第57話 調査をしない市場デートの準備を始めたら、服を選ぶだけで父と殿下が揉め始めました
市場デートまで、あと二日。
その日の午後、アマリリアは自室に運び込まれた三着のドレスを前にして、朝から扱っていた制度関係の資料よりも真剣な顔で悩んでいた。
どれも王都の市場を歩くために用意された、貴族令嬢としてはかなり簡素な服である。一着目は淡い青灰色、二着目は薄い若草色、三着目は深い葡萄色で、装飾はいずれも少なく、裾も普段の外出着より歩きやすい長さに整えられていた。
前回の市場見学で着た青灰色の服をもう一度使えば、一番早い。
けれど今回は調査ではない。
その違いを自分でも意識したくて、アマリリアはあえて別の服を選ぼうとしていた。
「市場へ行くだけなのに、こんなに悩むものなのですね」
鏡の前で若草色の布を胸元へ当てながら呟くと、後ろに控えていた侍女の一人が柔らかく笑った。
「今回はお勉強ではございませんから」
「それが難しいのです」
「普通でしたら逆では?」
「私もそう思っておりました」
アマリリアは鏡の中の自分を見つめながら、わずかに眉を寄せた。
市場見学の時は、目立たないこと、歩きやすいこと、身分が分かりにくいこと、それだけ考えればよかった。今回はそこへ「ライルと一緒に歩くのだから、少しくらい可愛く見られたい」という、自分でも扱いに困る条件が加わっている。
その気持ちを認めること自体は、もう以前ほど恥ずかしくない。
けれど。
だからといって、どの程度まで意識してよいのかは分からなかった。
「若草色、お似合いだと思います」
侍女が言う。
「そうでしょうか」
「はい。前回の青灰色より柔らかく見えます」
「柔らかく」
「殿下もお喜びになるかと」
そこまで言われた瞬間、アマリリアの視線が鏡の中で止まった。
「それは」
「はい」
「重要な判断材料ですね」
侍女が一瞬だけ目を丸くしたあと、堪えきれないように笑った。
「以前でしたら、そのように素直に仰らなかったと思います」
「皆様、最近それを言いすぎではございません?」
「申し訳ございません」
「謝らなくてもよろしいです。ただ、あまり言われると成長観察をされている気分になります」
「王妃陛下や殿下方がよく仰るものですから」
「それが広がっているのです?」
「少しだけ」
アマリリアは深く息を吐いた。
王宮の中で自分の変化が共有され始めている気がする。
それは少し恥ずかしい。
けれど、悪い気はしなかった。
「では、若草色を候補にします」
「葡萄色は?」
「少し大人っぽすぎません?」
「殿下はお好きかもしれません」
「……それも重要ですね」
また侍女が笑う。
「笑わないでくださいませ」
「申し訳ございません」
アマリリア自身も、少しだけ笑ってしまった。
◇◇◇
服選びが決まりかけたところで、扉が叩かれた。
侍女が応対すると、外から聞き慣れた声がする。
「入っても大丈夫?」
ライルだった。
アマリリアは反射的に三着の服を見る。
「少々お待ちくださいませ!」
思ったより大きな声が出た。
扉の向こうが一瞬静かになる。
「駄目だった?」
「駄目ではございません。ただ、今は」
アマリリアは言葉に詰まった。
服を選んでいる。
それだけである。
けれど。
市場デート用の服を本人に選んでいるところを見られるのは、なぜか非常に恥ずかしい。
「お嬢様」
侍女が小声で呼ぶ。
「何です?」
「殿下に選んでいただいてもよろしいのでは?」
その発想はなかった。
アマリリアは鏡の中の自分を見ながら少し考える。
ライルが喜ぶ服を選びたい。
なら本人へ聞くのが一番早い。
理屈としては完璧である。
ただし。
本人へ聞けば、自分が彼を意識して服を選んでいることまで完全に伝わる。
「……入っていただいてください」
「承知しました」
侍女が扉を開ける。
入ってきたライルは、まずアマリリアを見て、それから並んだ三着の服へ視線を移した。
「何してたの?」
「市場へ着ていく服を選んでおりました」
「デートの?」
「そうです」
ライルの顔が一瞬で明るくなる。
「俺が見てもいいの?」
「本来は見せるつもりではございませんでした」
「じゃあ出る?」
「いえ」
アマリリアは少しだけ視線を逸らした。
「せっかくですので、殿下にも選んでいただこうかと」
ライルが目を見開く。
「俺が?」
「はい」
「本当に?」
「そんなに驚かなくても」
「だって、君が服を俺に選ばせるなんて初めてじゃない?」
言われてみれば、確かにそうだった。
アマリリアは自分の服を自分で決めることが多い。正式な行事では周囲の助言を受けるものの、ライルの好みを直接聞いたことはほとんどなかった。
「では、初めてということで」
「うん」
ライルは嬉しそうに三着の前へ歩み寄った。
最初に青灰色を見て、次に若草色へ触れずに視線だけを動かし、最後に葡萄色を少し長く見る。
アマリリアは、その横顔を妙に真剣に観察してしまう。
「どれです?」
「待って」
「そんなに悩むのです?」
「大事だから」
「服ですけれど」
「君が俺とのデートで着る服だろ?」
その言葉で、胸の奥が少しだけ熱くなる。
アマリリアは誤魔化すように腕を組んだ。
「では、真剣にお願いします」
「真剣です」
ライルはもう一度三着を見比べた。
「若草色」
「理由は?」
「似合いそうだから」
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目?」
アマリリアは少し考えた。
市場の制度なら、理由を細かく聞く。
比較条件や対象を確認する。
けれど。
これは服である。
「……良いです」
「本当に?」
「似合いそうだから、で十分です」
ライルが嬉しそうに笑った。
「じゃあ、それで」
「決定です」
侍女がすぐに若草色のドレスを別へ掛ける。
アマリリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「殿下は?」
「俺?」
「何を着ていかれるのです?」
「前回みたいな服でいいかなと思ってた」
「同じものです?」
「駄目?」
今度はアマリリアが考える側になった。
前回の市場見学で、ライルは暗い茶色の上着と簡素なシャツを着ていた。第一王子には見えず、普通の青年にしか見えなくて、それが妙に似合っていた。
そして。
あの時、アマリリアは思わず「好きです」と言いかけたような記憶まである。
「別の方が良いです」
「なんで?」
「今回はデートですので」
「違う服がいい?」
「はい」
「どんな?」
すぐに聞き返され、アマリリアは少し困った。
「……濃い青」
「青?」
「殿下には似合うと思います」
「じゃあ青にする」
「即決ですのね」
「君が選んだなら」
胸の奥がまた少し熱くなる。
「それでよいのです?」
「うん」
「理由を聞かなくても?」
「似合うと思うって言ってくれたから十分」
さきほど自分が言ったことを、そのまま返された。
アマリリアは何も言えなくなり、侍女たちが笑いを堪えているのが鏡越しに見えた。
「皆様」
「何でしょう」
「今日はよく笑いますわね」
「申し訳ございません」
「もうよろしいです」
アマリリアは諦めた。
◇◇◇
「ところで」
服の話が一区切りしたところで、ライルが持っていた小さな包みを卓上へ置いた。
「これ、持ってきた」
「何です?」
「市場用」
その一言に、アマリリアの表情が少し警戒へ変わる。
「紙ではございませんよね」
「違う」
「筆記具でも?」
「違うよ」
「手帳?」
「もっと違う」
ライルが包みを開く。
中から出てきたのは、小さな布袋だった。
「お金?」
「うん」
「それは必要ですわね」
中には銅貨と少額の銀貨が分けて入っている。
王族が日常的に直接買い物をする機会は少ないため、ライル自身がこうした小銭を持つことは多くない。しかし市場では、いちいち護衛や従者へ支払わせれば目立ってしまう。
「前回、焼き菓子を買う時にちょっと困ったから」
「今回はご自分で?」
「うん」
「私の分も?」
「それは」
ライルが少しだけ目を逸らす。
「できれば俺が出したい」
アマリリアは一瞬黙った。
「なぜです?」
「デートだから」
それだけだった。
普通の答え。
普通すぎて、逆に困る。
「ですが、私も買いたいものがございます」
「君の分まで全部俺が出すって意味じゃないよ」
「では?」
「食べ物とか。一緒に食べるものは俺が買いたい」
「……」
アマリリアは布袋を見た。
王子として払うのではない。
婚約者として払いたい。
その差を、今なら少し理解できる。
「分かりました」
「いいの?」
「はい。ただし、私も殿下へ何か買います」
「俺に?」
「デートですので」
ライルがまた嬉しそうに笑った。
「楽しみ」
「何を買うかは決めておりません」
「それでも」
「期待しすぎないでくださいませ」
「無理」
侍女たちの視線がまた温かくなる。
アマリリアはそれに気づきながら、今回は何も言わなかった。
◇◇◇
そこへ、再び扉が叩かれた。
「リリア、いるか」
今度はハロルドだった。
アマリリアとライルが同時に顔を見合わせる。
「嫌な予感がします」
「俺も」
「聞こえているぞ」
扉の向こうから返ってきた。
アマリリアは小さくため息をつく。
「お入りください」
ハロルドが入ってくる。
そして。
最初に若草色のドレスを見る。
次にライルを見る。
最後に卓上の小銭袋を見る。
「何をしている」
「市場デートの準備です」
ライルが答えた。
「殿下に聞いていない」
「では、私が答えます。市場デートの準備です」
「そうか」
ハロルドの表情が少しだけ険しくなる。
「服は?」
「私が選びました」
ライルが言う。
「殿下に聞いていない」
「お父様」
「何だ」
「私が殿下に選んでいただきました」
ハロルドが一瞬黙る。
「なぜ」
「デートだからです」
完全に答えを失ったような顔になった。
アマリリアは少しだけ勝った気分になる。
「それは」
ハロルドが言葉を探す。
「別に、良いが」
「では問題ございませんね」
「だが、その色は目立たないか」
やはり何か言いたいらしい。
「若草色が?」
「市場では」
「お父様、前回よりかなり簡素な服です」
「そういう問題ではない」
「では何です?」
「殿下が選んだというのが」
「結局そこではございませんか!」
ライルが吹き出した。
「伯爵、服の安全性じゃなくて気持ちの問題ですよね」
「殿下は黙っていてください」
「はい」
このやり取りもすっかり定番になりつつある。
侍女たちは仕事を続けながら、少しだけ口元を緩めていた。
「お父様は、何をしにいらしたのです?」
「護衛についてだ」
ようやく本題が出た。
「市場当日は、前回と同じように近距離二名、遠巻きに四名。ただし今回は調査ではないから、ディーンとゼインは同行しない」
アマリリアは少し驚いた。
「ゼインも?」
「仕事ではないだろう」
「確かに」
「護衛は専門の者だけだ。殿下側から二名、こちらから四名で調整する」
「そんなに必要です?」
「必要だ」
「目立ちません?」
「目立たせない」
ハロルドは譲る気がない。
ライルも今回は反対しなかった。
「俺はいいと思う」
「殿下まで?」
「君と二人で歩けるなら、護衛が遠くにいるくらいは気にしない」
その言い方に、アマリリアは少しだけ目を細める。
「本当に二人ではございませんけれど」
「気分は二人」
「護衛の方々へ失礼では?」
「仕事だから気にしないと思う」
ハロルドが低い声で咳払いする。
「私の前であまり楽しそうにするな」
「伯爵」
「何だ」
「無理です」
「殿下」
「だって楽しみなので」
ハロルドの眉間に皺が寄る。
アマリリアは少し困りながらも、嬉しくなってしまった。
「お父様」
「何だ」
「私も楽しみです」
ハロルドの表情が止まる。
ライルが嬉しそうにアマリリアを見る。
「リリア」
「はい」
「それを私に言う必要は」
「ございます」
「なぜ」
「殿下だけが私を連れ出すのではなく、私も行きたいのだと以前申し上げましたので」
ハロルドはしばらく黙った。
やがて。
「……分かっている」
少しだけ声音が柔らかくなる。
「なら、楽しんでこい」
思っていなかった言葉だった。
アマリリアは目を瞬く。
「お父様」
「何だ」
「今、楽しんでこいと」
「聞こえただろう」
「はい」
「なら何度も言わせるな」
ハロルドは照れたように視線を逸らした。
ライルが笑いそうになっている。
アマリリアは彼を横目で制し、父へ向き直る。
「ありがとうございます」
「ああ」
今度は、ハロルドも自然に礼を受け取った。
◇◇◇
「ただし」
そこで父の声が再び硬くなる。
アマリリアは嫌な予感がした。
「まだ条件が?」
「確認だ」
「昨日までに十分確認しました」
「念のためだ」
ハロルドは指を一本ずつ立てる。
「調査をしない」
「はい」
「手帳、紙、筆記具を持たない」
「はい」
「護衛の指示には従う」
「はい」
「夕刻の鐘が鳴る前に王宮へ戻る」
「はい」
「市場で何か問題を見つけても、その場で勝手に動かない」
「それは少し言い方が」
「動かない」
「人が倒れていたら助けます」
「そういう話ではない」
「では、制度上の問題については調べません」
「よし」
ハロルドが頷く。
ライルが横から手を上げた。
「質問」
「何です?」
「買ったものについて『これ美味しいね』って話すのは調査じゃないですよね?」
「当たり前だ」
「『どこで作ったんだろう』は?」
「微妙だな」
「お父様」
「何だ」
「そこまで管理されると会話が不自然になります」
「そうか?」
「そうです」
アマリリアは少し考える。
「普通の興味まで禁止にする必要はないと思います。ただ、そこから店主へ生産地、流通、仕入れ経路を聞き始めたら止めてくださいませ」
ライルが頷く。
「分かった」
「殿下もですからね」
「俺も?」
「当然です。最近、殿下もかなり質問されますので」
「確かに」
「二人とも自覚があるのが一番怖いな」
ハロルドが疲れたように言う。
「では、合図を決めます?」
ライルがアマリリアを見る。
嫌な予感がした。
「何の?」
「調査に入りそうになったら止める合図」
「昨日までと同じでよろしいのでは?」
「手を握る?」
ハロルドの顔が一瞬で険しくなる。
「駄目だ」
「なぜです?」
アマリリアが反射的に聞き返した。
今度は父の方が驚く。
「リリア?」
「人混みで手を繋ぐことは許可されましたでしょう?」
「人混みで離れないためならな」
「なら、合図にも使えます」
「そういう目的で増やすな」
「お父様」
「駄目だ」
父娘の視線がぶつかる。
ライルは横で何とも言えない顔をしていた。
「じゃあ」
しばらくして、彼が口を挟む。
「普通に名前呼ぶのでどうです?」
「最初からそうしてください」
ハロルドが即答する。
アマリリアは少しだけ不満だった。
なぜかは自分でも分からない。
「でも」
ライルが続ける。
「人混みでは普通に手を繋ぎます」
「……」
ハロルドの眉間がさらに深くなる。
「伯爵?」
「分かっている」
「なら」
「分かっているが、気に入るとは言っていない」
ライルが笑った。
「それで十分です」
「殿下は本当に強くなったな」
「伯爵のおかげかもしれません」
「嬉しくない」
アマリリアは二人を見ながら、また少し笑った。
◇◇◇
ハロルドが護衛担当者との打ち合わせへ戻ったあと、部屋にはアマリリアとライル、そして侍女たちだけが残った。
若草色のドレスはすでに決定として別に掛けられ、靴や小さな鞄の候補が並べられている。
「鞄」
ライルが言う。
「何です?」
「手帳入ってないですよね?」
「殿下まで確認するのです?」
「伯爵にあとで怒られたくないから」
「入れません」
「紙も?」
「入れません」
「筆記具も?」
「入れません!」
アマリリアは少し強く返した。
けれど。
視線が小さな鞄へ向く。
いつもなら、手帳が一冊入る大きさを選ぶ。
今回選ばれているのは、硬貨と小さな布、必要最低限の身の回り品だけが入る小型のものだった。
「本当に何も書けませんわね」
「不安?」
「少し」
正直に答える。
ライルが隣へ来る。
「忘れたら?」
「何をです?」
「市場で気になったこと」
「……忘れたら、必要ではなかったということかもしれません」
言ってから、自分で少し驚いた。
以前なら絶対に出なかった答えだった。
気づいたことは残す。
忘れない。
拾った情報は全部持ち帰る。
それが当然だった。
でも。
デートで見つけた小さな違和感まで、全部仕事へ持ち帰らなくてもよい。
「今のすごいな」
ライルが静かに言った。
「成長です?」
「うん。でも、今日は言っても怒らない?」
「少しだけなら」
「じゃあ、かなり成長」
「少しだけと申しました」
ライルが笑う。
「でも、本当に忘れたくないことがあったら?」
「帰ってから覚えている範囲で書きます」
「それなら伯爵も怒らないと思う」
「お父様は『忘れろ』とは仰いませんでしたから」
アマリリアは小さな鞄を手に取った。
軽い。
いつもの手帳がないだけで、驚くほど軽かった。
「不思議です」
「何が?」
「荷物が軽いだけなのに、少し落ち着きません」
「俺がいる」
ライルが自然に言う。
アマリリアは彼を見る。
「手帳の代わりです?」
「それは嫌だな」
「なぜ?」
「君に書かれる側になりそうだから」
想像してしまい、アマリリアは笑った。
「では、殿下は殿下のままでいてくださいませ」
「うん」
「手帳の代わりにはしません」
「良かった」
少しだけ沈黙が落ちる。
窓の外から、午後の風に揺れる木々の音が聞こえた。
「楽しみです」
アマリリアが言った。
今度は、誰に聞かれたからでもない。
「市場?」
「はい」
「俺も」
ライルの声が柔らかくなる。
「何したい?」
「歩きたいです」
「それだけ?」
「まずは」
アマリリアは少し考えた。
「前回食べた蜂蜜と木の実の焼き菓子を、今度は何も考えずに食べたいです」
「値段も見ない?」
「値段は見ます」
「そこは見るんだ」
「買い物ですもの」
「理由は聞かない?」
「聞きません」
「じゃあ、二つ買う?」
「一つずつでは?」
「別の味もあったら半分ずつ」
その提案に、アマリリアは少しだけ笑った。
「それが良いです」
「あと何か買う?」
「殿下へのものを」
「何?」
「まだ決めません」
「楽しみ」
「期待しすぎないでくださいませ」
「無理って言っただろ?」
同じ言葉をまた返される。
アマリリアは今度は反論せず、少しだけ頬を緩めた。
◇◇◇
翌朝。
市場デートまで、あと一日。
本来ならその日は特に大きな予定がなかったが、第二共同倉庫の予備試験について短い中間連絡が王宮へ届いた。
アマリリアは小会議室でその封書を受け取ったものの、すぐには開かなかった。
「急ぎです?」
ディーンへ尋ねる。
「いいえ。予備試験三日目までの経過を簡潔にまとめたものです。事故や試験中止の報告ではありません」
「では、今日読まなくても?」
「問題ございません」
アマリリアは封書を机の端へ置いた。
ライルがそれを見て少しだけ目を丸くする。
「読まないの?」
「明日でもよいでしょう」
「明日はデートだよ?」
「では、明後日です」
ライルがさらに驚いた。
「二日置くの?」
「急ぎではないのでしょう?」
「うん」
「予備試験もまだ三日目です。途中経過を見れば、また勝手に意味を持たせたくなるかもしれません」
ディーンが静かに頷く。
「現場には六日間終了後に主要結果をまとめてもらう予定ですので、そちらを待つことも可能です」
「では、そうしましょう」
アマリリアは封書へ手を伸ばし、開ける代わりにディーンへ戻した。
「事故や安全上の問題が出た場合だけ、すぐ知らせてくださいませ。それ以外は六日終了後にまとめて見ます」
「承知しました」
ライルが少し笑う。
「何です?」
「いや。昔の君だったら絶対開けてたなって」
「私もそう思います」
「自分で言った」
「事実ですもの」
アマリリアは少しだけ胸を張った。
「明日は仕事をしないと決めておりますので、今日から余計な仕事を増やさないのです」
「すごい」
「そこまでです?」
「かなり」
ディーンも珍しく口元を緩めた。
「明日の市場外出についても、午前中の緊急案件がない限り予定変更は不要とのことです」
「王妃様から?」
「はい。『仕事を見つけて自分から潰さないように』との伝言も」
アマリリアの顔が固まる。
「王妃様まで」
「皆、君のこと分かってるな」
「殿下は楽しそうですね」
「うん」
「否定してくださいませ」
「無理」
また同じ返事だった。
◇◇◇
昼前、王妃教育の短い確認を終えたアマリリアは、セレーネから呼び止められた。
今日は正式な課題ではなく、前日に届いていた地方報告についての簡単な確認だけだったため、いつもより早く終わっている。
「明日でしょう?」
セレーネが茶を飲みながら言う。
「何がです?」
「市場のデート」
「王妃様までご存じなのですね」
「知らないと思った?」
「お父様がお話しになったのです?」
「ライルから」
アマリリアは片手で額を押さえた。
「殿下」
「嬉しかったんでしょうね」
「そこは否定いたしませんけれど」
セレーネが楽しそうに笑う。
「本当に手帳を持っていかないの?」
「はい」
「紙も?」
「はい」
「大丈夫?」
「皆様、同じ質問をなさいますね」
「だってあなたよ?」
「どういう意味です?」
「市場で何か見つけたら、その場で調べ始めそうだもの」
完全には否定できない。
「調べません」
「約束?」
「約束です」
セレーネは少しだけ表情を柔らかくした。
「なら、楽しんでいらっしゃい」
昨日のハロルドと同じ言葉だった。
アマリリアは少し驚く。
「王妃様も?」
「何が?」
「楽しんでこいと」
「デートなのだから当然でしょう」
「……そうですわね」
「勉強しなさい、と言われると思った?」
「少しだけ」
「それは別の日でいいわ」
セレーネはカップを置いた。
「人の暮らしを見ることも大事。でも、人の暮らしを自分で持つことも同じくらい大事よ」
アマリリアはその言葉をすぐには理解できなかった。
「自分で持つ?」
「あなたは最近、人が働くこと、困ること、買うこと、運ぶことをたくさん見たでしょう?」
「はい」
「でも、あなた自身が誰かと歩いて、食べたいものを選んで、くだらないことで笑って、仕事ではない時間を過ごすことも暮らしでしょう」
アマリリアは黙った。
市場を見る。
人の生活を見る。
それだけではなく。
自分も生活する。
今まであまり考えたことがなかった。
「王妃様」
「何?」
「それも王妃教育です?」
「今日は違うわ」
セレーネが笑う。
「母親として言っているだけ」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
ライルの母親。
そして。
将来、本当に結婚することになれば。
自分にとっても家族になる人。
「ありがとうございます」
アマリリアが礼を言うと、セレーネは静かに頷いた。
「帰ってきたら、何を買ったかくらいは教えてちょうだい」
「調査報告ではなく?」
「デート報告」
「……それは少し恥ずかしいです」
「楽しみにしているわ」
「王妃様」
「命令ではないから安心して」
逃げ道があるようで、ほとんどない。
アマリリアは困りながらも笑った。
◇◇◇
その夜。
アマリリアは自室で、明日のための小さな鞄を確認した。
財布。
薄い布。
小さな櫛。
身分を示す必要が生じた時のための最低限の印章は、護衛側が別に持つことになっている。
手帳はない。
紙もない。
筆記具もない。
机の上に置かれた手帳が、妙に存在感を持って見える。
「……置いていきます」
誰に言うでもなく呟いた。
もちろん。
手帳が返事をするわけではない。
それでも、長い間どこへ行くにも持ち歩いてきたものを置いていくのは、少し不思議だった。
アマリリアは手帳を開いた。
明日の予定を書く必要はない。
すでに予定表にも書いてある。
それでも。
一行だけ。
『明日は、何も調べない』
そこまで書き。
少し考える。
もう一行。
『ライル様と市場を歩く』
文字にすると、急に恥ずかしくなった。
アマリリアは閉じようとして、やめる。
最後に小さく書き足す。
『楽しむ』
三行だけだった。
制度も。
通知も。
倉庫も。
ミハイルも。
何も書いていない。
それでよい。
アマリリアは手帳を閉じ、机の引き出しへ入れた。
いつもなら手の届くところへ置く。
今日はあえて見えない場所へしまう。
窓の外には、静かな王宮の庭が広がっていた。
明日の今頃には。
市場から戻っているはずだ。
何を食べて。
何を買って。
何を話すのか。
まだ決めていない。
決めなくてよい。
それが。
明日の一番大事な約束だった。




