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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第53話 面会前に調べすぎないと決めたのに、何を知らないまま会うかを決める方が難しかったです



 ミハイル・フォードとの面会まで、あと二日。


 翌朝の小会議室で、アマリリアは机の上に並べられた資料を見ながら、いつもより長く手を止めていた。窓の外では昨夜の雨がまだ石畳の隙間に残っており、朝日を受けて小さく光っている。開けられた窓からは湿った土と庭木の匂いが入り、紙とインクの乾いた匂いばかりだった部屋の空気を少しだけ柔らかくしていた。


 机上に置かれているのは、ミハイル本人についての資料ではない。


 フォード商会が王都で扱っている主な品目、共同輸送へ参加している商人や農村の大まかな範囲、荷車広場で利用している倉庫区画、そして王都市場管理局に残る過去数年分の登録情報。そのどれもが公的に確認できる範囲のものだけで、個人的な交友関係や噂話、取引先から集めた評判などは含めていなかった。


「これ以上は調べない?」


 向かいに座っていたライルが尋ねた。


「今のところは」


「『今のところ』なんだ」


「殿下、そこを拾わないでくださいませ」


 アマリリアは少し眉を寄せたものの、自分でも完全に否定しきれないことは分かっていた。


 調べられるものを残しておくことは、やはり落ち着かない。ミハイルの過去の商取引、他領との関係、王宮との接点、ハロルドがなぜあれほど警戒しているのか。知ろうと思えば、まだいくらでも調べる道はある。


 けれど、それを全部先に知ってしまえば、三日後に会うのは「ミハイル・フォード本人」ではなく、集めた情報から作り上げた人物像になってしまう気がした。


「最低限の事実だけで十分だと思います」


 アマリリアは資料の端を揃えながら言った。


「最低限って、どこまで?」


「難しいことを聞きますわね」


「昨日、君が俺に聞いたから」


「仕返しです?」


「共有」


「便利な言葉を覚えましたね」


 ライルが笑う。


「それで?」


「商会の規模、主な事業、共同輸送へ関わっている範囲、王都で正式に登録されている立場。それから、王家との公的な契約が現在あるかどうか」


「ある?」


「大規模な恒常契約はございません。過去に複数回、災害時の緊急輸送と穀物調達に参加した記録があります」


「じゃあ王宮と全く関わりがないわけじゃないんだな」


「ええ。ただし、それだけで王宮側の商人と決めつけるほどではございません」


 ライルが頷いた。


 アマリリアは手元の資料へ視線を戻す。


 フォード商会は大きい。


 だが王国内のすべてを握るほどではない。


 共同輸送の仕組みに強い影響力を持っているが、すべての荷車や倉庫が彼の支配下にあるわけでもない。市場で見たあの荷車広場も、複数の商会、農村、倉庫、個人商人が入り混じって成り立っている。


 つまり。


 ミハイルが市場について多くを知っていることと、市場の全体を知っていることは同じではない。


 それは彼自身が書簡にも書いていた。


「アマリリア」


「何です?」


「今、手帳開かないの?」


「書かなくても覚えております」


「おお」


「何です、その反応は」


「いや、少し前なら今のところ絶対書いてたなと思って」


「殿下」


「普通に感心してる」


「でしたら、そのお顔をもう少し普通にしてくださいませ」


 ライルは口元を押さえながら笑いを堪えた。


 その時、扉が軽く叩かれ、ディーンとゼインが揃って入ってきた。ディーンはいつものように薄い書類束を抱え、ゼインは小さな木箱を持っている。


「おはようございます」


「おはようございます。ゼイン、その箱は?」


「第二共同倉庫より届いた荷札の試作品です」


 アマリリアの視線がすぐに箱へ向いた。


「もう届いたのです?」


「正式試験前の確認用です。形状案を三種類作ったとのことです」


「見たいです」


 即答したあと、アマリリアは一瞬だけ止まった。


 ライルの視線を感じる。


「殿下」


「何も言ってない」


「お顔が」


「まだ何も」


「分かっております。これは急ぎではありませんが、面会準備とは別件ですので確認してもよろしいでしょう?」


「俺に許可取るの?」


「今のは自分への確認です」


 そう言うと、ディーンがわずかに目を細めた。


「では、先にこちらを?」


「はい。ただし長引かせません」


 ゼインが机へ箱を置き、蓋を開ける。


 中には同じ大きさの荷札が三枚並んでいた。


 一枚目は従来とほぼ同じ長方形。


 二枚目は上端の中央が三角形に切り込まれている。


 三枚目は片側だけが斜めに落とされていた。


 文字を読まなくても、手で触ればある程度区別できる。


「思っていたより分かりやすいですわね」


 アマリリアが一枚ずつ手に取る。


「現場ではもう一案あったそうですが、角が突出する形は紐や衣服へ引っかかりやすいため除外したとのことです」


 ゼインの説明に、アマリリアの指が止まった。


「試す前に除外したのです?」


「簡単な扱い確認はしたようです。十回ほど荷へ付け外ししたところ、二度ほど他の札へ引っかかったと」


「なるほど」


 見た目だけなら、突出した形の方がもっと分かりやすかったかもしれない。


 けれど、分かりやすさだけを増やして別の事故を生むなら意味がない。


「この三案で試す?」


 ライルが尋ねる。


「現場案では、形状二種と用途欄追加案、それに現行札を合わせて比較するそうです」


 ディーンが答える。


「試験期間は?」


「まず六日間。繁忙日と比較的落ち着く日を両方含めます。ただし、一月の予定そのものは維持し、最初の六日は予備試験として扱いたいとのことです」


「予備試験」


 アマリリアはその言葉を繰り返した。


「最初から一月走らせず、一度小さく確かめる?」


「はい。札の形状そのものに予想外の扱いづらさがあれば、本試験前に修正したいとのことです」


「良いと思います」


 アマリリアは迷わず答えた。


 そのうえで、三枚の札をもう一度見比べる。


「ただし、予備試験で一番成績が良かったものを、そのまま本試験の最終案にはしないでくださいませ」


 ディーンが少しだけ眉を上げた。


「理由を伺っても?」


「六日間では短すぎますし、偶然もございます。それに、作業員が『新しい札を試している』と意識している間だけ注意深くなる可能性もあります」


「試験だから慎重になる?」


 ライルが言う。


「ええ。普段の状態と完全には同じにならないでしょう」


 ゼインが頷いた。


「現場責任者も似たことを書いております。予備試験中は、作業員へ『何を比べたいのか』を細かく説明しすぎない方針だそうです」


「それは大丈夫なの?」


 ライルの問いに、アマリリアも少し考えた。


「安全に関わることまで隠すのは駄目です。ただ、どの札が期待されているかを伝えないという意味なら理解できます」


「なるほど」


「あとで必ず説明は必要です」


「試験終了後?」


「はい。自分たちが何に参加したのか分からないまま終わるのは良くありません」


 ディーンがその点を書き留める。


 アマリリアはその様子を見てから、箱の蓋を閉じた。


「今日はここまでにしましょう」


 ゼインが一瞬だけ目を瞬いた。


「何です?」


「いえ」


「驚きました?」


「少しだけ」


「最近皆様、私が止めると驚きますわね」


「実績ですので」


「それを禁止したはずです」


「使用回数までは指定されておりません」


 アマリリアが睨むと、ライルが横で笑った。


 湿った朝の空気が残る小会議室に、緊張のない笑い声が広がる。


 それで一度、倉庫の話は終わりになった。


          ◇◇◇


「では、ミハイル様の面会準備に戻ります」


 アマリリアがそう言って資料を入れ替えると、ディーンは一枚の紙だけを新たに置いた。


「ご指定どおり、個人的な評判や噂話は集めておりません。こちらは当日の確認事項のみです」


「ありがとうございます」


 紙には、面会日時、場所、同席者、警備、記録方法、茶菓の準備などが簡潔にまとめられている。


「同席は私、殿下、ディーン、ゼインの四名で確定です?」


「王妃陛下にはその形で了承いただいております。護衛は室外に二名、廊下の通常警備を増員しますが、目立たせない方針です」


「ミハイル様側は?」


「本人と側近一名を希望されています」


「側近のお名前は?」


「レナード・ケイル。フォード商会の会計・契約部門を長く担当している人物です」


 アマリリアの指が一瞬だけ手帳の表紙へ触れたが、開かなかった。


「公的な登録は?」


「問題ありません。商会代理人資格も確認済みです」


「では、それ以上は今は必要ございません」


 ディーンが頷く。


「記録はどうする?」


 ライルが尋ねる。


「全文書記?」


「正式な政策協議ではありませんので、逐語記録までは予定しておりません。ディーンが主要な論点と事実関係を残します」


「それが良いと思います」


 アマリリアも賛成した。


 全部の言葉を残すことは、一見すると安全に見える。


 けれど、人は記録されていると思えば言葉を選ぶ。特に最初の面会で互いの考え方を知ることが目的なら、あまりにも正式な場にしすぎない方がよい。


「ただ」


 アマリリアは少し考えた。


「数字や事実が出た場合は、その場で確認できるようにしてくださいませ」


「例えば?」


「共同輸送を何台減らした、何割効率化した、何件の倉庫を使っている、などです。後で確認できるものは、意見と事実を分けたいです」


「承知しました」


「また分類してる」


 ライルが横から言う。


「必要な整理です」


「分かってる」


「でしたら言わなくてもよろしいのでは?」


「言いたかった」


「殿下」


 小さく睨むと、ライルは楽しそうに視線を逸らした。


 アマリリアはその横顔を見ながら、ふと一つ気づく。


「殿下」


「何?」


「面会の時、私ばかり話していたら止めてくださいませ」


「昨日も言ってた」


「そうではなく」


 アマリリアは少し言葉を探した。


「ミハイル様のお話へ入り込みすぎた時だけではなく、殿下の質問まで私が先に聞いてしまった時もです」


「俺の分を取る?」


「……ありそうです」


「自覚あるんだ」


「ございます」


 ライルは少しだけ笑い、それから表情を柔らかくした。


「分かった。でも、俺も君が聞きたいことを先に聞いたら止めて」


「殿下が?」


「俺だって話に乗ったらやるかもしれない」


「では、お互いに」


「うん」


 それはとても小さな約束だった。


 けれど、アマリリアには少し嬉しかった。


 片方が片方を見張るのではなく、互いに行き過ぎたところを戻す。


 婚約者としても。


 将来、国のことを一緒に考える相手としても。


 そういう関係でいたいと思える。


「手を握る合図は?」


 ライルが小声で言った。


 アマリリアの肩がわずかに固まる。


「殿下」


「昨日決めたから確認しただけ」


「わざわざ今確認しなくても覚えております」


「そっか」


「それと」


「何?」


「必要な時だけですからね」


「分かってる」


 ディーンが資料へ視線を落とし、ゼインは窓の外を見ている。二人とも聞いていないふりが上手くなっているのが、かえって腹立たしい。


「皆様」


「何でしょう」


「今の会話は記録不要です」


「承知しております」


 ディーンの返答があまりに即座で、アマリリアは余計に恥ずかしくなった。


          ◇◇◇


 午前の面会準備が一区切りしたところで、ハロルドが現れた。


 以前なら「またです?」と先に言ってしまいそうなところだったが、今日は彼の手に何も資料がないことに気づき、アマリリアは少しだけ首を傾げた。


「お父様、今日は何も持っていらっしゃらないのですね」


「何だ、その挨拶は」


「最近は何か資料を持って来られることが多かったので」


「今日は様子を見に来ただけだ」


「面会準備の?」


「そうだ」


 ハロルドは空いている席へ腰を下ろした。


 昨日、最初の面会には同席しないと決まったばかりである。納得したとは言っていたものの、完全に気にならなくなったわけがない。


「変更を求めに来たのではございません?」


「求めん」


「本当に?」


「リリア」


「はい」


「私にも父親としての信用を少しくらい持て」


 その言葉に、アマリリアは少しだけ目を瞬いた。


 以前なら、ハロルドが「父親として」と自分から言うことはほとんどなかった。


 まして、自分を信じろではなく。


 自分も信用してほしい、と言うなんて。


「……分かりました」


「何だ、その顔は」


「少し驚いただけです」


「何に」


「お父様がご自分から父親と仰ったことに」


 ハロルドが一瞬黙る。


 ライルがすぐに口元を押さえた。


「殿下」


「何も言ってない」


「笑っております」


「すみません」


 ハロルドは不機嫌そうにライルを一度睨んだものの、すぐにアマリリアへ戻った。


「それで、調べすぎてはいないか」


「お父様までそれを聞くのです?」


「お前だから聞いている」


 返す言葉がない。


「公的な事実だけにしております」


「どこまで?」


 アマリリアは今朝確認した内容を説明した。


 商会規模。


 主な事業。


 共同輸送へ関わる範囲。


 王家との過去の公的契約。


 側近として同席するレナード・ケイルの資格確認。


 それ以上の個人的な評判や過去の逸話は、あえて集めていない。


 ハロルドは黙って最後まで聞いた。


「それでいい」


「珍しくすぐ賛成されましたね」


「私が知っていることまで聞かなかったのは正解だ」


「やはり何かあるのですね」


「ある」


 即答された。


 アマリリアの好奇心が一瞬で跳ね上がる。


「何です?」


「面会後に話す」


「お父様」


「お前が自分で見たいと言ったんだろう」


「……」


 正論だった。


「ずるいです」


「何がだ」


「知っているとだけ言われたら気になります」


「なら、私が何も知らない顔をしていればよかったか?」


「それはそれで後から腹が立ちます」


「面倒だな」


「お父様に言われたくありません」


 ライルが肩を震わせている。


「殿下、笑うところではございません」


「いや、似てるなと思って」


「何がです?」


「二人とも、知りたいのに先に言われると怒るところ」


「似ておらん」


「似ておりません」


 父娘の声がほぼ同時に重なった。


 今度こそライルが吹き出し、ゼインまで口元を隠した。


「皆様!」


 アマリリアが声を上げる。


 部屋の空気は、少し前まで制度と面会準備の話をしていたとは思えないほど柔らかかった。


 ハロルドも最後には諦めたように息を吐き、口元をわずかに緩める。


「ただし、一つだけ言っておく」


 その声色が少し変わり、アマリリアも自然に姿勢を正した。


「ミハイルは、相手が知らないことを持っているだけで優位に立とうとする男ではない」


「……」


「少なくとも、私が知っている範囲ではな」


 アマリリアはすぐには返さなかった。


 善人だとも。


 信用しろとも。


 ハロルドは言っていない。


 ただ、相手を情報で圧倒することそのものを好む人物ではない。


 それだけを教えた。


「それは、面会前に聞いてよいことなのです?」


「私の判断だ」


「お父様らしいですわね」


「不満か」


「いいえ」


 少し考えてから、アマリリアは首を横へ振った。


「ありがとうございます」


 ハロルドは以前より自然に、その礼を受け取った。


          ◇◇◇


 午後になると、アマリリアは面会準備から離れ、セレーネの王妃教育へ出た。


 今日の課題は、地方から上がってきた三件の陳情書を読み、優先順位をつけることだった。


 一件目は橋の補修。


 二件目は冬前の医薬品備蓄。


 三件目は祭礼の補助金増額。


 以前のアマリリアなら、三件すべてについてその場で改善案まで考えようとしただろう。


 今は。


 まず何を先に見るべきかを分ける。


「医薬品が最優先です」


「理由は?」


 セレーネが尋ねる。


「冬前に供給が途切れた場合、人命に直接影響する可能性があるためです。ただし、本当に不足しているのか、例年より消費が多いだけなのかは確認が必要です」


「橋は?」


「壊れてからでは遅いですが、現時点で通行制限が出ているか、代替路があるかを確認します」


「祭礼は?」


「急ぎではございません。ただ、地域経済や共同体維持へ影響する可能性があるため、不要という意味ではありません」


 セレーネは満足そうに頷いた。


「全部を同じ重さで持たなくなったわね」


「市場で嫌というほど学びましたので」


「嫌だったの?」


「……少し楽しいです」


「でしょうね」


 セレーネは笑った。


「ミハイルとの面会準備は?」


「必要な事実だけ確認しております」


「調べすぎていない?」


「皆様、同じことを聞きすぎではございません?」


「あなたへの信頼よ」


「逆では?」


「自分で分かっているでしょう?」


 アマリリアは少し唇を尖らせた。


「公的な情報だけです。個人的な評判は調べておりません」


「良いと思うわ」


「王妃様も?」


「何が?」


「すぐ賛成されました」


「だって、最初の面会でしょう。先入観を増やしすぎる必要はないもの」


 セレーネは一度ペンを置いた。


「ただし、知らないことと、確認を怠ることは違うわよ」


「はい」


「身元も、立場も、何を代表して来るのかも分からない相手へ会うのは、ただの無防備です」


「必要な事実を知ったうえで、人物評価だけを先に決めない」


「そういうこと」


 アマリリアは頷いた。


 調べない。


 聞かない。


 決めない。


 どれも似ているようで、違う。


 何も知らずに会うことが成長ではない。


 必要なものを選ぶことが、今の自分には必要なのだろう。


「王妃様」


「何?」


「面会で、私が一番気をつけるべきことは何だと思われます?」


 セレーネが少し意外そうに目を瞬いた。


「私に聞くの?」


「はい。ただし、答えそのものではなく助言として」


「便利な予防線ね」


「学びました」


 セレーネは少し考えた。


「相手の答えを、あなたが理解できる形に直しすぎないことかしら」


「……」


 アマリリアはすぐには意味を掴めなかった。


「どういうことでしょう?」


「あなたは整理が上手でしょう?」


「はい」


「人の話を聞いて、『つまりこういうことですね』とまとめるのも上手い。でも、それを早くやりすぎると、相手が本当は少し違う意味で言っていた部分まで、あなたの理解しやすい形にしてしまうことがあるわ」


 アマリリアの胸に、昨日まで追っていたルーデ村の通知が浮かんだ。


 伝えた内容と。


 受け取った意味。


 同じとは限らない。


「……私が、逆の側になる可能性がある」


「あるわね」


「ミハイル様のお話を、私の理解しやすい形へ変えてしまう」


「だから、分からなければ『今のはどういう意味ですか』と聞けばいい。すぐ綺麗にまとめなくていいの」


 アマリリアは少し長く黙った。


 それは制度の話だけではなかった。


 人の話も同じ。


 自分が理解したつもりになることで、相手の意味を変えてしまうことがある。


「覚えておきます」


「書かないの?」


「……今日は頭に置いておきます」


「成長ね」


「王妃様まで」


 セレーネが楽しそうに笑った。


          ◇◇◇


 その日の夜、アマリリアは自室の机へ向かった。


 外では雲が薄くなり、窓越しに月明かりが差し込んでいる。昼間の雨の名残で庭から湿った草の匂いが上がり、窓を少し開けると冷たい風が頬へ触れた。


 手帳は開いた。


 けれど、今日も書くことは多くなかった。


『必要な事実を確認することと、相手を先に決めることは違う』


『分かりやすさは、誰にとっての分かりやすさかを見る』


『相手の言葉を、自分が理解しやすい形へ直しすぎない』


 三つを書いたあと、アマリリアはペン先を止めた。


 ミハイルとの面会まで、あと二日。


 聞きたいことは増えている。


 それでも、質問表を作ろうとは思わなかった。


 何を知らないまま会うのか。


 何を知っておくべきなのか。


 その境目を決める方が、ただ何でも調べるより難しい。


 けれど。


 難しいからといって、全部を知る方へ逃げなくてもよい。


 アマリリアは手帳を閉じる。


 その時、机の隅に置かれていた小さな紙が目に入った。


 明日の予定表である。


 午前は第二共同倉庫の予備試験開始確認。


 午後は通常の王妃教育。


 その翌日。


 ミハイル・フォードとの面会。


 アマリリアはその文字をしばらく見つめた。


 胸の奥に、わずかな緊張がある。


 けれど以前のように、その緊張を消すために情報を積み上げたいとは思わない。


 分からないまま残していることがあるから。


 直接会う意味がある。


 そう思えるようになったことを、今夜はわざわざ手帳へ書き足さなくてもよかった。

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