第69話 劇場デートの服を二人で選んだら、父へ見せる前から王妃様が楽しそうでした
劇場デートの服を選ぶと決めた翌朝、アマリリアは第二共同倉庫の報告書より先に、自分の衣装棚を眺めていた。
窓の外には澄んだ秋空が広がり、朝の光が薄いカーテン越しに寝室へ差し込んでいる。侍女たちはいつものように支度を整えていたが、今日は午後に王宮の仕立て担当が来ると決まっているせいか、普段より少しだけ楽しそうな空気があった。
「お嬢様は、何色をお召しになりたいですか?」
髪を整えていた侍女が尋ねる。
「今日は私が決めるのではなく、ライル様に選んでいただきます」
「市場デートの時と同じでございますね」
「ええ。ただし、今回は私も殿下の服を選びます」
言ってから、アマリリアは鏡の中の自分を見る。
若草色のドレスを選んでもらった市場デートの日。
自分ではあまり手を伸ばさない色だったが、ライルが選んだというだけで、着ること自体が少し特別に感じられた。
今度は劇場。
市場とは違う。
歩きやすさより、座って長く過ごすこと。
周囲へ過度に目立たず、それでも正式な婚約者同士として不自然ではない装い。
考え始めれば、いくらでも条件を増やせる。
「……服選びまで仕事にしないようにいたします」
「賢明かと」
「今の返事、早すぎません?」
侍女は丁寧に微笑むだけで、否定しなかった。
アマリリアは小さく息を吐き、それから自分でも笑った。
◇◇◇
午前の執務では、第二共同倉庫から大きな報告は届かなかった。
吊り札の文字量を減らし、区画板へ詳細を残すという調整は予定通り始まったが、まだ一勤務日の途中であり、現場責任者から「停止要因なし」の短報が来ただけだった。
「今日はこれで終わりですね」
アマリリアが紙を閉じると、ライルが隣から顔を覗き込む。
「本当に?」
「何です?」
「服選びの日だから、仕事を早く切り上げようとしてない?」
「通常通りです!」
「少し楽しみ?」
「かなり楽しみです」
即答すると、今度はライルの方が一瞬黙った。
「……何です、その顔は」
「いや、嬉しくて」
「毎回同じ反応をなさいますね」
「君が毎回ちゃんと言ってくれるようになったから」
アマリリアは少しだけ頬を熱くした。
以前なら、「楽しみです」と言う前に一度考えていた。
今は、楽しいことを楽しいと口に出すのが自然になってきている。
ディーンが別の書類を差し出した。
「内政文書局との面談用の架空通知案も、午前中の確認は以上です」
「はい。続きは明日で構いません」
「では、本日の午後は仕立て担当との予定のみ?」
ゼインが確認する。
「その後に通常書類が少しございます」
「お嬢様」
「何です?」
「服選びの後へ仕事を詰めすぎないように、と王妃殿下から念押しが来ております」
アマリリアの眉が上がる。
「王妃様から?」
「はい」
「なぜゼインへ?」
「お嬢様本人へ言うより、こちらへ言った方が確実だと」
「信用が!」
ライルが笑い出す。
「母上らしい」
「殿下は笑っておりますけれど、同じことを言われているのでは?」
「言われた」
「ほら!」
「でも今日は俺も服選び優先」
「私もです」
アマリリアは少し胸を張った。
「ですから、王妃様へはそうお伝えくださいませ」
「承知しました」
ゼインが答えたが、その表情はほんの少しだけ面白がっているように見えた。
◇◇◇
昼食後、二人は王宮の衣装室へ向かった。
王族や高位貴族の公式衣装を扱う部屋とは別に、私的な外出用の服を選ぶための小さな応接兼試着室がある。壁沿いには色布や刺繍見本が並び、大きな窓から入る午後の光が、それぞれの色を柔らかく見せていた。
仕立て担当の女性は四十代ほどで、王妃付きの衣装管理にも長く関わっているらしい。アマリリアとライルが入ると、深く礼をしてから、今日用意した候補を順番に説明した。
「まず、アマリリア様のお召し物でございます」
三着が並べられる。
一着目は淡い灰青色。
二着目は深い葡萄色。
三着目は柔らかな薄金色。
市場デートの若草色とはかなり印象が違う。
「殿下」
アマリリアは三着を見比べたあと、すぐ隣のライルを見る。
「選んでくださいませ」
「本当に俺が?」
「そのために来たのでしょう?」
ライルは少し嬉しそうに三着の前へ進んだ。
最初に灰青色を見る。
次に葡萄色。
最後に薄金色。
思ったより真剣だ。
「そんなに悩みます?」
「悩むよ」
「なぜ?」
「全部似合いそうだから」
あまりにも自然に言われ、アマリリアは一瞬だけ言葉を失った。
仕立て担当の女性が少しだけ口元を緩める。
「殿下」
「何?」
「そういうことを、周囲がいるところで平然とおっしゃらないでくださいませ」
「本当のことだし」
「それが困るのです!」
ライルは何が困るのか分からないという顔をしている。
アマリリアは少しだけ顔を背けた。
「でも、一つ選ぶなら」
ライルが灰青色のドレスへ手を伸ばした。
「これかな」
「理由は?」
「劇場の灯りに合いそう」
仕立て担当が頷く。
「室内照明では銀糸部分が強く光りすぎず、柔らかく見えると思います」
アマリリアは布へ触れた。
落ち着いた色。
自分でも選べそうな範囲ではある。
「他にも理由があります?」
尋ねると、ライルは少し考えた。
「君が市場で若草色を着た時、いつもより柔らかく見えたんだ」
「柔らかく?」
「うん。今回は少し大人っぽい感じも見たい」
今度こそ、完全に顔が熱くなった。
「……殿下」
「何?」
「恥ずかしいです」
ライルが少し驚き、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあこれ?」
「はい」
アマリリアは灰青色のドレスを選んだ。
自分が好きだからだけではない。
ライルが見たいと言ってくれた姿を、着てみたいと思った。
それが少し嬉しい。
◇◇◇
「では、次は殿下です」
アマリリアはすぐに気持ちを切り替えた。
ライル用にも三案が用意されていた。
深い紺。
黒に近い墨色。
少し赤みのある濃茶。
市場デートではアマリリアが濃紺を選んだため、今回は違う色も面白い。
「これです」
アマリリアが指したのは、濃茶だった。
ライルが少し目を丸くする。
「早い」
「似合うと思います」
「見た瞬間?」
「はい」
濃茶の上着は、王族らしい華美さを抑えつつ、襟元と袖口に細い金糸が入っている。普段のライルは青系統や黒系統が多いため、少し温かみのある色の方が私的な外出らしく見えた。
「理由は?」
「いつもと違う殿下を見たいので」
言った瞬間。
今度はライルが黙った。
アマリリアは少しだけ胸を張る。
「どうしました?」
「……仕返し?」
「何のことです?」
「さっき俺が君に言ったのと似てる」
「偶然です」
「絶対違う」
「でも本当に、いつもと少し違う殿下を見たいのです」
ライルは濃茶の上着を見て、それからアマリリアを見る。
「じゃあ、これにする」
「よろしいのです?」
「君が選んでくれたなら」
「気に入らないのに着るのは駄目です」
「気に入ってるよ。自分では選ばないだけ」
市場の時、自分が若草色を選ばれた時と同じだった。
自分では手に取らない。
でも、相手が選んでくれたから着てみたい。
「では、決定ですね」
「うん」
仕立て担当が二人の衣装をそれぞれ確認し、寸法調整について説明を始める。
その間、アマリリアは少しだけ二着を並べて見た。
灰青色と濃茶。
揃いすぎてはいない。
でも、並ぶと落ち着いた色合いでまとまる。
「お似合いの組み合わせでございます」
仕立て担当が言った。
「衣装が?」
ライルが尋ねる。
女性は一瞬だけ間を置き、穏やかに笑った。
「もちろん、お二人も」
アマリリアは何も言えなくなった。
ライルだけが嬉しそうに笑っていた。
◇◇◇
衣装の寸法確認が始まると、服選びは急に実務的になった。
袖丈。
肩幅。
座った時の裾。
劇場の個室席で立ち座りしやすいか。
装飾が椅子へ引っかからないか。
市場デートとは違い、長時間座るため腰回りの締め付けも少し緩めるという。
「なるほど」
アマリリアが熱心に聞いていると、ライルが横から見る。
「今、仕事の顔になってない?」
「衣装の説明です!」
「でも楽しそう」
「知らないことを聞くのは好きです」
「調査?」
「違います!」
仕立て担当が笑いを堪えている。
「殿下、私が何か聞くたびに調査と言うのをやめてくださいませ」
「だって面白いから」
「劇場で同じことをなさったら怒ります」
「ハロルド伯爵の条件に書いてあった?」
「書いてありません!」
「じゃあ大丈夫」
「そういう問題ではございません!」
少し離れて控えていた侍女たちも、とうとう目元を緩めている。
アマリリアは恥ずかしさで少し頬を膨らませたが、空気が和やかなこと自体は嫌ではなかった。
寸法確認が終わると、装飾品の候補へ移る。
アマリリアには銀細工の小さな髪飾り。
ライルには金糸を抑えた簡素な胸飾り。
どちらも正式行事ほど華美ではない。
「腕飾りは?」
ライルがアマリリアの手首を見る。
そこには市場デートでもらった葉模様の木製腕飾りがある。
「これを着けていきたいです」
「本当に?」
「駄目です?」
「全然。むしろ嬉しい」
仕立て担当が少し考えた。
「灰青色でしたら、木の色も浮きすぎないと思います。袖口を少し短く調整すれば、腕飾りも自然に見せられます」
「では、それでお願いします」
アマリリアは迷わなかった。
高価な宝石より、今はこれを着けたい。
市場でライルが選んでくれたものだから。
次のデートにも、その思い出を連れて行きたいと思った。
◇◇◇
服選びが一段落した頃、扉の外から控えめな声が聞こえた。
仕立て担当が確認に向かい、戻ってくる。
「王妃殿下がお見えです」
アマリリアとライルが同時に顔を見合わせた。
「来ると思った?」
「少し」
「私もです」
扉が開き、セレーネが楽しそうな顔で入ってきた。
「決まった?」
「王妃様、早いです」
「様子を見に来ただけよ」
「絶対違います」
セレーネは二人の衣装を見て、まず灰青色のドレスへ目を留めた。
「ライルが選んだの?」
「はい」
「良いわね」
次に濃茶の上着を見る。
「こちらはアマリリア?」
「はい」
「それも良い」
満足そうに頷く。
「二人とも、前回より少し落ち着いた色ね」
「劇場ですから」
「そういう理屈だけ?」
セレーネがアマリリアを見る。
「何です?」
「あなた、ライルに選んでもらったから嬉しいのでしょう?」
アマリリアは少し黙った。
「……はい」
以前なら、からかわれるのが嫌で少し否定したかもしれない。
今日は素直に認めた。
セレーネの表情が少し柔らかくなる。
「それなら良いわ」
「母上、俺の服も見て」
「見てるわよ」
「感想は?」
「アマリリアが選んだなら、あなたは何でも喜んで着るでしょう」
「まあ」
「否定しないのですね」
アマリリアがライルを見る。
「だって本当だから」
「……もう」
頬が熱くなる。
セレーネは楽しそうに二人を眺めていた。
「ハロルドにはいつ見せるの?」
その一言で空気が少し変わる。
ライルが露骨に視線を逸らした。
「今日……?」
「殿下」
「何?」
「私を見ないでくださいませ」
「一緒に行こう」
「昨日まで『二人で先に決める』と言っていたでしょう?」
「決めた後は一緒でもいいだろ?」
「嫌です」
「また即答」
セレーネが笑う。
「今日見せるなら、私も同席しましょうか?」
アマリリアとライルが同時にセレーネを見る。
「王妃様が?」
「面白そうだから」
「そこですか!」
「半分はね」
「残り半分は?」
「ハロルドが本気で変更を求め始めたら止めるため」
現実的だった。
「では……お願いします」
ライルが先に頭を下げる。
アマリリアは少しだけ迷ったものの、結局頷いた。
「私もお願いします」
「決まりね」
セレーネは満足そうに笑った。
◇◇◇
ハロルドへ衣装を見せることになったのは、その日の夕方だった。
王宮内でベスター家が使用している応接室へ入ると、ハロルドはすでに待っていた。
机の上には書類が一枚だけ。
明らかに仕事の途中だったはずだが、娘と第一王子の衣装確認だと聞いて時間を空けたらしい。
「決めたのか」
「はい」
アマリリアが答える。
「もう?」
その一言に、少しだけ疑いが含まれている。
「二人で選びました」
「誰が何を?」
「私の服はライル様。殿下の服は私です」
ハロルドの視線がライルへ向く。
「お前が選んだのか」
「はい」
「なぜ灰青色だ」
ライルは少しだけ身構えた。
「劇場の灯りに合うと思ったのと、アマリリアの少し大人っぽい雰囲気も見たかったので」
ハロルドが無言になる。
アマリリアは額へ手を当てたくなった。
「殿下、それをお父様へそのまま言います?」
「聞かれたから」
「もう少し言い方が!」
「何が悪い」
ハロルドの声は低い。
セレーネが横で明らかに楽しんでいる。
「ハロルド」
「何です、王妃殿下」
「娘が嬉しそうよ」
その一言で、ハロルドの視線がアマリリアへ移った。
アマリリアは少し迷い、それから誤魔化さずに答えた。
「嬉しいです」
「……そうか」
ハロルドは一度だけ息を吐いた。
「なら、灰青色でいい」
早かった。
ライルが少し驚く。
「いいんですか?」
「何だ」
「もっと揉めるかと」
「揉めてほしかったのか?」
「いえ!」
アマリリアは思わず笑った。
「お父様、随分早く認めましたね」
「お前が気に入っているなら、それでいい」
前回の市場デートより、さらに一歩進んでいる。
父が選ぶ。
父が守る。
父が認める。
以前はそういう形だった。
今は、娘が自分で選んだものを認める。
ライルと二人で決めたものを、そのまま受け入れる。
「では、ライル様の濃茶も?」
アマリリアが尋ねる。
ハロルドは今度は少しだけライルを眺めた。
「まあ、悪くはない」
「それだけ?」
ライルが少し不満そうに聞く。
「娘が選んだなら着ろ」
「はい」
「素直ですね」
アマリリアが笑う。
「君が選んだんだから」
「またそういうことをお父様の前で」
「もう聞こえてるぞ」
ハロルドが低く言う。
セレーネがとうとう声を立てて笑った。
◇◇◇
「腕飾りも着けます」
アマリリアが何気なく言った。
ハロルドの視線が手首へ落ちる。
市場デートでもらった葉模様の木製腕飾り。
以前も見せている。
「まだ着けているのか」
「はい」
「毎日?」
「仕事中もです」
ハロルドがライルを見る。
「お前、相当気に入られているな」
ライルが一瞬だけ言葉に詰まる。
「……嬉しいです」
「顔を見れば分かる」
「お父様」
アマリリアは少しだけ恥ずかしくなる。
「何だ」
「今、殿下をからかいました?」
「少し」
父まで「少し」を使い始めた。
セレーネが隣で楽しそうに笑う。
「ハロルドも随分変わったわね」
「何がです」
「前なら、その腕飾りを見るたび一言多かったでしょう」
「今も一言は言った」
「でも取り上げようとはしない」
ハロルドは少しだけ沈黙した。
その後、娘の手首をもう一度見て、低い声で言う。
「本人が嬉しそうなら、いい」
市場デートから戻った夜にも聞いた言葉。
でも、今度はもっと自然だった。
アマリリアの胸の奥が少し温かくなる。
「ありがとうございます」
素直に答えると、ハロルドは少しだけ視線を逸らした。
「礼を言うほどのことじゃない」
「でも言いたかったので」
父は何も返さなかった。
ただ、表情は以前ほど硬くなかった。
◇◇◇
衣装の話が終わったところで、ハロルドが机の書類へ手を置いた。
「ところで、倉庫の方はどうなっている」
仕事の話へ移った。
アマリリアは少しだけ笑う。
「置き場表示の役割を分ける調整が始まりました。遠くから探す吊り札は文字量を減らし、近くで確認する区画板には詳細を残す方向です」
「色布は?」
アマリリアが少し驚いた。
「ご存じなのです?」
「セレーネ王妃から聞いた」
「王妃様」
「何か問題?」
「皆様、本当に共有が早いです」
ハロルドは気にせず続ける。
「使うのか」
「今は使いません」
「なぜだ」
「ベルク運送組では、色布は受け取り先と積み下ろし順を探す目印として使っており、最後は文字札で確認していました。便利ですが、色だけで判断するニアミスや、色数を増やしすぎて混乱した例もあります」
ハロルドが頷く。
「なら、今の倉庫へそのまま入れる理由はないな」
「はい。現場側がすでに『遠くから探す表示』と『近くで確認する表示』を分け始めていますので、今はその案を先に見ます」
「それでいい」
即答だった。
アマリリアは少しだけ目を丸くする。
「お父様から反対意見が出ると思っておりました」
「何でも反対すると思うな」
「殿下のことはよく反対なさるので」
「それとこれは別だ」
「やはり」
ライルが肩を落とす。
セレーネがまた笑った。
「でも、ハロルド」
「何です」
「その倉庫の話、アマリリアが最初に持ってきた頃よりずっと現場任せになったと思わない?」
ハロルドは少し考えた。
「なったな」
アマリリアも父を見る。
「悪い意味です?」
「逆だ」
ハロルドは静かに答えた。
「最初は、お前が全部見ようとしていた。今は、現場が見るべきところは現場に見せている」
その言葉は、思った以上に胸へ残った。
「お前が考えなくなったわけじゃない。何を自分で考えて、何を人に任せるかを選ぶようになっただけだ」
褒められた。
明確に。
父から。
アマリリアは少しだけ言葉を失った。
「お父様」
「何だ」
「……ありがとうございます」
「だから、いちいち礼を言うな」
「今日は言いたい日なのです」
ハロルドは少し困った顔をした。
ライルが横で微笑む。
セレーネは何も言わず、そのやり取りを見ていた。
◇◇◇
応接室を出たあと、ライルとアマリリアは並んで廊下を歩いた。
窓の外は夕暮れへ変わり、王宮の庭には長い影が伸びている。昼間より冷えた風がわずかに窓の隙間から入り、二人の足音と遠くの話し声が静かな廊下へ響いた。
「ハロルド伯爵、今日は優しかった」
ライルが言う。
「珍しいことのように言わないでくださいませ」
「俺にはいつも厳しいから」
「それは殿下にも原因があるのでは?」
「何した?」
「私へいろいろ言います」
「好きだから」
「そういうところです!」
アマリリアは少し顔を赤くする。
「でも」
ライルが声を少し落とした。
「俺も嬉しかった」
「何がです?」
「君が灰青色を選んでくれたこと」
「選んだのは殿下でしょう?」
「俺が選んだのを、君が着たいって言ってくれたこと」
アマリリアは少し黙った。
「私も嬉しかったです」
「濃茶?」
「はい。殿下が着てくださること」
「じゃあ、お互い同じだ」
「そうですね」
ライルの手が自然に近づいてくる。
アマリリアは少しだけ周囲を見た。
遠くに侍従が一人いる。
こちらを見ていない。
アマリリアは自分から手を伸ばした。
指が触れ、ライルがすぐに握る。
「今日は強く?」
「普通でお願いします」
「市場より?」
「比較は禁止です」
小さく笑い合う。
それだけで、夕方の廊下を歩く時間が少し特別になる。
◇◇◇
自室へ戻ると、侍女が嬉しそうに近づいてきた。
「お嬢様、押し花がほぼ完成いたしました」
「本当ですか?」
薄紙を丁寧に開く。
白かった花は少し象牙色へ変わり、黄色い中心も淡くなっている。それでも形は綺麗に残り、市場デートの日の小さな花だとすぐ分かった。
「綺麗です」
アマリリアはそっと見つめた。
「どこへ保管なさいます?」
少し考える。
箱へ入れる。
本へ挟む。
飾る。
いくつか方法はある。
「手帳へ直接挟むのは傷みます?」
「頻繁に開くのであれば、薄い保護紙を入れた方がよろしいかと」
「では、それでお願いします」
「手帳へ?」
「はい」
市場デートを書いた頁の近くに残したい。
仕事の記録も、日常のことも、同じ手帳に書いている。
以前なら、仕事用と私的なものを分けた方が整理しやすいと思ったかもしれない。
今は。
どちらも自分の一日だから、同じ場所にあってもいいと思えた。
◇◇◇
保護紙へ包んだ押し花を手帳へ挟んだあと、アマリリアは今日の記録を書き始めた。
『倉庫、吊り札簡略化・区画板詳細化を開始。停止要因なし。詳細評価は数勤務日後』
仕事の記録はそれだけだった。
次に、今日の衣装。
『劇場デート。私、灰青色。ライル様、濃茶』
『ライル様が私の服を選び、私が殿下の服を選んだ』
『お父様、ほぼ反対せず』
そこまで書いて、少し笑う。
ほぼ、というのが重要だ。
完全に何も言わなかったわけではない。
でも、娘が気に入っているならそれでいいと認めてくれた。
次に。
『市場でもらった腕飾りも着けていく』
そして少し迷ったあと、父から言われたことを書く。
『お父様から、全部見ようとするのではなく、何を自分で考えて何を人に任せるか選べるようになった、と言われた』
アマリリアはペンを止めた。
父から褒められたことが、思ったより嬉しかった。
幼い頃から、能力を認められることはあった。
出来る。
早い。
優秀。
そう言われることには慣れていた。
でも、今日褒められたのは、「全部出来ること」ではなかった。
全部をやらないこと。
人へ任せること。
選ぶこと。
以前の自分なら、それを成長だと思わなかったかもしれない。
今は、父からそう見えていることが嬉しい。
最後に、今日一番私的なことを書く。
『二人で選ぶのは楽しい』
短い一文。
それで十分だった。
服。
店。
劇。
昼食。
手をつなぐ強さ。
大きな制度ではない。
国を変える決定でもない。
でも、自分の暮らしを作っていくのは、こういう小さな選択なのだと思う。
アマリリアは押し花を挟んだ頁へそっと触れた。
市場デートの日に選んだ花が、形を変えながら残った。
次の劇場デートでは、二人で選んだ服を着る。
その先にも、きっと小さな選択がいくつも増えていく。
全部を完璧に選ぶ必要はない。
間違ってもいい。
気が変わってもいい。
後で笑えるなら、それも二人の暮らしになる。
アマリリアは手帳を閉じ、机の灯りを少し落とした。
明日はまた倉庫の続きを見るかもしれない。
通知制度の準備も残っている。
それでも今夜は、灰青色のドレスと濃茶の上着を並べた時の光景を思い出しながら眠ろうと思った。
仕事ではない明日の楽しみを、後回しにしない。
それができるようになったことを、アマリリア自身も少しずつ誇らしく感じ始めていた。




