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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第73話 劇場衣装の最終確認をしたら、見慣れない姿の婚約者から目を逸らす方が難しくなりました



 劇場用の衣装を最終確認する日の朝、アマリリアはいつもより少しだけ早く目を覚ました。


 窓の向こうはまだ柔らかな朝の光に包まれており、庭木の葉には夜露が残っている。寝台の上でしばらく天井を見つめたあと、今日は午後に灰青色のドレスへ袖を通すのだと思い出すと、胸の奥が小さく弾んだ。


 仕事の予定もある。


 第二共同倉庫からは、昨日から始めた「共通事項二つ」の説明について、三勤務日後に短い聞き取りが入ることになっている。フォード商会から届いた共同輸送資料も、まだ全部は見ていない。


 それでも今日は、朝からそれらが一番に浮かんだわけではなかった。


「……これは、良い傾向ですわよね」


 小さく呟いたところで、寝室へ入ってきた侍女が不思議そうに瞬きをした。


「何かございましたか?」


「いいえ。今日は仕事より先に服のことを考えていた自分に気づいただけです」


「まあ」


「その『まあ』は何です?」


「いえ。お嬢様にもそのような朝が増えたのだな、と」


 侍女は穏やかに笑いながら、カーテンを大きく開いた。


 秋の朝日が室内へ差し込み、鏡台の銀細工へ薄く反射する。


「本日の最終確認では、お袖と腰回り、それから腕飾りが自然に見える位置を調整すると伺っております」


「ええ」


「ライル殿下のお衣装も同時ですね」


「はい」


 そこまで答えたところで、アマリリアは鏡越しに自分の顔を見る。


 少しだけ楽しそうだった。


「……殿下の濃茶も、早く見たいです」


「昨日もそのようにおっしゃっておりました」


「皆様、最近よく覚えておりますね?」


「お嬢様が以前より、そういうお話をなさるようになったからかと」


 アマリリアは少しだけ黙った。


 仕事のことなら昔から何度でも話した。


 新しい制度。


 書類。


 市場。


 倉庫。


 今は、それと同じくらいではないにしても、ライルのことや次のデートのことを自然に口へ出すようになった。


「悪いことではございませんよね」


「もちろんでございます」


 即答されて、アマリリアは少し笑った。


          ◇◇◇


 午前の執務は、意外なほど静かだった。


 第二共同倉庫からは「本日も試験継続、安全上の問題なし」という短報だけ。共通事項二つを朝の説明で使い始めたことも記されていたが、まだ一勤務日目なので評価はしない。


 フォード商会の共同輸送資料も、今日は一枚だけ見ると決めていた。


 昨日は直接契約者数の変化を確認した。


 今日は運賃。


「本当に一枚だけ?」


 ライルが隣から覗き込む。


「一枚だけです」


「残り何枚?」


「五枚ほど」


「全部見たくならない?」


「なります」


「即答だ」


「でも、見ません」


 アマリリアは表を一枚だけ取り出した。


 三つの主要路線について、共同輸送拡大前後の平均運賃が記されている。


 一見すると、三路線すべてで荷一単位あたりの平均運賃は下がっていた。


「安くなってる」


 ライルが言う。


「はい。ただし、これだけでは誰の収入が減ったか分かりません」


「荷主は安くなった」


「少なくとも平均ではそう見えます」


 しかし、欄外には別の数字もある。


 一便あたりの平均積載量は増えている。


 空荷で戻る割合は減っている。


 その一方、個人運送者が単独で小さな荷を引き受ける件数は減少していた。


「同じ便でたくさん運ぶから、一つ当たりは安くなる」


「はい」


「でも、小さい仕事は減る」


「可能性があります」


 アマリリアは表の下部を見る。


 ミハイル側の注記は、ここでも慎重だった。


『平均運賃低下のみをもって市場全体の利益とはしない。小口輸送の機会減少と、別便待ちによる不都合については別途確認が必要』


「自分で欠点を書いてる」


 ライルが少し眉を上げた。


「だからこそ、読みやすいのかもしれません」


「信用できる?」


「信用しやすい、とは思います」


「でも全部信じるわけじゃない」


「はい」


 その違いは大事だ。


 最初から疑って読む必要はない。


 でも、丁寧に作られているからといって、それだけで市場全体を表しているとも思わない。


「今日はここまでです」


 アマリリアは本当に表を閉じた。


 ライルが少し驚いた顔をする。


「偉い」


「殿下」


「だって本当に一枚だったから」


「そこまで驚かれると腹が立ちます」


「でも午後、衣装だろ?」


「はい」


「頭の中を数字でいっぱいにしない約束」


 アマリリアは一瞬だけ言葉を止めた。


「覚えていたのですね」


「もちろん」


 少し嬉しかった。


「では、守ります」


「俺も午後の前に公務終わらせる」


「約束です」


「うん」


 それで午前の共同輸送資料は終わった。


          ◇◇◇


 昼食を終える頃には、アマリリアの意識は完全に午後へ移っていた。


 王宮の衣装室へ向かう廊下は、以前服を選びに来た時より少しだけ賑やかだった。仕立て担当の侍女たちが布箱や装飾品を運び、奥では誰かの礼装を整える声も聞こえている。


「緊張してる?」


 隣を歩くライルが尋ねる。


「少し」


「服着るだけなのに?」


「殿下が選んだ服を、殿下の前で初めて着るのですよ」


 ライルが一瞬黙る。


「……そう言われると、俺も緊張してきた」


「なぜです?」


「君に選ばれた服を、君の前で初めて着るから」


 アマリリアも黙った。


「同じですね」


「うん」


 小さく笑い合う。


 扉の前まで来ると、仕立て担当の女性が出迎えた。


「お待ちしておりました」


「今日はよろしくお願いします」


「こちらこそ。アマリリア様のお衣装は、袖口を少し調整いたしました。殿下のお召し物も、襟元と肩を整えております」


 室内へ入ると、二着がそれぞれ衣装台へ掛けられていた。


 灰青色のドレス。


 濃茶の上着。


 並んでいるだけで、前回より完成形に近い。


 灰青色のドレスには、控えめな銀糸が縁へ入り、腰から裾へかけて柔らかく落ちる。華美ではないが、劇場の私的な外出としては十分に上品だった。


 濃茶の上着は、襟と袖へごく細い金糸が入り、王族らしさは保ちながらも公式礼装ほど硬くない。


「まず、どちらから?」


 仕立て担当が尋ねる。


 ライルとアマリリアは顔を見合わせた。


「殿下から?」


「君から?」


 同時に譲る。


 仕立て担当の女性が少し笑った。


「では、別室で同時にお着替えいただいて、こちらへ戻っていただきましょうか」


「それがよさそうですね」


「うん」


 アマリリアは侍女とともに左の試着室へ。


 ライルは右へ入った。


          ◇◇◇


 灰青色のドレスへ袖を通した瞬間、アマリリアは思っていたより落ち着いた色だと感じた。


 鏡の前に立つ。


 市場デートの若草色とは全く違う。


 あの時は、普段より少し柔らかく、軽やかに見えた。


 今回は、静かだった。


 銀糸が光を強く弾かず、角度によって淡く浮かぶ。肩から腰へかけての線もすっきりしていて、確かに少しだけ大人っぽく見えた。


「……殿下は、これを見たかったのですね」


 アマリリアが呟く。


「とてもお似合いでございます」


 侍女が後ろから袖を整える。


 手首の葉模様の腕飾りも、短く調整した袖口から自然に見えた。


 木の素朴な色が、灰青色の中で少し温かく感じられる。


「変ではありません?」


「むしろ、よく馴染んでおります」


「なら良かったです」


 侍女が髪も少し整える。


 今日は本番ではないので完全な髪型にはしないが、劇場当日は片側を軽くまとめ、銀細工を一つだけ添える予定だ。


「では、戻りますか?」


「はい」


 答えたものの、扉へ手を伸ばす直前に少し緊張した。


 ライルがどんな顔をするのか。


 昨日から、それを少し楽しみにしていた。


 アマリリアは一度だけ息を整え、扉を開いた。


          ◇◇◇


 同じ頃、反対側の扉も開いた。


 先に目が合った。


 アマリリアは、その場で一瞬だけ足を止めた。


 濃茶。


 いつもの濃紺や黒に近い上着とは違い、色に温かみがある。


 金糸も控えめで、王子としての端正さは残しながら、どこか柔らかく見えた。


「……」


 言葉が出ない。


 ライルも同じようにこちらを見て、立ち止まっている。


「殿下」


「アマリリア」


 二人同時に名前を呼んだ。


 少し離れたところにいた仕立て担当と侍女たちが、静かに様子を見守っている。


「……どうです?」


 アマリリアが先に尋ねた。


 ライルはすぐには答えなかった。


 視線が、肩から袖、腰、そしてもう一度顔へ戻る。


「すごく似合う」


 声がいつもより少し低い。


「本当に?」


「うん」


「市場の時より?」


「比べられない」


 即答だった。


「若草色の時は可愛かった。でも今日は……」


 そこで言葉が止まる。


「今日は?」


「綺麗」


 アマリリアの頬が一気に熱くなった。


「……殿下」


「本当」


「分かりましたから」


「でも言いたかった」


 ライルの視線がまだ外れない。


 自分が見られていると分かるほど、アマリリアも落ち着かなくなってくる。


「そんなに見ないでくださいませ」


「見るために選んだんだけど」


「それはそうですけれど!」


 侍女たちの中から、ごく小さな笑いが漏れた。


 アマリリアは恥ずかしくなって視線を逸らし、その先でライルの濃茶の上着を見る。


「殿下も、とても似合っております」


「本当?」


「はい」


 今度は自分が見る番だった。


 肩の線。


 襟元。


 いつもより柔らかい色。


 自分が選んだのに、実際に着ると想像よりずっと良い。


「……私、かなり良い色を選んだのでは?」


 ライルが笑う。


「自分で褒める?」


「似合っているので仕方ありません」


「もっと見ていいよ」


「殿下」


「何?」


「そうやって自分から言われると、見づらいです」


「俺は見てるのに?」


「そこです!」


 二人のやり取りに、仕立て担当が微笑んだ。


「お二人とも、色の組み合わせもよく合っております」


 並んで鏡の前へ立つ。


 灰青色と濃茶。


 揃いの服ではない。


 しかし、片方だけが浮くこともない。


「……本当に合いますね」


 アマリリアが鏡の中を見る。


「うん」


 ライルが少しだけ近づいた。


 肩が触れるほどではない。


 でも、並んでいることを意識するくらいには近い。


「市場の時とは違うな」


「はい」


「あの時は外を歩く服だった」


「今日は劇場ですから」


「なんか、婚約者っぽい」


 アマリリアは思わず鏡越しにライルを見る。


「今さらです?」


「今さらだけど」


 彼は少し照れたように笑った。


「こうやって並ぶと、改めて」


 その言葉に、アマリリアの胸が静かに温かくなる。


 偽装から始まった婚約だった。


 最初は逃げ道として使った。


 彼を脅して。


 無理やり巻き込んで。


 今は、二人で劇場へ行く服を選び、並んで鏡を見ている。


「私も、少し思いました」


「何を?」


「本当に婚約者なのだな、と」


「俺たち、正式に婚約して結構経ってるけど」


「分かっております!」


 それでも、時々こうして実感する瞬間がある。


          ◇◇◇


 最終確認は、見た目だけでは終わらなかった。


 椅子へ座った時の裾。


 立ち上がる時に引っかからないか。


 袖が肘へ食い込まないか。


 長時間座っても腰が苦しくないか。


 ライルの上着も、座った姿勢で胸元が引っ張られないか確認する。


「少し腕を上げてください」


 仕立て担当に言われ、アマリリアが腕を上げる。


 葉模様の腕飾りがよく見えた。


「ちょうど良いですね」


「劇場でも見えます?」


 ライルが尋ねる。


「はい。袖が少し動けば自然に」


「良かった」


 その言い方があまりにも嬉しそうで、アマリリアは手首を見る。


「そんなに見せたいのです?」


「うん」


「木の腕飾りですよ?」


「俺が贈ったから」


 即答だった。


 アマリリアは少しだけ指先で腕飾りへ触れた。


「私も着けたいので」


「それが一番嬉しい」


 仕立て担当の女性が、さりげなく別の布を整えるふりをした。


 侍女たちも少し距離を取っている。


 明らかに二人へ空間を作られている気がする。


「皆様、少し離れました?」


 アマリリアが小声で尋ねる。


「気のせいでは?」


 ライルも小声で返す。


「絶対に気を遣われております」


「じゃあ、気を遣ってもらおう」


「殿下」


 ライルが笑う。


 そのまま、彼はアマリリアの袖口へ視線を落とした。


「少しずれてる」


「どこです?」


「ここ」


 ライルがそっと手を伸ばす。


 袖の端が、腕飾りに少し引っかかっていた。


 指先が布を整える。


 ほんの少しだけ手首へ触れる。


 それだけなのに、アマリリアは呼吸を一瞬止めた。


「……直った」


「ありがとうございます」


 視線を上げると、近い。


 ライルも少しだけ固まった。


「アマリリア」


「何です?」


「近いね」


「殿下が近づいたのです」


「袖直したから」


「分かっております」


 どちらもすぐには離れなかった。


 周囲に人がいる。


 だから、それ以上何かするわけではない。


 ただ、少し近い距離で互いの顔を見る。


「……劇場の日も、そのくらい見ます?」


 アマリリアが尋ねる。


「もっと見るかも」


「覚悟しておきます」


「嫌?」


「いいえ」


 小さく答えた。


 それだけで、ライルの表情が柔らかくなった。


          ◇◇◇


 そこへ、絶妙なタイミングで扉が開いた。


「まあ」


 セレーネだった。


 アマリリアとライルが同時に少し離れる。


「王妃様!」


「母上」


「何もしていないわよ、私は」


「何も聞いておりません!」


 セレーネは楽しそうに二人を見る。


 そして、まずアマリリアのドレスを確認した。


「灰青色、良いわね」


「ありがとうございます」


「ライルが選んだにしては上出来」


「母上」


「冗談よ」


 次にライルを見る。


「濃茶も似合ってるわ」


「アマリリアが選んだ」


「知っているわよ」


「母上、俺よりアマリリアの方をよく見てない?」


「当然でしょう。あなたは見慣れているもの」


「ひどい」


 アマリリアが思わず笑う。


「王妃様、私も殿下をかなり見ましたので大丈夫です」


 言ってから。


 自分が何を言ったのか理解した。


 ライルが嬉しそうにこちらを見る。


 セレーネの眉がわずかに上がった。


「かなり見たの?」


「衣装確認です!」


「ええ。分かっているわ」


「その顔は絶対に別の意味で受け取っております!」


 セレーネは笑いながら椅子へ座る。


「楽しそうで良いじゃない」


「もう……」


「劇場へ行く前から、それだけ楽しめているなら十分ね」


 その言葉に、アマリリアは少しだけ動きを止めた。


「前から?」


「準備もデートの一部でしょう?」


 昨日、自分も似たことを考えた。


 服を選ぶ。


 仕上がりを待つ。


 当日の話をする。


 それらも全部、劇場へ行くまでの時間だ。


「そうかもしれません」


「でしょう?」


 セレーネは満足そうに頷いた。


「人の暮らしは、本番だけで出来ているわけではないもの」


 アマリリアはその言葉を静かに受け取った。


          ◇◇◇


 衣装の最終確認が終わる頃、思わぬ人物がもう一人やってきた。


 ハロルドだった。


「なぜお父様が?」


「セレーネ王妃から呼ばれた」


 アマリリアは即座に王妃を見る。


「王妃様」


「完成した服を見せた方が早いと思って」


「何がです?」


「ハロルドが後から『最終確認を見ていない』と言い出す前に」


「私はそんなことは言わない」


 ハロルドが少し不機嫌そうに答える。


 セレーネは気にしない。


「では見て」


 アマリリアは少し緊張した。


 前回、色だけの段階では認めてくれた。


 でも実際に着た姿を見るのは初めてだ。


「……どうです?」


 父へ尋ねる。


 ハロルドはしばらく娘を見る。


 視線が腕飾りへも落ちる。


「似合っている」


「本当です?」


「嘘を言ってどうする」


 短いが、迷いはない。


「ありがとうございます」


「少し大人びて見えるな」


 ライルが横で嬉しそうに反応する。


「俺もそう思って――」


 ハロルドの視線がすぐ移った。


「お前は黙っていろ」


「なぜですか!」


 アマリリアが吹き出す。


「お父様、殿下が選んだ服なのですよ?」


「知っているから言っている」


「理不尽です」


 ライルが肩を落とした。


 セレーネは楽しそうに見ている。


「ライルの方は?」


 アマリリアが父へ尋ねる。


 ハロルドは濃茶の上着を見る。


「悪くない」


「それだけです?」


「十分だ」


「私が選んだのですよ?」


 その一言に、ハロルドの表情が少し変わった。


「……なら、良い」


 ライルが目を丸くする。


「評価上がりました?」


「娘が選んだ」


「俺本人は?」


「知らん」


「お父様!」


 今度はアマリリアまで笑った。


 ハロルドも完全には怒っていない。


 以前なら、こういう場面でももっと険しい空気になっていたかもしれない。


 今は、父親としての警戒を残しながらも、二人の関係そのものを否定してはいない。


「劇場では、くれぐれも」


 ハロルドが言いかける。


 アマリリアは先に答えた。


「支配人を呼びません」


「……」


 ライルとセレーネが同時に笑う。


「皆様が何度も言うから覚えました!」


「なら良い」


「それだけです?」


「あと、仕事の書類を持ち込むな」


「持ち込みません」


「手帳は?」


「持っていきません」


「市場へ寄るなら――」


「寄りません!」


 アマリリアが少し強く答えると、ハロルドはようやく頷いた。


「なら、楽しんでこい」


 その言葉は、市場デートの前にも聞いた。


 けれど、今回はもっと自然だった。


 アマリリアは少しだけ表情を柔らかくする。


「はい」


          ◇◇◇


 衣装を着替え終えたあと、二人は王宮の小さな休憩室へ移った。


 最終確認は予定より少し長くなったが、まだ夕方には早い。


 窓から入る光は傾き始め、テーブルの上には茶と焼き菓子が用意されていた。


「灰青色、もう脱いじゃった」


 ライルが少し残念そうに言う。


「当たり前でしょう」


「もう一回見たい」


「劇場までお待ちくださいませ」


「一週間くらい?」


「はい」


「長い」


「子供ですか?」


 アマリリアは笑いながら茶を飲む。


「殿下の濃茶も、私は劇場まで見なくてよいです」


「本当に?」


「……少しは早く見たいです」


「じゃあ同じ」


「でも我慢できます」


「俺も我慢する」


「その言い方だと、大変な我慢のように聞こえます」


「大変だよ」


「もう」


 アマリリアは少し頬を熱くしながら、焼き菓子を一つ取った。


「今日は仕事へ戻ります?」


 ライルが尋ねる。


「少しだけ通常書類を見ます。ただ、フォード商会の続きは見ません」


「約束守る?」


「はい」


「じゃあ、俺も残りの公務は一件だけ」


「それなら、夕食まで少し時間がありますね」


「何する?」


 アマリリアは少し考えた。


 仕事以外。


 でも、まだ帰るには早い。


「殿下の古い街道記録を見せてくださいませ」


 ライルの表情が明るくなる。


「いいの?」


「はい。今日は仕事としてではなく」


「本当に?」


「怪しい顔をしないでください」


「だって前回、途中で物流のこと考え始めたから」


「今日は考えても、調べません」


「それならいい」


 ライルが嬉しそうに笑った。


          ◇◇◇


 王宮図書室の奥。


 ライルが気に入っている古い街道記録の棚は、一般の執務資料より少し暗い場所にある。


 午後の光が細長い窓から斜めに差し込み、古い革表紙の背を静かに照らしていた。


 ライルは以前から使っている一冊を取り出す。


 青い紐の木製栞が挟まっている。


 アマリリアが市場デートで贈ったものだ。


「まだ使っておりますね」


「ずっと使うよ」


「嬉しいです」


 今日は素直に言った。


 二人で長椅子へ座る。


 ライルが開いた頁には、今の主要街道から外れた古い道が描かれていた。


「ここ、昔は峠越えの主要路だったんだって」


「今は?」


「南側に新しい橋が出来てから、そっちへ大半が移った」


「住民は?」


「全部は移ってない」


 ライルが少し楽しそうに頁をめくる。


 古い宿場。


 小さな礼拝堂。


 水場。


 今では主要路から外れているのに、何十年も残っている集落。


「前にも似た話をしましたね」


「うん」


「殿下は、道が変わっても残る人を見るのが好きなのですね」


「たぶん」


「理由は?」


 聞いてから、アマリリアは自分で笑った。


「また聞いてしまいました」


「いいよ」


 ライルも笑う。


「全部説明できなくてもいいって君が言ったけど、考えるのは楽しいから」


「では、聞きます」


「なんだろう」


 ライルは少しだけ頁を見つめる。


「地図だと、道が一本消えて、新しい道が一本増えるだけだろ?」


「はい」


「でも、人は線みたいに全部一緒に動かない」


「前もそうおっしゃっていましたね」


「残る人もいるし、新しい道へ行く人もいる。両方使う人もいる」


 アマリリアは静かに聞く。


「それを見ると、国を動かす時も、地図みたいにはいかないんだろうなって思う」


 少し意外だった。


「趣味なのに、やはり統治へ繋がります?」


「繋げようとしてるわけじゃないんだけど」


「分かります」


 好きだから見ている。


 その中で自然に考える。


 それは、仕事として調査するのとは違う。


「でも、今日は調べません」


 アマリリアが言う。


「何を?」


「この古い道の現在の人口とか、物流量とか」


 ライルが笑い出す。


「考えてたんだ」


「少しだけです!」


「でも調べない?」


「はい」


「偉い」


「また褒めましたね」


「だって前なら――」


「殿下」


「はい」


 二人で笑う。


          ◇◇◇


 図書室を出る頃には、外は夕暮れへ変わっていた。


 窓の向こうに薄い橙色が残り、王宮の廊下には灯りが入り始めている。


「今日、楽しかった」


 ライルが言う。


「衣装です?」


「全部」


「私もです」


 歩きながら、アマリリアは今日を思い返す。


 フォード商会の運賃表を一枚だけ見た。


 灰青色のドレスを着た。


 濃茶のライルを見た。


 セレーネにからかわれた。


 ハロルドから似合うと言われた。


 古い街道記録を一緒に見た。


 仕事と私生活が同じ日にあって、どちらかがもう一方を押し潰さなかった。


「殿下」


「何?」


「今日は、ちゃんと両方ありましたね」


「何が?」


「仕事と、私たちの時間です」


 ライルは少し考えてから頷いた。


「うん」


「以前の私は、たぶん仕事の方を増やしていたと思います」


「今は?」


「今日は十分です」


 その答えに、自分でも満足した。


 ライルの手が近づいてくる。


 アマリリアも自然に手を伸ばした。


 指を絡める。


「劇場の日も、こんな感じだといいな」


 ライルが言う。


「どんな感じです?」


「何か特別なことが起きなくても、楽しい」


 アマリリアは少しだけ彼を見る。


「私も、そう思います」


 劇が素晴らしくても。


 つまらなくても。


 何か大事件が起きなくても。


 一緒に行けば楽しい。


 もう、そのことは分かっている。


          ◇◇◇


 夜、自室へ戻ったアマリリアは、いつもの手帳を開いた。


 押し花を挟んだ頁を丁寧に避けながら、今日の記録を書き始める。


『フォード商会資料。共同輸送拡大後、荷一単位あたり平均運賃は主要三路線で低下。積載量増、空荷帰り減。ただし小口単独輸送機会の減少あり。平均運賃低下だけで全体利益としない』


 今日は本当に一枚だけ。


 それ以上は書かない。


 次に。


『劇場衣装最終確認』


『灰青色、完成』


『ライル様、綺麗と言う』


 そこで手が止まった。


 少し恥ずかしい。


 でも残す。


『濃茶、想像以上に似合う』


 さらに。


『お父様も似合うと言ってくれた』


『劇場支配人を呼ばないことを再確認された』


 ここで思わず笑った。


 そして最後に、今日の古い街道記録のことを書く。


『道が変わっても、人は線のように全部同じ方向へ動かない、とライル様』


『今日は現在人口も物流量も調べなかった』


 わざわざ書くほどでもない。


 でも、今の自分には少し大事だった。


 気になったことを、その場で全部仕事へ変えない。


 好きな人の好きなものを、そのまま一緒に楽しむ。


 それが以前より出来るようになった。


 最後に、一行だけ付け足す。


『特別なことが起きなくても、一緒なら楽しい』


 アマリリアはその文字を見つめた。


 市場デートの時にも感じた。


 劇場へ行く前の今も感じている。


 偽装婚約を始めた頃の自分なら、こんな未来は想像しなかった。


 第一王子を脅して婚約者にした。


 それが今では、彼の着る濃茶の上着を見るだけで嬉しい。


 人生は、計算通りには進まない。


 でも、だから悪いわけでもない。


 アマリリアは手帳を閉じ、手首の葉模様の腕飾りを指先で撫でた。


 劇場デートまで、あと一週間ほど。


 急ぐ必要はない。


 その日までの時間さえ、今はもう楽しみの一部になっていた。

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