第48話 市場で見つけた疑問を整理していたら、全部を一度に直すより先に順番を決めることになりました
翌朝、アマリリアは目を覚ましてすぐ、枕元へ置いてある手帳へ手を伸ばしかけた。
昨夜、部屋へ戻ってから「一度だけ見直します」と言ったものの、セレーネとライル、それにゼインからまで休むよう念を押され、結局ほとんど開かないまま眠った。そのせいか、一晩経ったにもかかわらず、昨日見たものは手帳の文字よりも鮮明な形で頭の中へ残っている。
中央市場の入口で、長い列を作って止まっていた荷車。見た目はほとんど同じなのに、店によって値段の違った玉ねぎ。旧様式の書類を握りしめ、受付と受付の間を何度も往復していた若い農夫。複数の商会の荷を一台へまとめる共同便と、その便利さの裏で生まれていた確認作業。
職人街では、農具用と刃物用の鉄が入れ替わって届いていた。大きな木箱を抱えていた十三歳の徒弟もいたし、同じ「働く」という言葉だけでは整理できない事情が、その工房には確かに存在していた。
そして、それらを見て回った間、ほとんどずっと隣にいたのがライルだった。
そこまで思い出したところで、アマリリアは伸ばしかけていた手を止め、もう一度だけ目を閉じた。
最後の一つだけ、市場そのものとは直接関係がない気がする。
もっとも、昨日は朝から夕方までほぼ一日中一緒だったのだから、まったく関係がないとも言い切れない。市場を見ている時でさえ、何かを見つければ隣にいるライルの意見を聞き、彼が気づいたものを自分も確かめた。
そう考えると、市場見学で得たものの中から彼だけを切り離す方が、不自然なのかもしれない。
「お嬢様」
扉の外から、控えめな声が届いた。
「起きていらっしゃいますか?」
「ええ、起きております」
「朝食のご用意が整っております」
「分かりました。すぐ参ります」
返事をしてから身体を起こすと、窓の外には朝の光が広がっていた。雲は薄く、昨日と同じようによく晴れている。
同じ王都で、同じ朝のはずなのに、窓から見える街並みまで昨日までとは少し違って見えた。
建物の向こう側には市場があり、そこへ荷を運ぶ人がいる。商人がいて、職人がいて、その間を繋ぐ倉庫や役所がある。
昨日までも知識としては知っていた。
けれど今は、その言葉の後ろに顔が浮かぶ。
それが、少し不思議だった。
◇◇◇
朝食を終えたあと、アマリリアが向かったのは王宮の中でも比較的小さな会議室だった。
今日は正式な評議ではない。昨日の市場見学で得た情報や疑問を、今後どのように扱うか整理するための勉強会に近い集まりである。
扉を開けると、ライルはすでに室内にいた。
大きすぎない長机の上には、いくつもの紙束が種類ごとに分けられ、端には昨日アマリリアが使っていたものと似た大判の記録用紙まで用意されている。朝日が高い窓から斜めに入り込み、整然と並べられた紙の端を白く照らしていた。
「おはよう、アマリリア」
「おはようございます、殿下」
挨拶を返しながら席へ向かうと、ライルの視線がアマリリアの手元へ向いた。
「手帳、開いた?」
「……おはようございますと言った直後に、それをお尋ねになります?」
「気になったから」
言い逃れできないと察し、アマリリアは少しだけ視線を逸らした。
「一度だけです」
「一度?」
「少しだけ」
「どのくらい?」
「殿下」
低めに名前を呼ぶと、ライルはすぐに笑った。
「冗談。休んでくれたならいいよ」
「殿下こそ、昨日のことをもう調べていらっしゃるではありませんか」
アマリリアは机上の紙束を示す。
「少しだけ」
「これのどこが少しなのです?」
「ディーンに資料を集めてもらっただけ」
「それは、少なくとも私に手帳を閉じろと仰った方の行動ではございません」
指摘すると、ライルは困ったように笑った。
「君に言われたくないな」
「それは……否定いたしませんけれど」
机の上には、昨日市場で確認した内容に関係する記録がすでに揃えられていた。
中央市場の朝の検査件数。旧様式の搬入書類が持ち込まれた件数。共同倉庫の搬出記録。道路工事の影響で第二共同倉庫を経由した荷の一覧。
そして、その中に一つ、アマリリアの目を引く紙があった。
「こちらは」
「グレイス男爵領へ送った通知の控え」
ライルが答える。
アマリリアはすぐに紙へ目を落とした。
「もう領主府側から返答が来たのです?」
「いや。これは王宮側というか、市場管理局側に残っていた発送記録だけ。グレイス男爵領に届いてから、どう処理されたかはまだ分からない」
「なるほど」
「見たい?」
「かなり」
「分かってた」
自分でも分かりやすかったのだろう。
アマリリアは素直に椅子へ腰を下ろし、持ってきた手帳を机の上へ置いた。
「では、始めましょう」
「いきなり?」
「何か問題がございます?」
「まだ全員揃ってない」
言われた直後、まるで待っていたように扉が開いた。
「お嬢様、やはり先に始めようとしておりましたね」
入ってきたゼインが、アマリリアを見るなり淡々と言う。その後ろにはディーンもおり、手にはさらに数枚の資料が抱えられていた。
「予想通りでした」
「何です、その扱いは」
「実績に基づく予測です」
「ゼイン」
「はい」
「昨日から、少し遠慮がなくなっておりません?」
アマリリアが眉を寄せると、ゼインはわずかに口元を緩めた。
「市場見学を経て、皆様の距離が縮まった結果かと」
「誰と誰のです?」
「全員です」
「随分と広い括りですわね」
言い返そうとしたところで、さらに扉が開いた。
今度はハロルドが入ってくる。
「何だ、まだ始まっていないのか」
「お父様」
「何だ」
「一番急いでいらっしゃるのは、お父様では?」
「違う。時間を無駄にしたくないだけだ」
その答えを聞いた瞬間、アマリリアは昨日までの自分を思い出した。
「昨日の私みたいです」
思わず口にすると、ハロルドが僅かに黙る。
その反応を見たライルが、面白そうに笑った。
「伯爵もアマリリアと似ているところがあるんですね」
「殿下」
「何でしょう」
「余計なことを言わないでいただきたい」
「でも、事実では?」
「ゼイン」
「はい」
「今、頷くな」
「失礼いたしました」
そう答えながらも、ゼインの表情には反省の色がほとんどない。
市場へ行く前なら、これほど軽いやり取りがこの顔ぶれの間で続くことはなかったかもしれない。昨日一日、身分を前面へ出さずに同じものを見て、同じ人の話を聞き、何度も一緒に考えた。
その積み重ねで、全員の間にあった距離が少しずつ変わったのだろう。
アマリリアはそれを悪くないと思いながら、改めて手帳を開いた。
「では、皆様揃いましたので始めてもよろしいでしょうか」
「その前に」
ディーンが口を挟んだ。
「今日は、最初に整理の方法を決めた方がよろしいかと存じます」
「方法ですか?」
「はい。昨日見つかったものを、すべて同じ重さで扱えば終わりません」
ディーンは大判の紙を三枚、机の中央へ並べた。
一枚目には『今すぐ確認が必要なもの』。
二枚目には『記録で調査できるもの』。
三枚目には『長期的に見るもの』。
「最初から分類するわけですね」
ライルが紙を覗き込む。
「はい。ただし、問題の答えを先に決めるためではなく、何から確認するか順番を決めるための分類です」
「なるほど」
アマリリアは三枚を見比べた。
昨日の自分なら、見つけたことをすべて同時に追いたくなっていただろう。
中央市場の入口も。
旧様式も。
鉄材も。
徒弟制度も。
気になった以上、全部知りたい。
その気持ちは今も変わっていない。
けれど、一日ですべてを追えば、一つ一つを見る時間が薄くなることも分かった。
「よいと思います」
考えた末に答えると、ライルが少しだけ目を見開いた。
「即答?」
「何です?」
「もっと『全部調べます』って言うかと思ってた」
「殿下」
「ごめん」
「成長です」
「自分で言う?」
「今日も言います」
アマリリアが胸を張ると、ハロルドが小さく息を吐いた。
「本当に昨日一日で随分変わったな」
「お父様」
「何だ」
「今のは褒めております?」
「かなり」
一瞬だけ迷ったあと、アマリリアは素直に頭を下げた。
「ありがとうございます」
すると今度は、ハロルドの方が少し驚いた顔をする。
「何です?」
「いや。本当に素直になったと思ってな」
「最近の方針です」
「便利な方針だな」
「お父様まで、そのようなことを仰るのですね」
会議室にまた笑いが起こった。
朝の堅い空気は、すっかり消えていた。
◇◇◇
最初に整理することになったのは、昨日の市場入口で見た検査待ちだった。
ライルが『今すぐ確認』と『記録調査』の二枚を見比べながら、アマリリアへ視線を向ける。
「これは今すぐ改善する必要があると思う?」
アマリリアはすぐに答えず、昨日見た光景を思い返した。
荷車の列は確かに長かった。
待ち時間が一刻近くになる日もあると聞いたし、乳製品などの傷みやすい荷にとって遅れは大きい。
一方で、市場そのものが機能停止していたわけではなかった。
「問題ではありますが、昨日見た限りでは、今すぐ人を増やさなければ市場全体が止まるという状態ではございません」
「なら、記録で調べる方?」
「はい。まずはこちらだと思います」
ディーンがその答えを待っていたように別の資料を差し出す。
「過去三月の時間帯別検査数と、待機時間について一部記録がございます」
「一部?」
「すべての日ではございません」
「なぜです?」
「待ち時間を正式な記録項目として取り始めたのが最近だからです。それ以前も担当者の私的な記録や日報はありますが、日ごとに形式が違います」
アマリリアの手が止まった。
記録されていなければ、数字としては見えない。
けれど昨日、自分は実際に長い列を見た。
「数字がないから、問題がなかったことにはなりませんわね」
「昨日の話だな」
ライルが静かに言う。
「ええ。だからこそ、これから数字にする必要がございます」
アマリリアは大判の紙へ書き込む。
『検査待ち――時間帯別の待機時間を継続記録。原因別に確認』
「いきなり人を増やす案は?」
ライルが続けて尋ねた。
「まだ早いと思います」
「人員不足も原因の一つではあったよね」
「そうです。ただし、それだけではありませんでした」
二人で昨日聞いたことを思い返す。
朝に集中する搬入。
書類不備。
城門の開く時間。
品目ごとの検査差。
狭い通路。
それに、ハロルドが気づいた空荷車の出口滞留。
「人を増やしても、通路が詰まっていれば同じかもしれん」
ハロルドが言う。
「はい。それに書類不備で確認へ時間が掛かっているなら、人員配置だけ変えても根本には届きません」
アマリリアは一度ペンを止め、紙全体を見る。
「まず、どこで、どれだけ時間が掛かっているのかを分けて見たいです」
「良い」
ハロルドが短く返す。
アマリリアはすぐに父を見る。
「お父様」
「何だ」
「今のは?」
「褒めた」
「ありがとうございます」
また素直に返すと、父がわずかに黙る。
「何です?」
「いや……まだ慣れん」
「そのうち慣れてくださいませ」
少し笑いながら答えると、ライルまで楽しそうに口元を緩めていた。
◇◇◇
次に取り上げたのは玉ねぎだった。
「これは問題?」
ライルが聞く。
「違います」
今度は迷わなかった。
「価格差は?」
「価格が違うこと自体は、問題ではございません」
「全部?」
その問いに、アマリリアは一瞬だけ止まり、それから首を横へ振った。
「全部とは限りません。ただ、昨日見た二つの店の差には理由がございました」
「今の言い方」
「何です?」
「ずいぶん慎重になった」
「学びましたので」
アマリリアは手帳の該当箇所を開いた。
入荷時間。
在庫日数。
産地。
保存性。
選別。
廃棄率。
買い手。
調理の手間。
それらに加えて、昨夜王宮で行った玉ねぎの比較もある。
「昨日の夕食で、大きさが揃った玉ねぎは大量調理では扱いやすいと分かりました」
「家庭で少量使うなら、安い方でも十分だった」
「ええ。ですから、単純に値段を同じにするべきではございません」
ライルが少し考え込む。
「価値が違うから?」
「そうです。同じ玉ねぎでも、買う人が何を必要としているかで意味が変わります」
ハロルドも納得するように頷いた。
「それを行政が全部一つの値段へ揃えようとしたら、逆に歪む」
「はい」
アマリリアは三枚の分類用紙を見た。
「これは調査対象というより、理解しておくべき違いですわね」
「学び?」
ライルが尋ねる。
「ええ。問題と違いを分ける必要がございます」
するとディーンが少し考え、大判の紙をもう一枚出した。
「でしたら、第四分類を追加いたしますか」
「何です?」
「『制度変更不要・理解すべき現場差』」
アマリリアの目が明るくなる。
「それです」
「本当に分類が増えた」
ライルが笑う。
「現地へ行った結果、最初の分類だけでは足りないと分かったのですから、増えるのは当然です」
「十八個の質問から始まったのに」
「殿下」
「まだ言う」
「一生言いそうですね」
「多分」
呆れたように笑いながらも、アマリリアは新しい紙へ玉ねぎの項目を書き込んだ。
分類に合わなければ、現実を削るのではなく分類の方を変える。
昨日までなら、その発想は今ほど自然には出なかったかもしれない。
◇◇◇
次にルーデ村の名が出ると、会議室の空気は少しだけ引き締まった。
「これは優先度が高いと思います」
アマリリアが言う。
ハロルドが腕を組んだ。
「理由は?」
「通知が届いていない村が、ルーデ村だけとは限らないからです。ただし、今日中に制度そのものを変えるという意味ではございません」
「なら、何をする?」
「まず、どこまで届いていたかを確認します」
ディーンが王宮側に残る発送記録を開いた。
「市場管理局からグレイス男爵領へ新様式変更の通知が送られたのは、施行四十日前です」
「受領確認は?」
「ございます。領主府の書記官が受領しています」
アマリリアは紙面を見ながら考える。
「では、王都から領主府までは届いている」
「少なくとも書類上は、その認識でよろしいかと」
「その先の処理がまだ分からない」
「はい。領主府側へ照会しております」
「ルーデ村へ直接送ったのか、複数の村へまとめて通知したのかも?」
「その処理記録が届けば分かるはずです」
ハロルドが少し考え込むように顎へ手を当てた。
「グレイス男爵領は小さい。文官も多くないはずだ」
「人手が少ないから止まった可能性?」
「可能性はある」
「でも、それだけで決めません」
アマリリアがすぐに返すと、ハロルドの口元が僅かに緩んだ。
「言うと思った」
「ありがとうございます」
「まだ褒めていない」
その返しに、アマリリアは一瞬言葉を失った。
隣でライルが堪えきれず吹き出す。
「殿下」
「ごめん」
「笑うところではございません」
「いや、伯爵が上手くなってきたなと思って」
「何がです?」
「君への返し」
「余計なことを」
今度はハロルドまで低く唸り、会議室に小さな笑いが広がった。
アマリリアは少しだけ頬を膨らませたあと、気を取り直して資料へ視線を戻す。
「ルーデ村だけではなく、同じ時期に旧様式で持ち込まれた件数も確認したいです」
「資料がございます」
ディーンが別紙を差し出した。
「過去三月で、旧様式による持ち込みは二十七件です」
「二十七」
「多い?」
ライルが聞く。
「全搬入件数から見れば、かなり少ない数字です」
「割合は?」
「零点二パーセント未満です」
部屋が少し静かになった。
零点二パーセント。
数字だけを見れば、ほとんど誤差と言ってもよい。
けれど、アマリリアの頭には昨日の農夫の顔が浮かんだ。
「数字だけなら、小さいです」
「でも?」
ライルが続きを待つ。
「昨日の農夫の方は、その零点二パーセントの中におります」
アマリリアは紙へ視線を落とした。
「二十七件、ということは、少なくとも二十七回、旧様式を持ってきた人がいたということです」
割合だけなら小さい。
けれど、その一件一件には人がいる。
王都まで半日以上かけて荷を運んだ者もいるかもしれない。宿代や馬の餌代が必要になった者もいるだろう。
「その中で、村へ戻った方は?」
尋ねると、ディーンが少しだけ表情を曇らせた。
「そこまでは記録されておりません」
「救済制度を利用した方は?」
「七件です」
「残り二十件は?」
「新様式へその場で書き直せた例もあります。ただ、その後の対応まで残っていないものがございます」
アマリリアは唇を閉じた。
また、記録の外に落ちている。
「これは優先して確認いたします」
「二十七件全部?」
ライルが尋ねた。
「可能な範囲で。どこから来たか、旧様式をどこでもらったか、救済制度を利用できたか。利用しなかった場合、どうなったか」
「かなりあるな」
「ございます」
「今日全部?」
アマリリアは横を向いた。
「殿下」
「冗談」
「昨日からその冗談を何度なさるのです?」
「学習してる途中」
「違う方向へ学習なさらないでくださいませ」
言い合いながらも、アマリリアの中では優先順位が一つ、はっきりした。
◇◇◇
続いて鉄材の誤配送を扱う。
「これは今すぐ?」
ライルが尋ねた。
「二工房の交換手続き自体は済んでおります」
「じゃあ急がなくていい?」
「原因究明は必要です。ただ、まず同じ間違いが他にも続いていないかを確認した方が先だと思います」
ディーンが頷いた。
「倉庫側では、昨夜の時点で同日再仕分けした同種荷物をすべて確認するよう指示しております。結果は午前中には届く予定です」
「でしたら、今は結果待ちですね」
アマリリアは紙へ書き込む。
『鉄材取り違え――現場対応済み。同日再仕分け荷の全件確認結果待ち』
ハロルドがそれを見ながら尋ねる。
「原因は後回しか?」
「後回しというより、順番です。原因が分かっても、同じ取り違えが今も続いているなら、まずそちらを止めなければなりません」
「被害拡大の確認が先」
ライルが言う。
「ええ。それから原因です」
口にしたあと、アマリリアは自分の考え方が昨日以前とは少し変わっていることに気づいた。
以前の自分なら、問題が出ればまず原因を突き止めたかった。
原因が分かれば答えも出る。
そう思っていた。
けれど現場では、原因が一つとは限らない。
そして、順番を間違えれば、原因を調べている間にも困る人が増えることがある。
「どうした?」
ライルが表情の変化に気づいた。
「昨日の市場見学が、思っていたより私へ影響していると思いまして」
「良い影響?」
「かなり」
答えると、ライルの顔が嬉しそうに緩んだ。
「また俺も影響与えた?」
「殿下」
「何?」
「それは、市場だけのことではございません」
言ったあとで、アマリリアは自分の口から出た言葉の意味に気づいた。
会議室に一瞬だけ静けさが落ちる。
ライルも何も言わない。
ハロルドの視線だけが、妙に強い。
「アマリリア」
「何です?」
「今の」
「次です!」
勢いよく資料へ目を戻すと、ゼインが小さく咳払いした。
「皆様」
「何です?」
「一応、会議中です」
「分かっております!」
アマリリアの頬が熱くなる。
ライルは笑いを堪えるように口元を押さえている。
「殿下も笑わないでくださいませ」
「笑ってない」
「お顔が笑っております」
「それ、便利だな」
「誰のせいだと思っておりますの?」
そんなやり取りを挟みながらも、アマリリアは次の資料へ進んだ。
◇◇◇
徒弟制度については、アマリリア自身が最初に『長期的に見るもの』へ置いた。
「理由は?」
ディーンが確認する。
「昨日見たのは一軒だけです。あの工房だけで制度全体を良いとも悪いとも決められません」
「でも、フィンは重い箱を一人で持ってた」
ライルが言う。
「ええ。ただし、職人の方は止めておりましたし、フィンさん自身も早く仕事を終えて次の技術を習いたくて無理をしたと話していました」
「なら問題なし?」
「それも違います」
アマリリアは昨日書いた箇所を見返す。
「本人が望んでいるから何をさせてもよいわけではございません。でも、本人が望んで学んでいるのに、子供だからという理由だけで全部を止めるのも違う気がいたします」
工房では読み書きの学習も保証され、住み込みの寝床と食事、少額ながら徒弟手当も出ていた。
少なくとも、昨日見た一軒は、最初に外から見た印象だけで判断するべき場所ではなかった。
「だから、工房ごとの差を知りたいです。徒弟の年齢、教育、労働時間、危険作業の基準、住み込みの場合の待遇。それから、実際に規則が守られているか」
「まずは職人組合?」
「はい。現行規則を提出していただきます」
「現場も見る?」
「何軒かは見たいです」
その瞬間、ライルの表情が少し明るくなった。
「また職人街へ行く?」
「調査です」
「デートも?」
「殿下」
「半分」
「何がです?」
「調査半分、デート半分」
「玉ねぎの時と同じではありませんか!」
ライルが笑う。
「駄目?」
返事をしようとして、アマリリアは思わずハロルドを見る。
父はすぐに気づいた。
「今、なぜ私を見る」
「何でもございません」
「絶対に何かあるだろう」
「お父様、会議中です」
「お前たちが始めたんだろう!」
会議室の張り詰めかけた空気が、また少し緩む。
昨日の市場ほど賑やかではない。
けれど、こうして真面目な話の途中で笑えることも、今のアマリリアには悪くないと思えた。
◇◇◇
最後に、ミハイル・フォードの名前が出た。
その瞬間、ハロルドの表情がわずかに変わったことを、アマリリアは見逃さなかった。
「お父様」
「何だ」
「やはり、何かございます?」
「何がだ」
「ミハイル様のお名前が出るたび、お顔が変わります」
「気のせいだ」
「本当です?」
「本当だ」
「半分?」
「リリア」
低く呼ばれ、アマリリアは少し笑った。
「冗談です」
「君、本当に伯爵に似てきたな」
ライルが横から言う。
「どこがです?」
「聞き方」
「殿下」
「はい」
アマリリアは一度、ミハイルから届いた手紙を思い出した。
彼は直接、「数字を見るな」とは書かなかった。
けれど、市場へ足を運び、自分の目で見た今なら、あの手紙に込められていたものが以前より少し分かる。
「会うなら、今日の整理を終えてからにしたいです」
「聞きたいことはある?」
ライルが尋ねる。
「ございます」
「市場のこと?」
「それもあります。でも最初に聞きたいのは、なぜ私へ手紙を送ったのか、です」
ハロルドが僅かに眉を寄せた。
「聞いても、素直に答えるとは限らんぞ」
「分かっております」
「ミハイルは人を見る男だ」
「以前も仰いましたね」
「だから、こちらが質問するだけでは終わらない」
ハロルドはそこで一度言葉を切った。
「向こうも、お前と殿下を見る」
アマリリアの表情が少し真面目になる。
「私たちが、見られる?」
「どんな考え方をするのか。市場で何を拾ったのか。何を分かっていないのか。あの男なら、それくらいは見るだろう」
ライルも少し考えるように目を伏せた。
「市場の話を聞くつもりで会っても、向こうもこちらを測るかもしれない」
「そういうことだ」
ならば。
アマリリアは少し考え、それから小さく笑った。
「ちょうどよいです」
「何がだ」
「私も見ます」
ハロルドが目を細める。
「何を?」
「ミハイル様を」
昨日、何度も使った考え方が自然と浮かんだ。
「立場が違えば、見えるものが違うのでしょう?」
ハロルドはすぐに返事をしなかった。
娘をしばらく見たあと、ゆっくり息を吐く。
「本当に、昨日一日で随分変わったな」
「良い方へ?」
「……かなり」
アマリリアも、今度は迷わなかった。
「ありがとうございます」
父はまた少し驚いた顔をした。
その様子を見ていたライルが笑う。
「伯爵、まだ慣れてない」
「殿下」
「何でしょう」
「余計なことを言わないでいただきたい」
「すみません」
口では謝りながら、ライルはまだ少し笑っている。
結局、アマリリアもゼインもディーンも、わずかに表情を緩めていた。
◇◇◇
一刻ほどかけて整理した結果、机の上には最初よりずっと分かりやすい形で四枚の紙が並んだ。
『優先確認』
・旧様式二十七件の発生地域・対応結果
・ルーデ村への通知経路
・第二共同倉庫の同日再仕分け荷の追加誤配送有無
『記録調査』
・中央市場の時間帯別検査数、待機時間
・旧様式持ち込みの推移
・救済制度利用件数
『長期確認』
・徒弟制度の現行規則と工房差
・共同輸送における荷札表示の標準化可否
・物流全体を跨いで見る仕組みの必要性
『制度変更不要・理解すべき現場差』
・価格差
・在庫日数
・買い手ごとの価値
・職人の技術、加工時間、耐久性
・用途による「良い品」の違い
アマリリアは並んだ紙を見渡し、静かな満足感を覚えた。
昨日の手帳は、現場で気づいたことをそのまま書き込んだため、余白も少なくなり、項目同士の繋がりが複雑になっている。けれど今は、その混沌とした記録を一度外へ出し、何を先に見ればよいのかが分かる形になった。
「昨日の手帳より見やすい」
ライルが言う。
「当然です」
「手帳は?」
「現場用です」
「こっちは?」
「整理用です」
「分類、増えたね」
「必要ですので」
「本当に整理が好きだな」
「好きです」
迷わず答えると、ライルが笑った。
「即答」
「得意でもございますので」
アマリリアも少し笑う。
ただ、昨日までと違うところがある。
以前の自分なら。
この四枚の紙を先に作ってから、市場へ行こうとしたかもしれない。
「殿下」
「何?」
「以前の私でしたら、この分類を最初に作ってから市場へ行ったと思います」
「見たいものを全部決めて?」
「ええ。その方が効率的だと思っておりました」
「今は?」
「市場へ行ってから作る方がよいと思います」
「どうして?」
アマリリアは少し考えた。
「最初に分類すると、そこへ入らないものを見落とすかもしれません」
ライルはすぐに答えず、その言葉を一度受け止めるように黙った。
「それ」
「何です?」
「昨日の中で、一番大きい変化かもしれない」
「私の?」
「うん」
言われてみれば、そうかもしれない。
以前は枠を作ってから見る方が安心だった。
何を見ればよいか分かるし、何を判断すればよいかも決まる。
けれど、現実は分類の通りには動かない。
「今は、見てから枠を作ります」
「枠に入らないものが出たら?」
「増やします」
「分類を?」
「はい」
ライルが堪えきれず笑った。
「やっぱり整理は好きなんだ」
「そこは変わりません」
二人で笑った。
全部を変える必要はない。
変わった部分を、今の自分に合う形で使えばよい。
そんなことまで、昨日の市場から教わったような気がした。
◇◇◇
会議を終えようとしていた頃、扉の外から控えめなノックがあった。
入室した文官がディーンへ一枚の報告書を渡し、そのまま静かに退室する。
紙面を確認したディーンの表情が少しだけ引き締まった。
「殿下。第二共同倉庫から報告が届きました」
「鉄材?」
アマリリアの視線もすぐに向く。
「はい」
「結果は?」
ディーンは報告書を机へ置き、全員から見えるように少し位置をずらした。
「昨日、道路工事による迂回で第二共同倉庫を経由した職人街向けの荷物は全四十八件。倉庫側で全件確認を行った結果、誤配送が確認されたのは昨日判明した二工房のみです」
その言葉を聞き、アマリリアの肩から少し力が抜けた。
「広がってはいない」
「現時点では、その認識でよろしいかと」
「原因は?」
「ほぼ特定されたようです」
会議室の空気がまた少し真面目になる。
「第二共同倉庫で再仕分けを行った際、農具工房向けと刃物工房向けの鉄材が、隣接する一時保管区画へ置かれていました。荷札の記載も非常に似ております」
「昨日見た札ですわね」
「はい。さらに、道路工事による迂回で通常より荷量が増え、その日だけ臨時作業員が二名入っていました」
ライルが眉を寄せる。
「その二人が間違えた?」
アマリリアも同じ疑問を持ったが、ディーンは首を横へ振った。
「倉庫側は、臨時作業員個人の過失とは断定しておりません」
ハロルドが少し身を乗り出す。
「理由は?」
「配置指示を出した管理者側も、似た荷札の二種類を隣接区画へ置いております。また、荷札自体の表示が見分けにくかったこと、荷量増加に対する説明が十分ではなかったことも要因として挙げられています」
アマリリアの表情が変わった。
「誰か一人の責任にしていないのですね」
「はい」
「よいと思います」
思わず言うと、ライルが横を見る。
「何が?」
「調べ方です」
臨時作業員が間違えた。
そう結論を出せば簡単だったかもしれない。
けれど、実際には似た荷札、隣り合う保管場所、急な荷量増加、臨時人員への説明不足が重なっている。
一人へ責任を集めれば、その人を替えるだけで終わる。
それでは、同じ条件が揃った時にまた別の誰かが間違えるかもしれない。
「改善案は?」
尋ねると、ディーンが報告書の下部へ目を移した。
「同系統の品目を隣接区画へ置かないこと。荷札へ用途欄を追加すること。臨時作業員へ仕分け前説明を行うこと。この三点が候補として挙げられています」
「費用は?」
アマリリアが即座に尋ねると、ディーンが少し笑った。
「そこまで簡易試算がございます」
「本当です?」
「用途欄追加は既存の札へ一行増やすだけなので費用は微小。区画変更も設備投資は不要。臨時作業員への説明は一回半刻ほどを想定しています」
「では、かなり直しやすい?」
ライルが尋ねる。
「そう見えます」
全員の視線がアマリリアへ集まる。
昨日以前なら、ここでそのまま「では変えましょう」と言っていたかもしれない。
費用が少ない。
効果も期待できる。
ならば、すぐやる。
だが今は、一度だけ別のことを考えた。
現場側にとって、本当にやりやすいのか。
「今すぐ決めません」
ライルが少し笑う。
「さすが」
「ただ、試す価値はあると思います」
「試す?」
「第二共同倉庫だけで、一月程度」
「誤配送が減るか見る?」
「それだけではなく、作業時間が増えすぎないかも確認します」
ディーンが頷いた。
「試験運用として提案できます」
「では、決定ではなく提案だけお願いします。現場責任者の意見も聞いてからにしたいです」
「承知しました」
ライルが嬉しそうな顔をしていることに気づき、アマリリアは眉を上げた。
「何です?」
「いや」
「何でしょう」
「昨日までの君なら、多分その場で決めてたなって」
アマリリアは少しだけ黙った。
「……否定はいたしません」
「少し?」
「殿下」
「ごめん」
笑う彼を見て、アマリリアも結局少しだけ笑った。
◇◇◇
会議が終わると、ディーンとゼインは資料をまとめ始め、ハロルドも提出用の紙へ最後に目を通してから席を立った。
それでもアマリリアとライルは、すぐには立ち上がらなかった。
窓から入る朝の光は、会議が始まった時よりも高い位置へ移り、机の端に長く落ちていた影も短くなっている。
「疲れた?」
ライルが尋ねる。
「昨日ほどではございません」
「楽しかった?」
「かなり」
「やっぱり」
「殿下は?」
「俺も楽しかったよ」
その答えが少し意外で、アマリリアは横を見る。
「本当です?」
「何で疑うの」
「こういう整理は、私の方が好きだと思っておりましたので」
「前なら、そうだったかも」
「今は?」
ライルは少しだけ考え、それから自然に答えた。
「君と一緒なら面白い」
また。
そういうことを、何でもないように言う。
アマリリアはすぐに返事をせず、机の上に置いた手帳の端を指先でなぞった。
「殿下」
「何?」
「昨日から、随分そういうことを仰いますわね」
「嫌?」
ライルはそれ以上踏み込まない。
答えを急がせるでもなく、ただ待っている。
その姿勢も、昨日から何度も見てきた。
だからアマリリアも、自分の中に浮かんだ答えを急いで誤魔化すことはしなかった。
「嫌ではございません」
「そっか」
それだけ。
ライルは満足したように少し笑い、それ以上何も言わない。
その距離が心地よくて、アマリリアも自然に口元を緩めた。
「殿下」
「何?」
「今度、市場へ行く時」
「うん」
「調査ではなく」
そこまで言ったところで、少しだけ勇気が必要になった。
昨日は半刻だけ歩いた。
菓子を買って、普通の青年と普通の令嬢のように広場を歩いた。
それが思っていたより楽しかった。
だから。
「本当に、デートだけで行ってみたいです」
ライルの表情が止まった。
数秒、何も言わない。
「……何です?」
「今」
「はい」
「君から言った?」
「はい」
「本当に?」
「殿下」
「ごめん」
謝りながらも、その顔には隠しきれないほどの喜びが出ていた。
それを見たアマリリアの頬まで熱くなる。
「ただし」
「何?」
「お父様への交渉は」
「俺?」
「主に殿下が」
「やっぱりそうなるんだ」
二人で笑った。
その時だった。
「聞こえているぞ」
扉の外から低い声がした。
二人とも同時に振り向く。
見ると、閉めたと思っていた扉がほんの少しだけ開いている。
「お父様!」
すぐには返事がない。
「絶対にそこにいらっしゃいますわよね!」
少し間を置いてから、ようやく声が返ってきた。
「会議室の前は通路だ」
「聞いていたのです?」
「聞こえたんだ!」
「同じです!」
ライルが堪えきれず笑い始めた。
「殿下!」
「ごめん。でも」
「笑わないでくださいませ!」
扉の向こうから、今度はゼインの淡々とした声がした。
「旦那様」
「何だ」
「本日はお忍びではございませんので、声量については問題ございません」
「今それを言うな!」
とうとうアマリリアも笑った。
昨日見つけた疑問は、まだほとんど答えになっていない。
ルーデ村へ通知が届かなかった理由も。
旧様式二十七件のその後も。
市場入口の本当の詰まり方も。
徒弟制度の実態も。
共同輸送の改善方法も。
何一つ、終わってはいない。
それでも、今日は順番を決めることができた。
今すぐ確認すること。
記録で追うこと。
時間をかけて見ること。
そして、直すのではなく違いとして理解した方がよいもの。
全部を一度に変えなくていい。
分からないものを、無理に一つの答えへ押し込まなくてもいい。
必要な時に、必要なものから一つずつ見ていけばいい。
昨日ならまだ、そう自分へ言い聞かせていたかもしれない。
けれど今のアマリリアは、それを少しずつ自然な考え方として受け入れ始めていた。
そして、その先に。
一緒に考えてくれる人がいることも。
もう以前ほど、特別なことだとは思わなくなっていた。




