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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第76話 通知の試行候補を絞ろうとしたら、『簡単そうな通知』ほど担当部署に余裕があるとは限りませんでした

 翌朝、アマリリアが王宮の執務室へ入ると、昨日まで机の上に並んでいた六枚の通知試行候補の横へ、新しい一覧表が一枚加えられていた。


 秋へ向かう朝の空気には少しずつ冷たさが混じり始めており、半分ほど開けられた窓から入る風が、机の端に置かれた紙をかすかに揺らしている。廊下では朝番の使用人たちが忙しなく行き交い、遠くから食器を重ねる音や、別室の扉が開閉する音が聞こえていたが、この部屋にはまだ一日の仕事が本格的に動き始める前の静けさが残っていた。


「早かったですね」


 アマリリアが一覧表へ手を伸ばすと、すでに自席で書類を整理していたディーンが顔を上げた。昨日の実務担当者との話を受けて、六件の候補について通知内容だけでなく、実際に文書を作る側がどの程度の仕事を抱えているのかも確認することになっていた。


「昨日の時点で確認できるものは、各部署から上がっている通常の進行表から拾いました。不足していた二件についてだけ、担当部署へ現在の準備状況を問い合わせています。新しい報告書を作らせたわけではありません。今どこまで進んでいるか、既存業務の中で答えられる範囲だけです」


「ありがとうございます。それなら、確認のために新しい仕事を増やしたことにはなりませんね」


「少なくとも、大きくは」


 その言い方に、アマリリアは少しだけ笑った。


 一覧表には六件の通知候補が縦に並び、その横に発出予定日、現在の文書作成段階、関係部署数、担当部署側の準備状況が簡潔に記されている。文字の量は多くない。それなのに、昨日まで六枚の候補紙を眺めていた時とは、まるで別のものが見えてくるような気がした。


 早速一番上から読み始めようとして、アマリリアは紙を持ち上げたところで手を止めた。


「ライル様は?」


「間もなくお越しになる予定です」


「では、待ちます」


 紙を机へ戻すと、ディーンの手が一瞬止まった。


 何も言わない。


 ただ、アマリリアを見る。


「……何です?」


「いえ、何も」


「その反応、昨日も見ましたわよ」


「殿下がお越しになるまでに、一通りお読みになるかと思っておりましたので」


「私だって待てます!」


 少し強く返したところで、ちょうど扉が開いた。


「何を待てるの?」


 聞き慣れた声に振り向くと、ライルがゼインとともに入ってくるところだった。どうやら最後の部分だけ聞こえていたらしく、ライルは不思議そうな顔をしている。


 アマリリアは一瞬だけ言葉に詰まったものの、誤魔化すほどのことでもないと思い直した。


「殿下をです」


 今度はライルの方が足を止めた。


 驚いたように瞬きをしたあと、その表情が目に見えて柔らかくなる。


「もう一回言って」


「嫌です」


「どうして?」


「今の反応だけで十分伝わりましたもの」


「何が?」


「嬉しかったのでしょう?」


「うん」


 あまりにも素直に認められてしまい、アマリリアの方が視線を逸らすことになった。


 以前なら、こういう時のライルはもう少し遠慮していた気がする。嬉しいと思っても、王子らしく取り繕うか、自分の感情を相手へ押しつけないよう一歩引いていた。それが今では、アマリリアが自分を待っていたと知っただけで、隠そうともせず嬉しそうにしている。


 そして、自分もそれを嫌だとは思わない。


 むしろ、少し嬉しい。


 ゼインは何も言わずに窓際の書類棚へ向かったが、その肩がわずかに揺れたのをアマリリアは見逃さなかった。


「ゼイン」


「何でしょう」


「今、笑いました?」


「いいえ」


「絶対に笑いましたわよね?」


「通知試行候補の確認を始められてはいかがでしょう」


「逃げましたわね……」


 ディーンまで視線を紙へ落としている。おそらく余計なことを言わないようにしているのだろうが、それはそれで腹立たしい。


 とはいえ、朝から少しだけ気持ちが軽くなった。


 ライルが隣の椅子へ腰を下ろすのを待ち、アマリリアは改めて一覧表を二人の間へ広げた。


「昨日の続きです。候補六件について、内容だけではなく、通常の文書作成負担、締切、関係部署、現在の準備状況まで確認していただきました」


「これを見て、試す通知を決める?」


「決められるかもしれませんし、まだ決められないかもしれません」


 ライルが小さく笑った。


「最近、君、本当にそういう言い方が増えたよね」


「悪いです?」


「全然。前なら一覧表を見た瞬間に、『今日決めます』って言ってた気がする」


 否定しようとして、やめた。


 おそらく、その通りだった。


「……では、一件目から見ます」


 誤魔化すように視線を落とすと、最初に並んでいるのは王都南側の橋梁補修に伴う、大型荷車の通行可能時間変更だった。


 昨日、通知の内容だけを見た時点では、六件の中でもかなり複雑な候補だと感じていた。橋を利用する大型荷車だけでなく、荷を送り出す商人、受け取る市場、南側門の警備、周辺の農家や店舗まで影響が広がる可能性がある。誰が行動を変える必要があるのかを考える試行としては面白い一方、最初の一件としては少し重すぎるのではないかとも考えていた。


「発出予定は十二日後」


 ライルが一覧表を指で追う。


「担当は王都施設管理局道路課。関係部署が警備局と市場管理所……でも、調整はほとんど終わってる?」


「はい」


 ディーンが手元の補足紙を確認した。


「橋の補修日程自体は確定しています。警備局とは大型荷車の通行可能時間、市場管理所とは朝の搬入が一部の時間帯へ集中する可能性について、すでに協議済みです。通知案も第一稿まで出来ています」


 アマリリアは昨日の候補紙と一覧表を並べた。


 昨日は複雑に見えた。


 今日も、内容そのものは複雑だ。


 しかし、それを扱う人たちはすでに複雑さの大半へ手を入れている。


「思っていたより進んでおりますね」


「うん。昨日は最初にやるには大変そうって思ったけど」


「私もです」


 ライルは一覧表から顔を上げた。


「でも、もうかなり考えてるなら、『誰が何を変える必要があるか』って聞いても、新しいことがあんまり出ない可能性もある?」


「あります」


 アマリリアは頷きながらも、すぐには候補から外さなかった。


「ただ、それだけで意味がないとも言えません。すでに十分考えられている通知へ確認項目を加えた時、本当に単なる重複になるのか、それとも最後に一つ抜けが見つかるのかを見ることはできます」


「じゃあ残す?」


「迷いますね」


「一件目から?」


「一件目からです」


 ライルが楽しそうに笑った。


「何ですの、その顔は」


「いや、君が一件目から保留にするの、ちょっと珍しいなって」


「私だって保留くらいします!」


「知ってる。最近は」


 最近は、という部分が妙に耳へ残った。


 アマリリアは橋梁補修の紙を、決定でも除外でもない位置へ置いた。


「保留です。最後まで見てから戻りましょう」


 二件目は、冬季の公営薪販売所における受け取り時間変更だった。


 昨日は六件の中でも比較的単純に見えた。利用者、販売所管理者、搬入業者という主な立場が想像しやすく、変更される行動も限定される。初めての試行なら、こういう通知の方が担当者も答えやすいのではないかと考えていた。


「これは有力だったよね」


「はい。少なくとも昨日の段階では」


 アマリリアは一覧表へ視線を移し、そのまま眉を寄せた。


 発出予定は七日後。


 担当は王都生活管理局燃料係。


 関係部署は一つ。


 そこまでは想像通りだった。


 問題は、その先だった。


『冬季備蓄量の最終確認遅延により、受け取り開始時刻そのものが未確定。担当者二名のうち一名が別の緊急案件対応中。通知文作成は未着手』


「……これ、今かなり忙しいんじゃない?」


 ライルの声から、先ほどまでの軽さが消えた。


「そうですね」


 アマリリアも紙を見つめる。


「通知内容そのものは比較的単純です。ですが、通知を作る前の段階がまだ終わっておりません」


「薪がどれくらい用意できるかが決まらないから、何時から渡せるかも決まらない?」


「はい」


 ディーンが補足した。


「今年は北側保管所への搬入が二日遅れています。燃料係はその調整も並行して行っているようです。問い合わせへの回答も、担当者本人ではなく同係の上役からでした」


 昨日なら、初回候補としてかなり上位に置いていただろう。


 簡単な通知。


 関係者が少ない。


 変更内容も分かりやすい。


 試行をする側から見れば扱いやすい。


 だが、実際に通知を作る人から見れば、今はそれどころではない。


「昨日、内容だけで決めていたら、これを選んでいたかもしれません」


 アマリリアが正直に言うと、ライルも頷いた。


「俺も選んだと思う」


「簡単そうな通知だからといって、担当部署にも余裕があるとは限らないのですね」


 口に出してみると、当たり前のことのようにも聞こえた。


 けれど、その当たり前を昨日は見ていなかった。


 通知を受け取る側の暮らしを見ることばかり考えて、その通知を作る側にも通常の仕事があり、忙しい時期があり、予定外の案件が割り込むことを十分に考えていなかった。


「今回は外しましょう」


 アマリリアは薪販売所の紙を別の位置へ移した。


「試行そのものから?」


「少なくとも初回からは外します。確認項目を使えば何か分かる可能性はありますが、今ここへ仕事を一つ足す理由にはなりません」


「価値がないからじゃなくて、今やると邪魔になるから?」


「その通りです」


 その違いは、きちんと残しておいた方がいい。


「ディーン。この案件を外した理由も記録してください」


「『担当部署多忙のため』でよろしいですか?」


「もう少し具体的にお願いします。冬季備蓄量の確定作業中であり、初回試行を追加する時期として不適、と。内容が単純だから試行に向かないわけではありません」


「承知しました」


 ライルが紙を見ながら、少し首を傾けた。


「理由をそこまで残すのって、後から見る人のため?」


「はい?」


「もし『薪販売所の通知は試行対象から外した』って結果だけ残ったら、後から似た通知を見た人が、『こういう単純な通知には使わないんだ』って思うかもしれない。でも今回は、通知の種類じゃなくて、担当部署が今忙しいから外したんだろ?」


 アマリリアは返事をする前に、ライルの横顔を見た。


 市場へ初めて出た頃の彼なら、ここまで自然に「後から記録を読む人がどう受け取るか」まで考えただろうか。


 少なくとも、今の問いはアマリリアが誘導したものではない。


「……はい。その通りです」


「じゃあ理由を残さないと、違う意味になる」


「ええ。とても大事です」


 思わず声が柔らかくなった。


 褒めたい。


 けれど、朝からもう一度「嬉しかった」と言わせるのも少し悔しい。


 そんなことを考えた瞬間、ライルがこちらを見た。


「今、褒めようとした?」


「しておりません」


「顔がしてた」


「殿下は私を見すぎです」


「君も俺を見てるんだろ?」


 昨日、自分が言ったことをそのまま返され、アマリリアは数秒黙った。


「……三件目へ参ります」


 窓際で資料を整理していたゼインが、今度こそ明確に咳払いした。


          ◇◇◇


 三件目の公的倉庫保管申請書様式改定は、昨日から有力候補として残していた。


 新しい様式では、預け入れ責任者と受け取り予定者を別々に記載し、施行日以降は旧様式を原則として受け付けない。市場で見た旧様式問題と似ているからこそ、アマリリアたち自身が「旧用紙を回収すべき」「中間利用者にも必ず周知すべき」と答えを先回りしてしまわないよう、意識して距離を取る必要がある案件でもあった。


「発出予定は十八日後です」


 ライルが読み上げる。


「かなり余裕がありますね」


「担当は王国倉庫管理局。新様式そのものはすでに確定していますが、正式通知については文書局との事前確認前です」


 ディーンが補足紙をめくった。


「地方窓口向けの説明資料も、まだ作成されていません。担当部署からは、通常業務内で対応可能、今回の試行に伴う追加確認が一度程度であれば問題ないとの回答です」


 アマリリアは少しだけ身を乗り出した。


「これは残しましょう」


「一件決まった?」


「候補として残します」


「まだ候補なんだ」


「最後まで見ます」


 昨日までなら、条件が揃った時点で丸をつけていたかもしれない。


 だが、まだ三件目だ。


 比較する材料は残っている。


 四件目は、王都外縁部にある夜間門の閉鎖時刻変更だった。


 冬季になると日没が早くなるため、門の閉鎖時刻と夜間通行の扱いを調整する。過去にも似た変更が何度も行われており、担当部署側に経験が蓄積されていることから、昨日はその「慣れていること」自体を試行で見直す意味があるのではないかと考えていた。


「発出予定十日後。通知案はほぼ完成」


 ライルが読む。


「関係部署が四つもありますわね」


「門警備、街道警備、宿場管理、夜間運送登録所です」


 ディーンが答えた。


「ただし毎年似た調整を行うため、各部署との連絡様式はすでにあります。担当部署からも、通常手順の範囲なら負担は大きくないとの回答でした」


「なら、試しやすい?」


「一つ懸念があります」


 ディーンは補足欄を指した。


「今回、新しい確認項目を入れる場合、『去年まで何を想定していたのか確認した方がよいのか』という質問が担当者側から出ています」


 アマリリアは紙から顔を上げた。


「まだ試行すると決めてもいないのに?」


「概要だけ伝えたところ、そう受け取られたようです」


「真面目だなあ」


 ライルが呟く。


 その一言に、アマリリアも同意した。


 新しい問いを一つ増やしただけで、担当者は過去の通知まで確認した方がいいのではないかと考え始めている。


 昨日エドガーから聞いた話が思い出された。


 新しい欄を作れば、最初は皆が真面目に書く。


 その真面目さが、制度を重くすることもある。


「試行の質問一つで、過去資料の確認まで仕事として増える可能性があるのですね」


「担当者が丁寧であればあるほど、あり得ます」


 ゼインが淡々と答えた。


「今年の通知についてだけ答えてください、と範囲を決める?」


 ライルが尋ねる。


 アマリリアはすぐには頷かなかった。


「細かく決めすぎると、今度はこちらが試行の正しいやり方を作ってしまいますね」


「じゃあ何も言わない?」


「それも違うと思います」


 しばらく考え、アマリリアは指先で一覧表の余白をなぞった。


「『過去資料まで確認する必要はありません』とは伝えましょう。今回見たいのは、確認項目を使うために何年分もの記録を調べた結果ではありませんから」


「それでも担当者が気になって見たら?」


「その時は、なぜ見ようと思ったのかを聞きます」


 ライルが頷いた。


「止めるんじゃなくて、仕事が増える原因だけ減らす?」


「そのくらいが良いと思います」


 何でも自由に任せれば現場に優しいわけではない。


 反対に、すべての手順を中央で決めれば負担が減るわけでもない。


 その間にある、必要な線を探す。


「これも候補に残します」


 アマリリアは四件目の横へ印をつけた。


 五件目の登録職人向け補助金申請期限延長は、昨日の段階では除外寄りだった。


 一覧表を見る限り、担当部署には余裕がある。通知文もほぼ出来ており、発出まで十分な時間がある。関係部署も少ない。


「条件だけ見ると、これが一番試しやすそう」


 ライルの言う通りだった。


「そうなのです」


 だからこそ、アマリリアは少し迷った。


 担当部署に負担をかけにくい。


 試行で問題が起きる可能性も低い。


 初回なら、まずこういう安全な案件で試すという考え方は十分にある。


「でも、試して何を見る?」


 ライルが先に口を開いた。


 アマリリアは視線を上げる。


「申請者は締切日を変える。受付側は締切処理日を変える。ほかに絶対に行動を変える人がいるか、と聞いても……」


「ほとんど出ない可能性が高いです」


「じゃあ、『試しやすいから試す』だけにならない?」


 その言葉に、アマリリアは紙を見直した。


 六件試した。


 そのうち五件では大きな問題がなかった。


 そんな報告は、数字だけ見れば綺麗だろう。


 だが、その五件がもともと失敗しにくく、確認項目を使っても使わなくても結果がほとんど変わらない案件ばかりなら、その数字にどれほどの意味があるのか。


「外します」


「余裕あるのに?」


「余裕があることと、試す価値があることは別です」


 ゼインが壁際から口を挟む。


「試行件数だけ増やしたければ、こういう案件をいくつも入れればよろしいでしょうね」


「そして、『六件試して五件問題なし』という立派な数字が出来上がります」


 自分で言いながら、アマリリアは露骨に嫌な顔をした。


 ライルが笑う。


「そんなに嫌?」


「嫌です。数字だけ見た人が、『ほとんど負担なく有効だった』と思うかもしれませんもの」


「最初から成功しやすいものを選んでたのに?」


「はい。そういう報告を作りたいわけではありません」


 試行は制度を褒めるためにするのではない。


 本当に使えるのかを見るためにする。


 ならば、件数を増やすためだけの案件はいらない。


「除外理由は、『試行負担が小さい一方、確認項目によって新たに把握できる内容が限定的と見込まれるため』で」


「承知しました」


 ディーンの筆が紙の上を走った。


 六件目は家畜市場の消毒手順変更だった。


 昨日の段階でも、確認項目を使う価値は高いが、初回試行には危険度が高いと判断していた。消毒手順が正しく伝わらなければ、単なる書類の不便では済まない可能性がある。


 一覧表を見た瞬間、その判断はさらに強くなった。


「発出予定六日後」


 ライルの声が少し低くなる。


「近いですね」


「衛生管理局と家畜市場管理所で最終調整中です」


 ディーンも先ほどまでより慎重な口調になった。


「昨日、洗浄場所の位置が変更されています。排水設備の都合で、当初予定していた場所が使えないことが分かったためです」


「今、まさに運用そのものを直している最中なのですね」


「はい」


 アマリリアは迷わず除外側へ紙を移した。


「初回から外します」


「これは早いね」


「失敗した時の影響が大きいこと、それから担当部署が今まさに必要な運用調整をしていること。この二つで十分です」


 試行を加えることで、消毒手順そのものの準備が遅れたら本末転倒だ。


 価値の高い案件を今使わないことは、機会を捨てることではない。


 似た種類の通知は、今後もある。


 試行の仕組みがもう少し分かってから扱えばいい。


          ◇◇◇


 六件すべてを見終える頃には、机の上に三つの小さな山が出来ていた。


 初回候補として残ったのは、公的倉庫の保管申請書様式改定と、王都外縁の夜間門閉鎖時刻変更。


 橋梁補修は保留。


 薪販売所、補助金期限延長、家畜市場の消毒手順変更は、今回は外す。


「二件になった」


 ライルが机を覗き込む。


「橋梁補修はまだ保留です」


「三件に戻る可能性ある?」


「殿下」


「はい」


「楽しんでおりますね?」


「ちょっと」


 悪びれずに認められ、アマリリアは呆れながらも笑ってしまった。


 しかし、昨日の六枚と今の六枚は、同じ紙なのに見え方がまるで違う。


 内容が簡単だから試しやすいとは限らない。


 複雑だから負担が大きいとも限らない。


 担当部署に余裕があっても、試す意味が薄いことがある。


 試す意味が大きくても、今は触らない方がいい案件もある。


「昨日より、選ばない理由が分かるね」


 ライルが三つの山を眺めながら言った。


「薪販売所は通知自体は簡単だけど、今は担当部署が忙しい。補助金は余裕があるけど、試しても分かることが少なそう。家畜市場は意味がありそうだけど、失敗した時が重いし、今ちょうど運用を詰めてる」


「はい」


「橋は複雑だけど、準備は進んでる」


「そうです」


「通知の中身だけ見てたら、分からなかった」


 アマリリアは頷いた。


 市場で制度を見るようになってから、何度も「その紙の外側」を見る必要を学んできたつもりだった。


 それでも、新しいことを始めると、また紙の中へ戻りそうになる。


 誰に届くか。


 誰が使うか。


 誰が困るか。


 そこへ今度は、誰が作るか、いつ作るか、どんな仕事の中で作るかが加わった。


「では、この二件で始めます?」


 ゼインが尋ねた。


 アマリリアは残った二枚を見た。


 口を開きかける。


 そこで、昨日の実務担当者エドガーの顔が頭に浮かんだ。


「……もう一つだけ確認したいです」


 ゼインの眉が、ごくわずかに上がる。


 ライルは笑わずに待った。


「何を?」


「実際に、この確認を書く人です」


「担当部署?」


「部署ではなく、人です」


 第二共同倉庫では、同じ仕事を教えている常勤者でも、教え方が違った。


 同じ表示を使う人でも、見る順番が違った。


 そして昨日、内政文書局でエドガーと話した時も、制度や書式だけではなく、実際にそれを扱う人の経験が回答へ影響する可能性が見えていた。


「公的倉庫の様式改定と夜間門の時刻変更。それぞれの通知案を実際に主担当として作っている方が、どのくらいこの仕事を経験しているのかだけ確認したいです」


「経験年数?」


「大まかで構いません」


 ディーンはすぐに頷かなかった。


「確認自体は可能です。ただ、人事評価や過去の成績まで必要という意味ではありませんね?」


「もちろんです。経験が長い方を良い、短い方を悪いと比べたいわけではありません」


「じゃあ、何を見るの?」


 ライルの問いに、アマリリアは少し間を置いた。


「確認項目を使った結果が、その問いのおかげなのか、その方がもともと普段からよく考えているからなのか、簡単には分けられないと思ったのです」


「人に依存する話?」


「少し似ています」


 経験の長い担当者なら、「この通知で誰が何を変えるか」という問いを紙に書かなくても、普段から自然に考えているかもしれない。


 反対に、経験が浅い担当者にとっては、その問いが考える入口になるかもしれない。


 ただし、それを確かめようとして担当歴、前部署、過去案件数、研修歴まで調べ始めれば、今度は試行そのものより大きな調査になる。


「二人を比べて、『経験が長い方が優秀でした』みたいにするのは違うよね」


「はい。そもそも二件しかありませんし、通知の内容も違います」


「じゃあ背景として残すだけ?」


「その程度でよいと思います」


 ゼインが腕を組んだ。


「また確認項目が増えましたが」


「一つだけです!」


「経験年数だけで済みますか?」


「……」


 アマリリアは口を開いたまま止まった。


 過去に似た通知を作った回数も知りたい。


 現在の部署へ来て何年かも。


 以前どんな仕事をしていたのかも、考え始めれば気になる。


「大まかな経験だけです」


「承知しました」


「本当に、それ以上は聞きません」


「まだ何も申しておりませんが」


「顔が言っております!」


 ライルがとうとう笑い出し、ディーンも筆を持ったままわずかに口元を緩めた。


          ◇◇◇


 昼食前、第二共同倉庫から短い定時連絡が届いた。


 先日、現場側が自分たちで整理した二つの共通事項――荷札と置こうとしている場所が合っているか迷った時は置く前に止まること、自分だけで正しいと決めず別の作業員か責任者へ聞くこと――は、そのまま朝の説明へ組み込まれている。


 今のところ新しい問題はない。


 説明時間も大きく伸びていない。


 追加の詳細記録は求めていないため、報告もそれだけだった。


「以上です」


 ディーンが紙を置いた。


 アマリリアは続きを待ちそうになって、やめた。


「では、倉庫は今日はそれで」


「追加確認は?」


「しません」


「誰がどの教え方をしたかも?」


「聞きません」


「迷ったと認識した回数も?」


「聞きません!」


 ゼインの視線が少しだけ柔らかくなった。


「安心しました」


「皆様、私を何だと思っておりますの?」


 誰も答えなかった。


「そこは何か言ってくださいませ!」


 室内に笑いが起きたところで、ディーンが机の端へ目を向けた。


「フォード商会の資料も残っていますが」


 そこには、まだ厚みのある資料束が置かれていた。


 昨日は一枚。


 その前の日にも一枚。


 共同輸送によって小規模運送者がどう変化したか、運賃がどう動いたか、小口で待てない荷にどんな影響が出ているか。読み進めるたびに新しい問いが出てきて、残りを全部開きたくなる。


 アマリリアは束を見つめた。


「……午後に一枚です」


「昼食前に読まない?」


 ライルが確認する。


「読みません」


「すごい」


「だから、その褒め方はやめてください!」


「だって前なら絶対読んでた」


「否定はしませんけれど!」


 立ち上がりかけたところで、アマリリアはふと思い出した。


「そういえば、劇場まであと何日でした?」


 ライルの動きがぴたりと止まった。


「君から聞いた」


「聞きました」


「四日」


 返答が速すぎる。


「即答ですのね」


「もちろん」


「楽しみです?」


「すごく」


 ライルは迷いなく答えたあと、今度は少しだけ声を柔らかくした。


「君は?」


 以前なら、ここで少しくらい焦らしたかもしれない。


 何をそんなに楽しみにしているのです、と返したかもしれない。


 けれど、灰青色のドレスを彼が選び、濃茶の上着を自分が選び、最終確認で互いの姿を見た時のことを思い出すと、わざわざ隠す理由が見つからなかった。


「私も、とても楽しみです」


 言葉にした瞬間、ライルの顔がはっきりと明るくなった。


 それを見ると、自分の胸の奥まで温かくなる。


 言わなければ伝わらないこともある。


 言わなくても分かっている関係になったからこそ、言葉にすることが嬉しい時もあるのだと、最近少しずつ分かってきた。


「じゃあ今日は、灰青色って言わなくてもいい?」


「それは別です」


「別なの?」


「はい。濃茶」


 ライルが目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。


「言われた」


「嬉しいでしょう?」


「すごく」


 ディーンが無言で机上の紙を揃え始め、ゼインはすでに扉へ向かっている。


「二人とも、置いていかないでくださいませ」


「昼食の時間ですので」


「分かっております!」


 執務室を出ると、廊下には朝より明るい日差しが差し込んでいた。中庭では庭師たちが落ち葉を集めており、箒が石畳を擦る乾いた音が一定の間隔で響いている。厨房から戻る使用人たちが籠を抱えて通り過ぎ、窓から入る風には焼いたパンと庭の湿った土の匂いがかすかに混じっていた。


 仕事はまだ残っている。


 通知試行の対象は、まだ正式には決まっていない。


 共同輸送の資料も途中だ。


 それでも、今は昼食へ行く。


 午後の資料は午後に読む。


 そして四日後には、ライルと劇場へ行く。


 以前なら、終わっていない仕事を机へ残したまま楽しみを待つことに、どこか落ち着かなさを覚えていただろう。終わらせられるものは全部終わらせ、調べられるものは全部調べてからでなければ、自分の時間を楽しんではいけないような気さえしていた。


 今は、少し違う。


 仕事は、なくならない。


 国に関わるなら、なおさらだ。


 だから全部終わらせるのではなく、今日はここまでと区切る。


 その区切りを自分で選ぶことも、仕事の一部なのかもしれなかった。


          ◇◇◇


 午後、アマリリアは約束通り、フォード商会の資料を一枚だけ開いた。


 ライルも別の仕事を一段落させてから戻ってきており、自然に隣の椅子を引く。以前なら彼を待たずに読み始めていたかもしれないが、今は二人で見ることそのものが、共同輸送を考える時間の一部になっていた。


 今回の表題は、『共同輸送主要路線における予定到着時刻と実到着時刻の差』。


「遅延の資料ですね」


「昨日の『待てない荷』と関係ある?」


 ライルが身を寄せる。


「あるかもしれません。でも、最初から結びつけないで見ましょう」


「了解」


 資料には主要四路線が並び、それぞれについて共同輸送拡大前と拡大後の数字が整理されていた。


 予定範囲内。


 半刻以内の遅れ。


 半刻を超える遅れ。


 さらに遅延理由の大分類。


 アマリリアは最初に全体欄を見た。


「……あら」


「どうした?」


「全体では、遅れが減っています」


 ライルも数字を追い、少し目を見開いた。


「本当だ。予定通り着く割合、上がってる」


「はい」


 共同輸送拡大後、四路線全体では予定範囲内に到着する割合が増えている。


 荷をまとめ、決められた順序で走らせることで、出発時刻が安定したらしい。個別契約のように荷主を待ったり、途中で追加の荷を拾ったりする回数も減っている。


「じゃあ、速くなった?」


「そこは違います」


 アマリリアは表の下にある注記を指した。


「平均所要時間が大きく短くなったわけではありません。予定した時間からずれにくくなった、と見る方が近いです」


「速くなったんじゃなくて、安定した?」


「そうですね」


 その違いは小さいようで大きい。


 予定通り着くことが重要な荷なら、平均速度が変わらなくても価値がある。


 一方で、とにかく早く届けたい荷なら、予定が安定しただけでは足りないかもしれない。


「路線ごとは?」


 ライルに促され、二人で下へ視線を移した。


 主要街道を長く使う二路線では、予定範囲内到着が明確に増えている。


 ところが、途中で複数の小集積所を回る一路線だけは違った。


「半刻以内の遅れが増えておりますね」


「なんで?」


「注記があります」


 共同輸送開始後、その路線では積載率を上げるため、途中集積所を二か所追加していた。


 荷量が少ない日は大きな問題にならない。


 しかし二か所目で積み替える荷が多い日は、後半の到着が遅れやすくなる。


「たくさん運べるようにするために、寄る場所を増やした」


「はい」


「その分、後ろが遅れる日がある」


「そういうことのようです」


 ライルはしばらく数字を眺めていた。


「昨日の話と、ちょっと似てるな」


「どの部分です?」


「便利になったところの隣に、別の不便が出るところ」


 アマリリアは少し考えてから頷いた。


 共同輸送によって荷をまとめやすくなった。


 運賃が下がった路線もある。


 予定時刻も全体として安定した。


 けれど、小口の急ぎ荷は共同便を待てず、別の運び手を必要とすることがある。


 そして積載効率を高めるため集積所を増やした路線では、小さな遅れが増えている。


「そうですね。ただし、この遅れが実際に困る遅れだったかまでは分かりません」


「半刻くらいなら平気な荷もある」


「はい。反対に、半刻でも困る荷もあるでしょう」


 昨日見た「待てない荷」という言葉が、どうしても頭へ浮かぶ。


 だが、今の資料には遅れた荷の種類までは載っていない。


「昨日の待てない荷と、この遅れた荷が同じかは?」


「分かりません」


「次の資料にあるかな」


 ライルの視線が残りの束へ向いた。


 アマリリアも、つられて見た。


 気になる。


 非常に気になる。


 次の一枚に荷種別の表があるかもしれない。


 あるいは、路線ごとの利用者聞き取りがあるかもしれない。


「開く?」


「開きません」


 即答した。


 ライルが吹き出す。


「今、すごく気になってるでしょう?」


「ものすごく気になっております」


「俺も」


 二人そろって残りの資料を見る。


 そのまま数秒。


 先に視線を外したのはアマリリアだった。


「だからこそ、今日は閉じます」


 資料を重ね、表題が見えないよう裏返した。


 紙一枚を裏返しただけなのに、不思議と肩の力が抜ける。


「今日分かったのは、共同輸送後、四路線全体では予定からのずれが減っていること。ただし、途中集積所を増やした一部路線では、半刻以内の遅れが増えていること。それだけです」


「遅れたことで誰が困ったかは分からない」


「はい」


「昨日の待てない荷と同じなのかも分からない」


「はい」


「じゃあ、そこは明日」


「必要なら、です」


 ライルが少し笑った。


「必要なら?」


「残りの資料に答えがあれば、新しく聞く必要はありません。なければ、その時に考えます」


「俺も慣れてきた」


「何にです?」


「気になるところで止めるの」


 その言葉に、アマリリアは思わず笑った。


「良いことです」


「でも劇場のことは止めなくていい?」


「どういう意味です?」


「あと四日って考えるの」


「それは好きなだけ考えてくださいませ」


「灰青色も?」


「一日一回までです」


 言ってから、アマリリアは固まった。


 ライルの目が輝く。


「それ、前に撤回しただろ?」


「……そうでした」


「また復活?」


「しません!」


「じゃあ回数制限なし?」


「なしです!」


「灰青色」


「早速ですか!」


「濃茶は?」


 アマリリアは呆れながら、最終確認で見たライルの姿を思い出した。


 自分が選んだ濃茶の上着は、普段の王子らしい濃紺や黒よりも柔らかな印象を与えていた。金糸も控えめで、第一王子として人前へ立つための威厳を残しながら、どこか近づきやすい。


 それが、自分の知っているライルに似合っていると思った。


「濃茶」


 今度は少しゆっくり言った。


 ライルの表情が柔らかくなる。


 仕事の資料を閉じた直後なのに、頭の中が自然に別の場所へ移っていく。


 それでよかった。


          ◇◇◇


 夕方近くになり、ディーンが午前に頼んでいた二件の担当者情報を持って戻ってきた。


 窓から差し込む光はすでに橙色へ変わり、机の上に長い影を落としている。午後の仕事を終えた部署から戻る職員たちの足音が廊下に増え始め、王宮全体が朝とは違う、仕事を畳み始める時間の空気に変わっていた。


「公的倉庫様式改定の主担当者は、現在の部署で四年。正式通知の作成を主担当として行うのは、今回が三件目とのことです」


「比較的経験が浅い?」


 ライルが尋ねる。


「少なくとも、通知作成だけを長年担当してきた方ではありません」


「夜間門は?」


「主担当は十一年。冬季の門時刻変更については、過去六回担当しています」


 アマリリアは二枚の候補紙を見比べた。


「かなり違いますね」


 一方は正式通知三件目。


 もう一方は同種通知を六回経験。


 意図して選んだわけではないのに、結果としてかなり異なる背景を持つ二人になった。


「比較したくなる?」


 ライルが尋ねた。


 アマリリアは正直に頷いた。


「なります」


「でも?」


「二人だけで経験年数の効果など分かりません。それに、扱う通知の内容も違います」


「じゃあ、経験長い方が上手かった、とかは言わない?」


「言いません」


「反応の違いは残す?」


「はい。それは残します」


 経験が浅い担当者が、問いを使ったことで何かへ気づくかもしれない。


 経験の長い担当者は、そんなことは普段から考えていると言うかもしれない。


 逆もあり得る。


 今は予想を答えにしない。


「これなら二件で始めてもいい気がする」


 ライルが言った。


 アマリリアは今度こそ、二枚の紙をじっくり見た。


 公的倉庫の様式改定。


 夜間門の閉鎖時刻変更。


 内容が違う。


 担当者の経験も違う。


 どちらも担当部署に、試行を一つ加えられる程度の余裕がある。


 家畜市場ほど、試行の失敗が大きな危険へつながる案件でもない。


 補助金期限延長のように、問いを使っても得られるものがほとんどなさそうな案件でもない。


「……はい」


 アマリリアは二枚を机の中央へ寄せた。


「初回は、この二件で提案しましょう」


 ライルが嬉しそうに笑った。


「決まった」


「試行対象の提案が、です」


「母上の確認が残ってる?」


「はい。小規模試行を行うこと自体は了承されていますが、対象を選んだ理由は共有します」


「橋は?」


「今回は見送ります」


「どうして?」


「二件で十分だからです」


 自分で答えてから、アマリリアは少しだけ可笑しくなった。


「三件にするために橋梁補修を加える必要はありません」


「成長した」


「その言い方!」


 ゼインが保留位置にあった橋梁補修の紙を取り、見送り側へ移した。


「理由はどのように残しますか?」


「複雑だからではありません。初回二件で、内容と担当経験の異なる例を見られるため、追加する必要性が低いからです。橋梁通知は通常手順で進めてもらいます」


「承知しました」


 ディーンが記録をまとめながら尋ねる。


「試行時の確認内容は、昨日エドガー殿と整理した案を基本にしますか?」


「はい。ただし長い報告書にはしません」


 アマリリアは二枚の紙を見ながら、実際に担当者へ渡す場面を思い浮かべた。


「『この通知によって、絶対に行動を変える必要がある立場は誰か』『その立場は何を変える必要があるか』。まずはこの二つを、短い自由記述で一度整理していただきます」


「所要時間は?」


「おおよそだけ確認します」


「秒単位?」


 ライルが聞いた。


「測りません!」


「確認しただけなのに」


「殿下が聞くと嫌な予感がするのです!」


 笑いが起きたあと、アマリリアは続けた。


「書いたことで不足している情報へ気づいたか。普段から考えているため、何も変わらなかったか。あるいは、そもそも書きにくかったか。その程度を聞きます」


「結果は文書局に返す?」


「文書局だけではありません。元の担当部署にも返します」


「採点しない?」


「しません」


「一件で役立ったら成功?」


「言いません」


「二件とも役立ったら?」


「それでも、全通知へ広げる理由にはなりません」


 ライルが少し得意そうな顔をした。


「ちゃんと覚えてる」


「殿下」


「何?」


 アマリリアは一度言葉を止めた。


 朝は飲み込んだ。


 けれど、今は言ってもいいと思った。


「本当に、変わりましたね」


 ライルの表情から、ほんの一瞬だけ冗談っぽさが消えた。


 驚いたようにアマリリアを見たあと、視線を少し下げる。


「……うん」


 返事は短かったが、声がいつもより柔らかかった。


 褒められて嬉しい。


 それを隠していない。


 アマリリアも、それ以上説明する必要を感じなかった。


 自分だけが変わっているのではない。


 隣にいる人も、同じ時間の中で考え、失敗し、覚え、少しずつ変わっている。


 その変化を互いに見つけられることが、思っていた以上に嬉しかった。


          ◇◇◇


 セレーネへの報告は、日が傾き始めた頃になった。


 王妃の執務室には西日が差し込み、机上に積まれた書類の端を金色に染めている。壁際に控える侍女が静かに茶を入れ、湯気とともに淡い香りが室内へ広がった。


 セレーネは二件の候補と、外した四件の理由を最後まで聞いたあと、すぐには口を開かなかった。


「薪販売所を外したのね」


「はい」


「昨日は有力だったのでしょう?」


「内容だけを見た時は」


 アマリリアは、燃料係が冬季備蓄量の確定作業に追われ、担当二名のうち一名が別の緊急案件へ回っていることを説明した。


「今そこへ試行を加える必要はないと判断しました」


「家畜市場は?」


「試行する価値はありますが、失敗した時の影響が大きく、発出まで六日しかありません。洗浄場所自体も変更されたばかりですので、今は必要な運用を整えることを優先していただきます」


「補助金期限延長」


「試しやすいですが、試す意味が薄いです」


 セレーネの口元が少し緩んだ。


「橋は?」


「二件で十分なので外します」


「三件ではなく?」


「王妃陛下まで!」


 ライルが吹き出した。


 壁際の侍女も慌てて視線を伏せる。


「どうして皆様、そこを覚えておりますの?」


「あなたが一度、『三つ』という数に安心しかけたからでしょう」


「もう反省しております!」


「なら良いのよ」


 セレーネは楽しそうに笑ったあと、二件の候補紙へ視線を戻した。


「公的倉庫は通知作成三件目の担当者。夜間門は同種通知を六回経験している担当者」


「はい。ただし、経験年数による比較試験にはしません。あくまで、反応を見る際の背景情報として残します」


「当然ね」


 セレーネは茶器へ手を伸ばし、一口だけ飲んだ。


「試行を何件やれば、この確認項目を正式な仕組みにするの?」


「決めません」


 アマリリアは迷わず答えた。


「今は、そもそもこの確認が実務で使えるかを見る段階です。二件で役立ったとしても、全通知へ広げる理由にはなりません」


「では、何が分かれば次へ進むの?」


 その問いには、少し考える時間が必要だった。


 アマリリアは自分の中にあるものを、急いで綺麗な答えにしないよう注意しながら言葉を選んだ。


「少なくとも、担当者が何を求められているのか理解できる質問であること。書く負担が過大ではないこと。何らかの不足へ気づく助けになる場合があること。それから……役立たない通知の種類も見えてくること、でしょうか」


 セレーネは最後の言葉で頷いた。


「それが大事ね。役立った例だけを集めて、『有効でした』と報告しないこと」


「はい」


「二件、やってみなさい」


 許可は簡潔だった。


 だが、アマリリアが頷いた直後、セレーネは一本指を立てた。


「アマリリア」


「はい」


「劇場まで四日よ」


「分かっております」


「この試行、四日以内に結果を出す必要はある?」


 アマリリアは口を閉じた。


 隣でライルが笑いを堪えている気配がする。


「……ありません」


「では?」


「担当部署の通常予定に合わせます」


「良いでしょう」


「母上、俺の仕事も増やさないでください」


 今度はライルが自分から言った。


 セレーネが少し目を見開く。


「あなたから言うようになったのね」


「劇場へ仕事を持っていかないって約束したから」


「それは大変良いことです」


「アマリリアもですよ」


「もちろんです!」


「残りのフォード資料を前日に全部読もうとしない?」


「しません!」


「本当に?」


「……一枚ずつです」


 セレーネがとうとう声を立てて笑った。


 侍女も今度は隠しきれず、わずかに口元を緩めている。


 アマリリアは少し不満そうにしながらも、嫌ではなかった。


 仕事をしないよう周囲から止められていることが可笑しい。


 そして、それを本気で嫌だと思わなくなった自分も、少し可笑しかった。


          ◇◇◇


 王妃の執務室を出る頃には、廊下の窓の外は夕暮れへ変わっていた。


 西の空には淡い橙色が残り、その下で王宮の屋根が長い影を落としている。昼間は人の行き来が絶えなかった回廊も少し静かになり、夜番へ交代する騎士たちの鎧が遠くで低い音を立てていた。


 今日決まったことは、大きくない。


 通知試行を二件で始める。


 公的倉庫の様式改定。


 冬季の夜間門閉鎖時刻変更。


 それだけだ。


 試行が成功するかは分からない。


 確認項目が役立つかも分からない。


 担当者が何も新しいことへ気づかない可能性もある。


 けれど、それでよかった。


 役立たなければ、役立たないと分かる。


 負担なら、負担だと分かる。


 同じ問いでも、通知の種類や担当者によって受け取られ方が違うなら、それも結果になる。


 何かを始めるたび、すぐに正解へ辿り着かなければならないわけではない。


「アマリリア」


 隣を歩くライルが呼んだ。


「何です?」


「今日、俺のこと褒めたよね」


「……まだ覚えておりますの?」


「昨日も今日も褒められた」


「数えないでください!」


「一日一回?」


「その制度は廃止しました!」


 ライルが楽しそうに笑う。


 アマリリアも呆れながら笑い、自然に彼の手へ自分の手を重ねた。


 ライルの指がすぐに応え、ゆっくりと指の間へ入ってくる。


 もう、この程度の触れ合いに理由はいらなかった。


「でも」


 歩く速度を少しだけ緩めながら、アマリリアは声を落とした。


「本当に嬉しいのです」


「何が?」


「殿下が、王になることを『正しい答えを一人で出すこと』だと思わなくなってくださったことが」


 ライルはすぐには返事をしなかった。


 夕暮れの光の中で、つないだ手を一度見てから、アマリリアへ視線を戻す。


「君が隣にいるからだよ」


「私だけではありません」


「分かってる」


 ライルは穏やかに笑った。


「母上も、ディーンも、ゼインも、現場で会った人たちもいる。でも、君がいるのは大きい」


 以前なら、こんな言葉を受け取るたびに理由を探した。


 なぜ自分なのか。


 何が彼にとって役に立っているのか。


 婚約者として、何を返すべきなのか。


 けれど、好きだと言われることにも、必要だと言われることにも、すべて理由をつけなくていいのだと少しずつ分かってきた。


 だから、今はそのまま受け取る。


「では、これからも隣におります」


「うん」


「ただし、劇場の日は国のことを考えません」


「それは約束」


「通知も」


「なし」


「共同輸送も」


「なし」


「倉庫も」


「なし」


 ライルは少し考えるような顔をしたあと、悪戯っぽく目を細めた。


「劇場の椅子の配置が分かりにくくても?」


 アマリリアは思わず足を止めかけた。


「……それは」


「調べないよね?」


「見えるものは見えてしまいます!」


「調べない?」


「調べません!」


「支配人を呼ばない?」


「呼びません!」


 ちょうど近くを通りかかった侍女二人が、慌てて顔を伏せた。


 けれど、その肩が小さく震えている。


「今、笑われましたわよ」


「仲良さそうに見えたんじゃない?」


「それなら構いません」


 口から出た言葉に、自分自身が一番驚いた。


 以前なら、人前でライルとの関係をどう見られているか、もっと気にしていたかもしれない。


 偽装婚約だった頃ならなおさらだ。


 けれど今は、仲が良いと思われることに困る理由がない。


 実際に仲が良い。


 好きな人と手をつないで歩いている。


 それを見られて笑われたのなら、むしろそのままでいい。


 ライルも少し驚いたようにアマリリアを見たあと、嬉しそうに手を握り直した。


「じゃあ、もっと仲良さそうにしていい?」


「調子に乗らないでくださいませ」


「手は?」


「もうつないでおります」


「じゃあ、このまま」


「……はい」


 二人は再び歩き始めた。


 劇場まで、あと四日。


 その前に終わらせなければならない仕事を探すのではなく、四日後にきちんと仕事から離れられるよう、必要なところで区切っていく。


 通知の試行も、共同輸送の資料も、第二共同倉庫も、四日後になくなるわけではない。だからこそ、それらを全部終わらせてから幸せになるのではなく、終わっていないものがあっても自分たちの時間を持つ。


 夕暮れの回廊を並んで歩きながら、アマリリアはつないだ手の温かさを感じていた。


 今日選んだ二件の通知がどうなるのかは、まだ分からない。


 残りの資料に何が書かれているのかも分からない。


 それでも、四日後に自分が灰青色のドレスを着て、隣には濃茶の上着を着たライルがいることだけは、今から楽しみにしていていい。


 分からないことを残したまま、楽しみにしているものへ向かう。


 以前の自分なら少し落ち着かなかったその感覚が、今は不思議なくらい心地よかった。

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