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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第65話 三勤務日の初期確認が終わったら、数字より先に『困ったことは何でしたか』を聞くことになりました



 第二共同倉庫で本試験が始まってから二日目の朝、王宮へ届いた連絡は、前日とほとんど変わらない短いものだった。


 用途欄追加型と片側斜め型の二区画同時運用を継続。通常量の対象荷を扱い、現時点で安全上の停止要因なし。札の脱落や作業継続を妨げる大きな問題も確認されていない。


 アマリリアはそれを一度だけ読み、ディーンへ返した。


「これで終わりです」


 向かいに座っていたライルが、少しだけ目を丸くする。


「本当に?」


「何がです?」


「もう一回読まない?」


「内容は覚えております」


「件数、聞かない?」


「三勤務日が終わってからで十分です」


 少し前までなら、自分でも信じられなかったかもしれない。


 本試験という名前が付いたものが実際に動き始め、しかも自分たちが何度も話し合って形を整えた方法が現場で使われている。その途中経過がたった数行しか届かないとなれば、何件扱ったのか、ニアミスは出ていないのか、作業時間はどうか、常勤と臨時では何を感じているのかと、次々に確認したくなったはずだった。


 今も知りたくないわけではない。


 ただ、現場側が「初期確認三勤務日」と決め、その間は停止要因だけを見ると合意した以上、二日目に王宮から細かく口を挟む理由はなかった。


「むしろ、ここで聞いたら昨日まで決めたことを自分たちで壊します」


 アマリリアがそう言うと、ディーンも静かに頷いた。


「現場責任者からも、三勤務日終了後にまとめて簡易報告する予定とのことです」


「では、待ちましょう」


 返事をしてから、アマリリアは机の端に積まれていた別の書類へ手を伸ばした。


 今日は王都南部の公的井戸の修繕費用と、地方救済制度に関する王妃教育用資料の続きがある。午後にはセレーネとの短い面談も予定されており、倉庫から数字が届かないからといって、仕事がなくなるわけではない。


「随分自然になりましたね」


 ゼインが書類箱を置きながら言った。


「何がです?」


「待つことが」


「昨日もできました」


「昨日は何度か廊下を見ておられました」


「見ておりません!」


「第二共同倉庫からの使者が来る方向を二度ほど」


「……二度だけでしょう?」


「否定されないのですね」


 アマリリアは少しだけ言葉に詰まり、隣でライルが笑いを噛み殺しているのを見て眉を寄せた。


「殿下も笑わないでくださいませ」


「ごめん。でも、二回くらいならいいんじゃない?」


「別に気にしていたわけではございません」


「うん」


「その納得していない顔をやめてください」


 室内の空気が少し柔らかくなる。


 朝の窓から差し込む光はまだ淡く、机の上へ置かれた使用済み荷札の箱には手を触れないまま、アマリリアは次の仕事へ意識を移した。


          ◇◇◇


 王都南部の公的井戸は、古い石積みの一部にひびが入り、雨季前に補修が必要と判断されたものだった。


 工事費そのものは大きくない。


 ただ、周囲には共同住宅が多く、朝夕には水を汲みに来る住民が集中するため、工事中の代替水場をどこへ設けるかという問題があった。


「近隣の二つの井戸へ分散させる案ですね」


 アマリリアは地図を見ながら言った。


「はい。ただ、一方は坂の上です」


 ディーンが指す。


「距離だけなら大差ありませんが、高齢者や水桶を複数運ぶ世帯には負担が増える可能性があります」


 ライルが地図へ身を乗り出した。


「じゃあ、近くに臨時の水樽を置く?」


「それも案として出ています。ただし、毎日の補給が必要です」


「費用は?」


 アマリリアが尋ねる。


「修繕費そのものより、六日間の補給人員と運搬費の方が大きくなる見込みです」


 数字だけ見れば、近隣井戸へ分散させた方が安い。


 けれど、安いからそれでよいとは限らない。


「周辺に、高齢世帯がどの程度あるか分かります?」


「正確な人数まではありません。ただ、住民登録上では六十歳以上の世帯主が比較的多い区画です」


「それだけで全員が水運びに困るとは言えませんね」


「はい」


 アマリリアは少し考えた。


「なら、工事前日に臨時水樽を一つだけ置いて、利用状況を見て増減できませんか?」


 ディーンが紙へ目を落とす。


「一つなら、予備費内で対応可能です」


「坂の上まで行ける方はそちらを使い、難しい方は臨時水樽を使えるようにする。最初から大量に用意して使われなかったら、それも無駄になります」


 ライルが頷いた。


「使う人が少なければ減らせるし、多ければ増やす?」


「はい。ただし、誰が困っているかを全部事前に調べるのではなく、最初に最低限だけ用意して、実際の利用を見て調整する形です」


「倉庫の試験と似てるな」


 ライルが言う。


「何でも試験に結びつけないでくださいませ」


「でも似てない?」


 アマリリアは反論しようとして、少しだけ考えた。


「……考え方は、少し似ています」


 最初から完璧な需要を当てようとしない。


 必要最低限を用意し、使われ方を見て調整する。


 制度でも、倉庫でも、水場でも、現実は最初の設計通りに動くとは限らない。


「ただし、飲み水ですから、不足させるのは駄目です」


「そこは安全側に寄せる?」


「はい。使われなくても多少余る方を選びます」


 全部を柔らかくすればよいわけではない。


 失敗した時の影響が大きいものは、最初から余裕を持つ。


 アマリリアはその違いを、以前より自然に考えられるようになっていた。


          ◇◇◇


 昼前、セレーネの執務室へ向かう途中で、アマリリアは廊下の窓辺に立つライルを見つけた。


 彼は何か小さな紙片を眺めている。


「何をご覧になっております?」


 声をかけると、ライルは少しだけ気まずそうに振り返った。


「劇場の席」


「もう決まったのです?」


「ディーンが候補を三つ出してくれた」


「またディーンへ」


「王族の外出手配だから普通だって言ってたよ」


「それは聞きましたけれど」


 アマリリアも紙を覗き込む。


 一般貴族向け個室席の中でも、舞台中央が見やすい席、出入口へ近い席、少し奥だが周囲の視線を受けにくい席の三候補だった。


「お父様の条件では、出入口に近い区画でしたね」


「だから一番目か二番目」


「こちらの方が舞台は見やすそうです」


 アマリリアが指したのは、出入口にも比較的近く、舞台正面から少しだけ横へ寄った個室だった。


「そこ、俺もいいと思った」


「では、そこにしましょう」


「決めていい?」


「劇を見る席ですから、決めてよいでしょう」


「もっと比べない?」


「殿下」


「冗談」


 ライルが笑う。


 アマリリアは少しだけ頬を膨らませたものの、紙をもう一度見た。


「それにしても、こういうものを選ぶのは楽しいですね」


「仕事じゃないから?」


「それもありますけれど、どれを選んでも大きな失敗にならないからかもしれません」


 ライルが少し考える。


「仕事だと、一つ選ぶと誰かに負担が行くことがある」


「はい。劇場の席なら、多少見え方が違う程度です」


「じゃあ、こういう小さい選択も増やしたい?」


 アマリリアは紙から顔を上げた。


「何です?」


「どこで食べるとか、何を見るとか、そういうの」


 その問いは、少しだけ胸の奥へ残った。


 将来、二人がどんな立場になるかはまだ分からない。


 第一王子とその婚約者である以上、日々の多くは自分たちだけで決められない。


 だからこそ。


「増やしたいです」


 アマリリアは素直に答えた。


「大きなことばかりではなく、今日何を食べるとか、休日にどこへ行くとか。そういうことも、殿下と決めたいです」


 ライルの表情が少しだけ柔らかくなる。


「俺も」


 その返事は短かったが、十分だった。


 二人はそのまま並んで歩き出した。


          ◇◇◇


 セレーネとの面談では、地方救済制度の比較資料について話した。


 昨日アマリリアが気づいた、ある領地で税猶予制度の利用件数が極端に少ないという点も話題に上がったが、今日は理由を追うことはしない。


「印だけ残したのでしたね」


「はい」


「それで今日は?」


「別の地域も読みました」


「気になるところは?」


「あります」


 アマリリアは資料の一部を示した。


「現物支給を中心にしている領地では、利用件数は多いのですが、返還義務のある制度と無償支給が同じ一覧に入っています。数字だけ比べると、利用されている制度が優れているように見えますが、条件が違いすぎます」


 セレーネが頷く。


「では、どう見る?」


「今は、制度ごとに目的と対象を分けます。同じ『救済』という名前でも、緊急の食料支援と翌年返還前提の種籾貸与では、利用件数の意味が違いますから」


「良いわね」


「ただ、これも一覧を綺麗に作りすぎると、また分類の方へ現実を合わせてしまいそうです」


「そう思うなら、空欄を残しておきなさい」


「分類不能?」


「無理に入れないという意味よ」


 アマリリアは少し笑った。


「最近、王妃様まで『分からないなら残す』を勧めてくださいますね」


「あなたが残せるようになったからよ。以前なら、空欄を見るたび埋めようとしたでしょう?」


「……否定はしません」


 セレーネは満足そうに茶を一口飲んだ。


「ところで、劇場の席は決まった?」


 突然話題が変わり、アマリリアは一瞬だけ目を瞬いた。


「なぜ王妃様までご存じなのです?」


「ライルが朝、席のことでディーンに聞いていたから」


「王宮内で私たちのデート情報が共有されすぎではございません?」


「王族の外出なのだから、ある程度は仕方ないでしょう」


「それは分かりますけれど」


「どこにしたの?」


「出入口に近く、舞台も比較的見やすい個室席です」


「良いんじゃない?」


「王妃様は、陛下とどの席を使われたのです?」


 セレーネは少しだけ懐かしそうな顔をした。


「昔は、もっと奥だったわ。あなたたちほど警備条件が細かくなかったから」


「お父様の条件が細かいのです」


「ハロルドは父親だから」


「その言葉ですべてを許さないでくださいませ」


 セレーネが笑う。


「でも、楽しみなのでしょう?」


「はい」


「だったら、それでいいじゃない」


 アマリリアは少しだけ頬を緩めた。


「そうですね」


 以前なら、条件や手配の多さを面倒に感じたかもしれない。


 今は、それらを含めても行きたいと思える。


          ◇◇◇


 三勤務日の初期確認が終わったという報告が届いたのは、その日の夕刻だった。


 西日が小会議室の壁へ長く伸び、窓辺の空気が昼より少し冷えている。アマリリアとライルはちょうど別の書類を閉じたところで、ディーンが薄い報告束を持って入ってきた。


「第二共同倉庫、初期確認三勤務日終了です」


 アマリリアは自然に姿勢を正した。


「停止要因は?」


「ありません」


 最初に聞くべきことは、もう決まっていた。


「用途欄追加型、片側斜め型とも、継続困難と判断される問題は確認されず。札の脱落、重大な視認不良、作業中断を要する不具合もなし。責任者、当日監督者、作業班長の三者で継続可と判断しています」


「では、置き場表示を加える段階へ?」


 ライルが尋ねる。


「現場からは、明日一日を表示準備に使い、次の通常勤務日から追加したいとの提案です」


「準備で試験を一日止める?」


「対象荷の扱い自体は通常通り続けます。ただし、その一日は本試験の比較日として数えず、従来の区画表示で運用するとのことです」


 アマリリアは少し考えた。


「良いと思います。急いで木札を吊るして、位置が悪かった方が困ります」


「現場側も、作業の邪魔にならない高さと視認方向を一度確認したいそうです」


 ここまでは予想の範囲だった。


 しかし、ディーンは続けて別の紙を出した。


「簡易集計もあります」


 アマリリアの視線が少しだけ鋭くなる。


 待っていた数字。


 三勤務日分。


 予備試験より本番に近い条件で行った最初の結果。


「見ます」


 そう答えたものの、紙を受け取る前に一度だけ息を整えた。


 数字を見たら、すぐ評価したくなる。


 だから、先に思い出しておく。


 これは三勤務日だけ。


 本試験は始まったばかり。


「まず件数です」


 ディーンが読み上げる。


「三勤務日合計で対象荷三百四十一件。用途欄追加区画百七十四、片側斜め区画百六十七です」


「大きな偏りはありませんね」


「偶然近くなっただけで、調整はしていません」


「そこは重要です」


 アマリリアは頷いた。


「正式誤配送は?」


「ゼロです」


 またゼロ。


 けれど、今回は誰もそれだけで喜ばなかった。


「ニアミスは?」


「用途欄追加区画で四件、片側斜め区画で三件」


 ライルが少し首を傾ける。


「差はほとんどないな」


「件数も少ないですもの」


 アマリリアはすぐに返した。


「三勤務日では、どちらが良いとは言えません」


「作業時間は?」


「用途欄追加型は予備試験後半とほぼ同程度。従来札との差は平均一秒以内。片側斜め型も大きな増加なし」


「問題なし?」


「少なくとも、時間だけで止めるほどではありません」


 数字は、驚くほど地味だった。


 劇的な差はない。


 明確な勝者もいない。


 それでも、アマリリアは少し安心した。


 悪い意味ではない。


 大きな問題がなく、次へ進める。


 それだけでも初期確認としては十分だった。


「確認回数は?」


「今回は初期確認なので、限定観察を一度だけ行っています。ですが、現場責任者から『数字を出す前に聞いてほしいことがある』と注記がありました」


 アマリリアの視線が紙から上がる。


「何でしょう?」


 ディーンが別紙を開いた。


「三勤務日の終了時、作業員へ短い聞き取りをしたそうです。比較質問ではなく、『この三日で困ったことは何でしたか』とだけ聞いたとのことです」


「誰に?」


「常勤十二名、勤務一年未満四名、臨時七名。合計二十三名です」


 アマリリアは少し身を乗り出した。


「答えは?」


「最も多かったのが、札そのものではありません」


 ライルもこちらを見る。


 ディーンが読み上げる。


「『置き場の境目が忙しい時に分かりにくい』。九名」


 アマリリアはゆっくり息を吐いた。


 予備試験でも出ていた。


 七名が、札だけでなく置き場側も分かりやすくした方がよいと言っていた。


 本試験の初期確認でも、最も多い「困ったこと」がそこだった。


「次は?」


「『片側斜め型は、札が反対を向いていると特徴がすぐ見えない』。六名」


「予備試験でもありましたね」


「はい。もう一つ、『用途欄追加型は分かりやすいが、汚れた札だと追加欄の文字が先に読みにくくなる』。四名」


「汚れ」


 アマリリアは使用済み札を思い出した。


 綺麗な試作品だけでは分からない。


「その他は?」


「『どちらも慣れれば大差ない気がする』が三名。『まだ分からない』が五名。複数回答ありです」


「まだ分からない、を残したのですね」


「はい。責任者も、無理に感想を求めなかったそうです」


 アマリリアは少し嬉しくなった。


「良いですね」


「何が?」


 ライルが聞く。


「『まだ分からない』を答えとして残してくださったことです。試験へ参加しているからといって、三日で評価できるとは限りませんもの」


 ライルも頷いた。


「それに、『どっちが良かった?』って聞かなかったんだな」


「はい」


 ディーンが補足する。


「責任者は、『優劣を聞くと、作業員が一つ選ばなければならないと思う可能性があるため、まず困ったことだけ聞いた』と書いています」


 アマリリアはその一文をもう一度読んだ。


「……これは、とても良いと思います」


 最初から「どちらが良いか」を聞けば、答えも二択へ寄ってしまう。


 しかし、「困ったことは何か」と聞けば、札ではなく置き場が出てくる。


 自分たちが用意した比較枠の外側から、答えが返ってくる。


「見る前に枠を作りすぎない、ですね」


 アマリリアが言うと、ライルが少し笑った。


「市場の頃からずっと続いてるな」


「ええ」


 その考え方が、今度は現場責任者側から返ってきた。


          ◇◇◇


「では、置き場表示は予定通り追加します?」


 ライルが尋ねる。


 アマリリアはすぐに答えず、聞き取り結果をもう一度見た。


 九名。


 最も多い。


 予備試験でも同様の意見。


 だから、加える意味はある。


「追加してよいと思います。ただし」


 ディーンとライルが同時にこちらを見る。


「今度は、木札を付けたから問題が解決したと最初から思わないようにしましょう」


「どこを見る?」


「まず、境目が分かりにくいという声が減るか。ただ、確認回数やニアミスだけではなく、表示が邪魔にならないか、荷で隠れないか、別方向から来た時にも見えるかも聞きたいです」


 ゼインが机の端に置かれた簡易図へ目を落とした。


「現場では、柱へ吊るす木札と区画板の両方を試作する予定でしたね」


「はい。ただ、二種類を同時に置くと、どちらが見やすいか分かりません」


「また比較しますか?」


 ゼインに聞かれ、アマリリアは少し考えてから首を横へ振った。


「そこまで細かく分けなくてよい気がします。置き場の位置によって、吊り札が合うところと区画板が合うところがあるでしょうから」


「同じ表示方式へ統一しない?」


 ライルが尋ねる。


「統一する理由が、今のところありません。作業員が遠くから見る場所には吊り札、近くで棚を確認する場所には区画板の方が良いかもしれません」


「現場に選ばせる?」


「はい。責任者に、どちらをどこへ置くか決めていただきましょう」


 自分たちが比較しているのは、札の形だけではない。


 実際に間違えにくい環境を作れるかどうか。


 なら、置き場表示の形式まで王宮で揃える必要はなかった。


「色は?」


 ライルが何気なく尋ねた。


 アマリリアの目が少し細くなる。


「市場の色布を思い出しましたね?」


「うん」


「私もです」


 ずっと保留している色布付き荷札。


 今まさに、置き場側へ視覚的な目印を足す段階へ来た。


 色を使えば、もっと分かりやすくなる可能性はある。


「調べる?」


 ライルが聞く。


 アマリリアは少し迷った。


 今まで「本試験案が固まるまでは調べない」と決めていた。


 その本試験はもう始まっている。


 置き場表示まで加える段階に入る。


「……そろそろ、調べてもよいかもしれません」


 口にしてから、自分でもその言葉を確かめるように少し間を置いた。


「ただし、すぐ本試験へ色を入れるためではありません」


「何のため?」


「まず、あの色布が本当に用途や荷の区別に使われていたのかを知るためです。私たちは見ただけで、勝手にそう思っているだけですから」


「そこから?」


「はい。目的すら違うかもしれません」


 ディーンが確認する。


「では、市場側へ大きな調査依頼ではなく、該当する荷車の店または運送人を特定できるか、軽い確認から始めますか?」


 アマリリアは少し考えた。


「それも、まだ急がなくてよいです」


「まだ?」


 ライルが笑う。


「置き場表示が次の勤務日から始まります。まず、その一日目を見てからでも遅くありません。色という新しい要素を知った瞬間、私が混ぜたくなる可能性がありますので」


「自分で言うんだ」


「自覚は重要です」


 ゼインが淡々と頷いた。


「非常に」


「そこまで強く同意しなくてよろしいです!」


          ◇◇◇


 本試験初期確認の報告を終えたあと、アマリリアは一度資料を閉じた。


 数字は見た。


 件数も確認した。


 ニアミスも作業時間も読んだ。


 それでも、今日一番印象に残ったのは、そこではなかった。


「『困ったことは何でしたか』」


 アマリリアが小さく口にすると、ライルが隣から見る。


「気に入った?」


「はい」


「質問が?」


「聞き方がです」


 アマリリアは二十三名分の聞き取り要約へ指を置いた。


「私たちは、用途欄追加型と片側斜め型を比べています。だから、つい『どちらが良かったですか』と聞きたくなります。でも、それでは答える側まで私たちの比較に入れてしまいます」


「困ったことを聞いたら、置き場が出てきた」


「ええ。『まだ分からない』も出ました」


 最初から選択肢を作らない。


 答えを一つ求めない。


 現場側が見えているものを、そのまま出せる聞き方をする。


「通知の時にも使えるかな」


 ライルが言った。


「何がです?」


「『伝わりましたか』じゃなくて、『何を変えると受け取りましたか』とか」


 アマリリアは少し目を見開いた。


 受領したか。


 説明を聞いたか。


 理解したか。


 そう尋ねると、多くの人は「はい」と答えるかもしれない。


 でも、ルーデでは「新しい紙が届いたら使う」と受け取られ、ベネでは「個人で王都へ売る人だけの変更」と解釈された。


「確かに……」


 アマリリアは少し考え込んだ。


「『伝わりましたか』では、意味が変わっていても本人は伝わったと思っている可能性があります」


「だから、何をする必要があると思ったかを聞く?」


「それなら、受け取った意味が見えるかもしれません」


 ただし。


 また一つの良さそうな方法を見つけたからといって、すぐ制度へ入れる必要はない。


「でも、それも毎回聞けば負担になります」


「うん」


「確認対象をどこまでにするかも必要です」


「じゃあ、また考える?」


「今日は考えません」


 ライルが笑った。


「早い」


「今は倉庫の報告です」


 アマリリアも少し笑う。


「ただ、残しておきます」


 別の問題から得た考えが、別の制度へ繋がることはある。


 けれど、今すぐ一本の答えへまとめなくてもよい。


          ◇◇◇


 夕食後、アマリリアはライルと少しだけ王宮の回廊を歩いた。


 昼の暖かさはすでに消え、窓の外には澄んだ夜空が広がっている。廊下の壁灯が石床へ淡い光を落とし、遠くで交代する衛兵たちの低い声が聞こえた。


「劇場まで、あと二週間くらいか」


 ライルが言う。


「毎日数えないでくださいませ」


「数えてないよ」


「今、正確でしたけれど」


「楽しみだから」


 アマリリアは少しだけ笑った。


「私も楽しみです」


「父上の店も?」


「はい。陛下と王妃様が昔行かれた店なのでしょう?」


「うん」


「何を召し上がったのか、少し気になります」


「母上に聞く?」


 アマリリアは一瞬考え、それから首を横へ振った。


「当日、店で見て決めたいです」


「珍しい」


「最近、そればかり言いますね」


「だって、本当に変わったから」


 ライルは歩調を少し落とした。


「前なら、店に行く前に人気菓子くらい調べた?」


「調べたかもしれません」


「今は?」


「行ってから選びます」


「失敗したら?」


「別のものを頼めばよいのでは?」


 言ってから、アマリリアは自分でも笑った。


「何です?」


 ライルが尋ねる。


「以前なら、デートで外れを引かないようにしたいと思ったかもしれません」


「今は外れてもいい?」


「殿下と一緒なら、それも後で笑える気がします」


 ライルの足が少しだけ緩んだ。


「……それ、かなり嬉しい」


「なぜです?」


「うまくいく時だけじゃなくて、失敗しても一緒にいたいってことに聞こえたから」


 アマリリアは少し黙った。


 そんな大げさな意味で言ったつもりではなかった。


 でも、否定する必要もない気がした。


「そうかもしれません」


 声が少しだけ小さくなる。


「殿下とでしたら」


 ライルの手が、歩くアマリリアの手の近くへ寄った。


 触れるか触れないかの距離で一度止まり、アマリリアが自分から指先を重ねると、彼は嬉しそうに握った。


「今日は強く?」


「普通でお願いします」


「市場より弱く?」


「比較しないでくださいませ」


 静かな廊下に、二人の笑い声が小さく残った。


          ◇◇◇


 その夜、アマリリアは自室の机で手帳を開いた。


 押し花にしている一輪は、まだ薄紙の間に挟まれている。侍女によれば、もう少し乾燥させた方が色が残りやすいらしく、完成まで触らない方がよいという。


 今日は、第二共同倉庫について書くことが多い。


『本試験初期確認、三勤務日終了。対象三四一件。正式誤配送ゼロ。ただし短期間のため評価材料としては弱い』


『ニアミス、用途欄追加四件、片側斜め三件。大差なし。作業時間も停止要因なし』


『責任者・監督者・班長の三者で継続可と判断。次の通常勤務日から置き場表示追加予定』


 数字だけなら、ここまでで終わる。


 けれど、今日一番残したいのは別だった。


『作業員へ「どちらが良いか」ではなく、「困ったことは何でしたか」と質問』


『最多は札ではなく置き場境界の分かりにくさ。九名』


『「まだ分からない」五名。無理に評価させない』


 アマリリアはそこで一度ペンを止めた。


 質問には、形がある。


 尋ね方によって、出てくる答えまで変わる。


 最初から二択を示せば、相手は二択の中で考える。


 困ったことを尋ねれば、自分たちが用意していなかった答えが出る。


 これは倉庫だけの話ではない。


『「伝わりましたか」ではなく、「何を変えると受け取りましたか」と聞く方が、通知の意味変化を見られる可能性』


 そこまで書き、アマリリアは小さく笑った。


 また仕事が増えそうな一文だ。


 けれど、今日はそこから先へ進めない。


 明日になれば、置き場表示を加えた本試験が始まる。


 市場の色布付き荷札については、そろそろ調べる意味が出てきたものの、まだ一日だけ待つ。


 劇場デートまでは二週間ほど。


 押し花もまだ完成していない。


 待っているものが、以前より増えた気がする。


 それなのに、不思議と落ち着いていた。


 全部を急いで開けなくても、必要な時に一つずつ見ればよい。


 アマリリアは最後に、今日の聞き取りで最も好きだった言葉を書いた。


『まだ分からない、も答え』


 自分自身がそう言えるようになるまで、ずいぶん時間が掛かった。


 だからこそ、倉庫の作業員が三日で判断できないと答えたことを、そのまま残してくれた現場責任者の判断が嬉しかった。


 答えを急がせない。


 選ばせすぎない。


 分からないなら、分からないまま次の日へ進む。


 アマリリアは手帳を閉じ、机の灯りを少し落とした。


 明日、置き場表示を加えたことで何が変わるかは、まだ誰にも分からない。


 今夜は、それでよかった。

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