第77話 同じ二つの質問を渡したら、経験の長い担当者ほど『今さら書く必要がありますか』と困ってしまいました
通知試行の対象を二件に決めた翌朝、アマリリアが王宮の執務室へ入ると、机の中央には見慣れないほど薄い紙が二枚だけ置かれていた。
窓の外は昨夜の雨でまだ濡れており、中庭の石畳にはところどころ浅い水たまりが残っている。朝日は雲の切れ間から弱く差し込み、庭師が落ち葉を集めるたび、湿った葉と土の匂いが開けた窓から室内へ運ばれてきた。昨日まで机を占領していた六件の候補資料はすでに片づけられ、残っているのは公的倉庫の申請様式改定と、冬季の夜間門閉鎖時刻変更に関する最低限の資料だけだった。
「……本当に二つだけですのね」
椅子へ腰を下ろしながら呟くと、向かいで書類を整理していたディーンが顔を上げた。
「昨日、そう決まりましたので」
「分かっております。分かっておりますけれど、あまりにも薄いので」
「厚くしましょうか?」
「しません!」
反射的に答えてから、アマリリアは二枚の紙を引き寄せた。
書かれている問いは、昨日セレーネへ報告したものと変わらない。
『この通知によって、必ず行動を変える必要がある立場は誰か』
『その立場は、何を変える必要があるか』
それだけだった。
回答欄も広すぎない。必要なら裏面へ続けられるが、最初から長文を書くことを求めるような作りにはしていなかった。
「所要時間を書く欄もないのですね」
「大まかな負担感は後で聞く、とのことでしたので」
「そうでした」
「秒単位で測らない、とも」
「それは何度も確認しなくて結構です!」
ディーンの表情はほとんど変わらなかったが、目元だけがわずかに緩んでいる。
そこへ扉が開き、ライルとゼインが入ってきた。ライルは朝の挨拶をしながらアマリリアの隣まで来ると、机の上にある二枚の紙を見て、少し意外そうに眉を上げた。
「これだけ?」
「殿下まで同じ反応をなさいますの?」
「いや、もっと書いてあると思ってた」
「私もです」
「作った本人が?」
「実際に見ると薄いのです!」
ゼインが二枚を一瞥してから、壁際のいつもの位置へ移動した。
「増やさないのであれば、薄いままでよろしいかと」
「増やしません」
「質問の意味についての説明書も?」
「付けません」
「回答例も?」
「付けません!」
言い切ってから、アマリリアは少しだけ不安になった。
回答例があれば、担当者は迷わない。
どの程度の詳しさで書けばいいかも分かる。
けれど、それを付ければ、今度は回答例へ引っ張られる。公的倉庫なら「旧様式を使っている人」や「地方窓口」、夜間門なら「夜間運送業者」や「宿場」といった例をこちらが先に書いてしまえば、担当者が自分でどこを見るのか分からなくなる。
ライルが二枚の紙を見比べながら、アマリリアの顔を覗き込んだ。
「今、説明を足したくなった?」
「……少しだけです」
「我慢?」
「我慢というより、足さない方が今回知りたいことに合っています」
アマリリアは一枚目を指先で軽く押さえた。
「分からなければ、分からないと言っていただけばいいのです。質問自体が分かりにくいなら、それも結果ですもの」
「答えられないのを担当者のせいにしない?」
「はい。二人とも同じところで迷うなら、問いの作り方を疑うべきでしょうね」
ライルが頷いたところで、ディーンが予定表を開いた。
「本日は、公的倉庫の担当者が午前。夜間門の担当者が午後に来られます。ただし、回答していただく場に殿下とアマリリア様が同席するかについて、確認したいことがあります」
「何でしょう」
「お二人が目の前にいる状態で、『誰が何を変える必要があるか考えてください』と渡された場合、担当者が必要以上に正解を探そうとする可能性があります」
アマリリアは一瞬、返事を忘れた。
確かにそうだ。
第一王子と、その正式な婚約者。
しかも最近、王都の市場や共同倉庫を細かく見ている二人から渡された質問である。
単なる試行だと説明しても、「何か見落としているから王子たちが確認しているのではないか」と考える人はいるだろう。
「では、私たちは回答するところを見ない方がよろしいですね」
「俺たちが見たいのは、困ってる顔じゃなくて、書いたものと後の話だもんね」
「そうです」
ライルが自然に言った言葉に、アマリリアは頷いた。
「ディーン。最初の説明だけお願いできますか?」
「はい。通常の通知作成を止めないこと、回答は評価ではないこと、分からない場合は空欄でも構わないことも伝えます」
「空欄でも?」
ライルが聞き返した。
「その方がよろしいでしょう」
アマリリアは考えながら答えた。
「無理に何かを書くよう求めれば、『特になし』で済むところにも答えを作ってしまうかもしれません。書けないなら、その理由を後で聞いた方がいいです」
「分からない、書きにくい、普段からやってるから今さら書けない。全部違うもんな」
「はい」
最後の一つが妙に具体的だったので、アマリリアはライルを見る。
「殿下、もう結果を予想しておりません?」
「予想しただけ。答えだとは思ってないよ」
「……それなら結構です」
言いながら、少し嬉しくなった。
以前なら、自分が先に言っていたことかもしれない。
今はライルの方から、予想と結果を分ける言葉が出てくる。
昨日褒めたばかりなので、今日は黙っておこうと思ったのだが、どうやら顔に出たらしい。ライルがこちらを見て、すぐに笑った。
「また褒めようとした?」
「今日はまだしておりません」
「今日は『まだ』?」
「言葉尻を拾わないでくださいませ!」
ゼインが壁際で静かに息を吐き、ディーンは何事もなかったように予定表を閉じた。
◇◇◇
午前に訪れた公的倉庫管理局の担当者は、オスカー・レイという三十代半ばの男性だった。
正式通知を主担当として作るのは今回が三件目と聞いていたが、倉庫管理局そのものには四年在籍しており、現場窓口との連絡や申請書類の確認には普段から関わっているらしい。きっちりと撫でつけた茶色の髪と、書類を持つ時に必ず端を揃える仕草が印象的で、緊張はしているものの、受け答えは落ち着いていた。
最初の説明は予定通りディーンが行い、アマリリアとライルは別室で待つことになった。
「待つの、今日二回目だね」
小さな応接室でライルが言う。
「昨日から数えるなら、もっと待っております」
「俺を待ったのも入れる?」
「それを数えるのはやめてくださいませ」
「嬉しかったのに」
「知っております!」
応接室には低い卓と四脚の椅子があり、窓際には季節の花が小さな陶器へ活けられている。壁一枚隔てた向こうにオスカーがいるはずだが、紙をめくる音さえ聞こえないほど静かだった。
アマリリアは膝の上で指を組んだ。
気になる。
どこから書くのか。
どのくらい迷うのか。
問いを見た瞬間に何を思うのか。
可能なら隣で全部見たい。
「見に行かないよね?」
「行きません」
「扉に耳をつけたり」
「しません!」
「黒装束を天井裏に」
「使いませんわよ!」
思わず声が大きくなり、廊下の向こうから控えめな咳払いが聞こえた。
アマリリアは口元を押さえた。
「殿下のせいです」
「俺?」
「そうです」
ライルは笑っていたが、やがて少し声を落とした。
「でも、こういうのも難しいね」
「何がです?」
「見れば分かることもある。でも、俺たちが見ることで変わることもある」
アマリリアは組んでいた指を少し緩めた。
第二共同倉庫でも、現場へ何を伝えるかで結果が変わる可能性を考えた。
ベルク運送組の色布をすぐに教えなかったのも、成功例を先に渡すことで、倉庫側が自分たちの使い方を考えにくくなるかもしれないと思ったからだ。
今回は、観察する側の存在そのものが影響になる。
「見る場所を増やすだけではなく、見方も考えないといけないのですね」
「王子が後ろに立ってる状態で普段通り書けって言われても、俺なら無理かも」
「殿下は王子ですけれど」
「だから想像できる」
その返しが妙に可笑しくて、アマリリアは笑った。
しばらくしてディーンが扉を開け、オスカーの回答が終わったことを告げた。
戻った会議室では、先ほどまで空白だった紙に数行の文字が増えている。
アマリリアはまず内容を読まず、オスカーの様子を見た。
「ご協力ありがとうございます。最初に申し上げておきますが、正解を確認する場ではありません。書き終えてから気づいたことでも、書きにくかったことでも、何でも構いません」
「承知しております」
オスカーは少し緊張した笑みを浮かべた。
「とはいえ、第一王子殿下とベスター侯爵令嬢のお二人に見られると思うと、全く気にしなかったとは申し上げられませんが」
「やっぱり」
ライルが小さく呟き、アマリリアは肘で軽く彼を制した。
回答には、行動を変える立場として三つが書かれていた。
申請者。
公的倉庫の受付担当者。
地方の申請受付窓口。
それぞれについて、新様式を使用する、旧様式を原則受け付けない、新様式を案内する、といった変更が簡潔に書かれている。
市場で見た過去の問題を知っているアマリリアからすれば、ここで「旧様式をすでに保管している中間利用者」や「代理記入をする者」へ目を向けたくなる。
だが、それを答えにしてはいけない。
「この二つの問いを書く前と後で、通知案へ何か変更したいと思ったところはありましたか?」
アマリリアが尋ねると、オスカーはすぐには答えなかった。
机上の自分の回答へ視線を落とし、指先で紙の端を一度整える。
「一つだけ、確認したいと思ったことが増えました」
「何でしょう」
「地方窓口へ新様式の見本を送ること自体は、もともと予定されています。ただ……」
そこで言葉を切り、少し困ったように眉を寄せた。
「新様式を案内する、と書いた時に、その窓口が旧様式を何枚持っているのか、私は把握していないと気づきました」
アマリリアは黙って続きを待った。
「旧様式は施行後、原則として受け付けません。ですが、地方窓口が古い用紙をそのまま配布棚へ置いていた場合、申請者はそれを使うかもしれません。だからといって、すべての旧用紙を回収する必要があると今ここで決めるつもりはありませんが、少なくとも窓口側がどう扱う予定なのかは、確認しておいた方がよいと思いました」
ライルがわずかに姿勢を変えた。
アマリリアも胸の奥で何かが動くのを感じた。
市場で見た問題と似ている。
けれど、アマリリアたちが答えを教えたわけではない。
問いを使った担当者自身が、そこへ目を向けた。
「その点は、この質問がなければ確認しなかったと思いますか?」
「分かりません」
オスカーは正直に答えた。
「正式通知案を文書局へ回す前に気づいた可能性もあります。地方窓口向けの説明資料を作る時に気づいたかもしれません。ただ、少なくとも今、この紙へ『地方窓口は新様式を案内する』と書いたことで、『では旧様式はどうするのか』と続けて考えました」
アマリリアはすぐに「役立った」と書きたくなる気持ちを抑えた。
「書くのは負担でした?」
「二つだけでしたので、それほどは。ですが……」
「ですが?」
「『必ず行動を変える必要がある立場』という言葉には少し迷いました」
アマリリアの視線が上がる。
「どう迷われました?」
「申請者全員、と書いてよいのかです。新様式で申請する人は変える必要がありますが、そもそも施行後に申請しない人には関係がありません。地方窓口も、申請を受け付けない小さな出張所なら行動は変わらないでしょう」
ライルがアマリリアを見る。
問いの言葉そのものへの反応だ。
「では、『必ず』が強すぎました?」
「私には少し」
オスカーは慎重に答えた。
「ただ、曖昧に『関係する立場』と聞かれたら、今度は多く書きすぎると思います。倉庫に関係する人なら、運送業者も、荷受人も、警備担当もいますので」
「難しいですわね」
アマリリアは素直に呟いた。
オスカーが少し驚いた顔をした。
侯爵令嬢から即座に修正案が出ると思っていたのかもしれない。
「今日は問いを直しません」
アマリリアは回答紙へ目を落とした。
「もう一件、同じ問いでお願いしている通知があります。その方がどう受け取るかを見てから考えます」
「承知しました」
「それから、旧様式についても、今すぐ王宮から回収を指示することはありません。通常の通知作成の中で、必要と思われる確認をしてください」
オスカーの肩から、わずかに力が抜けた。
「ありがとうございます」
その反応を見て、アマリリアは少しだけ胸が痛んだ。
自分たちが聞くだけで、相手は「王宮が何かを求めている」と感じる。
質問一つにも、立場の重さが乗る。
それは忘れてはいけない。
◇◇◇
オスカーが退出したあと、四人はすぐに結論を出さなかった。
ディーンが回答紙の写しを作り、原本を通常の通知作成資料へ戻す準備をしている間、アマリリアは窓の外を見ていた。朝に残っていた水たまりは薄くなり、雲もかなり切れている。
「役立った、と書きたくなりますね」
アマリリアが言うと、ゼインが頷いた。
「実際、旧様式の扱いへ気づいたのですから」
「でも、質問がなければ絶対に気づかなかったとは言えない」
ライルが続ける。
「本人もそう言ってた」
「はい」
「それに、質問の『必ず』で迷った」
「そこも大事です」
ディーンが写しを置いた。
「負担については、『大きくない』。所要時間は本人の感覚で数分程度。ただし、考え直した時間をどこまで含めるか本人にも分からない、とのことです」
「それで十分です。正確な時間は求めません」
アマリリアは記録用紙へ短く書き込んだ。
問いをきっかけに地方窓口の旧様式扱いを確認したいと気づいた。
問いがなくても後工程で気づいた可能性あり。
「必ず行動を変える立場」の「必ず」に迷い。
負担感は大きくない。
それ以上は書かなかった。
「これ、成功?」
ライルが尋ねる。
「まだ言いません」
「だよね」
「分かっていて聞きましたね?」
「確認」
「楽しんでおりますでしょう」
「ちょっと」
昨日と同じ返事に、アマリリアは思わず笑った。
けれど、その笑いが収まったあと、ライルは少し真面目な顔で回答紙を見た。
「俺たちが市場の旧様式のことを知ってるから、これを見ると『ほら、やっぱり必要だった』って思いやすいよね」
「……はい」
「知らない人が見ても同じ評価になるかは、分からない」
アマリリアは筆を置いた。
昨日、自分たちが既知の失敗だけを探す評価者にならないよう注意しようと決めたばかりだ。
それでも、実際に似た答えが出ると嬉しくなる。
自分たちの経験が正しかったと証明されたように感じてしまう。
「この結果をセレーネ様へ報告する時、過去の市場事例と似ていることは書きます。ただし、それを理由に『確認項目が有効』とはしません」
「うん」
「殿下、今のご指摘はとても良かったです」
言ってから、アマリリアは「あ」と思った。
ライルの表情が一瞬で明るくなる。
「今日も褒められた」
「数えない!」
「一日一回」
「制度は廃止しております!」
ディーンが無言で次の予定表を開き、ゼインは窓の外を向いた。
◇◇◇
昼食は、珍しく仕事の話をほとんどしなかった。
王宮の小食堂には焼いた白身魚と温かな豆のスープが並び、窓から差し込む昼の日差しが白い卓布を明るく照らしていた。朝の湿った冷気はすっかり薄れ、庭からは剪定された草の青い匂いが漂ってくる。
「劇場まで三日」
席へ着いてすぐライルが言った。
「日付が変わるたびに報告しなくても分かりますわよ」
「でも昨日、君から聞いた」
「昨日は聞きたかったのです」
「今日は?」
「……三日ですね」
「うん」
嬉しそうな顔をされると、それ以上文句を言う気が失せる。
アマリリアはスープを一口飲み、少し考えてから尋ねた。
「夕食の店は、もう決まっておりますの?」
「ディーンが候補を押さえてくれてる。劇場から歩いて行けるところ」
「歩くのですか?」
「嫌?」
「いいえ」
むしろ少し嬉しかった。
馬車へ乗って移動するより、劇場を出たあと、そのままライルと街を歩ける時間がある。
市場の日とは違う服装で、夕方から夜へ変わる王都を歩く。
それを想像しただけで、胸の内側がゆっくり温かくなる。
「ただ、店までの道で面白そうな露店があった場合は?」
「寄っていい」
「予定がずれますわよ?」
「夕食の予約は少し幅を持たせてあるって」
「ディーンが?」
「うん」
アマリリアは少し離れた席で食事を取っているディーンを見た。
視線に気づいた彼が、静かに会釈する。
「優秀すぎません?」
「今さら?」
「そうでした」
市場の日には、予定外の寄り道が楽しかった。
劇場の日も、すべてを決めなくていいと二人で話した。
夕食のあとも、その時に決める。
「では、寄りたいところがあれば寄りましょう」
「うん」
「ただし、仕事に関係する店は除外します」
「文具店は?」
「……」
「古書店は?」
「……」
「アマリリア?」
「古書店は趣味の場合もあります!」
「じゃあ入っていい?」
「仕事の資料を探さないなら」
「昔の街道記録は?」
「それは趣味です」
即答すると、ライルが声を立てて笑った。
「基準が君に都合よくない?」
「そんなことはありません。古い街道記録は現在の共同輸送とは関係ありませんもの」
「今の道と比べ始めたら?」
「その時は止めてくださいませ」
「分かった」
あまりにも素直に引き受けられ、アマリリアは一瞬だけ箸を止めた。
「本当に止めますの?」
「約束だから」
「私が嫌がっても?」
「劇場の日だけは」
「……では、お願いします」
自分から誰かへ「止めてほしい」と頼むことは、以前ならほとんどなかった。
自分の行動は自分で管理する。
自分で考え、自分で決める。
それが当然だと思っていた。
けれど、二人で過ごす日なら、二人で守ってもいい。
そう思えることが、少し嬉しかった。
◇◇◇
午後に現れた夜間門閉鎖時刻変更の担当者は、午前のオスカーとは対照的な人物だった。
名前はバルド・ケイン。五十歳前後の男性で、王都警備関連の文書と調整に長く関わっており、冬季の門時刻変更だけでも過去六回担当している。短く刈った灰色混じりの髪と日に焼けた顔は、書類仕事だけをしてきた人間には見えなかった。
「以前は門の現場にも?」
最初の挨拶の際、ライルが尋ねると、バルドは頷いた。
「若い頃に八年ほど。夜番もやりました。その後、調整係へ移っております」
それ以上の経歴は聞かなかった。
今回必要なのは、人物評価ではない。
午前と同じ説明をディーンが行い、同じ二つの問いを渡す。
アマリリアたちは再び別室へ移った。
ところが、今回は待ち時間がほとんどなかった。
茶を用意してくれた侍女がカップを置き終えるより先に、扉が軽く叩かれた。
「もう?」
ライルが驚いて立ち上がる。
ディーンが入ってきたが、その表情が少しだけ困っている。
「回答自体は終わりました。ただ、ケイン殿から質問があります」
「何でしょう」
「『これは、紙に書く必要がありますか』と」
アマリリアとライルは同時に顔を見合わせた。
「……どういう意味でしょう」
「直接聞いていただいた方がよいかと」
会議室へ戻ると、バルドは回答用紙を前に置いたまま待っていた。
紙には、確かに文字がある。
ただし午前のオスカーよりさらに少ない。
門警備担当。
夜間通行登録を持つ運送者。
門外宿場。
それぞれに、閉鎖時刻を半刻早める、通行時刻を調整する、到着客への案内を変更する、と簡潔に書かれている。
「ケイン殿。書く必要があるか、というのは?」
アマリリアが尋ねると、バルドは失礼にならないよう言葉を選ぶ様子を見せた。
「質問の意味は分かります。重要だとも思います。ただ、この種の通知では、私は毎年ほぼ同じことを確認しております」
「普段から?」
「はい」
バルドは自分の回答紙を指した。
「門の閉鎖時刻だけ変えて通知を出せば、夜間運送登録所から問い合わせが来ます。宿場へ伝えなければ、閉門後に着いた旅人が困ります。門番へだけ伝えて終わる話ではありません。それは過去に何度も経験しています」
アマリリアは黙って聞いた。
「ですので、今回この紙に書いた内容は、私にとっては新しく考えたことではありません。通知案を作る時点ですでに確認しています」
「では、この質問は役に立たなかった?」
ライルが尋ねる。
バルドは少し考えた。
「私個人には、今のところ大きくは」
正直な答えだった。
不快ではない。
むしろ、アマリリアは少し面白いと感じた。
午前とは違う。
「それで、『紙に書く必要がありますか』と?」
「はい。毎年この確認を文書として残す必要があるなら、残します。ただ……」
バルドは少し眉を寄せた。
「私が来年も担当するとは限りません。その意味では、紙に残す価値はあるかもしれません。しかし、毎回この欄を埋める決まりにすると、慣れた者ほど同じ文言を写すだけになる気もします」
アマリリアの背筋がわずかに伸びた。
エドガーが話していた「関係者各位」が頭をよぎる。
最初は真面目に考えて書く。
やがて欄を埋めることそのものが仕事になる。
「ケイン殿なら、どうします?」
思わず尋ねそうになり、アマリリアは直前で言葉を変えた。
「いえ。今すぐ改善案を出していただく必要はありません。もう少し、普段どのように確認しているのかだけ教えていただけますか?」
バルドは頷いた。
「前年の通知と今年の変更点を並べます。その上で、今年だけ違うところが誰に影響するかを見ます。今回なら閉鎖が半刻早まるだけですので、基本の連絡先は前年と同じです。ただ、今年は南西宿場で夜間馬車の発着が一便増えていますから、そこだけは追加確認しました」
「それは、今回の問いを書く前に?」
「はい」
「通知案にも反映されていますか?」
「宿場管理への直接連絡予定として入っています」
アマリリアはライルを見る。
ライルもこちらを見ていた。
午前のオスカーは、問いを書くことで地方窓口の旧様式へ目を向けた。
午後のバルドは、問いを渡される前から、今年だけ変わった夜間馬車へ気づいている。
「経験が長いからできるのでしょうか」
アマリリアは慎重に尋ねた。
バルドは少し笑った。
「それだけではないと思います」
「と申しますと?」
「私は昔、門に立っていましたから」
その答えは簡潔だった。
「紙で『閉門時刻変更』と書けば、作る側には一行です。しかし現場では、その半刻の間に来る荷車や旅人がいます。閉める側にいたことがあるので、誰へ伝わらないと面倒になるかを想像しやすいだけかもしれません」
経験年数。
担当回数。
現場経験。
また一つ、背景が増える。
アマリリアは思わずもっと聞きたくなった。
現場経験がある担当者とない担当者で違うのか。
文書担当になってから何年目で今の見方が身についたのか。
ほかの長期担当者も同じなのか。
だが、その問いを全部始めたら、通知試行ではなく人材調査になる。
ゼインが何も言わずこちらを見ている。
その視線だけで十分だった。
「……今日は、そこまでにします」
アマリリアが言うと、バルドは少し意外そうにした。
「よろしいので?」
「はい。非常に気になりますが、今必要な確認ではありません」
自分で言ってから、少しだけ誇らしくなった。
ライルが横で笑っている。
「何です?」
「いや、止まったなって」
「止まれます!」
「知ってる。最近は」
「またそれですの?」
バルドまでわずかに笑い、張っていた会議室の空気が少し柔らかくなった。
◇◇◇
二件目の担当者が退出したあと、机の上には二枚の回答が並んだ。
たった二枚。
質問も同じ。
けれど、返ってきたものはかなり違っていた。
「午前は、『書いたことで確認したいことが一つ増えた』」
ライルがオスカーの紙を指す。
「午後は、『普段から考えてるから今さら書く必要があるのか』」
「はい」
「これ、面白いね」
「面白いです」
アマリリアは素直に認めた。
だからこそ、危ない。
面白いと、もっと見たくなる。
二件では足りないと思い始める。
十件ならどうか。
経験の長短で分けたらどうか。
現場経験の有無なら。
通知の種類なら。
頭の中に次々と枠が生まれかける。
「アマリリア様」
ゼインが呼んだ。
「分かっております!」
「まだ何も申しておりません」
「十件に増やしません!」
「それなら結構です」
ライルが笑いながら、二枚をもう一度見比べた。
「でもさ」
「はい?」
「バルドさんには役立たなかったとしても、紙に残す意味はあるかもしれないって本人が言ったよね。来年、自分じゃないかもしれないから」
「ええ」
「じゃあ、この質問って、本人に気づかせるためだけじゃないのかも」
アマリリアの手が止まった。
「続けてください」
「その人が頭の中で考えてることを、次の人に残すために使える可能性もある?」
部屋が少し静かになった。
ディーンが書類を揃えていた手を止め、ゼインも壁から視線を外す。
アマリリアはすぐに答えなかった。
第二共同倉庫で、表示を自分ではほとんど必要としない熟練者が、新人へ教える時の共通の目印として使っていたことを思い出す。
自分には必要ない。
けれど、人へ伝える時には役立つ。
「……ありますね」
「でも、毎年同じこと書いたら形だけになる」
「はい」
「じゃあ、毎回書かせるのがいいとはまだ言えない」
「その通りです」
アマリリアはライルの横顔を見つめた。
本人への思考補助。
引き継ぎの補助。
同じ問いでも、役割が一つとは限らない。
ただし、それを制度化すれば、同じ文言を写すだけの欄になる危険もある。
「記録してください」
アマリリアがディーンへ言う。
「『経験者本人には新規の気づきがなくても、暗黙に行っている確認を次担当者へ残す用途の可能性あり。ただし、定型記入化する危険あり』と」
「承知しました」
「それから、今日の二件だけで『経験が浅い人には思考補助、長い人には引き継ぎ補助』とはまとめません」
「二人しかいないから?」
「それもあります。それ以上に、違いが経験年数だけとは分からないからです。ケイン殿には門の現場経験もありました」
「オスカーさんも倉庫の窓口には関わってる」
「はい。単純に並べられません」
ディーンの筆が紙の上を滑っていく。
アマリリアは二枚の回答を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
「それと、質問文の『必ず』は、まだ直しません」
「午前の人は迷ってたけど?」
「一人の反応だけで変えると、今度は比較できなくなります。少なくとも今回の二件は同じ問いで終えました。次に試すなら、その前に検討します」
「次、ある?」
「まだ決めません」
「完璧」
「殿下、楽しんでおりますね?」
「かなり」
アマリリアは呆れた顔を作ろうとしたが、結局笑ってしまった。
◇◇◇
夕方、セレーネへ出す短い中間報告をまとめ終えたところで、ディーンが一枚の予定表を机へ置いた。
「明日は、通知試行について新しい聞き取りはありません」
アマリリアは顔を上げた。
「ありませんの?」
「はい。公的倉庫側は旧様式の扱いについて通常業務の中で確認するとのことです。夜間門側は現在の通知案をそのまま進めます。どちらも明日中に王宮へ結果を返す必要はない、と伝えてあります」
「……そうでしたね」
「劇場まで二日となる明後日も、現時点では追加の通知試行予定を入れておりません」
「そこまで?」
「王妃陛下からも、通常予定を優先するようにと」
ライルが満足そうに頷いている。
「良いと思う」
「殿下まで」
「だって、昨日決めたばかりだよ。今日質問して、明日結果出せって言ったら、結局急がせることになる」
アマリリアは反論できなかった。
その通りだ。
制度が届くまで時間がかかると学んだのに、自分たちの試行だけ翌日に結果を求めるのはおかしい。
「では、待ちます」
「はい」
「追加で聞きません」
「はい」
「公的倉庫へ、旧様式が何枚残っているかも聞きません」
「はい」
「夜間門の過去六年分も見ません」
「はい」
「フォード商会の資料は……」
そこで少しだけ言葉が止まった。
ライルがじっと見ている。
「一枚?」
「……明日、一枚だけです」
「よし」
「なぜ殿下が許可する側なのです!」
「止めてって頼まれたから」
「それは劇場の日です!」
「練習」
「練習まで必要ですの?」
「必要かも」
言い返そうとしたが、笑ってしまった。
窓の外では、日が傾き始めている。
今日一日で、通知試行の答えが出たわけではない。
むしろ問いが増えた。
質問文の「必ず」は強すぎるのか。
熟練者が頭の中でしている確認を、どうすれば次の人へ残せるのか。
残そうとした時、それはいつ形だけの欄になるのか。
経験の違いをどこまで見るべきなのか。
それらを、今日全部調べる必要はない。
アマリリアは机の上の二枚を閉じ、通知試行の記録簿へ挟んだ。
「帰りましょうか」
自分から言うと、ライルが少し驚いた。
「もう?」
「今日の分は終わりました」
「残りの資料は?」
「明日です」
「すごい」
「その褒め方、本当にやめてくださいませ!」
笑いながら立ち上がり、二人で廊下へ出る。
夕暮れ前の王宮には、仕事を終えた職員たちが少しずつ増えていた。書類箱を抱えて歩く文官、夜番へ引き継ぐ騎士、灯りを入れ始める使用人たち。それぞれが自分の仕事を次へ渡し、一日の終わりへ向かっている。
階段を下りたところで、ライルの手が自然に近づいた。
アマリリアも迷わず指を重ねる。
「あと三日」
ライルが言った。
「知っております」
「明日になったら二日」
「それも分かります」
「明後日になったら一日」
「殿下」
「何?」
「もしかして、毎日言うつもりです?」
ライルは少し考えるふりをしたあと、笑った。
「たぶん」
「では、私も毎日言います」
「何を?」
アマリリアはつないだ手を少しだけ強く握った。
「楽しみです、と」
ライルが足を止めかけた。
その反応が予想以上に大きくて、アマリリアは少し恥ずかしくなったが、もう言葉を引っ込めるつもりはなかった。
「今日の分です」
「毎日言ってくれるの?」
「殿下が毎日残り日数を報告するのでしたら」
「絶対言う」
「即答ですのね」
「うん」
嬉しさを隠そうともしない笑顔を見ていると、アマリリアまで頬が緩む。
仕事では、問いを増やしすぎないようにする。
知らないことを無理に今日の答えへ変えない。
人によって違うものを、二件だけで一つの型へ押し込めない。
けれど、好きな人と過ごす日を楽しみにする気持ちまで、慎重に保留する必要はない。
劇場まで、あと三日。
その三日を、仕事を片づけるためだけの日にはしない。
楽しみに待つ時間も含めて、もう二人のデートは始まっているのだと、アマリリアはつないだ手の温かさの中で思っていた。




