第62話 本試験の形を考え直したら、比べやすさより現場が続けられることを優先することになりました
第二共同倉庫から返ってきた三つの答えを整理するため、翌朝の小会議室には昨日までより一枚大きな紙が用意されていた。
窓の外には薄い雲が広がり、朝日は柔らかく王宮の中庭を照らしている。夜の間に少し雨が降ったらしく、開けられた窓から入ってくる風には湿った石と土の匂いが混じっていた。卓上には昨日届いた現場責任者の返答、六日間の予備試験結果、使用済みの試験札が並べられているが、アマリリアはまだどれにも手を伸ばしていなかった。
「今日は、本試験の形を整理するのですよね」
向かいに座ったディーンが確認すると、アマリリアは頷いた。
「はい。ただし、今日中に開始日まで決める必要はございません。昨日の返答を見て、こちらが最初に考えていた一週間ごとの切替案は、そのまま使わない方がよさそうですから」
隣ではライルが、現場から届いた返答をもう一度読み返している。
「毎週変えると、臨時の人へ説明する回数が増える。全員が同じ日に働き始めるわけじゃないから、王宮側が思っていた『一週目』『二週目』って区切りそのものが現場と合ってなかったんだよな」
「ええ。紙の上では綺麗でしたけれど」
「綺麗な案ほど危ない、になってきたね」
「毎回そうとは限りません」
アマリリアはすぐに訂正したものの、自分でも少し笑ってしまった。
「ですが、綺麗に分けられるから現実にも使いやすいとは限らない、というのは覚えておいた方がよさそうです」
ゼインは少し離れた席で使用済み荷札を並べていた。擦れた従来札、文字欄を追加した札、切り込みに結束紐の跡が食い込んだ札、片側の角を斜めに落とした札が机の上に揃うと、六日間の予備試験が数字だけではなく実際の作業だったことが改めて分かる。
「では、現場から出た東西区画の同時運用案を軸にしますか?」
ゼインが尋ねた。
アマリリアはすぐには頷かなかった。
「軸にはできます。ただ、そのまま決める前に、何を比べたいのかを一度整理しましょう」
ディーンが大きな紙の上部へ、簡潔に四つの項目を書いた。
誤配送。
ニアミス。
作業時間。
使いやすさ。
その横へライルが身を乗り出す。
「確認回数は?」
「それも見たいのですけれど、全件記録は負担が大きいと昨日返答がありました」
「繁忙時間だけ見る案だったね」
「はい」
アマリリアは少し考え、ディーンの紙へ指を向けた。
「確認回数は、独立した『勝敗』ではなく補助情報として扱いませんか。減ったこと自体が良いとは限らないと、予備試験でも分かりましたもの」
「聞かなくても分かるようになったのか、聞くべき時まで聞かなくなったのか区別できない」
ライルが言う。
「そうです。ですから、『確認が何回減ったか』だけを競わせるのはやめましょう」
ディーンが書き込みを修正する。
「では、目的は誤配送を減らしつつ、現場が無理なく続けられる表示方法を探す。ニアミス、作業時間、確認行動、使用感はその判断材料とする、でよろしいでしょうか」
「良いと思います」
アマリリアは頷いた。
「一番良い札を決めるための試験ではなく、その目的に近づける方法を探す試験です」
昨日まで何度も口にしてきたことだが、今回は少し意味が違っていた。
予備試験では「一番を無理に作らない」という話だった。本試験ではそこからさらに進み、何をもって良いとするか自体を、現場の負担まで含めて決め直さなければならない。
◇◇◇
「まず、用途欄追加型と片側斜め型を同時に使う案ですね」
ディーンが新しい紙を取り出した。
「現場責任者案では、倉庫東側二列を用途欄追加、西側二列を片側斜め型として、一定期間後に作業員配置を入れ替える想定です」
「荷の種類は?」
アマリリアが聞く。
「現時点では、農具向け鉄材と刃物加工向け鉄材を両区画に分散できるよう調整する予定とのことです。ただし、日によって到着量が違うため、完全に同じ件数にはなりません」
「そこは構いません」
ライルが少し意外そうにこちらを見る。
「いいの?」
「完全に同じ件数へ揃えるために、荷の流れをわざわざ変える方が不自然です。試験のために現場を作り替えてしまったら、普通に運用した時の負担が分からなくなります」
「でも、比較は少ししづらくなる」
「ええ。その場合は件数だけではなく割合も見ますし、数字が綺麗に並ばないなら、それもそのまま残せばよいと思います」
ライルは納得したように頷いた。
「最近の君ならそう言うと思った」
「以前の私なら?」
「東西の荷量を同じにする方法を三つくらい考えてそう」
アマリリアは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「……否定できません」
ゼインが無言のまま頷いている。
「ゼイン、その頷きは必要でした?」
「説得力を補いました」
「いりません」
小さな笑いが広がったあと、ディーンが話を戻す。
「作業員の配置入替はどうしますか。現場案では七日程度を目安にしていますが、毎週方式変更と同じ問題が起こる可能性があります」
「札を変えるのではなく、人を入れ替えるだけなら説明負担は少ないのでは?」
ライルが尋ねた。
「常勤はそうかもしれません。ただ、臨時の方が片方しか経験できないまま勤務期間を終える可能性があります」
アマリリアは少し考えた。
「全員が両方を経験する必要はございます?」
今度は三人が彼女を見る。
「比較試験なら必要だと思っておりましたけれど、現場全員へ完全な条件比較をさせること自体が目的ではありません。常勤の一部は両方を経験し、臨時の方は実際に働いた区画での感想を残していただく。それでも十分ではないでしょうか」
ディーンが資料へ目を落とした。
「全員を同一条件に揃えない?」
「はい。臨時作業員の勤務日に合わせて無理に配置を動かす方が、通常業務から離れてしまいます」
「でも、同じ人が両方使わないと『どっちが使いやすい』は言えないよね」
ライルが指摘する。
「それは常勤の交代者へ聞けます。臨時の方には、比較ではなく『困ったか』『分かりやすかったか』『何を見て判断したか』を聞けばよいと思います」
アマリリアはそこで一度言葉を止め、少しだけ眉を寄せた。
「……ただし、質問の仕方はこちらで決めすぎない方がよいですね」
「また現場に聞く?」
「今すぐ新しい質問状を送るほどではありません。聞き取り票を作る段階で、現場責任者に確認していただけば十分です」
ライルが少しだけ笑った。
「送らないんだ」
「昨日三つだけで十分だったでしょう?」
「学習が早い」
「殿下、楽しんでおりますね?」
「少し」
◇◇◇
本試験で最も悩んだのは、置き場表示をいつ加えるかだった。
現場責任者は、最初の二週間で札二案を比較し、その後に置き場側の表示を加える案を出している。しかし東西区画で二案を同時に使う方式へ変えるなら、期間の切り方も改めて考える必要がある。
「最初から置き場表示も付けた方が、現場には使いやすいかもしれない」
ライルが木札の簡易図を見ながら言う。
「そうでしょうね」
「でも、それだと札の効果が分からない」
「はい」
アマリリアは即答したものの、そのまま少し黙った。
これまでなら、「何が効いたか分からなくなるから、まず札だけ」と決めただろう。
しかし、本当にそれが必要なのか。
「殿下」
「何?」
「私たち、札単体の効果を知る必要があります?」
ライルが少し目を瞬く。
「試験だから知った方がいいんじゃない?」
「どの程度まで?」
問い返すと、今度はライルが考え込んだ。
「王国中で同じ札を使うなら、札そのものの効果を知りたい」
「はい」
「でも、今はまだ第二共同倉庫一か所だけで、全国導入を決める段階じゃない」
「そうです」
アマリリアは紙へ視線を落とした。
「現場からは、札だけ変えても置き場が分かりにくいという意見が七人から出ています。でしたら、札だけを長く試すことで、わざと不便な状態を続けることにならないか気になりました」
ディーンが静かに問い返す。
「では、最初から置き場表示を加えますか?」
「それも急ぎすぎる気がします」
アマリリアは苦笑した。
「難しいですわね」
「今日は二回目?」
ライルが数える。
「数えないでくださいませ」
少し考えた末、アマリリアは一つの案を口にした。
「短い初期確認だけ、札二案を単独で見ませんか。例えば三日程度。その後、重大な問題がなければ置き場表示を追加して、そこから通常運用に近い形で長めに見る」
「三日で札の効果が分かる?」
「分かりません」
はっきり答える。
「分からなくてよいのです。切り込み型の紐のように、使ってすぐ分かる重大な問題がないかを見るだけです」
ライルがゆっくり頷いた。
「本試験の中に、もう一回短い安全確認を入れる感じ?」
「はい。本格的な比較は、置き場表示を加えた後でよいと思います。目的が『札単体の勝者を決める』ではないなら、その方が現場にも自然です」
「三日という日数は確定ではないですね」
ディーンが念のため確認する。
「もちろんです。現場が二日で十分と言うかもしれませんし、四日必要かもしれません。そこは勤務予定もありますから、責任者側に決めていただいた方が良いです」
ゼインがそこで口を挟む。
「それなら、最初から『三日』と送らない方がよろしいでしょう」
「ええ。『短期間』だけで十分です」
アマリリアは一度息を吐いた。
また一つ、中央で決めなくてよい数字が減った。
◇◇◇
午前の後半になる頃には、本試験の骨格がかなり見えてきた。
ただし、完成ではない。
用途欄追加型と片側斜め型を東西区画で同時運用する。試験のために荷量や臨時作業員の勤務を無理に揃えず、通常の業務に近い流れを維持する。
最初に短期間だけ、札そのものに新しい重大な問題がないかを確認する。その後、問題がなければ柱へ吊るす木札や区画板など、置き場側の表示を加える。
常勤作業員の一部は期間中に区画を交代し、両方を経験する。臨時作業員は無理に両条件を経験させず、実際に担当した区画で「何を見て判断したか」「困ったことは何か」を聞く。
誤配送とニアミスはこれまで通り記録する。
作業時間は全件で取れる範囲を維持するが、他者確認回数は繁忙時間帯の限定観察へ変更する。
使用感は毎日聞かず、一定期間ごとの短い聞き取りとする。
アマリリアは大きな紙に並んだ内容を見て、少しだけ不思議な気持ちになった。
「最初の一か月案より、ずいぶん曖昧になりましたね」
「曖昧?」
ライルが聞く。
「何日目に何をして、何週目に何へ変える、と決めておりません。常勤と臨時でも取る情報が違いますし、全員が同じ条件を経験するわけでもありません」
「でも、こっちの方が現場には近い」
「はい」
その通りだった。
紙の上では、最初の案の方が整っていた。
一週目。
二週目。
三週目。
四週目。
誰が見ても進行が分かる。
しかし現場では、毎週全員が同じように勤務するわけでも、荷が均等に届くわけでもない。
「比較しやすさのために現場を試験へ合わせるのではなく、現場の動きの中で取れる範囲を比べる」
アマリリアが言うと、ディーンが頷いた。
「報告書は少しまとめにくくなりますが」
「そこは王宮側が苦労すればよいのでは?」
ゼインが淡々と言った。
アマリリアとライルが同時に彼を見る。
「随分はっきり言いましたね」
「現場の負担を減らすために比較条件を緩めるのであれば、その分の整理負担は試験を依頼した側が引き受けるのが自然です」
アマリリアは一瞬黙ったあと、笑った。
「その通りです」
「ディーンは大丈夫?」
ライルが心配そうに聞く。
ディーンは少しだけ目を細めた。
「今の時点で私へ聞くのですね」
「だって、まとめるの君だろ?」
「王宮側で引き受ける、とお嬢様が今おっしゃいましたが」
「私もやります!」
アマリリアが慌てて入る。
「全部ディーンへ押しつける意味ではございません!」
「承知しております」
「顔が少し不満そうです!」
「気のせいです」
「絶対違います!」
室内の空気が和らぎ、ゼインまでわずかに口元を緩めた。
◇◇◇
昼食前には、本試験案をそのまま正式決定するのではなく、まず現場責任者へ「この骨格で無理がないか」を返すことになった。
質問状ではない。
王宮側で決めた命令でもない。
双方で作ってきた案を一度まとめ、現場から見て不自然な点がないか確かめるための確認である。
「文面は長くしないでくださいませ」
アマリリアが言うと、ディーンが眉を上げた。
「私が?」
「はい」
「昨日、三つだけ質問を送った方から言われるとは思いませんでした」
「成長しておりますので」
「自分で言います?」
ライルが笑う。
「最近、誰も素直に褒めてくださらないので」
「昨日も褒めたよ」
「からかいが混ざっておりました」
「じゃあ今ちゃんと褒める。すごい」
「軽いです!」
ライルが声を立てて笑った。
「何文字くらいならいい?」
ディーンが現実的な確認をする。
「文字数ではなく、決めたことと現場に確認したいことを分けてください。『この通り実施してください』に見えないようにしたいです」
「例えば、『王宮側では以下の形が現実的ではないかと考えています。勤務・荷流れ・安全面で無理があれば修正してください』と?」
「はい。それで十分です」
「では、昼食後に整えます」
「急ぎませんので、夕刻便でも構いません」
アマリリアがそう言うと、ゼインが無言でこちらを見る。
「何です?」
「何も」
「今、以前なら昼食前に出そうとした、と思いましたね」
「否定はいたしません」
「やはり!」
◇◇◇
昼食はライルと一緒だった。
市場の小さな食堂ではなく、王宮の食堂で用意された温かな鶏肉と豆の煮込み、焼いた根菜、柔らかなパンである。昨日まで荷札について考え続けていたためか、アマリリアは一口食べたところで自分が思っていた以上に空腹だったことへ気づいた。
「美味しい?」
ライルが尋ねる。
「はい」
「仕入れ先は聞かない?」
「殿下」
「冗談」
「市場デート以来、随分その話を使いますわね」
「面白いから」
アマリリアは少しだけ睨んだものの、すぐに笑ってしまった。
「そういえば、劇場のこと」
ライルが声を少し落とした。
「仕事中ではありませんので、お話ししてよろしいですよ」
「ちゃんと覚えてた?」
「もちろんです」
「今月の終わり頃に、新しい喜劇が始まるらしい」
アマリリアの目が少しだけ明るくなる。
「喜劇ですか?」
「うん。王都の商家の息子が、身分を隠して貴族の家へ使用人として入る話らしい」
「なかなか危ない設定ですわね」
「そこ?」
「身分詐称が発覚した時の法的問題が」
言いかけて止まる。
ライルがもう笑っている。
「今のは調査?」
「劇の設定へ対する感想です!」
「ならいいんじゃない?」
「絶対にからかっております」
「少しだけ」
アマリリアはパンをちぎりながら、小さく息を吐いた。
「でも、喜劇は良いかもしれません。市場とは違って、座って一緒に見る時間になりますし」
「行きたい?」
「はい」
以前より、その返事に迷いがなくなっていた。
「では、お父様への交渉は殿下がしてくださいませ」
「俺?」
「前回もなさったでしょう?」
「君も一緒にいてよ」
「嫌です」
「即答」
「お父様と殿下が揉めるところへ挟まれたくありません」
「娘なのに?」
「娘だからです」
ライルは少し困った顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。
「じゃあ、まず母上に聞く?」
「王妃様を味方につけるのは卑怯では?」
「君がそれを言う?」
「何を意味しております?」
「最初に俺を脅して婚約者にした人が」
アマリリアの手が止まる。
「殿下」
「何?」
「食事中に昔の話を出すのは禁止にしません?」
「なんで?」
「私が不利だからです!」
近くで給仕をしていた侍女が、耐えきれずわずかに俯いた。肩が小さく揺れているのを見て、アマリリアはさらに恥ずかしくなる。
「聞こえておりますわよね?」
「申し訳ございません」
「謝らなくてよいですから忘れてくださいませ!」
ライルの笑い声が食堂に広がった。
◇◇◇
午後、ディーンが整えた本試験案の確認文書は、予定通り夕刻便へ載せることになった。
内容は簡潔だった。
王宮側では、用途欄追加型と片側斜め型を別区画で同時に扱う形を軸とする。
試験のために荷量や勤務を不自然に揃えない。
最初に短期間の問題確認を行い、その後、置き場側表示を加える。
常勤の一部は両区画を経験するが、臨時作業員へ無理な配置変更は求めない。
誤配送、ニアミス、作業時間は記録し、他者確認は繁忙時間帯の限定観察、使用感は一定期間ごとの短い聞き取りとする。
最後に一文だけ、「現場の勤務・荷流れ・安全面から無理がある場合は、実施前に修正案を返してほしい」と添えられていた。
「良いですね」
アマリリアは読み終え、文書をディーンへ戻した。
「これなら、こちらが決定したから従ってください、には見えないと思います」
「最終決定権は王宮側に残しますか?」
ディーンが確認する。
「予算や制度に関わる部分は必要です。ただ、日々の配置や説明方法まで王宮で決める必要はございません」
「現場責任者の権限範囲も、改めて書きます?」
「そこは書きましょう」
ライルが先に答えた。
「試験期間中の小さな調整まで毎回王宮へ確認させたら、また止まる」
アマリリアも頷く。
「はい。安全、予算超過、試験目的そのものを変える変更は事前確認。それ以外の配置や細かな運用調整は、責任者判断でよいと思います」
ディーンが追記する。
「ミハイルの話とも繋がるね」
ライルが言った。
「緊急時に誰がどこまで決めてよいか、って」
「規模は全く違いますけれど、考え方は似ておりますね」
アマリリアは少し考えた。
全部を中央へ戻せば遅くなる。
全部を現場へ任せれば、見えないところで判断が膨らむこともある。
ならば、何を任せ、何を戻すかを最初に決める。
「小さな試験でも練習になりますわね」
「何の?」
「私たちが、何を自分たちで決めないかを考える練習です」
ライルは少し目を丸くし、それからゆっくり笑った。
「それ、王になる時にも必要そう」
「殿下が王になるかはまだ決まっておりません」
「うん」
その返事は素直だった。
第一王子だから当然王になる、とは彼自身が決めつけていない。
それでも、もし将来国を動かす立場になったなら、全部を自分で決めないことも仕事になる。
「でも、どの立場でも必要だと思う」
ライルが続けた。
「俺が王にならなくても、君と何かを決める時には」
「はい」
アマリリアは自然に頷いた。
◇◇◇
夕刻便を見送ったあと、すぐに返事を待つ必要はなかった。
現場側も勤務表や荷の流れを見なければ答えられないはずであり、早くても翌日、場合によっては二日ほど掛かるだろうとディーンは見込んでいる。
「では、本試験は最短でもその後ですね」
「はい」
アマリリアは少し考えた。
「開始予定日を一度ずらす必要は?」
「元々四日後を想定していましたので、今のところ間に合います。ただ、返答次第では延期しても問題ありません」
「延期してよいです」
即答すると、ライルがこちらを見る。
「迷わないな」
「準備が足りない状態で予定だけ守る意味はありませんもの」
「前なら?」
「殿下、最近その比較が好きですね」
「変わったところが分かりやすいから」
「では、前なら……」
少しだけ考える。
「四日後に間に合わせる方法を考えたかもしれません」
「やっぱり」
「ですが、今は試験開始日を守ることが目的ではございません」
予定は便利だ。
目安にもなる。
しかし、決めた日付を守るために現場へ無理をさせれば、本末転倒になる。
「それ、通知の施行日とは違うよな」
ライルが言う。
「もちろんです。法や制度の施行日は勝手にずらせません。ただ、これは試験準備ですから」
「何でも柔らかくすればいいわけじゃない」
「はい。そこは混ぜないようにしたいです」
アマリリアは少し満足した。
同じ「日程」でも、守るべきものと調整してよいものがある。
◇◇◇
仕事を終え、自室へ戻った頃には外がすっかり暗くなっていた。
市場でライルからもらった花は、昨日より少し元気がなくなっている。侍女が水を替えてくれていたが、白い花の一つは花弁を閉じ始めていた。
「そろそろ押し花になさいます?」
侍女が尋ねる。
アマリリアは少し迷った。
「押し花にできますの?」
「はい。完全に萎れる前でしたら」
花は、ずっと同じ形では残らない。
そのことに少し寂しさを覚えた自分へ、アマリリアは内心で驚いた。市場で買った安価な花であり、王宮の庭にはもっと珍しく高価な花がいくらでも咲いている。
それでも、これはライルがデートの日に選んでくれた花だった。
「一輪だけ、お願いできます?」
「承知しました」
「残りは、もう少しこのままで」
侍女が微笑んで一礼する。
アマリリアは机へ向かい、手帳を開いた。
今日書くことは多いが、全部を細かく残す必要はない。
『本試験は、用途欄追加型と片側斜め型の同時運用を軸に再整理』
『試験のために荷量や臨時勤務を無理に揃えない。比較しやすさより、通常運用に近いことを優先』
『短い初期確認後、問題なければ置き場表示を追加。札単体の勝者を決めることは目的ではない』
『全員へ同じ条件を経験させない。常勤の一部で比較、臨時は実際に働いた条件で何を見て判断したかを確認』
そこまで書いたあと、少し手を止めた。
もう一つ、今日強く残ったことがある。
『安全・予算・試験目的を変える調整は王宮へ戻す。それ以外の細かな運用は現場責任者へ任せる』
アマリリアはその一文をしばらく見つめた。
何を決めるか。
そればかり考えてきた。
けれど、これからは何を自分で決めないかも考えなければならない。
全部を抱え込まないことと、責任を放り出すことは違う。任せる範囲と、戻してほしい範囲を最初に分けておけば、現場は動きやすくなり、王宮側も見るべきところへ集中できる。
ミハイルの過去を聞いた時、優秀な一人へ依存する危うさを知った。
今日の倉庫試験では、反対に中央へ全部戻すことの不便さが見えた。
どちらかへ寄せればよいわけではない。
アマリリアは少しだけ笑い、最後に書き加えた。
『全部決めないことも、決めることの一つ』
その言葉なら、明日になっても覚えていそうだった。
手帳を閉じたところで、視線が小瓶の花へ向かう。侍女が押し花にするため一輪だけ別へ移したので、少し寂しくなった瓶の中には、まだ黄色と白の小さな花が残っている。
明日、本試験案への返事が届くとは限らない。
届かなければ、別の仕事をすればよい。
色布付きの荷札もまだ調べず、ミハイルへもまだ連絡しない。制度通知の確認工程についても、次は実際の担当部署から話を聞く必要があるが、それも今日ではない。
未決定のものをいくつも残したまま、アマリリアは椅子から立ち上がった。
明日になれば、明日見えるものがある。
今夜はそれより、少し元気を失い始めた花をもう一度眺めてから眠ろうと思った。




