第63話 本試験の返事を待っている間に別の仕事をしていたら、待つことは何もしないことではないと分かりました
第二共同倉庫へ本試験案を送り返した翌朝、アマリリアが最初に確認したのは、倉庫から返事が届いているかどうかではなかった。
少なくとも、そうするつもりで執務室へ入った。
窓の外では夜明け前に降った雨がまだ石畳の隙間へ残り、朝の光を細かく反射している。空は昨日より明るく、雨上がりの庭からは湿った土と葉の匂いが流れ込み、開けられた窓辺では薄いカーテンが穏やかに揺れていた。
机へ着いたアマリリアは、今日処理する予定の書類を上から順に確認した。
地方税収の簡易報告。
王都北門周辺の修繕日程。
王妃教育で読む予定になっている地方救済制度の比較資料。
そして、その一番下にディーンが置いていった小さな紙片がある。
『第二共同倉庫からの返答、現時点では未着。到着次第報告』
アマリリアは、その紙を見つめた。
わざわざ確認しに行かなくても、ディーンが先回りして書いている。
「……読まれておりますわね」
思わず呟くと、隣で書類箱を整理していたゼインが顔を上げた。
「何がでしょう」
「私が朝一番で倉庫の返答を確認しようとすることです」
「それは予測ではなく、ほぼ確定事項だったのでは」
「失礼です」
「では、見ませんでしたか?」
アマリリアは答えに詰まった。
見た。
しかも、かなり早い段階で。
「見ましたけれど、それだけです」
「承知しております」
「その言い方が腹立たしいですわね」
ゼインは何も言わず、次の書類箱へ手を伸ばした。反論しないところが余計に腹立たしい。
アマリリアは小さく息を吐き、地方税収の報告書を開いた。
第二共同倉庫の返事はまだない。
それなら、それでよい。
昨日、自分でそう決めたばかりだった。
返答が来なければ、別の仕事をする。
その言葉を、今日は実際に守ればいい。
◇◇◇
午前の最初の業務は、王都北門近くの修繕日程についての確認だった。
内容自体はそれほど複雑ではない。大雨の影響で排水路の一部が傷み、馬車の通行を完全には止めずに修繕するため、時間帯ごとに片側通行へ切り替えるというものだった。
アマリリアは地図を見ながら、数か所へ印が付いているのを確認した。
「これは、市場へ向かう荷車にも影響が出ますね」
ライルが隣から覗き込む。
少し遅れて執務室へ来た彼は、朝の公務を一つ終えてからこちらへ合流していた。濃紺の上着は普段の執務用で、昨日話題になった劇場デート用の服とはもちろん違う。
「時間帯によっては、北から入る荷が少し東へ回される可能性があります」
アマリリアは地図上の迂回路へ指を滑らせた。
「市場入口の混雑に影響する?」
「可能性はあります。ただし、まだ分かりません」
以前なら、ここで市場入口の待ち時間調査へ意識が飛んでいたかもしれない。
北門工事。
迂回。
荷車増加。
入口滞留。
考えれば、綺麗につながる。
けれど、それが実際に起こるかは分からない。
「工事期間は?」
ライルが確認する。
「六日間の予定です」
「短いな」
「はい。ですので、今すぐ市場側へ大きな確認をかけるほどではないと思います」
「じゃあ何もしない?」
「いいえ」
アマリリアは地図の余白へ小さく印を付けた。
「北門から市場へ荷を入れる管理側へ、修繕日程が共有されているかだけ確認しましょう。迂回路までこちらが指示する必要はございません」
「通知されてるかを見る?」
「はい。工事そのものは都市管理側の仕事ですし、市場側が現場で調整できるなら、それで十分です」
ライルが少し笑う。
「最近、『十分』ってよく言うようになったね」
「以前は足りないものばかり見ておりましたので」
「今も見てるだろ?」
「見てはおります。ただ、足りないものを全部今すぐ埋める必要はないと分かっただけです」
アマリリアはそう答えながら、少し自分でも不思議に思った。
以前なら「知らない」ことが残るだけで気持ちが落ち着かなかった。
今は、必要な範囲が分かれば止まれる。
それは、決して興味が薄れたわけではない。
むしろ、何に力を使うかを選べるようになったという方が近かった。
「市場入口の件は、工事終了後に大きな変化があったかだけ見てもよいですね」
「待ち時間を今すぐ測らない?」
「測りません」
「即答だ」
「殿下、最近私が止まるたびに楽しんでおりません?」
「少し」
「やはり」
ライルが笑う。
その横でゼインが静かに書類をまとめた。
「では、市場側への共有確認だけディーンへ回します」
「お願いします」
それで一件終わった。
工事から市場混雑へ話を広げようと思えば、いくらでも広げられた。
それをしないことで、必要な確認だけが残った。
◇◇◇
次に開いた地方救済制度の比較資料は、セレーネから渡されていたものだった。
災害や不作などで一時的に生活が困難になった者へ、各領地がどのような救済を設けているかをまとめた資料である。同じ王国内でも方法はかなり違い、現物支給を優先する地域、税猶予を重視する地域、共同倉庫からの貸与を行う地域など、土地柄によって制度の形が変わっていた。
「これ、面白いですね」
アマリリアが紙をめくる。
「倉庫より?」
「比べるものではございません」
「最近、仕事の種類まで嫉妬させるつもりはないよ」
「殿下が勝手に競わせているだけです」
ライルは笑いながら、自分の分の資料を開いた。
ある農村地域では、不作時に種籾を貸し出し、翌年の収穫後に同量を返す制度がある。
別の地域では、冬の燃料不足に備えて共同備蓄を行い、使用した世帯が翌春以降に少しずつ返す。
都市部では、現物より短期の税猶予や住居費支援が中心だった。
「同じ救済でも、全然違う」
ライルが言う。
「暮らしが違えば、困るところも違いますもの」
「全国で同じ制度にしたら?」
「運用しやすくはなるかもしれません。でも、雪の多い土地と温暖な土地へ同じ燃料備蓄制度を置く意味は薄いでしょう」
「じゃあ、王宮が共通で決めるのは?」
問われ、アマリリアは少し考えた。
「最低限の考え方でしょうか。どんな人を救済対象とするのか、領地が勝手に排除してはいけない条件、記録の残し方、濫用防止。その辺りは共通でもよい気がします」
「具体的な方法は現場」
「はい。ただし、それもまだ資料を読んだだけです」
以前より、最後の一言を自然に足せるようになった。
資料だけで制度を決めない。
数字だけで結論を出さない。
成功例をそのまま唯一の答えへしない。
同じことを別の題材でも繰り返すうちに、考え方そのものが少しずつ身体へ馴染んできている。
「それに」
アマリリアは一枚の記録へ目を止めた。
「同じ制度でも、申請できることを知らなければ使えませんね」
「また通知の話?」
「近いです」
ある領地では、税猶予制度の利用件数が極端に少ない。
理由は資料だけでは分からない。
本当に困っている人が少なかった可能性もある。
制度を知らなかった可能性もある。
申請が難しかった可能性もある。
「これも追う?」
ライルが尋ねる。
アマリリアは少しだけ迷った。
「今は追いません」
「なんで?」
「今日は、この制度を理解するために読んでおります。利用件数が少ない理由まで追うなら、それは別の調査になります」
「分けるんだ」
「はい。ただ、気になる点として印だけ残します」
小さな記号を余白へ書き込む。
それだけで終える。
ライルが横から覗いた。
「手帳じゃなくて資料に書くんだ」
「仕事中ですので」
「そこは使うんだ」
「手帳を捨てたわけではございません!」
思わず声が少し大きくなり、近くで控えていた侍女が口元を押さえた。
アマリリアはその反応に気づき、少しだけ頬を赤くした。
「……今のは忘れてくださいませ」
「承知いたしました」
侍女は丁寧に頭を下げたものの、笑みは消えていなかった。
◇◇◇
昼前になっても、第二共同倉庫から返答は届かなかった。
ディーンが小会議室へ入ってきた時、アマリリアは何も聞かなかった。
少なくとも、最初の数秒は。
「市場側への北門修繕共有は確認できました」
「早いですね」
「既に都市管理側から昨日通知されていました。市場管理者も迂回による一時的な荷車増加を想定して、入口誘導を一名増やす予定です」
「では、こちらから追加は不要ですね」
「はい」
ディーンが書類を一枚置いた。
それだけで話が終わりそうになったところで、アマリリアはほんの少し迷った。
「……第二共同倉庫は?」
聞いてしまった。
ライルがすぐ隣で笑う。
「聞いた」
「一度くらいよろしいでしょう!」
ディーンは表情を変えずに答えた。
「まだです」
「承知しました」
「本当にそれだけで?」
「何を期待しております?」
「いえ」
ディーンのわずかな間が気に入らない。
「何ですか、その顔は」
「通常です」
「絶対違います」
ゼインまで視線を逸らした。
「ゼインも笑いました?」
「笑っておりません」
「口元が!」
ライルがとうとう声を上げて笑った。
「でも、一回聞いただけだろ。前より全然いい」
「だから比較しないでくださいませ!」
少し騒がしくなったところで、昼食の時間を告げる鐘が遠くから聞こえた。
アマリリアは時計を見る。
まだ仕事は残っている。
だが、昼食を後回しにする理由はない。
「行きましょう」
先に立ち上がると、今度は誰も驚かなかった。
それが少し嬉しかった。
◇◇◇
昼食はセレーネも一緒だった。
王妃の予定が珍しく少し空いていたらしく、三人で小食堂を使うことになった。
温かな白身魚の香草焼きと、豆の入ったスープ、季節の果物が並ぶ。窓の外では雲が切れ始め、雨上がりの庭を使用人が歩いていた。
「本試験の返事は?」
セレーネが何気なく尋ねた。
「まだです」
アマリリアは魚を切り分けながら答えた。
「それで?」
「別の仕事をしております」
「そう」
セレーネはそれだけ言った。
「何かございません?」
「何が?」
「もっと驚くとか」
「もう驚かないわ」
アマリリアは少しだけ目を見開いた。
セレーネが穏やかに笑う。
「最近のあなたなら、返事が来るまで机の前で待ってはいないでしょう?」
「以前でも机の前で待つことはしません!」
「別の資料を十冊くらい集めて、返事が来る前に第二案と第三案を作るくらいね」
「……」
ライルが横を向いた。
笑っている。
「殿下」
「何も言ってない」
「顔です」
「それ、君も使うんだ」
アマリリアは少しむっとした。
「皆様が使うので覚えました」
セレーネが楽しそうにスープを口へ運んだ。
「今日は何を見ていたの?」
「地方救済制度の比較です」
「気になったことは?」
「たくさんあります」
「全部調べる?」
「調べません」
即答すると、セレーネは満足そうに頷いた。
「その答えが聞けただけで十分ね」
「ですが、一点だけ」
「ええ」
「利用件数が極端に少ない税猶予制度がありました。理由は分かりませんので、今日は印だけ残しました」
「それで良いでしょう」
「後で見なくても?」
「必要なら見る。別の資料と繋がった時に拾ってもいいし、今後別の問題として現れた時でもいい」
アマリリアは少し考えた。
「忘れたら?」
「忘れるものもあるでしょうね」
「それでよい?」
「全部覚えていなければ王妃になれないなら、私はとっくに失格よ」
その言い方があまりにも平然としていて、アマリリアは思わず笑った。
「王妃様でも忘れますの?」
「当然でしょう」
「母上、結構忘れるよ」
「ライル」
今度はセレーネが息子を見る。
「何?」
「余計なことを言わなくていいの」
「本当だろ?」
「本当でも言わなくていいことはあるのよ」
アマリリアは二人のやり取りを見て、また少し笑った。
完璧に覚える。
全部把握する。
全部管理する。
そんなことは、王妃でもしていない。
「何を覚えておくかも、選ぶのですね」
アマリリアが言うと、セレーネは少しだけ表情を柔らかくした。
「そうね。だからこそ、記録と人が必要なのよ。一人の頭だけで国を動かそうとしないために」
その言葉は、ハロルドがミハイルについて語ったことにも繋がる。
優秀な一人へ依存しない。
同時に、中央へ全部集めない。
人と記録。
役割。
任せる範囲。
最近考えていることが、少しずつ同じ場所へ集まり始めている気がした。
◇◇◇
食事を終えたあと、セレーネが果物を一切れ取りながら、何気なく尋ねた。
「劇場へ行くの?」
アマリリアの手が止まった。
ライルも止まる。
「なぜご存じなのです?」
「ライル」
セレーネが息子を見る。
「殿下!」
「まだ相談しただけだよ」
「昨日の夜?」
「うん」
「私が『まず王妃様を味方につけるのは卑怯では』と言いましたよね?」
「だから味方にはつけてない。ただ、今月末の喜劇って何だろうって聞いただけ」
「それを世間では情報収集と申します!」
「調査?」
「違います!」
自分で言ってから、昨日までの会話を思い出してしまう。
セレーネは笑いを堪えている。
「私は何も反対していないわよ」
「まだお父様がおります」
「そこが一番難しいのね」
「はい」
ライルが肩を落とす。
「俺が話す」
「お願いします」
「一緒にいてくれない?」
「嫌です」
「また即答」
「前回の市場デート準備で十分に巻き込まれました」
セレーネがとうとう笑い声を上げた。
「ハロルドも、もう一度くらいなら認めるでしょう」
「王妃様、それをお父様へ直接おっしゃってくださいませ」
「嫌よ。面白くなくなるもの」
「王妃様!」
控えていた侍女たちまで視線を逸らしている。
アマリリアは顔が熱くなったが、それでも心のどこかでは嬉しかった。
次のデートが「行くかどうか」ではなく「どこへ行くか」「父をどう説得するか」の話になっている。
ライルと二人で過ごす時間を望むことが、もう特別な決意ではなくなっていた。
◇◇◇
午後になっても、第二共同倉庫から返答はなかった。
しかし、その頃にはアマリリア自身もほとんど気にしていなかった。
北門修繕の共有確認は終わった。
地方救済制度の比較資料も予定範囲まで読めた。
その後は、王妃教育で使う文書の整理と、以前セレーネから出された宿題の一つである「王宮が確認すべきものと、領地へ任せるものをどう分けるか」という短い課題へ取り組んでいた。
「これ、今の倉庫試験と似てるね」
ライルが紙を見る。
「私もそう思いました」
アマリリアは自分が書いた内容を指でなぞった。
安全。
重大な権利制限。
予算超過。
制度目的変更。
この辺りは中央へ戻す。
日常配置。
軽微な手順変更。
地域事情に応じた案内方法。
この辺りは現場判断を広く認める。
「でも境目が難しい」
「はい。例えば『軽微な手順変更』が何を指すかで揉めます」
「書きすぎたらまた縛る」
「曖昧すぎると何でも現場判断になる」
二人で紙を見る。
答えは出ない。
それでも、今は気にならない。
「これも難しいですわね」
「今日何回目?」
「数えておりません!」
ライルが笑った。
「でも、悪くないね」
「何がです?」
「答えが出ないまま二人で考えてるの」
アマリリアは少しだけ目を細めた。
それは、第51話の頃にも似た話をした。
一緒に考えることが楽しい。
あの時より今は、その感覚がもっと自然になっている。
「はい。私も好きです」
そう答えると、ライルが一瞬黙った。
「……何です?」
「今の言い方、ちょっと嬉しかった」
「考えることが好きという意味です」
「分かってるけど」
「では、その顔をやめてくださいませ」
「無理」
アマリリアは少しだけ頬を熱くしながら、紙へ視線を戻した。
同じ机で、同じ問題を見ている。
答えがなくても、それだけで嫌ではない。
◇◇◇
第二共同倉庫から返事が届いたのは、日が傾き始めた頃だった。
ディーンが扉を開けた時、アマリリアはちょうど課題文書を閉じるところだった。
「倉庫から返答が来ました」
その言葉に、アマリリアはすぐ顔を上げた。
ただし、立ち上がって受け取りに行くほどではない。
「お願いします」
ディーンが紙を卓上へ置く。
「現場責任者は、王宮側の修正版を概ね問題なしとしています」
「概ね?」
ライルが聞いた。
「一つ、変更提案があります」
アマリリアは紙へ目を落とした。
返答は簡潔だった。
用途欄追加型と片側斜め型を東西区画で同時運用すること。
通常の荷流れを崩さず比較すること。
短い初期確認後に置き場表示を加えること。
この骨格には同意。
ただし。
「常勤作業員の配置入替を、事前に日程固定しない方がよい?」
アマリリアが読み上げる。
「はい」
ディーンが続けた。
「入荷量や欠勤状況によって、交代予定を守るために無理な配置換えが起きる可能性があるとのことです。両方式を経験できる常勤者が一定数確保できれば、入替日は責任者判断でよいのではないかと」
「なるほど」
昨日まで、自分たちは「いつ交代するか」をどこかで決めようとしていた。
現場からすれば、その日ごとの人員状況で変えた方がよい。
「人数の最低条件は?」
「両方式を経験する常勤者を最低六名程度確保できれば、比較意見は取れる見込みとのことです。ただし、この六名も絶対条件ではなく、勤務状況で五名になる可能性はあると」
「そこまで正直に書いてくださるのですね」
アマリリアは少し笑った。
「以前なら六名と聞いたら、絶対六名必要と思ったかもしれません」
「今回は?」
ライルが尋ねる。
「五名になったら五名で記録すればよいです。人数が少なすぎて判断材料にならないなら、その時に延長を考えます」
「本試験期間も伸びるかもしれない?」
「はい。最初から一か月ぴったりで終わる必要はないと思います」
ディーンが次の部分を示す。
「もう一点。短い初期確認は、三勤務日を目安としたいとのことです」
「三日?」
「暦日ではなく、倉庫が通常量を扱う勤務日三日です。大きな荷量減少日が入った場合は数えない」
「それなら意味が分かります」
アマリリアは頷いた。
ただ三日過ぎればよいのではなく、実際に荷を扱った日を三回見る。
「初期確認で止める条件は?」
ライルが聞いた。
「札が外れやすい、文字が見えない、誤った区画判断を明らかに誘発する、作業時間が大幅に延びる等。具体的な数値閾値は置かず、責任者が危険または継続困難と判断した場合に停止し、王宮へ連絡」
「数値を置かないの?」
ライルが少し眉を寄せる。
アマリリアも同じところが気になった。
「責任者判断だけで大丈夫でしょうか」
ディーンが補足する。
「現場側は、六日間予備試験で実際の負担感を把握したため、初期確認については『一件何秒以上』などを設定すると、逆にその数字へ引っ張られる可能性があると書いています」
「例えば四秒増えたら停止、三秒なら続行、のようになってしまう?」
「はい。しかし荷の種類や混雑で自然に数秒変わるため、閾値を置く意味が薄いとのことです」
アマリリアは少し考え込んだ。
数値がない。
それは以前なら不安だった。
判断する人によって変わるから。
ハロルドがミハイルについて警戒していたのも、まさにそこだった。
「属人性が気になります」
アマリリアは率直に言った。
「俺も」
ライルも頷く。
「責任者一人が『これは危ない』って決める?」
「現場案では、責任者単独ではなく、当日の監督者一名と作業班長一名の意見を確認して停止判断を行う、とあります」
ディーンが次の行を読む。
「停止しない場合でも、三勤務日終了時に三者で継続可否を確認する」
アマリリアの表情が少し和らいだ。
「一人ではないのですね」
「はい」
「それなら良いと思います」
ライルが紙を見る。
「決める人を増やせば絶対正しくなるわけじゃないけど、一人だけよりは見えるものが違う」
「ええ。それに、誰が判断へ参加するか最初から決まっております」
優秀な一人へ任せない。
だからといって、何でも王宮へ戻さない。
小さな試験の中でも、その間を探している。
◇◇◇
「では、本試験を開始します?」
ライルが尋ねた。
アマリリアは返答をもう一度読んだ。
これまで。
予備試験。
結果確認。
三つの質問。
現場返答。
本試験骨格。
現場から再修正。
少しずつ積み上げてきた。
安全上の問題はない。
予算も現範囲内。
責任者権限も整理できた。
配置を無理に固定しない。
初期確認も三勤務日。
停止判断も複数人。
「開始してよいと思います」
アマリリアは答えた。
言ったあと、すぐに一つ付け加える。
「ただし、開始日は現場へ任せましょう」
「四日後の予定は?」
「目安としては残して構いません。ですが、勤務表や荷量を見て責任者が一日二日ずらすことは認めたいです」
「王宮へ報告は?」
「開始日が決まった時に一報だけ。承認を待つ必要はございません」
ディーンが確認する。
「では、王宮側として本試験実施を了承し、具体的開始日は現場責任者判断。初期確認三勤務日終了後、簡易報告。安全・予算・試験目的に関わる変更時のみ即時連絡」
「はい」
「本試験全体の終了日は固定しない?」
「目安一か月でよいです。必要な勤務実績が取れなければ延長可能としてください」
ライルが少し笑った。
「最初よりずいぶん柔らかい試験になったね」
「柔らかいというより、現場の形へ近づいたのだと思います」
最初の案は整っていた。
一週目。
二週目。
三週目。
四週目。
今は、開始日も多少動く。
配置交代日も固定しない。
比較人数も絶対六名ではない。
期間も一か月ぴったりではない。
紙だけ見れば、前より曖昧だ。
しかし、誰が何を判断し、何を記録し、どこから王宮へ戻すかは、むしろ前より明確になっていた。
「決めるところと、任せるところが分かれたからですね」
アマリリアが言うと、ライルが頷いた。
「全部の日付を決めるより、そっちの方が分かりやすいかも」
「私もそう思います」
ディーンが書面をまとめる。
「本日中に実施了承を返せます」
アマリリアは窓の外を見た。
空は夕方の色へ変わり始めている。
「急ぎではございませんが、現場が明日の勤務調整へ使うかもしれません。通常の夕方便に載せてください」
「承知しました」
それで、本試験はようやく開始できるところまで来た。
達成感はある。
けれど、「解決した」という感じはしなかった。
むしろ、これから実際に使った時に何が出るか分からないという気持ちの方が強い。
その不確かさが、以前ほど怖くない。
◇◇◇
「アマリリア」
ディーンとゼインが書類を持って退出したあと、ライルが声をかけた。
「何です?」
「今日、返事を待ってる間どうだった?」
「どう、とは?」
「気になった?」
アマリリアは少し考えた。
「朝は気になりました」
「昼は?」
「一度聞きました」
「知ってる」
「笑わないでくださいませ」
「午後は?」
そこまで問われて、アマリリアは少し驚いた。
午後。
何度も倉庫のことを考えただろうか。
思い出した場面はあった。
だが、そのたびに仕事を中断したわけではない。
「ほとんど気にしておりませんでした」
「そうなんだ」
「別の仕事がございましたので」
少し言ってから、アマリリアは自分の言葉に引っかかった。
「……別の仕事があったから、だけではない気もします」
「何が違う?」
「返事が来るまで、私にできることがなかったからです」
以前なら、それを「何もしない時間」と感じたかもしれない。
今は違う。
相手が考える時間。
現場が勤務表を確認する時間。
責任者が作業員へ話を聞く時間。
その時間まで、自分が埋める必要はない。
「待つのも、仕事の一部なのかもしれません」
アマリリアが言うと、ライルは少しだけ考えた。
「何もしないのとは違う?」
「はい。必要な人へ渡したあと、その人が考える時間を奪わないことですから」
「なるほど」
ライルが微笑む。
「じゃあ、次のデートの返事も待てる?」
「何の返事です?」
「ハロルド伯爵」
アマリリアの表情が固まった。
「もう話したのです?」
「まだ」
「殿下!」
「だからこれから」
「今からですか?」
「仕事終わったし」
「私は行きませんよ」
「知ってる」
「本当に?」
「うん」
ライルはどこか覚悟を決めた顔をしている。
アマリリアは少しだけ同情した。
「……頑張ってくださいませ」
「それだけ?」
「何を求めております?」
「手を握ってくれるとか」
「お父様のところへ行く前に?」
「うん」
アマリリアは一瞬迷い、それから小さくため息をついた。
「仕方ありませんね」
そっと右手を差し出す。
ライルが嬉しそうに握った。
「市場の時より弱い」
「今日は調査を我慢するためではございませんので」
「もう少し」
「欲張りです!」
それでも離さなかった。
廊下の向こうを通った侍女が、二人を見て静かに頭を下げる。以前なら、その視線が少し恥ずかしかったかもしれない。
今も恥ずかしい。
でも、離したいとは思わなかった。
◇◇◇
その夜。
アマリリアは自室へ戻り、押し花にするために別へ移された一輪を見た。
侍女が薄い紙の間へ丁寧に挟み、重しを置いてくれている。小瓶には残りの花がまだ咲いており、昨日より少し元気を失ってはいるものの、黄色と白の色はきちんと残っていた。
「殿下は、お父様のところへ?」
侍女が尋ねる。
「はい」
「ご無事でしょうか」
「お父様を何だと思っておりますの?」
「お嬢様のお父様でございます」
「それはそうですけれど」
侍女は穏やかな顔をしているが、どこか楽しんでいる。
「皆様、私の家族で遊びすぎではありません?」
「そのようなことは」
「絶対ございます」
少し笑ってから、アマリリアは机へ座った。
今日の手帳は、昨日より書く量が少なくてもよい気がした。
『第二共同倉庫、本試験実施了承』
『開始日は現場責任者判断。目安日から一〜二日の調整可。初期確認は通常量を扱う三勤務日』
『停止判断は責任者一人ではなく、当日監督者・作業班長と確認。安全・予算・試験目的変更時は王宮へ戻す』
『配置交代日は固定しない。比較のために勤務を歪めない』
そこまで書いたところで、少しペンを止めた。
朝。
倉庫から返事はなかった。
それでも一日は進んだ。
北門修繕の共有を確認した。
地方救済制度を読んだ。
セレーネと話した。
ライルと課題を考えた。
そして夕方になって返事が届き、本試験を始めるところまで決められた。
返事が来るまでの時間は、空白ではなかった。
相手にも、自分にも、それぞれの時間があった。
アマリリアは最後に一つ書き加えた。
『待つことは、何もしないことではない』
以前なら、こういう言葉を書いたあと、理由を何行も足したかもしれない。
今日は、その一文だけで意味を思い出せる気がした。
ただし、それだけで手帳を閉じる前に、もう一つだけ別のことを書く。
『ライル様、劇場デート交渉へ』
書いた瞬間、自分で少し笑った。
仕事の記録と並べるものではない気もする。
けれど、今の自分にはどちらも大切だった。
倉庫の本試験は、これから始まる。
劇場デートは、ハロルドが認めれば実現する。
どちらもまだ結果は分からない。
だからといって、今夜のうちに答えを求める必要はなかった。
アマリリアは手帳を閉じ、押し花になり始めた一輪へ視線を向けた。
残すためには、すぐ答えを出すことだけが方法ではない。
時間を置くからこそ形になるものも、きっとあるのだろう。




