へ反映する』との連絡だけです」


「三か所?」


「はい。今回の通知準備で元から連絡予定だった窓口です。新たに全地方窓口へ調査をかけたわけではありません」


 アマリリアはほっとした。


「それなら良いです」


「中身を見る?」


 ライルが尋ねる。


「今ので十分です」


「封書は?」


「ディーンへ」


「開けないの?」


「同じ内容なのでしょう?」


「はい。受領確認用の簡単な文面です」


「なら結構です」


 ディーンが封書を通常記録へ回す。


 アマリリアは、そのまま去っていく封書を目で追った。


 少し気になる。


 三か所のうち、旧様式が残っているところはあるのか。


 何枚なのか。


 配布棚へ出ているのか。


 だが、まだ回答は揃っていない。


 ここで一か所だけの途中経過を見ても、意味を大きく取りすぎるかもしれない。


「待てるようになったね」


 ライルが小声で言う。


「殿下」


「褒めてる」


「……では、受け取ります」


 言い返さなかったことで、今度はライルが驚いた。


「受け取った」


「褒め言葉を全部跳ね返す必要もありませんでしょう?」


「うん」


 嬉しそうにされる。


 自分も少し嬉しい。


 それで十分だった。


          ◇◇◇


 夕方、仕事を終えて廊下へ出ると、空は薄い茜色に染まり始めていた。


 昼間より風が強くなっており、中庭の木々がざわざわと揺れている。使用人が窓を閉めて回り、廊下の壁灯へ一つずつ火を入れていた。


「あと二日」


 階段へ向かいながらライルが言う。


「朝も聞きました」


「夕方の分」


「一日二回制度になっております!」


「駄目?」


「一回で十分です」


「一日一回?」


 アマリリアは足を止めた。


 ライルも止まる。


「……その言い方、わざとでしょう?」


「何が?」


「また数え始める気ですわね?」


「劇場まであと二日だから、最大でも二回だよ」


「そういう問題ではありません!」


 笑いながら歩き始める。


 今日も、どちらからともなく手が近づいた。


 指が重なる。


 冷え始めた廊下の空気の中で、ライルの手は温かかった。


「殿下」


「うん?」


「楽しみです」


 今度は彼に言われる前に伝えた。


 ライルの歩みが少しだけ緩くなる。


「今日二回目」


「数えないでください!」


「でも嬉しい」


「それなら良いです」


 アマリリアは前を向いたまま笑った。


「今日は共同輸送の資料を一枚だけ読みました」


「うん」


「通知試行の催促もしませんでした」


「うん」


「劇場のために仕事を放置しているわけではありません」


「分かってるよ」


 ライルはつないだ手を少し握り直した。


「君、前より仕事を大事にしてないんじゃなくて、仕事をどこまでやるかを選ぶようになったんだと思う」


 アマリリアはすぐには答えなかった。


 父ハロルドにも似たことを言われた。


 全部を見ることだけが能力ではない。


 何を自分で考え、何を人へ任せるかを選ぶようになった。


 今度はライルから、どこまでやるかを選ぶようになったと言われた。


「殿下も、随分と私を見るのがお上手になりましたね」


「前から見てたよ」


「そうでしたね」


「もっと褒めてもいい?」


「調子に乗らなければ」


「難しいな」


「では禁止です」


「早い!」


 笑い声が、夕方の回廊へ小さく響いた。


 すれ違った騎士が一礼し、その後ろにいた若い従者が一瞬だけ二人のつないだ手へ視線を向ける。すぐに顔を伏せたものの、その口元がわずかに緩んでいるのをアマリリアは見つけた。


 今日は、それを気にしなかった。


 第一王子とその婚約者が仲良く歩いている。


 そう見えるなら、それでいい。


 実際、その通りなのだから。


「明日は?」


 ライルが尋ねた。


「何がです?」


「仕事」


 アマリリアは少し考えた。


「朝の予定を見てから決めます」


「フォード資料は?」


「読まないかもしれません」


「通知は?」


「返事がなければ待ちます」


「劇場は?」


 そこだけは、考える必要がなかった。


「楽しみにします」


 ライルが笑う。


 アマリリアも笑い返した。


 今日見た共同輸送の資料には、きれいな結論などなかった。


 同じ仕組みでも、真っすぐ主要街道を走る路線と、小さな集積所をいくつも拾う路線では見える結果が違う。


 同じ利用者の中でさえ、安くなったことと遅くなったことが同時に起こり得る。


 便利になったか、不便になったか。


 どちらか一つへ急いで決めなくていい。


 仕事も同じなのかもしれない。


 進めるか、休むか。


 どちらか一つを選んだら、もう片方を捨てるわけではない。


 今日必要なところまで進め、残りは明日へ渡す。


 そして、自分の暮らしも同じ一日の中へ置いておく。


 劇場まで、あと二日。


 まだ開いていない資料が机に残っていても、その日を楽しみにしている気持ちは、少しも小さくならなかった。

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