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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第52話 ミハイル・フォードから届いた面会希望を読んだら、会う前からこちらを試されている気がしました



 翌朝、アマリリアが小会議室へ入ると、机の中央には昨日あえて確認を見送った二つの資料が並べられていた。一つは第二共同倉庫から届いた試験方法の提案書、もう一つはミハイル・フォードから王宮へ正式に届けられた面会希望の封書である。


 どちらも昨日のうちに開こうと思えば開けたし、以前の自分なら間違いなくそうしていただろう。けれど、急ぎではないものを「気になるから」という理由だけで夜まで抱え込まないと決め、実際にそのまま一晩置くことができた。


 それを特別な成果として手帳へ書き残す必要もない気がしていることが、アマリリアには少し不思議だった。変わったことをいちいち確認しなくても、自然にできることが少しずつ増えているらしい。


「おはよう」


 窓辺に立っていたライルが振り返った。外はよく晴れており、朝の光が彼の肩越しから差し込んで、窓際に積まれた書類の端を白く照らしている。


「おはようございます。今日は早いのですね」


「昨日、一緒に読むって言ったから」


「それだけで?」


「十分な理由だと思うけど」


 そう言われてしまうと、アマリリアは返す言葉に困った。彼の手元には湯気の立つ茶が一杯あり、向かいの席にはもう一つの空のカップが用意されている。


 侍女がアマリリアの入室を確認すると、そのカップへ静かに茶を注いだ。朝の少し冷えた空気の中へ柔らかな香りが広がり、資料を読む前から肩の力がわずかに抜ける。


「私の分まで用意してくださったのです?」


「朝から書類を二つ読むなら必要だろ?」


「殿下が頼まれたのですね」


「うん」


「ありがとうございます」


 素直に礼を言うと、ライルは満足そうに頷いた。その反応があまりにも分かりやすかったため、アマリリアは思わず目を細める。


「最近、本当に自然になったな」


「何がです?」


「ありがとうって言うの」


「またそのお話です?」


「嬉しいから」


 以前なら、褒められるたびにどう返せばよいのか分からず、話題を変えたり仕事へ逃げたりしていた。今も照れはするものの、それを理由に相手の言葉まで否定したいとは思わなくなっている。


「殿下は最近、少し褒めすぎではございません?」


「前が褒めなさすぎたのかも」


「それは、私が褒められても受け取らなかったからでは?」


「半分くらいはそうかもしれない」


「では、殿下だけの責任ではございませんね」


 何気なくそう返したところで、ライルがまた笑った。今度は何を言われるのか予想できたので、アマリリアは先回りして視線を鋭くする。


「それも変わったところだよね」


「殿下」


「まだ何も言ってない」


「言う直前のお顔でした」


「最近、顔だけで止められるようになってきたな」


 朝からこの調子では、いつまで経っても資料へ辿り着けない。アマリリアは小さく息を吐きながら席へ着き、机の上の二つを見比べた。


「まず、第二共同倉庫からにいたしましょう」


「ミハイルじゃなく?」


「そちらは後です」


「かなり気になってるのに?」


「かなり気になっております」


 即答すると、ライルが笑う。


「じゃあ、なんで後?」


「気になるものから先に手を出すと、そちらに全部持っていかれそうですもの。先に昨日から続いている試験案を確認します」


「自覚あるんだ」


「ございます」


 アマリリアは第二共同倉庫の提案書へ手を伸ばした。ライルが何か言いたそうにしていたが、今度は本当に黙ってくれた。


          ◇◇◇


 第二共同倉庫から届いた提案は、アマリリアが想像していたよりずっと具体的だった。


 現場責任者は、単に「こちらの方が良いと思う」と荷札の形状案を返してきたわけではない。実際の荷量、作業員の配置、倉庫内の明るさ、時間帯による混雑差まで踏まえ、試験条件そのものを三つに分けている。


「三種類を比べるのですね」


「現行の札、君が考えた用途欄を加えた札、それから現場が出した形を変えた札か」


「はい。しかも鉄材だけではございません」


 試験対象には、先日の誤配送が起きた鉄材に加え、外見や包装が似ていて取り違えの起こりやすい荷が二系統選ばれていた。それぞれ一定期間ずつ異なる札を使い、担当作業員も途中で入れ替えて、特定の熟練者だけが扱うことで結果が偏らないようにするという。


 記録項目も、実際に起きた誤配送件数だけではなかった。荷を置く場所を間違えかけた回数、札を見直した回数、他の作業員へ確認した回数、一件の処理に掛かった時間、さらに作業終了後には「分かりやすかったか」を簡単に聞き取る予定まで書かれている。


「……私たちが昨日話していたことより、かなり細かいですわね」


「現場だから分かるんだろうな」


「そうだと思います」


 アマリリアは提案書の最後まで目を通し、ある一文で指を止めた。


『試験のために通常業務を大きく変えることは避けたい。改善案が実際の現場で使いにくければ、誤配送を減らしても長続きしないため』


 短い一文だが、そこには王宮側から書類だけを見ていたのでは気づきにくい視点があった。


「ここ、良いですね」


「長続きしなければ意味がないってところ?」


「はい。王宮側から見れば、一件でも誤配送が減れば成功と考えてしまいそうです。でも、一件を防ぐために全員が毎日倍の時間を使うのでしたら、別の問題が生まれます」


「制度の通知と似てるな」


 ライルの言葉に、アマリリアは頷いた。


 作る側から見て正しいだけでは足りない。実際に使う人が無理なく続けられるか、負担がどこへ移るのかまで見なければならない。


「この案を基本に試していただきたいです」


「そのまま?」


「一つだけ、確認項目を追加したいです」


 アマリリアは提案書を机へ置き、考えを整理してから続けた。


「臨時作業員と、普段から倉庫で働いている方の意見を分けて記録していただけないでしょうか。形で見分ける案は、文字を読むのが得意ではない方や慣れていない方には有効でも、熟練した方には逆に余計な情報になる可能性があります」


「同じ『分かりやすい』でも、誰にとって分かりやすいのかを見る?」


「そうです」


 そこまで話したところで、昨日セレーネから投げかけられた言葉が頭に浮かんだ。


『誰に読ませるのです?』


 あれは通知の要点票について問われた言葉だったが、考えてみれば倉庫の荷札にも同じ問いが当てはまる。


「母上の質問、こっちにも残ってるな」


 ライルも同じことを考えたらしい。


「ええ。それが少し悔しいです」


「良い質問だったから?」


「分かっております。昨日は要点票のお話でしたのに、今日こちらにも使えてしまうので悔しいのです」


「それ、悔しがるところなの?」


「王妃様に勝つというお話ではございませんけれど、自分で先に気づきたかった気持ちは少しございます」


 正直に認めると、ライルは声を立てて笑った。扉近くに控えていた侍従が一瞬だけ視線を向けたものの、すぐに何事もなかったような顔へ戻る。


 以前なら、その反応まで気にして自分の態度を正したかもしれない。今は、王宮の日常の中へ二人の会話が少しずつ馴染んでいるように思えて、むしろ心地よかった。


          ◇◇◇


 試験案についてディーンへ返す内容を簡単にまとめると、机の中央にはミハイル・フォードからの封書だけが残った。


 白い厚手の紙には商会名を誇示するような装飾がなく、封蝋も必要以上に目立たない。上質ではあるものの派手さを抑えた作りで、アマリリアが勝手に想像していた「大商人らしい豪華な封書」とはずいぶん違っていた。


「意外ですわね」


「何が?」


「もっと『私はミハイル・フォードです』と分かるようなものを送ってくるかと思っておりました」


「どんな封筒を想像してたの?」


「金色とか」


「雑だな」


「大商人ですもの」


「それ、偏見じゃない?」


「少しだけです」


 封蝋にはフォード商会の正式印ではなく、個人用らしい小さな意匠が刻まれていた。一本の道と、その先に置かれた秤のようにも見える。


「殿下、これはご存じです?」


「いや。ディーンなら知ってるかな」


 ちょうど別の書類を受け取りに来たディーンが呼ばれ、机へ近づいた。


「ミハイル・フォード氏の個人印ですね。正式な意味までは存じませんが、古くから個人書簡で使用しているものだと聞いております」


「調べます?」


 ライルに尋ねられ、アマリリアは少し考えてから首を横へ振った。


「今は必要ございません。印の意味を先に知ったら、本文までその意味に引っ張られて読むかもしれませんので」


 自分で口にしてから、アマリリアは少し驚いた。以前なら、分かることは全部調べてから相手の文章を読もうとしたはずだ。


「まずは、書いてあることをそのまま読みます」


「うん」


 ライルが隣の席へ座り直す。


 アマリリアは封を切り、中から便箋を一枚取り出した。想像していたより短く、余計な挨拶もほとんどない。


「一枚だけですわね」


「大商人なのに」


「殿下まで偏見を持ち始めております」


「君のせいだよ」


 軽口を交わしてから、アマリリアは文面へ目を落とした。


 書き出しは形式的だった。市場見学を無事に終えたと聞いたこと、事前連絡を受けなかったことについて特に不快には思っていないことが記され、そのあとに少しだけ文章の調子が変わる。


『先に知らせていただければ、見栄えの良い場所くらいは用意できましたが、それでは私が手紙を差し上げた意味が半分ほど失われます』


 アマリリアの視線が止まった。


「……この方、知っておりますね」


「何を?」


「私たちが事前に連絡しなかったことをです」


「市場の人から聞いたんじゃない?」


「それだけかもしれません。でも、わざわざこの書き方をするあたりが少し嫌ですわね」


「怒った?」


「いいえ」


 アマリリアの口元が、わずかに上がる。


「面白いです」


「今度はちゃんと言った」


「この文章で困っている方はおりませんので」


 ライルも笑いながら文面を覗き込んだ。


「見せようと思えば、見栄えの良い場所を用意できるって自分で認めてるんだな」


「ええ。市場への影響力があることを隠すつもりもないのでしょう」


 ミハイルは、自分が市場のただの一商人ではないことを分かっている。そのうえで、見せようと思えば景色をある程度整えられる立場であることまで書いている。


 だからこそ、アマリリアたちが事前連絡をしなかったことも否定していない。


「次があります」


 アマリリアは続きを読み進めた。


『もし市場をご覧になったあとも、私へ尋ねたいことが残っているのであれば、お会いしたく存じます。反対に、私からもお二人へ伺いたいことがいくつかございます』


 ライルの目が少し細くなった。


「お二人、なんだ」


「最初の手紙は私宛てでしたのに、今回は殿下も最初から面会相手として入っておりますね」


「なんでだろ」


「それも聞きます」


 アマリリアはほとんど反射的に答えたが、そのまま次の行へ視線を落としたところで、わずかに眉が動いた。


『なお、私は市場についての答えを持っているつもりはございません。私が知っているのは、私の立場から見える市場だけです』


 読み終えても、すぐには言葉が出なかった。


 ライルも同じように黙り込み、静かな室内には窓の外で鳴いた鳥の声が一度届いただけだった。


「十九番目だな」


 先にライルが言う。


「ええ」


 市場見学前、十八の質問とは別に加えた観察項目。


『同じ市場を見た時、立場が違えば何が違って見えるのか』


 ミハイルがそれを知っているはずはない。少なくとも、アマリリアたちからは伝えていない。


「偶然でしょうか」


「考え方としては、そこまで珍しくないのかもしれない。でも似てるよな」


「ええ」


 アマリリアは便箋を机へ置き、改めて文面全体を眺めた。


 相手もまた、自分の見方がすべてではないと言っている。それは謙遜にも見える一方で、「ならば、あなたたちは何を見たのか」と問い返す準備にも見えた。


「お父様が仰っていた通りですわね」


「ミハイルもこっちを見るって?」


「おそらく」


「嫌?」


「いいえ。私も見ますので」


 その答えは早かった。


 ライルが少しだけ笑う。


「それ、前にも言ってたな」


「はい」


「楽しみ?」


 アマリリアはすぐには答えず、もう一度便箋へ視線を落とした。


 会いたい気持ちは、市場を見た直後よりも強くなっている。なぜ自分へ手紙を送ったのか、なぜライルまで面会相手に入れたのか、ミハイルから見れば中央市場の滞留や共同輸送、倉庫、商人、農家がどのように繋がって見えているのか。


 聞きたいことはいくつもある。


 同時に、少しだけ緊張もしていた。


「楽しみです。ただ、少し緊張もしております」


「商人に会うだけで?」


「『だけ』ではございませんでしょう?」


 ライルは少し考え、すぐに頷いた。


「そうだな」


「お父様が警戒するくらいの方ですし、先に手紙を送り、私が市場へ行ったあとで何を見たのか知りたいと言っている。少なくとも、何も考えずに会う相手ではございません」


「ミハイルに行かされたって感じる?」


「いいえ」


 そこはすぐに否定した。


「きっかけをいただいたのは事実ですが、市場へ行くと決めたのは私です。そこは分けて考えたいです」


 ミハイルに動かされたわけではない。


 ただ、彼の手紙がなければ、あの時点で市場へ出ようとは考えなかったかもしれない。その二つは同時に成立する。


「だから、会う前に一つ決めておきたいです」


「何を?」


「答えを取りに行かないことです」


 ライルが目を瞬く。


「どういうこと?」


「ミハイル様が市場に詳しいからといって、『何が正しいのか教えていただこう』という姿勢では会いたくありません。私たちが見たものを持っていき、ミハイル様が見ているものを聞いて、その違いを比べたいです」


「十九番目の続きみたいなもの?」


「はい。それくらいが良いと思います」


 ライルは少し考え、それからゆっくり頷いた。


「俺もそれがいい」


「殿下は、何を聞きたいです?」


「今?」


「ええ」


 アマリリアは手帳へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「……今日は、まず聞きます。書くのはあとでよいです」


 その様子を見て、ライルが少し嬉しそうに笑う。


「じゃあ、一つ目は共同輸送かな」


「荷車広場の?」


「うん。あれだけ荷をまとめれば効率は上がるけど、倉庫や仕分けが増えれば、間違える場所も増えるだろ。ミハイルがあの仕組みを作る時に、何が増えて何が減ると考えたのか知りたい」


 アマリリアは思わず手帳へ視線を落としたくなったが、今度は我慢した。


「良いですね」


「褒めた?」


「はい。かなり」


「ありがとう」


 ライルが嬉しそうに笑う。その表情を見て、今度はアマリリアの方が少しだけ胸の奥を温かくした。


「他には?」


「市場入口の待ち時間かな。ミハイルくらいの規模の商人なら、荷が遅れた時にどこまで理由が見えるのか知りたい」


「店側は遅延理由を知らない場合がございましたね」


「うん。商会なら、もう少し全体が見えるのかなって」


 それはアマリリアにはなかった問いだった。


 同じ場所を見ても、やはりライルは少し違うところへ目を向ける。


「殿下と一緒に会うことにして、正解でした」


「急にどうしたの?」


「私一人でしたら、今の質問は出ませんでしたので」


「それも褒めてる?」


「もちろんです」


 ライルは少し照れたように笑い、茶へ手を伸ばした。アマリリアも同じようにカップを持ち上げる。


 ミハイルと会う前から、十九番目の観察項目はもう働き始めているようだった。


          ◇◇◇


 午前の終わり頃、ハロルドが小会議室へ姿を見せた。


 セレーネから聞いたのか、ディーンから報告を受けたのかは分からない。けれど扉を開けて入ってくるなり、机上の封書へ視線を落とした時点で、何を目的に来たのかはほとんど明らかだった。


「読んだのか」


「はい」


「どうだった?」


 すぐに尋ねてきた父へ、アマリリアは少しだけ目を細める。


「お父様。まず私たちが何を考えたかを聞いてから、ご自身の意見を仰るつもりです?」


 ハロルドの眉がわずかに動いた。


「……何だ、その聞き方は」


「最近のお父様は、自分で見た方が覚えるからと答えを後にされますので」


 横でライルが吹き出す。


「仕返しされてますね」


「殿下は黙っていてください」


「はい」


 アマリリアはミハイルの書簡内容を簡潔に説明した。


 事前連絡をしなかったことをむしろ肯定していること、見栄えの良い場所を用意できたと自ら書いていること、面会相手としてアマリリアだけではなくライルも希望していること、そして自分が見ている市場はあくまで自分の立場から見える市場だと明記していること。


 ハロルドは最後まで口を挟まずに聞いた。


「それで?」


「会います」


「即答か」


「そこは以前から決めております」


「日時は?」


「まだです」


「どこで?」


「それもこれからです」


 ハロルドは腕を組み、少し考えるように封書へ視線を落とした。


「王宮へ呼ぶのか?」


「そのつもりでした」


「でした?」


 語尾を拾われ、アマリリアも少し考える。


「お父様は、別の場所が良いと思っております?」


「私はまだ何も言っていない」


「お顔が言っております」


「それはお前が最近よく使うだけだ」


 ライルがまた笑う。


「便利ですよね、それ」


「殿下」


「はい」


 ハロルドは椅子へ座り、ミハイルの便箋を自分でも読み直した。


「王宮で会えば安全だ。記録も取りやすいし、必要なら人も呼べる」


「はい」


「ただし、ミハイルは王宮へ来た時点で、商人としての顔を一つ強くする」


「商人としての顔?」


「王族に会う商人の顔だ。お前だって、王妃陛下の前と市場の露店商の前で完全に同じではないだろう」


 それは否定できなかった。


「では、市場で会う?」


 ライルが尋ねると、ハロルドは首を振った。


「それも違う。今度は向こうの場所になる」


「商会の応接室でも?」


「同じだ。情報も人も、全部あちらの慣れた場所になる」


「なら、中立の場所が良いのです?」


 アマリリアが尋ねると、ハロルドは少し考えてから答えた。


「それが一番公平に見えるが、何を目的にするか次第だ」


 何を目的にするのか。


 アマリリアは、つい先ほどライルへ話した言葉を思い返す。


 答えを取りに行かない。


 互いの見え方を比べる。


「最初は王宮でも良い気がいたします」


「理由は?」


「ミハイル様がどのような方か、まだ直接知りません。最初から相手の商会へ行く必要はないと思います」


 ハロルドは黙って続きを待っている。


「ただ、王宮へ呼んだからといって、こちらが答えを決める側で、あちらが説明する側という形にはしたくありません」


「どうする?」


「人数を増やしすぎない方がよいと思います。私と殿下、それから実務確認と記録のためにディーンは必要です」


「ゼインは?」


 アマリリアは少し迷ってから頷いた。


「いてほしいです。私が気づかないところを見ることがございますから」


「私は?」


 ハロルドが少しだけ身を乗り出した。


 アマリリアは父の顔を見て、今度は少し長く考えた。


「最初の面会には、いらっしゃらない方が良いと思います」


「なぜだ」


 即座に返ってきた。


「お父様が警戒しすぎるからです」


「私は普通に話せる」


「市場見学前、ミハイル様のお名前が出た時のお父様を覚えております」


「普通だった」


 アマリリアは横のライルを見る。


「殿下」


「普通ではなかった」


「殿下!」


 あまりに早い返答に、ハロルドの声が大きくなった。


「ほら」


「何がほらだ!」


「お父様、声が大きいです」


 ハロルドは一度口を閉じ、深く息を吸ってから音量を落とした。


「……私は、あの男を知っている」


「だからです」


「どういう意味だ」


「私たちは知りません」


 アマリリアは穏やかに答えた。


「お父様の知っているミハイル様を、先に私たちの中へ入れたくないのです。悪い方だと決めたくありませんし、良い方だとも決めたくありません」


 市場へ行く前、ミハイルへ事前連絡をしなかった理由と同じだった。


 先に誰かの見方で、自分の視線を埋めたくない。


「まず私たち自身で会って、そのあとで、お父様が知っていることと比べたいです」


 ハロルドはしばらく何も言わなかった。


 窓の外では風が少し強くなり、庭木の葉が擦れ合う音が部屋まで届いてくる。ライルも口を挟まず、父娘のやり取りを静かに見ていた。


「……分かった」


 やがてハロルドが短く答えた。


 アマリリアは少し驚く。


「よろしいのです?」


「良くはない」


「お父様」


「だが、理由は分かる。そこまで言われて無理に入れば、お前が見たいものまで歪める」


 不満は残っているらしい。


 それでも、娘が自分で見ようとしていることを尊重してくれた。


「ありがとうございます」


「ただし、面会が終わったら話せ」


「はい」


「何を話したかもだ」


「必要な範囲で」


「全部だ」


「必要な範囲で」


 父娘の視線がぶつかる。


 ライルが間へ入るように片手を上げた。


「その交渉はあとにしません?」


「殿下は黙っていてください」


「はい」


 あまりにもいつも通りの返事に、アマリリアは思わず笑った。ハロルドも不満そうな顔のまま、完全には怒りきれない様子で息を吐く。


          ◇◇◇


 午後、面会日程についてセレーネへ相談すると、三日後の午後が候補になった。


 場所は王宮内の正式な謁見室ではなく、来賓用の小応接室を使うことになった。格式を完全に取り払うわけではないが、王族と商人が上下関係だけで向き合う場にもならない。


「お茶会みたいにならない?」


 下見のため小応接室へ入ったライルが、低い卓と向かい合う椅子を見ながら言った。


「殿下は何を想像しているのです?」


「君とミハイルがずっと市場の話をして、俺が途中から聞いてるだけになるとか」


「なりません。殿下にも質問があるのでしょう?」


「あるけど」


「でしたら、ご自分で聞いてくださいませ」


 小応接室の窓からは、王宮西側の庭が見える。午後の光は柔らかく、正式な謁見室ほど緊張を強いる雰囲気ではない。


 正面から完全に向かい合うのではなく、低い卓を囲む形にする。アマリリアとライルがきっちり横並びになると「王族側」と「商人側」が明確になりすぎるため、少し角度を付けて座る案が出た。


「ここまで考える必要ございます?」


 アマリリアが尋ねると、ディーンが真顔で頷いた。


「ございます。お二人は話し始めると内容へ集中されますので、最初の印象だけでも整えておいた方がよろしいかと」


「それは私たちが悪いのです?」


「良し悪しではございません」


 ディーンは一度だけ間を置いた。


「実績です」


 アマリリアが目を細める。


「ゼインの言葉が移っております」


「便利でしたので」


「皆様、最近私の言葉遣いまで真似しておりません?」


「『便利なので』も君がよく使ってたな」


 ライルが横から言う。


「殿下まで!」


 少し離れたところで資料を確認していたゼインが、肩をわずかに揺らした。


「ゼイン」


「何も申しておりません」


「笑っております」


「表情までは制限されておりませんので」


 室内に柔らかな笑いが広がった。


 その空気が落ち着いたところで、アマリリアは面会時の質問について確認する。


「最初に聞くことは変えません。なぜ私へ手紙を送ったのか、そこからです」


「その次は?」


 ライルに尋ねられ、アマリリアは首を横へ振った。


「決めすぎません」


「おお」


「何です、その反応は」


「前なら二十個くらい用意してたと思って」


「市場見学の時は十八個です」


「十九番目もあった」


「あれは観察項目です」


「実質十九だよ」


「違います」


 反射的に否定してから、アマリリア自身も少し笑った。


 ライルの言うことも完全には間違っていない。質問を決めすぎれば、相手の答えを聞く前から「次はこれ」と進みたくなる。


「最初の問いだけ決めて、その答えを聞いてから次を考えます。殿下も聞きたいことは持っていてくださいませ。ただし、順番までは決めません」


「分かった」


「それと」


 アマリリアは少し迷い、ライルを見る。


「もし私が、ミハイル様のお話へ入り込みすぎていると思ったら、止めてくださいませ」


 ライルが一瞬だけ目を瞬いた。


「俺が?」


「はい」


「どうやって?」


「そこはお任せいたします」


「肩叩く?」


「子供ではございません」


「名前呼ぶ?」


「普通です」


「手を握る?」


 アマリリアの動きが止まった。


 ライルも言ってから少し照れたらしく、視線をわずかに逸らしている。


「……それは」


「嫌なら別の方法にするけど」


「嫌とは申しておりません」


 自分の声が少し小さくなったことに気づき、アマリリアはますます居心地が悪くなる。


「では、それで」


「いいの?」


「人前ですので、強くは握らないでくださいませ」


「そこなんだ」


「他に何がございます?」


「いや、ないけど」


 ライルの耳が少し赤い。


 おそらく自分も似たような状態なのだろう。


 少し離れていたディーンは資料へ視線を落としたまま、何も聞いていない顔をしている。ゼインも同様だったが、口元にだけ微かな笑みが残っていた。


「……皆様」


 アマリリアが低い声で呼ぶ。


「何でしょう」


 ディーンがいつも通りに答えた。


「今のは忘れてくださいませ」


「業務上必要な取り決めと理解しております」


「その言い方が一番恥ずかしいです!」


 ライルがとうとう吹き出した。


          ◇◇◇


 その日の夕方、アマリリアは自室へ戻ってから、ミハイルの手紙をもう一度だけ読み返した。


 朝に初めて読んだ時とは、少し印象が変わっている。


 最初は、自分たちを試そうとしているように感じた。その印象は今も消えていないが、「試す」という言葉だけでは足りない気もしている。


 ミハイルは、自分が市場についての答えを持っているとは書かなかった。むしろ、自分に見えるのは自分の立場から見た市場だけだと明言している。


 それが本心かどうかは、まだ分からない。


 けれど少なくとも書面の上では、「教えてやる」という姿勢より、「互いに見えたものを話そう」という態度に近かった。


 アマリリアは手帳を開いた。


 今日書くことは多くない。


『ミハイル・フォード面会 三日後午後』


『最初に聞くこと――なぜ私へ手紙を送ったのか』


『答えを取りに行かない。違う立場から見えたものを比べる』


 三つを書いたところで一度ペンを止め、少し考えてから、最後にもう一行だけ加える。


『こちらも見られる』


 嫌ではない。


 むしろ、それで良いと思う。


 第一王子の婚約者だから。


 ベスター伯爵令嬢だから。


 王妃教育を受けているから。


 そんな肩書きだけを見られるなら、少し困る。


 けれど、市場で何を見たのか、何を分からないまま残したのか、誰か一人を悪者にせずどこまで考えられたのか。そこを見られるのであれば、自分も同じように相手を見るつもりだった。


 三日後、紙の向こうにいた男と初めて直接会うことになる。


 ミハイル・フォードが何を考えているのかは、まだ分からない。


 以前のアマリリアなら、その三日間で相手について調べられるだけ調べ、予想される質問と回答を何十通りも用意したかもしれない。けれど今は、必要な事実だけを確認し、残りは本人から聞こうと思えている。


 分からないことがあるからこそ、会って聞く意味がある。


 アマリリアは手帳を閉じ、机の隅へ置かれたミハイルの書簡へもう一度だけ視線を向けた。それ以上読み返すことはせず、静かに立ち上がる。


 三日後になれば、紙の向こうにいた男が自分の言葉で話す。


 その時に、自分が何を見るのか。


 今はまだ、それだけを楽しみにしていればよかった。

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