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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第67話 市場の色布について尋ねたら、荷物の用途ではなく『誰が受け取る荷か』を見分けるための目印でした



 第二共同倉庫で置き場表示を加えた運用が始まってから二勤務日目の朝、アマリリアは珍しく倉庫の報告より先に、昨夜見せてもらった古い街道記録本のことを思い出した。


 ライルが楽しそうに指で辿っていた古道。新しい橋ができたことで使われなくなった渡し場と、その後も残った小さな集落。ページの間から覗いていた青い紐の栞まで思い浮かべてから、自分が仕事とはほとんど関係のないことで朝から笑っていることに気づく。


「……悪くありませんわね」


 寝台を降りながら小さく呟くと、朝の支度に入っていた侍女が鏡越しにこちらを見た。


「何か良いことがございましたか?」


「昨日、ライル様に本を見せていただいただけです」


「それは良うございました」


「今、とても嬉しそうに言いましたね」


「お嬢様が嬉しそうでございますので」


 穏やかに返されると、それ以上は何も言えなかった。


 市場デートのあとから、自分の周囲にはこうした反応が増えている。以前なら王宮の使用人たちも第一王子と婚約者の関係へ必要以上に踏み込まなかったが、今では二人が仲良くしていると少し安心したような、時には微笑ましいものを見るような顔をする者までいた。


 公に正式婚約している以上、不思議なことではない。


 けれど、その温かな空気にも少しずつ慣れてきた。


「今日は第二共同倉庫から報告が届くかもしれませんね」


 侍女が髪を整えながら言った。


 アマリリアは鏡の中の自分を見る。


「届くかもしれませんし、届かないかもしれません」


「お待ちになられますか?」


「もちろんです」


 即答すると、侍女の目元が少し緩んだ。


「……何です?」


「いいえ」


「また皆様、私が待てるようになったことを面白がっておりません?」


「そのようなことはございません」


 答えは丁寧だった。


 だが、完全には信じなかった。


          ◇◇◇


 執務室へ着くと、第二共同倉庫からの報告はまだなかった。


 代わりに、机の右端へ小さな封書が置かれている。


 アマリリアは一瞬だけそれを見る。


 倉庫報告に使う紙ではない。


 市場管理側からの文書に用いられる簡素な封だった。


「市場からですか?」


「はい」


 ディーンが答える。


「昨日ご依頼のあった色布付き荷車について、該当しそうな記録が一件見つかりました」


 昨日頼んだばかりである。


 急ぎではないと言ったのだから、数日後でもよかった。


「早かったですね」


「時間帯と場所が比較的はっきりしておりましたので。出入口記録と職人街側の荷受け帳を照合したところ、候補がほぼ一台に絞れたそうです」


 ライルはまだ来ていない。


 アマリリアは封書へ手を伸ばしかけ、そこで少し止まった。


「ライル様は?」


「朝の会議後、こちらへ来られる予定です。半刻も掛からないかと」


 色布を最初に見たのは二人で市場を歩いていた時だった。


 調べなかったのも二人で決めた。


 今すぐ開く必要もない。


「では、待ちます」


 ディーンが少しだけ眉を上げた。


「殿下を?」


「はい」


「業務文書ですが」


「急ぎではないでしょう?」


「ございません」


「なら、一緒に見ます」


 アマリリアは封書を机の端へ戻し、今日最初に処理する予定だった書類を開いた。


 自分でも少し不思議だった。


 以前なら、内容そのものに興味がある以上、先に読んでからライルへ説明すればよいと思ったはずである。


 今は、最初に知る瞬間まで一緒でいいと思えた。


 それは仕事の効率とは何の関係もない。


 でも、二人で見つけたものなのだから、二人で答えを見る。


 その方が自然だった。


          ◇◇◇


 ライルが入ってきたのは、それから四半刻ほど後だった。


「遅くなった」


「お疲れ様でした」


「何か来た?」


 席へ向かいながら尋ねるライルへ、アマリリアは市場管理側の封書を示した。


「色布付き荷車の候補が見つかったそうです」


 ライルの目が少し大きくなる。


「もう?」


「私も驚きました」


「読んだ?」


「まだです」


「なんで?」


「殿下と一緒に見ようと思いまして」


 言ったあとで、アマリリアは少しだけ照れた。


 ライルはそれ以上に分かりやすく嬉しそうな顔をする。


「そっか」


「そんなに喜ぶことです?」


「うん」


「ただの書類ですよ」


「でも、待っててくれたんだろ」


 そう言われると、少し恥ずかしい。


「急ぎではなかっただけです」


「はいはい」


「その顔、納得しておりませんね?」


「してるよ」


 アマリリアは少しだけ睨んだものの、すぐに封を切った。


 市場管理側からの報告は、期待していた以上に簡潔だった。


 該当する荷車は、王都の中規模運送商会ベルク運送組が使っているものと見られる。


 市場デート当日の時間帯、職人街側へ入った同商会の荷車は一台。


 荷の内容は、金属加工品の半製品、木工用の金具、革細工用の留め具など複数。


 荷受け先は三か所。


「三か所?」


 ライルが先に反応した。


「用途別ではないようですね」


 アマリリアも資料を読み進める。


 色布については、荷受け帳の余白に担当者が簡単な記載を残していた。


『赤布・ローデン工房。黄布・東職人組合受取所。青布・ベルク商会預かり倉庫』


 アマリリアはそこを二度読んだ。


「……受け取り先?」


「みたいだな」


「荷の用途ではございませんね」


 市場で見た時、自分は「中身や用途を視覚的に区別しているのでは」と考えた。


 しかし実際には、荷物をどこへ渡すかを見分けるための目印らしい。


「やはり、見ただけでは分かりませんね」


 アマリリアは小さく笑った。


「残念?」


「少しだけ」


 正直に答える。


「第二共同倉庫の用途区分と同じなら、比較しやすいと思っておりましたので」


「でも完全に関係ない?」


 ライルが尋ねる。


「まだ分かりません」


「ほら」


「何です?」


「もう気になってる」


 アマリリアは反論しかけ、止まった。


 確かに気になる。


 用途ではなく受け取り先。


 それでも、文字だけでなく色を使って人が荷を振り分けていることに違いはない。


「ただし、だから倉庫で使えるとは言えません」


「うん」


「色布を誰が決めて、何種類使い、間違いが起きたことがあるのかも分かりませんし、色だけで判断しているのか、文字と一緒に使っているのかも分かりません」


 ディーンが文書を見ながら補足する。


「市場側からは、ベルク運送組の荷車担当者または荷受け責任者へ話を聞くことは可能だろうとのことです」


 アマリリアは少し考えた。


 ここで止めてもよい。


 最初の目的は、「あの色布が何のためか」を知ることだった。


 その答えは出た。


 用途区分ではなく、受け取り先区分。


 なら、調査終了でも筋は通る。


 けれど。


「殿下はどう思います?」


 自分だけで決める前に、隣へ尋ねる。


 ライルは文書を見ながら少し眉を寄せた。


「俺は、もう少しだけ聞いてみたい」


「なぜです?」


「受け取り先が三つある荷車で、なんでわざわざ色を付けたのか気になる。文字だけじゃ足りなかった理由があるなら、倉庫とは違う問題でも参考にはなるかもしれない」


 アマリリアはゆっくり頷いた。


 それは、自分も気になっていたところだった。


「では、一度だけ聞きましょう」


「一度?」


「まず理由だけです。誰が始めたか、何を困って色布を付けるようになったか。それで倉庫と全く関係がなさそうなら、そのまま終えて構いません」


「効果の数字とかは?」


「最初から求めません。そもそも記録していないかもしれませんし」


「聞き取り相手は?」


 ディーンが尋ねる。


「実際に荷車を扱っている方がよいです。経営者の方ではなく」


「ベルク運送組の荷車担当か、荷受けをまとめる者ですね」


「はい。市場へ呼びつける必要はありません。こちらから話を聞ける機会を作れれば」


 ディーンが少し考えた。


「王宮へ呼ぶと緊張するでしょう。市場管理所の一室を借りるか、ベルク運送組の営業所へ使者が訪ねる方が自然です」


「私たちが行く必要は?」


 ライルが尋ねる。


 アマリリアは一瞬だけ心が動いた。


 行きたい。


 実物も見たい。


 誰がどう使っているのか、その場で見た方が早い。


 けれど、今それをやれば、また市場調査へ戻ってしまう。


「今回は、ディーンか市場管理側の方へお願いしましょう」


「行かないんだ」


「色布一つを見るために、第一王子とその婚約者が運送商会へ突然現れたら、相手が普段通り話せなくなります」


「それもそうか」


「それに」


 アマリリアは少し笑った。


「私は次の市場へ行くなら、またデートの方がいいです」


 言った瞬間、ライルの表情が明るくなった。


「それ、本当に?」


「なぜ驚くのです?」


「いや、嬉しくて」


「調査へ行きたくないという意味ではありません」


「分かってる」


「でも、次に市場へ行く時は、また殿下と歩きたいです」


 ライルは何か言おうとして、少しだけ口元を緩めたまま黙った。


 ディーンは書類へ視線を落とし、ゼインは明らかに聞こえているにもかかわらず何も言わない。


 それがかえって恥ずかしい。


「……今の話は仕事の記録へ入れないでくださいませ」


「色布の聞き取りだけ記録します」


 ディーンが答える。


「それでお願いします」


          ◇◇◇


 午前の後半になって、第二共同倉庫から二勤務日目の短報が届いた。


 昨日、見えにくいと報告された東側奥の吊り木札には、脇通路側から見える補助札を一枚追加したという。追加位置は現場責任者と実際にそこを通る作業員三名で確認し、荷の高さが変わっても文字の上半分だけは見えるよう、少し高めへ吊ったらしい。


「上半分だけ?」


 ライルが不思議そうに尋ねる。


「全部見えなくてもよいということでは?」


 アマリリアは簡易図を見る。


 補助札には長い文章は書かれていない。


 区画名と、大きな記号だけ。


「遠くから『あちらが目的区画だ』と分かれば、近づいてから詳しい札を読めるのかもしれません」


 ディーンが報告を続けた。


「作業員からも、『遠目では全文を読むつもりはない』という意見が出ています」


 アマリリアは少し目を細めた。


「それも、こちらが考えていませんでしたね」


「王宮では『表示は読めること』を考えがちだった」


 ライルが言う。


「はい。でも、場所を探す時は読めることより、まず見つけられることの方が大切な場合がある」


「用途欄追加型は読む札。置き場表示は探す目印?」


「そう分けられるかもしれません。ただ、まだ二日目です」


 すぐに言い添えると、ライルが笑った。


「自分で止めた」


「当然です」


「慣れたな」


「だから、いちいち褒めないでくださいませ」


 報告には西側区画板の件もあった。


 空箱の一時置き場所を午前中だけ半区画ずらしてみたところ、表示板は隠れなくなった。しかし、今度は空箱を次に使う作業員が余計に数歩歩く必要があり、二名から「以前の場所の方が使いやすい」と意見が出たという。


「やはり理由があったのですね」


 アマリリアは小さく息を吐いた。


「邪魔だから置いていたわけではなかった」


「次の荷をまとめる人が取りやすかったそうです」


「では、箱の位置を変えるだけでは駄目ですね」


「現場からは、区画板の方を少し上へ移す案が出ています。ただし、上げすぎると近くから見づらくなるので、明日試すとのことです」


 ライルが苦笑する。


「一個動かしたら別の誰かが困る」


「それが現場なのでしょうね」


 アマリリアは報告へ目を落とした。


 綺麗な答えではない。


 それでも、こういう報告の方が信頼できる気がする。


「ニアミスや時間は?」


「数日分をまとめる方針なので、まだです」


「では、今日はこれで終わりですね」


 アマリリアは紙を閉じた。


 ディーンが少しだけ視線を上げる。


「追加質問は?」


「ございません」


「本当に?」


「ディーンまで!」


 ライルが声を上げて笑った。


          ◇◇◇


 昼食後、アマリリアはセレーネのところへ寄った。


 制度通知の面談日程を正式に決めるためだったが、その話は思ったより短く終わった。


「来週、水曜の午後でどう?」


「問題ございません」


「質問はまだ作らなくていいわよ」


「分かっております」


「本当に?」


「王妃様」


「冗談よ」


 セレーネは楽しそうに笑った。


 そこでアマリリアは、市場の色布について軽く報告した。


「受け取り先の区分だった?」


「はい。用途区分ではございませんでした」


「残念だった?」


 同じことをライルにも聞かれた。


「少しだけ。でも、見ただけで勝手に意味を決めなくてよかったです」


「それは大事ね」


「もう一度だけ、実際の担当者へ始めた理由を聞く予定です」


「倉庫へ入れるため?」


「いいえ」


 アマリリアは首を横へ振った。


「そこは分けます。理由を聞いて、もし『文字だけでは荷受け先の振り分けを間違えたから』という話なら、視覚目印として参考になるかもしれません。でも、例えば商会内の担当者同士だけの慣習なら、第二共同倉庫へ持ち込む意味は薄いと思います」


「色には別の問題もあるわね」


 セレーネが言う。


「何でしょう?」


「色が見分けにくい人もいるでしょうし、色だけで意味を持たせると、染料や布の状態で判別しづらくなることもある」


 アマリリアは少し目を見開いた。


「……考えておりませんでした」


「私も専門家ではないわ。ただ、見えるから分かるとは限らないという話よ」


「はい」


 すぐに手帳へ書きたくなりかけ、今日は持ってきていないことを思い出す。


 それでよい。


 忘れたら困るほど重要なら、あとで思い出すだろう。


「色を使うなら、色だけに頼らない方がよいかもしれませんね」


「まだ使う話ではないのでしょう?」


「その通りです」


 アマリリアは笑った。


「危うく一歩先へ行きました」


「自分で戻れるなら大丈夫よ」


 セレーネは茶を飲みながら、少しだけ目を細めた。


「ところで、ライルから古い街道記録を見せてもらったそうね」


 アマリリアの動きが止まる。


「なぜそれまでご存じなのです?」


「本人が朝話していたから」


「殿下は王妃様へ何でもお話しになるのです?」


「あなたのことはよく話すわね」


「……」


 頬が熱くなる。


 セレーネはそれを見て、さらに楽しそうになる。


「どんな顔をしていた?」


「誰がです?」


「街道の話をしているライル」


 アマリリアは少し考えた。


 古い本を開いた時の表情。


 自分の好きな場所を見せる子供のような、少し無防備な笑顔。


「楽しそうでした」


「そうでしょうね」


「王妃様もご存じだったのです?」


「昔から地図は好きだったわ。宮廷教師には、歴史の勉強だと言って古地図ばかり眺めていたこともある」


 初耳だった。


「殿下にも、そういう時期が」


「あるわよ。第一王子でも子供だったもの」


 セレーネの声が少し柔らかくなる。


「あなたに見せたのなら、きっと嬉しかったでしょうね」


「私も嬉しかったです」


 アマリリアは自然にそう答えた。


「仕事の資料ではなく、殿下が好きだから見ているものを一緒に見られたことが」


「そういうものを増やしなさい」


「はい」


 今度はすぐに頷いた。


          ◇◇◇


 午後の仕事が終わる少し前、ディーンから色布についてもう一つ連絡が入った。


「ベルク運送組の荷受け担当者が、明日の午前なら市場管理所で話せるそうです」


「早いですね」


「市場側が事情を説明したところ、『王宮へ呼ばれるのでなければ構わない』とのことでした」


 アマリリアは少し苦笑した。


「やはり王宮は緊張しますよね」


「第一王子殿下とその婚約者が運送の色布について聞きたい、とだけ伝われば十分緊張すると思いますが」


 ゼインが淡々と言う。


「だから私たちは行きません!」


「それが賢明かと」


 ディーンが続ける。


「市場管理側の担当者が聞き取りを行い、こちらから質問を三つまで預かるとのことです」


「三つ?」


 ライルがこちらを見る。


「またちょうどいい数だな」


「数に意味を持たせないでくださいませ」


 アマリリアは少し考えた。


 何を聞くか。


 増やそうと思えば、いくらでも増やせる。


 色布を始めた時期。


 考案者。


 色数。


 色の意味。


 見分け間違い。


 布の交換頻度。


 雨の日。


 暗い時間帯。


 新人への説明。


 文字との併用。


 聞きたいことが頭の中へ次々浮かぶ。


「顔が増えてる」


 ライルが言った。


「顔で質問数を数えないでください!」


「今、八個くらい?」


「……近いです」


「やっぱり」


 アマリリアは少し悔しそうに紙へ目を落とした。


「三つへ絞ります」


「何にする?」


 しばらく考えたあと、アマリリアは最初の一つを決めた。


「一つ目。色布を使い始める前に、どんな困りごとがあったのか」


 ディーンが書き留める。


「二つ目は?」


「色布を見た人は、何を判断するために使っているのか。荷受け先を知るためだけなのか、それとも積み下ろし順などにも使っているのか」


「三つ目」


 ここで少し迷った。


 効果を聞きたい。


 間違いが減ったか。


 でも、それでは「良かったですか」と答えを誘導するかもしれない。


 アマリリアは第65話の倉庫責任者の聞き方を思い出した。


「……使っていて困ることは何か」


 ライルが先に笑った。


「倉庫と同じ」


「はい」


「間違いが減ったか、じゃなくて?」


「効果があれば、話の中で出るかもしれません。最初から良い点を聞くより、困りごとの方が色布の限界も見えると思います」


 ディーンが三つを書き終える。


「では、この内容で伝えます」


「お願いします」


「追加なし?」


「ありません」


 アマリリアは言い切った。


 すると、ライルが少しだけ残念そうな顔をする。


「何です?」


「いや、最近本当に慣れたなと思って」


「残念そうに言わないでくださいませ!」


「前はからかいやすかったから」


「殿下!」


 笑い声が執務室へ広がった。


          ◇◇◇


 翌朝。


 ベルク運送組への聞き取りは、アマリリアたちが王宮で通常業務をしている間に市場管理所で行われた。


 返答が届いたのは昼を少し過ぎた頃だった。


 昼食から戻ったアマリリアとライルの前へ、ディーンが二枚の記録を置く。


「色布についてです」


「お願いします」


 アマリリアは今度はすぐに受け取った。


 聞き取り相手はベルク運送組で十五年以上荷受けを担当している男性。現在は二台の荷車の積み下ろしと、市場内の受け取り先振り分けをまとめているという。


 一つ目。


 色布を使い始める前に、どんな困りごとがあったか。


「……積み下ろし順の間違い?」


 アマリリアが読み上げる。


 ベルク運送組では、一台の荷車で複数の荷受け先を回ることが多い。


 以前は札へ受け取り先を書き、積み込み時に荷台の位置も分けていた。しかし、荷が増えると途中で積み直すことがあり、文字札を一枚ずつ読まないと、次に下ろす荷のまとまりが分かりにくくなった。


 その結果、別の受け取り先の荷を先に下ろしかけることや、奥に必要な荷を積んでしまって荷台の中で入れ替えることがあった。


「だから色?」


 ライルが聞く。


 アマリリアは次の行へ目を移した。


 始まりは、荷受け担当者の一人が古布を結び、「次に下ろすものだけ赤」としたことだったらしい。


 便利だったため、次第に受け取り先ごとに色を固定するようになった。


「最初から三色制度を作ったわけではないのですね」


「現場で勝手に始まった?」


「最初はそうみたいです」


 ライルが少し笑う。


「また現場からだ」


「ええ」


 アマリリアも少し面白く感じた。


 二つ目。


 色布を何の判断に使うのか。


 答えは単純な受け取り先区分だけではなかった。


 荷車の上では、遠くから色を見て「次にどのまとまりを下ろすか」を判断する。


 市場へ入った後は、荷受け担当が同じ色のまとまりを一度に確認する。


 ただし、最終的な受け取り先確認は必ず文字札で行う。


「色だけでは渡さない」


 ライルが言った。


「そこは大切ですね」


 アマリリアは少し身を乗り出す。


 色は、最終確認ではない。


 探す。


 まとめる。


 順番をつける。


 そのための目印。


 最後に文字を見る。


「置き場表示に少し似ておりますね」


「遠くから方向を見つける役目?」


「はい。全部を読ませるのではなく、その前段階で使う」


 昨日、吊り木札について「遠くから全文を読むつもりはない」という作業員の意見が出たばかりだった。


 不思議なくらい重なる部分がある。


 けれど、同じものではない。


 倉庫は荷の用途区分。


 ベルク運送組は受け取り先と積み下ろし順。


 三つ目。


 使っていて困ること。


 ここが、最も長かった。


「色布が汚れる」


 ライルが読む。


「雨で濡れると暗く見える。古くなると赤と茶色が分かりにくいことがある……」


「夜間は?」


「ランプの色だと黄色と薄い布が見分けにくい時がある」


 さらに。


 新人が色だけ覚えて、文字札を見ずに荷を動かそうとすることがある。


 商会内部では「色は探すため、最後は文字」と繰り返し教えている。


「これ、かなり重要では?」


 ライルの表情が真面目になる。


「はい」


 アマリリアも同じところを見ていた。


 分かりやすい目印は便利だ。


 便利だからこそ、それだけで判断してしまう危険もある。


「色を追加すれば分かりやすくなる、だけではないのですね」


「色が強すぎると、逆に文字を見なくなる」


「可能性があります」


 ベルク運送組では、過去に一度、色布だけを見て別の荷受け先へ荷を下ろしかけたことがあり、それ以降「色だけで受け渡しを完了しない」という内規を決めたという。


 正式な誤配送にはならなかった。


 途中で担当者が札を見て止めた。


「ニアミスですね」


 アマリリアが言う。


「向こうはそう呼んでないけど」


「考え方は同じです」


 さらに興味深い話が続く。


 色は現在三色だけ。


 以前、四つ目の受け取り先を緑布で追加したことがあったが、臨時担当者が混乱しやすくなり、三色を超える日は色布を増やさず、三か所目以降は文字札と荷台位置だけで管理する方式へ戻した。


「増やしすぎても駄目」


 ライルが呟く。


「分かりやすくするために目印を増やしたのに、目印が増えすぎて覚える負担になった」


 アマリリアはオルグとの会話を思い出した。


 確認項目を増やしすぎれば、重要なものと形式的なものが同じ重さになる。


 ここでは色が増えすぎれば、分かりやすさそのものが落ちる。


「便利なものにも、適量があるのですね」


「質問も?」


 ライルがすぐに言う。


「殿下」


「同じじゃない?」


「……少し似ております」


 認めると、ライルが満足そうに笑った。


          ◇◇◇


「第二共同倉庫へ色を入れます?」


 ディーンが確認した。


 アマリリアはすぐに首を横へ振った。


「まだ入れません」


「理由は?」


「今の本試験では、用途欄追加型と片側斜め型、それから置き場表示を見ている途中です。そこへ色を加えたら、また条件が増えます」


「でも参考にはする?」


「はい」


 アマリリアは聞き取り記録の一部へ指を置いた。


「特に、『遠くから探すための目印』と『最後の確認』を分けているところは、倉庫の置き場表示を考える時に参考になります」


 ライルも頷いた。


「吊り札は探すため。荷札は最後の確認?」


「そう単純に役割を固定するかはまだ分かりません。でも、すべての表示へ同じ仕事をさせなくてもよい、という考え方は使えそうです」


「色は?」


「将来、現場から必要だと言われたら候補にできます。ただし、色だけへ意味を持たせないこと、色数を増やしすぎないこと、汚れや光で見え方が変わることは忘れないようにします」


 ゼインが聞き取り記録へ目を落とした。


「色布を使っている側も、最終的には文字札へ戻るのですね」


「はい」


「では、形や文字と対立させるものではないと」


「そうですね」


 アマリリアは少し考えた。


 予備試験では、用途欄追加型と形状変更型を比べた。


 どちらが一番かを決めようとした。


 今は、その発想自体が少し狭かったのかもしれない。


 文字には文字の役割。


 形には形の役割。


 置き場表示には置き場表示の役割。


 色にも、もし使うなら色の役割。


「全部を一つの札に背負わせなくてもよいのかもしれません」


 アマリリアが言う。


 ライルがこちらを見る。


「どういうこと?」


「一枚の荷札だけで、用途も、行き先も、遠くからの見つけやすさも、最後の確認も、全部解決しようとすると無理が出る気がします」


「役割を分ける?」


「はい。ただ、それも今は仮です」


 すぐに言葉を足す。


「第二共同倉庫の置き場表示が数日動いたら、現場が実際にどう使い分けているかを聞いてみたいです」


「すぐ聞く?」


 ライルが笑う。


「定時報告まで待ちます」


「完璧」


「その言い方、腹立ちますわね」


 アマリリアは笑いながら資料を閉じた。


          ◇◇◇


 その日の夕方、第二共同倉庫から三勤務日目の簡易報告が届いた。


 東側奥の補助吊り札は、脇通路からの視認性が改善したらしい。ただし、風の入る時間帯に札が少し回転し、正面を向かないことがあるという。


 西側の区画板は、空箱の置き場所を元へ戻し、板を少し高い位置へ移した。作業員からは「箱を取りに行く距離が戻って助かる」という声が出た一方、背の低い臨時作業員一名から「近くでは少し見上げる」と意見があった。


「今度は高さですか」


 アマリリアは苦笑した。


「全員へ同じ高さが見やすいわけではないな」


 ライルが言う。


「はい」


 現場責任者は、その一名のためだけにすぐ位置を変えるのではなく、もう数日聞き取りを続けるとしている。本人も「見えないわけではない」と答えており、現段階では問題として記録するだけ。


「良いと思います」


 アマリリアは自然に答えた。


「一人だから無視するのでもなく、一人言ったからすぐ全部変えるのでもない」


「残す」


「はい。そして、同じ声が増えるかを見る」


 市場で学んできたことが、そのまま戻ってくる。


 一件でも実際の人はいる。


 だから消してはいけない。


 けれど、一件だけで全体を決めてもいけない。


「ニアミス集計は?」


「明日、置き場表示追加後の最初の三勤務日分をまとめる予定です」


「なら、明日見ましょう」


「問い合わせなし?」


 ディーンが尋ねる。


「ありません」


 アマリリアは笑って答えた。


「今日は、色布の方だけでも十分考えることが増えましたもの」


          ◇◇◇


 仕事が終わる頃、ライルが自分の机から何かを取り出した。


「アマリリア」


「何です?」


「昨日の続き、見る?」


 手にしているのは、例の古い街道記録本だった。


 青い紐の栞が挟まれている。


「持ってきたのです?」


「昼休みに少し読もうと思って」


「本当にお好きなのですね」


「うん」


 ライルは少しだけ照れながら笑った。


「今日はもう仕事終わりだし、一頁だけ」


「一頁で終わります?」


「たぶん」


「信用できません」


「君に言われたくない」


「何ですって?」


 二人で笑いながら、窓辺の小さな卓へ移る。


 昨日見た宿場の続きには、新しい街道ができたあとも旧道沿いに残った住民たちが、小さな市を月に二度だけ開いていたという記録があった。


「町が消えたわけではないのですね」


 アマリリアが言う。


「道が変わって人が減っても、残った人は残った」


「市場町へ移った方もいる?」


「いるみたい。でも全員じゃない」


 ライルは楽しそうに文章を指で追う。


「俺、こういうのが好きなんだ。地図だと一本の線が消えて新しい線ができるだけに見えるけど、人は線みたいに全部一緒に移動しないから」


 アマリリアはその言葉に少しだけ黙った。


 市場でも同じだった。


 制度を変えれば、全員が同じように動くわけではない。


 道が変わっても、全員が新しい町へ移るわけではない。


 けれど。


 今はそれを制度の教訓として整理するより、ライルがなぜこの本を好きなのか、その方が気になった。


「殿下は、人が残るところがお好きなのです?」


「え?」


「新しい街道ができたことより、その後も旧道に残った人の記録を嬉しそうに読んでおります」


 ライルは少し考えた。


「そうかも」


「なぜでしょう」


「分からない」


 即答だった。


 アマリリアは少し目を丸くする。


「分からないのです?」


「好きな理由まで全部説明できないよ」


「……そういうものですか」


「君は?」


 今度は問い返される。


「何が好きか、全部理由言える?」


 アマリリアは考えた。


 甘い菓子。


 静かな朝。


 綺麗に整理された数字。


 新しいことを知る瞬間。


 そして。


 ライル。


 そこまで考え、急に頬が熱くなる。


「何考えた?」


「何でもございません!」


「絶対何かある」


「ありません!」


 ライルが笑う。


 アマリリアは本へ視線を戻したが、耳まで熱くなっているのが自分でも分かった。


「でも」


 少し経ってから、アマリリアは小さな声で言った。


「全部、理由を説明できなくてもよいのかもしれませんね」


「うん」


「好きだから好き、でも?」


「俺はいいと思う」


 ライルの声は穏やかだった。


 アマリリアは青い紐の栞へ指先を触れた。


「では、私は殿下がこの本を好きな理由を無理に調べません」


「そこは調査扱いなんだ」


「冗談です」


「珍しい」


「殿下の真似です」


 二人の肩が触れる。


 すぐには離れなかった。


          ◇◇◇


 その夜、自室へ戻ったアマリリアは、押し花の様子を確認してから手帳を開いた。


 まず市場の色布について書く。


『色布は用途区分ではなく、主に荷受け先と積み下ろし順を見つけるための目印』


『最終受け渡しは必ず文字札で確認。色だけでは完了しない』


『汚れ、雨、照明で見え方が変わる。色数を増やしすぎると覚えにくくなる。三色までで運用』


『新人が色だけで判断しようとしたニアミスあり』


 少し考え、次に一行加える。


『分かりやすい目印ほど、それだけで判断したくなる危険もある』


 これは忘れたくなかった。


 便利なものは、便利だからこそ頼りすぎる。


 優秀な一人に頼りすぎる話とも、少し似ている気がした。


 次に第二共同倉庫。


『吊り札補助追加。脇通路から見やすくなったが、風で回る場合あり』


『区画板を高くしたことで空箱問題は改善。ただし背の低い作業員一名から見上げるとの声。記録して継続観察』


 そして最後に、仕事ではないことを書く。


『ライル様と古い街道記録の続きを読む』


『殿下は、道が変わった後にも残った人の記録が好きらしい。理由は本人にも分からないとのこと』


 そこで少し笑った。


 何でも理由を知りたがる自分にとって、「分からないけれど好き」は妙に新鮮だった。


 手帳の下へ、もう一行だけ書く。


『好きな理由を、全部説明できなくてもいい』


 書き終えた途端、昼間に何を思い浮かべたかまで思い出してしまい、アマリリアは慌てて手帳を閉じた。


「……これは危険ですわね」


 誰にも聞かれていないのに、小さく呟く。


 ライルを好きな理由なら、いくらでも挙げられる。


 最初は脅して婚約者にした相手だった。


 困らせて、振り回して、それでも離れずにいてくれた。


 自分が結論を急ぐ時には待ってくれた。


 分からない時には一緒に考えた。


 調査を我慢する日に手を握ってくれた。


 何も解決しない時間まで、一緒に楽しいものへ変えてくれた。


 でも、それら全部を並べたから好きになったわけではない。


 どこかの時点で。


 理由を数えるより先に、彼と一緒にいたいと思うようになっていた。


 アマリリアは閉じた手帳へ手のひらを置き、少しだけ目を伏せた。


 倉庫の本試験はまだ続く。


 色布は思っていた用途ではなかったが、別の形で参考になることがあった。


 明日は置き場表示追加後の三勤務日分の集計が届く予定で、来週には制度通知を作る実務担当者との面談もある。


 それらは明日からまた考えればよい。


 今夜くらいは、理由を整理しなくてもよい気持ちを、そのまま持って眠ってみよう。


 ライルが好きだということだけは、もう何の調査も必要なかった。

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