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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第57話 調査をしない市場デートの準備を始めたら、服を選ぶだけで父と殿下が揉め始めました



 市場デートまで、あと二日。


 その日の午後、アマリリアは自室に運び込まれた三着のドレスを前にして、朝から扱っていた制度関係の資料よりも真剣な顔で悩んでいた。


 どれも王都の市場を歩くために用意された、貴族令嬢としてはかなり簡素な服である。一着目は淡い青灰色、二着目は薄い若草色、三着目は深い葡萄色で、装飾はいずれも少なく、裾も普段の外出着より歩きやすい長さに整えられていた。


 前回の市場見学で着た青灰色の服をもう一度使えば、一番早い。


 けれど今回は調査ではない。


 その違いを自分でも意識したくて、アマリリアはあえて別の服を選ぼうとしていた。


「市場へ行くだけなのに、こんなに悩むものなのですね」


 鏡の前で若草色の布を胸元へ当てながら呟くと、後ろに控えていた侍女の一人が柔らかく笑った。


「今回はお勉強ではございませんから」


「それが難しいのです」


「普通でしたら逆では?」


「私もそう思っておりました」


 アマリリアは鏡の中の自分を見つめながら、わずかに眉を寄せた。


 市場見学の時は、目立たないこと、歩きやすいこと、身分が分かりにくいこと、それだけ考えればよかった。今回はそこへ「ライルと一緒に歩くのだから、少しくらい可愛く見られたい」という、自分でも扱いに困る条件が加わっている。


 その気持ちを認めること自体は、もう以前ほど恥ずかしくない。


 けれど。


 だからといって、どの程度まで意識してよいのかは分からなかった。


「若草色、お似合いだと思います」


 侍女が言う。


「そうでしょうか」


「はい。前回の青灰色より柔らかく見えます」


「柔らかく」


「殿下もお喜びになるかと」


 そこまで言われた瞬間、アマリリアの視線が鏡の中で止まった。


「それは」


「はい」


「重要な判断材料ですね」


 侍女が一瞬だけ目を丸くしたあと、堪えきれないように笑った。


「以前でしたら、そのように素直に仰らなかったと思います」


「皆様、最近それを言いすぎではございません?」


「申し訳ございません」


「謝らなくてもよろしいです。ただ、あまり言われると成長観察をされている気分になります」


「王妃陛下や殿下方がよく仰るものですから」


「それが広がっているのです?」


「少しだけ」


 アマリリアは深く息を吐いた。


 王宮の中で自分の変化が共有され始めている気がする。


 それは少し恥ずかしい。


 けれど、悪い気はしなかった。


「では、若草色を候補にします」


「葡萄色は?」


「少し大人っぽすぎません?」


「殿下はお好きかもしれません」


「……それも重要ですね」


 また侍女が笑う。


「笑わないでくださいませ」


「申し訳ございません」


 アマリリア自身も、少しだけ笑ってしまった。


          ◇◇◇


 服選びが決まりかけたところで、扉が叩かれた。


 侍女が応対すると、外から聞き慣れた声がする。


「入っても大丈夫?」


 ライルだった。


 アマリリアは反射的に三着の服を見る。


「少々お待ちくださいませ!」


 思ったより大きな声が出た。


 扉の向こうが一瞬静かになる。


「駄目だった?」


「駄目ではございません。ただ、今は」


 アマリリアは言葉に詰まった。


 服を選んでいる。


 それだけである。


 けれど。


 市場デート用の服を本人に選んでいるところを見られるのは、なぜか非常に恥ずかしい。


「お嬢様」


 侍女が小声で呼ぶ。


「何です?」


「殿下に選んでいただいてもよろしいのでは?」


 その発想はなかった。


 アマリリアは鏡の中の自分を見ながら少し考える。


 ライルが喜ぶ服を選びたい。


 なら本人へ聞くのが一番早い。


 理屈としては完璧である。


 ただし。


 本人へ聞けば、自分が彼を意識して服を選んでいることまで完全に伝わる。


「……入っていただいてください」


「承知しました」


 侍女が扉を開ける。


 入ってきたライルは、まずアマリリアを見て、それから並んだ三着の服へ視線を移した。


「何してたの?」


「市場へ着ていく服を選んでおりました」


「デートの?」


「そうです」


 ライルの顔が一瞬で明るくなる。


「俺が見てもいいの?」


「本来は見せるつもりではございませんでした」


「じゃあ出る?」


「いえ」


 アマリリアは少しだけ視線を逸らした。


「せっかくですので、殿下にも選んでいただこうかと」


 ライルが目を見開く。


「俺が?」


「はい」


「本当に?」


「そんなに驚かなくても」


「だって、君が服を俺に選ばせるなんて初めてじゃない?」


 言われてみれば、確かにそうだった。


 アマリリアは自分の服を自分で決めることが多い。正式な行事では周囲の助言を受けるものの、ライルの好みを直接聞いたことはほとんどなかった。


「では、初めてということで」


「うん」


 ライルは嬉しそうに三着の前へ歩み寄った。


 最初に青灰色を見て、次に若草色へ触れずに視線だけを動かし、最後に葡萄色を少し長く見る。


 アマリリアは、その横顔を妙に真剣に観察してしまう。


「どれです?」


「待って」


「そんなに悩むのです?」


「大事だから」


「服ですけれど」


「君が俺とのデートで着る服だろ?」


 その言葉で、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 アマリリアは誤魔化すように腕を組んだ。


「では、真剣にお願いします」


「真剣です」


 ライルはもう一度三着を見比べた。


「若草色」


「理由は?」


「似合いそうだから」


「それだけ?」


「それだけじゃ駄目?」


 アマリリアは少し考えた。


 市場の制度なら、理由を細かく聞く。


 比較条件や対象を確認する。


 けれど。


 これは服である。


「……良いです」


「本当に?」


「似合いそうだから、で十分です」


 ライルが嬉しそうに笑った。


「じゃあ、それで」


「決定です」


 侍女がすぐに若草色のドレスを別へ掛ける。


 アマリリアは少しだけ肩の力を抜いた。


「殿下は?」


「俺?」


「何を着ていかれるのです?」


「前回みたいな服でいいかなと思ってた」


「同じものです?」


「駄目?」


 今度はアマリリアが考える側になった。


 前回の市場見学で、ライルは暗い茶色の上着と簡素なシャツを着ていた。第一王子には見えず、普通の青年にしか見えなくて、それが妙に似合っていた。


 そして。


 あの時、アマリリアは思わず「好きです」と言いかけたような記憶まである。


「別の方が良いです」


「なんで?」


「今回はデートですので」


「違う服がいい?」


「はい」


「どんな?」


 すぐに聞き返され、アマリリアは少し困った。


「……濃い青」


「青?」


「殿下には似合うと思います」


「じゃあ青にする」


「即決ですのね」


「君が選んだなら」


 胸の奥がまた少し熱くなる。


「それでよいのです?」


「うん」


「理由を聞かなくても?」


「似合うと思うって言ってくれたから十分」


 さきほど自分が言ったことを、そのまま返された。


 アマリリアは何も言えなくなり、侍女たちが笑いを堪えているのが鏡越しに見えた。


「皆様」


「何でしょう」


「今日はよく笑いますわね」


「申し訳ございません」


「もうよろしいです」


 アマリリアは諦めた。


          ◇◇◇


「ところで」


 服の話が一区切りしたところで、ライルが持っていた小さな包みを卓上へ置いた。


「これ、持ってきた」


「何です?」


「市場用」


 その一言に、アマリリアの表情が少し警戒へ変わる。


「紙ではございませんよね」


「違う」


「筆記具でも?」


「違うよ」


「手帳?」


「もっと違う」


 ライルが包みを開く。


 中から出てきたのは、小さな布袋だった。


「お金?」


「うん」


「それは必要ですわね」


 中には銅貨と少額の銀貨が分けて入っている。


 王族が日常的に直接買い物をする機会は少ないため、ライル自身がこうした小銭を持つことは多くない。しかし市場では、いちいち護衛や従者へ支払わせれば目立ってしまう。


「前回、焼き菓子を買う時にちょっと困ったから」


「今回はご自分で?」


「うん」


「私の分も?」


「それは」


 ライルが少しだけ目を逸らす。


「できれば俺が出したい」


 アマリリアは一瞬黙った。


「なぜです?」


「デートだから」


 それだけだった。


 普通の答え。


 普通すぎて、逆に困る。


「ですが、私も買いたいものがございます」


「君の分まで全部俺が出すって意味じゃないよ」


「では?」


「食べ物とか。一緒に食べるものは俺が買いたい」


「……」


 アマリリアは布袋を見た。


 王子として払うのではない。


 婚約者として払いたい。


 その差を、今なら少し理解できる。


「分かりました」


「いいの?」


「はい。ただし、私も殿下へ何か買います」


「俺に?」


「デートですので」


 ライルがまた嬉しそうに笑った。


「楽しみ」


「何を買うかは決めておりません」


「それでも」


「期待しすぎないでくださいませ」


「無理」


 侍女たちの視線がまた温かくなる。


 アマリリアはそれに気づきながら、今回は何も言わなかった。


          ◇◇◇


 そこへ、再び扉が叩かれた。


「リリア、いるか」


 今度はハロルドだった。


 アマリリアとライルが同時に顔を見合わせる。


「嫌な予感がします」


「俺も」


「聞こえているぞ」


 扉の向こうから返ってきた。


 アマリリアは小さくため息をつく。


「お入りください」


 ハロルドが入ってくる。


 そして。


 最初に若草色のドレスを見る。


 次にライルを見る。


 最後に卓上の小銭袋を見る。


「何をしている」


「市場デートの準備です」


 ライルが答えた。


「殿下に聞いていない」


「では、私が答えます。市場デートの準備です」


「そうか」


 ハロルドの表情が少しだけ険しくなる。


「服は?」


「私が選びました」


 ライルが言う。


「殿下に聞いていない」


「お父様」


「何だ」


「私が殿下に選んでいただきました」


 ハロルドが一瞬黙る。


「なぜ」


「デートだからです」


 完全に答えを失ったような顔になった。


 アマリリアは少しだけ勝った気分になる。


「それは」


 ハロルドが言葉を探す。


「別に、良いが」


「では問題ございませんね」


「だが、その色は目立たないか」


 やはり何か言いたいらしい。


「若草色が?」


「市場では」


「お父様、前回よりかなり簡素な服です」


「そういう問題ではない」


「では何です?」


「殿下が選んだというのが」


「結局そこではございませんか!」


 ライルが吹き出した。


「伯爵、服の安全性じゃなくて気持ちの問題ですよね」


「殿下は黙っていてください」


「はい」


 このやり取りもすっかり定番になりつつある。


 侍女たちは仕事を続けながら、少しだけ口元を緩めていた。


「お父様は、何をしにいらしたのです?」


「護衛についてだ」


 ようやく本題が出た。


「市場当日は、前回と同じように近距離二名、遠巻きに四名。ただし今回は調査ではないから、ディーンとゼインは同行しない」


 アマリリアは少し驚いた。


「ゼインも?」


「仕事ではないだろう」


「確かに」


「護衛は専門の者だけだ。殿下側から二名、こちらから四名で調整する」


「そんなに必要です?」


「必要だ」


「目立ちません?」


「目立たせない」


 ハロルドは譲る気がない。


 ライルも今回は反対しなかった。


「俺はいいと思う」


「殿下まで?」


「君と二人で歩けるなら、護衛が遠くにいるくらいは気にしない」


 その言い方に、アマリリアは少しだけ目を細める。


「本当に二人ではございませんけれど」


「気分は二人」


「護衛の方々へ失礼では?」


「仕事だから気にしないと思う」


 ハロルドが低い声で咳払いする。


「私の前であまり楽しそうにするな」


「伯爵」


「何だ」


「無理です」


「殿下」


「だって楽しみなので」


 ハロルドの眉間に皺が寄る。


 アマリリアは少し困りながらも、嬉しくなってしまった。


「お父様」


「何だ」


「私も楽しみです」


 ハロルドの表情が止まる。


 ライルが嬉しそうにアマリリアを見る。


「リリア」


「はい」


「それを私に言う必要は」


「ございます」


「なぜ」


「殿下だけが私を連れ出すのではなく、私も行きたいのだと以前申し上げましたので」


 ハロルドはしばらく黙った。


 やがて。


「……分かっている」


 少しだけ声音が柔らかくなる。


「なら、楽しんでこい」


 思っていなかった言葉だった。


 アマリリアは目を瞬く。


「お父様」


「何だ」


「今、楽しんでこいと」


「聞こえただろう」


「はい」


「なら何度も言わせるな」


 ハロルドは照れたように視線を逸らした。


 ライルが笑いそうになっている。


 アマリリアは彼を横目で制し、父へ向き直る。


「ありがとうございます」


「ああ」


 今度は、ハロルドも自然に礼を受け取った。


          ◇◇◇


「ただし」


 そこで父の声が再び硬くなる。


 アマリリアは嫌な予感がした。


「まだ条件が?」


「確認だ」


「昨日までに十分確認しました」


「念のためだ」


 ハロルドは指を一本ずつ立てる。


「調査をしない」


「はい」


「手帳、紙、筆記具を持たない」


「はい」


「護衛の指示には従う」


「はい」


「夕刻の鐘が鳴る前に王宮へ戻る」


「はい」


「市場で何か問題を見つけても、その場で勝手に動かない」


「それは少し言い方が」


「動かない」


「人が倒れていたら助けます」


「そういう話ではない」


「では、制度上の問題については調べません」


「よし」


 ハロルドが頷く。


 ライルが横から手を上げた。


「質問」


「何です?」


「買ったものについて『これ美味しいね』って話すのは調査じゃないですよね?」


「当たり前だ」


「『どこで作ったんだろう』は?」


「微妙だな」


「お父様」


「何だ」


「そこまで管理されると会話が不自然になります」


「そうか?」


「そうです」


 アマリリアは少し考える。


「普通の興味まで禁止にする必要はないと思います。ただ、そこから店主へ生産地、流通、仕入れ経路を聞き始めたら止めてくださいませ」


 ライルが頷く。


「分かった」


「殿下もですからね」


「俺も?」


「当然です。最近、殿下もかなり質問されますので」


「確かに」


「二人とも自覚があるのが一番怖いな」


 ハロルドが疲れたように言う。


「では、合図を決めます?」


 ライルがアマリリアを見る。


 嫌な予感がした。


「何の?」


「調査に入りそうになったら止める合図」


「昨日までと同じでよろしいのでは?」


「手を握る?」


 ハロルドの顔が一瞬で険しくなる。


「駄目だ」


「なぜです?」


 アマリリアが反射的に聞き返した。


 今度は父の方が驚く。


「リリア?」


「人混みで手を繋ぐことは許可されましたでしょう?」


「人混みで離れないためならな」


「なら、合図にも使えます」


「そういう目的で増やすな」


「お父様」


「駄目だ」


 父娘の視線がぶつかる。


 ライルは横で何とも言えない顔をしていた。


「じゃあ」


 しばらくして、彼が口を挟む。


「普通に名前呼ぶのでどうです?」


「最初からそうしてください」


 ハロルドが即答する。


 アマリリアは少しだけ不満だった。


 なぜかは自分でも分からない。


「でも」


 ライルが続ける。


「人混みでは普通に手を繋ぎます」


「……」


 ハロルドの眉間がさらに深くなる。


「伯爵?」


「分かっている」


「なら」


「分かっているが、気に入るとは言っていない」


 ライルが笑った。


「それで十分です」


「殿下は本当に強くなったな」


「伯爵のおかげかもしれません」


「嬉しくない」


 アマリリアは二人を見ながら、また少し笑った。


          ◇◇◇


 ハロルドが護衛担当者との打ち合わせへ戻ったあと、部屋にはアマリリアとライル、そして侍女たちだけが残った。


 若草色のドレスはすでに決定として別に掛けられ、靴や小さな鞄の候補が並べられている。


「鞄」


 ライルが言う。


「何です?」


「手帳入ってないですよね?」


「殿下まで確認するのです?」


「伯爵にあとで怒られたくないから」


「入れません」


「紙も?」


「入れません」


「筆記具も?」


「入れません!」


 アマリリアは少し強く返した。


 けれど。


 視線が小さな鞄へ向く。


 いつもなら、手帳が一冊入る大きさを選ぶ。


 今回選ばれているのは、硬貨と小さな布、必要最低限の身の回り品だけが入る小型のものだった。


「本当に何も書けませんわね」


「不安?」


「少し」


 正直に答える。


 ライルが隣へ来る。


「忘れたら?」


「何をです?」


「市場で気になったこと」


「……忘れたら、必要ではなかったということかもしれません」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 以前なら絶対に出なかった答えだった。


 気づいたことは残す。


 忘れない。


 拾った情報は全部持ち帰る。


 それが当然だった。


 でも。


 デートで見つけた小さな違和感まで、全部仕事へ持ち帰らなくてもよい。


「今のすごいな」


 ライルが静かに言った。


「成長です?」


「うん。でも、今日は言っても怒らない?」


「少しだけなら」


「じゃあ、かなり成長」


「少しだけと申しました」


 ライルが笑う。


「でも、本当に忘れたくないことがあったら?」


「帰ってから覚えている範囲で書きます」


「それなら伯爵も怒らないと思う」


「お父様は『忘れろ』とは仰いませんでしたから」


 アマリリアは小さな鞄を手に取った。


 軽い。


 いつもの手帳がないだけで、驚くほど軽かった。


「不思議です」


「何が?」


「荷物が軽いだけなのに、少し落ち着きません」


「俺がいる」


 ライルが自然に言う。


 アマリリアは彼を見る。


「手帳の代わりです?」


「それは嫌だな」


「なぜ?」


「君に書かれる側になりそうだから」


 想像してしまい、アマリリアは笑った。


「では、殿下は殿下のままでいてくださいませ」


「うん」


「手帳の代わりにはしません」


「良かった」


 少しだけ沈黙が落ちる。


 窓の外から、午後の風に揺れる木々の音が聞こえた。


「楽しみです」


 アマリリアが言った。


 今度は、誰に聞かれたからでもない。


「市場?」


「はい」


「俺も」


 ライルの声が柔らかくなる。


「何したい?」


「歩きたいです」


「それだけ?」


「まずは」


 アマリリアは少し考えた。


「前回食べた蜂蜜と木の実の焼き菓子を、今度は何も考えずに食べたいです」


「値段も見ない?」


「値段は見ます」


「そこは見るんだ」


「買い物ですもの」


「理由は聞かない?」


「聞きません」


「じゃあ、二つ買う?」


「一つずつでは?」


「別の味もあったら半分ずつ」


 その提案に、アマリリアは少しだけ笑った。


「それが良いです」


「あと何か買う?」


「殿下へのものを」


「何?」


「まだ決めません」


「楽しみ」


「期待しすぎないでくださいませ」


「無理って言っただろ?」


 同じ言葉をまた返される。


 アマリリアは今度は反論せず、少しだけ頬を緩めた。


          ◇◇◇


 翌朝。


 市場デートまで、あと一日。


 本来ならその日は特に大きな予定がなかったが、第二共同倉庫の予備試験について短い中間連絡が王宮へ届いた。


 アマリリアは小会議室でその封書を受け取ったものの、すぐには開かなかった。


「急ぎです?」


 ディーンへ尋ねる。


「いいえ。予備試験三日目までの経過を簡潔にまとめたものです。事故や試験中止の報告ではありません」


「では、今日読まなくても?」


「問題ございません」


 アマリリアは封書を机の端へ置いた。


 ライルがそれを見て少しだけ目を丸くする。


「読まないの?」


「明日でもよいでしょう」


「明日はデートだよ?」


「では、明後日です」


 ライルがさらに驚いた。


「二日置くの?」


「急ぎではないのでしょう?」


「うん」


「予備試験もまだ三日目です。途中経過を見れば、また勝手に意味を持たせたくなるかもしれません」


 ディーンが静かに頷く。


「現場には六日間終了後に主要結果をまとめてもらう予定ですので、そちらを待つことも可能です」


「では、そうしましょう」


 アマリリアは封書へ手を伸ばし、開ける代わりにディーンへ戻した。


「事故や安全上の問題が出た場合だけ、すぐ知らせてくださいませ。それ以外は六日終了後にまとめて見ます」


「承知しました」


 ライルが少し笑う。


「何です?」


「いや。昔の君だったら絶対開けてたなって」


「私もそう思います」


「自分で言った」


「事実ですもの」


 アマリリアは少しだけ胸を張った。


「明日は仕事をしないと決めておりますので、今日から余計な仕事を増やさないのです」


「すごい」


「そこまでです?」


「かなり」


 ディーンも珍しく口元を緩めた。


「明日の市場外出についても、午前中の緊急案件がない限り予定変更は不要とのことです」


「王妃様から?」


「はい。『仕事を見つけて自分から潰さないように』との伝言も」


 アマリリアの顔が固まる。


「王妃様まで」


「皆、君のこと分かってるな」


「殿下は楽しそうですね」


「うん」


「否定してくださいませ」


「無理」


 また同じ返事だった。


          ◇◇◇


 昼前、王妃教育の短い確認を終えたアマリリアは、セレーネから呼び止められた。


 今日は正式な課題ではなく、前日に届いていた地方報告についての簡単な確認だけだったため、いつもより早く終わっている。


「明日でしょう?」


 セレーネが茶を飲みながら言う。


「何がです?」


「市場のデート」


「王妃様までご存じなのですね」


「知らないと思った?」


「お父様がお話しになったのです?」


「ライルから」


 アマリリアは片手で額を押さえた。


「殿下」


「嬉しかったんでしょうね」


「そこは否定いたしませんけれど」


 セレーネが楽しそうに笑う。


「本当に手帳を持っていかないの?」


「はい」


「紙も?」


「はい」


「大丈夫?」


「皆様、同じ質問をなさいますね」


「だってあなたよ?」


「どういう意味です?」


「市場で何か見つけたら、その場で調べ始めそうだもの」


 完全には否定できない。


「調べません」


「約束?」


「約束です」


 セレーネは少しだけ表情を柔らかくした。


「なら、楽しんでいらっしゃい」


 昨日のハロルドと同じ言葉だった。


 アマリリアは少し驚く。


「王妃様も?」


「何が?」


「楽しんでこいと」


「デートなのだから当然でしょう」


「……そうですわね」


「勉強しなさい、と言われると思った?」


「少しだけ」


「それは別の日でいいわ」


 セレーネはカップを置いた。


「人の暮らしを見ることも大事。でも、人の暮らしを自分で持つことも同じくらい大事よ」


 アマリリアはその言葉をすぐには理解できなかった。


「自分で持つ?」


「あなたは最近、人が働くこと、困ること、買うこと、運ぶことをたくさん見たでしょう?」


「はい」


「でも、あなた自身が誰かと歩いて、食べたいものを選んで、くだらないことで笑って、仕事ではない時間を過ごすことも暮らしでしょう」


 アマリリアは黙った。


 市場を見る。


 人の生活を見る。


 それだけではなく。


 自分も生活する。


 今まであまり考えたことがなかった。


「王妃様」


「何?」


「それも王妃教育です?」


「今日は違うわ」


 セレーネが笑う。


「母親として言っているだけ」


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


 ライルの母親。


 そして。


 将来、本当に結婚することになれば。


 自分にとっても家族になる人。


「ありがとうございます」


 アマリリアが礼を言うと、セレーネは静かに頷いた。


「帰ってきたら、何を買ったかくらいは教えてちょうだい」


「調査報告ではなく?」


「デート報告」


「……それは少し恥ずかしいです」


「楽しみにしているわ」


「王妃様」


「命令ではないから安心して」


 逃げ道があるようで、ほとんどない。


 アマリリアは困りながらも笑った。


          ◇◇◇


 その夜。


 アマリリアは自室で、明日のための小さな鞄を確認した。


 財布。


 薄い布。


 小さな櫛。


 身分を示す必要が生じた時のための最低限の印章は、護衛側が別に持つことになっている。


 手帳はない。


 紙もない。


 筆記具もない。


 机の上に置かれた手帳が、妙に存在感を持って見える。


「……置いていきます」


 誰に言うでもなく呟いた。


 もちろん。


 手帳が返事をするわけではない。


 それでも、長い間どこへ行くにも持ち歩いてきたものを置いていくのは、少し不思議だった。


 アマリリアは手帳を開いた。


 明日の予定を書く必要はない。


 すでに予定表にも書いてある。


 それでも。


 一行だけ。


『明日は、何も調べない』


 そこまで書き。


 少し考える。


 もう一行。


『ライル様と市場を歩く』


 文字にすると、急に恥ずかしくなった。


 アマリリアは閉じようとして、やめる。


 最後に小さく書き足す。


『楽しむ』


 三行だけだった。


 制度も。


 通知も。


 倉庫も。


 ミハイルも。


 何も書いていない。


 それでよい。


 アマリリアは手帳を閉じ、机の引き出しへ入れた。


 いつもなら手の届くところへ置く。


 今日はあえて見えない場所へしまう。


 窓の外には、静かな王宮の庭が広がっていた。


 明日の今頃には。


 市場から戻っているはずだ。


 何を食べて。


 何を買って。


 何を話すのか。


 まだ決めていない。


 決めなくてよい。


 それが。


 明日の一番大事な約束だった。

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