第56話 ミハイル様との面会を父へ報告したら、十五年前の続きは思ったよりずっと面倒なお話でした
ミハイル・フォードとの初めての面会を終えた翌朝、アマリリアはいつもの小会議室ではなく、ベスター家が王宮滞在中に使っている応接室へ向かっていた。
昨日の面会内容をハロルドへ報告するためである。もっとも、昨日のうちに「無事に終わった」という簡単な伝言だけは送っていたため、急ぎの報告ではない。それでも父が十五年前の話をどこまで知っているのか、そしてなぜ今もミハイルをあれほど警戒しているのかについては、アマリリア自身がかなり気になっていた。
隣を歩くライルも同じらしく、今朝はいつもより少しだけ足取りが軽い。
「楽しそうですわね」
「そう見える?」
「見えます」
「だって、十五年前の続きが聞けるかもしれないんだろ?」
「殿下」
「何?」
「昨日まで、調べすぎないことを学んでいたのでは?」
「本人から聞くのは調べすぎに入らないと思う」
そう返されると、確かにその通りだった。
「ただし、お父様が話したくないところまで無理に聞くのはやめてくださいませ」
「そこは君もだろ?」
「私は節度がございます」
「本当に?」
ライルが疑わしそうな顔をする。
アマリリアは少しだけ眉を寄せたものの、完全には言い返せなかった。父とミハイルの過去については、昨日からずっと気になっている。ミハイルが「その後も何度もハロルド殿の嫌がることをした」と笑っていた以上、知りたくならない方が難しい。
「……努力はいたします」
「そこ、昨日の市場デートの約束でも聞いたな」
「別のお話です」
「手帳禁止の方?」
「忘れてくださいませ」
「無理」
ライルが笑う。
朝の回廊はまだ人通りが少なく、磨かれた床へ窓から淡い光が落ちている。侍女たちは二人の姿を見ると静かに道を譲ったが、最近ではライルとアマリリアが並んで歩いていても以前ほど緊張した様子を見せなくなっていた。
それが少しだけ嬉しい。
婚約が正式に認められた直後は、どこへ行っても視線を感じた。第一王子と、その婚約者となった伯爵令嬢。二人の間にどのような会話があり、どれほど仲が良いのかを探るような空気が常にあった。
今は。
ただ並んで歩いているだけなら、王宮の日常の一部として受け止められている。
「アマリリア」
「何です?」
「今、何か考えてた?」
「少しだけ」
「仕事?」
「違います」
「じゃあ聞かない」
その返しに、アマリリアは少しだけ目を瞬いた。
「聞かないのです?」
「君が話したくなったら話すだろ?」
ライルは何でも知ろうとしない。
必要なら聞くが、相手がまだ言葉にしていないことまで無理に取り出そうとはしない。その距離感が、以前よりずっと心地よく感じられるようになっていた。
「では、あとでお話しします」
「うん」
そんな短いやり取りを交わしているうちに、ベスター家用の応接室へ着いた。
◇◇◇
「遅い」
扉を開けて最初に聞こえたのは、父のその一言だった。
室内にはすでにハロルドが座っており、卓上には茶が用意されている。窓も少し開けられていて、朝の冷たい風が薄いカーテンを揺らしていた。
「予定時刻より五分早いですけれど」
「もっと早く来ると思っていた」
「それはお父様の勝手な期待です」
「昨日のうちに来るかと思っていた」
「昨日は面会直後に休むことにしたのです」
アマリリアがそう答えると、ハロルドが少しだけ眉を上げた。
「お前が?」
「何です、その反応は」
「いや」
「殿下も昨日同じ顔をなさいました」
ライルが苦笑しながら席へ着く。
「伯爵、最近アマリリアはちゃんと休むんですよ」
「知っている」
「本当に?」
「……以前よりは」
ハロルドの返事には若干の不満が含まれていた。
アマリリアはため息をつきながら向かいへ座り、侍女が注いだ茶へ手を伸ばす。
「それで」
父の視線が二人を順に見る。
「どうだった」
「ミハイル様です?」
「他に何がある」
「随分ざっくり聞かれますのね」
「まずはお前たちの印象を聞いている」
アマリリアはすぐに答えず、昨日の面会を思い返した。
手紙を送った理由。
市場は自分のものではないという言葉。
共同輸送が問題を消すのではなく、別の場所へ移すことがあるという話。
以前の小規模運送人への負担。
十五年前、父に村へ行って説明してこいと言われたこと。
全部を含めて。
「一度お会いしただけでは、分かりません」
アマリリアはそう答えた。
ハロルドの目が少し細くなる。
「それだけか?」
「ただ、もう一度お話ししたいと思いました」
「俺もです」
ライルも続ける。
「共同輸送について、数字まで見せてもらえるそうなので」
ハロルドはしばらく黙って二人を見た。
「信用したわけではないんだな」
「信用していないとも決めておりません」
「面倒な答えだな」
「お父様に言われたくありません」
思わず返すと、ライルが口元を緩めた。
「でも、前より良い答えじゃないですか?」
「殿下は甘い」
「伯爵が厳しすぎるだけでは?」
「殿下」
「はい」
アマリリアは二人の間へ視線を走らせ、話が逸れる前に昨日の内容を報告し始めた。
ミハイルが手紙を送った理由について、数字を細かく見る人物が王宮側にいると推測したこと。その人物がアマリリアではないかと当たりをつけ、数字の外側を一度見てほしいと思ったこと。
市場見学の詳細を事前に調べすぎず、本人たちから聞くつもりだったと話したこと。
ルーデとベネの通知問題を説明した時も、すぐに何か政策を要求してきたわけではなかったこと。
そして、共同輸送について尋ねると、利点だけではなく、以前の個別輸送業者が仕事を失ったことまで自分から話したこと。
ハロルドは途中で口を挟まなかった。
ただ、共同輸送の話へ入ったあたりから、卓上に置いていた右手の指がわずかに動いた。
「元の運送人の話をしたのか」
「ご存じなのですね」
「知っている」
「どこまで?」
「かなり前の話だ」
「それは答えになっておりません」
「リリア」
「はい」
「まず報告を終わらせろ」
言われて、アマリリアは少しだけ唇を尖らせた。
昨日ミハイルへ「最初の質問への答えを先に聞く」と言った自分が、ここで話を飛ばすわけにはいかない。
「分かりました」
アマリリアは続きを話した。
ミハイルが「市場を今日見たものだけで完成したと思わないでほしい。自分の話も含めて」と最後に頼んだこと。
特定の政策要望があるなら正式な要望書を出すと明言したこと。
将来まで何も頼まないとは約束しなかったこと。
アマリリアが彼を「善人だから信用できる」とも「商人だから警戒すべき」とも決めず、いったん判断を保留したこと。
ライルも、自分が将来の王だと決めつける発言をミハイルがすぐ訂正したことを補足した。
「そこは少し意外でした」
ライルが言う。
「もっと押してくる人かと思ってたので」
「押す時は押す」
ハロルドが短く答えた。
「では、昨日は押さなかった?」
「必要がなかったんだろう」
「必要がない?」
アマリリアが聞き返す。
ハロルドは茶を一口飲み、少しだけ視線を窓へ向けた。
「ミハイルは、自分が何かを言えば相手がすぐ動く状況より、相手が自分で考えて動いた方が長く続くと知っている」
「それは」
アマリリアは少し考えた。
「市場へ行くよう命じるのではなく、手紙だけ送ったことにも繋がります?」
「たぶんな」
「お父様は、やはりかなりミハイル様を評価していらっしゃるのでは?」
「評価はしている」
「では、なぜあれほど警戒するのです?」
今度こそ、真正面から聞いた。
ハロルドはすぐには答えなかった。
窓から入る風が、卓上の紙片の端をわずかに揺らす。朝の静かな室内に、遠くで鳴る鐘の音が一度だけ届いた。
「評価しているから警戒するんだ」
やがて父が言った。
「無能なら、そこまで警戒しない」
アマリリアは少しだけ眉を上げた。
「それは、随分分かりやすいですわね」
「ミハイルは、自分が正しいと思ったことを実行する力がある」
「それの何が問題なのです?」
「正しいかどうかを、最後まで誰かに任せないところだ」
ハロルドの声は落ち着いていた。
怒っているのではない。
昔の記憶を慎重に取り出しているような声音だった。
「十五年前の話の続きをしても?」
アマリリアが尋ねる。
「ああ。ただし、あいつから聞いた話と食い違うところがあっても、どちらかが嘘をついているとは限らないと思え」
「記憶が違う可能性?」
「十五年も経っている」
「分かりました」
アマリリアは手帳へ伸ばしかけた手を止めた。
今日は家族への報告である。
しかも、父本人から聞く話だ。
全部をその場で記録しなくてもよい。
ライルも同じように姿勢を整え、ハロルドの話を待った。
◇◇◇
「最初に会ったのが、あいつから聞いた通り長雨の年だ」
ハロルドはゆっくり話し始めた。
「北西部の街道がいくつか使えなくなって、王都へ入る穀物が遅れた。ミハイルは当時まだ今ほどの商会ではなかったが、荷を集めるのが上手かった」
「共同輸送の前です?」
「今の仕組みよりずっと小さい。だが、複数の農家や小商人の荷をまとめて動かす考え自体は、あの頃から持っていた」
「そこで、ベスター領の道を使いたいと」
「そうだ」
ミハイルが昨日話した内容と大きくは違わない。
通行条件。
井戸や飼料を勝手に使わないこと。
橋を傷めた場合の修繕。
夜間の農道停車禁止。
そして、ミハイルが金を多く払う代わりに優先通行を求めたこと。
「本当に三時間説教したのです?」
アマリリアが尋ねる。
ハロルドの眉が寄った。
「あいつ、そこまで話したのか」
「はい」
「三時間は言い過ぎだ」
「では、どのくらい?」
「二時間半くらいだ」
ライルが吹き出した。
「ほとんど同じじゃないですか」
「三十分も違う」
「そこ重要です?」
「重要だ」
アマリリアも堪えきれず笑ってしまう。
話の内容自体は真面目なのに、父が妙なところだけ正確に修正しようとするのが可笑しかった。
「それで、村へ行かせたのですね」
「ああ。自分が退かせようとしている荷が何か見てこいと言った」
「ミハイル様は、牛乳や野菜が積まれていたと」
「そうだ」
「それで考え方が変わった?」
「少しはな」
ハロルドはそこで一度言葉を切った。
「だが、あいつの厄介なところは、学んだら終わりじゃない」
「どういう意味です?」
「次に使う」
短い言葉だったが、そこには妙な重みがあった。
「数年後、今度は東側で荷不足が起きた」
「何の荷です?」
「冬前の塩と乾燥肉だ。山間の三村で在庫が足りなくなった」
アマリリアは記憶を探る。
王妃教育で過去の地域物流事例を何度か見たが、細かな村単位までは覚えていない。
「原因は?」
「早い雪だ。予定していた街道が閉じて、通常の商人が入れなくなった」
「ミハイル様が動いた?」
「動いた」
ハロルドの表情に、ほんの少し苦いものが混じる。
「しかも、私へ相談せずにな」
「お父様へ?」
「ベスター領の倉庫を使ったんだ」
アマリリアの眉が上がった。
「無断で?」
「完全な無断ではない」
「どちらです?」
「現地の倉庫管理人に話を通した」
「お父様を飛ばして?」
「そうだ」
それは父が怒りそうだった。
「管理人に権限はあったのです?」
「短期の緊急使用ならあった。だから規則違反ではない」
「では、なぜ怒ったのです?」
ハロルドはすぐに答えなかった。
「規則違反ではないからだ」
「……逆では?」
ライルが首を傾げる。
「違反なら止めれば終わる。だが、あいつは規則の中で、こちらが想定していなかった使い方をする」
「倉庫を使って、何をしたのです?」
「ベスター領へ一度集めた塩と乾燥肉を、小分けにして山間の三村へ回した」
「それで助かった人がいた?」
「いた」
「なら、良いことでは?」
「結果だけ見ればな」
ハロルドが少しだけ顔をしかめる。
「だが、そのために予定していた別の荷が二日遅れた」
アマリリアの表情が変わる。
「何の荷です?」
「染料と織物用の油だ。命に関わるものではないが、王都へ納める予定だった工房が納期をずらした」
「損失は?」
「出た。ミハイルは補償した」
「では」
「金を払えば終わりだと思っていた」
その言葉に、昨日の十五年前の話が重なる。
『金を払えば農民の荷を脇へ退かせてよいと思うな』
「同じことを?」
「完全に同じではない」
ハロルドは首を横へ振った。
「今度のあいつは、遅れる工房があることも知っていた。命に近い荷を優先するべきだと判断し、損失分を補償するつもりで動いた」
「では、何が問題だったのです?」
「誰がその優先順位を決めるかだ」
室内が少し静かになった。
アマリリアはすぐに言葉を挟まず、父の続きを待つ。
「塩と乾燥肉が足りない村を助ける。織物の納期を二日遅らせる。比較すれば、前者を優先する判断は理解できる」
「はい」
「だが、ミハイルは自分一人で決めた」
「現地の倉庫管理人とは話したのでしょう?」
「倉庫を使えるかどうかはな。何を後ろへ回すかまでは、管理人に全部伝えていなかった」
「それは」
ライルが少し眉を寄せる。
「かなり危ないですね」
「そうだ」
ハロルドが頷く。
「結果が良かったから、問題が見えにくい」
アマリリアはその言葉をゆっくり受け止めた。
結果として三村は助かった。
遅れた工房には補償もした。
大きな事故は起きていない。
だからこそ。
「良い判断だった」で終わらせやすい。
「お父様は、その時ミハイル様を叱ったのです?」
「当然だ」
「どのくらい?」
ライルが聞く。
「殿下」
「気になるだろ?」
「二時間」
ハロルドが答えた。
「短くなってる」
「成長したからな」
「どちらが?」
「私がだ」
アマリリアは思わず笑った。
「ミハイル様は何と?」
「反論した」
「また?」
「『待っていたら三村へ届かなかったかもしれない』とな」
「それも分かります」
「分かるから厄介なんだ」
ハロルドの声に、怒りではなく疲れのようなものが混じった。
「緊急時には、誰かが決めなければならない。確認を取っている間に間に合わないこともある」
「では、ミハイル様が正しかった可能性も?」
「ある」
「お父様が間違っていた可能性も?」
「ある」
ハロルドは迷わず答えた。
それにアマリリアは少しだけ驚いた。
「認めるのですね」
「何をだ」
「ご自分が間違っていた可能性を」
「当たり前だろう」
父は不機嫌そうに眉を寄せる。
「私は神ではない」
「知っております」
「なら驚くな」
「でも、お父様は時々、ご自分が絶対に正しいようなお顔をなさいます」
「お前に言われたくない」
「……」
ライルが笑いを噛み殺している。
アマリリアは一度口を閉じ、何も言えなくなった。
「似てる」
ライルが小さく呟く。
「殿下」
「はい」
ハロルドは一度茶を飲み、話を続けた。
「私が警戒しているのは、ミハイルが悪い判断をするからではない。むしろ、かなり良い判断をするからだ」
「良い判断をする人を警戒する?」
「正しいと思った時の動きが速い。しかも、結果を出す」
ハロルドの視線が真っ直ぐになる。
「周囲が止めにくいんだ」
その言葉で、アマリリアは少し理解した。
無謀だから止めるのではない。
失敗するから止めるのでもない。
成功する可能性が高いからこそ。
「次も彼に任せればよい」と周囲が思いやすい。
「一人の判断へ依存する?」
「そうだ」
ハロルドが頷いた。
「ミハイル本人がずっと正しくても、仕組みとしては危うい」
アマリリアの胸に、ここ数日追い続けてきた通知問題が重なった。
経験のある村役人なら理解できる通知。
けれど、その人がいなければ意味が変わる。
優秀な誰かがいるから動く制度は。
その人がいなくなった時に弱い。
「属人性」
アマリリアが呟く。
ハロルドが少し眉を上げる。
「最近よくそこへ戻るな」
「市場で何度も見ましたので」
「ミハイル本人も、その危険は分かっていると思う」
「では、なぜ?」
「分かっていても、急ぐ時はやる」
ハロルドは淡々と答えた。
「そこが、私とあいつが何度もぶつかるところだ」
◇◇◇
アマリリアはしばらく考え込んだ。
ミハイルは昨日、自分のことを万能だとは言わなかった。
共同輸送の結果も、全員が幸せになったとは言わなかった。
だから、独断で物事を進めるような人物だという印象は薄かった。
けれど。
過去には、緊急性と自分の判断を優先して、周囲への相談を十分にしないまま動いたことがある。
「昨日の面会では、かなり慎重な印象でした」
アマリリアが言う。
「変わったところもあるんだろう」
「十五年前と今では?」
「人は変わる」
「お父様も?」
「当然だ」
「二時間半の説教が二時間になったくらいには?」
「リリア」
父の声が低くなる。
「冗談です」
アマリリアは素直に引いた。
「ただ」
ライルが口を開く。
「伯爵が警戒している理由は、少し分かりました」
「殿下はどう思う」
「俺も、緊急時ならミハイルの判断を選ぶかもしれません」
ハロルドの目が少し細くなる。
ライルはその視線を受けても、すぐには言葉を変えなかった。
「三村で食料が足りなくなる可能性が高くて、工房の荷を二日遅らせれば済むなら、そっちを選びたいです」
「補償できるなら?」
「はい。でも」
ライルは少し考えた。
「俺が王なら、それを自分一人で毎回決めるのは嫌です」
アマリリアが彼を見る。
「なぜです?」
「俺が間違えるから」
あまりにも自然に返ってきた。
「それに」
ライルは続ける。
「俺が正しくても、次の人が同じように正しいとは限らない。だから、緊急時にどこまで誰が決められるかを先に決めておいた方がいいと思います」
ハロルドの表情が少し変わった。
「そこまで考えたか」
「市場を見た後だからかもしれません」
「殿下」
アマリリアは少しだけ口元を緩めた。
「今の、良いと思います」
「かなり?」
「かなりです」
「ありがとう」
ライルが嬉しそうに笑う。
ハロルドがそのやり取りを見て、わずかに眉間へ皺を寄せた。
「なぜ今そこで惚気る」
「惚気ではございません」
「どう見てもそうだ」
「統治のお話です」
「手を握る必要はないだろう」
アマリリアが目を見開いた。
「握っておりません!」
「昨日は握ったらしいな」
「なぜご存じなのです!」
ライルも驚いて父を見る。
「誰から聞いたんです?」
「誰からでもいい」
「ディーン?」
返事はない。
「ゼイン?」
やはり返事はない。
「まさかミハイル様では」
「違う!」
ハロルドが少し大きな声を出した。
「では、誰です?」
「それは今どうでもいい!」
「良くありません!」
「リリア!」
室内の外で控えていた侍女が、扉越しに一瞬だけ気配を動かした。
ライルが顔を伏せ、肩を震わせる。
「殿下、笑わないでくださいませ!」
「ごめん。でも伯爵、面会にいなかったのに知ってるのすごいなって」
「王宮では、思っているより人に見られていると思え」
「手を触れただけです!」
「それでもだ!」
「お父様!」
真面目な話が一気に崩れた。
アマリリアは頬が熱くなるのを感じながら、父を睨む。
「それは、仕事上の合図でした」
「何の仕事だ」
「私が話へ入り込みすぎた時、殿下に止めていただくためです」
「手で?」
「はい」
「他に方法はなかったのか」
「お父様には関係ございません!」
「ある!」
「ありません!」
父娘の声が重なる。
ライルはとうとう笑いを抑えきれず、窓の方へ顔を逸らした。
「殿下!」
「すみません。本当に」
「笑いながら謝らないでくださいませ」
少しの間、まともな報告どころではなくなった。
しかし、そのやり取りが落ち着いた頃には、先ほどまで室内に残っていた緊張も少し薄れていた。
◇◇◇
「話を戻します」
アマリリアは茶を一口飲み、頬の熱を誤魔化すように息を整えた。
「お父様がミハイル様を警戒する理由は、一人で良い判断をしてしまえるから。それが周囲の依存や、相談不足に繋がる可能性があるから、という理解でよろしいです?」
「大体はな」
「まだあるのです?」
「ある」
「どのくらい?」
「何度か」
「全部聞いても?」
「今日は一つで十分だ」
「なぜです?」
「お前がまた一度で全部整理しようとするからだ」
アマリリアは反論しかけて止まった。
父の言う通りだった。
昨日ミハイルと一度会っただけで人物評価を決めないとしたばかりなのに、今日すべての過去話を聞いて「なるほど、こういう人」とまとめてしまえば同じことになる。
「……分かりました」
「珍しく早いな」
「お父様」
「褒めたつもりだ」
「褒め方をもう少し考えてくださいませ」
ハロルドの口元がほんのわずかに緩んだ。
「では、今日はここまで?」
ライルが尋ねる。
「ミハイルについてはな」
「他に何かあるのです?」
嫌な予感がしてアマリリアが父を見る。
「市場へ行く日を決めるんだろう」
アマリリアとライルが同時に顔を見合わせた。
「お父様から仰るのです?」
「昨日、面会が終わったら決めると言ったのはお前たちだ」
「覚えていたのですね」
「当たり前だ」
「止めるために?」
「条件を確認するためだ」
ライルの顔が明らかに明るくなる。
「じゃあ、行っていいんですね?」
「前にも許可しただろう」
「本当に撤回しない?」
「殿下」
ハロルドの声が少し低くなる。
「私は一度出した許可を、気分で撤回するような人間に見えますか」
「いえ」
「なら聞くな」
「はい」
ライルは素直に姿勢を正した。
アマリリアはその横顔を見ながら、少し笑いそうになる。
父は父で。
ライルもライルで。
二人の距離は、以前より確実に近くなっている。
喧嘩のようなやり取りができる程度には。
「日程は?」
ハロルドが聞く。
「まだ決めておりません」
「候補は?」
アマリリアは少し考えた。
「明後日は王妃様の教育があります。その翌日は第二共同倉庫の予備試験がまだ途中ですし、私たちが行く必要はありません」
「なら、その翌日?」
ライルが言う。
アマリリアは頭の中で予定を確認する。
「午後でしたら空いております」
「一日じゃないの?」
「市場へ行くなら昼前からの方が良くない?」
「殿下」
「調査じゃなくて、店が開いてる時間の話」
「……確かに」
ライルが得意そうに笑う。
「ほら、俺も市場のこと分かってきた」
「そういうところで成長を主張しないでくださいませ」
「でも昼前から?」
アマリリアは少し考えた。
市場の午前は混む。
昼前からなら、食事もできる。
以前食べた蜂蜜と木の実の焼き菓子も、もう一度買いたい。
今度は値段の理由も、売れ行きも。
聞かない。
「……昼前からで」
「決まり」
ライルの声が弾む。
ハロルドがすぐに手を上げた。
「条件」
「分かっております」
アマリリアは先回りして答える。
「護衛は遠巻きでも必ず。帰宅時刻を決める。調査はしない。手帳は禁止。紙も禁止」
「筆記具もだ」
アマリリアの顔が固まる。
「そこまで?」
「紙がなければ使えんだろう」
「壁に」
「書くな」
ライルが隣で笑い出す。
「君、本当にやりそう」
「冗談です!」
「今ちょっと考えたでしょう?」
「考えておりません」
「お顔が」
「その技を私に使わないでくださいませ!」
ハロルドが深いため息をつく。
「殿下も紙を持つな」
「俺も?」
「前に二人で一枚ずつなら調査ではないと言おうとしただろう」
「覚えてるんですね」
「忘れるか」
「伯爵、記憶良いなあ」
「感心するところではない!」
室内にまた笑いが広がった。
「帰宅は夕刻前」
「早くありません?」
アマリリアが尋ねる。
「市場を昼前から歩けば十分だ」
「夕食まで」
「駄目だ」
「では、夕刻」
「夕刻前」
「お父様」
「リリア」
父娘が見つめ合う。
ライルが少し考えてから口を開いた。
「じゃあ、夕刻の鐘が鳴る前に王宮へ戻る、でどうですか?」
ハロルドはすぐには答えなかった。
「市場を出る、ではなく王宮へ戻る?」
「はい」
「護衛の判断で早めに切り上げる場合は従う?」
「従います」
ライルの返答は真面目だった。
ハロルドが今度はアマリリアを見る。
「リリア」
「私も従います」
「買い物に夢中になっても?」
「はい」
「珍しい物を見つけても?」
「はい」
「何か制度上の問題を見つけても?」
アマリリアの返事が一瞬だけ遅れた。
「……見つけても、その場では調査しません」
「本当だな」
「後で覚えていたら考えます」
「忘れろとは言っていない」
「そこまで無理を仰られたら困ります」
ハロルドはようやく小さく頷いた。
「なら許可する」
ライルの顔がぱっと明るくなる。
アマリリア自身も、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「ありがとうございます、お父様」
「殿下」
「ありがとうございます、伯爵」
「娘を疲れさせないでください」
「そこは俺だけの責任じゃないと思います」
「殿下」
「はい」
アマリリアは笑いを堪えながら、茶へ手を伸ばした。
◇◇◇
報告を終えたあと、アマリリアとライルは王宮の中庭を通って次の予定へ向かった。
朝より日差しが強くなり、石畳には木々の影が揺れている。庭師たちが花壇の端で土を入れ替えており、通り過ぎる二人に軽く礼をしてから、すぐに作業へ戻っていった。
「決まったな」
ライルが嬉しそうに言う。
「市場デートです?」
「うん」
「殿下、声が弾んでおります」
「君は?」
「普通です」
「嘘」
「なぜです?」
「歩くのちょっと速い」
アマリリアは自分の足元を見る。
確かに、普段より少しだけ歩幅が大きい気がする。
「……偶然です」
「そっか」
「そこで納得するのです?」
「嬉しいの分かったから」
ライルはそれ以上からかわなかった。
アマリリアは少しだけ頬に熱を感じながら、前を向く。
「本当に、何も調べませんからね」
「分かってる」
「何か気になる店があっても」
「普通に入る」
「値段の違いがあっても」
「安い方か高い方、好きな方を買う」
「理由は」
「聞かない」
即答された。
「……難しいですわね」
「俺がいるから大丈夫」
「どういう意味です?」
「君が聞きそうになったら、別のこと言う」
「例えば?」
「『アマリリア、あれ美味しそう』とか」
「それで止まります?」
「たぶん」
「自信がないのですね」
「でも手を握れば止まる?」
アマリリアの足が少しだけ乱れた。
「殿下」
「仕事の合図じゃなくて、今度は普通に」
「昼間の中庭で何を仰っているのです!」
近くで作業していた庭師の一人が、聞こえていないふりをしながら下を向いた。もう一人の肩がわずかに揺れている。
「ほら!」
「何が?」
「笑われております!」
「いいじゃないですか。婚約者なんですし」
「そういう問題では」
言いかけて、アマリリアは止まった。
正式な婚約者。
それは何度も自分で言ってきた。
なら。
手を繋いで歩くことまで、恥ずかしがる必要はない。
「……市場では」
「うん」
「人が多くて離れると危ないので」
「うん」
「手を繋ぐのは、仕方がないと思います」
ライルの顔が嬉しそうに緩む。
「仕方なく?」
「仕方なくです」
「じゃあ離れそうじゃない場所では?」
「殿下」
「はい」
「欲張らないでくださいませ」
そう言いながらも、アマリリア自身の口元には笑みが残っていた。
◇◇◇
午後。
王妃教育の前に少し時間ができたため、アマリリアは自室で朝の報告内容を整理していた。
手帳を開き、今日のページへ数行だけ書く。
『ハロルドがミハイルを警戒する理由の一つ――正しいと思った時の行動が速く、結果も出すため、周囲が止めにくい』
『良い判断をする人に依存する仕組みも危うい』
『緊急時に誰がどこまで決めてよいかを、平時に考えておく必要がある』
最後の一行は、ライルの言葉から生まれたものだった。
王になることが決まっているわけではない。
それでも。
もし将来、彼が大きな判断をする立場になった時。
一人で正解を出せる王であることより、誰がどこまで決められるかを仕組みにする王であってほしい。
そして。
自分も、その隣で一緒に考えたい。
そこまで考えたところで、アマリリアはペンを止めた。
昨日ミハイルに「違って見えたものを持ち寄れる方が良い」と話した。
今日、父の話を聞いて。
また少し、その言葉の意味が増えた気がする。
ミハイルにはミハイルの正しさがある。
ハロルドにはハロルドの警戒がある。
どちらか一方を選べば済む話ではない。
「難しいですわね」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
けれど、その言葉を言えることが。
今はもう、嫌ではなかった。
アマリリアは手帳を閉じ、その上に予定表を置いた。
三日後。
王都南部中央市場。
昼前から。
調査禁止。
手帳禁止。
紙禁止。
筆記具禁止。
夕刻の鐘が鳴る前に王宮へ戻る。
条件だけ見ると、なぜか厳格な任務のようだった。
けれど。
することは。
ライルと歩く。
食べたいものを買う。
気になる店へ入る。
値段の理由を聞かない。
制度の問題を見つけても、その場では調べない。
ただ一緒に過ごす。
それだけだ。
アマリリアは予定表を見つめながら、少しだけ笑った。
ミハイルのことも。
倉庫のことも。
通知のことも。
まだ分からないことは山ほど残っている。
それでも。
三日後の数刻くらいは、答えを探さなくてもよい。
そう思えるようになった自分を、今度こそ少しだけ褒めてもよい気がした。




