第60話 六日間の予備試験をまとめたら、一番良い荷札を決めるより誰に何が合うのかを見る方が大切でした
第二共同倉庫の予備試験結果が届いた翌朝、アマリリアはいつもの小会議室へ向かう廊下を歩きながら、普段より少しだけ足が速くなっていることに気づいた。昨日の時点では「詳細は明日でよい」と自分で決め、安全上の問題も試験中止の報告もない以上、わざわざ途中経過へ意味を持たせる必要はないと判断した。それでも、六日間の予備試験が終わり、実際の集計がまとまったと聞けば、何が分かったのか知りたい気持ちまで消えるわけではない。
廊下の窓から差し込む朝日はまだ低く、磨かれた床へ細長い光を落としていた。遠くでは使用人たちが行き交う足音が重なり、開けられた中庭側の窓からは、庭師が道具を運ぶ小さな金属音と湿った土の匂いが届いてくる。いつもと変わらない王宮の朝なのに、今日は扉の向こうに待っている数字のせいで、アマリリアには少しだけ空気まで違って感じられた。
ただし、今日は「一番良い札」を探すために資料を見るのではない。
昨日、現場責任者から「評価が分かれた場合でも一番を決めるべきか」と尋ねられた時、アマリリア自身が「無理に一つへまとめなくてよい」と返している。自分でそう言った以上、数字を見た瞬間に順位をつけたくなる癖へ戻らないよう、そこだけは意識しておきたかった。
扉を開けると、ライルはすでに窓際の席へ座っていた。卓上には昨日まで封をされたままだった中間連絡ではなく、新しくまとめられた資料束が置かれ、その横には四枚の荷札らしいものまで並べられている。
「おはよう」
「おはようございます」
アマリリアは挨拶を返しながら、どうしても資料へ視線が向いてしまう。ライルはそれに気づいたらしく、少しだけ口元を緩めた。
「もうご覧になりました?」
「表紙だけ。中はまだ」
「本当に?」
「本当に」
念を押すと、ライルは少しだけ困ったように笑った。
「昨日も待っただろ?」
「そうでしたね」
「一緒に見るものだと思ってるから」
何でもないことのように言われたのに、胸の内側が少し温かくなる。アマリリアは素直に「ありがとうございます」と返し、向かいではなく自然に彼の隣へ座った。
その時、ライルの視線がアマリリアの手首へ落ちた。昨日と同じ葉の腕飾りが、今日も袖口から少しだけ覗いている。
「今日もつけてる」
「気に入っておりますので」
「嬉しい」
あまりにも素直な返事だったため、アマリリアは少しだけ視線を逸らした。
「殿下も、栞は使われました?」
「昨日の夜に使ったよ」
「どの本に?」
「昔の航路記録をまとめた本」
アマリリアは少しだけ眉を寄せる。
「それは仕事ではございません?」
「半分は趣味。昔の航路図を見るの、好きなんだよ」
「初めて聞きました」
「言ったことなかったから」
正式な婚約者になってかなり時間が経ったというのに、自分はまだライルの知らないことをいくつも持っているらしい。仕事や王族としての役割だけではなく、何となく好きで眺めるものまで知ることができたのが嬉しくて、アマリリアは少しだけ笑った。
「今度、見せてくださいませ」
「いいよ」
「ただし、今日は倉庫です」
「分かってる」
二人で少し笑ったところで、扉が軽く叩かれた。
◇◇◇
入ってきたディーンは追加の集計表を数枚抱えており、その後ろに続くゼインは、小さな木箱を持っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。ゼイン、その箱は?」
「予備試験終了後に返却された試作品です。使用中に傷んだものも、現場判断でそのまま残してあります」
アマリリアの目がすぐに箱へ向いた。
「新品ではなく、使ったものを?」
「はい。綺麗な状態だけ見ても分からないことがあるとのことです」
「それはありがたいですね」
思わず声が弾んだらしく、ゼインがアマリリアの顔を静かに見た。
「何です?」
「かなり嬉しそうです」
「仕事ですので」
「昨日まで市場デートを楽しんでおられた方とは思えない切り替えですね」
「ゼイン」
「褒めております」
「その言葉を便利に使いすぎです」
横でライルが笑った。
「でも、本当に分かりやすいよ」
「殿下まで加わらないでくださいませ」
朝の少し張っていた空気が、そのやり取りで柔らかくなる。ディーンも口元をほんのわずかに緩めたあと、資料の一枚目を卓上へ置いた。
「では、六日間の予備試験結果を共有します」
アマリリアは姿勢を正したものの、ペンへすぐ手を伸ばすことはしなかった。まず話を聞き、数字の意味を確かめてから記録すればよい。
◇◇◇
予備試験で比較された条件は、最終的に四種類になっていた。
従来どおりの長方形札、アマリリアが当初提案した用途欄追加型、上部中央へ切り込みを入れた形状札、そして片側上部を斜めに落とした形状札である。当初は現行札を含め三条件で進める想定だったものの、現場側で二種類の形状案を簡易確認した結果、どちらか一方を予備試験前に落とすほど明確な差がなかったため、両方を残したという。
「そこは、現場側で増やしたのですね」
アマリリアが確認すると、ディーンが頷いた。
「はい。突出する形状案は引っ掛かりが多く事前に除外しましたが、切り込み型と片側斜め型については、試験目的を変えない範囲の調整として責任者が判断しています」
「王宮へ一度戻さずに?」
ライルが尋ねる。
「予備試験そのものが、現場で扱える案を絞る目的でしたので、責任者権限の範囲と判断したそうです」
アマリリアは少し考え、それから頷いた。
「問題ないと思います。形そのものまでこちらが一つに決めてしまえば、何のために現場で予備試験をお願いしたのか分からなくなりますもの」
「承知しました」
ディーンがその点を記録したあと、最初の集計表を開いた。
六日間で扱った対象荷は、農具向け鉄材、刃物加工向け鉄材、外装がよく似た補助金具類の三系統。総取扱件数は六百八十二件に達しており、比較的落ち着いた日だけではなく、意図的に繁忙日も二日含まれていた。
「思っていたより多いですわね」
「現場側も、試験のために荷量を調整しない方針でしたので、通常の流れをそのまま使っています」
「正式な誤配送は?」
アマリリアの問いに、ディーンは表の中央を指した。
「六日間ではゼロです。四条件すべてで、誤った区画へ置かれたまま処理が確定した事例はありませんでした」
ゼロ。
その数字を見た瞬間、アマリリアの中に一瞬だけ「成功」という言葉が浮かんだ。だが、口に出す前に、セレーネから問われたことを思い出す。
「元々、六日間で何件くらい起きるものなのです?」
すぐに尋ねると、ディーンが別紙を差し出した。
「過去三か月の同程度の荷量では、正式な誤配送記録は月平均二件弱です」
「一月で二件弱なら、六日間でゼロでも不自然ではございませんね」
「はい。ゼロという事実は残せますが、それだけで改善効果があったとは判断できません」
ライルが資料を覗き込みながら、少し笑った。
「母上に聞かれたやつ、そのままだな」
「ええ。ゼロだから成功、とは言えません」
アマリリアは自分でも少し嬉しかった。
数字が良く見えた時ほど、前提を確かめる。
以前より自然にできるようになっている。
「では、ニアミスは?」
今度はライルが尋ねた。
「こちらです」
次の表には、別区画へ向かいかけた、誤った棚へ置こうとした、他者の指摘で止まった、といった事例が条件ごとに整理されていた。
単純な件数では、従来札が九件、用途欄追加が六件、切り込み型が五件、片側斜め型が四件となっている。
「数字だけ見れば、形状札の方が少ないですね」
アマリリアはそう言いながら、すぐに取扱件数の列へ視線を移した。
「ただ、各条件の取扱件数は完全には同じではございません」
「割合にすると、従来札が約五・三パーセント、用途欄追加が約三・五、切り込み型が約二・九、片側斜め型が約二・四です」
「差はありますね」
「あります。ただし、ニアミス自体が作業員の自己申告と監督者の観察に依存しているため、全部拾えている保証はありません」
ゼインも資料を見ながら口を挟む。
「加えて、試験をしていると知っていることで、通常より慎重になった可能性もあります」
「そこもありますね」
アマリリアは数字を見つめた。
傾向はある。
けれど、まだ「片側斜め型が一番」と言えるほどではない。
むしろ、その断定を急がないための予備試験だった。
◇◇◇
「作業時間はいかがです?」
アマリリアが次を促すと、ディーンが平均処理時間をまとめた表を開いた。
こちらは、四条件で驚くほど大きな差がなかった。ただし、用途欄追加型だけは初期に一件あたり二秒から三秒ほど長く掛かる傾向が見られている。
「一件なら小さく見えますね」
ライルが言う。
「でも、積み重なると」
「現場責任者も同じ点を気にしています。ただし、初日と二日目に差が大きく、五日目と六日目にはほぼ一秒以内まで縮まりました」
「慣れた可能性がある?」
「はい」
アマリリアは少し考えた。
「でしたら、本試験では初期負担と慣れた後の両方を見た方がよさそうですね。最初に遅いから駄目とも、最後に差がないから負担なしとも言えません」
「承知しました」
ディーンが書き留める。
結果は出ている。
けれど、その意味はまだ一つに決まらない。
以前なら、そんな状態を「まだ足りない」と感じたかもしれない。今はむしろ、数字ごとに別の意味が隠れていることの方が興味深かった。
「作業員の感想は?」
「ここが一番分かれました」
ディーンが少し厚めの聞き取り結果を出した。
常勤作業員の多くは、用途欄追加型を高く評価していた。普段から荷札の文字を読む習慣があるため、既存の動作をほとんど変えず、情報が一行増えるだけで用途まで確認できることが理由だった。
一方、臨時作業員や勤務年数の短い者は、形状札を好む割合が高い。文字を全部読む前に「いつもの札と違う」と気づけることや、区画をまだ十分覚えていない段階でも形そのものを目印にできることが支持された理由として挙げられている。
「常勤の七割近くが用途欄追加、臨時と一年未満勤務では六割以上が形状札のどちらかを支持、ですか」
アマリリアは紙を見ながら呟いた。
「同じ倉庫でも、ここまで違うのですね」
「どれか一つにする必要はないのかな」
ライルが尋ねた。
「その可能性もございます。ただし、人によって札そのものを変えるのは難しいです」
「同じ荷なのに、常勤が扱う時と臨時が扱う時で札が変わったら、それ自体が混乱になるか」
「ええ。併用という言葉だけで簡単に解決できる話ではないと思います」
アマリリアは聞き取り結果をさらにめくった。
そこで、切り込み型への評価が後半ほど下がっていることに気づく。
「紐の問題が増えていますね」
ゼインが木箱から実際に使われた札を取り出した。
「六日間で、結束紐が切り込みへ寄り、札が傾いた事例が十一件。うち三件では、文字部分が荷の側面へ張り付いて確認に手間取っています」
「十一件なら、見学日に見た一例だけではなかったのですね」
「はい」
ライルが札を見ながら尋ねる。
「じゃあ切り込み型は駄目?」
「そこまではまだ決めなくてよいと思います」
ディーンが別の意見欄を示した。
「切り込み位置を下げる、あるいは紐を通す穴を独立させれば改善できるのではないか、という現場提案が出ています」
アマリリアの口元が自然に上がった。
「また現場からですわね」
「嬉しそう」
ライルに言われ、今度は隠さず頷く。
「はい。嬉しいです。こちらが作った案を守ることより、実際に使った方が『ここを変えれば使える』と考えてくださる方が大切ですもの」
「目標は札を守ることじゃなくて、誤配送を減らすこと」
「その通りです」
ライルが以前の言葉を覚えていたことにも、アマリリアは少しだけ嬉しくなった。
◇◇◇
片側斜め型にも、別の問題が見つかっていた。
切り込み型より紐へ干渉しにくく、臨時作業員からの評価も比較的高かったものの、荷札が回転したり荷の向きが変わったりすると、斜めに落とした部分が視界から消えてしまう場合がある。
ゼインが木箱を荷に見立て、実際の使用済み札を取り付けた。
「こちら側から見ると、右上が斜めに落ちているため分かりやすいですが」
箱を反対へ向ける。
「逆側からは、ほとんど特徴が見えません」
「確かに」
アマリリアは札を手に取り、表裏を確認した。
紙の角は擦れ、紐の跡がくっきり残り、ところどころ薄い汚れまで付いている。新品の試作品を王宮で見た時とは、まるで印象が違った。
「これをそのまま返してくださった判断は、本当に良いですわね」
「現場責任者から、『綺麗な試作品だけを見せれば、実際より良く見える』とのことです」
ディーンの言葉に、アマリリアは思わず笑った。
「ミハイル様のお手紙と少し似ておりますね」
「見栄えの良い場所なら用意できた、って話?」
ライルも気づいたらしい。
「ええ。綺麗な状態や整った数字だけでは、やはり分からないことがあります」
実際に使われ、汚れ、曲がり、紐に引かれた痕跡が残っているからこそ、初めて見える問題がある。
「職人街で見たものとも少し似てるな」
ライルが言った。
「フィンたちの工房です?」
「うん。物って、使ってから分かるところがあるんだなと思って」
「確かに」
職人街の徒弟制度については、まだ長期確認のまま残っている。フィン一人を見ただけで結論を出さないと決め、複数工房やギルド規則を確認する必要があるが、今すぐそちらへ意識を移す必要はない。
「その話も残っておりますけれど、今日は荷札へ戻りましょう」
「うん」
自分で話を戻せたことに、アマリリアは少しだけ満足した。
◇◇◇
次に確認したのは、作業員同士の確認回数だった。
従来札では、「これで合っているか」と他者へ尋ねる回数が比較的多い。用途欄追加では少し減り、形状札ではさらに減る傾向が出ている。
「確認が減ったなら、良い結果に見えますね」
ライルが言った。
「そう見えます。でも、本当に良いかは分かりません」
「聞かなくても分かるようになったなら良いけど、聞くべき時まで聞かなくなった可能性もある?」
「はい」
アマリリアが頷くと、ディーンも同意した。
「現場責任者も同じ懸念を書いています。特に臨時作業員で確認回数が大きく減っているため、判断への自信がついたのか、単に『形が違うから大丈夫』と思い込みやすくなったのかは本試験で見たいとのことです」
「数字が減ること自体を良いと決められないのですね」
アマリリアは表を眺めながら、少しだけ笑った。
「何?」
ライルが気づく。
「数字が一つ出るたびに、その数字が何を意味しているのか考え直さなければならないのが面白いです」
「今度はちゃんと面白いって言った」
「事故そのものを面白がっているわけではございませんので」
「なるほど」
ゼインが静かに口を挟んだ。
「お嬢様らしいですね」
「何がです?」
「数字を嫌いになるどころか、以前より面倒な読み方をするようになったのに、それを楽しんでいるところが」
アマリリアは少し考え、素直に頷いた。
「確かに、悪くないですわね」
以前なら、少ない、多い、増えた、減ったという結果が分かれば安心できた。今は、その数字の向こうに誰の行動があり、何が変わり、別の負担が生まれていないかまで考えるため、以前よりずっと面倒である。
けれど、その面倒さの中にこそ、人の動きが見える。
◇◇◇
六日間の試験中、最も繰り返し出た意見は、札そのものではなく置き場側についてだった。
「札だけ変えても、持っていく先が分かりにくい時がある」
見学日に一人の作業員から出たその意見が、個別聞き取りでも七人から別々に挙がっている。
「七人ですか」
「はい。聞き取りは個別ですので、少なくともその場で相談して同じ回答を揃えたものではありません」
「それなら、かなり気になりますね」
ライルも頷いた。
「札を分かりやすくするだけじゃなくて、置き場の方にも同じ目印をつける?」
「ええ。ただし、今回の予備試験には混ぜませんでした」
「何が効いたか分からなくなるから」
「そうです」
アマリリアは資料の次頁をめくった。
「本試験ではどうする?」
ライルが尋ねる。
「そこが難しいところです。全部試したくなります」
「でも一度に変えたら、また分からない」
「はい」
一月程度の本試験では、当初、最も良かった一案と従来札を比較する想定だった。しかし予備試験では一番が決まらず、人によって評価が違い、さらに札だけではなく置き場表示という別の改善案まで出ている。
「現場責任者は、何と提案しているのです?」
自分たちだけで本試験案を作る前に、アマリリアは先に尋ねた。
ディーンが別紙を一枚取り出す。
「一か月を四週へ分ける案です。ただし、四種類を一週ずつ試す形ではありません」
ライルが紙を読み上げる。
「最初の二週で、用途欄追加型と片側斜め型を比較。切り込み型は改修案ができるまで保留。その後、三週目から良かった方へ置き場側の表示を一部合わせる、と」
「四週目は?」
「通常運用に近い状態で、現場が最も続けやすいと感じた案を使い、作業時間やニアミスが戻らないかを見るそうです」
アマリリアはしばらく紙を見つめた。
「かなり良いと思います」
「そのまま採用?」
「まだです」
すぐには決めなかった。
「三週目に置き場表示まで加えると、純粋な札単体の比較は難しくなります。でも、今回の目的は学術的に最も優れた札を決めることではなく、実際に誤配送を減らしながら現場で続けられる方法を探すことです」
「だったら、完璧に一要素ずつ分けるより、最後は実際の使い方に寄せる?」
「そう考えられます。ただし、週ごとに方式が変われば、作業員が毎週慣れ直す負担も出ます」
ディーンが頷いた。
「その点は現場責任者も懸念しており、王宮側の判断を聞きたいとのことです」
「では、そこは聞き返しましょう」
アマリリアはさらに資料を見る。
「置き場表示に掛かる費用は?」
「柱へ吊るす木札と区画板であれば、現在の試験予算内です。床への塗装は荷で隠れるという意見が多く、現時点では候補から下げています」
「現場で随分進んでおりますね」
アマリリアは素直に感心した。
王宮で自分たちが考えていない間にも、現場では実際に使い、問題を見つけ、次の案を組み立てている。
「私たちが全部考えなくても、進むのですね」
何気なく口にすると、ライルがこちらを見た。
「寂しい?」
「いいえ」
アマリリアは迷わず首を横へ振った。
「むしろ嬉しいです。以前は、自分が関わった問題なら自分が最後まで考えなければならないと思っておりました。でも、実際に使う方々が続きを考え、その案をこちらが支えられるなら、その方がずっと良いです」
「じゃあ、王宮側は何をする?」
「現場だけでは決めにくい費用や制度との整合を見ます。別の倉庫でも使えるのか、他の立場へ負担が移らないかも確認して、必要なら制度へ繋ぐ。そのくらいが良いと思います」
「全部、自分で答えを出すんじゃなくて?」
「はい」
ライルが嬉しそうに頷いた。
「俺、その方が好きだな」
「私もです」
今度は、自然にそう返せた。
◇◇◇
そこまで資料を確認したところで、アマリリアは一度背もたれへ身体を預けた。
数字も意見も多い。
まだ考えられる。
けれど、考え続けなければならないわけではない。
「一度、休みません?」
アマリリアが言った途端、室内が少し静かになった。
ライル、ディーン、ゼインの三人から同時に視線を向けられる。
「何です?」
「いえ」
ディーンが答える。
「また驚きましたね」
「少しだけです」
「なぜです?」
「まだ午前ですので」
ゼインが淡々と付け足した。
「お嬢様がご自分から区切られるには、以前ならかなり早い時間です」
「最近は休んでおります!」
「『最近は』が必要な時点で、実績が」
「ゼイン、その言葉は禁止したはずです」
「使用禁止とは伺っておりません」
横でライルが笑いを堪えている。
「殿下も何か言ってくださいませ」
「休もう」
「そこではありません」
「でも良い提案だろ?」
「それはそうです」
結局、アマリリア自身も笑ってしまった。
侍女へ頼み、温かい茶と小さな焼き菓子を運んでもらう。王宮の菓子は昨日市場で食べたものより形が整い、甘さも控えめだった。
「昨日の蜂蜜の方が好き?」
ライルが尋ねる。
「なぜ分かるのです?」
「顔」
「皆様、本当に私の顔を読みすぎです」
「で?」
「昨日の蜂蜜も好きですが、これはこれで美味しいです」
「比べない?」
「今日は仕事中ですので、味を比べるくらいよろしいでしょう」
「そこは仕事に戻すんだ」
「ただ食べて感想を言うだけなら調査ではございません」
ディーンとゼインが同時に視線を逸らした。
「何です?」
「いえ」
「絶対に何か思いましたね」
ゼインが少し考えてから答える。
「市場デートを一日で完全に仕事と分離できたことに、想定以上の成果を感じております」
「褒めております?」
「半分ほど」
「残り半分は?」
「安心です」
アマリリアは少しだけ笑った。
「それなら、受け取っておきます」
◇◇◇
休憩を終えたあと、本試験の内容をその場で決定することはしなかった。
代わりに、現場責任者へ返す質問を三つに絞る。
一つ目は、週ごとに試験方式を変えることで、作業員へ大きな負担が生じないか。
二つ目は、用途欄追加型と片側斜め型を本試験へ残した理由を、数字だけではなく現場感覚も含めて確認すること。
三つ目は、三週目から置き場表示を加える場合、何を成功と見るのか。誤配送とニアミスだけではなく、作業時間、他者確認、使いやすさをどの程度記録できるのかを確認することだった。
「三つだけ?」
ライルが少し意外そうに聞く。
「十分ではございません?」
「前の君なら十個くらい返してそう」
「十個で済んだでしょうか」
「自分で言うんだ」
アマリリアは少しだけ笑った。
「今は、現場側からすでに試験の骨格が出ています。こちらが質問を増やしすぎれば、現場で使える方法を探す試験ではなく、王宮へ説明するための試験になってしまいます」
「それは嫌だな」
「私もです。それに、六日間試していただいた直後に十五項目も質問を返したら、現場の方も嫌になるでしょう?」
ゼインが即座に答えた。
「なります」
「早いです!」
「現場ではなく、私でもなります」
「ディーンは?」
「内容によります」
「そこで真面目に答えないでくださいませ」
室内にまた笑いが広がる。
アマリリアは返答文の作成をディーンへ任せた。
「今日中に送ります?」
「急ぎではございませんね」
「本試験開始予定は四日後です」
「でしたら、明日の午前で十分です。現場側にも今日すぐ返さなければと思わせたくありません」
「承知しました」
今日中にしなくてよいことを、今日中にしない。
少し前なら、それだけでも大きな決断だった。
今はもう、わざわざ自分の成長として数えなくてもよい程度には自然になってきている。
◇◇◇
昼食後、アマリリアとライルはセレーネの執務室へ向かった。
予備試験の概要だけを報告する予定であり、最終案の承認を求めるためではない。王妃の執務室は午前より少し暖かく、西側の窓から秋へ近づく柔らかな日差しが差していた。
「結果は?」
席へ着くよう促したセレーネが尋ねる。
「一番は決まりませんでした」
アマリリアは最初にそれを伝えた。
セレーネの眉が少し上がる。
「それで、あなたはどう思ったの?」
「良かったと思っております」
「なぜ?」
「使う人によって評価が違ったからです。無理に一つへまとめていたら、その違いを消してしまうところでした」
アマリリアは、六日間の結果を必要な範囲で説明した。
正式な誤配送はゼロだったものの、元々の発生頻度から見て短期間では効果判定できないこと。ニアミスは形状札で少ない傾向が出たが、試験を意識した慎重さや自己申告精度の問題が残ること。常勤作業員は用途欄追加型を好み、臨時や経験の浅い者は形状札を好む傾向があったこと。そして、どの形状にも実際に使う中で新しい問題が生じたこと。
「さらに、札だけではなく置き場側も分かりやすくした方がよいという意見が複数出ました」
「では、札だけ変えれば済む話でもなかったのね」
「はい」
セレーネが少し考え、口を開く。
「つまり――」
そこでアマリリアがわずかに目を細めた。
セレーネはすぐに笑った。
「わざとよ」
「王妃様」
「あなたが最近、すぐに『つまりこういうこと』とまとめなくなったから」
「試されました?」
「少しだけ」
「ミハイル様みたいなことをなさらないでくださいませ」
「似ている?」
「そこはまだ分かりません」
以前ミハイルへ返したのと同じ言葉を使うと、隣のライルが吹き出した。
「二人とも楽しそうね」
セレーネは笑いながら、改めてアマリリアを見る。
「試験そのものが面白い?」
「はい。ただ、結果よりも、現場の方が自分たちで次の案を出してくださったことが嬉しいです」
「あなたの案が一番にならなくても?」
「はい」
「本当に?」
「王妃様まで疑うのです?」
「前のあなたを知っているから」
アマリリアは少しだけ唇を尖らせた。
「以前でも、良い案なら使いました」
「使ったでしょうね。でも、自分がもっと良い案を考えようともしたでしょう?」
返す言葉がない。
「……それは、したかもしれません」
「今は?」
「現場で良い案が出るなら、その方が良いです。続けるのは現場の方々ですもの」
自然に出た答えに、セレーネの表情が柔らかくなった。
「良いと思うわ。ただし、今度は『現場から出た案だから正しい』と逆向きに決めつけないように」
アマリリアは一瞬だけ止まり、すぐに頷いた。
「はい」
「倉庫の人には使いやすくても、運ぶ人や荷主、別の倉庫には不便かもしれない。現場にも、そこから見えないものはあるでしょう?」
「また立場の違いですね」
ライルが言う。
「そういうこと」
アマリリアは小さく苦笑した。
「どこまで考えても終わりませんわね」
「人の暮らしですもの」
以前と同じ言葉を返され、アマリリアは今度こそ素直に笑った。
「はい。そうでした」
◇◇◇
報告が一区切りしたところで、セレーネの視線がアマリリアの手首へ落ちた。
「まだ着けているのね」
「はい」
「気に入った?」
「とても」
「ライル、良かったわね」
「うん」
自分を挟んで母子が話していることに気づき、アマリリアは少しだけ眉を寄せた。
「王妃様、私を挟んで殿下を褒めないでくださいませ」
「本人に直接言っているだけよ」
「私の目の前でです」
セレーネが楽しそうに笑う。
「昨日のデート報告は、アマリリアからも聞けた?」
ライルまで話へ乗ってくる。
「十分に聞いたわ」
「何を?」
「荷札を調べるより、あなたと歩く方が大事だったって」
ライルの顔が一気に明るくなった。
「王妃様!」
「本当のことでしょう?」
「そうですけれど、本人へ改めて伝える必要はございません!」
「もう一回言って」
ライルが嬉しそうに頼む。
「殿下!」
「駄目?」
「駄目です。昨日すでに十分お伝えしました」
「じゃあ、覚えておく」
「そうしてくださいませ」
「一生?」
アマリリアは少しだけ目を細めた。
「……今のは、冗談だけではございませんね?」
「顔に出てた?」
「出ております」
セレーネがとうとう声を立てて笑い、控えていた侍女たちまで口元を緩めた。
アマリリアは恥ずかしくて仕方がなかったものの、不快ではなかった。
◇◇◇
王妃の執務室を出たあと、二人は次の予定まで少し時間があったため、庭側の回廊を遠回りして歩くことにした。
午後の日差しは柔らかく、柱の間から見える庭では、季節の変わり目を迎えた木々が少しずつ色を変え始めている。
「本試験、楽しみ?」
ライルが尋ねる。
「はい」
「どれが勝つか?」
「違います」
アマリリアはすぐに首を横へ振った。
「何が残るのかが楽しみです。使いやすいところ、使いにくいところ、誰に合うのか、何を変えると別の問題が出るのか。そういうものを見たいです」
「一つの正解じゃなくて?」
「ええ。一番がないまま終わる可能性もございます」
少し前なら、試験をした以上は一番良い案を決めなければ意味がないと思っていたかもしれない。今は、人によって違うのであれば、その違いを残したまま別の方法を組み合わせることも改善だと思える。
「そういえば」
アマリリアがふと昨日までの記憶を思い出す。
「色布付きの荷札、覚えております?」
「市場で見つけたやつ?」
「はい」
「覚えてる」
「私もです」
「今度は調べる?」
アマリリアは少しだけ考えた。
今日の結果を見る前よりは、その表示方法を知る意味が増えた気はする。文字だけでなく形、置き場、さらに色という別の手がかりがあるなら、比較材料になるかもしれない。
「今なら、少し調べる意味があるかもしれません」
「じゃあ、ディーンに頼む?」
「まだです」
ライルが笑った。
「また待つんだ」
「本試験案が固まる前に色まで知ったら、絶対に混ぜたくなりますので」
「自分を分かってる」
「かなり」
「でも、忘れない?」
「もう二日覚えております」
「確かに」
アマリリアも少し笑った。
「必要なことなら、手帳へ詳しく書かなくても残る場合があると分かりました。それでも忘れたなら、その時点で優先度が低かった可能性もあります」
「手帳、いらなくなった?」
「それは絶対に違います」
即答すると、ライルが声を立てて笑った。
「そこは強いな」
「当然です。記録は必要ですし、数字も好きです。ただ、全部をその瞬間に捕まえなくてもよいと分かっただけです」
「それなら分かる」
二人は並んだまま、ゆっくり回廊を歩いた。
◇◇◇
その夜、アマリリアは自室の机へ座り、手帳を開いた。
市場でもらった花は、まだ小さな瓶の中で咲いているものの、花弁の端が少しだけ柔らかくなっている。手首には今日も葉の腕飾りが残り、机の灯りを受けて小さな木片に刻まれた模様が淡く浮かんでいた。
今日の予備試験結果は、書くことが多い。
『予備試験六日終了。正式誤配送ゼロ。ただし期間が短く、元の発生頻度から見ても効果判断には弱い』
『常勤は用途欄追加型、臨時・経験の浅い作業員は形状札を好む傾向。分かりやすさは使用者によって異なる』
『切り込み型は紐が寄る問題。片側斜め型は荷の向きによって特徴が見えにくくなる』
『札だけではなく、置き場側の表示も必要という現場意見が複数あり』
そこまで書いたところで、アマリリアはペンを止めた。
六日間試した。
数字も出た。
感想も集まった。
それでも、一番良い札は決まらなかった。
以前の自分なら、それを「試験が足りなかった」と考えたかもしれない。比較する以上、最も優れたものを選び、その案を次へ進めることが自然だと思っていたからだ。
今は、少し違う。
常勤作業員と臨時作業員で使いやすいものが違うなら、その差自体が結果である。形を工夫すれば新しい問題が生まれ、表示を増やせば読む時間が増え、確認回数が減っても、それが必ずしも良い意味とは限らない。
それでも改善はできる。
アマリリアは最後に一行だけ書き加えた。
『一番良い札を決めることが、目的ではない』
その文字をしばらく見つめた。
大切なのは、一番を決めることではなく、実際に使う人が間違えにくく、無理なく続けられる状態へ近づけることなのだろう。
そして、それを考えるのは自分一人ではない。
ライルが違う疑問を出す。
ディーンが行政上の負担を見る。
ゼインが実務の穴を拾う。
現場責任者が試験方法を組み直し、作業員が置き場表示という別の案を出す。
セレーネは、その現場すら万能ではないと指摘する。
同じ問題を見ても、それぞれ別のものが見える。
だからこそ、一つの視点だけで完成させない方がよい。
アマリリアはペンを置き、今日の頁を閉じた。
本試験案は、まだ完成していない。
現場へ返す三つの質問も、明日の午前に送る予定である。色布付きの荷札もまだ調べず、ミハイルとの次の面会時期も決めていない。
未決定のことは、相変わらずたくさん残っている。
けれど、それらを今夜のうちに減らさなければならないとは思わなかった。
明日になれば、現場へ聞くべきことを聞けばよい。
返事が来れば、その時に続きを考える。
一番が決まらないなら、決まらない理由を見る。
アマリリアは机の上の小さな花へ視線を向け、少しだけ笑った。
数日前には、何も調べない一日を過ごした。
今日は、たくさんの数字を見た。
どちらも、自分には必要だったのだと思う。
そして今は、仕事をした一日の終わりに、続きを明日へ残したまま手帳を閉じることもできる。
それで十分だった。




