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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第50話 口頭で伝えた内容を確かめたら、同じ言葉でも受け取る側で意味が変わっていました


 翌朝、アマリリアが小会議室へ入ると、昨日までとは少し違う空気がそこにあった。


 机の上に置かれている資料は、昨日のように何十枚も広げられてはいない。中央に封書が二通、その横にディーンがまとめた比較用の紙が数枚置かれているだけだった。


 窓から差し込む朝の光はまだ柔らかく、磨かれた机の上で白い紙の縁だけを明るく照らしている。昨日まで資料の山へ埋もれるようにして座っていたせいか、今日は妙に机が広く見えた。


「おはようございます」


 先に来ていたライルが顔を上げる。


「おはよう、アマリリア」


 挨拶を返しながら席へ向かうと、ライルの視線が自然にアマリリアの手元へ落ちた。


「今日は手帳、開いてない?」


「まだです」


「偉い」


「殿下、その言い方が既に少し怪しいです」


「普通に褒めただけなんだけどな」


 アマリリアが椅子を引くと、ライルは笑いながら隣の封書を指した。


「共同倉庫側から返事が来た」


「ルーデ村です?」


「うん。それとベネ村も」


 アマリリアの表情がすぐに引き締まる。昨日は、ルーデ村役場が「共同倉庫へ口頭伝達を実施した認識あり」と回答してきたところで調査を止めていた。


 村役場側は伝えたつもりでいる。一方で、実際に農夫へ渡されたのは旧様式だったため、そこで無理に結論を出さず、共同倉庫側の返答を待つことにした。


 その返事が、今ここにある。


「もう読まれました?」


「封だけ確認した。中はまだ」


「なぜです?」


「君が来る前に読むと怒りそうだったから」


「怒りません」


「本当?」


「……少しだけ残念には思います」


「ほら」


 ライルが笑う。


「では、私が来るまで待ってくださったのです?」


「うん」


「ありがとうございます」


 素直に礼を言うと、今度はライルの方が少しだけ目を瞬いた。


「最近、本当にすぐ言うようになったな」


「何がです?」


「ありがとうって」


「悪いです?」


「すごく良い」


 あまりに自然に返され、アマリリアは一瞬だけ口を閉じた。それから小さく咳払いをし、封書へ視線を戻す。


「では読みましょう」


「逃げた?」


「仕事です」


「昨日もそれ言った」


「便利なので」


 そんなやり取りをしているうちに、ディーンとゼインも入ってきた。


 ディーンは追加の記録を抱えており、ゼインは昨日と同じく簡単な地域図を持っている。二人とも席につくと、最後に扉の外から足音が近づいた。


 ハロルドだった。


「今日は間に合ったか」


「お父様」


「何だ」


「昨日は昼前でしたのに」


「今日は領地の用件を先に片づけた」


「こちらを優先してくださったのです?」


「勘違いするな。気になるから来ただけだ」


「それを優先したと言うのでは?」


「言わん」


 ライルが横で小さく笑った。


「伯爵、最近だいぶ分かりやすいですね」


「殿下」


「はい」


「黙ってください」


「すみません」


 謝りながらも、ライルの表情はまったく反省していない。


 アマリリアはそんな二人を見て少し笑ってから、改めて封書へ手を伸ばした。


「始めます」


 今度は誰も止めなかった。


          ◇◇◇


 最初に開いたのは、ルーデ村共同倉庫からの返答だった。


 文面は思っていたより長く、倉庫管理者本人ではなく、村の会計も兼任している補佐役が書いたらしい。冒頭には「記憶に基づく部分があるため、正確でない可能性がある」と注記されていた。


「正確でない可能性を最初に書いてくださるのは助かりますね」


 アマリリアが言うと、ディーンが頷いた。


「自信のない記憶を断定されるより、こちらの方が扱いやすいです」


「では、何て書いてある?」


 ライルが紙を覗き込む。


 アマリリアはゆっくり読み進めた。


 新様式変更の通知について、村役場から共同倉庫へ口頭で話があった記憶はある。ただし、その内容として覚えているのは次のようなものだった。


『王都の市場書類が今後変わるので、次に新しい用紙が届いたらそちらを使うように』


「……次に新しい用紙が届いたら?」


 アマリリアが声に出す。


「そこですわね」


 ゼインも身を乗り出し、ライルが眉を寄せた。


「新しい用紙、届いてなかった?」


 返答の続きを確認すると、共同倉庫側では、村役場から新様式そのものの見本や用紙の束を受け取った記録はなかった。そのため棚に残っていた旧様式をそのまま使い続け、旧様式が「すぐ使えなくなる」とは認識していなかったという。


「つまり、村役場は『変わる』とは伝えた」


 ライルが言う。


「でも倉庫側は、『新しい用紙が届くまでは今のものを使ってよい』と受け取った」


 アマリリアが続けると、ハロルドが腕を組んだ。


「伝えた内容と、受け取った意味が少しずれている」


「少し、でしょうか」


 アマリリアは文面をもう一度読んだ。


「かなり重要な部分が違っております」


 市場管理局から出された通知には、施行日以降は新様式を使用すること、旧様式は原則受理しないことが明記されていた。


 しかし共同倉庫へ届いた言葉には、『今後変わる』『新しい用紙が届いたら使う』という認識しか残っていない。


「期限が消えております」


 アマリリアが言うと、ディーンも頷く。


「はい。施行日が伝わっていない可能性が高いです」


「旧様式を原則受理しないことも?」


「共同倉庫側の認識には残っておりません」


 ライルが少し考え込む。


「じゃあ、共同倉庫は嘘をついてないかもしれない」


「ええ」


「村役場も?」


「まだ分かりません。でも、村役場は『共同倉庫への口頭伝達を実施した認識あり』と答えております」


 アマリリアは昨日の返答を開いた。


「村役場は伝えた認識」


「共同倉庫も聞いた認識」


 ライルが続ける。


「なのに、内容が違う」


 部屋の空気が静かになる。


 昨日アマリリアが感じた怖さが、少し具体的な形になった。


 誰も「何もしていない」とは言えない。王都は通知を出し、領主府は村へ転送し、村役場は共同倉庫へ口頭で伝えている。共同倉庫も、何かが変わることだけは知っていた。


 それでも、農夫の手には旧様式が残った。


「お父様。こういうことは、領地でもございます?」


 ハロルドはすぐには答えず、少しだけ天井を見るように考えた。


「ある。特に口頭はな」


「やはり」


 ハロルドは机の上の紙を指先で軽く叩いた。


「人は、自分が大事だと思った部分を覚える」


「大事だと思った部分?」


「例えば『新しい用紙が届く』と聞けば、倉庫側は用紙の到着を待つ。『施行日はこの日だ』が強調されなければ、今日から使えなくなるとは思わない」


 アマリリアは少し考えた。


「では、同じ言葉を聞いても、立場で残る部分が違う」


「そうだ」


「村役場は制度変更。倉庫は用紙」


「農夫は?」


 ライルが尋ねる。


 アマリリアは昨日の若い農夫の姿を思い出した。


「多分、何も知らなかった」


 その事実が、一番大きいように思えた。


 制度の最後にいる人ほど、受け取れる情報が少なくなる。


          ◇◇◇


 次に、ベネ村の返答を確認した。


 こちらはルーデ村と少し違っていた。


 村役場側は、新様式への変更を共同倉庫と村内の主要商人へ口頭で説明したとしている。共同倉庫側の返答にも、「新しい書類へ変わる」と聞いた記録は残っていた。


「ここ」


 ライルが紙を指す。


『王都へ直接持ち込む者のみ関係するものと認識』


 アマリリアはその一文をゆっくり読んだ。


「共同倉庫を経由する荷には関係ないと思っていた?」


「そう読めます」


 ディーンが答える。


 その理由も後ろに書かれていた。


 通常、ベネ村の農作物は登録商会がまとめて買い取り、商会側で必要な搬入書類を用意する。そのため共同倉庫側は、新様式が個人農家向けの手続き変更だと理解していた。


「でも実際には、共同倉庫が荷主になった場合も必要」


 ライルが言う。


「ええ」


 アマリリアは二つの返答を並べた。


 ルーデ村では、『新しい用紙が届いたら使う』。


 ベネ村では、『王都へ直接持ち込む個人だけが関係する』。


 どちらも、元の通知内容そのものではない。


「同じ通知から、違う誤解が生まれております」


「面白い?」


 ライルが聞く。


 アマリリアは少し考えた。


「興味深いです」


「言い換えた」


「困っている方が出ておりますので、面白いとは言いづらいです」


「でも知りたい?」


「かなり」


 そう答えると、ライルが笑った。


「そこは変わらないな」


「変わる必要がございませんので」


 アマリリアも少しだけ笑った。


 二村の回答を並べたことで、新しい問題も見えてくる。


「通知文そのものは同じです」


「うん」


「でも、受け取った先で意味が変わっている」


「じゃあ通知文が悪い?」


 ライルが尋ねる。


「それもまだ決めません」


「理由は?」


「十村では問題なく後続処理が行われております」


 アマリリアは昨日の一覧を出した。


 村内掲示、共同倉庫へ通知、商人組合へ回覧、村長会で説明。同じ通知を受けて、正しく運用へ繋げた村もある。


「なら、通知文が完全に分かりにくいわけではない」


 アマリリアは少し考えながら言った。


「でも、誤解する村もあった」


「はい」


「じゃあ、分かる人には分かる通知?」


 ライルが首を傾げる。


「それは少し危険な気がいたします」


「何で?」


「制度として出すなら、担当者の経験や知識によって、理解できるかどうかが変わりすぎるのは困ります」


 アマリリアが紙を指すと、ハロルドが頷いた。


「良いところに気づいたな」


「褒めております?」


「今回は確実に褒めている」


「ありがとうございます」


 ハロルドは一瞬だけ黙った。


 ライルがまた笑う。


「まだ慣れてない」


「殿下」


「すみません」


 少し空気が緩んだところで、ディーンが一枚の紙を差し出した。


「比較のため、問題が起きていない村のうち二村へも簡単な確認をしております」


「もう?」


 アマリリアが驚く。


「昨日、同時に照会しました」


「ディーン」


「はい」


「かなり優秀ですわね」


「ありがとうございます」


 ゼインが横から小さく言う。


「お嬢様が褒める側へ回られましたね」


「私も以前から褒めております」


「頻度が増えました」


「ゼイン、今は資料を」


「承知しました」


 アマリリアは軽く睨んだものの、口元は少し笑っていた。


          ◇◇◇


 問題の起きていない二村のうち、一つはルーデ村よりさらに小さな村だった。


「人員が多いから上手くいった、ではない」


 ライルが言う。


「ええ」


 そこでは、領主府から通知を受領したあと、村役場の書記が内容を確認していた。そして翌日の朝、共同倉庫管理者、村内の商人二名、よく王都へ個人搬入する農家三名を役場へ呼び、変更内容を説明している。


 その場で旧様式の用紙を回収し、新様式の見本を一枚作って共同倉庫に掲示した。新しい用紙が届くまでの間は、その見本を写して使用する運用に切り替えていた。


 アマリリアは何も言わず最後まで読み、ライルも同じように紙を見る。


「かなり違うな」


「はい」


「誰が考えたの?」


「村役場の書記だそうです」


「独自に?」


「通知を読んで必要だと判断した、とあります」


 もう一村も似ていた。


 こちらは共同倉庫の管理者自身が領主府からの通知を見せてもらい、施行日と変更点を確認している。


 つまり、問題のなかった村では、情報を途中で要約しすぎず、実際に使う人まで見せていた。


「紙そのものを見せる」


 アマリリアが呟く。


「口頭だけじゃない」


 ライルが続ける。


「でも、三枚全部を全農家へ配るのは現実的ではございません」


 アマリリアはすぐに考え直した。


「紙代もある」


「時間も掛かります」


「読めない人もいる」


「ええ。そこがまた難しいですわね」


 ディーンが尋ねる。


「では、どうします?」


 アマリリアはすぐに答えなかった。


 以前なら、成功した村の方法をそのまま全村へ広げようと思ったかもしれない。けれど、小さな村でもできたとはいえ、すべての村に同じ人数、同じ識字率、同じ共同倉庫、同じ商流があるわけではない。


「まず、成功した方法を『正解』にしません」


 アマリリアはゆっくり口を開いた。


 ライルが少し嬉しそうに笑う。


「うん」


「ただし、共通している部分はあります」


 アマリリアは二村の返答を見比べた。


「何?」


「最後に使う人へ届くようにしていることです」


「具体的には?」


「施行日を明確にする。旧様式をどう扱うか決める。共同倉庫など実際に用紙を渡す場所へ伝える。必要なら見本を置く」


「四つ」


「今のところは」


「増える?」


「多分」


 ライルが笑った。


「やっぱり分類好き」


「整理です」


「同じじゃない?」


「違います」


 アマリリアは少しだけ頬を膨らませた。


          ◇◇◇


 そこで、ディーンがもう一つ別の問題を提示した。


「アマリリア様、通知を改善する場合、誰がどこまで確認するかという問題がございます」


「どういう意味です?」


「例えば市場管理局が通知を出したあと、全村で利用されているか確認するとします。王都周辺だけでも対象は数百あります」


 アマリリアの手が止まる。


「全部確認するのは難しい?」


 ライルが尋ねる。


「かなり」


 ディーンが頷いた。


「新制度のたびに全村へ確認を取れば、確認するための人員が必要になります」


「しかも、返事を書く側も大変だ」


 ハロルドが加える。


「確かに」


 アマリリアは少しだけ眉を寄せた。


 制度は最後まで届いた方がよい。けれど、全部を確認しようとすると、それ自体が新しい負担になる。


「またですわね」


「何が?」


 ライルが尋ねる。


「良いことを増やせば、それで終わりではないということです」


「確認を増やしたら、仕事も増える」


「ええ」


「じゃあ、やらない?」


「それも違います」


 アマリリアは少し考えた。


「全部を毎回確認しなくても、例えば制度変更から一月後に、旧様式がどれだけ持ち込まれているかを見る方法があります」


「市場側で?」


「はい」


「旧様式が多い地域だけ追う?」


「そうです」


 ディーンの表情が少し変わる。


「結果から逆に確認する」


「ええ。全村を確認するのではなく、実際の利用状況から伝達不良の可能性がある場所を絞ります」


「それなら、まだ現実的だ」


 ハロルドが頷く。


「でも、市場へ来ない人は見えない」


 ライルが言った。


 アマリリアのペン先が止まる。


「……そうですわね」


「旧様式を持ってきて引き返した人は見えるかもしれない。でも、最初から王都へ来るのを諦めた人は記録に出ない」


「うん」


 また、数字の外にいる人が出てくる。


「なら、一つの方法だけにしません」


 アマリリアは考えながら言った。


「何を足す?」


「市場側で旧様式の持ち込みを記録する。それと」


 アマリリアはハロルドを見る。


「領主側から、施行後に一度だけ『困っている村がないか』を確認していただくのは?」


「全村から正式報告を取るのではなく?」


「はい。通常の定期連絡の中で」


「それなら負担は少ない」


「ただ、『困っているか』だけでは、困っていても本人たちが気づいていない場合がある」


 ハロルドが少し考えて言う。


 ルーデ村がそうだった。共同倉庫は、新しい用紙が届くまで旧様式でよいと思っていた。


「では、具体的な質問にする?」


 ライルが言う。


「例えば?」


「新様式へ切り替えたか」


「旧様式は残っていないか」


 アマリリアが続ける。


「実際に用紙を渡す場所へ説明したか」


「それでいい」


 ハロルドが頷いた。


「質問は三つくらいでいい」


「多すぎると?」


「返事が雑になる」


「なるほど」


 アマリリアは書き込む。


 確認も、多ければ良いわけではない。


 必要なものを、使える形で残すことが大切なのだろう。


「殿下」


「何?」


「制度って、思っていたより作るより届かせる方が難しいのかもしれません」


 ライルは少し考えた。


「俺も、そう思ってきた」


「殿下も?」


「王宮で決めれば終わりって、前はどこかで思ってた」


 その言葉に、アマリリアは顔を上げた。


「本当です?」


「うん。だって、王子だから」


 ライルは少し恥ずかしそうに笑う。


「理由になっております?」


「王命って強いものだと思うだろ」


「それは」


「でも、強くても届かなきゃ意味ない」


 アマリリアはその言葉を少し嬉しく思った。


「一緒ですわね」


「何が?」


「私も、決めれば動くと思っておりました」


 アマリリアは一度言葉を選ぶ。


「今は?」


「人が動いて、初めて制度が動くと思います」


 ライルが笑った。


「それ、良いな」


「そうです?」


「うん」


「では書きます」


「やっぱり書くんだ」


「忘れたら困りますので」


 皆が少し笑った。


          ◇◇◇


 昼前になると、話は改善案へ移った。


 ただし、今日は正式決定をしない。昨日と同じように、まず提案をまとめるところまでにする。


「新しい通知書の形式を変える?」


 ディーンが聞く。


「可能なら。ただ、本文三枚をもっと長くするのは違うと思います」


「読む人が減る」


「ええ」


「じゃあ短く?」


「本通知とは別に、実際に運用する方へ渡す簡単な一枚を作れません?」


 アマリリアは紙の端へ四角を描いた。


「一枚?」


「はい」


 そこへ大きく、『いつから』『何が変わる』『誰が使う』『古いものをどうする』『困った時の問い合わせ先』と書く。


 ディーンが少し目を細めた。


「かなり分かりやすいですね」


「本通知の代わりではありません」


「要点票?」


「そのようなものです」


 ライルが覗き込む。


「古い用紙をどうする、が入ってる」


「今回の問題でしたので」


「誰が使う、も」


「ベネ村の誤解がございました」


「いつから」


「ルーデ村です」


 アマリリアは一つずつ答えた。


「つまり、今回の失敗から必要項目を作る」


 ハロルドが言う。


「はい」


「全部の制度変更で同じ項目が使えるとは限らんぞ」


「分かっております」


「ならいい」


 ハロルドは少しだけ笑った。


「お父様」


「何だ」


「今のは?」


「褒めた」


「ありがとうございます」


「もう慣れた」


「本当です?」


「半分」


 ライルが笑う。


「伯爵、半分なんですね」


「殿下」


「はい」


「黙ってください」


 また空気が緩んだ。


 それから、ゼインが実務的な疑問を出した。


「一枚を作ったとして、村役場で止まれば同じでは?」


 アマリリアが一瞬止まる。


「確かに」


「誰に渡すかを決める必要がございます」


「共同倉庫、商会」


 ライルが言う。


「個人搬入が多い地域なら村の掲示も?」


「ええ」


「でも全部一律?」


「それも違いますわね」


 アマリリアは少し考えた。


「領主府側で、その領地に必要な送付先を選ぶ?」


「その判断ができる人がいれば、また人による差が出ます」


 ディーンが言う。


 また同じところへ戻ってくる。


 制度を分かりやすくしようとすると、運用する人の判断へ負担が移る。


「難しいですわね」


 アマリリアが小さく息を吐いた。


「珍しい」


 ライルが言う。


「何がです?」


「君が普通に難しいって言うの」


「難しいものは難しいです」


「前は?」


「難しくても、何とか答えを出そうとしておりました」


「今は?」


「今日出さなくてもよいです」


 それを聞いたライルが、本当に嬉しそうな顔をする。


「殿下」


「何?」


「なぜそこまで嬉しそうなのです?」


「成長見てるから」


「子供扱いです?」


「婚約者扱い」


「意味が分かりません」


「俺も今言ってから少し分からなくなった」


 アマリリアは思わず笑った。


「では、今日はここまでにしましょうか」


 ハロルドが眉を上げる。


「自分から?」


「何です?」


「いや」


「皆様、私が終わると言うたび驚きすぎではございません?」


「実績です」


 ゼインが淡々と答える。


「ゼイン、その言葉を便利に使わないでくださいませ」


「お嬢様も『仕事です』を便利に使われております」


「……」


「皆様」


 ディーンが静かに口を挟む。


「そろそろ本当に昼食の時間です」


 全員が少し笑った。


          ◇◇◇


 昼食後、アマリリアとライルは王宮の庭園へ出た。


 調査ではない。


 書類もない。


 そして今日は、アマリリア自身が手帳を部屋へ置いてきた。


「本当に持ってない?」


 ライルが聞く。


「ございません」


「見せて」


「なぜです!」


「念のため」


「殿下」


「冗談」


 春に近い穏やかな風が、庭園の低い木々を揺らしている。市場の喧騒とは正反対の静けさで、聞こえるのは噴水の水音と、遠くで庭師が枝を整える音くらいだった。


 二人は肩を並べ、ゆっくり歩く。


「アマリリア」


「何です?」


「昨日言ってた市場デート」


 アマリリアの足が少しだけ遅くなった。


「覚えていらっしゃったのです?」


「忘れるわけないだろ」


「……」


「いつ行く?」


「まだお父様と交渉しておりません」


「俺がするんだよね」


「主に」


「やっぱり」


 ライルが苦笑する。


「でも」


 アマリリアは少しだけ彼の方を見た。


「行きたいのは、本当です」


「うん」


「調査ではなく」


「うん」


「手帳も持たず」


「本当に?」


「殿下」


「ごめん」


「……多分」


「そこは多分なんだ」


「市場へ行って何も書かない自信が少しございません」


 正直に答えると、ライルが笑った。


「じゃあ、一枚だけ?」


「何の話です?」


「デート中に気づいたことは一枚だけ書いていい」


「なぜ殿下が許可するのです?」


「全部書き始めたらデートじゃなくなるから」


 否定しづらい。


「では、殿下も一枚だけです」


 アマリリアは少し考えて言った。


「俺も?」


「公平です」


「何を書くの?」


「私が気づかなかったことを」


「やっぱり調査になってない?」


 二人は少し黙った。


 それから、ほとんど同時に笑った。


「難しいね」


「ええ」


「デート」


「制度より?」


「それは分からない」


「殿下」


「冗談」


 けれど、アマリリアはそのやり取りが少し楽しかった。


          ◇◇◇


 午後は会議へ戻らなかった。


 今日は午前で調査を区切ると決めたからだ。


 ただ、夕方前になって、ディーンから一つだけ確認が入った。第二共同倉庫で昨日提案した一月の試験運用について、現場責任者から返答が来たという。


「どうでした?」


 アマリリアは王宮の廊下で足を止めた。


「基本的には賛成です」


「基本的には?」


「一つ条件があります」


「何です?」


「荷札の用途欄追加についてです」


 ディーンが紙を見る。


「現場側は、一行追加より札の形そのものを分けたいと」


「形?」


「はい。農具向けと刃物向けで、札の上部を異なる形へ切る案です。文字だけではなく、触っても分かるようにしたいと」


 アマリリアは少し驚いた。


「なぜ?」


「倉庫内が暗い時間帯もあるためです」


「夜?」


「早朝と夕方です。灯りはありますが、文字が読みづらい場合があると。それから、臨時作業員の中には文字を読むのが得意でない方もいるそうです」


 アマリリアは昨日の自分の案を思い出した。


 用途欄を一行追加すれば分かりやすい。そう思った。


 けれど、現場から見れば、それだけでは足りない。


「良いですわね」


「形を分ける案?」


「ええ」


「採用します?」


「まだです。試していただきます」


「用途欄と両方?」


「比較できます?」


「可能です」


「では、二週間ずつ」


「前半と後半?」


「いえ」


 アマリリアは一度言いかけて、また考え直した。


「同じ期間に区画を分けて試せません?」


「条件が違いすぎる可能性があります。荷の種類や量で結果が変わりますので」


「なるほど」


 アマリリアは息を吐く。


「では、現場責任者に試し方も考えていただきましょう」


「こちらで決めない?」


「現場の方が、比較しやすい方法をご存じでしょう?」


 ディーンが少しだけ笑った。


「承知しました」


「あと、私の案より良い案が出たこと」


「はい」


「嬉しいです」


 ディーンが一瞬だけ目を瞬いた。


「そうですか」


「ええ」


「以前なら?」


 どこからかライルの声が聞こえた。


 見ると、回廊の奥からこちらへ歩いてくる。


「殿下」


「何?」


「聞いていらしたのです?」


「途中から」


「お父様みたいになっております」


「それは嫌だな」


「何だと?」


 さらに後ろからハロルドの声がした。


 アマリリアは少しだけ目を閉じる。


「皆様、どうして今日は次々といらっしゃるのです?」


「ここ通路だから」


 ライルが言う。


「昨日のお父様と同じ言い訳です!」


「本当に通路だ」


「俺もそうだ」


「お父様まで!」


 ディーンが静かに笑いを堪えている。


 アマリリアは一度大きく息を吐き、それから自分も笑った。


          ◇◇◇


 その日の夜、アマリリアは自室で手帳を開いた。


 今日は昼間ほとんど書かなかったため、書きたいことが少しだけ溜まっている。それでも、以前のように全部をその日のうちに整理しようとは思わなかった。


 書いたのは三つだけだった。


『伝えた内容と、受け取った意味は同じとは限らない』


『制度変更時は、最後に使う人へ何が必要かを見る』


『現場から出る案は、こちらが考えた案より良い場合がある』


 そこまで書いて、ペンを置く。


 ルーデ村とベネ村の問題は、まだ完全には終わっていない。誰が、どの言葉を、どのように伝えたのか、もう少し確認する必要がある。


 新しい通知方法もまだ案にすぎず、第二共同倉庫の試験もこれからだ。徒弟制度も、中央市場の待機時間も、ミハイル・フォードとの面会も残っている。


 やるべきことは、まだたくさんある。


 以前なら、それを重いと感じたかもしれない。


 けれど今は少し違う。


 全部を今日終わらせなくてよい。分からないものは明日見ればよいし、自分に分からないものは分かる人に聞けばよい。


 そして、自分より良い案を持っている人がいたなら、その案を使えばよい。


 アマリリアは閉じた手帳の上へ、そっと手を置いた。


 市場へ行く前、自分は人の暮らしを数字で知っているつもりだった。


 今でも数字は必要だと思う。


 ただ、それだけでは足りないとも思う。


 その二つが、ようやく自分の中でぶつからず、同じ場所に並び始めていた。

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