第68話 置き場表示を三勤務日使った結果を見たら、間違いが減ったかより『どこを見るようになったか』の方が気になりました
第二共同倉庫で置き場表示を追加してから三勤務日分の集計が届く予定の朝、アマリリアは珍しく目覚めてすぐ倉庫のことを考えなかった。
代わりに思い出したのは、昨夜ライルと読んだ古い街道記録だった。新しい道ができても旧道沿いへ残った人々の話と、どうしてそこが好きなのか自分でも分からないと笑ったライルの顔が、薄明るい寝室の中で妙にはっきり浮かんだのである。
そこから、自分が昨夜手帳へ書いた一文まで思い出してしまった。
好きな理由を、全部説明できなくてもいい。
さらに、その後考えてしまった内容まで連鎖して蘇り、アマリリアは寝台の上で一度目を閉じた。
「朝から何を思い出しておりますの、私は……」
小さな声で呟いたところへ、ちょうど侍女が入ってきた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます」
「お顔が少し赤うございますが、暑いですか?」
「違います」
返事が早すぎた。
侍女が一瞬だけ目を瞬き、それから何も追及せずに朝の支度を始める。その気遣いがありがたいような、かえって見透かされているようで恥ずかしいような複雑な気持ちになった。
「今日は第二共同倉庫から集計が届く日でしたでしょうか」
「予定ではそうです」
髪を整えられながら、アマリリアは鏡越しに答えた。
「楽しみでございますか?」
「楽しみではございます。ただ、結果が良いか悪いかというより、置き場表示を加えたことで何が変わったのかが知りたいです」
侍女は少し笑った。
「以前でしたら、『数字が早く見たい』とおっしゃっていた気がいたします」
「皆様、以前の私を便利に使いすぎではございません?」
「そのようなことは」
口調は丁寧だが、やはり笑っている。
アマリリアは諦めて鏡へ向き直った。
今日、集計が届く。
でも、それまでに朝食もあるし、別の仕事もある。
結果が出るまで何もできないわけではない。
それに、数字が届いたからといって、それだけで何かを決める必要もない。
そんな考えが自然に浮かぶようになったことを、自分でも少しだけ面白く感じていた。
◇◇◇
執務室へ入ると、ライルはすでに来ていた。
珍しい。
彼は机の端に一冊の本を置き、自分の書類へ目を通している。革表紙からわずかに覗く青い紐を見て、アマリリアはすぐに昨日の街道記録だと気づいた。
「おはようございます」
「おはよう」
ライルが顔を上げる。
その視線が一瞬だけアマリリアの顔へ止まり、少し不思議そうに首を傾げた。
「何です?」
「いや。今日、機嫌いい?」
「普通です」
「そう?」
「なぜですの?」
「なんとなく」
アマリリアは少し警戒した。
朝から昨夜のことを考えていたのが顔へ出ているのではないか。
「変なことをおっしゃらないでくださいませ」
「まだ何も言ってない」
「これから言いそうでしたので」
「ひどいな」
ライルが笑う。
そこへディーンが入ってきたが、彼の手に倉庫の報告書はなかった。
アマリリアは視線だけで確認し、何も聞かなかった。
ディーンがそれに気づいたらしい。
「第二共同倉庫の集計は、まだです」
「聞いておりません」
「先にお伝えした方がよいかと」
「私が聞くと思ったのですね?」
「はい」
迷いのない返答だった。
「少しくらい考えてから答えてくださいませ!」
ライルが笑い出し、ゼインまで書類箱を置きながら小さく息を漏らした。
「皆様、本当にひどいです」
「でも、聞かなかったじゃないか」
ライルが楽しそうに言う。
「それはそうですけれど」
「成長」
「最近その一言で何でも済ませておりません?」
「褒めてる」
「雑です!」
朝から少し騒がしくなったが、アマリリア自身も笑っていた。
◇◇◇
午前の最初の仕事は、来週予定されている内政文書局の実務担当者との面談準備だった。
昨日まで質問を増やしすぎないようにしようと話していたため、今日は内容を決め切るのではなく、「何を知れれば面談の意味があるか」だけを整理することになった。
ディーンが白紙を一枚置く。
「候補はいくつほどございますか?」
「八つです」
アマリリアが答えると、ライルがすぐ笑った。
「昨日三つに絞ったのに」
「色布の話とは別です!」
「質問好きだな」
「必要なことを聞こうとしているだけです!」
ゼインが静かに口を挟む。
「全部必要だと思えるから増えるのでは」
痛いところを突かれた。
「……否定はしません」
アマリリアは少し考え、候補を書いた紙を見た。
通知を作る時、実際の利用者をどこまで想定しているか。
誰が行動を変えるかを考える工程はあるか。
形式確認と内容確認はどう分かれているか。
配布先は誰が決めるのか。
通知文を簡潔にしすぎた時の問題。
長くなりすぎた時の問題。
確認欄を増やすことへの実務側の感覚。
そして、「受け取った人が何を変えると理解すると思うか」という問い。
「全部聞けば、面談だけで半日終わりそうですね」
ライルが言う。
「そこまでではございません」
「でも相手も仕事あるだろ?」
「分かっております」
アマリリアは紙を見つめた。
何を知りたいのか。
細かい質問へ入る前に、そこを決めた方がいい。
「三つに分けます」
そう言うと、ディーンが筆を構えた。
「一つ目。制度通知を作る時、作成側が『誰に何をしてほしいのか』をどの程度意識しているか」
「はい」
「二つ目。そこをもっと明確に確認する工程を足す場合、実務上どんな負担や形骸化の危険があるか」
「三つ目は?」
アマリリアは少しだけ間を置いた。
「実際に一つ、架空の通知を使って、『受け取った人が何を変えると理解すると思うか』を一緒に考えていただく」
ライルが顔を上げた。
「質問じゃなくて、やってもらう?」
「はい。『この方法は役に立ちますか』と聞くより、一度その形で考えていただいた方が、使いにくさも分かるかもしれません」
「それ、面白いかも」
「ただ、準備が必要ですね」
ディーンが現実的なところを確認する。
「実際の政策文書を使うと話が広がる可能性があります。簡単な架空例を用意した方がよいかと」
「では、それだけ今日決めましょう」
「どんな制度にします?」
ライルに聞かれ、アマリリアは少し考えた。
「複雑すぎない方がよいです。例えば、王都の共同水場の利用時間変更など」
「誰が行動を変える?」
「水を使う住民、管理人、補給業者……」
言いながら、すぐに増え始める。
ライルが笑った。
「もう増えてる」
「例を考えているのです!」
「でもいい例かも。受け取る人が複数いる」
「簡単すぎても意味がありませんから」
ディーンが一度書き留める。
「では、架空の共同水場利用時間変更を候補として、詳細は面談前日に確認します」
「前日でよいです」
アマリリアが答えると、ゼインが少しだけこちらを見る。
「今日作り込まれないので?」
「作りません」
「それは失礼しました」
「その驚いた顔は何ですの!」
また笑いが広がる。
◇◇◇
昼前になっても、第二共同倉庫の集計は届かなかった。
ただし、アマリリアは今度は確認すらしなかった。
というより、面談準備と別件の書類確認で思ったより時間が過ぎており、気づけば昼の鐘が鳴っていたのである。
「昼食へ行きましょう」
アマリリアが先に立ち上がると、ライルが少し驚いた顔をした。
「何です?」
「いや、倉庫報告待たないんだなって」
「昼食を待たせる理由がございません」
「強い」
「何がです?」
「前なら、あと少し来るかもって思わなかった?」
アマリリアは少しだけ考えた。
「思ったかもしれません」
「今は?」
「来たら、食後に見ます」
そう答えると、ライルは満足そうに頷いた。
「じゃあ行こう」
「殿下が何か達成したような顔をするのは違う気がします」
「でも嬉しいから」
「なぜです?」
「一緒に昼食へ行けるから」
その答えがあまりにも自然だったため、アマリリアの方が一瞬黙った。
「……そういう言い方はずるいです」
「何が?」
「何でもありません」
少し頬を熱くしながら歩き出す。
◇◇◇
昼食は、王宮の小食堂で二人だけだった。
今日は薄切りの鶏肉を香草で焼いたものと、温かな野菜のスープ、柔らかなパンが用意されている。窓の外には高い秋空が広がり、風に揺れる木々の葉が少しずつ色を変え始めていた。
「劇場まで、あと十日くらい」
ライルがスープを口へ運びながら言う。
「数えておりますね?」
「数えてる」
「堂々と認めましたね」
「だって楽しみだし」
アマリリアは少し笑った。
「私も楽しみです」
「服、決める?」
「まだ早くありません?」
「市場の時は二日前くらいだったっけ」
「お父様が揉め始めたので長くなりました」
「今回も揉めるかな」
「お父様ですので」
二人とも同じ結論に達し、少し笑う。
「喜劇の内容、調べてない?」
ライルが尋ねる。
「演目の概要だけです」
「結末は?」
「知りません」
「珍しい」
「観る前に知ってしまったら、楽しみが減るでしょう?」
「そう思うようになった?」
「以前でも芝居の結末まで事前に調べたりは……」
言いかけて止まる。
もしかすると、劇中の設定や評判が気になって少し調べた可能性はある。
「何です?」
「……場合によっては、少しくらい見たかもしれません」
「やっぱり」
「でも今回は見ません!」
「うん。俺も見ない」
「殿下は最初からそうでしょう?」
「たぶん」
ライルは楽しそうだった。
「外れの劇だったら?」
「その話、以前もしましたね」
「店だけじゃなくて劇も」
アマリリアは少し考える。
退屈かもしれない。
役者が合わないかもしれない。
笑うところが自分には分からないかもしれない。
「その場合は、終わったあと殿下と感想を話します」
「悪口になったら?」
「品よく言います」
「そこ?」
「公爵令嬢ですので」
「伯爵令嬢だろ」
「今そこを訂正します?」
二人で笑った。
アマリリアはパンをちぎりながら、ふと思う。
以前は、外出の成功条件を考えていた気がする。
何を見れば有意義か。
何を知れれば意味があるか。
どんな失敗を避けるべきか。
でも、今は劇が面白くてもつまらなくても、ライルと行くこと自体がもう楽しみだった。
「殿下」
「何?」
「劇がつまらなくても、私はたぶん楽しいです」
ライルが少し目を丸くする。
「なんで?」
「殿下と行くので」
今度は自分から言えた。
照れはある。
でも、言わずに飲み込むほどではない。
ライルは一瞬だけ黙ったあと、嬉しそうに笑った。
「俺も」
それだけで、昼食の時間が少し特別になった。
◇◇◇
第二共同倉庫からの集計が届いたのは、昼食後しばらくしてからだった。
小会議室へ戻ったアマリリアとライルのところへ、ディーンが三枚の報告書を持って入ってくる。予備試験の時ほど厚くはないが、一勤務日の短報よりは明らかに情報量が多い。
「置き場表示追加後、最初の三勤務日分です」
アマリリアは資料を受け取る前に確認した。
「安全上の問題は?」
「ありません。試験継続可です」
「では、見ましょう」
ディーンが机へ紙を広げる。
まず対象荷件数。
三勤務日で三百五十六件。
用途欄追加区画が百七十九件、片側斜め区画が百七十七件。
「またかなり近いですね」
「今回も調整はしていません」
「偶然が続きましたね」
アマリリアはそれ以上、件数差へ意味を持たせなかった。
「正式誤配送は?」
「ゼロです」
「ニアミスは?」
「用途欄追加区画三件、片側斜め区画三件」
ライルが少しだけ眉を上げる。
「同じ」
「はい。ただし、置き場表示を追加する前の三勤務日では四件と三件でした」
「一件減った?」
アマリリアはすぐに首を横へ振った。
「それだけでは何とも言えません。件数が少なすぎます」
「分かってる。言ってみただけ」
「殿下、最近わざと私に止めさせておりません?」
「楽しいから」
「やはり!」
少し笑いが起こったあと、ディーンが続ける。
「今回、現場責任者はニアミス件数だけでなく、その時に作業員が何を見ていたか、分かる範囲で記録しています」
アマリリアの表情が変わった。
「何を見ていたか?」
「はい。前回の聞き取りで、『困ったこと』だけでなく判断の手掛かりも見た方がよいという意見が出たため、監督者が確認できた範囲で簡単に残したそうです」
「それは興味があります」
六件のニアミスは、すべて同じ種類ではなかった。
一件は、用途欄追加型の文字を確認したものの、置き場へ向かう途中で隣区画へ入りかけたもの。
一件は、片側斜め型で荷そのものは合っていたが、吊り札が一時的に回転して見えにくく、作業員が一つ手前の通路へ入ったもの。
別の二件は、荷札と区画表示の両方を見たが、忙しい時間帯に後続荷車を避けるため通常と違う方向から入り、慣れた通路へ身体が向いてしまったもの。
残る二件は、臨時作業員が区画表示を見つけたあと、近くへ行って文字札で最終確認する前に荷を下ろしかけ、常勤作業員が止めたものだった。
「最後の二件」
ライルが顔を上げる。
「色布の話と似てない?」
「私も思いました」
アマリリアは報告書を指で押さえた。
遠くから見つけるための目印。
便利だからこそ、それだけで最後まで判断したくなる。
ベルク運送組では色布で同じことが起き、新人へ「最後は文字」と教えるようになった。
第二共同倉庫では色ではなく置き場表示だが、役割は似ている。
「現場はどう見ています?」
「責任者は、『置き場表示が悪いのではなく、表示を見つけた時点で判断が終わったと感じる可能性がある』としています」
「分かりやすくなった結果、確認を一段飛ばす?」
ライルが尋ねる。
「可能性はありますね」
アマリリアは少し考えた。
「でも、二件だけです。これだけで新人全体の傾向とは言えません」
「ただ、ベルク運送組でも似た話があった」
「はい。そこは参考になります」
別の場所で似た問題が起きている。
それでも同じ原因だと即断しない。
ただ、見ておく価値は上がる。
「確認回数の限定観察は?」
アマリリアが尋ねる。
「繁忙時間帯二時間を三勤務日、合計六時間観察。荷一件ごとの全数ではなく、作業員同士の『これはここで合っているか』等の明示的な確認行動を記録しています」
「結果は?」
「置き場表示追加前の同条件観察と比べると、確認回数は全体で約二割減少。ただし、常勤では大きな変化なし。勤務一年未満と臨時作業員で減少が目立つとのことです」
ライルがすぐに反応する。
「良いのか悪いのか分からないやつだ」
「そうです」
今回はアマリリアが止める前に、ライル自身が言った。
「迷わなくなって確認が減った可能性もある。でも、最後の二件みたいに、確認する前に下ろしかけた可能性もある」
「はい」
アマリリアは少し嬉しくなった。
数字だけなら「確認回数二割減」と書けば、改善に見える。
しかし今は、それを誰もそのまま受け取らない。
「作業時間は?」
「全体平均では大きな変化なし。ただし、勤務一年未満の作業員については、置き場へ向かうまでの迷い時間が若干短くなったという観察があります」
「若干?」
「正確な秒数比較はしていません。監督者所感と一部時間測定です」
「では、数字にしない方がよいですね」
「現場も同じ判断です」
アマリリアは頷いた。
次に、三勤務日終了後の短い聞き取り。
前回と同じく「どちらが良いか」は聞いていない。
今回は質問が二つだけだった。
何が前より分かりやすくなったか。
まだ困ることは何か。
「前より分かりやすくなったこと」
ディーンが読み上げる。
「『遠くから目的区画の方向を探しやすい』十一名。『隣区画との境目を迷いにくくなった』七名。『特に変わらない』四名。複数回答あり」
「まだ困ることは?」
「『吊り札が荷や向きで見えづらい時がある』五名。『区画へ着いた後、細かい場所は結局近くの表示を読む必要がある』四名。『表示が増えて最初はどれを見るか迷った』三名。『特になし』六名」
アマリリアは一つの答えに目を止めた。
「表示が増えて、どれを見るか迷った」
「増やせば増やすほど良いわけじゃない」
ライルが言う。
「色布の色数とも似ていますね」
オルグの確認欄。
ベルク運送組の色数。
そして倉庫の表示。
分かりやすくするために足したものが、増えすぎれば新しい迷いを生む。
「三名は、どの表示で迷ったのです?」
「吊り札と区画板が同じ視野に入る場所です。遠くの吊り札と近くの区画板に似た大きさの文字が書かれており、最初にどちらを見ればよいか一瞬迷ったとのことです」
「役割が見た目で分かれていない?」
「現場責任者も同じことを考えたようです」
ディーンが次の行を示す。
「提案として、吊り札は区画名を大きく、細かい用途表記を減らす。区画板は近距離確認用として詳細を残す。つまり、遠くから見るものと近くで読むものの役割を明確に分けたい、と」
アマリリアは思わずライルを見る。
ライルも同時にこちらを見ていた。
「昨日の色布」
「ええ」
ベルク運送組では、色布は探すため。
最後は文字札。
役割が分かれていた。
第二共同倉庫でも、吊り札は探すため、区画板は近くで確認するためと分けた方が、表示同士が競合しにくい可能性がある。
「現場へ色布の話を伝える?」
ライルが尋ねた。
アマリリアは少し考えた。
「考え方だけなら、伝えてもよい気はします」
「色そのものじゃなく?」
「はい。別の運送現場では、遠くから探す目印と最後の文字確認を分けて使っている例があった、と。ただし、こちらでも同じにしろとは言わない」
ディーンが確認する。
「具体的な商会名や三色運用の詳細まで送りますか?」
「今は不要です。先入観になります」
「じゃあ、現場案を先に試してもらう?」
「はい」
アマリリアは報告書へ戻った。
「責任者はすでに、吊り札と区画板の役割を分ける案を出しています。なら、まずそれを試していただきたいです。色布の話は、必要になったら後で比較材料にできます」
「また混ぜない」
「はい」
ライルが少し満足そうに笑う。
「順番」
「その通りです」
◇◇◇
「次の変更は、どこまで現場判断で行えます?」
アマリリアが尋ねると、ディーンが権限整理の文書を確認した。
「表示文言の簡略化と位置調整は、試験目的を変えない軽微な運用調整に該当します。責任者判断で実施可能です」
「では、王宮から承認文は不要ですね」
「はい。ただ、責任者側からは『明日から吊り札の文字量を減らし、区画板へ詳細を残す』と報告してきています」
「良いと思います」
「評価方法は変える?」
ライルが聞く。
アマリリアは少し迷った。
「大きくは変えません。ただ、一つだけ聞き取りへ追加してもらいたい気はします」
「質問増える?」
すぐに言われた。
「一つです!」
「何を?」
「作業員が荷を運ぶ時、最初に何を見て、その後何を見たか」
ライルは少し考える。
「順番?」
「はい。用途欄、形、吊り札、区画板、周囲の位置、他の作業員。どれを使って判断しているのか、本人に説明してもらう」
「全員?」
「いいえ。数人で十分です。全員に毎回聞いたら仕事になりません」
ディーンが頷く。
「聞き取り対象を常勤、経験浅い者、臨時から数名ずつ選ぶ程度なら負担は抑えられそうです」
「では、次の定時聞き取りの時に可能なら、くらいでお願いします。追加のために今すぐ作業を止めないでください」
「承知しました」
アマリリアは少しだけ息を吐いた。
今回の数字で気になったのは、ニアミスが三件ずつだったことではない。
確認回数が二割減ったことでもない。
作業員が何を見ているのか。
どの表示を「探す」ために使い、どの表示を「確かめる」ために使っているのか。
その方が、ずっと重要に思えた。
「数字を見るために始めたのに」
アマリリアが小さく笑う。
「今は数字より人の目の動きが気になるの?」
ライルが尋ねる。
「数字も必要です。でも、数字だけでは『なぜ』が分かりませんから」
「昔の君なら、数字増やした?」
「たぶん」
「今は?」
「聞く相手を少しだけ増やします」
ライルが笑った。
「その方が君らしい気がする」
「どちらの私です?」
「今の」
さらりと言われ、アマリリアは少しだけ返事に困った。
◇◇◇
午後、セレーネへ倉庫の中間状況を報告することになった。
王妃の執務室には傾いた日差しが入り、机の上へ積まれた書類の端を淡く照らしている。今日は母親としての雑談ではなく、短い業務報告の予定だったが、セレーネはアマリリアの話を聞きながら時折興味深そうに指先を組み直した。
「置き場表示で確認回数が二割ほど減った?」
「はい。ただ、それを改善とはまだ見ておりません」
「なぜ?」
「経験の浅い方ほど減っております。一方で、表示を見つけた段階で安心して、最終確認前に荷を下ろしかけたニアミスが二件ありました」
「では、確認回数が減ったことが良いのか悪いのか分からない」
「そうです」
セレーネは頷いた。
「良いわね」
「何がです?」
「前なら、その数字を見た瞬間に原因を三つくらい仮説で出していたでしょう」
「今も頭にはあります」
「言わなくなっただけ?」
「確かめる前に広げすぎないようにしております」
「それを成長と言うのよ」
アマリリアは少しだけ苦笑した。
「今日は素直に受け取ります」
「最近素直ね」
「王妃様がすぐからかうので、今ので台無しです」
セレーネが楽しそうに笑う。
「それで、現場はどうするの?」
「吊り札を遠くから探す目印へ寄せ、文字量を減らします。区画板は近くで詳細を確認する役目として残す予定です」
「色布の話と重なる?」
「少し。ただ、色そのものはまだ入れません」
「なぜ?」
「現場が自分たちで同じ方向の案へ辿り着いておりますから。こちらから別現場の例を今出すと、そちらへ引っ張ってしまうかもしれません」
セレーネは少し目を細めた。
「教えないことを選ぶのね」
「隠すわけではございません。必要な時に比較できるよう残します」
「そういう判断も必要ね」
情報は多ければ多いほどよいわけではない。
現場が自分で考えている途中へ、中央が「参考になる例」を大量に持ち込めば、善意でも答えを狭める可能性がある。
「別の現場の成功例は、強いですから」
アマリリアが言う。
「成功例に見えた瞬間、それが正解に見える?」
「はい。でも、ベルク運送組でも色布には欠点がありました。三色を超えると混乱し、色だけで判断するニアミスも出ています」
「なら、なおさらそのまま持ち込めないわね」
「ええ」
アマリリアは穏やかに頷いた。
◇◇◇
業務報告が終わったところで、セレーネが急に表情を変えた。
「ところで」
「何でしょう?」
「劇場の服は決めた?」
アマリリアは一瞬だけ黙った。
「まだです」
「そろそろでしょう?」
「あと十日ほどあります」
「ハロルドが口を出し始める前に決めた方がいいんじゃない?」
ライルが隣で吹き出す。
「母上、それ俺も思ってた」
「殿下まで!」
「市場の時、大変だったから」
「お父様が勝手に揉めただけです!」
「君も結構楽しんでたわよ」
セレーネにまで言われる。
「楽しんでおりません!」
「そう?」
「……少しは」
完全否定すると嘘になる。
父とライルが自分の服の色について真剣に言い合うのは、呆れながらもどこか嬉しかった。
「今回は、君が俺の服も選ぶ?」
ライルが尋ねる。
「前回も選びました」
「じゃあ今回も」
「まだ何を着るか分かりません」
「一緒に選ぶ?」
アマリリアは少し考えた。
服を選ぶ。
それだけのこと。
市場デートの時は、父を交えて大騒ぎになった。
今度は二人で先に選んでしまうのも面白いかもしれない。
「……そうしましょうか」
答えると、ライルの顔が明るくなる。
セレーネがその反応を見て楽しそうに笑った。
「明日の午後、仕立て担当に空きがあるわよ」
「王妃様、なぜご存じなのです?」
「確認しておいたから」
「もう準備していたのですか!」
「母親だから」
「その言葉、万能すぎません?」
セレーネは全く悪びれずに茶を飲んだ。
「明日、二人で選びなさい。ハロルドには決まってから知らせればいいでしょう」
「それは怒りません?」
ライルが少し不安そうに聞く。
「怒るでしょうね」
「やっぱり」
「でも決めてからなら覆しにくいわ」
アマリリアは思わず王妃を見る。
「王妃様、悪い顔をなさいましたね」
「何のことかしら」
ライルが笑い、アマリリアも結局つられて笑ってしまった。
◇◇◇
その日の仕事を終えたあと、ライルとアマリリアは執務室に少しだけ残った。
ディーンとゼインは先に退出し、夕方の静けさが戻った室内には、紙を片づける小さな音だけが残っている。
「明日、服選ぶんだな」
ライルが言う。
「王妃様が勝手に決めましたけれど」
「嫌?」
「いいえ」
アマリリアは机の引き出しを閉じながら答えた。
「楽しみです」
「また俺が選んでいい?」
「私の服を?」
「うん」
市場では若草色を選んでくれた。
自分では選ばなかったかもしれない色だったが、着てみれば悪くなかった。何より、ライルが嬉しそうに見ていたことを思い出す。
「では、今回もお願いします」
「本当に?」
「はい。ただし」
「ただし?」
「私も殿下の服を選びます」
「もちろん」
「お父様が何を言っても、基本は変えません」
ライルが少し笑う。
「強いな」
「二人で選ぶのでしょう?」
「うん」
「なら、二人で決めたいです」
その言葉に、ライルの表情が少し柔らかくなった。
「そういうの、増えたな」
「何がです?」
「二人で決めたいって言うこと」
アマリリアは少しだけ手を止めた。
第65話で、小さな選択を二人で増やしたいと話した。
今日何を食べるか。
休日にどこへ行くか。
どんな服を着るか。
国の制度ほど大きなことではない。
だからこそ、自分たちの暮らしを形作るのは、そういう小さな選択なのかもしれない。
「増やしたいと申し上げましたから」
「覚えてる」
「では、これも一つです」
ライルが笑った。
「楽しみ」
「私もです」
自然に答えられた。
◇◇◇
自室へ戻ったアマリリアは、侍女に勧められて押し花の様子を少しだけ確認した。
薄紙を開くと、市場デートの日にもらった白い花はずいぶん水分を失い、花弁が平たく整っている。色は少し淡くなったが、形は綺麗に残っていた。
「もう少しで完成いたします」
「あと何日ほど?」
「二、三日かと」
「そうですか」
早く見たい。
でも、ここで触りすぎれば崩れる。
倉庫と少し似ていると思ってしまい、アマリリアは自分で笑った。
「何かございました?」
侍女が尋ねる。
「何でも仕事へ結びつける癖は、まだ完全には抜けておりませんね」
「お嬢様らしいかと」
「褒められております?」
「もちろんでございます」
少し怪しい。
それでも、嫌ではなかった。
机へ向かい、手帳を開く。
『置き場表示追加後、三勤務日三五六件。正式誤配送ゼロ。ニアミス両区画三件ずつ。数字だけでは差なし』
『限定観察では確認回数約二割減。経験浅い者・臨時で減少が大きい。ただし、最終確認前に下ろしかけたニアミス二件。減少=改善とはまだ言えない』
『遠くから目的区画を探しやすい十一名。境界を迷いにくい七名。表示が増えてどれを見るか迷った三名』
『吊り札は遠くから探す目印、区画板は近くで詳細確認する役割へ分ける案。現場判断で明日から調整』
そこまで書いてから、アマリリアは少し考えた。
今日一番残ったのは、件数ではない。
『何を見るようになったか、を見る』
その一文を書き、少しだけ眺める。
表示を追加して、間違いが何件減ったか。
もちろん大切だ。
でも、人がどこを見て、何を手掛かりに判断し、どこで最後の確認をしているかが分かれば、数字だけでは見えなかった仕組みが見えてくる。
次に、仕事とは別のことを書く。
『明日、ライル様と劇場デートの服を選ぶ』
『二人で決める』
短いけれど、それで十分だった。
以前なら、服選びを「準備」としか思わなかったかもしれない。
今は、その時間自体が少し楽しみだ。
何色を選ぶか。
ライルがどんな顔をするか。
自分が彼へどんな服を選ぶか。
父が後から何を言うか。
最後の一つだけは、楽しみというより覚悟に近いかもしれない。
アマリリアは小さく笑った。
明日は倉庫の続きを考える日でもある。
でも、それだけではない。
仕事の合間に服を選ぶのではなく、服を選ぶ時間をちゃんと取る。
王妃が言っていたように、仕事は空いた時間へ入ってくるのではなく、放っておけばどこまでも広がる。
だから、自分の暮らしの方にも先に場所を作っておく。
アマリリアは手帳を閉じ、薄紙の中で乾き続ける花へもう一度視線を向けた。
倉庫の表示も、色布の話も、通知制度も、まだ答えは出ていない。
それでも明日は、まずライルと服を選ぶ。
それを後回しにしなくてもよいと思えることが、今のアマリリアには少し嬉しかった。




