第70話 どの荷札を見るか聞いてみたら、同じ倉庫で働いていても確認する順番が全員違っていました
劇場デートの衣装を二人で選んだ翌朝、アマリリアが目を覚まして最初に思い浮かべたのは、灰青色のドレスだった。
自分では選ばなかったかもしれない色を、ライルが似合うと思って選んでくれた。衣装室の柔らかな午後の光の中で、彼が三着を真剣に見比べていた姿まで思い出すと、まだ袖を通してもいない服なのに少しだけ特別なものへ変わったように感じられる。
その次に思い浮かんだのが、濃茶の上着を見たライルの顔だった。
自分が選んだものを、彼も素直に喜んでくれた。
「……良い朝ですわね」
寝台から起き上がりながら呟くと、ちょうど朝の支度に入ってきた侍女が穏やかに微笑んだ。
「劇場のお衣装が楽しみでございますか?」
「なぜ分かりますの?」
「昨日お戻りになってから、灰青色のお話を三度ほどなさいましたので」
「三度も?」
「はい。腕飾りを合わせられることも含めますと、四度でございます」
アマリリアは少し黙った。
「……数えなくてもよろしいです」
「失礼いたしました」
侍女は丁寧に頭を下げたが、明らかに楽しんでいる。
以前なら、自分が同じ私的な話題を何度も口にしていたこと自体に驚いたかもしれない。
今は、少し恥ずかしいだけだった。
「今日は第二共同倉庫の続きがございますね」
「はい」
アマリリアは鏡の前へ座り、髪を整えられながら頷いた。
昨日から、遠くから探すための吊り札は文字量を減らし、近距離で確認する区画板には詳細を残すという調整が始まっている。
そして、次の定時聞き取りでは、常勤、経験の浅い作業員、臨時作業員から数名ずつ、「荷を運ぶ時に何を最初に見て、その次に何を見るか」を聞いてもらうことになっていた。
それが今日届くとは限らない。
急ぎでもない。
「報告がまだでも、聞きに行きませんよ」
アマリリアが先に言うと、侍女が少し目を丸くした。
「私は何も申し上げておりませんが」
「皆様が最近、私の行動を予測してからかうので、先に申し上げました」
「それでは、私も同じことをするとお考えになったのですね」
「……」
言われてみれば、自分も周囲を決めつけている。
アマリリアは鏡越しに侍女を見る。
「今のは私が悪かったですわ」
「お気になさらず」
「では、今朝の件は忘れてくださいませ」
「承知いたしました」
侍女の目元が少し緩んだ。
完全には忘れてくれなさそうだった。
◇◇◇
執務室へ入ると、ライルはまだ来ていなかった。
机の上には通常書類がいくつか積まれており、右端には第二共同倉庫のものらしい薄い紙が一枚だけ置かれている。
アマリリアはそれを見て、すぐには手を伸ばさなかった。
「短報ですか?」
ゼインに尋ねる。
「はい。昨日の表示変更後も停止要因なし、との連絡だけです」
「それなら、ライル様を待たなくてもよさそうですね」
紙を受け取って読む。
内容は本当に短かった。
吊り札の文字量を減らしたことで、遠目から区画名を見つける際の大きな問題は現時点でなし。区画板の詳細表示も継続。新しい安全上の問題なし。
「これだけですね」
「はい」
「では、次へ進みましょう」
アマリリアは紙を閉じ、別の書類を開いた。
ゼインが少しだけこちらを見る。
「何です?」
「いえ。随分早く手放されたので」
「短報を何度読んでも内容は増えません」
「その通りかと」
少しして、ライルが入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「倉庫、何か来た?」
「短報だけです。停止要因なし」
「もう見たんだ」
「殿下を待つほどの内容ではございませんでした」
「色布の時は待っててくれたのに」
わざと少し残念そうな顔をされる。
「それは、二人で見つけたものだったからです!」
「知ってる」
「なら、その顔をやめてくださいませ」
ライルが笑いながら隣へ座った。
「今日は何?」
「午前中は王都西側の共同炊事場に関する簡単な報告と、来週の内政文書局面談用の架空通知案を少しだけ整えます。倉庫の詳しい聞き取りが届けば、その後です」
「少しだけ?」
「少しだけです」
「昨日も言ってた」
「信用してくださいませ」
ライルは少し考えるような顔をした。
「努力する」
「そこは即答してください!」
◇◇◇
王都西側の共同炊事場についての報告は、制度を新しく作る話ではなく、冬に向けた燃料保管場所の確認だった。
共同炊事場では、各家庭が個別に火を起こすより少ない薪で調理できるため、冬季だけ利用者が増える。しかし昨年は燃料置き場へ雨が吹き込み、一部の薪が湿って使いづらくなったという。
「屋根を広げる案ですね」
ライルが図面を見ながら言う。
「はい。ただ、壁まで増やす案も出ています」
アマリリアは費用表へ目を落とした。
屋根の張り出しを増やすだけなら安い。
三方へ簡易壁を付けると、費用は倍近くになる。
「風向きは?」
「冬は西風が多いそうです」
ディーンが別紙を示した。
「昨年濡れたのも西側が中心です」
「では、三方全部を壁にする必要はございます?」
「西側だけ?」
ライルが尋ねる。
「まず西側を広めに塞ぐだけで足りる可能性があります。屋根の張り出しと西側壁だけなら、費用は中間程度です」
ゼインが図を見る。
「ただ、炊事場は火を扱います。囲いすぎると煙の抜け方も変わるかと」
「そこですね」
アマリリアはすぐに頷いた。
「雨を防ぐために壁を増やして、煙がこもったら本末転倒です」
ライルが少しだけ笑う。
「じゃあ、現地に聞く?」
「はい。ただし、『どの案が良いですか』ではなく、昨年どこから雨が入り、普段どちらから煙を逃がしているかを確認したいです」
「また困ったことを聞く」
「その方が早い気がしません?」
「する」
ディーンが書き留める。
「現場責任者と、実際に炊事を行う者の両方へ確認します」
「お願いします。建物を管理する方と使う方で見え方が違うかもしれません」
「急ぎは?」
「冬までまだ時間があります。ただ、工事をするなら早めの方が良いので、今週中くらいで十分です」
それで一件が終わる。
ライルが資料を閉じながら、小さく言った。
「最近、最初に答えを作らなくなったな」
「また以前との比較です?」
「だって分かりやすい」
「以前でも現地確認くらいはしました」
「確認する前に案を三つくらい作ってた」
「……」
アマリリアは言い返せなかった。
「今は一つだけ仮に考えて、必要なこと聞く」
「殿下、私の観察記録でもつけております?」
「つけてないよ」
「なら、なぜそんなに詳しいのです?」
ライルは少し笑って、何でもないことのように答えた。
「君をよく見てるから」
一瞬、室内が静かになった。
ディーンが紙へ視線を落とし、ゼインは別の箱を開けるふりをしている。
アマリリアの頬が少し熱くなる。
「……そういうことを、仕事中に自然に言わないでくださいませ」
「本当のことなのに」
「それが一番困ります!」
◇◇◇
午前の後半は、来週の内政文書局面談で使う架空通知案を整えた。
題材は予定通り、王都の共同水場の利用時間変更である。
冬季だけ朝の開場を半刻遅らせる。
理由は凍結防止の点検時間確保。
管理人は作業開始時刻を変える。
利用者は来場時間を変える。
水運搬業者は補充時刻を調整する可能性がある。
「もうこれだけで三種類ですね」
ライルが言う。
「はい」
「じゃあ、通知先も三つ?」
アマリリアはすぐには答えなかった。
「そこを面談相手に考えていただきたいです」
「答えを書かない?」
「はい。架空通知には、制度変更内容だけ書きます」
ディーンが確認する。
「現行の通知文に近い形式で?」
「その方が良いと思います。最初から『管理人・利用者・水運搬業者へ』と書いたら、誰が行動を変えるか考える意味がなくなります」
「なるほど」
ライルが紙を覗く。
「じゃあ、『この通知を受け取った側は何を変えると思うか』って聞く?」
「はい。その後で、『誰に届かなければ制度が動かないか』も聞いてみたいです」
「質問増えてる」
「関連しております!」
「二つになった」
「面談全体では三つの大枠に収まっております!」
アマリリアが少し強く言うと、ライルが笑った。
「分かった分かった」
ゼインが横から口を挟む。
「実際に面談が始まれば、お嬢様は追加で聞きたくなるでしょう」
「……それは否定しません」
「なら、面談時間だけ先に決めておくのも手かと」
アマリリアは少し考えた。
「時間で止める?」
「相手の負担という意味でも有効です」
ディーンも頷く。
「一刻以内であれば、通常業務への影響も抑えられます」
「では、一刻でお願いします」
アマリリアは素直に受け入れた。
質問数を絞るだけではなく、使う時間そのものも決めておく。
相手が答えてくれるからといって、いつまでも聞き続けてよいわけではない。
「面談が途中でも?」
ライルが尋ねる。
「大事な話の途中なら多少は延びるでしょうけれど、原則は一刻です。残ったことがあれば、また必要になった時に聞けばよいと思います」
「一回で全部取らない」
「はい」
口にしてみると、以前よりずっと自然だった。
◇◇◇
昼食を取っている最中に、ディーンから第二共同倉庫の定時聞き取りが届いたという連絡が来た。
使者が小食堂の外まで来たらしいが、緊急ではないと確認したディーンが、そのまま執務室へ置いておいたという。
「後で見ます」
アマリリアは一度だけそう答え、食事を続けた。
ライルがスプーンを止める。
「気にならない?」
「気になります」
「でも食べる?」
「食べます」
「強くなった」
「食事をするだけで褒めないでくださいませ」
「昔は食べながら書類開きそうだったから」
「そこまででは……」
言いかけて、過去の自分なら一枚くらい横へ置いたかもしれないと思い直す。
「……可能性は否定しません」
「正直」
今日の昼食は、柔らかく煮込んだ羊肉と根菜、酸味のある果実を添えたパンだった。
窓の外では秋風が庭木を揺らし、黄色く変わり始めた葉が数枚、石畳へ落ちている。倉庫の資料はすぐ近くにあるのに、こうして温かい食事を取っている時間まで急ぐ必要はない。
「劇場の衣装、仕上がりいつ?」
ライルが話題を変えた。
「数日後に最終確認だそうです」
「早く見たい」
「自分で選んだでしょう?」
「着たところが見たい」
アマリリアの手が止まる。
「殿下」
「何?」
「最近、本当に遠慮がなくなりましたね」
「婚約者だから」
「便利な言葉です」
「君も使っていいよ」
「何にです?」
「俺に何か言いたい時」
アマリリアは少し考えた。
「では、殿下が濃茶を着たところも早く見たいです。婚約者ですので」
今度はライルの方が黙った。
「……効くね、それ」
「殿下が教えました」
少しだけ得意になった。
二人で笑う。
倉庫の報告は、食後でも逃げなかった。
◇◇◇
小会議室へ戻り、届いていた資料を開く。
今回の聞き取り対象は十二名。
常勤六名。
勤務一年未満三名。
臨時三名。
毎回同じ人へ固定せず、普段担当する区画や勤務時間が偏らないよう現場責任者が選んだという。
「質問は?」
アマリリアが確認する。
「一つです」
ディーンが答える。
「『荷を一つ受け取ってから置き終えるまで、何をどの順番で見ていますか』」
「良いですね」
こちらから「荷札、吊り札、区画板の順ですか」と候補を出していない。
自由に説明してもらう。
「答えがかなりばらつきました」
「どの程度?」
十二人の回答が簡潔に整理されている。
最初に荷札の文字を読む者。
まず荷札の形を見る者。
荷を受け取った時点で周囲の常勤作業員から行き先を聞く者。
遠くの吊り札を探して方向を決めてから、途中で荷札を見る者。
荷札を確認し、行き先を頭に入れたうえで吊り札を一度見るだけの者。
近くまで行って初めて区画板を見る者。
常勤者の中には、吊り札をほとんど意識せず、床や柱の位置関係だけで歩いている者までいた。
「……全然同じではございませんね」
アマリリアは思わず呟いた。
「同じ倉庫なのに」
ライルも驚いたように回答を見る。
「経験年数ごとに分かれる?」
「ある程度傾向はありますが、完全ではありません」
ディーンが補足する。
常勤六名のうち四名は、最初に文字札で用途を確認し、その後はほぼ場所の記憶で移動する。二名は荷札を見た後、吊り札も必ず一度確認。
勤務一年未満の三名は、三名とも吊り札を比較的よく使うが、その順番が違う。
一人は荷札の文字から。
一人は片側斜め型なら形を先に見てから文字。
一人は荷を受け取った直後、まず遠くの吊り札を探して方向を決めてから荷札を読む。
臨時三名はさらに違った。
一人は周囲の人へ最初に確認する。
一人は荷札を読む。
一人は吊り札を探す。
「常勤でも二人は吊り札を見る」
ライルが言う。
「経験が長い人は全部場所を覚えている、と単純には言えませんね」
アマリリアは頷いた。
予備試験では、長期常勤は用途欄追加型を好み、経験の浅い作業員は形状型を好む傾向があった。
それ自体は事実だ。
でも、同じ「常勤」「経験浅い」「臨時」という中でも、実際の判断順序はさらに違う。
「区分は便利ですが、区分の中まで全員同じではない」
「また平均で消えるやつ?」
「はい」
アマリリアは少し笑った。
「ただ、だから区分が無意味というわけでもありません。傾向を見るには役立ちます」
「でも個人の使い方までは分からない」
「そうです」
ディーンが一枚目の下部を指した。
「現場責任者が、特に気になった回答を三つ抜いています」
一人目。
十年以上勤務する常勤作業員。
『荷札で用途を確認したら、あとはほとんど柱を見る。吊り札は新しく付いたので目には入るが、使っている感覚はあまりない』
二人目。
勤務八か月。
『片側斜めなら先に形を見る。違う形なら読む前に持ち間違いを疑う。その後文字を読む。歩き始めたら吊り札を見る。区画へ着いたら区画板を見る』
三人目。
今回が二度目の臨時勤務。
『最初に吊り札を探す。行く方角が分かってから荷札を読む。文字を先に読んでも、倉庫内のどちらへ行くかまだ頭に入っていないから』
アマリリアは三人目をもう一度読んだ。
「この方、吊り札が先なのですね」
「はい」
「文字を読んでも場所と結びつかないから?」
ライルが尋ねる。
「そのようです」
常勤なら、用途名を見れば場所が浮かぶ。
しかし、慣れていない人には用途名と倉庫内の位置がまだ直接つながっていない。
だから、先に遠くの目印を探す。
「表示の役割が、人によって違う……」
アマリリアは少し考え込んだ。
吊り札は遠くから探すため。
区画板は近くで確認するため。
そう役割を整理したばかりだった。
けれど、それすら使う側によって順番が変わる。
「役割を分けたのは間違い?」
ライルが尋ねる。
「いいえ」
アマリリアは首を横へ振った。
「表示側の役割と、人が使う順番は別なのだと思います」
「どういうこと?」
「吊り札は遠くから見つけやすく作る。区画板は近くで詳しく読めるよう作る。それは表示の作り方です。でも、どちらを先に見るかまで人へ強制する必要はないのかもしれません」
「好きな順で使える?」
「はい。最後に必要な確認へ辿り着けるなら」
そこまで言ったところで、アマリリアは少し止まる。
「ただし」
ライルが笑う。
「来た」
「何です?」
「君の『ただし』」
「大事です!」
少し睨んでから続ける。
「臨時作業員の一人が吊り札を先に見るように、分かりやすい目印だけで最後まで判断してしまう危険は残ります。ですから、自由な順番で見ても、最終的にどこで内容確認するかは分かるようにした方がよいです」
「ベルク運送組の『色は探すため、最後は文字』と同じ?」
「考え方は近いです。ただ、同じ文言をそのまま使う必要はありません」
ゼインが静かに資料を読みながら言う。
「現場へ『この順序で見ろ』と教えるより、『最後に何を確認する必要があるか』だけ共通にする方が、実務には合うかもしれません」
「それです」
アマリリアは顔を上げた。
「順番ではなく、外してはいけない確認点を決める」
「例えば?」
ライルが尋ねる。
「荷を受け取った段階で用途または行き先を確認する。置く直前に、その区画が合っているか確認する。その二点だけ共通にして、途中で形を見るか吊り札を見るかは本人に任せる、など」
「それなら常勤も臨時も同じ手順を全部覚えなくていい」
「はい」
ただし、それもまだ案だった。
アマリリアは自分から口を閉じた。
「……今日は決めません」
ライルが少し笑う。
「自分で止めた」
「現場が今どう教えているのか、先に知りたいです」
「そこ聞いてないもんな」
「はい。こちらが新しい確認方法を考える前に、現在の新人説明や臨時作業員への説明がどうなっているかを見るべきです」
ディーンが頷く。
「次の定時報告時に確認しますか?」
「それで十分です。今すぐ問い合わせなくて構いません」
アマリリアは十二人の回答へもう一度目を落とした。
同じ場所。
同じ仕事。
同じ荷札。
それでも、人によって見ている順番が違う。
それは、混乱というより人の違いなのかもしれない。
◇◇◇
聞き取りには、もう一つ興味深い内容があった。
「常勤作業員の一人が、吊り札をほとんど使わないと言ったのですよね」
アマリリアが確認すると、ディーンは頷いた。
「はい。ただ、その人物は今回の表示変更について『臨時の人に場所を教える時は楽になった』と別欄で答えています」
「自分は使わないのに?」
ライルが不思議そうにする。
「自分が見るためではなく、人へ教える時に使っているのですね」
アマリリアは少し目を細めた。
たとえば以前なら。
「あの柱の奥を右へ曲がって、鉄材束の横」
そんな説明をしていたのかもしれない。
今は。
「あの吊り札の区画」
と示せる。
「表示を使うのは、荷を運ぶ人だけではない?」
ライルが言う。
「そういうことになります」
現場責任者の注記では、常勤者二名から同様の意見が出ていた。
自分の移動にはそれほど必要ではない。
けれど、新人や臨時作業員へ場所を説明する時に共通の目印ができた。
「これ、今まで測っていませんね」
アマリリアが言う。
「教えやすさ?」
「はい」
「測る?」
ライルが尋ねる。
アマリリアは反射的に「測りたい」と思った。
説明時間。
聞き返し回数。
新人教育に掛かる時間。
いくつか数字へできそうなものが浮かぶ。
しかし、それを今の本試験へ追加すれば、また記録項目が増える。
「……今は、無理に数字へしません」
「でも残す?」
「はい。聞き取りの中で自然に出た意見として残します」
「もし同じ声が増えたら?」
「その時に、次の試験や別の倉庫で見る価値があるか考えます」
ゼインがわずかに頷いた。
「お嬢様が『測れるものを測らない』と言うようになるとは」
「ゼイン」
「成長を感じております」
「絶対に半分からかっておりますよね?」
「少し」
「皆様、本当に『少し』を使いすぎです!」
室内に小さな笑いが広がった。
◇◇◇
午後、セレーネへ本試験の聞き取り結果を簡単に報告すると、王妃は十二人の順序の違いへ特に興味を示した。
「全員違った?」
「完全に十二通りではございませんが、思った以上にばらつきました」
「では、正しい順番を決めるの?」
「今はその必要を感じておりません」
アマリリアは答えた。
「確認してほしい点が同じなら、途中の見方は本人が使いやすい順でもよいのではないかと思っています」
「それで間違えないならね」
「はい。そこは本試験結果を見ます」
セレーネは少し考えた。
「制度も似ているかもしれないわね」
「何がです?」
「同じ通知を受け取っても、最初に見るところが人によって違うでしょう」
アマリリアは少し目を見開いた。
「日付を見る人、変更内容を見る人、自分が対象かを見る人……」
ライルが横から続ける。
「連絡先だけ先に見る人もいるかも」
「そうね」
セレーネは机上の一枚の正式文書を持ち上げた。
「文書を作る側は、上から順に読んでもらうつもりで書きがちだけれど、受け取る側までその順に読むとは限らない」
アマリリアは来週の面談用に作っている架空通知を思い出した。
「では、文書も『この順番で読んでください』ではなく、必要な情報を見つけやすくする方がよい場合がある?」
「かもしれないわね」
セレーネはすぐに結論にはしなかった。
「ただ、正式文書には法的に必要な順序もあるでしょうから、実務担当者へ聞いてみなさい」
「はい」
アマリリアは頷いた。
倉庫で作業員が何を見るかを聞いただけなのに、通知文書にも似た問いが見えてくる。
しかし、今ここで一つの原則へまとめる必要はない。
「面談で質問を増やしたくなりました?」
セレーネが楽しそうに尋ねる。
「……少し」
「増やす?」
「いいえ」
アマリリアは笑った。
「架空通知を見ていただく時に、自然に分かるかもしれません」
「良い判断ね」
「ありがとうございます」
「素直ね」
「そこまでで止めてくださいませ」
セレーネが笑った。
◇◇◇
王妃への報告を終えたあと、アマリリアとライルは中庭を通って執務室へ戻った。
秋の日差しは夏より柔らかく、石畳の脇へ落ちた葉が風に転がっている。庭師が遠くで枝を整え、噴水の水音が静かな午後の空気に混じっていた。
「昨日、服選ぶの楽しかった?」
ライルが尋ねる。
「急に何です?」
「聞きたくなった」
「楽しかったです」
「一番何が?」
「また一番を決めさせます?」
「仕事じゃないからいいだろ」
アマリリアは少し考える。
灰青色を選んでもらったこと。
濃茶を選んだこと。
腕飾りを合わせると決めたこと。
父が反対しなかったこと。
「決められません」
「そっか」
「でも」
アマリリアは少しだけ歩調を緩めた。
「殿下が私の服を真剣に選んでくださったのは、とても嬉しかったです」
ライルの表情が柔らかくなる。
「俺も、君が俺の服をすぐ選んでくれたの嬉しかった」
「本当に見た瞬間に似合うと思いましたので」
「劇場の日、ちゃんと見てね」
「何をです?」
「いつもと違う俺」
アマリリアは一瞬だけ黙り、それから笑った。
「もちろんです」
「俺も見る」
「私を?」
「うん。大人っぽい君」
また頬が熱くなる。
「殿下」
「何?」
「劇場の日まで毎回それを言うつもりです?」
「だめ?」
「……一日一回までです」
言った瞬間、ライルが吹き出した。
「禁止じゃないんだ」
「完全禁止にしたら、殿下が不満そうですので」
「じゃあ今日の一回使った?」
「使いました!」
「残念」
二人で笑いながら歩く。
少し離れた場所で庭の手入れをしていた使用人が、気づかれないように視線を逸らした。
アマリリアはそれに気づいたが、以前ほど恥ずかしくはなかった。
◇◇◇
夕方、小会議室へ戻ると、第二共同倉庫からもう一通だけ短い追加報告が届いていた。
今日の表示簡略化後、吊り札そのものに重大な問題はなし。
ただし、作業班長から「文字量を減らしたことで遠くからは見やすくなったが、臨時作業員一名が吊り札に用途名まであると思い込み、近くへ来てから区画板を探すのに一瞬迷った」と記録があった。
「表示を簡単にしたら、今度は期待していた情報がない?」
ライルが苦笑する。
「そうなりますね」
アマリリアは報告を読んだ。
「でも、これは変更直後だからかもしれません」
「慣れれば消える?」
「可能性はあります。ただ、吊り札が何のための表示なのか、作業員側の認識が揃っていない可能性もあります」
ここで、午前の聞き取り結果がつながる。
誰が何をどの順番で見るか。
それだけでなく、「その表示には何が書いてあるはずだと思っているか」まで違うのかもしれない。
「説明方法、やっぱり見た方がよさそう」
ライルが言う。
「はい。次の定時報告で、現在どのように新人や臨時の方へ説明しているかを確認しましょう」
「今日聞かない?」
「急ぎではございません」
アマリリアは報告を閉じた。
「一人が一瞬迷っただけで、作業停止や誤配送は起きていません。明日すぐ質問を追加するほどではないです」
「じゃあ残すだけ」
「はい」
ディーンが記録欄へ追記する。
同じ問題が続くのか。
別の人からも似た声が出るのか。
次の定時報告まで待っても遅くはない。
それで今日の倉庫仕事は終わった。
◇◇◇
夜、自室へ戻ったアマリリアは、手帳に挟んだ押し花を一度だけ確認した。
象牙色へ変わった小さな花は、保護紙の中できれいに形を残している。市場デートの日には生きた花だったものが、今は別の形で残っていることを少し不思議に思いながら、慎重に頁を閉じた。
今日の記録を書く。
『本試験聞き取り十二名。荷を受け取ってから置くまでに見る順番は、想定以上にばらつく』
『常勤でも吊り札を見る者・見ない者がいる。経験浅い者でも荷札先・吊り札先が分かれる。臨時も同じではない』
『表示側の役割と、人が使う順番は別』
『順番を一つへ揃えるより、外してはいけない確認点を考える方がよい可能性。ただし現在の教育方法を先に確認』
次に、少し考えてから追加する。
『自分では吊り札を使わない常勤者でも、新人へ場所を教える時には使いやすいとの意見』
『表示は、自分が見るためだけでなく、人へ伝えるためにも使われる』
これは今日の中で特に印象に残った。
一つの道具でも、人によって役割が違う。
そして、同じ人でも、自分で使う時と誰かへ説明する時で使い方が違う。
制度文書もそうなのかもしれない。
受け取る人。
伝える人。
使う人。
それぞれが同じ場所を見ているとは限らない。
ただし、その話は来週の面談で確かめればよい。
今夜のうちに答えへする必要はない。
仕事の記録を終えたあと、アマリリアは少しだけ頁を下へずらした。
『ライル様、「劇場の日、いつもと違う俺をちゃんと見て」と言う』
書いたところで手が止まる。
少し恥ずかしい。
けれど消さなかった。
『私は一日一回までと言った』
そこまで書くと、自分で笑ってしまった。
明日から本当に数えてくるかもしれない。
ライルならやりそうだった。
制度のことも。
倉庫のことも。
これから何度も考える。
しかし、自分の暮らしには、それ以外のものも同じくらい増えている。
劇場の服。
押し花。
古い街道記録。
手をつないで歩く庭。
どうでもよいことで笑う時間。
それらは国を良くする数字にはならない。
誰かへ提出する報告にもならない。
それでも、自分にとっては残しておきたい。
アマリリアは手帳を閉じ、灯りの下で自分の手首を見た。
葉模様の腕飾りは、今日もそこにある。
同じ倉庫で同じ仕事をしていても、見る順番は人によって違った。
それなら、同じ一日を過ごしていても、何を大切に覚えるかが人によって違うのも当然なのだろう。
今のアマリリアは、今日という一日の中から、十二人の作業員が見ていたものと同じくらい、ライルが自分へ向けた顔も覚えていたいと思っている。
どちらか一方だけを選ばなくてよいことが、以前よりずっと嬉しかった。




