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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第49話 届いていない通知を追ってみたら、受領印があるから伝わっているとは限りませんでした


 翌日の午前、アマリリアは王宮の書庫に近い小部屋で、机いっぱいに広げられた二十七件分の記録を前にしていた。昨日の会議で「優先して確認する」と決めた、旧様式による持ち込み記録である。


 市場管理局に残っていた書類は、思っていたより統一されていなかった。三月前のものは担当者が余白へ簡単な事情を書き残している程度で、最近のものほど記録欄が増えている。受付番号、持ち込んだ者の名前、出発地、品目、新様式へ書き直したかどうかまでは比較的追えるものの、その後どうなったのかが空欄になっている記録も多かった。


 紙の上では、どれも数行で終わっている。けれど昨日、実際に一人の農夫と話したアマリリアには、その数行だけで終わる話には見えなくなっていた。


「二十七件を並べると、思っていたより散っておりますね」


 アマリリアが呟くと、向かい側で記録を分類していたライルが一枚の紙から顔を上げた。


「同じ領地ばかりじゃない?」


「ええ。グレイス男爵領が六件、東部の小領地が四件、北西の農村地帯から三件。残りは一件か二件ずつです」


「じゃあ、グレイス男爵領が少し多い」


「そう見えます。ただし、搬入件数そのものが違います」


 アマリリアはすぐに手帳へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。昨日までなら数字を見つけた瞬間に書き込み始めていたところだが、今は一度考える時間を置ける。


「グレイス男爵領から王都へ来る荷が、もともと他領より多いのでしたら、六件でも割合としては低いかもしれません」


「また割合」


「大切です。ただし、割合だけで判断するのも駄目です」


「昨日より使い分けが早くなったな」


 ライルが笑う。アマリリアは少しだけ眉を寄せたものの、否定はしなかった。


「学習しておりますので」


「うん。知ってる」


 机の端では、ディーンが市場管理局から取り寄せた搬入統計を確認している。ゼインは旧様式の書類がどの地域で使われていたか、地図へ小さな印を付けていた。


 ハロルドは今日は最初から同席していない。午前中に領地関係の別件があるらしく、「昼前には顔を出す」とだけ言い残していた。


 そのせいか、室内はいつもより少し静かだった。紙をめくる音と、ペン先が記録用紙を擦る音がよく聞こえる。


「お父様がいらっしゃらないと、静かですわね」


 何気なく口にすると、ライルが顔を上げた。


「寂しい?」


「なぜそうなるのです?」


「最近仲良いから」


「以前よりは」


「やっぱり」


「それと寂しいかどうかは別です」


 アマリリアはそう言いながら、机の上の一枚をライルの方へ滑らせた。


「こちらをご覧くださいませ」


「逃げた?」


「仕事です」


「はい」


 ライルもすぐに話を戻した。


 紙には、旧様式を持ち込んだ人物が、その場で新様式へ書き直したと記録されている。


「この方は救済制度を使っていない」


「ええ。ただし、書き直せたので問題なく通っています」


「じゃあ、旧様式を持ってきても全員が困るわけではない」


「そうです」


 アマリリアは別の記録を指した。


「こちらは荷主本人が同行していたため、その場で必要事項を確認できています」


「この人も通れた」


「ええ。こちらは救済制度を利用しています」


 救済制度の利用は七件。そのうち三件は商会による保証、二件は領主府の証明、一件は共同集荷所の登録確認、そして最後の一件が昨日のルーデ村だった。


「残るものは?」


 ライルが尋ねると、アマリリアは一覧へ目を落とした。


「書き直した記録が九件。救済制度利用が七件。窓口で新様式の用紙を受け取り、翌日に再訪した記録が三件です」


「十九件」


「はい」


「残り八件」


 ディーンが資料から顔を上げた。


「その八件については、その後の処理が記録されておりません」


「帰った可能性も?」


「ございます」


「別の商会へ売った可能性も?」


「それもございます」


「市場へ入れなかったかもしれない」


「否定できません」


 アマリリアはしばらく黙った。


 分からない。


 以前なら、その状態をすぐに埋めたくなっただろう。空欄があるなら、そこへ何かを書かなければ落ち着かなかった。


 けれど今は、分からないものを分からないまま記録することにも意味があると思える。


「八件は、現時点では『不明』とします」


「調べない?」


 ライルが聞く。


「調べます。ただし、まず追える範囲を確認してからです。三月前の記録ですもの。全員を見つけられるとは限りません」


「見つからなかったら?」


「見つからなかったという結果を残します」


 ライルは一度だけ目を瞬き、それから静かに頷いた。


「うん。それがいいと思う」


 アマリリアも少しだけ笑った。


          ◇◇◇


 午前の半ばを過ぎた頃、グレイス男爵領から最初の返答が届いた。


 急使ではなく、王宮との通常連絡便に載せられた照会回答だったため、封筒は簡素だった。ただし領主府の公印が押され、同封された写しには新様式変更通知の受領記録と、領内各村への転送記録が添えられている。


「思ったより早かったですね」


 アマリリアが封を見ながら言う。


「照会の内容を限定したからだと思います」


 ディーンが答えた。


「『誰が悪いか説明せよ』ではなく、『いつ受領し、どこへ転送したか記録を提示してほしい』だけですので」


「その方が答えやすい?」


「少なくとも、身構えにくくはあります」


 アマリリアはその言葉を少し考えた。


 責任追及から始めれば、相手は守りに入る。事実確認からなら、記録が出てくる。


「これも、順番ですわね」


「ええ」


 ディーンが頷いた。


 ライルが封書を開き、最初の一枚へ目を落とす。


「市場管理局からの通知は、施行四十日前に領主府が受領」


「そこは昨日確認済みです」


「領主府から各村への転送は……三日後」


「三日」


「遅い?」


 ライルが尋ねる。


 アマリリアはすぐには答えなかった。


「他の通知と比べます」


「即答しない」


「殿下」


「褒めてる」


「でしたら普通に褒めてくださいませ」


「偉い」


「子供扱いです!」


 ディーンが小さく咳払いをした。


「続けても?」


「お願いします」


 ライルが笑いを抑えながら次の紙を広げる。


 グレイス男爵領では、十二の村と二つの共同集荷所へ通知を送ったことになっていた。そこには発送日、受取先、受領確認が記され、一部には受領者の署名まで残っている。


「ルーデ村」


 アマリリアが目で追う。


「あった」


 ライルが一行を指した。


『ルーデ村役場 受領済』


 横には日付があり、その下には村役場の事務を担当する者らしい名前が記されている。


「……届いておりますわね」


「少なくとも、村役場までは」


 ディーンが補足した。


「でも昨日の農夫は知らなかった」


 ライルが紙を見たまま言う。


「共同倉庫でも旧様式を渡された」


「ええ」


 アマリリアは少し考えたあと、手帳へ書き込む。


『領主府→ルーデ村役場 受領記録あり』


 その下へ続けて、


『村役場受領=村全体へ伝達済み、ではない』


 と記した。


 書いたところで、アマリリアの手が少し止まった。


「殿下」


「何?」


「昨日の検査官の方が仰っていたことと似ております」


「どれ?」


「誰も全体を見ていない、というお話です」


「……ああ」


 領主府は村役場へ送った。村役場は受け取った。そこだけ見れば、通知は届いている。


 けれど、実際にその書式を使う共同倉庫へ伝わっていなければ、運用上は届いていないのと同じだ。


「村役場が悪い?」


 ライルがあえて聞く。


 アマリリアは少しだけ眉を上げた。


「誘導していらっしゃいます?」


「少し」


「殿下」


「ごめん」


 アマリリアは紙を見ながら答えた。


「まだ分かりません。村役場が共同倉庫へ伝えたのに、倉庫側が旧様式を使い続けた可能性もございます。共同倉庫へ通知する担当が別だったかもしれませんし、通知文そのものが分かりにくかった可能性もあります」


「じゃあ次に見るのは?」


「村役場から先です」


「うん」


 ライルが頷く。


「そこまでは絞れた」


「ええ」


 原因が判明したわけではない。


 けれど、確認すべき範囲は少し狭くなった。以前ならそれだけでは進展した気がしなかったかもしれないが、今のアマリリアには十分な一歩に思えた。


          ◇◇◇


 さらに添付資料を確認していくと、少し違和感が見つかった。


「こちらを」


 ゼインが地図へ印を付けていた手を止め、一枚の写しをアマリリアへ差し出す。


「何です?」


「同じ通知を受け取った村の受領欄です」


 アマリリアが覗き込む。


 十二村のうち十村は、受領者名に加え、『村内掲示』『集荷所回覧』『商人組合へ転送』など、その後の処理が簡単に書かれていた。


 しかし、ルーデ村には『受領済』とあるだけだった。


「……確かに短いですわね」


 ライルも覗き込む。


「もう一村も同様です」


 ゼインが別の行を示した。


『ベネ村役場 受領済』


 そこも、後続処理欄が空白だった。


「ベネ村からも旧様式持ち込みは?」


 アマリリアがすぐ尋ねる。


 ディーンが一覧を確認した。


「一件ございます」


 部屋の空気がわずかに変わる。


「二村とも?」


 ライルが顔を上げる。


「はい」


 アマリリアは二つの資料を並べた。


 ルーデ村は旧様式持ち込み一件、村役場受領済、後続処理記録なし。


 ベネ村も旧様式持ち込み一件、村役場受領済、後続処理記録なし。


「関連がある?」


 ライルが尋ねる。


「可能性はございます」


「原因?」


「まだです。ただ、比較する価値はございます」


 アマリリアは少し息を吐いた。


 ゼインが地図へ二つの印を付ける。


「二村は比較的近い位置にあります」


「同じ担当官?」


 ライルが言う。


 ディーンが資料をめくった。


「領主府側の転送担当は同じです。ただし、十二村すべて同一人物が発送処理をしています」


「なら、その人だけでは説明できない」


「はい」


 アマリリアは少し考えた。


「村側の受領後処理が違う?」


「可能性は高まりました」


「でも、二村だけで決めません」


 アマリリアが続けると、ライルももう慣れたように頷いた。


「まず、ルーデ村とベネ村の村内処理記録を照会する?」


「それと、グレイス男爵領の残り四件がどの村から来ているかを確認したいです」


 アマリリアは旧様式二十七件一覧へ目を移した。


「もし同じ二村に偏っていたら?」


「重要です」


「散っていたら?」


「別の理由も見ます」


 言葉にしながら、アマリリアは少し楽しくなっている自分に気づいた。


 誰かの失敗を探しているわけではない。


 止まった場所を探している。


 その違いが、昨日よりはっきり自分の中にあった。


          ◇◇◇


 昼前、予定通りハロルドが会議室へ姿を見せた。


「進んだか?」


「かなり」


 アマリリアが答える。


「その言い方、最近気に入っているのか?」


「皆様が使うので」


「お前が広めたんだろう」


「違います」


「本当か?」


「多分」


「そこは断言しないのか」


 ライルが笑う。


 ハロルドは少し呆れた顔をしながら席へ着いた。


「それで?」


 アマリリアは午前中に分かったことを簡潔に説明した。


 グレイス男爵領までは通知が届いていたこと。領主府からルーデ村役場への転送も記録上は確認できたこと。ただし、その先で共同倉庫へ届いた記録がまだ確認できないこと。さらに、同じく後続処理欄が空白だったベネ村からも旧様式持ち込みが一件あったこと。


「お父様なら、どう見ます?」


 尋ねると、ハロルドはすぐに答えなかった。


 机の上の資料を数枚めくり、ルーデ村とベネ村の位置を地図で確認する。


「この二村は、領主府から直接人が行く場所じゃないな」


「どういう意味です?」


「定期便を使うはずだ」


「文書用の?」


「ああ。領主府から各村へ、週に二度まとめて書類を運ぶ」


 アマリリアは目を少し細めた。


「それは通知そのものの配送?」


「そうだ。ただ、受領印があるなら役場には届いた」


「では、その後は?」


「村による」


「統一ではないのです?」


「小さな村ほど兼任が多い」


 ハロルドは紙の端を指で軽く叩いた。


「村長が行政もやる。倉庫管理者が会計もやる。教会の書記が役場の手伝いをすることもある」


「それなら、一人が休んでいたら止まることも?」


 ライルが口を開く。


「ある」


「でも、それは予想ですわね」


 アマリリアが言う。


「そうだ」


 ハロルドはすぐに頷いた。


「だから調べろ」


 アマリリアは少し笑った。


「お父様」


「何だ」


「同じことを考えてくださるようになりました?」


「元からだ」


「本当です?」


「私は領地を持って何年になると思っている」


「では、以前はなぜ私にすぐ答えを仰らなかったのです?」


 ハロルドが一瞬黙った。


「自分で見た方が覚えるからだ」


 予想していなかった答えに、アマリリアは少し驚いた。


「昨日の玉ねぎも?」


「そうだ」


「入口の荷車も?」


「そうだ」


「お父様、少し意地悪では?」


「教育だ」


 ライルが吹き出す。


「伯爵、王妃様と似てますね」


「やめてください」


「何でです?」


「王妃陛下と一緒にされると、私まで娘を面白がっているように聞こえる」


「違うのです?」


 アマリリアが尋ねる。


「違う!」


 即答だった。


 しかし、その直後に少しだけ目が泳いだ。


「お父様」


「何だ」


「お顔が」


「言うな!」


 部屋に笑いが広がった。


 ひとしきり笑ったあと、アマリリアは再び資料へ目を落とした。


「お父様。村役場へ通知が届いたとして、共同倉庫へ伝わらなかった場合、それは誰の責任になるのでしょう」


 ハロルドの表情が少しだけ真面目になる。


「場合による」


「やはり?」


「村役場に明確な転送義務があったのに怠ったなら村役場だ。通知文に『共同倉庫へ周知せよ』と書かれていなかったなら、領主府側の設計にも問題がある。倉庫側が知っていたのに古い用紙を使ったなら、倉庫の運用だ」


「全部あり得る」


「ああ」


 アマリリアは一度息を吸った。


「では、通知文そのものも見ます」


「もうあるだろう?」


「写しはあります。でも、誰に何をしてほしい文書なのか、実際に読みます」


 そう言って市場管理局からの通知を開いたところで、アマリリアは小さな引っかかりを覚えた。


          ◇◇◇


 通知文は全部で三枚あった。


 一枚目には新様式へ変更する理由、二枚目には新旧書式の差、三枚目には施行日と問い合わせ先が記されている。


 内容自体は丁寧だった。責任区分を明確にするため、運搬中や保管中の引き渡し履歴を新たに記録すること。施行日以降は新様式を使用すること。旧様式は原則として受理しないこと。


 必要なことは一通り書かれている。


 アマリリアは三枚目をもう一度読んだ。


「共同倉庫へ周知せよ、とは書かれておりませんね」


「領主府宛てだからな」


 ハロルドが答える。


「普通なら、領主府側で必要な先へ回す」


「普通なら」


 ライルが言う。


 アマリリアはその言葉を拾った。


「でも、その『普通』が村によって違う可能性がある」


「そうだな」


「例えば大きな領地なら、役所の担当部署が受け取り、商業担当へ回し、その人が共同倉庫や商会へ通知する」


「あり得る」


「小さな村なら?」


「村役場に一人しかいないこともある」


「その人が重要だと理解していなければ、掲示だけして終わるかもしれない」


 部屋が静かになった。


 アマリリアは通知文を見る。


 悪い文章ではない。間違ってもいない。必要なことも書いてある。


 けれど、それだけで十分だったかどうかは別の話だった。


「これ、旧様式を捨てろとは書いてない?」


 ライルが紙を覗き込む。


「書いておりません」


「新様式を使え、だけ」


「はい」


「じゃあ、共同倉庫に古い用紙が束で残ってたら?」


 アマリリアは顔を上げた。ゼインも同時に反応する。


「昨日の農夫が、共同倉庫の棚に古い用紙が束で残っていると思う、と話しておりました」


「ええ」


 アマリリアは頷いた。


「もし通知自体は役場へ届いていて、内容も読まれていたとしても、古い用紙を回収しなかった可能性がございます」


「あるいは」


 ハロルドが続ける。


「共同倉庫へ『今日からこちらを使え』と具体的に伝えなかった」


「そうすると、村役場としては『通知を受け取った』」


「領主府としては『村へ送った』」


「市場管理局としては『領主府へ知らせた』」


「でも農夫は古い用紙を渡される」


 誰も完全に何もしていないわけではない。


 それでも、最後の利用者には届かない。


「殿下」


「何?」


「少し怖いです」


 自分でも意外な言葉だった。


 ライルの表情が静かになる。


「何が?」


「皆が、それぞれ自分の仕事をしているのに、最後だけ届かないことがあるのが」


 アマリリアは通知文へ目を落としたまま続ける。


「誰か一人が明らかに怠けていたなら、その方に直していただけばよいのかもしれません。でも、皆が『自分のところまではやった』と思っているのに、その先だけ抜け落ちているのでしたら」


「一人を叱っても終わらない」


 ライルが静かに言う。


「ええ」


 アマリリアはゆっくり頷いた。


「もしかすると、制度を作る側は『誰が最後に使うのか』まで考えなければいけないのですね」


 ハロルドがゆっくり頷く。


「それは覚えておけ」


「はい」


 アマリリアは手帳へ書いた。


『通知の到着確認だけでは不十分。実際の利用者が新制度を使える状態になったかまで見る』


 その下へ続けて、


『「普通なら伝わる」を前提にしない』


 と記した。


 書き終えると、アマリリアは小さく息を吐いた。


          ◇◇◇


 昼を少し過ぎた頃、グレイス男爵領から追加の短い回答が届いた。


 今度は午前中に出した再照会への返答ではなく、最初の照会へ添付し忘れていた資料が一枚あったため、後追いで送られてきたものだった。


「村別の後続処理記録?」


 ディーンが確認する。


「はい」


 アマリリアたちは再び机へ集まった。


 その紙には、各村から領主府へ返された簡易報告がまとめられている。十村には『掲示済』『共同倉庫へ通知』『商人組合へ回覧』『村長会で説明』など、その後の処理が書かれていた。


 そして、ルーデ村とベネ村には、やはり『受領』としか書かれていない。


「同じですわね」


「うん」


「でも、注記があります」


 アマリリアは紙の下部を指した。


 小さな文字で、


『上記二村については、繁忙期につき後日説明予定との口頭連絡あり』


 と書かれている。


「後日説明予定」


 ライルが読む。


「それ、いつ?」


 ディーンが首を横へ振った。


「記録がありません」


 アマリリアの眉が少し寄る。


「繁忙期」


「収穫時期と重なっております」


 ゼインが言う。


「ルーデ村では豆類、ベネ村では麦の出荷が集中する頃です」


「忙しかったから後回しにした?」


 ライルが呟く。


「可能性はございます」


「で、そのまま?」


「それもまだ分かりません」


 アマリリアは紙を見たまま答えた。


 ただ、今度は少しだけ道筋が見えている。


「後日説明する予定だった。それなら、その説明が実際に行われたかを確認します」


「次はそこ?」


「はい。ルーデ村とベネ村、まずこの二村だけでよいです」


「直接人を送る?」


 ディーンが尋ねる。


「まだ必要ないと思います。村役場の記録と、共同倉庫の管理記録を見ます」


「書類で追える?」


「追える範囲までです」


「それで分からなければ?」


「その時に人を送ります」


 ディーンが頷く。


「承知しました」


「あと、質問の仕方に気をつけてくださいませ」


「どのように?」


 アマリリアは少し考え、昨日までの自分を思い出した。


「『なぜ通知しなかったのか』ではなく、『受領後、どのような手順で村内へ伝えたか』を聞いてください」


 ライルが少し笑った。


「責めない」


「責める必要があるかどうかも、まだ分かりませんもの」


「うん」


「それに、正直に話していただけた方が、次に活かせます」


 アマリリアが資料を整えると、ハロルドが少しだけ目を細めた。


「それを覚えたなら、今日の収穫は十分だ」


「もう終わりです?」


「昼を過ぎている」


「まだ一刻くらい」


「リリア」


 父に名前を呼ばれ、アマリリアは少しだけ唇を尖らせる。


「……はい」


 ライルが横で笑った。


「休憩」


「殿下まで」


「昨日も言った」


「覚えております」


「じゃあ」


「分かりました」


 アマリリアは素直に手帳を閉じた。


 その様子を見て、ハロルドがまた少し驚いた顔をする。


「お父様」


「何だ」


「そろそろ慣れてくださいませ」


「誰のせいだと思っている」


「私?」


「そうだ」


 皆が笑った。


          ◇◇◇


 午後の調査は行わなかった。


 正確には、新しい資料を取り寄せる手配だけして、その日はそこで区切ることにした。


 昼食のあと、アマリリアはライルと王宮の回廊を歩いていた。昨日の市場とは違い、磨かれた石床には窓からの光が細長く落ち、静かな壁の向こうでは時折侍従の足音が響いている。


 窓の外へ目を向ければ、王都の屋根が連なって見えた。


「アマリリア」


「何です?」


「今日、楽しかった?」


 尋ねられ、アマリリアは少しだけ考えた。


「楽しい、という言い方でよいのか迷います」


「なんで?」


「困っている方がいた話ですので」


「そっか」


「でも、知っていくこと自体は楽しいです」


 アマリリアが足を止めると、ライルもそれに合わせて止まった。


「昨日と同じ?」


「少し違います」


「どう?」


「昨日は、知らないものを見るのが楽しかったです。今日は、見えなかった繋がりが少しずつ見えていくことが楽しいのだと思います」


 アマリリアは窓の外へ目を向ける。


「ただ、見えたと思ったら、またその先がございます」


「今日も終わらなかった」


「ええ」


「嫌?」


 アマリリアは首を横へ振った。


「以前よりは嫌ではありません」


 その言葉に、ライルが少し笑う。


「成長?」


「かなり」


「自分で言うんだ」


「最近の方針です」


 二人で笑った。


 そのあと、短い沈黙が落ちる。


 けれど以前のように、何かを言わなければ気まずい沈黙ではなかった。


「殿下」


「何?」


「今日の資料を見て、少し思ったことがございます」


「うん」


「王宮から出した命令も、同じなのでしょうね」


「市場だけじゃなく?」


「はい」


 王命、法令、通達。


 王宮から出せば、それで国へ届いたことになると思うのは簡単だ。


 けれど、その先で誰が受け取り、誰が理解し、誰が実際に使うのかまで見なければ、本当の意味で届いたとは言えない。


「殿下が将来、何かを決めた時」


「うん」


「出しただけで終わらないようにしたいです」


 ライルの表情が少しだけ変わった。


「一緒に?」


 その一言へ、アマリリアは今度は迷わなかった。


「はい」


 短い返事だったが、それで十分だった。


 ライルもそれ以上何も言わず、ただ隣に並んでまた歩き始めた。


          ◇◇◇


 夕方、ディーンから一つだけ追加連絡が届いた。


 ルーデ村へ出した照会について、村役場側から簡単な返答が来たという。


 アマリリアはその内容を、自室ではなく夕食前の小さな応接室で受け取った。室内にはライルもおり、窓の外では夕方の光が少しずつ赤みを増している。


「読んでも?」


「どうぞ」


 ディーンが紙を渡した。


 内容は短かった。


『新様式変更通知は受領済。村役場内で確認済。共同倉庫への口頭伝達を実施した認識あり』


「……口頭」


 アマリリアが呟く。


「はい」


「共同倉庫側は?」


「同じ照会を出しておりますが、まだ返答はありません」


「村役場は伝えた認識なのですね」


「そうです」


 けれど、昨日の農夫は共同倉庫から古い様式を受け取っている。


 ライルも紙を覗き込みながら眉を寄せた。


「食い違ってる?」


「まだ、そう決めるのは早いです」


 アマリリアはすぐに首を横へ振った。


「共同倉庫側の返事を待ちます。村役場が伝えたつもりでも、受けた方が違う意味に取ったかもしれません」


「口頭だもんな」


「ええ」


 アマリリアは手帳を開いた。


 けれど、書き始める前に少しだけ考えた。


『伝えた』と『伝わった』は違う。


 昨日から何度も、同じ形のものが現れている。


 通知を出した。


 受領印がある。


 口頭で伝えた。


 けれど、利用者は古い用紙を使っている。


 アマリリアはゆっくりと書き込んだ。


『伝達した記録だけでは、理解・運用まで確認できない』


 その下には、


『ルーデ村役場は共同倉庫へ口頭伝達した認識。共同倉庫側回答待ち』


 と記した。


 書き終えると、アマリリアは手帳を閉じた。


「今日は?」


 ライルが尋ねる。


「ここまでです」


「本当に?」


「ええ」


「明日?」


「返事が来てからです」


 ライルが少し笑った。


「待てるようになったな」


「殿下」


「褒めてる」


「でしたら」


 アマリリアも少しだけ笑う。


「ありがとうございます」


 ルーデ村への通知が、どこで止まったのか。


 まだ答えは出ていない。


 けれど、少なくとも王都から領主府ではない。領主府から村役場でもない。そして村役場は、共同倉庫へ伝えたと認識している。


 ならば次に見るべきなのは、その「伝えた」がどのような言葉で、誰へ、どのように届いたのか。


 受領印があっても、口頭で伝えても、それだけでは人が使える制度になったとは限らない。


 アマリリアはそのことを、今度こそ数字だけで結論づけず、一つずつ確かめようとしていた。

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