↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
55/111

第55話 ようやくミハイル・フォード本人に会えたので、最初の質問だけは予定どおり聞くことにしました


 ミハイル・フォードとの面会当日、アマリリアは予定より少し早く来賓用の小応接室へ入った。


 午後の日差しが西側の窓から斜めに差し込み、低い卓の上へ柔らかな光を落としている。正式な謁見室ほど広くもなく、壁に並ぶ調度品も王家の威光を示すような豪奢さより、客人が長く座っていても疲れない落ち着きを優先したものだった。


 昨日まで何度か確認した部屋なのに、今日に限って椅子の位置や窓までの距離が妙に気になる。


「三回目」


 隣にいたライルが言った。


「何がです?」


「今、同じ椅子見たの三回目」


「見ておりません」


「見てたよ」


「確認していただけです」


「何を?」


「……椅子を」


「それを見てるって言うんじゃない?」


 アマリリアは反論しようとして、やめた。


 自分でも少し緊張していることは分かっている。三日前からその事実を否定しないと決めていたのだから、ここで無理に平静を装う必要もない。


「緊張しております」


「うん」


「殿下もでしょう?」


「してる」


「でしたら、人のことを笑わないでくださいませ」


「笑ってないよ。俺もさっき同じ窓を二回見たから」


 ライルが窓の方を顎で示す。


 それを聞いた途端、アマリリアの肩から少しだけ力が抜けた。


「なら、私の勝ちですわね」


「何が?」


「私は椅子を三回です」


「緊張してる回数で勝とうとする人いる?」


「ここにおります」


 二人で小さく笑う。


 室内にはディーンとゼインもすでに入っていた。ディーンは記録用の紙を確認し、ゼインは窓や扉の位置を一度見たあと、アマリリアから少し離れた場所へ静かに立っている。


 今日の面会に持ち込んだ資料は多くない。


 市場見学で記録したすべての手帳も、ルーデ村とベネ村の詳細資料も、第二共同倉庫の試験記録も、この部屋にはない。必要なら後から確認できるが、最初から机一杯に資料を並べて相手を迎えることはしなかった。


 今、低い卓の上にあるのは茶器と、小さな焼き菓子の皿だけだった。


「アマリリア様」


 ディーンが静かに声を掛ける。


「フォード氏が到着されました」


 胸の奥が、ほんの少し強く鳴った。


「分かりました」


 アマリリアは一度だけ息を整えた。


 最初に聞くことは決めている。


 その次は、決めていない。


 それでよい。


「ライル様」


 無意識に名前で呼ぶと、隣の彼が少しだけ目を見開いた。


「何?」


「……何でもございません」


「呼びたかっただけ?」


「そういうことにしておいてくださいませ」


 ライルが嬉しそうに笑った直後、扉が静かに開いた。


          ◇◇◇


 最初に入ってきたのは、王宮側の案内役を務めた侍従だった。


 その後ろから現れた男を見て、アマリリアはまず「思っていたより普通だ」と感じた。


 もちろん、凡庸という意味ではない。


 年齢は四十代半ばほどだろうか。濃い栗色の髪にはわずかに白いものが混じり、体格は特別大きくも細くもない。衣服も上質ではあるが、商人の財力を誇示するような宝石や派手な刺繍はほとんど見当たらなかった。


 ただし、歩き方には迷いがない。


 初めて訪れたはずの王宮の部屋へ入り、第一王子とその婚約者を前にしても、目を伏せすぎず、かといって不敬になるほど長く見つめもしない。


「ミハイル・フォードにございます。このたびは面会の機会を賜り、光栄に存じます」


 声は低く、穏やかだった。


 その隣には、五十歳前後と思われる細身の男が立っている。灰色がかった髪を丁寧に撫でつけ、手には小さな革張りの書類入れを持っていた。


「レナード・ケイルと申します。フォード商会にて会計と契約を預かっております」


 二人が礼を取る。


「ライル・アースハルトです。今日は来てくれてありがとう」


「アマリリア・ベスターです。こちらこそ、お越しいただきありがとうございます」


 形式的な挨拶を交わし、それぞれが席へ着く。


 事前に決めたとおり、ライルとアマリリアは完全な横並びではない。低い卓を囲むように少し角度をつけ、ミハイルたちとも正面から真正面にぶつからない配置になっている。


 ミハイルは座る前に、その配置へほんの一瞬だけ視線を向けた。


 アマリリアは気づいた。


 けれど、意味までは決めなかった。


「まず」


 ミハイルが口を開く。


「市場をご覧いただけたことについて、礼を申し上げるべきか迷っております」


 アマリリアは少し目を細めた。


「なぜです?」


「私が所有している市場ではありませんから」


 すぐに返ってきた。


「私の手紙がきっかけの一つになったことは自覚しております。しかし、市場は私のものではない。そこで働く者や買う者、運ぶ者、生産する者、それぞれの生活の場ですので、私が代表して『見ていただきありがとうございます』と言うのも少し違うでしょう」


 アマリリアは、すぐに返事をしなかった。


 予想していた話し方とは違う。


 もっと相手を試すような、含みのある言葉が多い人物かと思っていた。


 だが今のところ、むしろ言葉の範囲を慎重に区切っている。


「でしたら」


 アマリリアは少し考えてから答えた。


「お手紙をくださったことへのお礼は申し上げてもよろしいでしょうか」


「もちろんです」


「ありがとうございます。あのお手紙がなければ、あの時点で市場を自分の目で見たいとは考えなかったかもしれません」


 ミハイルの表情がわずかに柔らかくなった。


「それを聞けただけでも、手紙を出した価値はありました」


 その言葉を聞いた瞬間、アマリリアは予定していた最初の質問を思い出した。


 ここだ。


「では、ミハイル様」


「はい」


「最初に一つ、聞かせてくださいませ」


 ミハイルが僅かに姿勢を整える。


「なぜ、私へあのお手紙を送られたのです?」


 室内が静かになった。


 ライルも口を挟まない。


 ディーンの筆もまだ動いていない。


 ミハイルはすぐには答えず、アマリリアの顔をしばらく見た。


 不躾なほど長くはない。


 それでも、確かに見られていると分かる時間だった。


「二つ、理由があります」


「二つ?」


「はい。一つは、王妃陛下の教育を受けておられる第一王子殿下の婚約者が、市場の数字をかなり細かく確認されていると聞いたからです」


 アマリリアの眉がわずかに動く。


「私が数字を見ていたことを、どこで?」


「王宮内部の情報を不正に得たわけではございません」


 ミハイルはわずかに笑った。


「そう言われると、余計に怪しいですわね」


「ええ。ですから説明いたします」


 悪びれた様子はない。


「市場管理局へ提出される集計資料のうち、商会側へ照会が来るものがあります。搬入量、時刻帯による偏り、輸送方法ごとの損耗などです。ここ数か月、その質問が以前より細かくなりました」


「質問の変化から?」


「王宮側に、数字をかなり気にする方がいるらしい、と考えました」


「それだけで私だと?」


「いいえ。そこで、お父上のハロルド・ベスター殿が王都滞在中に市場関係の資料を何度か取り寄せていることを聞きました」


 アマリリアは少し顔をしかめた。


「お父様です?」


「ベスター家は元々、物流について見る家です。そこへ第一王子殿下の婚約者となった娘御が王妃教育を受けている。つなげて考えること自体は、それほど難しくありません」


 ライルが横から小さく息を吐いた。


「それでアマリリアだと当たりをつけた?」


「正確には、そうではないかと思った程度です」


「外れていた可能性も?」


「十分ございました」


 ミハイルは平然としている。


「では、もし私が数字を見ていなかったら?」


「少し恥をかいたでしょう」


「それだけ?」


「商人は外すこともあります」


 あまりにあっさり言われ、アマリリアは一瞬返答を失った。


 ミハイルは何でも読める人物ではない。


 少なくとも本人はそう見せようとしていない。


「それが一つ目ですね」


「はい」


「二つ目は?」


 ミハイルの表情が少しだけ変わった。


「数字をよく見る方ほど、一度その外へ出た方がよいと思ったからです」


 その答えに、アマリリアは黙った。


「……私が数字だけで人を判断していると思われた?」


「そこまでは知りませんでした」


「では?」


「数字が好きな方は、数字で多くを見られます。だからこそ、見えたものを信用する力も強くなる」


 ミハイルは卓上の茶にはまだ手をつけていない。


「私は数字を軽んじているわけではありません。商人ですので、むしろ数字が読めなければ仕事にならない。しかし、帳簿が正しくても荷は濡れますし、平均の到着時刻が正しくても一台の荷車だけは半日遅れます」


 アマリリアの頭に、ハロルドの言葉が重なる。


 雨。


 疲れた馬。


 濡れた御者。


 壊れた荷。


 帳簿の数字だけでは残らないもの。


「お父様と似たことを仰いますのね」


 アマリリアが言うと、ミハイルは少しだけ苦笑した。


「それは褒め言葉として受け取ってよいのでしょうか」


「迷うのです?」


「ハロルド殿が私について何を仰ったかによります」


「随分警戒されておりました」


「でしょうね」


 即答だった。


 ライルが思わず笑う。


「分かってるんだ」


「長い付き合いですので」


「どのくらい?」


 ライルの問いに、ミハイルは少し考えた。


「初めて直接話したのは、十五年ほど前でしょうか」


 アマリリアが思わず身を乗り出しかけた。


 だが、寸前で止まる。


 父との過去は聞きたい。


 しかし、今はまだ最初の質問への答えの途中だ。


「続けてくださいませ」


 そう言うと、ミハイルの目が一瞬だけ細くなった。


「そちらを先に聞かれるかと思いました」


「聞きたいです」


「それでも?」


「今は私が最初に聞いたことへの答えを聞いておりますので」


 ミハイルは数秒黙ったあと、微かに笑った。


「なるほど」


 その一言に、評価されたような響きがある。


 アマリリアは気づいたが、あえて拾わなかった。


「私は、数字をよく見る方が悪いとは思っておりません。ただ、数字の向こう側へ一度出て、それでも数字を使う方になれば、強いだろうと思いました」


「それを私に期待されたのです?」


「期待というより、興味です」


「興味」


「失礼な言い方でしたら謝ります」


「いいえ」


 アマリリアは少しだけ背筋を伸ばした。


「その方が分かりやすいです」


 ミハイルは市場を変えてほしくて手紙を送ったわけではないらしい。


 少なくとも、今の説明だけなら。


 何か特定の政策を通してほしいとも言っていない。


 数字を見ているらしい王子の婚約者が、数字の外へ出た時に何を見るのか。


 それを見たかった。


「では、今は?」


 アマリリアが尋ねる。


「何がです?」


「市場へ行った私たちが、何を見たかご存じなのです?」


「詳しくは存じません」


「入口の混雑や旧様式の件も?」


「市場で何かを聞いて回られたことは知っております。ただし、誰に何を尋ね、どの結論へ至ったかまでは調べておりません」


「なぜ?」


 今度はライルが尋ねた。


「調べようと思えば調べられたでしょう?」


「ある程度は」


 ミハイルは否定しなかった。


「ですが、今日伺うつもりでしたので」


 アマリリアはその返答に、少しだけ目を見開いた。


 自分たちが昨日までしていたことと、似ている。


「先に調べすぎなかった?」


 ライルも気づいたらしい。


「はい。ただし、身元と安全上の確認はされていたでしょうから、お互い様かと」


「そこまで分かっているのですね」


「王宮へ来る以上、何も確認されない方が怖いです」


 ミハイルはそこで初めて茶へ手を伸ばした。


 ほんの一口飲み、カップを戻す。


「それで」


 今度はミハイルがアマリリアとライルを順番に見た。


「お二人は、何をご覧になりました?」


          ◇◇◇


 来た。


 アマリリアはそう思った。


 しかし、すぐに答えようとはしなかった。


 市場見学から今日まで、見たものは多い。


 入口の滞留。


 玉葱の値段。


 古い書類を持った農夫。


 救済制度。


 職人街の徒弟。


 共同倉庫の誤配送。


 そして、その後に調べた通知の伝わり方。


 全部を説明し始めれば、かなり長くなる。


「一番印象に残ったことからでよろしいです?」


「もちろんです」


 ミハイルが頷く。


 アマリリアは少し考え、言葉を選んだ。


「誰か一人を見ただけでは、分からないことが多いと思いました」


 ミハイルは何も言わない。


「市場入口で荷車が止まっていた時、最初は何か一つ原因があるのだと思いました。でも実際には、搬入が集中する時間、書類の不備、検査人員、通路の幅、天候、古い様式など、いくつも重なっていました」


「はい」


「玉葱の値段もそうです。安い方が悪いわけでも、高い方が良いわけでもなかった。届いた日や選別、買う側の目的によって価値が変わりました」


 話しながら、アマリリアはミハイルの表情を見る。


 驚いてはいない。


 けれど、先を促すような顔もしない。


「それから、新様式を知らなかった農夫に会いました」


 そこでミハイルの表情がわずかに変わった。


「新しい搬入証明様式ですか?」


「ご存じなのですね」


「商会でも使いますので」


「ルーデ村の方でした」


「……なるほど」


 その反応が少し気になった。


「ルーデ村をご存じです?」


「豆の共同出荷が多い村です。直接の大口取引先ではありませんが、共同輸送へ入る荷はございます」


 アマリリアは一度頷いた。


「その方は新様式を知りませんでした。調べたところ、市場から領主府へ通知は届き、領主府から村役場へも届いておりました」


「そこで止まった?」


「完全には違います」


 アマリリアは少しだけ声をゆっくりにした。


「村役場は、共同倉庫へ口頭で伝えた認識でした。でも、倉庫側が受け取った意味は違っていました」


 ミハイルの指がカップの取っ手から離れる。


「どう違いました?」


「ルーデでは『新しい用紙が届いたらそちらを使う』と受け取られ、旧様式が施行日以後使えなくなることまで伝わっていませんでした。別のベネ村では、『王都へ個人で持ち込む人の書類が変わる』と理解されており、共同倉庫自身が荷主になる場合にも新様式が必要だと認識されていませんでした」


「同じ通知で?」


「はい」


 ミハイルがしばらく黙った。


 アマリリアはその沈黙を埋めなかった。


「面白い、と言うと問題がありますね」


 やがて彼が言う。


 アマリリアは思わずライルを見る。


 ライルもこちらを見ていた。


「私も同じことで迷いました」


 アマリリアが答えると、ミハイルがわずかに笑った。


「では、興味深い」


「私もその言葉にしました」


「似ていますね」


「そこはまだ分かりません」


 すぐに返すと、ミハイルが少し大きく笑った。


 初めて、商人として作った表情ではない笑顔に見えた。


「失礼しました。続けてください」


「はい」


 アマリリアは、通知を一枚に簡略化する案を考えたことも話した。


 ただし、誰に読ませるのかという問題が残ったこと。


 全村へ細かい確認を求めれば、今度は確認そのものが負担になること。


 市場側で旧様式の発生地域を追えば異常を見つけられるが、市場へ来る前に諦めた人は数字へ現れないこと。


 そして。


「今のところ、答えは出ておりません」


 そう締めくくった。


 ミハイルの眉が少し上がる。


「出ていない?」


「はい」


「王妃陛下へ報告されたあとでも?」


「はい」


「では、制度変更はされないのですか?」


「必要かどうかも、まだ決めておりません」


 ミハイルはしばらくアマリリアを見た。


「意外です」


「何がです?」


「もっと早く動かれる方だと思っておりました」


 アマリリアは苦笑した。


「少し前までなら、その通りだったかもしれません」


「今は違う?」


「全部を急いで変えると、別のところを壊すかもしれないと知りましたので」


「誰かに教えられた?」


 アマリリアは隣を見る。


 ライルと目が合う。


「色々な方にです」


 父。


 王妃。


 ライル。


 ディーン。


 ゼイン。


 市場の人々。


 農夫。


 倉庫の作業員。


 自分一人で見つけた答えではない。


「なるほど」


 ミハイルは小さく頷いた。


「では、今度はこちらから一つよろしいですか」


「どうぞ」


「その農夫を、助けましたか?」


 アマリリアは少しだけ目を細めた。


「どういう意味でしょう」


「そのままです。第一王子殿下の婚約者として、その場で特別扱いを命じたのかと」


 問い方が、先ほどまでより少し鋭い。


 ライルも気づいたらしく、姿勢をわずかに変えた。


「いいえ」


 アマリリアは答えた。


「私が王家との関係を明かして何かを命じることはしておりません。市場側に元々あった救済手続きへ繋げられるか確認し、その後は担当の方へお任せしました」


「なぜ?」


「私がその方を助けられても、次の方は助けられませんから」


 ミハイルが黙った。


「もちろん、その場の方を放置してよいという意味ではございません。ですが、私が毎回市場に立つわけにはいきませんし、立つべきでもないと思います」


「王子妃になれば、命令はできる」


「命令できることと、私が全部判断することは別です」


 アマリリアは自然に答えた。


「それに、まだ王子妃ではございません」


「失礼」


「かなり先走られましたわね」


「婚約があまりに正式なものですから」


「だからといって結婚を飛ばさないでくださいませ」


 横でライルが小さく咳払いした。


「俺は別に飛ばしても」


「殿下」


「冗談です」


 ミハイルの隣にいるレナードが初めて口元を緩めた。


 ディーンの筆も一瞬だけ止まり、ゼインはいつもの無表情を保っているものの、目元にわずかな気配がある。


「仲がおよろしいのですね」


 ミハイルが言う。


「正式な婚約者ですので」


 アマリリアが答える。


「そこは否定されない」


「事実ですから」


「最初から?」


 何気ない口調だった。


 アマリリアとライルの動きが同時に止まる。


「……何のお話です?」


「婚約当初から、そのような関係だったのかと」


 ミハイルは穏やかに尋ねているだけだ。


 しかし。


 アマリリアには、とても危険な質問に思えた。


 隣からライルの小さな声が届く。


「どうする?」


「どうしましょう」


「正直に全部は言えないよね」


「当然です」


「脅されたとか」


「殿下!」


 アマリリアは思わずライルの袖を掴んだ。


 ミハイルが目を瞬き、レナードが明確に視線を逸らす。


 ディーンは完全に記録の紙へ顔を向けた。


「脅された?」


 ミハイルが聞き返す。


「聞き間違いです」


「そうでしょうか」


「聞き間違いです」


「俺は」


「殿下は黙っていてくださいませ」


「はい」


 あまりにも自然な返事に、ミハイルの口元がゆっくり上がった。


「なるほど」


「何がです?」


「いえ。ハロルド殿が私との面会に同席されなかった理由を少し考えておりました」


「お父様は関係ございません!」


「そうでしょうか」


「なぜその顔をなさるのです!」


 思っていたよりずっと早く、面会の空気が崩れた。


 しかし、不快ではない。


 アマリリア自身も少し笑いそうになっている。


「婚約当初は」


 ライルが今度は真面目な顔で言った。


「今ほどではありませんでした」


 アマリリアもそれなら否定しなかった。


「色々ございましたので」


「色々?」


「殿下」


「分かってる」


「絶対に余計なことを言わないでくださいませ」


 小声で釘を刺す。


 ミハイルはそれ以上追及しなかった。


「では、今はお二人で同じものを見ている?」


 質問が戻る。


 ライルが少し考える。


「同じものを見ても、同じには見えてないと思います」


 アマリリアが彼を見る。


「さっきの市場でも、俺は荷の流れが気になって、アマリリアは通知の方をかなり見てた。父上――じゃなくて、ベスター伯爵は道とか天気とか、俺たちが後から気づくところも見てた」


「だから」


 アマリリアが続ける。


「同じものを見ることより、違って見えたものを持ち寄れる方が良いと思っております」


 ミハイルは、今度はすぐに返答しなかった。


「それは」


 少し間を置く。


「王を支える者として、かなり大事な考え方かもしれません」


 ライルの表情が少し引き締まる。


「王になるって決まってるみたいに言うんですね」


「第一王子殿下ですから」


「でも、それだけじゃ決まらない」


「その通りです」


 ミハイルは簡単に頷いた。


「今のは私が先走りました。失礼いたしました」


 あっさり引いた。


 アマリリアはその様子を見て、また一つ印象を修正する。


 押しが強い人物だと思っていた。


 だが、間違いを認めるのは早い。


 少なくとも今のところは。


          ◇◇◇


「では」


 ライルが少し前へ体を向けた。


「俺からも聞いていいですか」


「もちろんです」


「共同輸送についてです」


 ミハイルの表情がわずかに変わる。


 先ほどまでより、商人としての顔が少し強くなったように見えた。


「荷車広場で、フォード商会が関わっている共同輸送を見ました。荷をまとめれば荷車は減りますよね」


「はい」


「でも、集める場所や仕分ける場所は増える。その分、別の間違いも増えませんか?」


 ミハイルがゆっくり頷く。


「増えます」


 あまりに即答だった。


「最初から分かってた?」


「ある程度は」


「それでもやった?」


「はい」


「なぜ?」


「減る損失の方が大きかったからです」


 ミハイルはレナードへ視線を向けた。


 レナードが書類入れから一枚の紙を出そうとしたが、ミハイルが軽く手で止める。


「数字は後にしましょう」


 アマリリアが思わず彼を見る。


「よろしいのです?」


「数字をご覧になりたければ、後ほど正式な記録をお渡しします。まずは考え方をお話しした方がよいでしょう」


「お願いいたします」


「共同輸送を始める前、小規模な生産者や商人は、それぞれ半分ほどしか積んでいない荷車を別々に出すことが多くありました」


 ミハイルは卓上へ指でいくつかの点を描くように動かした。


「三台の荷車に半分ずつ積んで走れば、御者も馬も三組必要です。道も三台分使います。帰りが空荷になることも多かった」


「それをまとめた」


「はい。二台、場合によっては一台にします。荷車と御者の数を減らせば、小さな生産者ほど輸送費を下げられる」


「でも、共同倉庫が必要になる」


「その通りです」


 ミハイルは微かに笑った。


「殿下が仰ったように、問題を消したのではありません。問題の場所を変えた部分があります」


 アマリリアの指が手帳を探しかけた。


 今日は持ってきていない。


 それでよかった。


「問題の場所を変えた?」


 ライルが聞き返す。


「以前は、荷車そのものが足りない、運賃が高い、少量では運び手が見つからないという問題が多かった。それを減らした代わりに、集荷、仕分け、共同倉庫での混同という問題が増えました」


「それで良いのです?」


 アマリリアが尋ねる。


「良いとは言いません」


「では?」


「比べるのです」


 ミハイルの声は落ち着いている。


「どちらの損失が大きいか。どちらなら改善しやすいか。誰に負担が寄るのか。共同輸送を始めた時、全員が得をしたわけではありません」


「損をした人も?」


「おります」


「誰です?」


「個別輸送を請け負っていた小規模の運送人です」


 アマリリアは少しだけ目を見開いた。


 荷車をまとめれば効率が良くなる。


 それだけを聞けば、良い仕組みに見える。


 けれど、以前その仕事をしていた人は仕事を失う可能性がある。


「どうされたのです?」


「全員ではありませんが、共同輸送の御者や倉庫作業へ移れる者には声を掛けました。それでも合わずに離れた者もおります」


「補償は?」


「一定期間はしました」


「十分でした?」


 アマリリアが尋ねる。


 ミハイルは少しだけ考えた。


「分かりません」


 その返事は意外だった。


「分からない?」


「こちらが十分だと思った額と、本人にとって十分だったかは同じとは限りません」


 アマリリアは黙った。


 今日、何度目だろう。


 自分たちが学んできたことと、ミハイルの言葉が重なる。


「アマリリア」


 ライルが小さく呼ぶ。


「はい」


「今、まとめたくなった?」


 見抜かれた。


「……少し」


「母上に言われてたやつ」


「分かっております」


 相手の言葉を、自分が理解しやすい形へ直しすぎない。


 アマリリアはミハイルへ向き直った。


「今の『分からない』について、もう少し伺ってもよろしいです?」


「もちろんです」


「補償額が足りたか分からない、という意味だけですか。それとも、その後の生活まで追えていないという意味ですか」


 ミハイルの目がわずかに細くなる。


「両方です」


「では、共同輸送の成功を判断する時、その方々の損失は数字へ入っております?」


「一部しか入っておりません」


 アマリリアは一瞬だけ息を止めた。


「なぜ?」


「測れないものがあるからです」


 ミハイルは簡単には逃げなかった。


「失った仕事の額ならある程度計算できます。再就職までの期間も追える。しかし、別の仕事へ移った本人が以前より良かったと感じたか、悪かったと感じたかまでは、全員分を追えていません」


「では、成功と言い切れない?」


「何をもって成功とするかによります」


 ミハイルはそう答えた。


「輸送費は下がりました。空荷率も減りました。小規模生産者が王都へ荷を出せる割合も増えた。それは事実です。ただ、それで全員が幸せになったとは申しません」


 アマリリアは、その言葉を急いで整理しなかった。


 良い制度でも。


 得をする人と、負担を受ける人がいる。


 それは当たり前のことなのかもしれない。


 しかし、当たり前だから見なくてよいわけではない。


「ありがとうございます」


 アマリリアはゆっくり言った。


「良い話だけをされるのではないのですね」


 ミハイルが微かに笑う。


「良い話だけをした方が、私を信用されますか?」


「逆です」


「でしょうね」


          ◇◇◇


 面会は予定していた時間の半分を少し過ぎたところで、いったん茶を入れ直すことになった。


 侍女が新しい湯を運び、焼き菓子の皿も交換する。


 話題が途切れた短い時間に、アマリリアは初めて自分が思っていた以上に集中していたことに気づいた。肩が少し固くなっている。


 その時。


 卓の下で、右手へ柔らかな感触が触れた。


 ライルの手だった。


 アマリリアは一瞬だけ彼を見る。


 彼は何も言わない。


 強く握るわけでもなく、指先が触れる程度だった。


 昨日まで決めていた合図。


 入り込みすぎた時は止めてほしい。


 今がその時だったのだろう。


 アマリリアは小さく息を吐き、指先だけで一度握り返した。


 大丈夫。


 そう伝えるつもりで。


 すぐに手は離れた。


 向かいのミハイルは、侍女が茶を注ぐ様子へ視線を向けている。


 気づいたかどうかは分からない。


「殿下」


 アマリリアが小声で呼ぶ。


「何?」


「ありがとうございます」


「うん」


 それだけで十分だった。


「仲がおよろしい」


 ミハイルがさらりと言った。


 気づいていた。


「ミハイル様」


「何でしょう」


「見ないでくださいませ」


「申し訳ございません」


 そう言いながら、まったく申し訳なさそうではない。


「お父様と似たところがございますね」


「それは困りました」


「なぜ困るのです?」


「ハロルド殿に聞かれたら怒られます」


 アマリリアは思わず笑った。


「では、あとで伝えます」


「それだけはご容赦を」


「冗談です」


「お嬢様」


 ゼインが背後から静かに口を挟む。


「何です?」


「少し前なら、今の冗談は本当に実行されていた可能性がございます」


「ゼイン!」


 ライルが堪えきれずに笑う。


 ディーンまで筆を止め、ほんのわずかに口元を緩めた。


 面会の緊張が、一度そこで柔らかくほどけた。


          ◇◇◇


「では」


 茶が入り直したあと、アマリリアは改めてミハイルへ向き直った。


「今度は、私からもう一つよろしいです?」


「どうぞ」


「お父様とは、十五年ほど前からお知り合いなのですね」


 ミハイルが少しだけ笑った。


「ようやくそこへ来ましたか」


「ずっと聞きたかったです」


「我慢されていた?」


「かなり」


「それは申し訳ないことをしました」


「わざとでしょう?」


「少しだけ」


「やはり嫌な方ですわね」


「よく言われます」


 レナードが小さく咳払いした。


「会長」


「何だ」


「『よく言われます』で済ませない方がよろしいかと」


「そうか?」


「はい」


 アマリリアは思わずレナードを見る。


 初めて彼がミハイルへ明確に口を挟んだ。


「レナード様は、いつもこのように?」


「必要な時だけです」


「かなり必要な時が多そうですね」


「否定はいたしません」


「レナード」


「事実でございます」


 今度はライルも笑った。


 アマリリアは少しだけ安心する。


 ミハイルにも、遠慮なく口を挟む人間がいる。


「十五年前」


 ミハイルが話を戻した。


「私はまだ今ほど大きな商会を持っておりませんでした。北西部で長雨が続き、穀物輸送が大きく乱れた年がありましてね」


「記録で見たことがあります」


「その時、ベスター領を通る別経路を使わせてもらえないか交渉したのが最初です」


「お父様は許可された?」


「条件付きで」


「どんな?」


「領内の橋を傷めた場合は修繕費を負担すること。村の井戸や飼料を勝手に使わないこと。夜間に農道へ荷車を止めないこと」


 アマリリアにはいかにも父らしい条件に思えた。


「普通ですわね」


「そこまでは」


「そこまでは?」


「私は、通行料を多めに払うので優先通行させてほしいと提案しました」


「お父様は?」


「怒りました」


 アマリリアとライルが同時に笑った。


「想像できます」


「非常に?」


「非常にです」


 ミハイルも苦笑する。


「『金を払えば農民の荷を脇へ退かせてよいと思うな』と」


「言いそうですわね」


「そのあと三時間ほど説教されました」


「三時間!」


 ライルが目を見開く。


「お父様、そんなに?」


「若かった私も反論しましたので」


「何を?」


「穀物を早く王都へ運ばなければ、別の場所で困る者が出る。ならば一部の通行を調整するのは合理的だ、と」


「お父様は?」


「『なら、どの荷を退かせるか自分で村へ行って説明してこい』と」


 アマリリアは完全に父の姿を想像できた。


「それで?」


「行きました」


「本当に?」


「ええ」


 ミハイルの表情が少し遠くなる。


「そこで初めて、私が『少し待ってもらえばよい』と思っていた荷車に、翌朝の市へ持っていく牛乳や野菜が積まれていることを知りました。半日遅れれば、それはその家にとって十分な損失だった」


 アマリリアは静かになった。


「だから、お父様と」


「考え方が似ている?」


「いえ」


 ミハイルは首を横へ振った。


「私がかなり影響を受けました」


 アマリリアの目が少し大きくなる。


「お父様から?」


「本人に言うと嫌な顔をされるので、あまり言いませんが」


「それは必ず伝えます」


「先ほど冗談と仰ったのでは?」


「今は本気です」


「アマリリア」


 ライルが笑いながら止める。


「伯爵が怒るの、ミハイルさんより俺たちに向きそうだからやめない?」


「……確かに」


 アマリリアは少し残念に思いながら諦めた。


 しかし、これで父がミハイルを警戒する理由がますます分からなくなった。


「それほど影響を受けた相手なのに、なぜお父様はあれほどミハイル様を警戒しているのです?」


「それは」


 ミハイルが少し考える。


「私が、その後も何度もハロルド殿の嫌がることをしたからでしょう」


「例えば?」


「今度は私の名誉のため、本人から聞いていただけますか」


「ずるいです」


「先ほどハロルド殿も同じことをされたのでは?」


 図星だった。


「……お二人、本当に似たところがございますね」


「それだけは本人の前で言わないでください」


「なぜ?」


「十五年前より怒られます」


 ライルがとうとう声を立てて笑った。


          ◇◇◇


 面会時間は、予定より少し長くなった。


 それでもアマリリアは、聞きたいことを全部聞こうとはしなかった。


 中央市場の待機時間についても、共同輸送の詳しい数字についても、ミハイルがなぜ今になって面会を申し込んだのかという細かな部分についても、まだ続きがある。


 けれど、今日の最初の面会で全部を終わらせる必要はない。


「最後に」


 ミハイルが席を立つ前、少しだけ真面目な表情で二人を見た。


「一つ、私からお願いしてもよろしいでしょうか」


 アマリリアはわずかに身構えた。


 ここまで特定の政策要望は出ていない。


 だからこそ、その言葉に少し警戒が生まれる。


「内容によります」


「もちろんです」


 ミハイルは頷いた。


「市場を、今日見たものだけで完成したと思わないでください」


「……」


「私の話も含めてです」


 アマリリアは少しだけ目を細めた。


「それがお願いです?」


「はい」


「何か制度を変えてほしいのではなく?」


「制度を変えてほしいことなら、正式な要望書を出します」


「では、本当にそれだけ?」


「今日は」


 最後の二文字を、アマリリアは聞き逃さなかった。


「今日は、なのですね」


「商人ですので、将来まで何も頼まないとは約束できません」


「正直ですわね」


「信用されたいので」


「それを自分で言います?」


「言った方が分かりやすいかと」


 アマリリアは少し笑った。


 やはり。


 善人だと決めるには早い。


 悪人だと決める理由もない。


 影響力があり、利益を求める商人であることを隠さず、そのうえで市場全体を一つの視点で決めるなと話す人物。


 今日分かったのは、その程度でよい。


「分かりました」


 アマリリアは答えた。


「私も、ミハイル様のお話だけで市場を分かったことにはいたしません」


 ミハイルの口元がわずかに上がる。


「それを聞けて安心しました」


「ですが」


「はい」


「またお話を聞きたいとは思っております」


「喜んで」


「次は、今日出されなかった数字も見せてくださいませ」


「やはり数字がお好きなのですね」


「好きです」


 アマリリアは迷わず答えた。


「人を見るようになったからといって、数字を嫌いになる必要はございませんでしょう?」


「まったくございません」


「でしたら、次は両方見ます」


「承知しました」


 ミハイルが深く礼をする。


 レナードもそれに続いた。


「本日はありがとうございました」


「こちらこそ」


 ライルも立ち上がる。


「次は俺も、共同輸送の数字を見たいです」


「もちろんでございます、殿下」


 二人が退室し、扉が静かに閉じる。


 室内に残った空気が、少しだけ軽くなった。


          ◇◇◇


「……疲れました」


 アマリリアは椅子へ座り直し、背もたれへ少しだけ体を預けた。


「珍しく即申告」


 ライルが隣で笑う。


「疲れたものは疲れました」


「俺も」


「殿下も?」


「ずっと考えながら聞いてたから」


 アマリリアは少し笑った。


「良かったです」


「何が?」


「私だけではなかったので」


 ディーンが記録紙を整理し、ゼインは静かに扉の方を見ていた。


「どうだった?」


 ライルが尋ねる。


「ミハイル様です?」


「うん」


 アマリリアはすぐに答えなかった。


 面白い人。


 警戒すべき人。


 賢い人。


 正直な人。


 どれか一つを選べと言われても、まだ選びたくない。


「分かりません」


 最終的にそう答えた。


 ライルが少しだけ目を見開く。


「珍しい答え」


「今日一度お会いしただけですもの。ただ」


「ただ?」


「もう一度お話ししたい方ではあります」


「俺も」


 そこで意見が一致した。


 アマリリアは少しだけ安心した。


「ディーンは?」


「非常に話の整理が上手い方だと思います。ただし、意図してどこまで情報量を調整しているかは判断できません」


「ゼイン」


「商人でございますね」


「それだけ?」


「利益を求めていることを隠していない分、話しやすいかと。ただし、利益の方向が我々と一致するとは限りません」


 アマリリアは頷いた。


「それで良いと思います」


 誰も。


 信用できる。


 信用できない。


 そう断定しなかった。


「ところで」


 ライルが少しだけ楽しそうな顔をする。


 嫌な予感がした。


「何です?」


「伯爵に報告する?」


「いたします」


「十五年前の話も?」


「……」


 アマリリアは悩んだ。


 非常に伝えたい。


 ミハイルが父から大きな影響を受けたと話していたことを。


 しかし、本人が嫌がると言っていた。


「必要な範囲で」


 アマリリアは答えた。


「伯爵、怒ると思う」


「なぜです?」


「絶対全部聞こうとするから」


「そこは交渉いたします」


「勝てる?」


「勝ち負けではございません」


「前もそれ言ってた」


 ライルが笑う。


 アマリリアも笑い返しながら、ふと思い出した。


「そういえば」


「何?」


「面会が終わりましたね」


「うん」


「お父様との約束では」


 ライルの顔が明るくなる。


「市場デート!」


「声が大きいです!」


 廊下へまで聞こえそうな勢いに、アマリリアは慌てて制した。


 ディーンが静かに書類へ目を落とし、ゼインは無表情のまま口を開く。


「本日の面会記録には不要な事項と判断いたします」


「当然です!」


「でも日程は決めたい」


 ライルは嬉しそうだ。


 アマリリアも、否定できない程度には同じ気持ちだった。


「今日は決めません」


「えっ」


「殿下」


「はい」


「面会が終わった直後です。少しくらい休みましょう」


 ライルが数秒黙った。


「……それ、君が言うんだ」


「何です?」


「いや」


 笑顔が広がっていく。


「すごく良いと思う」


「また成長と言ったら怒ります」


「言ってないよ」


「お顔が言っております」


「それ便利だなあ」


 アマリリアは少しだけ頬を膨らませたが、結局自分も笑ってしまった。


          ◇◇◇


 その夜、アマリリアは自室の机で手帳を開いた。


 今日の面会について、書けることはいくらでもある。


 ミハイルが手紙を送った理由。


 自分が数字を見ていると推測した経緯。


 共同輸送が減らしたものと、増やした問題。


 以前の個別輸送業者に生まれた負担。


 ハロルドとの十五年前の出会い。


 それらを全部書き始めれば、何頁でも埋まるだろう。


 けれどアマリリアは、最初に三行だけ書いた。


『ミハイル・フォードは、市場の答えを持っているとは言わなかった』


『良い仕組みでも、問題が消えるとは限らず、別の場所へ移ることがある』


『一度会っただけでは、その人を分かったことにはならない』


 そこまで書いたあとで、一度ペンを止めた。


 少し迷い、四つ目を加える。


『人の話を理解しやすい形へまとめる前に、分からない部分をそのまま聞く』


 今日は、それが少しできたと思う。


 ミハイルが共同輸送を「成功」と言い切らなかった時、すぐに自分の言葉へ直さず、「分からないとは何が分からないのか」と聞けた。


 小さなことかもしれない。


 けれど。


 通知を受け取った人によって意味が変わったように。


 会話でも、自分が勝手に相手の意味を作ることはある。


 それを避けたい。


 アマリリアは手帳を閉じる。


 窓の外には王都の夜が広がり、遠くの街路灯が小さく連なっていた。


 今日、ミハイル・フォードに会った。


 彼が何者なのか、まだ完全には分からない。


 分かったのは、彼もまた自分の立場から市場を見ており、その見方を唯一の答えだとは言わなかったこと。そして、利益を求める商人でありながら、その利益によって誰かの損失が消えるわけではないことも知っているらしい、ということだった。


 それ以上は、次に会った時に聞けばよい。


 明日になれば、ハロルドへ今日の報告もしなければならない。


 十五年前の話をどこまで伝えるかについては、少しだけ悩むことになりそうだった。


 そして、その報告が終われば。


 今度こそ、調査ではない市場への外出についてライルと日程を決めることになる。


 手帳は禁止。


 紙も禁止。


 仕事も禁止。


 ミハイルとの面会より難しいとは思わない。


 少なくとも、今夜の時点では。


 アマリリアは小さく笑いながら灯りを落とした。


 明日になれば、また分からないことが増えるかもしれない。


 それでも今は、分からないことが残っている状態を、以前ほど怖いとは思わなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。