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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第54話 試験用の荷札を見に行っただけなのに、分かりやすさは一つではないとまた教えられました


 ミハイル・フォードとの面会を翌日に控えた朝、アマリリアは王都南側の第二共同倉庫へ向かう馬車の中にいた。


 昨日届いた試験用荷札の予備運用が、今日から始まる。報告書だけでも開始確認はできたが、現場責任者から「初日の扱いを一度見てもらえれば、王宮側が想定している確認項目とずれていないか分かりやすい」と申し出があり、アマリリアたちは短時間だけ現地へ足を運ぶことにした。


 窓の外には、昨夜まで残っていた雨雲の切れ間から淡い日差しが落ちている。通りにはまだところどころ水たまりが残り、荷車の車輪が通るたびに泥混じりの水が小さく跳ねていた。


「今日は手帳がありますね」


 向かいに座るライルが、アマリリアの膝の上へ視線を向けた。


「ございます」


「使う?」


「使います。今日は調査ですので」


「昨日の散歩とは違うんだ」


「違います」


 アマリリアは当然のように答えたあと、少しだけ目を細めた。


「殿下、何を期待していたのです?」


「いや、最近君が手帳を開かない日も増えたから」


「必要な時は使います。手帳を捨てる方向へ成長しているわけではございません」


「そこは大事なんだな」


「とても」


 ライルが笑う。


 隣の席ではディーンが今日の予定を確認しており、ゼインは窓の外を眺めていた。ハロルドは同行していない。倉庫の試験については「現場へ口を出しすぎるな」と言い残し、自分は領地関係の別件へ向かった。


 その言葉に異論はなかった。


 今日は試験を評価する日ではない。


 ましてや、初日の数時間を見て「この方法が正しい」と決める日でもない。


「目的をもう一度確認します」


 アマリリアが言うと、ライルが少しだけ身を乗り出した。


「試験方法が予定どおり始められてるかを見る?」


「それが一つです。それから、王宮側が追加した確認項目が現場の負担になっていないか」


「臨時作業員と常勤の意見を分けるやつ?」


「はい。必要なら初日で修正します」


 ディーンが資料から顔を上げる。


「現場責任者には、今日の訪問は評価ではないと伝えてあります」


「ありがとうございます。私たちが来たせいで、普段より丁寧に動かれては試験になりませんもの」


「それはもう多少は避けられないと思います」


 ライルの言葉に、アマリリアは少し考えて頷いた。


「そうですわね。見られていると分かれば、誰でも意識します」


「だから前にも言ってたように、今日見た動きだけで決めない」


「はい」


 馬車の揺れに合わせ、膝の上の手帳がわずかに動いた。アマリリアはそれを押さえながら、今日最初に書く一文をまだ決めないでおいた。


          ◇◇◇


 第二共同倉庫へ着くと、朝の作業はすでに始まっていた。


 大きな木造の建物の前には荷車が数台並び、荷台から木箱や麻袋が次々と降ろされている。濡れた土と木材、鉄、干し草が混ざった独特の匂いが漂い、倉庫内からは荷を置く重い音と作業員たちの声が途切れず聞こえてきた。


 王族の訪問であることは現場責任者と数名の管理者しか知らされていない。ライルもアマリリアも前回の市場見学と同じように目立たない服装を選び、護衛も少し離れて配置されている。


「こちらです」


 迎えに出た倉庫責任者の男性が頭を下げた。


 四十代半ばほどだろうか。袖を肘まで捲り、書類仕事だけでなく自分でも荷を動かしているらしく、掌には硬いまめが見えた。


「今日はありがとうございます」


 アマリリアが礼を返す。


「こちらこそ。試し始めてまだ二刻も経っておりませんので、結果らしい結果は何もありませんが」


「それで構いません。今日は結果を聞きに来たのではございませんので」


 責任者は少しだけ表情を緩めた。


「それを聞いて安心しました」


「やはり、結果を求められると思いました?」


「王宮から来られる方と聞けば、どうしても」


 率直な返事だった。


 アマリリアは一瞬だけライルを見る。


 王宮から人が来る。


 それだけで、「何か答えを用意しなければならない」と現場へ思わせる。


「では、今日は私たちの方が気をつけなければなりませんね」


「何をです?」


「何も分かっていない段階で、分かった顔をしないことです」


 責任者が少し驚いたように目を瞬いた。


 その横で、ライルが小さく笑う。


「最近、そこかなり気にしてるよね」


「殿下」


「褒めてます」


「でしたら受け取ります」


 そんなやり取りを挟みつつ、一行は倉庫の中へ入った。


 外の明るさから一転し、内部は思っていた以上に薄暗い。高い位置に窓はあるものの、積まれた荷が光を遮り、奥へ進むほど文字の小さな札は読みにくくなる。


「この暗さは、紙で見ていたより分かりやすいですわね」


 アマリリアは声を少し落とした。


「晴れていてもこれです。雨の日の夕方になると、もっと暗くなります」


 責任者が答える。


「灯りは?」


「増やせますが、火を使いますので置ける場所に制限があります。油代も掛かりますし、荷によっては近づけたくありません」


 アマリリアは手帳へ短く書き込んだ。


『暗所。灯り追加にも制約』


 そこで筆を止める。


 この一行だけで、何かを決めた気にはならないようにする。


          ◇◇◇


 試験用の荷札は、倉庫奥の三つの区画で使われていた。


 一つは従来どおりの長方形。もう一つは用途欄を一行加えたもの。最後は、上部の一部を切り込んで形そのものを変えた札である。


 遠目から見れば違いは小さい。


 しかし実際に荷へ付けられると、紙の上で見た印象とは少し違っていた。


「形状札の方、思ったより目立ちませんわね」


 アマリリアが言う。


「正面からなら分かりやすいんですが、荷が積み重なると上の切り込みが隠れることがあります」


 責任者が説明しながら、積まれた木箱を示した。


 確かに、札の下半分しか見えない状態では、形による違いがほとんど分からない。


「では失敗?」


 ライルが尋ねた。


 責任者は首を横へ振る。


「まだ何とも言えません。持ち上げる時には手で札を触るので、その時は違いが分かるんです」


「見る時と、触る時で違う?」


「はい」


 アマリリアは思わず手帳へ書きかけ、いったん止めた。


 自分で触ってみる。


 許可をもらい、三種類の札を順番に指でなぞる。長方形は角が四つ、切り込みのある札は上側中央で指が一度沈み、片側を落とした札は左右で形が違う。


「確かに、触れば分かります」


「でも手袋だったら?」


 ライルが言った。


 アマリリアが彼を見る。


「手袋?」


「冬とか。厚いやつ使わない?」


 責任者がすぐに頷いた。


「使います。鉄材を扱う者は今の季節でも革手袋をすることがあります」


 少し離れた場所で作業していた男性が呼ばれ、実際に使っている革手袋を貸してくれた。


 アマリリアが装着して札へ触れると、素手ほどはっきりしない。切り込み自体は分かるが、急いでいる時に確実に区別できるかは微妙だった。


「殿下」


「うん」


「良いところを見つけましたね」


「かなり褒めた?」


「かなりです」


 ライルが嬉しそうに笑った。


 貸してくれた作業員も、二人の会話を聞いて少しだけ口元を緩めている。


「普段、札を触って確認します?」


 アマリリアがその作業員へ尋ねた。


「俺はあまり。文字見て置き場所を決めますね」


「では、形が変わっても関係ない?」


「いや、たぶん慣れたら目印にはなると思います。ただ、今はどの形が何か覚えてないんで」


 責任者が横から補足する。


「今日は最初に最低限だけ説明しました。どの札が何の荷かは伝えていますが、『この形が一番良いはずだ』といった説明はしていません」


「なるほど」


 アマリリアは作業員へ視線を戻した。


「今のところ、一番分かりやすいのはどれです?」


「今ですか?」


「はい。ただし、あとで変わっても構いません」


 男性は三つの荷を見比べた。


「俺は用途の文字が増えたやつですね」


「理由は?」


「普段から文字見てるから、そのまま増えた方が分かりやすいです。形は、慣れれば使えるかもしれませんけど」


 その答えを聞いたところで、別の若い作業員が荷を運びながら通りかかった。


 責任者が声を掛ける。


「お前はどうだ?」


「何がです?」


「札」


「ああ」


 若い男は少し迷ってから、形状札を指した。


「俺はこっちです。文字は急ぐと見落とすんで、形の方が先に目に入ります」


 同じ場所。


 同じ仕事。


 同じ試験。


 それでも答えは違う。


 アマリリアは二人の顔を順番に見た。


「ありがとうございます。どちらが正しいかを決めるために聞いているわけではございませんので、そのままで大丈夫です」


「正解ないんですか?」


 若い作業員が不思議そうに尋ねた。


「今は、ございません」


 アマリリアは少し笑った。


「むしろ、違う答えが出たことが大事なのかもしれません」


 言いながら、昨日セレーネから聞いた言葉を思い出す。


 誰にとって分かりやすいのか。


 それは本当に、一つではないらしい。


          ◇◇◇


 しばらく作業の流れを見ていると、もう一つ想定していなかったことが起きた。


 形状札を付けた木箱を運んでいた作業員が、途中で一度立ち止まったのである。


「どうしました?」


 責任者が尋ねる。


「いや、これ」


 作業員は札を持ち上げた。


「紐が切り込みに寄って、札が横向きになるんです」


 よく見ると、荷へ括り付けた紐が上部の切り込みへ滑り込み、札全体が少し傾いていた。文字が完全に読めなくなるほどではないが、従来札より向きが安定しにくい。


「昨日の確認では出ませんでしたね」


 責任者が眉を寄せる。


「何回くらい付け外ししたのです?」


「十回ほどです」


「今は?」


「荷を持って歩いたから出た?」


 ライルが言った。


 作業員が頷く。


「たぶん。置いてるだけなら大丈夫なんですけどね」


 アマリリアはその場で札を交換させようとはしなかった。


「危険は?」


「荷が落ちるとかはありません。札が少し見づらくなるだけです」


「では、記録だけしてくださいませ。今日すぐ形を変える必要はございません」


 責任者が少し意外そうにする。


「よろしいのです?」


「一度起きただけですので。ただ、同じことが何度も起きるなら本試験前に見直した方が良いと思います」


「承知しました」


 アマリリアは手帳へ状況を書き込む。


『切り込みへ紐が寄る。歩行中に札が傾く場合あり。一例。継続確認』


 最後に「一例」と入れた。


 以前なら、発見した瞬間に「形状案の欠点」とまとめていたかもしれない。


 今はまだ、一回起きただけ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「今、『一例』って書いた?」


 横からライルが覗き込む。


「見ないでくださいませ」


「見えた」


「殿下」


「でも良いと思う」


「でしたら、先にそう仰ってください」


 少し不満そうに返したものの、アマリリアの口元には小さな笑みが残った。


          ◇◇◇


 午前半ばになると、荷車の到着が増え、倉庫内の声も大きくなってきた。


 アマリリアたちは通路の邪魔にならない壁際へ移動し、作業の様子を観察する。忙しくなると、先ほどまで一枚ずつ丁寧に見ていた札も、視線を送る時間が明らかに短くなった。


「これですね」


 アマリリアが呟く。


「何が?」


「余裕がある時に分かりやすいことと、忙しい時に使えることは違います」


 ライルも周囲を見渡した。


 荷を受け取る者、台帳へ記録する者、置き場所を指示する者、奥へ運ぶ者。それぞれが声を掛け合いながら動き、一人が少し止まれば後ろの作業まで詰まる。


「市場入口と似てる」


「一人の遅れが、後ろへ繋がる?」


「うん」


 その時、臨時作業員らしい若い男性が一つの木箱を持ち上げ、違う区画へ向かいかけた。


「そっちじゃない!」


 近くにいた常勤作業員が声を掛ける。


 若い男性はすぐに止まり、札を確認して方向を変えた。


「今のは?」


 責任者が近づく。


「見間違えました」


「どこを?」


「最初、前の札と同じだと思って。途中で声かけてもらって、文字見たら違いました」


「形は見なかった?」


「……見てませんでした」


 若い男性は少し申し訳なさそうに肩を縮めた。


 アマリリアはその表情を見て、すぐに口を挟む。


「責めているのではございません」


「はい」


「むしろ、今のようなことを知るための試験です。教えてくださってありがとうございます」


 若い男性の肩から少し力が抜けた。


「その札、分かりにくかったです?」


「分かりにくいっていうか……急いでて、見てなかったです」


「見ていなかった?」


「はい」


 アマリリアとライルが同時に顔を見合わせる。


 分かりやすい札を作る。


 けれど。


 そもそも見ないなら。


「形でも文字でも、見てもらえなければ意味がない」


 ライルが小さく言った。


「ええ」


 アマリリアは少し考える。


 若い作業員が悪い、と片づけることは簡単だった。


 急いでいたから見なかった。


 なら、ちゃんと見ろと言えばいい。


 しかし、実際の現場では「ちゃんと」が崩れる瞬間がある。


「普段から、忙しい時は札を見ないことがあります?」


 責任者が若い男性へ尋ねる。


「見ます。でも、今みたいに同じ箱が続くと、前と同じだと思って持つことはあります」


「それ、他の人も?」


 近くで聞いていた別の作業員が苦笑した。


「ありますよ。駄目なんですけどね」


 さらに一人が声を上げる。


「置き場ごとに床の印が違えば、そっちの方が早いかもな」


「床?」


 アマリリアが振り返る。


「今は区画番号だけなんですけど、札と同じ形の印が床にもあれば、箱持ったままでも分かるかなって」


 責任者が考え込む。


「でも床の印は荷で隠れるぞ」


「柱なら?」


「柱だと遠い場所から見えない」


「吊るす?」


「荷車で引っかける」


 作業員たちの間で、次々と意見が出始めた。


 アマリリアは思わず口を開きかけたが、止める。


 今、自分が答える必要はない。


 ライルも同じことを感じたのか、何も言わず彼らのやり取りを聞いている。


「じゃあ、札だけじゃなく置き場側も合わせた方がいいってことか?」


「全部変えると逆に分かりにくくないか?」


「新しい奴だけ混乱するかもな」


「でも今の番号も、新入りは覚えるまで時間掛かるぞ」


 責任者が最後に手を上げた。


「よし。そこは今日決めない。試験中に気づいたこととして残す」


 その判断を聞き、アマリリアは自然に頷いた。


 自分が言おうとしていたことと同じだった。


「責任者様」


「はい」


「今の意見も残していただけます?」


「もちろんです」


「ただし、次の試験へすぐ追加しなくても構いません。札単体を見たい期間に置き場まで変えてしまうと、何が効いたのか分からなくなるかもしれませんので」


「そうですね」


 責任者が頷いた。


「でも、次の候補として残します」


「お願いいたします」


 アマリリアは手帳を開き、今度は少し長めに書いた。


『誤認は「札が読みにくい」だけではない。そもそも見ない瞬間がある。荷札側だけでなく、置き場・動線との組み合わせ案が現場から出る。今回の予備試験には混ぜず、別案として保持』


 書き終えたところで、ふと笑いそうになった。


「何?」


 ライルが気づく。


「いえ」


「何かあった?」


「また、こちらが考えた範囲の外から案が出たなと思いまして」


「嬉しい?」


「はい」


 今度は迷わず答えた。


「とても」


          ◇◇◇


 昼前には、予定していた確認を終えた。


 倉庫責任者から「せっかくなので最初の集計だけ見ますか」と勧められたが、アマリリアは首を横へ振った。


「今日は見ません」


「よろしいのです?」


「まだ半日にもなっておりませんから。数字を見ると、私が勝手に意味を持たせたくなります」


 責任者が少し笑った。


「普通は数字を早く欲しがるものだと思っていました」


「私は元々、とても欲しがる方です」


「元々?」


「今もです」


 ライルが横から付け足す。


「そこは変わってないです」


「殿下」


「事実だろ?」


「事実ですけれど」


 責任者と近くの作業員たちから小さな笑いが漏れた。


「だからこそ、今日は見ません」


 アマリリアは改めて責任者へ向き直る。


「六日の予備試験が終わった時点で、実際の誤配送だけではなく、取り違えかけた回数、確認回数、作業時間、常勤と臨時それぞれの感想を見せてくださいませ」


「承知しました」


「それから、今日出た床や置き場側の案も、別に残しておいてください」


「はい」


「今日のうちに答えを出さなくて大丈夫です」


 そう伝えると、責任者は少しだけ肩を落とした。


 力が抜けたように見える。


「それを言っていただけると助かります」


「やはり、王宮へ早く結果を返さなければと思いました?」


「少しは」


「……」


 アマリリアは言葉を失わなかったが、すぐにも返さなかった。


 王宮が急げと言わなくても。


 相手は急がなければならないと思う。


 それもまた、立場の差だった。


「次からは、試験をお願いする時点で明記した方が良いですね」


 ライルが言う。


「結果を急がないって?」


「うん。急ぎじゃないなら、最初からそう伝える」


 アマリリアは頷いた。


「それも、伝えたつもりではなく、伝わる形にする必要がございますね」


 制度通知だけではない。


 王宮から現場へ出す依頼にも同じことが起きる。


「ディーン」


「はい」


「今後、試験依頼書へ『途中結果を理由に早期判断しない』『通常業務を優先する』という意味の一文を入れられるか検討してくださいませ。ただし、今回だけの特殊事情かもしれませんので、標準化はまだしません」


「承知しました」


 それで十分だった。


 アマリリアたちは現場責任者と作業員たちへ礼を述べ、倉庫を後にした。


          ◇◇◇


 帰りの馬車へ乗り込むと、外より少し暖かな空気に包まれた。


 アマリリアは座席へ背を預け、一度ゆっくり息を吐く。短時間の見学だったはずなのに、倉庫内では常に人や荷が動いていたため、思った以上に神経を使っていた。


「疲れた?」


 ライルが尋ねる。


「少しだけです」


「珍しく素直」


「最近の私はかなり素直です」


「自分で言う?」


「言ってもよい程度には」


 アマリリアはそう返しながら、手帳を膝の上へ置いた。


 今日書いた内容を見返そうとして、やめる。


「見ないの?」


「今はよいです」


「おお」


「その反応をやめてくださいませ」


「でも、前なら帰り道ずっと整理してたよね」


「今日は頭の中だけにしておきます」


 窓の外を、濡れた王都の街並みがゆっくり流れていく。


 荷車。


 露店。


 道端で桶を洗う人。


 軒先へ布を干す商店。


 市場で見た景色と同じように、そこには数字へ入る前の人の動きがある。


「殿下」


「何?」


「明日の面会で、今の倉庫のお話をします?」


「ミハイルに?」


「はい」


 ライルは少し考えた。


「最初からはしないかな」


「私もです」


「向こうが共同輸送の話をしたら聞く?」


「ええ。ただし、今日の試験を成功例のようには話せません。まだ何も結果が出ておりませんので」


「現場から別の案が出たって話は?」


「それはしてもよいかもしれません」


 アマリリアは少し考え、付け加える。


「でも、『王宮が現場の声を聞いています』と見せるために話すのは嫌です」


「褒めてもらうためみたいになるから?」


「そうです。必要なら話す。それだけでよいと思います」


 ライルが頷く。


 しばらく、馬車の車輪が石畳を踏む音だけが続いた。


「緊張してる?」


 不意に聞かれた。


「明日のことです?」


「うん」


 アマリリアは少しだけ自分の胸の内を探った。


「しております」


「昨日より?」


「少し増えました」


「なんで?」


「明日になったからです」


 ライルが笑う。


「普通だな」


「私だって普通のところはございます」


「知ってる」


 穏やかな返事だった。


 アマリリアは彼を見る。


「殿下は?」


「俺も少し」


「意外です」


「なんで君は良くて俺は意外なんだよ」


「第一王子殿下ですので」


「その理屈なら、君は第一王子の婚約者だろ?」


「……確かに」


「ほら」


 二人で小さく笑った。


 緊張している。


 それを隠さなくてもいい相手が隣にいることが、少し嬉しかった。


          ◇◇◇


 王宮へ戻ったあと、アマリリアはそのまま自室へ戻るつもりだった。


 しかし、回廊の途中で待ち構えていたように立っているハロルドを見つけ、足を止める。


「お父様」


「どうだった」


「何がです?」


「倉庫だ」


「気になって待っていたのです?」


「たまたまだ」


「この回廊で?」


「たまたまだ」


 ライルが隣で口元を緩める。


「伯爵、最近その『たまたま』無理がありません?」


「殿下は黙っていてください」


「はい」


 アマリリアは肩を落とした。


「お父様、今日は領地関係のお仕事では?」


「終わった」


「いつ?」


「少し前だ」


「それでこちらへ?」


「だから、たまたまだ」


「もうよろしいです」


 諦めて、倉庫で見たことを簡潔に話す。


 形状札は触れば分かりやすいが、積み方や手袋によって利点が変わること。


 常勤作業員と臨時作業員で好む札が異なったこと。


 札そのものを見ずに、前の荷と同じだと思って持ち運びかけた事例があったこと。


 そこから、荷札だけでなく置き場や動線まで合わせて考える案が現場から出たこと。


 そして。


「結果を急がないでよいと伝えたら、現場責任者が安心したようでした」


 その部分を話すと、ハロルドの表情が少し変わった。


「そこは覚えておけ」


「やはり重要です?」


「王宮でも領主でも、上から『急ぎではない』と言わなければ、下は勝手に急ぐ」


「なぜです?」


「遅いと思われたくないからだ」


 ハロルドは窓の外へ視線を向けた。


「特に相手が立場の強い者なら、返事が早い方が喜ばれると思う。多少雑でも、まず返そうとする者はいる」


「では、こちらが急がせたつもりがなくても」


「急がせることはある」


 アマリリアは静かにその言葉を受け止めた。


 また一つ。


 伝えた側と、受け取る側の違い。


「難しいですわね」


「今さらか」


「最近、難しいと認められるようになったのです」


「それは良いことだ」


 あまりに自然に褒められ、アマリリアが父を見る。


「何だ」


「いえ」


「何だ、その顔は」


「お父様も褒めるのが上手くなりましたね」


 ハロルドの顔が固まった。


 ライルが思いきり顔を逸らす。


「殿下」


「笑ってない」


「肩が動いております」


「すみません」


 アマリリアは少しだけ笑った。


「ありがとうございます、お父様」


 ハロルドは今度は逃げずに、短く頷いた。


          ◇◇◇


 その場を離れようとしたところで、ライルが急に足を止めた。


「伯爵」


「何でしょう」


「せっかくなので、もう一つ」


 アマリリアは嫌な予感がした。


「殿下?」


「市場デートの話なんですが」


「殿下」


「何です」


「今です?」


「明日はミハイルとの面会だろ。今日の方がいいかなって」


 ハロルドの表情から、先ほどまでの柔らかさが一瞬で消えた。


「何の話です?」


「だから、前にアマリリアと話していた、調査じゃない市場への外出です」


「聞いております」


「許可をいただきたいんですが」


「駄目です」


「早い!」


 ライルが思わず声を上げた。


 通りかかった侍女二人が一瞬だけこちらを見たあと、何も見なかったように足を速めて通り過ぎる。


「お父様」


「何だ」


「理由を聞いてからでもよろしいのでは?」


「理由は分かっている。殿下が娘を連れ出したいのだろう」


「私も行きたいのです」


「……」


 ハロルドの言葉が止まった。


 アマリリアは以前と同じように、はっきり続ける。


「今回は殿下だけが望んでいるのではございません。私が、ライル様と市場へ遊びに行きたいのです」


「今、名前で呼んだ?」


 ライルが小声で言う。


「そこを拾わないでくださいませ!」


「ごめん。でも嬉しくて」


「殿下!」


 ハロルドの眉間の皺がさらに深くなる。


「話を戻してください」


「はい」


 アマリリアは少し頬の熱を感じながらも、父へ向き直った。


「調査をしない日を作りたいのです。買い物をして、甘いものを食べて、殿下と普通に歩きたいです」


 ハロルドはすぐには答えなかった。


 以前なら、この沈黙に負けて自分から条件を並べていたかもしれない。


 護衛を増やす。


 時間を短くする。


 行き先を事前に決める。


 何か案を出して、父を納得させようとしただろう。


 今は待つ。


「……護衛は付ける」


 しばらくして、ハロルドが言った。


「はい」


「遠巻きでも必ずだ」


「分かりました」


「帰る時間を決める」


「はい」


「調査はしない」


 アマリリアが目を瞬いた。


「お父様からそれを条件にされるのです?」


「お前が途中で仕事を始める可能性がある」


「否定しづらいです」


「手帳は禁止だ」


「それは」


「リリア」


 真顔で見られる。


 アマリリアは少し悩んだ。


「……持っていくだけでは?」


「駄目だ」


「一枚だけ紙を」


「駄目だ」


「殿下も一枚」


「もっと駄目だ!」


 ハロルドの声が回廊へ響いた。


 また通りかかった侍従が、今度は明らかに笑いを堪えながら通り過ぎる。


「お父様、声」


「誰のせいだ!」


「条件としては厳しすぎると思います」


「普通のデートをしたいと言ったのはお前だろう!」


 その返しに、アマリリアは口を閉じた。


 確かに。


 調査ではない市場デートをしたい。


 そう言ったのは自分である。


「……分かりました」


「本当か?」


「手帳は置いていきます」


 ライルが隣で驚いた顔をする。


「本当に?」


「殿下まで疑わないでくださいませ」


「だって」


「ただし」


 アマリリアは父へ視線を向けた。


「日程はこちらで決めます」


「私が確認する」


「相談はいたしますが、最終的には私と殿下で決めます」


「リリア」


「デートですので」


 ハロルドが言葉に詰まる。


 ライルが小さく拳を握った。


「勝った?」


「殿下」


「ごめん」


 しばらく父娘で見つめ合った末、ハロルドは深い溜息をついた。


「……分かった。ただし、明日の面会が終わってからだ」


「はい」


「明日の話を引きずって、デート中に市場の調査を始めるな」


「努力します」


「努力ではなく守れ!」


 今度はアマリリアも笑ってしまった。


          ◇◇◇


 夜。


 自室へ戻ったアマリリアは手帳を開いた。


 今日一日だけでも、書きたいことは多かった。


 荷札は、見る人によって分かりやすさが違った。


 触る場合と見る場合でも違った。


 忙しくなれば、そもそも札を見ない瞬間があった。


 現場からは、札だけでなく置き場側を変える案まで出た。


 そして、結果を急がないつもりでも、相手は急がなければならないと思うことがある。


 アマリリアは一度ペンを走らせ、三行だけ残した。


『分かりやすさは一つではない。使う人と使う場面で変わる』


『見てもらう仕組みがなければ、分かりやすい表示も使われない』


『急がせていないつもりでも、立場だけで相手を急がせることがある』


 そこで手を止める。


 明日は。


 ミハイル・フォードとの面会だ。


 手紙を送った理由を聞く。


 こちらが市場で何を見たのかも、おそらく聞かれる。


 ライルにも質問がある。


 そしてミハイルにも、こちらへ聞きたいことがあるという。


 緊張は、昨日より少し大きい。


 けれど、その緊張を消そうとは思わなかった。


 知らないことがある。


 何を言われるか分からない。


 こちらも、どう答えるか決めきっていない。


 それでよい。


 アマリリアは手帳を閉じ、机から立ち上がった。


 その時、今日ハロルドと交わした約束を思い出し、少しだけ口元が緩む。


 ミハイルとの面会が終われば。


 まだ日程は決まっていないものの、本当に調査をしない市場デートへ行けることになった。


 手帳は禁止。


 紙も禁止。


 ライルにも一枚すら許されない。


 そこまで考えたところで、アマリリアは少し不安になった。


「……何も書かずに市場を歩くのです?」


 誰もいない部屋で、思わず口に出してしまう。


 かなり難しい気がする。


 制度を人へ届けることより難しい、とはさすがに思わない。


 けれど。


 今のアマリリアにとっては、十分な試練だった。


 そして明日は、その試練より先に。


 ようやくミハイル・フォード本人と会うことになる。


 答えを取りに行かない。


 先に決めつけない。


 相手の言葉を、自分が理解しやすい形へ勝手に直しすぎない。


 必要なら、分からないと聞く。


 それだけを覚えていればよい。


 アマリリアは明日の予定表へ一度だけ目を向けたあと、今夜は新しい質問を書き足さなかった。


 紙の向こうにいた男がどんな人物なのかは。


 明日、自分の目で見ればよかった。

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