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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第58話 何も調べない市場デートへ出かけたら、気になることを見つけても手帳がないので殿下の手を握るしかありませんでした


 市場デート当日の朝、アマリリアが最初にしたことは、机の引き出しを開けないことだった。


 昨夜、自分でそこへしまった手帳は、当然ながら朝になっても同じ場所にある。普段なら身支度を始める前に一度開き、その日の予定や確認事項を見直すのが習慣になっていたが、今日は机へ近づいた時点で意識的に視線を逸らした。


「お嬢様」


 背後から侍女に呼ばれ、アマリリアは何でもなかったような顔で振り返った。


「何です?」


「先ほどから、三度ほど机をご覧になっております」


「見ておりません」


「鏡越しにも見えておりました」


 きっぱり返したものの、侍女の表情には揺るぎがない。アマリリアは少し考えた末、不本意ながら訂正することにした。


「……では、二度くらいです」


「三度です」


「細かいですわね」


「お嬢様が普段、細かいところまで確認されますので」


 自分の言葉が返ってきたような気がして、アマリリアは小さく息を吐いた。


 侍女は笑いを堪えながら、今日着る若草色のドレスを広げる。昨日ライルが選んだもので、装飾は控えめながら、襟元と袖口に白い糸で小さな葉の刺繍が施されていた。


「こちらでよろしいですね」


「はい」


「殿下がお選びになったものですものね」


「そこを強調しなくてよろしいです」


「失礼いたしました」


 そう言いながら、侍女の顔にはまったく反省の色がない。


 アマリリアは鏡の前へ立ち、着替えを手伝ってもらった。普段の王宮内での服よりずっと軽く、裾も市場を歩きやすい長さに整えられている。髪も華美な飾りを避け、後ろで柔らかくまとめる程度にしてもらった。


 鏡に映る自分は、第一王子の正式な婚約者として式典へ出る時とはまるで違っていた。


 けれど、前回の市場見学で身につけた服とも違う。


 あの時は、目立たず、人々の中へ紛れるための服だった。今日は同じように身分を強く見せない装いでも、目的は調査ではなく、ライルと一緒に歩くことにある。


 その違いを意識した瞬間、胸の奥に小さな熱が集まった。


「お似合いです」


 侍女が鏡越しに言う。


「ありがとうございます」


「殿下もきっとお喜びに」


「その先は言わなくて結構です」


 早めに止めると、侍女は今度こそ声を立てずに笑った。


 身支度を終えたあと、アマリリアは小さな鞄の中身を確認する。財布、薄い布、小さな櫛だけが入り、いつもなら当然のように収まっている手帳も、紙も、筆記具もない。


「本当にございませんね」


「昨日、ご自身でお確かめになりました」


「分かっております」


「今日も入っておりません」


「それも分かっております」


 侍女の声には明らかに楽しげな響きが混じっている。


「皆様、私が隠して持っていくと思っていません?」


「そこまでは思っておりません」


「では、少しは?」


 問い返すと、侍女がほんのわずかに視線を逸らした。


「お嬢様ですので」


「それは理由になっておりません」


 言い返しながらも、アマリリア自身、完全には否定できなかった。


 以前の自分なら、小さな紙一枚くらいなら、袖の内側なら、などと考えていた可能性は高い。気になったことを残せない状態を、わざわざ自分から選ぶ理由などなかった。


 今日は、本当に何も持たない。


 その事実だけで少し落ち着かなかったが、アマリリアは鞄を閉じた。


「では、参りましょうか」


 侍女が扉へ向かう。


 アマリリアは机へ最後に一度だけ視線を向けたものの、今度こそ引き出しには触れず、そのまま部屋を出た。


          ◇◇◇


 王宮の小さな玄関口へ着くと、ライルはすでに待っていた。


 濃い青色の上着に、真っ白ではなく少し生成りがかったシャツを合わせている。装飾はほとんどないが簡素すぎず、前回の市場見学よりも少し柔らかな印象で、第一王子として正装している時とはまるで別人のようだった。


 アマリリアは思わず足を止めた。


「どう?」


 ライルが少し不安そうに両腕を広げる。


「何がです?」


「服。君が青って言ったから」


「……似合っております」


「本当に?」


「はい」


 すぐに答えたのに、ライルはもう少し欲しそうな顔をしている。


「とても似合っております」


「良かった」


 あまりにも嬉しそうに笑われ、今度はアマリリアの方が照れてしまう。


「殿下」


「何?」


「そんなに喜ばれると、こちらが恥ずかしいです」


「でも君も、俺の服を見た瞬間に止まってたよね」


「止まっておりません」


「止まってた」


「似合っているか確認していただけです」


 言ってから、自分でも苦しいと思った。


「それ、普通に見てたってことじゃない?」


「……そうとも言います」


 数日前にも似たような会話をした気がして、アマリリアはそれ以上争うのを諦めた。


「それより殿下、鞄は?」


「これ」


 ライルが腰につけた小さな革袋を見せる。


「紙は?」


「ない」


「筆記具は?」


「ない」


「手帳は?」


「そもそも持ってない」


「では、合格です」


「何の?」


「本日の市場デート参加資格です」


 ライルが楽しそうに笑った。


「君が審査する側なんだ」


「私も父から審査されておりますので、お互い様です」


 その時、少し離れた場所から低い咳払いが聞こえた。


 振り返ると、案の定ハロルドが立っている。


「お父様」


「確認に来ただけだ」


「朝から?」


「たまたまだ」


「またです?」


 ハロルドは答えず、まずアマリリアの服を見た。次にライルへ視線を移し、最後に二人の鞄を確認する。


「手帳は?」


「ございません」


「紙は?」


「ございません」


「筆記具は?」


「ございません!」


 何度も確認され、思わず声が大きくなる。


「声が大きい」


「お父様が何度も聞くからです!」


 近くにいた護衛の一人が、ほんの少しだけ視線を逸らした。


 ライルも横で笑いを堪えている。


「殿下も」


 ハロルドが睨む。


「何でしょう」


「娘を仕事へ戻すな」


「俺が?」


「お前たちは二人になると、互いに質問を増やす」


 ライルが少し考えたあと、素直に頷いた。


「それは否定できません」


「でしょうね!」


 アマリリアまで強く同意すると、ハロルドは呆れたような顔になる。


「だから今日は、店主へ必要以上に質問しない。制度上の違和感を見つけても、その場で調べない。護衛の指示には従い、夕刻の鐘より前に王宮へ戻る」


「全部覚えております」


 アマリリアが答えると、ハロルドの視線が二人の間へ落ちた。


「それから、人混みでは離れないようにしろ」


 アマリリアは一瞬だけ目を瞬いた。


 以前なら「手を繋ぐな」とまで言いそうな父が、今日はそれ以上何も付け加えない。


「分かりました」


 ライルが真面目に答え、アマリリアも素直に頷いた。


「ありがとうございます、お父様」


「何に礼を言っている」


「色々です」


 ハロルドは少しだけ顔を逸らした。


「……楽しんでこい」


 昨日に続いて、またその言葉を聞けた。


 アマリリアは柔らかく笑う。


「はい」


          ◇◇◇


 市場近くまでは馬車を使い、少し離れた通りで降りた。


 前回のように調査のための同行者はいない。ディーンもゼインも王宮に残り、護衛だけが近距離に二人、さらに遠巻きに四人配置されている。


 それでも、馬車を降りた瞬間にアマリリアは少し不思議な感覚を覚えた。


 同じ市場。


 同じ通り。


 遠くから聞こえる売り声、焼いた肉と香辛料の匂い、荷車の車輪が石畳を踏む音、店先へ積まれた野菜。景色そのものは前回とほとんど変わらないはずなのに、今日はまるで別の場所へ来たように感じる。


「どうしたの?」


 ライルが横から尋ねた。


「いえ」


「何か見つけた?」


「その聞き方は禁止では?」


「あ」


 二人で顔を見合わせた。


 ライルが苦笑する。


「もう始まってるな」


「市場へ入ってまだ数十歩です」


「危ない」


「殿下もです」


 二人で少し笑ったあと、アマリリアは改めて周囲へ視線を向けた。


「ただ、前回と同じ場所なのに今日は少し違って見えると思っただけです」


「何が違う?」


 また質問が飛んできて、二人とも一瞬だけ止まる。


「……普通の会話としてなら、よろしいです?」


「たぶん」


「では」


 アマリリアは周囲の空気をゆっくり吸い込んだ。


「前回は、どこが混んでいるか、誰が止まっているか、どこから音がするか、そればかり見ておりました。でも今日は、最初に食べ物の匂いがしました」


 ライルが笑う。


「いい変化だな」


「少しだけ悔しいです。前回も同じ匂いはしていたはずですのに、気づいていても重要ではないと思っていたのかもしれません」


 そこまで口にして、アマリリアは続きを止めた。


 なぜそうだったのか。


 何を意味するのか。


 いつものように整理し始めようとすれば、いくらでも考えられる。


 今日は、そこまでしなくてもよい。


「まあ、今日は食べましょう」


「うん」


 ライルの顔が明るくなる。


「まず焼き菓子?」


「いきなりです?」


「駄目?」


「昼食前です」


「じゃあ少しだけ」


「少しだけなら」


 市場へ来て早々、もう甘いものへ向かっている。


 アマリリアは自分でも少し可笑しくなった。


          ◇◇◇


 市場の入口付近は、前回より少し人が少なかった。


 時刻が違うためだろうと考えた瞬間、アマリリアの中でいつもの思考が動き始める。


 曜日の違いは。


 搬入台数は。


 天候の影響は。


 そこまで考えたところで、自分で止めた。


 今日は違う。


「アマリリア」


 ライルに名前を呼ばれ、アマリリアは少しだけ気まずそうに彼を見る。


「はい」


「今、調べようとしてた?」


「……少しだけ」


「顔で分かった」


「そんなに?」


「うん」


「私、分かりやすくなりすぎでは?」


「俺にだけかも」


 その返事に、胸の奥が少し温かくなる。


 ライルが自然に手を差し出した。


「人も増えてきたし」


「そうですわね」


 アマリリアは迷わず手を重ねた。


 前回も近い距離で歩くことはあったし、正式な婚約者として手を繋ぐこと自体はもう珍しいことではない。けれど今日は、離れないためだけではなく、自分も彼とこうして歩きたいと思っている。


 ライルの指がゆっくり絡み、アマリリアも握り返した。


「恋人繋ぎみたいになっております」


「婚約者だから」


「市場では普通の青年と娘に見せるはずでは?」


「婚約してる普通の青年と娘でいいだろ?」


「便利な設定ですわね」


「本当のことだし」


 否定できない。


 アマリリアは少しだけ視線を逸らしたが、手は離さなかった。


 周囲では誰も二人を特別気にしていない。買い物客も、子供も、店員も、荷を運ぶ人も、それぞれが自分の用事で動いている。


 その中に、自分たちもただの二人として混じっている。


 それが、思っていたより心地よかった。


          ◇◇◇


「あった」


 ライルが声を弾ませた。


 前回、蜂蜜と木の実の焼き菓子を買った露店だった。


 木板の上には丸い焼き菓子が何種類も並び、前回食べたもののほか、干した果実を入れたものや、表面に薄く砂糖をまぶしたものまである。


「増えておりますね」


 アマリリアが言うと、店主の女性が笑った。


「今日は種類が多いよ。昼前だからね」


 その一言で、また質問が頭に浮かぶ。


 なぜ昼前は多いのか。


 朝に焼いた分だからなのか。


 午後には売り切れるのか。


 客層が違うのか。


 仕込みの都合なのか。


 口を開きかけた瞬間、繋いだ手が少し強く握られた。


 アマリリアが横を見ると、ライルは何も言わず、楽しそうにこちらを見ている。


「……今のは合図です?」


「たぶん」


「分かりました」


 アマリリアは小さく息を吐き、店主へ向き直った。


「では、この蜂蜜と木の実を一つ。それから干し果実のものも一つくださいませ」


「二人で食べる?」


「はい」


 ライルが答える。


「半分ずつ」


「仲良いねえ」


 店主が焼き菓子を包みながら笑う。


 以前のアマリリアなら、どう返すべきか一瞬考えただろう。


 今日は素直に笑った。


「ありがとうございます」


 それだけで十分だった。


 ライルが支払いを済ませ、二人は市場から少し外れた噴水広場へ向かった。前回とほぼ同じ場所の石段へ座ると、ライルが紙包みを開き、蜂蜜と木の実の焼き菓子を半分に割る。


「はい」


「ありがとうございます」


 受け取って一口食べると、外側は少し硬く、内側は柔らかかった。蜂蜜の甘さの中へ木の実の香ばしさが混ざり、噛むほど風味が広がる。


「美味しいです」


「前も言ってた」


「今日は、前より美味しい気がします」


「理由は?」


 ライルが尋ねた。


 アマリリアは反射的に考え始める。


 気温。


 焼き上がり時間。


 保存状態。


 空腹度。


 そこまで浮かべてから横を見ると、ライルが明らかに笑っていた。


「……殿下」


「はい」


「今、わざと聞きましたね」


「ちょっとだけ」


「危険です」


「ごめん」


 謝りながら笑っているので、反省はしていないらしい。


 アマリリアも結局つられて笑った。


「理由は分かりません。でも、美味しいです」


「それでいい?」


「今日は、それでよいです」


 二人で残りを食べ、次に干し果実入りのものを半分ずつにする。こちらは蜂蜜より酸味が強く、少しだけ固い。


「こっちも好き」


 ライルが言う。


「私は蜂蜜の方が好きです」


「じゃあ次に来た時は、蜂蜜多めにしよう」


「次も来る前提です?」


「来たくない?」


 アマリリアは焼き菓子を持ったまま、少しだけ目を瞬いた。


「来たいです。また、デートだけで」


「うん」


「ただし、お父様の許可が」


「そこは二人で頑張ろう。もう一回許可が取れたんだから、次も可能性はある」


「殿下、随分前向きになりましたね」


「君と市場に来るためなら」


 さらりと言われ、アマリリアは思わず視線を落とした。


「そういうことを普通に仰るの、ずるいです」


「何が?」


「私だけ照れます」


「俺も照れてるよ」


 見ると、ライルの耳も少し赤い。


 それで少し安心した。


          ◇◇◇


 昼食は、市場の中ほどにある小さな食堂で取ることになった。


 前回は調査の合間に簡単に済ませたが、今日は席へ座ってゆっくり食べる。店内には六つほどの卓があり、壁際には大きな鍋が並び、煮込み料理の匂いと焼いたパンの香りが混ざっていた。


「何にします?」


 アマリリアが壁の札を見る。


「肉煮込み」


「早いですわね」


「美味しそう」


「理由は?」


「匂い」


「良いですね」


 アマリリアも同じものを頼んだ。


 やがて運ばれてきたのは、牛肉と根菜を濃い色の汁で煮込んだ料理だった。横には小さなパンが添えられ、湯気とともに香辛料の匂いが立ち上る。


「熱いですよ」


 店員が言う。


「ありがとうございます」


 二人で匙を取る。


 確かに熱かったが、肉は柔らかく、根菜には汁がよく染みていた。


「これ」


 アマリリアが口を開きかけた。


 何を使って味を整えているのか。


 肉はどこから仕入れているのか。


 この値段で出せる理由は何か。


 そこまで考えたところで、自分で危険を察した。


「何?」


 ライルが尋ねる。


「……美味しいですね」


「うん」


 それだけにした。


 ライルが少し笑う。


「今、自分で止まった?」


「止まりました」


「すごい」


「褒めすぎです」


「でも本当に」


 アマリリアは匙を一度置き、少しだけ肩をすくめた。


「最初は、何も聞かないのは店の方へ失礼なのではと思っていたのです。美味しいものを食べたら、どう作ったのか聞くのは自然でしょう?」


「普通に聞く人もいると思う」


「でも私は、そのまま仕入れ先や保存方法や価格まで聞きそうです」


「そこが危ない」


「自覚しております」


 二人で笑うと、隣の卓に座っていた年配夫婦が一度こちらを見て、微笑ましそうに笑った。


 アマリリアは少しだけ恥ずかしくなったが、その視線も今日は嫌ではなかった。


          ◇◇◇


 食堂を出たあと、二人は特に目的を決めず、市場の通りを歩いた。


 布地、小物、果物、木工品、香油、小さな花。前回なら「どこから来た品か」「なぜこの値段か」「誰が買うのか」と考えたものが、今日はただ「綺麗」「美味しそう」「可愛い」で済んでいく。


 それが、思っていた以上に新鮮だった。


「これ」


 ライルがある露店の前で足を止めた。


 並んでいるのは、細い革紐に小さな木片をつけた簡素な腕飾りだった。木片には葉や鳥、星、花などの小さな模様が刻まれている。


「見ます?」


「うん」


 店主は若い女性で、二人が近づくと「好きなのを選んで」と笑った。


 ライルがアマリリアを見る。


「好きなの選んで。俺が買う」


「私が?」


「うん」


「殿下」


「デートです」


 以前、自分もライルへ何か買うと言った。


 だから拒む理由はない。


 アマリリアは並んだ腕飾りをゆっくり見比べた。


 星、鳥、花、小さな剣のような形まである。


「これにします」


 選んだのは葉の模様だった。


「それ?」


「はい」


「理由は?」


 今度の質問は調査ではなく、ただ自分の好みを聞かれているだけだと分かる。


「今日の服に少し似ているからです」


 袖口の葉の刺繍を見せると、ライルも気づいて嬉しそうに笑った。


「本当だ。じゃあこれ」


 彼が支払いをする。


 店主が腕飾りを小さな布へ包もうとしたところで、ライルが少し迷った。


「今、つけてもいい?」


 アマリリアの胸が小さく跳ねる。


「今です?」


「嫌?」


「嫌ではございません」


 手首を差し出す。


 ライルの指が革紐を巻き、ほどけないよう丁寧に結ぶ。触れた指先が少しくすぐったく、アマリリアは自分の手が動かないよう意識した。


「できた」


「ありがとうございます」


 若草色の袖の先に、小さな葉の木片が揺れている。


 高価ではない。


 王宮で身につける宝石とは比べられないほど簡素なものだ。


 それでも、アマリリアは自分でも驚くほど嬉しかった。


「似合う」


 ライルが言う。


「大切にします」


「そんなに?」


「殿下が買ってくださったので」


「君が選んだんだろ?」


「でも、買ってくださったのは殿下です」


 ライルが少し照れたように笑う。


「じゃあ、大事にして」


「はい」


 アマリリアは腕を少し上げ、小さな木片を見た。


 今日の記憶が一つ、形になったような気がした。


          ◇◇◇


「今度は私の番です」


 少し歩いたところで、アマリリアが言った。


「何が?」


「殿下へのものを買います」


「本当に?」


「約束しました」


「何がいいかな」


「それを殿下が考えたら意味がないのでは?」


「確かに」


 アマリリアは周囲を見回した。


 高価すぎず、今日の市場で買えて、ライルが実際に使えるもの。


 少し考えた末、木工品の露店へ入った。


 小さな匙、櫛、箱、筆立てなどが並ぶ中で、アマリリアが手に取ったのは細長い木製の栞だった。


「殿下、これにします」


「栞?」


「はい」


「なんで?」


 今度も普通の意味で聞かれている。


 アマリリアは少し笑った。


「殿下は最近、資料をたくさん読まれますので。でも、仕事のためだけではございません。本を読む時にも使えます」


 隣に並んでいた小さな青い紐を選ぶ。


「君がくれるなら何でも使う」


「それは雑です」


「本当だよ」


「では、ちゃんと使ってくださいませ」


「うん」


 アマリリアが支払い、店主から受け取った栞をライルへ渡す。


 ライルは何度も表裏を眺め、青い紐まで指で確かめた。


「嬉しい」


「そんなに?」


「だって、君からデートで買ってもらったものは初めてだろ?」


 その言葉に、アマリリアの胸もまた少し温かくなる。


「私もです」


 手首の葉飾りを見る。


「こうしてデートで買っていただいたものは、初めてです」


 二人の間に少しだけ沈黙が落ちた。


 周囲には市場の声が絶えず流れている。店主が別の客と話し、通りでは子供が走り、遠くで荷車の音がする。


 その賑やかさの中で、二人の間だけ静かな時間ができたように感じた。


「また増やそう」


 ライルが言う。


「何を?」


「こういう思い出」


 アマリリアは一瞬だけ言葉を失った。


 それから、ゆっくり笑った。


「はい」


          ◇◇◇


 午後になると、市場の人通りは少し増えた。


 二人は手を繋いだまま、職人街側へ続く通りを歩く。


 その途中で、アマリリアの視線がある一角へ吸い寄せられた。


 小さな荷車の横に、いくつかの箱が積まれている。


 箱に結ばれた札のそばには、用途ごとに違うらしい薄い色布が括り付けられていた。


 第二共同倉庫で試している形状札とは違う。


 けれど、文字以外の目印を使って荷を区別するという点では、どこか似ている。


 アマリリアの頭が一瞬で動き始めた。


 誰が考えたのか。


 いつから使っているのか。


 どの荷に使うのか。


 誤配送は減ったのか。


 作業時間は変わったのか。


 そこまで思考が走ったところで、今日の約束を思い出した。


 聞かない。


 調べない。


 今日はデートだ。


「アマリリア?」


 ライルが名前を呼ぶ。


「……はい」


「見つけた?」


「見つけました」


「かなり気になる?」


「かなりです」


 正直に答えると、ライルが少しだけ笑った。


「どうする?」


 アマリリアはもう一度だけ荷車を見る。


 今なら店主か作業員へ一言聞けば、すぐに何か分かるかもしれない。


 けれど、それを始めれば今日の時間は簡単に調査へ変わってしまう。


「聞きません」


「本当に?」


「はい」


 答えたものの、視線がもう一度荷札へ戻りそうになる。


 アマリリアは少し困ったようにライルを見た。


「ただ、手をもう少し強く握ってくださいませ」


「それで我慢できそう?」


「たぶん」


 ライルが笑いながら、繋いだ手へ少しだけ力を加える。


 アマリリアも握り返した。


「殿下、笑わないでくださいませ」


「笑ってない。嬉しいだけ」


「何がです?」


「君が調べる代わりに、俺の手を選んだから」


 アマリリアの頬が一気に熱くなった。


「その言い方はずるいです!」


「でも本当だろ?」


「……否定はいたしませんけれど」


 アマリリアは荷車から視線を外し、今度はライルを見る。


「行きましょう」


「うん」


 二人でその場を離れる。


 聞けばすぐ分かるかもしれないことを残していくのは、やはり少し惜しかった。


 それでも今日は、不思議と嫌ではなかった。


          ◇◇◇


 市場の端に近い場所で、小さな花売りを見つけた。


 季節の花を数本ずつ束にしただけの簡素な店で、色とりどりの花が水桶の中へ並んでいる。


「綺麗ですね」


 アマリリアが立ち止まる。


「買う?」


「今日はもう、殿下からいただきました」


 腕飾りを見る。


「でも花は別」


「別です?」


「うん」


 ライルは白と黄色の小さな花を二本選んだ。


「これを」


「私に?」


「はい」


「殿下、今日は随分買ってくださいますね」


「駄目?」


「駄目ではございません」


 むしろ嬉しい。


 だからこそ、少しだけ申し訳なくなる。


「私も、もう一つ殿下へ何か」


「競争じゃないよ」


「分かっております」


「じゃあ今日は俺が多めでいい。次は君が多めにすればいい」


「次もある前提ですのね」


「ある」


 迷いのない返事に、アマリリアは笑った。


「では、次は私が多めです」


「約束」


「はい」


 花を受け取る。


 香りはそれほど強くない。


 王宮の庭には、もっと立派で珍しい花がいくらでもある。


 それでも今日、市場でライルから買ってもらった小さな花束は、どんな豪華な花より特別に見えた。


          ◇◇◇


 夕刻が近づく少し前、護衛の一人が離れた位置から合図を送ってきた。


 そろそろ戻る時間である。


「もう?」


 ライルが残念そうに言う。


「お父様との約束です」


「分かってるけど」


「私も、もう少し歩きたいです」


 口にしたあとで、アマリリアは自分自身に少し驚いた。


 ライルがすぐにこちらを見る。


「本当に?」


「はい」


「嬉しい」


「殿下」


「だって、君からそう言ってくれると思ってなかったから」


 アマリリアは少しだけ視線を下げた。


「今日は楽しかったです。何も調べなくても、何か答えを持ち帰らなくても、殿下と歩いて、食べて、買い物をして、それだけで十分でした」


 ライルの表情がゆっくり柔らかくなる。


「俺も」


「では」


「また来よう」


「はい」


 今度は、条件も言い訳もつけなかった。


          ◇◇◇


 王宮へ戻る馬車の中で、アマリリアは少し疲れていた。


 けれど、市場見学の帰りとは違う疲れだった。


 頭の中が情報でいっぱいになっているわけではない。


 代わりに残っているのは、焼き菓子の甘さや煮込み料理の温かさ、手首の腕飾り、ライルへ渡した栞、小さな花束、そして市場の人混みの中でずっと繋いでいた手の感触だった。


「眠い?」


 ライルが尋ねる。


「少し」


「寝る?」


「王宮まですぐです」


「前は寝たよ」


「市場見学の時は、かなり疲れておりましたので」


「今日は?」


 アマリリアは少し考えた。


「今日は、楽しくて疲れました」


「いいな、それ」


「そうです?」


「うん」


 ライルが少し席をずらした。


「寄りかかる?」


 アマリリアは一瞬だけ迷った。


 けれど今日は、素直でよい気がした。


「少しだけ」


 肩へ寄りかかると、ライルの体温がすぐ近くにある。


 馬車の揺れも、行きより柔らかく感じた。


「ライル様」


「何?」


「今日は、ありがとうございます」


「俺もありがとう」


「何に?」


「一緒に来てくれて」


「私も来たかったのです」


「分かってる」


 その言葉が嬉しくて、アマリリアは目を閉じた。


 王宮へ着くまでのわずかな時間、本当に少しだけ眠った。


          ◇◇◇


 王宮へ戻った時、夕刻の鐘まではまだ少し余裕があった。


 玄関口には、当然のようにハロルドがいた。


「お父様」


「遅くないな」


「約束しましたので」


「何か調べたか」


「いいえ」


「本当に?」


「本当です」


「紙は?」


「持っておりません」


「手帳は?」


「王宮です」


「筆記具は?」


「ございません!」


 そこまで確認して、ハロルドはようやく少し安心したように息を吐いた。


 その時、彼の視線がアマリリアの手首へ落ちる。


「それは何だ」


「殿下に買っていただきました」


 葉の腕飾りを見せると、ハロルドの表情が少しだけ複雑になった。


「そうか」


「お父様、嫌そうです?」


「嫌ではない」


「本当に?」


 問い返すと、ハロルドは腕飾りではなくアマリリアの顔を見た。


「……娘が嬉しそうだからな」


 その返事に、アマリリアは少しだけ目を見開いた。


 ライルも隣で何も言わず、穏やかな表情でハロルドを見ている。


「ありがとうございます」


「私に礼を言う話ではない」


「でも」


 言葉を続ける前に、ハロルドが先に尋ねた。


「楽しめたか」


 アマリリアは迷わず頷いた。


「はい。とても」


 父の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「ならいい」


 それだけだった。


 けれど、その短い言葉で十分だった。


          ◇◇◇


 夜、自室へ戻ったアマリリアは、机の前へ座って引き出しを開けた。


 一日離れていただけなのに、いつもの手帳が少し懐かしく見える。


 開いたあと、すぐに筆を走らせることはしなかった。


 今日、市場で見つけた色布付きの荷札のことは、まだ覚えている。どこにあったかも、どのように括られていたかも、ある程度は思い出せる。


 それでも今日は、そのことから記録を始めたくなかった。


 アマリリアはペンを取り、最初にこう書いた。


『市場デート。楽しかった』


 文字にすると、少しだけ恥ずかしい。


 けれど、消す気にはならなかった。


 続けて、蜂蜜と木の実の焼き菓子、干し果実の焼き菓子、煮込み料理と書く。さらに、ライルから葉の腕飾りと花をもらったこと、自分からは青い紐の栞を渡したことも残した。


 いつもの手帳なのに、今日は調査記録ではなく、普通の日記のようになっている。


 それが妙に嬉しかった。


 最後に少しだけ迷い、『気になる荷札を見つけたが、今日は聞かなかった』とだけ書いた。


 場所や形、使っていた人のことまでは記さない。


 明日になってもまだ覚えていて、本当に確認する意味があると思えば、仕事の時間に改めて考えればよい。


 アマリリアは手帳を閉じ、手首の腕飾りへ目を向けた。


 小さな葉を刻んだ、安価な木片である。


 それでも今日一番大切に持ち帰ったものは、制度上の気づきでも、新しい荷札の工夫でもなく、たぶんこれだった。


 机の上には、市場でライルからもらった小さな花が、細い瓶へ挿してある。


 昨日の夜、自分で書いた「何も調べない」「楽しむ」という二つの約束も、今日はちゃんと守ることができた。


 完全に何も気にならなかったわけではない。


 実際には、何度も調べたくなったし、途中では本気で荷札へ聞き込みをしたくなった。


 それでも、そこで仕事へ戻らずに済んだ。


 ライルの手を握って、そのまま歩く方を選べた。


 アマリリアはそのことを思い返しながら、少しだけ笑った。


 明日になれば、また仕事へ戻る。


 第二共同倉庫の予備試験も、もうすぐ六日目を迎える。ミハイルとの次の面会もいずれあるだろうし、通知の問題も残ったままだ。


 けれど今夜だけは、それらを順番に並べ直す必要はなかった。


 今日はただ、ライルと市場へ行き、同じものを食べ、互いに小さな贈り物を選び、手を繋いで歩いた。


 そして、それが楽しかった。


 今夜のアマリリアにとっては、それだけで十分だった。

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