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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第64話 劇場デートの許可を取りに行った殿下が戻ってきたら、父から妙に細かい条件を持たされていました



 ライルがハロルドのもとへ劇場デートの許可を取りに向かった夜、アマリリアは自室で手帳を閉じたあとも、なかなか寝台へ向かうことができなかった。


 第二共同倉庫の本試験については、ようやく王宮側から実施を了承するところまで進んだ。開始日は現場責任者へ任せ、安全や予算、試験目的そのものに関わる変更だけを王宮へ戻してもらう。今日まで何度も話し合ってきた結果としては、それなりに満足できる形になったと思っている。


 だから今夜、気になっているのは仕事ではない。


 父と婚約者が、劇場へ行く許可について何を話しているのか。


 それだけだった。


「……遅いですわね」


 窓の外へ目を向けると、王宮の庭はすでに夜の静けさへ沈んでいた。風が植え込みを揺らすかすかな音と、遠くの廊下を巡回する衛兵の靴音が、時折部屋の中まで届いてくる。


 アマリリアは机の脇に置かれた小瓶へ手を伸ばした。


 市場デートでライルからもらった白と黄色の花は、そろそろ見頃を終えようとしている。一輪は侍女が押し花にしてくれているが、残した花も花弁の先が少しずつ柔らかくなり、最初の日とは形が変わっていた。


「お嬢様」


 夜の支度を整えていた侍女が、背後から控えめに声をかけた。


「お休みになられますか?」


「……もう少しだけ起きております」


「殿下をお待ちですか?」


 アマリリアは振り返った。


「誰がそのようなことを?」


「先ほどから三度ほど廊下の方をご覧になっておりますので」


「三度だけでしょう?」


「四度目でございます」


「数えなくてよろしいです!」


 侍女は申し訳なさそうに頭を下げたものの、その口元にはわずかな笑みが残っていた。


 王宮で働く者たちの中に、自分とライルの関係を面白がっている者が増えている気がする。正式な婚約者なのだから不自然なことではないが、以前ならここまで気軽に温かい視線を向けられることはなかった。


「お父様は、殿下を追い返したりなさいませんよね?」


「伯爵様でございますから」


「その返答では分かりません」


「少なくとも剣は抜かれないかと」


「そこまで心配しておりません!」


 思わず声を上げたところで、扉の外から控えめなノックが響いた。


 アマリリアは勢いよくそちらを向いた。


 侍女がすぐに扉へ向かい、外の者と言葉を交わす。


「第一王子殿下がお見えです」


「通してくださいませ」


 返事が早すぎたことに気づいたのは、扉が開いてからだった。


          ◇◇◇


 入ってきたライルは、無事だった。


 当然である。


 しかし、少し疲れていた。


 髪が乱れているわけでも、服装が崩れているわけでもない。ただ、普段より肩がわずかに落ち、手には折り畳まれた紙が一枚握られている。


 アマリリアは椅子から立ち上がり、彼の顔を見た。


「……お疲れ様でした」


「うん」


「何時間です?」


「一時間ちょっと」


「思ったより短いですね」


「市場の時よりは」


 ライルが遠い目をした。


「お父様、何をおっしゃいました?」


「最初に『またか』って」


「想像できます」


「次に『今度は何を調べるつもりだ』って」


「それも想像できます」


「俺が『劇を見るだけです』って言ったら、『本当にか』って」


 アマリリアは少し眉を寄せた。


「それは私への疑いですよね?」


「かなり」


「失礼です」


 そう言ったものの、市場デート前の自分を思い返すと、父の疑いにも一理ある。


 ライルは近くの椅子へ腰を下ろし、持っていた紙を机の上へ置いた。


「で、許可は?」


 アマリリアはなるべく平静を装って尋ねた。


 ライルは少しだけ間を置き、それから笑った。


「出た」


「本当ですか?」


「うん」


 胸の奥に小さな喜びが広がった。


 市場へ行けた時とは少し違う。あの時は「調査をしない」ということ自体が大きな挑戦で、父もそれをかなり警戒していた。


 今回は、二人で劇を見る。


 それだけである。


「良かったです」


 アマリリアは素直に笑った。


 その表情を見て、ライルも嬉しそうにした。


「そんなに行きたかった?」


「殿下と一緒に劇場へ行くことは、少し楽しみです」


「少し?」


「かなり、と言った方がよろしいです?」


「そっちの方が嬉しい」


「では、かなり楽しみです」


 言い直すと、ライルの顔が分かりやすく明るくなる。


 それを見ていた侍女が、さりげなく視線を下げた。アマリリアは気づいたものの、今度は何も言わなかった。


「それで、その紙は?」


 机の上へ視線を落とす。


「条件」


「……またですか?」


「今回は前より多い」


 アマリリアは嫌な予感がした。


「読んでも?」


「もちろん」


 紙を開く。


 父の字だった。


 最初に日付と行き先。


 その下に、箇条書きではなく丁寧な文章で条件が並べられている。


「夕方公演は不可。昼公演を選ぶこと……」


「帰りが遅くならないように、だって」


「分かります」


 次。


「王族席は使用せず、一般貴族向けの個室席を取ること。ただし出入口に近い区画を選び、護衛動線を確保する」


「そこも警備上の理由だな」


「妥当です」


 次。


「護衛は近距離二名、建物外に四名。劇場内部へ護衛を増やしすぎて他の客へ圧迫感を与えないこと」


「前回と似ていますね」


「うん」


 そこまでは普通だった。


 しかし、紙の後半へ入ったところで、アマリリアの眉が少しずつ寄っていく。


「観劇中に舞台演出、照明設備、客席誘導、料金設定、売店運営、非常口配置等について気になる点があっても、その場で劇場支配人を呼び出さないこと」


 アマリリアは紙から顔を上げた。


「お父様は私を何だと思っております?」


「そこ、俺も聞いた」


「何と?」


「『アマリリアだ』って」


「答えになっておりません!」


 ライルが吹き出した。


 侍女もとうとう耐えきれなかったらしく、口元へ手を当てている。


「まだあるよ」


「まだ?」


 次を読む。


「公演中に演目の歴史的背景、身分制度上の不自然さ、契約上の問題、商取引の妥当性等について疑問が生じても、公演終了までは席を立たないこと」


 アマリリアはしばらく無言だった。


「……身分制度上の不自然さ」


「昨日、君が喜劇の設定を聞いて最初に身分詐称の法的問題を気にしてたから」


「それを殿下がお父様へ話したのです?」


「話してない」


「ではなぜ分かるのです!」


「ハロルド伯爵だから?」


「皆様、その言葉でお父様を説明するのをやめてくださいませ!」


 さらに読み進める。


「終演後、感想を話すことは自由。ただし、その日のうちに劇場運営改善案を作成しないこと」


 アマリリアは目を閉じた。


「これは完全に私への攻撃です」


「条件だよ」


「悪意を感じます」


「最後も読んで」


 嫌な予感しかしない。


「観劇後は、食事または菓子を楽しむ時間を一刻以上確保すること」


 アマリリアは少し止まった。


「これは……」


「俺も驚いた」


 その次には、父の筆跡でさらに一文があった。


『せっかく二人で出るなら、劇だけ見て仕事の話をして帰ってくるな』


 アマリリアは紙を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。


 からかい半分。


 心配半分。


 そして、少しだけ親心。


 前回の市場デートを終えたあと、父は葉の腕飾りを見て「娘が嬉しそうならいい」と言った。


 今回は最初から、二人で過ごす時間そのものを予定へ入れろと言っている。


「お父様……」


 思わず小さく呟く。


「怒った?」


 ライルが聞く。


「少しだけ」


「どこに?」


「私が劇場支配人を呼び出すと思われているところです」


「そこなんだ」


「でも」


 アマリリアは紙をもう一度見た。


「最後の条件は、嫌ではございません」


「俺も」


 ライルが笑う。


「むしろ嬉しい」


「殿下はそうでしょうね」


「君は?」


 アマリリアは少しだけ迷い、それから正直に答えた。


「私もです」


          ◇◇◇


「それで、いつです?」


 許可が出たと分かれば、次に気になるのは日程だった。


「今月末の喜劇。初演の翌週くらいなら席が取りやすいらしい」


「初演日は混みますものね」


「父上に聞いた」


「陛下に?」


「劇場のことは母上より詳しい」


「意外です」


「昔、母上とよく行ってたらしい」


 アマリリアの目が少し大きくなる。


「王妃様と?」


「結婚したばかりの頃」


「それは初耳です」


「俺も今日聞いた」


 また一つ、自分たちの知らない親世代の話が出てきた。


 セレーネが今もライルとアマリリアのデートを楽しそうに応援する理由が、ほんの少し分かった気がする。


「陛下も、王妃様とデートをなさっていたのですね」


「たぶん本人はデートって言わないと思うけど」


「今度、王妃様へ聞いてみたいです」


「絶対楽しそうに話す」


「お父様の話も聞けるかもしれません」


「それはどうかな」


 二人で少し笑った。


「ところで」


 アマリリアは改めて条件書を見る。


「劇場へ行く日まで、まだかなりありますね」


「うん。二週間くらい」


「なら、すぐ予定を詰めなくてもよいですね」


「珍しく余裕がある」


「殿下」


「褒めてる」


「その言葉、禁止にしたいですわ」


 ライルが笑う。


 アマリリアは条件書を折り直し、机の端へ置いた。


「これは私が持っていてよろしいです?」


「ハロルド伯爵、俺に渡したんだけど」


「私への条件が大半です」


「確かに」


「では、預かります」


「手帳に挟む?」


「絶対にしません」


「なんで?」


「お父様から『支配人を呼び出すな』と書かれた紙を、何年も保存したくありません!」


「思い出になるのに」


「なりません!」


 そう言いながら、捨てるつもりもなかった。


          ◇◇◇


 翌朝。


 アマリリアが執務室へ入ると、ディーンがすでに一通の簡潔な報告を持って待っていた。


「第二共同倉庫から、本試験開始日の連絡です」


「もう決まりました?」


「はい。明日から開始するとのことです」


 アマリリアは受け取る。


 本試験の開始日は、当初の目安より一日早かった。


 予備試験後に残っていた通常荷の整理が予定より早く終わり、明日からの三勤務日は対象荷が十分に入る見込みだという。現場責任者、当日監督者、作業班長の三名で確認し、開始条件に問題はないと判断したらしい。


「一日早いのですね」


 ライルが後から入ってきて報告を覗く。


「王宮へ聞かずに決めた」


「そのために任せましたもの」


 アマリリアは自然に答えた。


 自分たちが目安としていた日付より早い。


 以前なら、本当に準備が足りているのか、何か見落としていないか、追加確認したくなったかもしれない。


 今は、責任者たちが確認し、与えられた範囲で決めたのなら、それを受け取れる。


「追加確認は?」


 ディーンが念のため尋ねる。


「不要です」


「即答ですね」


「開始日を現場へ任せると決めた直後に、『本当に明日で大丈夫ですか』と聞いたら意味がございません」


 ライルが頷いた。


「それ、任せたことにならないな」


「はい」


 ディーンが文書を閉じる。


「では、開始了承済みとして処理します。初期確認は通常量を扱う三勤務日。終了後に簡易報告予定です」


「安全上の問題が出た場合のみ、途中でも連絡ですね」


「その通りです」


「分かりました」


 アマリリアは報告を机の端へ置いた。


 開始。


 それは大きな進展ではある。


 しかし、今日の自分たちがすることはほとんどない。


 現場が試す。


 現場が見る。


 王宮は、必要な連絡が来るまで待つ。


「明日、見に行く?」


 ライルが尋ねた。


「いいえ」


「即答だ」


「私たちが行けば、予備試験以上に作業員が意識するでしょう」


「試験されてるって思う」


「はい。それに、現場へ任せると言った翌日に王子と婚約者が見学へ来たら、責任者もやりにくいです」


「それもそうだな」


 アマリリアは少しだけ笑った。


「見たい気持ちはございますけれど」


「あるんだ」


「もちろんです」


「じゃあ我慢?」


「我慢というほどではありません。三勤務日後の報告を楽しみにします」


 その言い方が、自分でも自然だった。


          ◇◇◇


 倉庫の開始連絡を確認したあと、ディーンが別の書類を一枚取り出した。


「もう一点、昨日の劇場についてですが」


 アマリリアの動きが止まる。


「なぜディーンが?」


「殿下から席の確保を依頼されました」


 ライルが少し気まずそうな顔をする。


「仕事へ持ち込みましたね?」


「予約だけ」


「ディーンは側近です」


「だから確実かなって」


 アマリリアはため息をついた。


「ディーン、申し訳ありません」


「通常の王族外出手配の範囲ですので問題ありません」


「そういうものです?」


「はい。ただし」


 ディーンは書類をアマリリアへ差し出した。


「ハロルド伯爵から条件書の写しも届いております」


「なぜです!」


「護衛手配へ必要とのことです」


 アマリリアは頭を抱えたくなった。


「まさか、『劇場支配人を呼び出さないこと』まで?」


「全文です」


「護衛に関係ございません!」


「伯爵からは『念のため』と」


 ライルが笑いを堪えている。


「殿下、笑わないでくださいませ!」


「だって」


「だってではありません!」


 ゼインまで入ってきたところで、机の上の紙へ目を落とした。


「何でしょう」


「お嬢様の劇場デート条件です」


 ディーンが答える。


「見せないでください!」


「もう見えました」


「忘れて!」


 ゼインは紙を一度眺めた。


「『劇場運営改善案を当日中に作成しないこと』」


「読み上げないでくださいませ!」


「適切かと」


「ゼイン!」


「お嬢様なら、劇を見ながら客席導線を確認される可能性はあります」


「しません!」


「昨日までは市場の色布を二日以上覚えておられました」


「それとこれは別です!」


 ライルとディーンが笑い、ゼインはいつもの無表情に近い顔のまま紙を戻した。


「ですが、一刻以上の食事または菓子時間は良い条件ですね」


 アマリリアは少しだけ黙った。


「……そこは、私もそう思います」


「伯爵様も変わられましたね」


 ゼインの声は、今度はからかいだけではなかった。


「以前なら、殿下と二人の時間を増やす条件を自分から書くとは考えにくかったかと」


 アマリリアも、その点は感じていた。


 父は今でも過保護で、ライルへ厳しい。


 けれど、もう「二人で出掛けること」自体を止めようとはしていない。


 むしろ、せっかくなら楽しんでこいと背中を押す。


「お父様なりに、認めてくださっているのでしょうね」


 アマリリアが小さく言う。


 ライルは何も茶化さず、静かに頷いた。


「うん」


          ◇◇◇


 その日の昼、アマリリアとライルは王宮の庭園脇にある小さな東屋で食事を取った。


 室内でもよかったが、雨上がりから二日経った空はよく晴れ、風も強くない。秋へ向かい始めた空気は真夏ほど重くなく、外で過ごすにはちょうどよかった。


 東屋の周囲には低い花壇があり、遅咲きの花に小さな虫が飛んでいる。遠くでは庭師たちが枝を整えており、時折剪定鋏の乾いた音が風に乗って届いた。


「劇場の日、何食べる?」


 ライルがパンへ柔らかな肉を挟みながら尋ねる。


「もうそこまで考えておりますの?」


「一刻以上って条件があるから」


「お父様の条件を楽しんでいません?」


「かなり」


「私への嫌味が半分含まれているのですよ?」


「残り半分はデートを楽しめってことだろ」


 アマリリアは少し言葉に詰まった。


 確かに、その通りだった。


「劇場の近くなら、菓子店が多いらしい」


「殿下は詳しいのです?」


「昨日、父上が教えてくれた」


「陛下が?」


「昔、母上とよく寄った店があるって」


 ますます興味が湧く。


「まだあります?」


「店主は代替わりしてるけど店はあるらしい」


「それは行ってみたいです」


 即答すると、ライルが嬉しそうに笑った。


「じゃあ、そこにしよう」


「まだ予約は?」


「食事はたぶんいらないって。菓子店だから」


「そうなのですね」


 アマリリアは少しだけ考え、そして気づく。


「……今、何も調べずに店を決めましたね」


「嫌?」


「いいえ」


 むしろ、不思議だった。


 店の評判。


 価格。


 混雑。


 品揃え。


 調べようと思えばいくらでも調べられる。


 でも、王と王妃が若い頃に訪れた店だと聞いて、ライルと行ってみたいと思った。


 それだけで十分だった。


「王妃様に聞きたいですね」


「デートの後に?」


「前に聞いたら、きっとおすすめを十個くらい教えてくださいます」


「それはありそう」


「では、あえて聞かない方が良いでしょうか」


「俺は、当日一緒に見て決めるのも楽しそうだと思う」


 アマリリアは少し笑った。


「殿下、デートに慣れてきました?」


「まだ二回目だよ」


「市場の半刻を数えれば三回目では?」


「じゃあ三回目」


「急に経験者の顔をしないでくださいませ」


 二人で笑った。


          ◇◇◇


「そういえば、本試験」


 食事を半分ほど終えたところで、ライルが話題を変えた。


「明日からだね」


「はい」


「気になる?」


「気になります」


「見に行きたい?」


「少し」


 アマリリアは正直に答えた。


「でも行きません」


「ちゃんと分けてるんだ」


「何がです?」


「気になることと、やること」


 アマリリアは少しだけ手を止めた。


 言われてみれば、その通りだった。


 気になる。


 知りたい。


 見たい。


 だから行く。


 以前は、それらがかなり近かった。


 今は、知りたいことがあっても、それが「今やるべきこと」と同じとは限らないと分かる。


「そうですね」


 アマリリアはゆっくり頷いた。


「気になることは、減っておりません」


「むしろ増えてそう」


「増えているかもしれません」


「でも全部追わない」


「はい」


「その方が楽しそうに見える」


 少し意外だった。


「以前は楽しそうではなかったです?」


「楽しそうだったよ。でも、ちょっと必死だった」


 ライルは言葉を選ぶように続ける。


「一つ分からないことがあると、その周りまで全部掴まないと落ち着かないみたいな」


 アマリリアは反論しなかった。


 思い当たるからだ。


「今は?」


「分からないことがあっても、そのまま笑ってることが増えた」


 ライルの声は柔らかかった。


 アマリリアは少しだけ視線を下げ、手首の腕飾りを見た。


 市場デートでもらった葉模様の木片。


 仕事中も外していない。


「それは、殿下のおかげでもあります」


「俺?」


「はい」


「何した?」


「止まる時に、一緒に止まってくださいます」


 ライルは少し目を見開いた。


「市場では、手も握ってくださいましたし」


「また握る?」


「今は食事中です」


「後で?」


「すぐそういう方向へ持っていかないでくださいませ」


 アマリリアは少し笑った。


「でも」


 言葉を続ける。


「一人で止まるより、二人の方が簡単なのだと思います」


 ライルは今度は笑わず、ゆっくり頷いた。


「じゃあ、これからも一緒に止まろう」


「はい」


「たまには一緒に突っ走ってもいい?」


「内容によります」


「そこは冷静だな」


「当然です」


 風が東屋を抜け、卓上の布がわずかに揺れた。


 少し離れた場所に控える護衛たちは、こちらを見ていないふりをしている。


 それでも、二人の間に流れる穏やかな空気までは隠せていない気がした。


          ◇◇◇


 午後、セレーネへ劇場デートが正式に決まったことを報告すると、王妃は予想通り非常に楽しそうな顔をした。


「許可が出たのね」


「はい」


「ハロルド、何て?」


 ライルが条件書の内容を簡単に説明する。


 セレーネは途中から肩を震わせ始め、「劇場支配人を呼び出さないこと」のあたりでとうとう声を立てて笑った。


「王妃様まで笑うのです?」


「ごめんなさい。でも、あまりにもハロルドらしくて」


「私への信用がなさすぎます」


「信用しているから具体的なのよ」


「逆では?」


「あなたが何をしそうか、よく分かっているもの」


 アマリリアは不満そうにセレーネを見る。


「王妃様までお父様側ですの?」


「最後の条件は、とても良いと思うわ」


「一刻以上、食事か菓子を楽しむこと?」


「ええ」


 セレーネの表情が少し柔らかくなる。


「劇を見ることだけがデートではないでしょう?」


「はい」


「行くまでに話すことも、終わってから感想を言うことも、店を選ぶことも、同じ時間よ」


 アマリリアは少しだけ考えた。


 市場でもそうだった。


 目的地へ行くことだけではなく、歩くこと、食べること、選ぶこと、その全部が残った。


「陛下と昔行かれた菓子店があると聞きました」


 そう言うと、セレーネの目が少し丸くなった。


「あの人、話したの?」


「殿下が陛下から聞いたそうです」


「珍しいわね」


「よく行かれたのです?」


「結婚したばかりの頃はね」


 セレーネの声には、いつもより少し懐かしさが混じった。


「今より王都へ出やすかったわけではないけれど、たまに時間を作ってくれたの。劇を見る時もあったし、何も予定を決めず馬車で少し遠くへ行くこともあった」


「陛下が?」


 ライルまで興味を示す。


「何よ、その顔」


「父上、今は予定ばっかりだから」


「王になれば増えるのよ」


 セレーネは少し笑い、それからアマリリアを見る。


「だからこそ、時間を作れるうちは作っておきなさい」


 その言葉には、王妃としてではない響きがあった。


「忙しくなったら、行けなくなる?」


 ライルが聞く。


「行けなくなるとは言わないわ。行くのが少し難しくなるだけ」


「同じでは?」


「違うわよ。難しくても、行くと決めれば行けるもの」


 セレーネは穏やかに微笑んだ。


「ただ、決めないと仕事はいくらでも入ってくるでしょう?」


 アマリリアはその言葉に深く納得した。


 仕事は待ってくれない。


 というより、終わりがない。


 一つ終えれば次が出る。


 だから、暇になったら休むのではなく、休む時間を決めなければならない。


「劇場の日は、他の仕事を入れません」


 アマリリアが言う。


「それがいいわ」


「緊急時は別ですが」


「それは当然」


「でも、荷札の結果が届いても翌日まで見ません」


 ライルが横で嬉しそうに笑った。


「そこまで言う?」


「言っておいた方が自分に効きます」


「偉いわ」


 セレーネが素直に言った。


 今度はからかいが混ざっていなかった。


 アマリリアは少し照れながらも、「ありがとうございます」と答えた。


          ◇◇◇


 翌日。


 第二共同倉庫の本試験が始まった。


 王宮へ届いた開始報告は、わずか数行だった。


『本日、通常量の対象荷を確認。用途欄追加型・片側斜め型の二区画同時運用を開始。初期確認一勤務日目。現時点で停止要因なし』


 それだけである。


 アマリリアは報告を読み、少しだけ笑った。


「短いね」


 ライルが隣で言う。


「良いと思います」


「もっと欲しくない?」


「欲しいです」


「欲しいんだ」


「でも、今はこれで十分です」


 今日、何件扱ったのか。


 誰がどちらを使ったのか。


 確認回数は。


 作業時間は。


 聞きたいことはいくらでもある。


 けれど、それは初期確認三勤務日を終えてからでよい。


「停止要因なし」


 今見るべきなのは、そこだけだった。


 ディーンが報告を整理箱へ入れる。


「では、次の定時報告は三勤務日終了後です」


「はい」


「途中連絡がなければ、こちらから問い合わせもしない?」


「しません」


「承知しました」


 それで終わった。


 あまりにも短い。


 でも、不足しているとは思わなかった。


          ◇◇◇


 その夜、アマリリアは手帳を開いた。


 今日は仕事の記録より先に、劇場デートの予定を書いた。


『今月末。ライル様と劇場』


 その下へ、少し迷ってから追加する。


『喜劇。終演後は菓子店へ』


 さらに横へ小さく、


『お父様の条件により、一刻以上』


 と書いた。


 書いた瞬間、自分で笑ってしまう。


 条件書は手帳へ挟まないと決めた。


 でも、内容は忘れそうにない。


 次に仕事の記録へ移る。


『第二共同倉庫、本試験開始』


『初期確認一勤務日目。停止要因なし』


 それだけだった。


 数字はない。


 詳しい感想もない。


 何が良かったかも分からない。


 それでも、今日の段階では十分だった。


 現場は動き始めた。


 王宮は待つ。


 そして自分は、自分の時間を過ごす。


 アマリリアはペンを置き、机の端に置いた父の条件書へ視線を向けた。


 劇を見て。


 菓子を食べて。


 仕事の改善案を作らず帰ってくる。


 市場デートより、ずっと簡単に聞こえる。


 しかし、自分にとっては案外それも練習なのかもしれない。


 気になることを見つけても、全部を仕事へ変えない。


 楽しいものを、楽しいまま持ち帰る。


 ライルと過ごした時間を、その日の一番大切なものとして残す。


 市場の日にできたのだから、きっと今度もできる。


 アマリリアは押し花にしている一輪をそっと確認し、薄紙を乱さないよう元へ戻した。


 その花も、完成するまでにはまだ少し時間がかかる。


 本試験も。


 次のデートも。


 急いで結果を出す必要はない。


 今はただ、それぞれが始まったことを嬉しく思えばよかった。

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