第75話 共同輸送の資料を続きを読んだら、安く運べるようになった荷の隣で『待てなくなった荷』が増えていました
内政文書局のエドガー・セイルと面談した翌朝、アマリリアは執務室の机に置かれた二つの書類束を見比べていた。
一つは第二共同倉庫から届いた短い定時報告。もう一つは、フォード商会から届いている共同輸送資料の残りである。窓の外には薄い雲が広がり、昨夜の雨をまだ含んだ石畳へ冷たい朝の光が落ちていた。
「今日はどちらからご覧になります?」
ゼインが書類箱を整えながら尋ねる。
「第二共同倉庫の安全確認だけ先に見ます。その後、フォード商会の資料を一枚です」
「一枚だけ?」
ちょうど扉から入ってきたライルが聞き返した。
アマリリアは少し眉を上げる。
「はい。一枚だけです」
「昨日も一枚だった」
「だから今日も一枚です」
「すごい」
「殿下」
「褒めてるよ」
「最近、その褒め方には若干の悪意を感じます」
ライルは笑いながらアマリリアの隣へ座った。以前なら、共同輸送の資料が六枚残っていれば、その日のうちにすべて読み終えたいと思ったかもしれない。今は、その一枚が何を示しているのかをきちんと考える方が先だと思える。
「倉庫は?」
「まだ見ておりません。一緒に見ます?」
「見る」
ディーンが定時報告を開いた。
「停止要因なし。共通事項二つを朝の説明へ入れて三勤務日目です。正式誤配送なし、ニアミス一件」
「内容は?」
「新規の臨時作業員が、片側斜め型の荷札を見て隣の区画へ向かいかけました。ただ、荷札の用途名と吊り札の区画名が一致しないことに途中で気づき、常勤者へ確認しています」
アマリリアは少し姿勢を正した。
「本人への聞き取りは?」
「短く取っています。『朝に、分からなくなったら止まれと言われたので聞いた』とのことです」
ライルが紙を覗き込む。
「今度は、本人が共通事項を理由にしてるんだ」
「はい」
前回のニアミスでは、共通事項が効いたのか、もともと本人が慎重だっただけなのか分からなかった。今回は少なくとも、朝に伝えられた言葉を思い出して止まったと本人が話している。
「それなら、一件では働いたと言ってよさそうですね」
「採用決定?」
「早いです」
「やっぱり」
ライルが笑う。
「一人に一度働いたからといって、全員へ永続的に有効だとは限りません。今日の午後、三勤務日分の短い聞き取りをまとめる予定でしたよね?」
「はい」
ディーンが頷いた。
「では、それを待ちます」
「追加質問は?」
「しません」
すぐに答えた。
ゼインがわずかに目元を緩める。
「何です?」
「いえ」
「最近、その『いえ』が多いです!」
◇◇◇
第二共同倉庫の短報を閉じたあと、アマリリアはフォード商会の資料束から次の一枚だけを抜いた。
昨日確認したのは、共同輸送拡大前後の平均運賃だった。
主要三路線では、荷一単位あたりの平均運賃が下がっている。同時に、一便あたりの積載量は増え、空荷で戻る割合も減っていた。その一方で、小口単独輸送の件数は減っている。
今日の資料は、その部分を補足するものだった。
「題名が長いね」
ライルが覗き込む。
紙の上部には、
『共同輸送拡大後に発生した、小口・少量・短納期輸送の依頼処理に関する整理』
と記されている。
「ミハイル様本人が作ったというより、担当部署の整理資料でしょうね」
「内容は?」
アマリリアは表を追った。
共同輸送を大きく増やす前は、一箱や二箱程度の小さな荷であっても、個人運送者が近い方面へ向かう予定なら、その場で追加契約して運ぶ例が多かった。
共同輸送拡大後は、同方面の荷をまとめることで一荷あたりの運賃が下がったため、荷主側も「次の共同便まで待つ」選択をすることが増えている。
「急がないなら、安い方を選ぶよね」
ライルが言う。
「はい。それ自体は自然です」
問題は、その下だった。
共同輸送拡大後、小口単独輸送の依頼件数そのものは減った。
その一方で、「次の共同便までは待てない」として別手段を探した記録は増えている。
「待てない荷?」
ライルが眉を寄せる。
「理由別にあります」
生鮮品。
修理用部品。
薬材。
祭礼や式典で使う品。
工房で急に不足した消耗品。
家畜用の治療資材。
件数自体は、共同輸送全体の規模と比べれば大きくない。
ただし、以前なら個人運送者が柔軟に拾っていた可能性のある荷だ。
「共同便が便利になったことで、共同便に合わない荷が目立つようになった?」
「そう見えます」
「でも、運べなくなったわけじゃない」
「はい」
別欄には、その後の対応も記録されている。
別の小規模運送者へ依頼。
荷主自身が馬車を出した。
商会の臨時便を利用した。
急ぎ料金を支払った。
翌日まで待った。
依頼自体を取り下げた。
「取り下げもある」
「七件です」
「どうして?」
「そこまでは記録がありません」
アマリリアは七という数字を一度見たが、そこで止めた。
「七件すべてが共同輸送のせいで諦めた荷とは限りません」
「代用品が見つかったかもしれない」
「はい。そもそも必要がなくなった可能性もあります」
分からない理由を、自分に都合のいい説明で埋めない。
共同輸送が悪い、と決めるには情報が足りない。
ただ、一つの便利な仕組みが、すべての荷へ同じように便利ではないということは見えてくる。
「昨日の平均運賃だけなら、安くなって良かったで終われた」
ライルが表を見ながら言った。
「そうですね」
「でも今日は、安さより時間を優先する荷もあるって分かった」
「正確には、安い便を待つことを選ぶ荷と、待てないから別手段へ回る荷の両方がある、ですね」
「そこ分けるんだ」
「大事です」
アマリリアは少し笑った。
「『待たされる荷』と言うと、共同輸送という仕組みが一方的に不便を与えたように聞こえます。でも、自分で安さを選んで待つ場合もありますから」
「じゃあ、本当に困ってるのは?」
「まだ分かりません」
生鮮品や薬材のように時間制約が強いものは、別手段が必要になりやすい。
だが、それが「困っている」状態なのか、「もともと別の輸送方法が必要な荷」なのかも区別しなければならない。
「小さい運送者って、こういう急ぎを拾ってたのかな」
ライルが呟く。
「可能性はあります」
「でも、小規模運送者との直接契約は減ってる」
「はい」
「共同輸送が増えすぎたら、急ぎの小さい荷を拾える人まで減る?」
アマリリアはそこで少しだけ手を止めた。
重要な問いだった。
だからこそ、すぐ答えるべきではない。
「確かめるには、別の情報が必要ですね」
「何を見る?」
「現在、共同輸送から外れる小口急送を誰が担っているか」
「フォード商会の臨時便?」
「それも一部。他商会、小規模運送者、荷主自身も混ざっています」
「市場管理にも聞ける?」
「聞けます。ただ――」
アマリリアは残っている資料束を見た。
「今すぐ広げません」
ライルが少し笑う。
「俺も今、言いながら広がってると思った」
「分かってきましたね」
「君と一緒にいるから」
「また、そういうことを自然に言います」
「本当だから」
少し頬が熱くなる。
アマリリアは咳払いを一つして、資料を閉じた。
「今日はここまでです」
「本当に一枚」
「はい」
「急送の担い手は?」
「疑問としてメモだけ残します。残りのフォード商会資料に、すでに関係する情報があるかもしれません」
「明日以降?」
「その予定です」
アマリリアは資料を元の束へ戻した。
今すぐ調べられる。
だからといって、今すぐ調べる必要はない。
◇◇◇
午前の残りは、昨日のエドガーとの面談を受けた「通知作成時の小規模試行」について整理することになった。
セレーネからは、全通知へ確認欄を追加するような制度化ではなく、条件に合うものをいくつか選び、実際に「この変更で誰が何を変える必要があるか」を担当部署側へ考えてもらう小さな試行までは了承されている。
ただし、対象はまだ決まっていない。
「昨日エドガー様が挙げたのは、新制度の開始、旧手順や旧様式が使えなくなる変更、複数の立場が同時に行動を変える変更、でしたね」
「はい」
ディーンが薄い紙束を机へ置いた。
「今後一か月以内に発出予定の通知案から、条件に近いものを六件拾いました。まだ正式文書へ整える前のものも含まれます」
「六件全部で試す?」
ライルが尋ねる。
「まず内容を見ましょう」
アマリリアは一枚目を取った。
試行の目的は、多くの件数を集めることではない。
担当部署へ「誰が何を変えるか」を一度考えてもらうことで、必要な情報の抜けへ早く気づけるのか。それとも、提出項目が一つ増えるだけなのか。実務担当者へどれだけ負担を増やすのか。
見るべきなのは、そこだ。
「一件目。王都南側の橋梁補修に伴う通行時間変更」
十日間だけ、大型荷車の通行可能時間帯を朝と夕方へ制限する予定だという。徒歩は日中も通れるが、補修作業中は荷車が通れない時間がある。
「対象、多いな」
ライルが紙を覗き込む。
「商人、運送者、住民、巡回兵。市場へ荷を持ち込む農家にも影響する可能性があります」
「橋の向こう側の店も、荷が来る時間が変われば困るかも」
「あり得ます」
ディーンが現在案を確認する。
「担当部署は、王都内の主要商会、運送組合、南側門管理所へ通知し、橋の両側へ掲示する予定です」
「住民へ個別には?」
「現地掲示で対応する想定です」
アマリリアは少し考えた。
「試行対象としては面白いですね」
「面白い?」
「一枚の通知を受け取る人全員が、同じ行動をするわけではありませんから」
荷車を使う商人は、通る時間を変えるか迂回する。
徒歩の住民は、基本的にはそのまま通れる。
市場側は搬入が一時期へ集中する可能性を考えるかもしれない。
南側門では到着が遅くなる荷車への対応が変わるかもしれない。
「でも、最初の試行には複雑すぎない?」
ライルの問いに、アマリリアは頷いた。
「そこが気になります」
試行そのものが負担なのか。
通知内容がもともと複雑だから負担なのか。
最初から難しい案件だけを選ぶと、その二つが分からなくなる。
「内容の難しさと、試行の難しさが混ざる」
「はい」
アマリリアは紙の端へ「複雑」と記した。
二件目。
「冬季の薪販売所における受け取り時間変更」
王都北側の公営薪販売所で、冬季の朝だけ、在庫確認と凍結路面の安全確認のために受け取り開始を少し遅らせる予定だという。
「昨日の架空共同水場に似てる」
「かなり近いですね」
「利用者は来る時間を変える。販売所側も開ける時間を変える」
ライルが指で紙を追う。
「搬入業者は?」
「薪の搬入は開場前契約です。ただし、今回の変更で搬入時間まで変わるかは担当部署案にありません」
アマリリアとライルが顔を見合わせた。
「まさに昨日ですね」
「うん」
「比較的関係者が少なく、行動変更も見つけやすい。これは最初の試行には向いているかもしれません」
「簡単な方?」
「比較的、です」
アマリリアは「比較的単純」と書いた。
三件目。
「公的倉庫の保管申請書様式改定」
アマリリアの表情が少し真剣になる。
「これは有力ですね」
「旧様式が使えなくなる?」
「はい」
新様式では、預け入れ責任者と受け取り予定者を別々に記載する欄が増える。施行日以降、旧様式は原則受け付けない予定だ。
「前の市場の件にかなり近い」
「そうですね」
旧様式を誰が回収するのか。
すでに各地へ配られている用紙はどうするのか。
申請者だけでなく、共同倉庫や地方窓口、代筆を行う者へも知らせる必要があるのか。
「現在案は?」
ディーンが読み上げる。
「『施行日以降は新様式を使用すること』。見本添付。旧様式の回収について記載なし」
「まさに、確認する意味がありそうです」
その時、ライルが少し考えるように紙を見た。
「でも、俺たちは前の市場の件を知ってるだろ?」
「はい」
「これを試行対象にすると、『旧様式の回収に気づいたか』ばっかり見そうじゃない?」
アマリリアは一瞬言葉を止めた。
確かに、こちらが答えを知っているつもりになる危険がある。
「担当部署には何も示さないとしても、評価する側が正解を固定してしまう可能性がありますね」
「外す?」
「いいえ」
アマリリアは首を横へ振った。
「旧手順が使えなくなる変更という条件に明確に当てはまります。だから試す価値はある。ただし、結果を見る時に『私たちが知っている問題へ気づいたか』だけで採点しないようにします」
「別の問題に気づくかもしれない」
「はい。代筆者への周知かもしれませんし、施行日前後の救済運用かもしれません」
「じゃあ、有力だけど評価注意」
「その通りです」
アマリリアはそう記した。
四件目。
「王都外縁の夜間門閉鎖時刻変更」
冬季だけ、現在より半刻早く閉める予定だという。日没時刻と夜間警備配置の見直しが理由だった。
「門兵、夜に出入りする商人、運送者、宿場」
ライルが数える。
「関係者は多いですね」
ディーンが補足する。
「ただし、過去にも冬季時刻変更の例があります。前回通知を基に作る予定です」
「前回と同じなら楽?」
ライルが尋ねる。
「そこも見方次第です」
アマリリアは過去例の欄を見る。
「前回問題が起きなかったから今回も同じで良い、となっている可能性があります」
「じゃあ、慣例がある変更で問い直す意味があるかを見る?」
「はい。それ自体は面白いです」
「候補増えるな」
「まだ候補です」
五件目。
「登録職人向け補助金申請期限の延長」
アマリリアは一通り読み、比較的早く紙を置いた。
「これは試行対象から外してよさそうです」
「早いね」
「変更内容が比較的単純です。申請者は締切日を変える。受付側も締切処理日を変える。旧手順が禁止されるわけでも、複数の中間利用者がいるわけでもありません」
「通知ではあるけど、試す必要は薄い?」
「そう思います」
全通知へ同じ確認を課さないためには、「試さない通知」を選べることも必要だ。
「これは除外候補ですね」
最後の六件目。
「家畜市場の消毒手順変更」
現在は市場入口で係員が家畜の蹄と荷台下部を簡易洗浄している。
変更後は、家畜を搬入する側が事前に指定場所で洗浄し、受付時に確認札を提示する方法へ変える予定だった。
「これは行動を変える人が多いね」
「搬入者、市場係員、洗浄場所の管理者。確認札を発行する側も含まれるかもしれません」
「遠くから来る農家にも知らせないといけない」
「はい」
さらに、旧手順は実質使えなくなる。
「有力?」
ライルが聞く。
アマリリアはすぐには答えなかった。
家畜市場の衛生手順。
失敗した時の影響が、他の通知より大きい。
「試行対象としての価値は高いと思います。ただ、最初の一件にはしたくありません」
「どうして?」
「失敗時の影響が大きすぎます」
もちろん、試行すること自体が制度変更を遅らせるわけではない。
それでも、担当部署へ新しい確認手順を求めることで、余分な時間が掛かる可能性はある。
「仕組み自体がまだ慣れていない段階で、重要度の高い通知から試す必要はありません」
「じゃあ、後の候補」
「はい。試行そのものが無理なく動くと分かってから」
ライルが少し頷いた。
「同じ『試す』でも、失敗した時の困り方を見る」
「共同炊事場の仮設壁と同じですね」
「薪が濡れる話」
「はい」
アマリリアは「価値高・初回不向き」と書いた。
六件すべてを並べる。
橋梁補修。
薪販売所。
申請様式改定。
夜間門時刻。
補助金期限延長。
家畜市場消毒。
単なる六件ではない。
関係する人数。
旧手順の有無。
変更の複雑さ。
間違えた場合の影響。
担当部署がどれだけ慣れているか。
それぞれ違う。
「じゃあ、どれにする?」
ライルが尋ねた。
アマリリアはすぐには答えず、紙を並べ替えた。
「……三件にしたくなりました」
ライルが吹き出す。
「やっぱり」
「まだ決めておりません!」
「でも、簡単・中くらい・複雑で三件にしたくなってる?」
「そうなのです」
自分でも苦笑する。
「比較するなら、違う難しさを含めたいと思ってしまいます」
「それなら三件にも理由あるんじゃない?」
「ある程度は。ただ、複雑な一件だけで担当部署の負担が大きくなる可能性があります」
「試行のために仕事増やしたら意味ない」
「はい」
「じゃあ二件?」
「数から先に決めないでください!」
今度はアマリリアも笑った。
そこでディーンが静かに口を挟む。
「候補ごとの通常の文書作成負担を、先に確認してはいかがでしょう」
「通常負担?」
「一人の担当で作れるのか。複数部署との照会が必要なのか。すでに期限が迫っているのか。こちらから確認項目を一つ加えることで、どの程度の遅れが生じる可能性があるのか」
アマリリアは少し姿勢を正した。
「なるほど」
「内容上の複雑さだけで選ぶと、実務的に一番余裕のないものへ試行を乗せる可能性があります」
ライルも頷く。
「橋の通知って、内容も複雑だけど、担当部署も忙しそう」
「その可能性があります」
「逆に様式改定は注意点多いけど、準備期間が長いかもしれない」
「はい」
アマリリアは昨日のエドガーの話を思い返した。
文書局が問題へ気づいても、制度開始日が迫っていれば戻す時間がない。
担当部署も忙しい。
締切がある。
そこを無視して試行対象を選べば、今度はこちらが実務を邪魔する側になる。
「では、今日は対象を決めません」
アマリリアは六枚を重ねた。
「担当部署へ新しい資料を作ってもらう必要はありません。今ある進行表から、通知案の締切、通常の確認先、担当部署の準備状況だけ整理できます?」
「大半は可能です」
ディーンが答える。
「不足分だけ短く問い合わせます」
「それでお願いします」
ライルが少し笑った。
「試行を始める前に、試行の負担を見る」
「昨日教わったことを使っております」
「でも秒単位では測らない?」
アマリリアはすぐにライルを見る。
「測りません!」
「母上に言われたから?」
「忘れてくださいませ!」
ディーンは表情を変えず記録していたが、ゼインがごく小さく息を漏らした。
「何です?」
「いえ。良い選び方になりそうだと思いまして」
「今度こそ褒めております?」
「はい」
アマリリアは少しだけ得意になる。
試行対象を選ぶ。
それだけでも、以前の自分なら最も効果がありそうな通知をすぐ決めていたかもしれない。
今は違う。
効果だけではない。
負担。
失敗した時の影響。
比較のしやすさ。
担当部署の余裕。
そもそも試す必要があるか。
「補助金期限延長のように、試さないものを選ぶことも必要ですね」
アマリリアが言う。
「全部にやらないため?」
「はい。もし試行がうまくいっても、それを理由に全通知へ広げたら、また形骸化するかもしれません」
「対象を選ぶ仕組みまで必要になる」
「そうなります」
「また問いが増えた」
「増えましたね」
二人で少し笑った。
答えを一つ見つけたら、次の問いが出る。
今はもう、それを失敗だと思わない。
◇◇◇
昼食の席では、共同輸送や通知の話を少しだけしたあと、自然に劇場デートへ話題が移った。
窓の向こうでは午前の雲が薄くなり、柔らかな陽が差し始めている。焼いた鶏肉と温野菜の香りが小食堂へ広がり、少し冷えた空気の中で温かいスープから湯気が立っていた。
「劇場まであと何日?」
ライルが尋ねる。
「もう数えないようにしております」
「なんで?」
「殿下が毎日聞くからです」
「でも知ってる?」
「知っております」
「何日?」
アマリリアは少し睨んだ。
「五日です」
「知ってるじゃん」
「知っております!」
ライルが嬉しそうに笑う。
「灰青色」
「今日もです?」
「今日も」
「では、濃茶」
「もっと言って」
「……殿下、本当にそれがお好きですね」
「君が楽しみにしてくれてるの、分かるから」
アマリリアは匙を少し止めた。
「殿下も楽しみにしてくださっているのが分かるので、私も嬉しいです」
「うん」
返事は自然だった。
以前なら、こうしたやり取りだけで互いにひどく照れて、話題を変えていたかもしれない。
今は、少し恥ずかしくてもそのまま受け取れる。
「劇場の後、夕食のあとでどこか寄る?」
「そこまで決めます?」
「決めなくてもいいけど」
「では、その時に決めましょう」
ライルが少し驚く。
「珍しい」
「何がです?」
「君が予定を全部埋めない」
「最近の私は、そういうこともします」
「知ってる」
予定が決まっていないことを、不備だと思わなくなった。
その時の気分で二人で決めてもいい。
そういう小さな余白にも、少しずつ慣れてきている。
◇◇◇
午後、第二共同倉庫から三勤務日の短い聞き取り結果が届いた。
「予定通りですね」
「はい」
ディーンが紙を広げる。
対象は、新人・勤務一年未満・臨時の計九名。
教える側の常勤作業員は六名。
質問は二つだけだった。
『朝に伝えられた共通事項二つを覚えているか』
『実際の作業中、それを意識した場面があったか』
「覚えていたのは?」
「九名中八名が二つとも意味として記憶。一名は『迷ったら聞く』のみです」
「言葉そのままでなくても構いませんね」
「はい」
実際に意識した場面があったのは四名。
二名は区画判断。
一名は荷札が濡れて文字を読みづらかった時。
一名は通常と違う仮置き指示を受けた時。
残り五名は、迷う場面そのものがなかったと答えている。
「常勤側は?」
「六名中五名が、『新人へ何を必ず言うかが決まって教えやすくなった』と回答。一名は、以前から同じことを言っていたので変化なし」
ライルが少し笑う。
「全員が改善したって言わないの、なんかいいな」
「私もそう思います」
全員が同じ感想なら、むしろ本当にそうなのか疑いたくなる。
現場責任者の所感も簡潔だった。
『個々の確認順序を統一せず、迷った時の行動のみ共通にしたことで説明は整理しやすくなった。短期的には負担増を感じない』
「続けてもよさそうだね」
ライルが言う。
「はい」
「王宮で正式採用?」
「現場が続けたいのであれば、そのまま続ければよいです」
「また承認しない」
「はい」
アマリリアは少し考え、資料の端を指先で押さえた。
「ただし、本試験の記録には共通事項導入日を明確に残しましょう」
「荷札や表示だけの結果じゃなくなるから?」
「その通りです」
試験途中で教育方法が少し変わった。
その後ニアミスが減ったとしても、表示だけの効果とは言えなくなる。
「純粋な比較、難しくなるね」
「はい。でも、それを理由に現場の改善を止める必要はありません」
「ここは実験だけする場所じゃない」
ライルが言った。
「本当に荷を運んでる場所だから」
アマリリアは少し嬉しくなった。
「ええ」
綺麗な比較条件を守るために、現場の不便を残す。
それでは本末転倒だ。
「本試験継続。共通事項も現場判断で継続。記録には導入日を残す。それだけでよいと思います」
「追加質問は?」
アマリリアは少しだけ考えた。
「今はありません」
以前より、答えるまでの時間が短くなった。
◇◇◇
夕方、セレーネへ報告した際、王妃が特に興味を示したのは、フォード商会資料の「待てない荷」だった。
「共同輸送が安くなるほど、急ぎの小口荷が別の手段へ回る可能性がある?」
「可能性です」
アマリリアはすぐに言い直した。
「まだ『押し出された』とは言えません。荷主が安い共同便を自分で選び、その結果待っている例もあります」
「でも、急ぎ料金を払った例や別便を探した例もある」
「はい」
「見る価値はあるわね」
「そう思います。ただ、どこまで見るか迷っています」
セレーネの眉が少し上がった。
「あなたが『調べたい』ではなく『どこまで見るか迷う』と言うのは珍しいわね」
「調べ始めると広がりすぎます」
「誰へ聞くの?」
「フォード商会、別商会、小規模運送者、市場管理、荷主。必要なら工房や医療関係まで広がります」
「多いわね」
「はい」
アマリリアは正直に頷いた。
「ですので、まず残りのフォード商会資料を見ます。すでに必要な情報が入っているかもしれません」
「良いでしょう」
セレーネは少しだけ窓の外へ視線を向けたあと、ゆっくりと言った。
「一つ覚えておきなさい。便利な大きい仕組みが出来ると、小さな例外は『例外だから』と見えなくなりやすい」
アマリリアはその言葉を受け止める。
「でも、例外を全部大きな仕組みへ取り込めば、今度は仕組みそのものが重くなります」
「その通り」
「では、両方を見る必要がある」
「ええ」
答えはない。
でも、何を見失ってはいけないかは少し分かった。
◇◇◇
王妃の執務室を出たあと、ライルとアマリリアは夕暮れの渡り廊下を並んで歩いた。
西の空には雲の切れ間から淡い赤色が差し、雨上がりの庭には湿った土と葉の匂いが残っている。冷たい風が通り抜けるたび、回廊の外に溜まった落ち葉が小さく擦れ合った。
「今日も結局、共同輸送の答えは出なかったな」
ライルが言う。
「まだ資料を二枚しか見ておりませんもの」
「でも、一枚目は安くなった話だった」
「はい」
「二枚目は、安い便を待てない荷の話」
「はい」
「次は何が出てくるんだろう」
アマリリアは少し笑った。
「楽しみにしてはいけませんよ」
「どうして?」
「誰かが困っている記録かもしれません」
「ああ」
ライルの表情が少し真剣になる。
「そうだね」
「でも、怖がって見ないのも違います」
「うん」
二人の歩調が少しゆっくりになる。
「アマリリア」
「何です?」
「俺、最近、国のこと考えるのが前より楽しい」
意外な言葉だった。
「楽しい?」
「難しいけど」
「それでも?」
「前は、正しい答えを出さなきゃいけないと思ってた」
アマリリアは黙って彼の横顔を見る。
「王子なんだから、何か聞かれたらちゃんと答えないといけないって。でも今は、分からないなら見ればいいし、違う人に聞けばいいと思える」
どこかで何度も考えてきたことだった。
「私の影響です?」
「かなり」
「それは少し責任を感じます」
「良い方だよ」
ライルが笑った。
「君も変わったけど、俺も変わってる」
「そうですね」
「ちゃんと見てる?」
アマリリアは少しだけ目を細めた。
「殿下」
「何?」
「以前、私へ『君をよく見てるから』とおっしゃいましたよね」
「言った」
「私も見ております」
ライルが一瞬黙った。
「……それ、すごく嬉しい」
「知っております」
「分かるの?」
「よく見ておりますので」
言い返せた。
ライルが声を立てて笑う。
「やられた」
「たまには私も勝ちます」
「何の勝負?」
「知りません」
互いの手が近づく。
今日はどちらからともなく指が触れ、そのまま自然に絡んだ。
◇◇◇
夜、自室へ戻ったアマリリアは、いつもの手帳を開いた。
押し花を挟んだ頁のわずかな厚みが、以前より手に馴染んできている。
今日の仕事を簡潔に記していく。
『フォード商会資料二枚目。共同輸送拡大後、小口・少量荷は次便待ちが増加。一方、「待てない」として別手段へ回る記録も増加』
『理由:生鮮、修理部品、薬材、祭礼用品、工房消耗品、家畜治療資材など』
『急ぎ便・他運送者・荷主自身・翌日待ち・取り下げ等。取り下げ七件の理由は不明』
『平均運賃低下=全ての荷が便利になった、ではない』
少し間を空けた。
『ただし、「共同輸送が小口急送を潰した」とも言えない。残り資料を先に見る』
次に、通知試行について。
『候補六件。内容の複雑さだけで選ばず、担当部署の通常負担、期限、確認先、失敗時の影響も見る』
『試さない通知を選ぶことも必要』
『試行が成功しても全通知へ自動拡大しない。対象を選ぶ考え方自体が必要』
書いてから、少しだけ手を止める。
以前なら、試行の候補を選ぶ場面で、どれが一番効果的かばかり見たかもしれない。
今は、試す側の負担まで見る。
良い仕組みを作ろうとして、別の誰かへ無理を押しつけることもある。
最後に第二共同倉庫。
『共通事項二つ、三勤務日短期聞き取り。九名中八名が両方の意味を記憶。一名は「迷ったら聞く」のみ』
『常勤六名中五名が、教える時に必ず言う内容が整理されて楽になったと回答。一名は以前から同じ説明』
『現場判断で継続。本試験記録には教育整理の導入日を残す』
実際の現場では、試験条件が綺麗なまま保たれるとは限らない。
人はその間にも考える。
改善する。
教え方を変える。
それでいい。
最後に、セレーネの言葉を書く。
『大きな便利が出来ると、小さな例外は「例外」として見えなくなりやすい。ただし、全例外を大きな仕組みへ入れれば重くなる』
答えは書かなかった。
まだ持っていない。
そして、その下へ仕事ではないことを記す。
『ライル様、「国のことを考えるのが前より楽しい」と言う』
『正しい答えをすぐ出すのではなく、分からなければ見て聞けばよいと思えるようになった、と』
『私も、殿下をよく見ていると返した』
アマリリアは小さく笑った。
今日、一番嬉しかったことは何だったのだろう。
共同輸送の新しい問題が見えたことではない。
倉庫の共通事項が短期的には役立ちそうなことでもない。
ライルが、自分も変わっていると言ったこと。
そして、その変化を自分がちゃんと見ていたことだった。
彼だけが自分を見ているのではない。
自分も彼を見ている。
婚約者だから。
好きだから。
これから先も隣で、一緒に考えていきたいから。
アマリリアは手帳を閉じ、灯りを少し落とした。
劇場デートまで、あと五日。
仕事は終わっていない。
おそらく五日後も終わっていない。
国の仕事には、簡単な終わりなどないのかもしれない。
それでも、二人で劇場へ行く日はちゃんと来る。
今のアマリリアは、その両方を同じ未来の中へ置けるようになっていた。




