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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第66話 置き場の札を増やしたら、見やすくなった場所より見えなくなった場所の方が先に報告されました



 第二共同倉庫で置き場表示を加えた運用が始まる朝、アマリリアはいつもより少し早く目を覚ました。


 窓の外はまだ白み始めたばかりで、夜の名残を残した王宮の庭には薄い霧がかかっている。季節が進んだせいか、開けていない窓越しでも朝の冷たさが分かるようになっており、寝台から出たアマリリアは肩へ羽織りを掛けながら、机の上へ視線を向けた。


 そこには昨夜閉じた手帳と、薄紙の間で乾かしている一輪の花がある。


 花を見たあと、今度は手帳を見る。


 第二共同倉庫では今日から、用途欄追加型と片側斜め型の荷札に加えて、置き場そのものを見分けやすくする表示が追加される予定だった。予備試験でも初期確認でも、「札より先に置き場の境目が分かりにくい」という声が繰り返し出ており、それを受けて現場責任者が吊り木札と区画板を場所ごとに使い分けることになっている。


 気になる。


 実際にどこへ置いたのか。


 何枚使ったのか。


 誰が見て決めたのか。


 朝一番で報告が届いているかもしれない。


 そう思ったところで、アマリリアは小さく息を吐いた。


「まだ、始まってもおりませんわね」


 誰に聞かせるでもなく呟き、自分で少し笑った。


 倉庫は王宮の机の上で動いているわけではない。作業員たちが出勤し、荷が入り、表示を見ながら実際に荷を運んで、初めて今日の結果が生まれる。


 今ここで考えても、まだ答えはない。


 アマリリアは手帳へ触れず、朝の支度へ向かった。


          ◇◇◇


 執務室へ入る頃には、霧はかなり薄くなっていた。


 中庭の石畳には朝露が残り、窓際から差し込む光が床へ細長く伸びている。室内ではすでにゼインが書類箱を整理しており、少し遅れてディーンも別の扉から入ってきた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 アマリリアは挨拶を返し、机の上を見た。


 第二共同倉庫の報告書はない。


 分かっていたはずなのに、ほんの少しだけ肩から力が抜ける。


 ゼインがそれに気づいたらしい。


「ございませんよ」


「何がです?」


「倉庫からの報告です」


「探しておりません」


「では、なぜ机の右端までご覧になったのでしょう」


「今日の書類を確認しただけです」


「通常、倉庫報告は右端に置かれます」


 アマリリアは黙った。


 ディーンが視線を逸らしている。


「ディーン」


「はい」


「今、笑いました?」


「いいえ」


「少し口元が動きました」


「朝ですので」


「朝だから何ですの?」


 答えになっていない。


 そこへライルが入ってきたため、アマリリアは少し助けを求めるように彼を見た。


「おはよう」


「殿下、ゼインとディーンが朝から私をからかいます」


「倉庫の報告、探した?」


「殿下まで!」


 ライルはすぐに笑った。


「まだ始まったばかりだろ」


「分かっております!」


「じゃあ、今日届かなくても平気?」


「平気です」


「夕方まで?」


「平気です」


「明日でも?」


 アマリリアは少しだけ間を置いた。


「……明日なら、少し気になります」


「正直だ」


「そこまで悟ったような顔をしないでくださいませ」


 室内に笑いが広がる。


 こうして軽くからかわれることにも、以前より慣れてきた。


 それが嫌ではないことにも。


「今日は倉庫以外に何がございます?」


 ライルが椅子へ腰を下ろしながら尋ねた。


 ディーンが予定表を開く。


「午前中は、昨日の公的井戸修繕案の確認。昼前に王妃殿下から、制度通知を作成する部署の担当者と話す日程について相談があります。午後は第一王子殿下の通常公務が一件、その後こちらへ戻られる予定です」


「通知担当部署との話、今日やるんじゃない?」


「日程だけです」


 アマリリアが答える。


「オルグ様から聞いたことだけで、すぐ次の制度案を決めるつもりはございません」


 ライルが小さく頷く。


「じゃあ、また待つ?」


「待つというより、順番を決めるのです」


「その言い方、いいな」


「何です?」


「前よりずっと余裕がある」


 アマリリアは少しだけ目を細めた。


「まだ朝ですから、褒めるのは早いです」


「夕方に倉庫報告が来たら崩れる?」


「崩れません!」


「なら安心」


 ゼインが書類を差し出してきた。


「では、まず井戸の件から崩れずにお願いいたします」


「ゼインまで!」


          ◇◇◇


 公的井戸の修繕については、前日に出した「臨時水樽を一つ置き、利用状況を見て増減する」という案に対して、現地管理側から簡潔な返答が届いていた。


 坂下側の共同住宅前に置くなら、通行を妨げず、朝夕の利用者にも近い。補給についても、近くの水運び業者と六日間だけ契約できる見込みがあるという。


「一つで足りると思う?」


 ライルが地図を覗き込む。


「分かりません」


 アマリリアは即答した。


「ただ、初日から二つ置いて誰も使わないより、一つ置いて足りなければ増やす方がよいと思います」


「昨日と同じだね」


「はい。ただし、水ですから増やす判断は早くします」


 ディーンが補足する。


「現地管理側は、朝の利用が想定より多ければその日の昼便で増設要請を出せるとのことです」


「それなら十分です」


 アマリリアは頷いた。


「夜まで待たずに対応できますもの」


 ライルが資料を見ながら尋ねる。


「利用者の人数は数える?」


「大まかには見ていただいてよいと思います。ただ、一人何回利用したかまで細かく記録する必要はございません」


「なんで?」


「目的は、樽を何個置けば困らないかを見ることです。利用者の行動を詳細に分析することではありません」


 少し前なら、人数、時間帯、世帯構成、持っている桶の数まで気になったかもしれない。


 今も興味を持とうと思えば持てる。


 けれど、この問題で必要なところはそこではない。


「必要な数字だけ?」


「そうです」


 アマリリアは書類を閉じた。


「何でも取ればよいわけではございません」


 その言葉を口にした瞬間、第二共同倉庫で確認回数の全件記録をやめたことが頭をよぎった。


 似た考え方が別の仕事でも自然に出てくる。


 以前なら、学んだことを覚えておこうとしていた。


 今は、覚えようとしなくても少しずつ行動へ混じるようになってきている。


          ◇◇◇


 昼前、セレーネの執務室へ向かうと、王妃はすでに二通の文書へ目を通していた。


 窓辺には秋色の小さな花が飾られ、室内には温かな茶の香りが漂っている。アマリリアとライルが入ると、セレーネは手元の紙を閉じて二人を見た。


「今日は倉庫の報告はまだ?」


「まだです」


 アマリリアは少し胸を張って答えた。


「聞かなくてもよかったのに」


「では、なぜお聞きになったのです?」


「あなたがどう答えるか見たかったから」


「王妃様まで私で遊んでおりますね?」


「少しだけよ」


 ライルが笑う。


 アマリリアはため息をつきながら椅子へ腰を下ろした。


「今日は制度文書の担当部署についてでしたね」


「ええ」


 セレーネは一枚の紙を取り出した。


「オルグから聞いた話を受けて、実際に制度変更の文書を作成する側にも話を聞く。その方針は変わっていない?」


「変わっておりません」


「では、来週の半ばに一人時間を取れそうよ」


「誰です?」


「内政文書局の実務担当者。今回の様式変更そのものを最初から作った人物ではないけれど、各部署から上がる変更案を実際の通知文へ落とし込む仕事をしているわ」


 アマリリアは少し考えた。


「今回の様式変更を直接担当した方ではないのですね」


「その人の方が良かった?」


「いえ」


 首を横へ振る。


「むしろ、普段どう考えているかを聞くなら、今回だけの事情に引っ張られない方がよいかもしれません」


 セレーネが満足そうに頷く。


「そう思って、この人にしたの」


「何を聞くつもり?」


 ライルが尋ねる。


 アマリリアは少しだけ視線を落とした。


「まず、制度変更文書を作る時、誰が実際に行動を変えるかをどの程度考えているのか。それを考える工程を増やすとしたら、何が負担になるのか」


「それから?」


「確認欄を一つ増やすような単純な方法が、本当に役立つと思うか」


「オルグは形式化するって言ってたね」


「はい」


 アマリリアはそこで言葉を切った。


「ただ、質問を増やしすぎないようにしたいです」


 セレーネの口元が少し上がる。


「成長したわね」


「今日は素直に受け取っておきます」


「珍しい」


「からかいましたね?」


「少し」


 結局同じだった。


 ライルも笑っている。


「倉庫みたいに三つだけにする?」


「同じ数へ揃える必要はありません」


「でも、五つくらい?」


「……その辺りでしょうか」


「昔なら十五?」


「殿下」


「冗談」


 アマリリアは少しだけ睨んだが、すぐに真面目な表情へ戻った。


「あと、一つだけ新しい聞き方を試してみたいです」


「何?」


 セレーネが尋ねる。


「『通知は伝わると思いますか』ではなく、『この通知を受け取った人は、何を変えると理解すると思いますか』と聞いてみたいのです」


 セレーネはすぐには答えなかった。


 茶器へ手を伸ばし、一口飲んでから言葉を選ぶ。


「面白いわね」


「ただし、これも正解とは思っておりません」


「ええ」


「聞かれた側が、理想的な受け取り方を答えるだけかもしれません」


「実際の村や倉庫でどう受け取られたかとは違う」


「はい」


 ライルも頷いた。


「でも、作る側が何を想定してるかは分かるかも」


「そうですね」


 アマリリアは少し笑った。


「今回は、それだけ分かれば十分かもしれません」


「では、来週の面談までに質問を絞っておきなさい」


 セレーネが言う。


「今日中に作る必要はないわよ」


「分かっております」


「本当に?」


「王妃様まで確認しないでくださいませ!」


 セレーネが声を立てて笑った。


          ◇◇◇


 昼食を終えたあと、ライルは予定通り別の公務へ向かった。


 アマリリアはディーンとゼインと共に小会議室へ戻り、劇場デートの日程表を一度だけ確認することになった。予約した個室席と護衛配置、終演後に立ち寄る予定の菓子店までの移動時間を確認するだけで、内容はほぼ固まっている。


「お父様の条件書は、もう見なくてもよろしいのでは?」


 アマリリアが言うと、ディーンは淡々と答えた。


「護衛側から、当日の禁止事項を再確認したいと」


「禁止事項ではありません!」


「『劇場支配人を呼び出さないこと』は?」


「私への嫌味です!」


 ゼインが資料を見ながら静かに言う。


「護衛側としては、突然お嬢様が支配人を呼び出そうとされた場合、止める権限があるか確認しておきたいのでしょう」


 アマリリアは信じられないものを見るように彼を見た。


「本気ですの?」


「半分ほど」


「半分も本気なのです?」


「市場で気になる荷札を見て、その場で調べなかった実績はございます」


「では、信用してくださいませ!」


「一回です」


「一回でも十分でしょう!」


 ディーンが紙へ視線を落としたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「では、護衛へは『婚約者殿下が制止可能』としておきます」


「なぜ殿下が私を止める前提なのです!」


「市場では実績がありますので」


「皆様、あの日の手を握った話を仕事へ使いすぎです!」


 少し声が大きくなり、廊下を通っていた侍女が一瞬足を緩めた。


 視線が合う。


 侍女は慌てて頭を下げ、そのまま去っていった。


 アマリリアは机へ額をつけたくなった。


「今、聞かれましたわよね」


「おそらく」


「最悪です」


「殿下は喜ばれるのでは」


「ゼイン!」


 しばらく笑いが続いたあと、アマリリアは気を取り直して日程表を閉じた。


 劇場まではまだ日がある。


 この話だけでも、十分に楽しみだった。


          ◇◇◇


 第二共同倉庫から最初の報告が届いたのは、ライルが戻ってきて間もない午後遅くだった。


 扉を開けたディーンが持っていたのは、予想していたより薄い紙束だった。


「置き場表示追加、一勤務日目の簡易報告です」


 アマリリアは手元の書類を閉じる。


「停止要因は?」


「ありません」


 まずそこを確認する。


「新しい表示自体が作業を妨げた事例も、現時点では重大なものなし。ただし、現場責任者から『見やすくなったことより、見えなくなった場所を先に報告する』とのことです」


 アマリリアの眉が少し上がる。


「見えなくなった?」


「正確には、追加した表示が期待したほど見えない場所があった、です」


 ライルが椅子を寄せた。


「どこ?」


 ディーンが簡易図を机へ広げる。


 第二共同倉庫の内部は、柱と荷区画が規則的に並んでいるように見えるが、実際には荷の高さや一時置きの位置で視界が変わる。今回、遠くから目印にする場所には吊り木札、棚や区画の直近では区画板を使う方針だった。


「まず、東側奥の一列です」


 ディーンが図の一角を指した。


「吊り木札を通路中央から見える高さへ設置したところ、荷の少ない時間は問題なかった。しかし午後に背の高い鉄材束が増えた際、斜め方向から入る臨時作業員の視線では木札の下半分が隠れました」


「札そのものが低かった?」


「高さだけではなく、見る方向の問題とのことです。通路正面からは見えるが、脇通路から入ると荷に重なる」


 アマリリアは図をじっと見る。


「最初の配置確認では?」


「午前中に実施しています。その時点では高い荷がまだ入っていませんでした」


「なるほど」


 実際に荷が増えなければ見えない問題だった。


「他は?」


「西側の区画板二枚。こちらは近距離では非常に見やすいものの、荷を置く作業員が板の前へ空箱を一時的に置くことがあり、一時的に完全に隠れたとのことです」


「それは表示の問題というより、置き方の問題?」


 ライルが尋ねる。


「現場責任者も判断保留です。板の位置を変えるべきか、空箱の一時置き場所を変えるべきか、明日試す予定だそうです」


 アマリリアは少しだけ笑った。


「良いですね」


「何が?」


「すぐ板の位置を変えると決めなかったことです」


 ライルも納得したように頷く。


「原因が板なのか、箱なのか分からない」


「はい。それに、空箱をそこへ置く理由があるかもしれません」


 作業の邪魔にならない場所だから。


 次に使うから。


 他へ置くと通路を塞ぐから。


 見た目だけで「箱をどかせばよい」と決めると、別の問題が出る可能性がある。


「他に良かったことは?」


 アマリリアが尋ねる。


 ディーンは紙をめくった。


「現場責任者は、まだ一勤務日なので『良かった』とは書きたくないそうです」


 その答えに、アマリリアは少し目を見開き、それから笑った。


「本当に慎重になりましたね」


「お嬢様の影響では?」


 ゼインが言う。


「私です?」


「王宮から一番を決めなくてよい、評価が分かれたら分かれたまま出してよい、と何度も伝えておりますので」


 アマリリアは少しだけ考えた。


 そうかもしれない。


 中央が「結論を持ってこい」と求めれば、現場は結論らしい形を作ろうとする。


 反対に、「分からないなら分からないでよい」と言えば、初日から無理に成果を書かなくてもよくなる。


「では、良かったことは何も書いていない?」


「一つだけ、『迷う前に区画表示を見る動きが増えたように見える』という監督者の所感があります。ただし観察者一名の印象なので、まだ評価扱いしないとのことです」


「それでよいです」


 アマリリアはすぐに答えた。


「印象は印象として残してください」


「数字にしない?」


「今はしません」


 ライルがこちらを見る。


「確認回数の観察は?」


「今日は予定時間帯で実施しています。ただ、集計は数日まとめて出すとのことです」


「じゃあ、今日は見えなかったところだけ?」


「それで十分です」


 アマリリアは図をもう一度見た。


 表示を増やした。


 だから、最初に報告されるのは「分かりやすくなった」という喜ばしい話だと思っていた。


 実際には、見えなくなる場所が出た。


 それが少し面白い。


「改善したら、次の問題が見えるんですね」


 ライルが言う。


「ええ。悪いことではないと思います」


「最初の問題が消えてない可能性もあるけど」


「もちろんです。だから一日で成功とは言いません」


 置き場の境目が分かりにくかった。


 表示を置いた。


 すると今度は、「どの方向から見えるか」「荷が増えた時に隠れないか」「一時置きの物で塞がれないか」が問題になる。


 一つ直せば終わるわけではない。


「現場は、明日どうする予定です?」


「東側奥の吊り木札は位置を変えず、まず補助札を別方向へ一枚追加して見え方を比較。西側区画板は、午前中だけ空箱の一時置き場所を一つずらして、作業負担が増えるか見るとのことです」


「それは責任者判断の範囲ですね」


「はい」


「王宮から追加指示はなしで」


 ディーンが頷き、書き留めた。


 それだけで話を終えられそうだった。


 けれど、アマリリアの視線は図の一角に残っていた。


「……色」


 小さく口にしたため、ライルがすぐに気づく。


「市場の?」


「はい」


 吊り木札や区画板を増やした。


 見る方向や荷の高さで文字や形が隠れることがある。


 なら、もっと遠くから分かる目印として色は使えるのか。


 そう考えたくなる。


 しかし。


「今、倉庫へ入れる?」


 ライルが尋ねた。


「入れません」


 アマリリアははっきり答えた。


「まだ置き場表示だけで何が起こるかを見ている途中です。ここで色まで加えたら、また何が変わったのか分からなくなります」


「じゃあ、調べるだけ?」


「はい」


 今まで一日待つと決めていた。


 その一日が終わった。


 色布付き荷札が何だったのか。


 そろそろ、そこだけなら聞いてもよい。


「ディーン」


「はい」


「市場で見た色布付きの荷車について、持ち主や所属を確認できるかだけ調べていただけます?」


「詳細な聞き取りは?」


「まだ不要です」


 アマリリアは一度言葉を整えた。


「まず、あの色布が誰の荷車で、何のために付いていたのかを尋ねられる相手が特定できるか。そこまでで十分です」


「市場管理側へ照会しますか?」


「いえ、大きく回さない方がよい気がします」


 少し考える。


「あの日、職人街側で見た荷車です。時間帯と通りは覚えておりますから、出入り記録や荷受け記録があるなら、その範囲で確認できません?」


 ディーンが頷く。


「市場の出入口記録と荷受け台帳に商会名または荷主名が残っている可能性があります。照会はできます」


「では、それだけお願いします。急ぎません」


 ゼインがわずかに眉を上げた。


「いつまでに?」


「分かる時で構いません」


「期限なし?」


「はい。倉庫本試験へ今すぐ使うわけではございませんので」


 ライルが笑う。


「本当に我慢できる?」


「我慢ではありません」


「じゃあ?」


「順番です」


 アマリリアは少し得意げに答えた。


「まず目的を知る。それから比較する価値があるか考える。使うかどうかは、その後です」


「色布がただの商会印だったら?」


「それなら、それで終わりです」


「全然倉庫と関係なかったら?」


「面白い見間違いだったと覚えておきます」


 ライルは少し驚いたように彼女を見る。


「前なら残念がった?」


「かなり」


「今は?」


「少しは残念でしょうね」


 アマリリアは笑った。


「でも、それも答えですもの」


          ◇◇◇


 その日の執務を終えたあと、ライルは珍しく「少しだけ寄り道しない?」と提案した。


「どこへです?」


「図書室」


「仕事です?」


「半分違う」


「半分?」


「前に、俺が古い街道図を見るのが好きって話しただろ」


 アマリリアはすぐに思い出した。


 市場デートで自分が贈った青紐の木製栞。


 ライルはそれを古い街道記録本へ挟み、昔の街道図を見るのが好きだと話していた。


「見せてくださるのです?」


「うん。今日は少し時間あるから」


 アマリリアの表情が自然に明るくなる。


「行きたいです」


 返事に迷いはなかった。


 二人は通常の執務棟から王宮図書室へ向かった。夕刻の廊下は昼より人が少なく、窓の外には赤みを帯びた空が広がっている。途中、侍従や文官とすれ違うたびに軽く頭を下げられたが、二人は急がず同じ歩調で進んだ。


 王宮図書室の奥には、現在の行政資料とは別に古い地誌や街道記録を集めた区画がある。


 ライルが棚から取り出したのは、厚い革表紙の古い本だった。


「これ」


 机の上へ置く。


 アマリリアはすぐに気づいた。


 ページの間から、青い紐が少しだけ覗いている。


「本当に使ってくださっておりますのね」


「何度も言っただろ」


「聞くのと見るのは違います」


 ライルが少し照れたように笑った。


「君がくれたから使ってるっていうのもあるけど、普通に使いやすいよ」


「それは良かったです」


 栞をつまんで開くと、古い街道図が現れた。


 今とは違う道。


 すでに使われなくなった渡し場。


 途中で消えた宿場。


 小さな集落を避けるように大回りする旧道。


 アマリリアは思わず身を乗り出した。


「面白いですわね」


「でしょ」


 ライルの声が少し嬉しそうになる。


「ここ、今は直線の街道だけど、昔は川沿いをこんなに曲がってたんだ」


「なぜです?」


「古い橋がなかったかららしい。浅瀬まで回って渡ってた」


「それは……」


 調べたい。


 昔の物流量。


 橋ができた後の集落の変化。


 宿場が消えた理由。


 いくつも疑問が浮かぶ。


 アマリリアは一度口を開きかけ、少しだけ止まった。


 ライルが気づく。


「聞いていいよ」


「仕事になりません?」


「これは俺が好きで見てる本だから」


「でも、物流の話になりそうです」


「なってもいいだろ」


 アマリリアは少し意外に思った。


 市場デートでは、仕事をしないために疑問を追わないことを選んだ。


 それが正しかった。


 でも、ライルと一緒に古い本を見て、彼の好きな話を聞くことまで「仕事になるから禁止」とする必要はない。


「では、一つだけ」


「どうぞ」


「この宿場が消えたのは、橋ができたからです?」


「たぶん一部は。でも、俺が読んだ範囲だと、それだけじゃない」


「他にも?」


「新しい街道沿いに市場町ができたから、人がそっちへ流れたらしい」


 ライルは楽しそうに別のページをめくった。


 そこには古い地図の余白へ、小さな注釈が書かれている。


「ここの記録、面白いんだ。道が変わったら町がそのまま移ったわけじゃなくて、残った人と動いた人がいたみたいで」


「それは……」


 アマリリアは言葉を飲み込み、それから笑った。


「殿下、これ、本当にお好きなのですね」


「うん」


 いつもの公務中とは少し違う。


 説明するためではない。


 答えを求められているからでもない。


 単純に自分が好きなものを、好きな人へ見せている顔だった。


 アマリリアは、その表情を見られたことが嬉しかった。


「もっと見せてくださいませ」


「いいの?」


「はい。今日は倉庫の報告も終わりましたし」


「仕事にしない?」


「……保証はできません」


 ライルが笑う。


「正直だな」


「でも、殿下が好きな本として見ます」


 アマリリアはそっと青い紐の栞へ触れた。


「その方が、今日は大切ですから」


 ライルの表情が少しだけ変わる。


 嬉しそうで、照れくさそうで。


 しばらくして、彼はアマリリアのすぐ隣へ椅子を寄せた。


 二人で同じ本を覗く。


 肩が触れるほど近い距離だった。


 ページをめくるたび、古い紙の匂いが柔らかく立ち上る。外では夕鐘が一度鳴ったが、二人は急いで席を立たなかった。


          ◇◇◇


 自室へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 侍女が灯した明かりの下で、押し花は昨日より少し薄く乾いているように見えた。完成まではまだ数日かかるらしいが、形は崩れず残っている。


 アマリリアは机へ座り、手帳を開いた。


 まず、第二共同倉庫。


『置き場表示追加、一勤務日目。停止要因なし』


『東側奥の吊り札、正面からは見えるが、背の高い荷が増えると脇通路側から一部隠れる』


『西側区画板、空箱の一時置きで隠れることあり。表示位置か箱の置き方か、原因はまだ決めない』


『現場は補助札追加・空箱位置変更を小さく試す。王宮から指示なし』


 そこで一度ペンを止める。


 表示を増やしたら、最初に分かったのは成功ではなく、見えない場所だった。


 それが妙に印象へ残っている。


『改善すると、今まで見えなかった次の問題が見えることがある』


 次に、色布付き荷札について書く。


『市場で見た色布付き荷札、持ち主・目的だけ確認開始。倉庫試験への導入はしない』


『違う用途なら、それも答え』


 以前なら、色布が倉庫改善へ繋がってほしいと少し期待したかもしれない。


 今も全く期待がないわけではない。


 でも、違ったとしてもいい。


 知りたかったことが一つ分かるだけだ。


 最後に、仕事とは別のことを書く。


『ライル様の古い街道記録本を見せていただいた』


『青い紐の栞、本当に使ってくださっていた』


 そこまで書いてから、少し迷い、さらに一行足した。


『好きなものを話している時のライル様は、少し楽しそうで、私はそれを見るのが好き』


 書いた瞬間、頬が熱くなった。


 誰かに見せる手帳ではない。


 それでも少し恥ずかしい。


 アマリリアは閉じようとしたが、ほんの少しだけ考え直した。


 今日は、古い街道図を見ながら物流や町の変化について疑問も浮かんだ。


 それを追えば、仕事にも学びにもなる。


 でも、今日一番残したいのはそこではない。


 ライルが好きな本を見せてくれた。


 その本に、自分が贈った栞が挟まっていた。


 隣同士で同じページを覗いた。


 それで十分だった。


 仕事から得るものと、暮らしの中で得るものを、無理に同じ形へしなくてもよい。


 アマリリアは手帳を閉じた。


 第二共同倉庫では、明日また置き場表示を試す。


 市場の色布については、いつ返事が来るか分からない。


 制度通知の担当者との面談は来週。


 劇場デートまでは、まだ少しある。


 答えを待つものも、楽しみに待つものも増えていた。


 以前なら、それだけ未完了のことが並べば落ち着かなかっただろう。


 今は違う。


 明日になれば続きを見られるものもあれば、数日後まで待つものもある。中には、思っていた答えと全く違うものが返ってくるかもしれない。


 それでも構わないと思える。


 今日のアマリリアにとって一番嬉しかったのは、倉庫で新しい表示が始まったことでも、色布の確認を頼んだことでもなかった。


 古い本の間に、自分の贈った青い紐が揺れていたことだった。


 そのことを胸の中でもう一度思い出しながら、アマリリアは静かに部屋の灯りを落とした。

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