第74話 通知を作る人に『誰が何を変えるのか』を聞いたら、分かっていても書けないことがあると教えられました
内政文書局の実務担当者と話す日の朝、アマリリアはいつもより少しだけ早く執務室へ入った。
劇場衣装の最終確認を終えてから二日。第二共同倉庫では、新人や臨時作業員へ「分からなくなったら置く前に止まる」「自分だけで決め直さず確認する」という二つの共通事項を伝える試みが続いている。フォード商会から届いた共同輸送資料も、まだ一部しか確認していない。
それでも今日は、それらを先に広げるつもりはなかった。
机の中央に置かれているのは、共同水場の利用時間変更を題材にした架空通知が一枚だけ。
凍結防止点検のため、冬季だけ朝の開場を半刻遅らせる。
理由。
変更内容。
開始日。
問い合わせ先。
正式な通知らしい必要事項は揃えてあるが、「誰が何を変えるべきか」はあえて書いていない。
「本当にこれだけですね」
アマリリアが紙を確認すると、ディーンが頷いた。
「はい。参考資料を増やす案もありましたが、今回は一枚だけです」
「良かったです」
ライルが隣の椅子へ座りながら言った。
「何がです?」
「君なら前日になって三枚くらい増やすと思ってた」
「増やしておりません!」
「偉い」
「殿下」
「褒めてる」
「それが腹立たしいのです」
ゼインが机の端へ茶を置く。
「質問事項も大枠三つのままです」
「確認します」
アマリリアは手元の短いメモへ目を落とした。
一つ目。
通知を作成する実務担当者が、「この変更によって誰が何を変える必要があるのか」をどこまで意識しているか。
二つ目。
その確認を正式な手順へ加えた場合、どの程度の負担が増えるか。単なる確認欄になって形骸化する危険はあるか。
三つ目。
架空通知を実際に見てもらい、受け取った側が何を変えると理解するかを一緒に考える。
「それと」
ライルが言う。
「見る順番」
「自然に聞けそうなら、です」
「増えてる」
「追加質問ではなく、三つ目の中で確認します!」
「分かった」
アマリリアは少しだけ睨んだ。
数日前の第二共同倉庫では、同じ表示を使っていても、作業員によって最初に見るものが違った。
荷札から入る者。
吊り札から方向を取る者。
形状を見る者。
近くの人へ確認する者。
文書でも同じことが起こるのか。
それを知りたい気持ちはある。
だが、今日の目的は「読む人間の行動をすべて解明すること」ではない。
実際に通知を作る側が何を考え、何を考えられず、どこに負担があるのかを見る。
「面談は一刻」
ディーンが念を押す。
「分かっております」
「一刻を過ぎそうなら声を掛けます」
「私だけではなく、殿下にもお願いします」
「俺?」
「殿下も質問が増えることがございます」
「あるかな」
「あります」
今度はアマリリアが即答した。
ライルは少し不服そうにしながらも笑った。
◇◇◇
面談場所には、王宮内の小さな会議室が選ばれた。
大臣級を呼ぶような広い部屋ではない。
長机が一つと、窓際に小さな書棚。壁には王都周辺の行政区分図が掛けられ、午前の穏やかな光が机の上へ落ちている。
やってきたのは、四十代ほどの男性だった。
名はエドガー・セイル。
内政文書局に十五年以上勤めており、各部署から上がってくる制度変更案や運用変更案を、実際に発出できる通知文へ整える仕事を長く担当しているという。
華やかな人物ではない。
服装も官吏としてごく標準的で、書類鞄を脇に抱えた姿には、長く実務を続けてきた人間らしい落ち着きがあった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
アマリリアが挨拶すると、エドガーは丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、お声掛けいただき光栄です。もっとも、私でお役に立てるかは分かりませんが」
「今回は、正解を教えていただきたいのではありません」
「では?」
「普段、通知を作る際に何を考えているかを知りたいのです」
エドガーは一瞬だけ目を細めた。
「それは、少々答えづらい質問ですな」
「なぜです?」
「考えていることと、実際に文書へ書けることが同じとは限らないからです」
最初から、少し予想外の答えだった。
アマリリアは姿勢を正した。
「詳しく伺っても?」
「もちろんです」
◇◇◇
エドガーはまず、自分の仕事の流れから説明した。
政策や制度変更の中身を決めるのは、原則として各担当部署。
内政文書局へ回ってくる時点では、変更内容そのものはほぼ固まっている。
文書局が主に見るのは、表現が正式な形式に沿っているか、既存法令や過去通知と矛盾しないか、日付や対象範囲に不足がないか、問い合わせ先が明確かといった部分。
「つまり、誰に何をしてもらうかまで、文書局で決めるわけではない?」
ライルが尋ねた。
「はい。そこまで決め始めますと、政策内容へ文書局が踏み込むことになります」
「では、『この通知で誰が行動を変えるのか』は考えないのですか?」
アマリリアが尋ねる。
エドガーは首を横へ振った。
「考えます」
「でも書けない?」
「そういう場合もあります」
少しだけ苦笑する。
「たとえば、税の納期限変更なら分かりやすい。納税者が期日を変え、徴収側も処理日を変える。ですが、実際に来る通知案は、もっと曖昧なものもあります」
エドガーは自分の鞄から古い控えを一枚出した。
固有名詞や具体的な制度名は伏せているが、過去の一般的な変更通知らしい。
「この例では、ある帳票の提出形式を変えました。担当部署から来た案には、『新形式を使用すること』とあります」
「それだけ?」
ライルが聞く。
「ほぼ、それだけです」
「旧様式は?」
アマリリアがすぐに尋ねた。
エドガーが少しだけ笑う。
「そこです」
新形式を使う。
それは書いてある。
でも、すでに配布済みの旧様式をどうするか。
誰が回収するのか。
現場の共同倉庫や中間管理者へも知らせるのか。
移行日に旧様式で来た者をどう扱うのか。
そうした部分は、文書局側では判断できない場合がある。
「担当部署へ戻して確認することは?」
「します。ただし、毎回ではありません」
「なぜです?」
「締切があります」
答えは簡潔だった。
「制度開始日が迫っている。担当部署も忙しい。こちらが『誰が何を変えるのか』を全部聞き始めると、文書が止まる場合があります」
「止めた方がいい場合もあるのでは?」
ライルが言う。
「あります」
エドガーは否定しなかった。
「ですが、止めるべき不足と、実務上は補足で済む不足の線引きが難しい」
たとえば開始日が抜けているなら、文書は出せない。
対象地域が不明でも出せない。
だが、「現場の誰が口頭説明するか」まで書いていないことを理由に、毎回止めるべきか。
それは制度ごとに違う。
「では、担当者個人の判断に依存する?」
アマリリアが尋ねる。
「現状、ある程度は」
エドガーは率直だった。
「経験の長い者なら、『これは現場で誤解される』と気づくことがあります。ですが、新任者なら形式上整っていれば通すかもしれません」
その言葉に、アマリリアは少しだけ息を止めた。
ミハイルの話と似ている。
有能な一人がいると、仕組みの穴が見えなくなる。
「つまり、優秀な担当者が補っている間は問題が見えにくい」
ライルが先に言った。
「そういうこともあります」
エドガーは頷いた。
「もっとも、我々も万能ではありません。現場を知らないまま余計な確認を増やすこともあります」
「たとえば?」
「市場の運用変更通知で、『全登録者へ個別送付すべきでは』と文書局側から提案したことがあります」
「良さそうに聞こえます」
「結果、登録者の半数近くは実際の運用に関係がありませんでした」
アマリリアは思わず目を瞬いた。
「余計な通知になった?」
「はい。それどころか、関係ない者から問い合わせが増えました」
ライルが苦笑する。
「届けばいいわけでもない」
「その通りです」
エドガーの口調は穏やかだったが、そこには長年の実務経験が滲んでいた。
「届かなければ困る。届きすぎても困る」
◇◇◇
アマリリアは用意していた架空通知を机の中央へ置いた。
「では、こちらを見ていただけますか」
エドガーは紙を受け取り、黙って読み始めた。
アマリリアは意識して何も言わない。
どこから見るか。
何を先に読むか。
それを観察しようとしすぎると、今度は自分の方が不自然になる。
彼は最初に中央の見出しを読み、その後すぐ開始日へ目を移した。
次に変更内容。
理由はその後。
問い合わせ先は最後だった。
「どうでしょう?」
アマリリアが尋ねる。
「形式としては問題ありません」
「受け取った人は、何を変えると理解すると思います?」
エドガーの視線が紙へ戻った。
「利用者なら、朝来る時間を遅らせる」
「他には?」
「管理人は開場作業を遅らせる」
少し間が空く。
「水の搬入業者も、補充時刻を変える必要があるかもしれませんな」
「『かもしれない』?」
「この文面だけでは、搬入業者が開場前に入れるのか分からないからです」
アマリリアとライルが同時に顔を上げた。
そこは用意する側でも決めていなかった。
「なるほど」
ライルが言う。
「利用者と同じ時間変更とは限らない」
「はい」
エドガーは続ける。
「さらに言えば、凍結防止点検をする者が管理人本人なのか、別の作業員なのかも分かりません」
「確かに」
「もし別の作業員なら、その者の出勤時刻も変わる可能性があります」
アマリリアは少しだけ身を乗り出した。
「では、今のお話を文書へ全部入れますか?」
「入れません」
答えは早かった。
「なぜです?」
「長くなりすぎます」
エドガーは通知を指先で軽く叩いた。
「正式通知に、影響を受ける全ての立場と全ての行動変更を書き込むと、今度は誰も読まなくなる」
アマリリアは黙った。
分かりやすくするために情報を増やす。
しかし、増やしすぎれば読まれない。
「では、どうします?」
ライルが尋ねる。
「私なら、まず担当部署へ確認します」
「何を?」
「この通知で、絶対に行動変更が必要な立場は誰か」
アマリリアは小さく息を吸った。
まさに、自分たちが考えていた問いだった。
「その答えが、利用者と管理人だけなら?」
「通知本文にはその二者に必要なことを明確にする。水運搬業者は別経路でよいかもしれません」
「別経路?」
「契約先が限定されているなら、一般通知へ全部書くより直接連絡した方が早い」
「では、一つの通知で全員へ伝える必要はない?」
「むしろ、その方が良い場合もあります」
エドガーは淡々と答えた。
通知を一枚作る。
全員へ同じものを渡す。
その方が公平で分かりやすい気がする。
でも、必要な情報が立場ごとに違うなら、同じ紙へ全部詰め込むことが最適とは限らない。
「共通の正式通知と、個別連絡を分ける」
アマリリアが呟く。
「はい。ただし、それを毎回やるのは負担です」
「やはりそこですね」
エドガーが少し笑った。
「制度改善の話をすると、大抵最後は負担の話になります」
「分かります」
アマリリアも思わず笑った。
◇◇◇
ここで、アマリリアは二つ目の問いへ移った。
「では、通知を作る際に、『この変更で誰が何を変える必要があるか』を確認する欄を一つ追加するのはどうでしょう」
エドガーはすぐには答えなかった。
「欄だけですか?」
「はい。たとえば担当部署が文書局へ案を出す時に、その一項目を書く」
「最初の数か月は、かなり真面目に書かれるでしょう」
「その後は?」
「『関係者各位』になると思います」
ライルが吹き出しそうになり、口元を押さえた。
アマリリアも思わず笑う。
「そんなに早く形骸化します?」
「欄があるから埋める、となれば」
「では意味がない」
「完全にないとは言いません」
エドガーは少し考える。
「書かせることで、一度は考える人もいます。ただ、提出項目が増え続けると、担当者は最短の言葉で埋めるようになります」
「チェック欄と同じですね」
「そうです」
アマリリアは前に自分が考えた案を思い出した。
誰が行動を変えるか。
そこを確認する欄。
分かりやすい。
でも、枠を作るだけでは足りない。
「では、手順にするならどうします?」
「私なら、全通知ではやりません」
「対象を絞る?」
「はい」
エドガーは指を一本立てた。
「新制度開始」
二本目。
「旧様式や旧手順が使えなくなる変更」
三本目。
「複数の立場が同時に行動を変える変更」
さらに少し考え、四本目は上げずに手を下ろす。
「この辺りだけでも、確認する価値はあると思います」
「全ての通知でなく?」
「住所変更の案内程度まで毎回考える必要はないでしょう」
ライルが頷く。
「負担も減る」
「はい」
「でも、どの通知が対象か決める手順が必要になる」
「そうです」
また一つ問題が増える。
けれど、アマリリアは嫌ではなかった。
一つ答えを見つけたら終わりではない。
新しい問いが見える。
それでいい。
「試すなら?」
アマリリアが尋ねる。
「まず数件でしょうな」
「数件」
「今後一か月ほどの通知案から、該当しそうなものだけ選ぶ。実際に『誰が何を変えるか』を書いてもらい、文書局側でそれが役に立ったかを見る」
「役に立ったか?」
「追加確認が必要だと早く気づけたか。対象者の漏れを見つけたか。逆に、ただ欄を埋めただけだったか」
アマリリアはライルを見る。
ライルもこちらを見返す。
どちらからともなく、小さく頷いた。
「全国一斉ではなく、小さく試す」
ライルが言う。
「はい」
「倉庫みたいだな」
「規模も内容も違いますが、考え方は似ていますね」
エドガーが二人を見る。
「すでに何か別の試験を?」
「少し」
アマリリアは第二共同倉庫の細部までは説明せず、現場の荷札・表示改善を小規模試験で見ていることだけ簡単に伝えた。
「なるほど」
エドガーは穏やかに頷いた。
「それなら、今回も最初から制度化しない方がよいでしょう」
◇◇◇
残り時間が半分を過ぎたところで、アマリリアは最後にもう一つだけ聞いた。
「この通知、最初にどこをご覧になりました?」
エドガーが少し意外そうな顔をする。
「最初?」
「はい。内容ではなく、視線として」
「見出しですね」
「その次は?」
「開始日」
やはり。
「変更内容より先に?」
「私は開始日を先に見ます」
「なぜです?」
「急ぐ文書かどうか判断するためです」
ライルが少し身を乗り出した。
「なるほど」
「文書局へ来るものは量が多いので、まずいつ動くものかを見る癖があります」
「では、利用者は違うかもしれない?」
「当然でしょう」
エドガーは笑った。
「利用者なら、自分がいつ使えるかを見る。管理人なら、作業時間。上司なら、対象範囲かもしれません」
「同じ文書でも、見る順番は立場で違う」
「はい」
「では、上から順に読んでもらう前提で作るのは危ない?」
「危ないというより、現実にはそうならないと思った方がよいでしょう」
エドガーは少しだけ考えた。
「ただし、正式文書の構成順には理由があります。法的根拠、変更内容、施行日、問い合わせ先など、後から確認できるよう一定の型を保つ意味もある」
「では、読まれる順番へ完全に合わせる必要はない」
「そうです」
「でも、重要な情報は見つけやすくする?」
「それは有効でしょうな」
アマリリアは、第二共同倉庫の吊り札と区画板を思い出した。
遠くから探す役割。
近くで確かめる役割。
文書も似たことができるのかもしれない。
正式な構造は維持する。
そのうえで、開始日や対象者、行動変更点を見つけやすくする。
ただし、それを今ここで決める必要はない。
「ありがとうございます」
アマリリアはそこで質問を止めた。
まだ聞きたいことはある。
通知を受け取る村役場ではどう読むか。
市場管理者ならどうか。
過去に誤解が起きた通知はどんなものか。
それでも、今日はここまでで十分だった。
壁の時計を見る。
一刻まで、まだ少しだけ余裕がある。
ディーンが止める必要はなかった。
◇◇◇
最後に、エドガー自身から一つだけ提案が出た。
「もし小さく試すのであれば、文書局だけでなく、元の担当部署にも結果を返してください」
「文書局だけでは足りない?」
「はい」
エドガーは架空通知を机へ戻した。
「文書局がどれだけ分かりやすく整えても、元の案に必要な情報がなければ限界があります」
アマリリアは静かに頷いた。
「文書を作る側だけの問題ではない」
「そうです」
「担当部署が、『誰が何を変えるか』を考えていなければ、文書局だけでは補えない」
「補える時もあります。しかし、それを毎回期待すると、また個人の経験頼みになります」
その言葉は、強く残った。
有能な人が補う。
気づく。
直す。
それで制度が回っているように見える。
しかし、その人がいなくなった時に同じように動くとは限らない。
「分かりました」
アマリリアは微笑んだ。
「最初から文書局だけで解決しようとしなくて良かったです」
「私としても助かります」
エドガーが少し笑った。
面談は予定の一刻を少し余らせて終わった。
◇◇◇
会議室を出たあと、ライルとアマリリアはすぐには執務室へ戻らず、隣の小休憩室へ入った。
午前の終わりが近く、窓から差し込む光は少し高くなっている。用意された茶から湯気が立ち、さっきまで集中していた頭がようやく緩む。
「面白かった」
ライルが最初に言った。
「はい」
「欄一個増やせば終わると思ってた?」
「少しは」
アマリリアは正直に答えた。
「でも、やはりそれだけでは駄目でした」
「『関係者各位』になりそうってやつ」
「耳が痛かったです」
「君、最初に作ったら絶対ちゃんと書きそう」
「私は書きます」
「でも十年後も全員が書くとは限らない」
「そこなのです」
仕組みは、人が使い続ける。
最初に作った人だけが真剣でも意味がない。
「小さく試すの、やる?」
ライルが尋ねる。
「セレーネ様へ報告してからです」
「候補は?」
「今後一か月の通知から、旧手順が使えなくなる変更や、複数の立場が行動を変えるものを数件だけ」
「何件?」
アマリリアは口を開きかけた。
そして止まった。
「今、三件と言おうとしました」
ライルが笑い出す。
「また三つ」
「言いませんでした!」
「でも思った」
「……思いました」
自分でも笑うしかない。
「件数は、実際に候補を見てから決めます」
「うん」
「便利な数字に逃げないようにします」
「三って言いやすいからな」
「殿下も気をつけてくださいませ」
「俺?」
「最近、『三つ』を私へ言い返すのを楽しんでおります」
「それはある」
素直すぎる。
◇◇◇
昼食の後、セレーネへ面談結果を報告した。
王妃は最後まで口を挟まず聞き、アマリリアが話し終えると、しばらく机上の指先を止めて考えた。
「全通知へ確認欄を追加するのは、まだ早いわね」
「はい」
「でも、何もしない理由にもならない」
「私もそう思います」
「小規模試行は良いでしょう」
セレーネは頷いた。
「ただし、文書局だけにやらせない」
「元の担当部署にも、誰が何を変えるかを書いてもらう?」
「ええ。そして文書局側が、それを見て何か気づいたかも残す」
「二重の記録になりますね」
「だから数を絞るのです」
アマリリアは少し考える。
「負担を見ること自体も試験内容に入れますか?」
「当然でしょう」
セレーネは即答した。
「役に立っても、毎回半日余計に掛かるなら制度化しにくい。逆に、数分で済むなら話は変わる」
「時間も見る」
「ただし」
セレーネが少し笑う。
「秒単位で測らないでね」
アマリリアは一瞬黙り、ライルが横で肩を震わせた。
「しません!」
「ならよろしい」
「皆様、最近の私を何だと思っております?」
「測れるものを見つけると測りたくなる人」
ライルが答える。
「殿下まで!」
セレーネは楽しそうに笑った。
◇◇◇
その日の午後、第二共同倉庫からは短い報告しか来なかった。
二つの共通事項を朝の説明へ入れて二勤務日目。
新規の大きな問題なし。
一人の臨時作業員が、荷札の文字と区画名に自信が持てず、置く前に班長へ確認。
結果、最初に向かっていた区画は隣だった。
「ニアミス?」
ライルが尋ねる。
「現場ではそう記録しています」
ディーンが答えた。
「共通事項が効いた?」
アマリリアは少し考える。
「可能性はあります」
「断言しない?」
「その方が、以前から確認する人だった可能性もあります」
「じゃあ、聞く?」
「三勤務日後の短い聞き取りで十分です」
今日の面談で頭がいっぱいになっているせいか、むしろ倉庫へ追加質問したい気持ちは薄かった。
「共通事項を言われたから止まったのか。普段からそうしているのか。それだけ分かれば十分です」
「分かった」
ライルは報告を閉じた。
「今日は仕事、結構進んだな」
「はい」
「劇場のこと考える余裕ある?」
アマリリアは少しだけ彼を見る。
「ございます」
「良かった」
「むしろ今から仕事を増やさないようにします」
「約束してたから?」
「はい」
劇場デートまで、もう一週間もない。
今日の面談で新しい課題は増えた。
でも、それを全部今週中に解決する必要はない。
◇◇◇
夕方、二人は王宮の中庭へ少しだけ出た。
秋の風は冷たさを増していたが、日が落ちる前の空にはまだ薄い金色が残っている。庭木の下には落ち葉が積もり、使用人たちが明日の朝まとめて掃くため、端へ軽く寄せていた。
「今日の人、すごかったな」
ライルが言う。
「エドガー様です?」
「うん。『分かってるけど書けない』って最初に言ったの」
「私も印象に残りました」
「文書作る人なら、分かりやすく書けばいいだけだと思ってた」
「私も少しそう思っていました」
でも違った。
元の担当部署から来る情報。
文書局が触れられる範囲。
期限。
受け手の数。
問い合わせ負担。
全てが重なる。
「誰か一人がちゃんとすれば終わる話、ほんと少ないね」
ライルが呟いた。
「はい」
「父上が王様だから全部決められると思ってた時期、俺にもあった」
アマリリアは彼を見る。
「いつ頃です?」
「子供の頃」
「それは仕方ないでしょう」
「でも、今は逆に怖い」
「何がです?」
ライルは少し歩調を落とした。
「王が『これで分かりやすくなる』って決めたら、みんなその形に合わせようとするだろ?」
「はい」
「間違ってても」
アマリリアはすぐには答えなかった。
彼が、自分の権力の強さを怖がっている。
それは弱さではない。
「だから、決める前に見るのですね」
「うん」
「それでも、決めなければならない時は来ます」
「分かってる」
「その時、今日みたいに一人へ聞くだけで終わらせず、必要な立場を見ればよいのでは?」
ライルが少し笑った。
「君と一緒に?」
「もちろんです」
答えは自然に出た。
ライルの表情が柔らかくなる。
「それ、結構嬉しい」
「何がです?」
「将来の話として普通に言ってくれた」
アマリリアはそこで気づいた。
王になるかもしれないライル。
その時、自分が隣にいることを前提に話した。
以前なら意識したかもしれない。
今は、無意識だった。
「……婚約者ですので」
「便利な言葉だね」
「殿下が前に教えたのです」
ライルが笑う。
少しして、彼の手が伸びる。
アマリリアも自然に指を重ねた。
「劇場の日も、将来の話する?」
「しません」
「即答」
「劇場の日は劇場の日です!」
「じゃあ何話す?」
「劇の感想。食事。殿下の濃茶」
「灰青色も」
「またです?」
「うん」
「本当に毎日言いますね」
「好きだから」
アマリリアは一瞬だけ足を止めそうになった。
「……服が?」
「君が着るから」
もっと困る答えだった。
「殿下」
「何?」
「それは反則です」
「何の?」
「知りません!」
恥ずかしくて、少しだけ手を強く握った。
「今日、強い」
「今日は嬉しい時用です!」
言ってから、自分で分類してしまったことに気づく。
ライルが大笑いした。
「分類できた!」
「今のは忘れてくださいませ!」
「無理」
「忘れてください!」
中庭の端で植木を整えていた庭師が、聞こえないふりをしながら顔を下へ向けていた。
◇◇◇
夜、自室へ戻ったアマリリアは、手帳を開いた。
今日の頁には書くことが多い。
だからこそ、全部は書かない。
『内政文書局エドガー・セイル氏面談』
『通知作成側も「誰が何を変えるか」を考えることはあるが、政策内容・担当部署の情報不足・締切・権限範囲により文書へ反映できない場合がある』
『分かりやすさを有能な文書担当個人の経験だけに依存させるのは危険』
少し間を置く。
『全通知へ確認欄追加→形骸化の懸念。「関係者各位」で埋まる可能性』
書きながら、少し笑った。
あの言い方は印象的だった。
『対象を絞った小規模試行候補。新制度、旧手順が使えなくなる変更、複数立場の行動変更など。件数は候補を見てから』
最後の部分は少し強めに書いた。
三件と決めないためだ。
『文書は上から順に読まれるとは限らない。エドガー氏は見出し→開始日→変更内容。立場により最初に見る箇所は変わる』
『正式文書の型は残しつつ、必要情報を見つけやすくする余地あり。未確定』
第二共同倉庫についても一行だけ。
『共通事項導入二勤務日目。臨時一名、置く前に確認し隣区画へのニアミス回避。共通事項の効果かは未確定。予定通り三勤務日後に確認』
そこで仕事の記録は終わりにした。
少し下へ空間を残し、今日の私的なことを書く。
『ライル様、「王が間違った形を決めたら皆が合わせるのが怖い」と言う』
少し考える。
これは仕事の話でもある。
でも、自分にとっては彼自身のことでもある。
未来の王として、権力を持つことを当然と思っていない。
決める側になることを、少し怖がっている。
だからこそ、きっと良い。
絶対に正しいとは言わない。
でも、一緒に考えたいと思う。
『私、「その時は必要な立場を一緒に見ればよい」と答えた』
『無意識に将来も隣にいる前提で話していた』
書いてから、少しだけ頬が熱くなる。
それでも消さなかった。
最後に。
『手を強く握ったら、嬉しい時用と口にしてしまった』
ここは消したくなった。
しばらく見つめる。
しかし結局、そのまま残した。
アマリリアは手帳を閉じる。
制度の通知をどうすればよいか。
まだ答えはない。
第二共同倉庫の試験も続いている。
ミハイルの資料も途中。
劇場デートもまだ来ていない。
未完成なものばかりだ。
それでも、今日の自分は少し満たされていた。
全部が終わっていなくても、前へ進んでいる。
そして、仕事が終わっていなくても、ライルとの時間を楽しみにしてよい。
その二つを同時に持てることが、今はもう特別ではなくなり始めていた。




