↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
47/111

第47話 市場見学が終わったので殿下とデートをするはずが、玉葱を食べながら今日の疑問を整理することになりました



 職人街を離れたあとも、アマリリアは何度か後ろを振り返りそうになった。


 実際には振り返らなかった。


 先ほどの若い職人から聞いた、二つの工房で鉄材が互い違いに届いていたという話が頭から離れなかったからだ。農具用の鉄が刃物工房へ、刃物用の鉄が農具を作る工房へ届いた。それが本当なら、一つの荷が偶然混ざったというより、途中のどこかで二つの荷を入れ替えた可能性が高い。


 確認したい。


 どの倉庫を通ったのか。


 誰が荷札を付けたのか。


 道路工事による迂回はいつから始まったのか。


 他にも似た取り違えが起きていないのか。


 考えれば、今すぐ職人街へ戻って続きを聞きたくなる。


 それでもアマリリアは、職人街へ向かう足を止めたまま、王宮へ戻るための通りを歩いていた。


「……」


「戻りたい?」


 隣から声をかけられる。


 見れば、ライルが少し笑っていた。


「なぜ分かるのです?」


「顔」


「そんなに出ております?」


「かなり」


「困りましたわね」


「別に困らなくてもいいだろ」


 午後の王都は、朝とはまた違う顔を見せていた。


 中央市場周辺の混雑は少し落ち着き、朝早くから商いをしていた店の中には、商品を片づけ始めているところもある。代わりに食堂や酒場では夕方へ向けた仕込みが始まり、厨房から煮込み料理や焼いた肉の匂いが流れてきていた。


 朝から歩き続けていたせいか、足には少し疲れが溜まっている。


 それでも、頭だけは妙に冴えていた。


「正直に申し上げますと、かなり戻りたいです」


「やっぱり」


「鉄材が二軒で入れ替わっていたのでしたら、どこでそうなったのか確認したいですし、第二倉庫の印がついていた理由も気になります。道路工事による経路変更が本当に関係しているのかも――」


「アマリリア」


「何です?」


「今、戻ったら?」


 ライルは責めるような言い方ではなかった。


 ただ、確かめるように尋ねている。


 アマリリアは少し考えた。


「多分、もう一軒見ます」


「うん」


「そこで別のことが気になります」


「うん」


「さらに倉庫へ行きます」


「それから?」


「道路工事の担当者へ……」


 そこまで言って、自分で止まった。


 ライルが笑う。


「今日中に終わる?」


「終わりませんわね」


「だろ?」


「……はい」


 朝なら、それでも行こうとしたかもしれない。


 気になったものを途中で置いておくことが、どうにも落ち着かなかったからだ。


 だが今は違う。


 職人街から離れたことで問題が消えるわけではない。


 手帳には残してある。


 工房側も交換手続きを進めている。


 そして、自分が今すぐすべてを見る必要もない。


「帰ってから、正式に確認できるものから調べます」


「鉄の件も?」


「ええ。ただし、現場へ誰かを問い詰めに行かせるようなことはいたしません」


「なんで?」


「まだ事故なのか、仕組み上の問題なのか、それとも単純な取り違えなのか分かりませんもの」


 アマリリアは前を歩く荷車を避けながら、少し道の端へ寄った。


「まず記録を見ます。二つの工房の注文記録、共同倉庫の搬出記録、第二倉庫を経由した理由。それから、同じ日に同じような交換依頼が他にも出ていないか」


「かなりあるな」


「ございます」


「楽しそう」


「……」


 否定しようとして。


 できなかった。


「少し」


「少し?」


「かなり」


 ライルが笑った。


「やっぱり」


「何です?」


「今日、最初に市場へ入った時よりずっと楽しそう」


 その言葉に、アマリリアは少しだけ周囲を見る。


 買い物袋を抱えた女性。


 空になった籠を積んで帰っていく商人。


 石畳を掃く少年。


 夕方の荷を運ぶ御者。


 朝にはすべて、自分とは少し離れた世界のものに見えていた。


 だが今は、どれを見ても、その後ろに何があるのか気になる。


「殿下」


「何?」


「もしかすると私は、知らないものを見るのが好きなのかもしれません」


「今まで知らなかった?」


「知らないもの自体が好きなのではなく、分かるようになることが好きだと思っていました」


「違う?」


「少し違う気がいたします」


 アマリリアは言葉を探す。


「分からないままでも、しばらく見ていられるのが楽しいというか……」


「答えがすぐ出なくても?」


「ええ」


 そこまで口にすると、自分が本当に変わったように感じた。


 以前なら、曖昧さは不快だった。


 分からないなら調べる。


 調べたら結論を出す。


 結論が出れば処理する。


 それが一番効率的だと思っていた。


 けれど今日一日で、答えを急いだから見えなくなるものもあると知った。


「それ、王妃様が聞いたら喜びそう」


「多分、すごく嬉しそうなお顔をされます」


「あと伯爵も」


「お父様は」


 アマリリアは少し後ろを見る。


 ハロルドはゼインと何かを話しながら歩いている。


 少し距離は空いているものの、二人の様子を見失わない位置だ。


「喜ぶ前に、殿下との距離を見て何か仰ると思います」


「今くらいでも?」


「今くらいだからです」


「厳しいな」


「父親ですので」


 以前なら、面倒だと思うだけだったかもしれない。


 しかし今日、市場の人々から「娘に弱い父親」と見られ、ハロルドが何度も困った顔をしている姿を見たせいか、アマリリアにも少し違って見えている。


 伯爵ではなく。


 父。


 そういう一面を、自分も以前より自然に受け入れられるようになった。


「そういえば」


 ライルが思い出したように言う。


「デート」


「……」


 忘れてはいなかった。


 決して。


「市場見学は終わった」


「終わりましたわね」


「伯爵も市場見学中だけは、って言ってた」


「お父様はその後も見張るおつもりだと思います」


「だろうな」


「随分とあっさり認めますのね」


「今日一日で分かったから」


「何がです?」


「勝てない」


 アマリリアは思わず笑った。


「殿下が第一王子であることを考えると、随分と弱気なお言葉です」


「第一王子でも婚約者の父親には勝てないよ」


「そういうものです?」


「多分」


「誰に教わったのです?」


「今日」


「市場で?」


「伯爵から」


 また笑ってしまう。


 そこへ後ろから声が飛んだ。


「聞こえておりますぞ、殿下」


「お父様!」


 ハロルドは今度こそ大声ではなかった。


 それでも、十分聞こえる。


「事実を申し上げただけです」


 ライルが振り返って答えると、ハロルドは少しだけ眉を寄せた。


「勝ち負けの話ではございません」


「では、デートを」


「時間によります」


「お父様!」


「何だ」


「なぜお父様が決めるのです!」


「今日一日歩いた娘を夕方まで連れ回す男がいたら止めるのは父親の役目だ!」


「連れ回すとは言ってません!」


「殿下」


 ディーンが静かに口を挟んだ。


「何?」


「反論すると長くなるかと」


「……そうだな」


「ディーン!」


 今度はハロルドが不満そうに声を出す。


 ゼインが横から淡々と言った。


「旦那様。先ほどまで声量は完璧でした」


「お前は黙っていろ」


「残念です」


 近くを歩いていた人々が、また何人かこちらを見て笑っている。


 お忍びのはずなのに。


 今のところ正体ではなく、仲のよい家族として目立っている。


「……お父様」


「何だ」


「少しだけです」


「何がだ」


「デート」


 ハロルドが止まった。


 ライルも止まりそうになる。


 自分で言ったアマリリアまで少し恥ずかしくなった。


「少しだけなら、よろしいでしょう?」


「リリア」


「今日は私も疲れております。長く歩き回るつもりはございません」


「……」


「それに」


 一度だけライルを見る。


「私が行きたいのです」


 今度は。


 ハロルドが何も言わなかった。


 少し前なら、自分からそんな言葉を父へ言うことはなかったかもしれない。


 誰かと一緒にいたい。


 自分がそうしたい。


 それを、理由をつけずに口にする。


 ライルも隣で驚いた顔をしている。


「殿下」


「何?」


「今は何も仰らないでくださいませ」


「はい」


 返事が早かった。


 そのせいで、余計に恥ずかしい。


 ハロルドはしばらく娘を見ていたが、やがて深く息を吐いた。


「半刻」


「お父様」


「長くはないのだろう」


「ええ」


「なら半刻だ」


 アマリリアは少しだけ目を瞬いた。


 もっと抵抗されると思っていた。


「よろしいのです?」


「私が断れば、今度はお前が理屈を並べるだろう」


「並べません」


「本当か?」


「……少しは」


「ほら見ろ」


 ライルが横で笑う。


「殿下」


「ごめん」


「それと」


 ハロルドはライルを見る。


「無理をさせないでいただきたい」


 今度の声は父親のものだった。


「分かっています」


 ライルもふざけずに答える。


「疲れているようなら、すぐ戻ります」


「お願いします」


 二人の間で、それ以上の言葉はなかった。


 アマリリアは少しだけ父を見る。


「お父様」


「何だ」


「ありがとうございます」


「……ああ」


 ハロルドは短く返した。


 けれど、その顔は朝よりずっと柔らかかった。


          ◇◇◇


 デート、と言っても。


 何か特別なことをするわけではなかった。


 護衛の配置を大きく変えることもできないし、王宮へ戻る時刻もある。


 結局、中央市場から馬車を停めている場所へ向かう途中にある小さな菓子店へ寄り、そこで焼き菓子を一つずつ買って、近くの広場を少し歩くことになった。


「普通ですわね」


 包み紙に入った焼き菓子を見ながら、アマリリアが言う。


「デートって普通じゃ駄目なの?」


「いえ」


「じゃあ?」


「殿下と市場の外を歩く場合、もっと大変なものかと思っておりました」


「大変って?」


「護衛が増えるとか。人払いをするとか。王族用の場所を用意するとか」


「今日はお忍びだから」


「ええ」


「それに」


 ライルは自分の焼き菓子を少し見てから笑った。


「俺はこういう方が好きかも」


「普通に買って、普通に歩く方が?」


「うん」


 広場には大きな噴水が一つあり、その周囲には仕事帰りらしい人や買い物途中の人が腰掛けていた。


 子供が二人、噴水の縁を走っている。


 老夫婦らしい男女がゆっくり話している。


 誰も、隣を歩いている青年が第一王子だとは思っていない。


「アマリリアは?」


「私も」


「本当?」


「ええ」


 少し考えてから続ける。


「殿下を殿下として見なくてもよい時間があることが、思っていたより好きです」


 ライルが止まった。


「……」


「殿下?」


「それ」


「何です?」


「かなり嬉しい」


 アマリリアは一瞬だけ目を逸らした。


「そうですか」


「うん」


「でしたら、よかったです」


 今日は。


 よく素直なことを言う。


 自分でもそう思う。


 疲れているからだろうか。


 それとも、朝からずっと普通の青年として隣を歩くライルを見ていたからなのか。


「でも」


「何?」


「殿下であることが嫌なのではございませんよ」


「分かってる」


「王子だから嫌とか、そういうことでも」


「うん」


「ただ」


 焼き菓子を少しだけ割りながら、言葉を探す。


「殿下ではなく、ライル様個人を見る時間も、これから増えたらよいと思います」


 今度こそ。


 ライルは返事をしなかった。


「……殿下?」


「今、名前」


「何がです?」


「ライル様って」


「……」


 言った。


 確かに。


 いつもは殿下。


 二人きりでも、ほとんどそう呼んでいる。


「忘れてくださいませ」


「無理」


「殿下」


「もう一回」


「嫌です」


「何で?」


「恥ずかしいからです!」


 近くのベンチに座っていた女性が、こちらを見て少し笑った。


 アマリリアの顔がさらに熱くなる。


「人がおります!」


「小声だよ」


「そういう問題では!」


「じゃあ帰ってから?」


「言いません!」


「待つ」


 その一言で。


 また。


 弱くなる。


「……ずるいです」


「何が?」


「何でもございません」


 焼き菓子を一口食べる。


 外側は少し固く、中には蜂蜜と砕いた木の実が入っていた。


「美味しい」


 ライルが言う。


「ええ」


「今日の食堂もよかったけど」


「そうですわね」


「市場の料理、また食べたい?」


「はい」


 迷わず答えると、ライルが嬉しそうに笑う。


「じゃあ、また来よう」


「市場見学?」


「デート」


「……」


「今度は最初から」


「それは」


 一瞬、父の顔が頭に浮かんだ。


「お父様への交渉が必要です」


「そこから?」


「重要です」


「一緒に?」


「殿下が主に」


「俺が?」


「当然でしょう?」


「君も少しは助けて」


「検討いたします」


「そこは一緒に考えるじゃないの?」


 アマリリアは思わず笑った。


「そうでした」


 市場見学の間、何度も口にした言葉。


 分からなければ二人で調べる。


 自分ができることは自分が考える。


 相手が分かることは相手に頼る。


 恋愛でも同じなのかもしれない。


「では、一緒に」


「うん」


「ただし、殿下が最初にお話しくださいませ」


「結局俺が前じゃん」


「第一王子でしょう?」


「こういう時だけ使うなよ」


「便利ですので」


 二人で笑う。


 半刻のデートは、本当にそれだけだった。


 菓子を買って。


 広場を一周して。


 少し話して。


 王宮へ戻る馬車へ向かう。


 それだけ。


 けれど、アマリリアには十分だった。


 何か特別なことをしなくても。


 隣を歩いて。


 同じものを食べて。


 同じことで笑う。


 それもデートなのだと、今日初めて知った。


          ◇◇◇


 王宮へ戻る馬車の中では、さすがに疲れが出た。


 座席へ腰を下ろした瞬間、足が思っていた以上に重いことに気づく。


「大丈夫?」


 ライルがすぐに尋ねた。


「ええ。少し疲れただけです」


「寝てもいいよ」


「寝ません」


「何で?」


「王宮へ着くまでに、少し整理を」


「休憩」


「殿下」


「約束」


「何のです?」


「疲れてたら休む」


「それはお父様との約束では?」


「俺も守る」


 言われて。


 少し迷う。


 鞄の中には手帳がある。


 開きたい。


 今日のうちに書き足したいこともある。


 けれど、昼食の時にも同じことを止められた。


「……では」


 アマリリアは背もたれへ少し身体を預ける。


「王宮まで」


「うん」


「手帳は開きません」


「偉い」


「子供扱い」


「してない」


「本当です?」


「今日はしない」


「今日は?」


「今のなし」


 ディーンが向かい側で小さく笑う。


 ゼインは窓の外を見ているが、口元が僅かに緩んでいた。


「皆様、笑っております?」


「気のせいです」


 ゼインが答える。


「ゼイン」


「はい」


「今、絶対に笑いました」


「少しだけ」


「皆様、それを使えば済むと思っておりません?」


「便利ですので」


「……」


 もう。


 何も言えない。


 アマリリアは小さく息を吐き、窓の外を見る。


 王都の街並みがゆっくり後ろへ流れていく。


 今日、自分たちが歩いた場所も、少しずつ遠ざかっていく。


「アマリリア」


「何です?」


「眠い?」


「少し」


「寝れば?」


「殿下」


「何?」


「王宮へ着いたら起こしてくださいませ」


 一瞬。


 馬車の中が静かになった。


「……うん」


「何です、その間」


「いや」


「殿下?」


「頼られたなと思って」


「今のは普通でしょう?」


「君が馬車で寝るから起こしてって言うの、初めてじゃない?」


「……」


 そう言われると。


 確かに。


 自分が意識を手放す。


 誰かに任せる。


 それは、アマリリアにとって思っていたより大きなことなのかもしれない。


「では」


 少しだけ照れながらも。


 言い直す。


「お願いいたします」


「任せて」


 今度は。


 安心して目を閉じた。


          ◇◇◇


 王宮へ戻ったあと、アマリリアが最初にしたことは、王妃セレーネへ市場見学終了の報告だった。


 正確には。


 報告するつもりだった。


「それで?」


 応接室の長椅子へ座るセレーネは、楽しそうにアマリリアを見ている。


「はい。中央市場では入口の検査待ちについて――」


「違うわ」


「……何がです?」


「市場の話はあとでいいわ」


 セレーネの視線が、アマリリアとライルを交互に移動する。


「デートはどうだったの?」


「お母様」


 ライルが僅かに顔をしかめる。


「何?」


「何で知ってるんです?」


「ハロルドから聞いたわ」


 アマリリアはゆっくり父を見る。


 ハロルドは少し離れた椅子へ座り、非常に気まずそうな顔をしていた。


「お父様」


「何だ」


「いつ?」


「戻ってすぐだ」


「なぜ?」


「市場見学の同行報告だ」


「デートは市場見学ではございません!」


「だから別件として報告した」


「なぜ別件まで!」


 セレーネが楽しそうに笑う。


「半刻だったのでしょう?」


「王妃陛下」


「何、ハロルド」


「私は時間を守ったという報告を」


「ちゃんと守らせたのね」


「当然です」


「娘に弱い父親だったわね」


「……誰から聞かれました?」


「それも報告に書いてあったわ」


「ディーン!」


 ハロルドが振り向く。


 ディーンは真顔だった。


「市場で周辺住民からそう認識されたため、現地反応として記録いたしました」


「削れ!」


「事実ですので」


 ライルが堪えきれず笑う。


 アマリリアも口元を押さえた。


「リリアまで笑うな!」


「申し訳ございません。でも」


「何だ」


「今日のお父様は、本当に少し普通のお父様でした」


 ハロルドが黙る。


 その顔が。


 怒ったのではなく。


 少し驚いたように見えた。


「……嫌だったか?」


 思っていなかった問いが返ってくる。


 アマリリアも少しだけ目を瞬いた。


「いいえ」


 答えはすぐに出た。


「嬉しかったです」


 ハロルドは何も言わなかった。


 ただ、その表情が僅かに柔らかくなる。


「そうか」


「はい」


 それだけ。


 けれど、以前の二人ならこんな会話すらなかったかもしれない。


 セレーネも、今度は茶化さなかった。


 少しだけ間を置いたあと、柔らかい声で言う。


「良い一日だったようね」


「……はい」


 アマリリアは頷いた。


「とても」


          ◇◇◇


 それからようやく、市場見学の正式な報告が始まった。


 もっとも。


 アマリリアが手帳を開いた瞬間。


「まず全部話そうとするのをやめなさい」


 セレーネに止められた。


「まだ何も申し上げておりません」


「その手帳の厚みで分かるわ」


「紙の枚数は増えておりません」


「書き込みの密度の話よ」


「……」


 ライルが横で笑う。


「殿下」


「ごめん。でも同じこと思った」


「では、どこから?」


 セレーネは少し考える。


「今日見たものを、三つだけ挙げて」


「三つ?」


「ええ。全部ではなく、今一番重要だと思うものを三つ」


 アマリリアは手帳へ目を落とす。


 検査待ち。


 玉ねぎの価格差。


 旧様式。


 救済制度。


 共同便。


 鉄材。


 徒弟。


 平均値。


 数字の外。


 どれも重要に思える。


「難しいです」


「でしょう?」


「はい」


「だからやるの」


 セレーネが微笑む。


「見ることと、整理することは別の能力よ」


 アマリリアは少し考えた。


 そして。


 一つ目。


「誰も全体を見ていないこと」


 セレーネの表情が少し真面目になる。


「続けて」


「中央市場の入口では、城門、検査、市場、倉庫、商会がそれぞれ自分の仕事をしています。でも、荷がどこから来て、どこで止まり、どこへ届くのかを全体で見る人がいない場合があります」


「ええ」


「今日の鉄材の取り違えも、それに近い可能性があります。道路工事で経路が変わり、別の倉庫を経由し、共同輸送の途中で二つの工房の荷が入れ替わった可能性があります。ただし、まだ確定ではございません」


「そこまで言えるなら十分ね」


 アマリリアは二つ目を考える。


「制度は、作っただけでは届いたことにならないこと」


 ルーデ村の農夫について説明する。


 三月前に新様式へ変わったこと。


 共同倉庫では今も旧様式が使われていたこと。


 救済制度があっても、農夫本人も窓口職員も最初は利用へ辿りつかなかったこと。


「どこで止まったかは?」


「まだ分かりません」


「なら?」


「調べます。ただし、一件だけで制度そのものを変えるつもりはございません」


 セレーネが僅かに笑う。


「良いわ」


 そして三つ目。


 これが。


 一番迷った。


 価格。


 職人。


 徒弟。


 数字。


 どれにするか。


 しばらく考え。


 アマリリアは答えた。


「数字だけでは、分かったことにならないことです」


 セレーネの目が僅かに細くなる。


「詳しく」


「平均価格は必要です。平均待ち時間も、制度の利用率も必要です。でも、その数字だけでは、なぜ差があるのか分かりません」


 玉ねぎの話をする。


 安い方が古い在庫だったこと。


 高い方には選別の手間が含まれていたこと。


 職人街の鍋や木皿にも、材料だけではなく技術や時間、耐久性、使う人の目的が含まれていたこと。


「それと」


 一度言葉を止める。


「平均が良くても、その外にいる人が困っている可能性があります」


「ルーデ村?」


「はい」


 もし九割の村へ通知が届いていても。


 残る一割の人にとっては。


 届いていない。


「だから、数字は見ます」


「捨てないのね」


「捨てません。好きですので」


 セレーネが笑う。


「あなたらしいわ」


「でも」


 アマリリアは手帳を閉じた。


「時々、その数字の外へ出て、自分で見たいです」


 部屋の中が少し静かになる。


 セレーネはすぐに返事をしなかった。


 アマリリアの言葉を受け止めるように、しばらく見つめている。


「市場へ行ってみたいと言った時」


 やがて王妃が口を開いた。


「正直、ここまで持ち帰ってくるとは思っていなかったわ」


「多すぎました?」


「かなり」


「……」


「でも、とても良いわ」


 アマリリアは少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


「それで?」


「何でしょう」


「次は何をするの?」


「調べます」


「全部?」


「……」


 危ない。


「優先順位をつけます」


「よろしい」


 セレーネが満足そうに頷いた。


「まず何から?」


 アマリリアは少し考える。


「ルーデ村への通知経路」


「理由は?」


「今すぐ誰かに被害が広がる話ではございませんが、他の村でも同じことが起きている可能性があります。それに、記録を確認すれば比較的早く事実関係を確認できます」


「鉄材は?」


「交換手続きが進んでおりますし、工房側で当面の作業も続けられています。共同倉庫の記録はディーン様を通して確認をお願いしたいです」


「徒弟制度は?」


「今日は一工房しか見ておりません。急ぎません」


「市場入口?」


「人員配置と時間帯別の待ち時間を、過去の記録から見たいです」


「ミハイルは?」


「……」


 来た。


 セレーネが少し楽しそうになる。


「会わないの?」


「会いたい気持ちは、朝より増えました」


「まあ」


「ですが、まだです」


「なぜ?」


「先に今日見たものを自分で整理したいからです」


 アマリリアは迷わず答えた。


「ミハイル様のお話を伺えば、きっと参考になります。でも、その方の考えを先に答えにしたくはございません」


「なるほど」


「その上で」


 一度だけライルを見る。


「殿下にも同席していただきたいです」


「俺?」


「嫌です?」


「まさか」


「では」


「うん」


「その時はお願いいたします」


 ライルは少し笑った。


「もちろん」


 セレーネが二人を見比べる。


「随分自然になったわね」


「何がです?」


「一緒にやることが」


 アマリリアは返事をしなかった。


 けれど。


 否定もしなかった。


          ◇◇◇


 報告を終えたあと。


 アマリリアたちの前に。


 二つの皿が置かれた。


「……」


「本当にやるんだ」


 ライルが少し笑う。


「当然です」


 昼間、中央市場で買った二種類の玉ねぎ。


 片方は前日の在庫で、値下げされていたもの。


 もう片方は当日入荷で、大きさも揃えられ、選別されたもの。


 同じ厨房で。


 同じ料理人が。


 同じ切り方。


 同じ油。


 同じ調味料。


 できるだけ条件を合わせて焼いたものが、二つの皿に分けて並べられている。


「市場見学の続き?」


 ライルが尋ねる。


「半分」


「もう半分は?」


「……夕食です」


「デート?」


「殿下」


「何?」


「王妃様がおります」


「私は気にしないわよ」


「王妃様!」


 セレーネが楽しそうに笑う。


 ハロルドは非常に不満そうな顔をしている。


「なぜ私までこれに参加しているんだ」


「お父様も玉ねぎを持ち帰ることに賛成なさったでしょう?」


「比較にはな」


「でしたら比較いたしましょう」


「デートではないな?」


「お父様」


「確認だ」


「……半分です」


「リリア!」


 ライルが横で笑う。


「殿下も笑わないでくださいませ!」


 結局。


 市場で買った玉ねぎ二種の比較夕食は。


 二人きりではなく。


 王妃。


 父。


 側近。


 まで参加する。


 非常に賑やかなものになった。


「まずこちら」


 アマリリアは値下げされていた前日の玉ねぎを口へ運ぶ。


 しっかり火が通り、甘みもある。


「普通に美味しいですわね」


「うん」


 ライルも頷く。


「少し柔らかいかも?」


「こちらは?」


 今度は当日入荷の選別品。


 同じように焼かれているが。


「……」


「違う?」


「少し」


 アマリリアは慎重に噛む。


「こちらの方が食感が残っております」


「甘さは?」


「私は最初の方が少し強く感じます」


「俺はこっち」


「個人差もございますのね」


「料理長」


 セレーネが厨房側へ声をかける。


「調理する側では?」


 呼ばれていた料理長が答える。


「大きさの揃った方が扱いやすうございます。火の入り方を揃えやすいため、大量調理では特に差が出るかと」


 アマリリアの目が少し大きくなる。


「市場の店主が仰っていた通りです」


「高い方?」


「ええ。料理人の手間を減らせると」


「家庭なら?」


 ライルが尋ねる。


「少量でしたら、多少大きさが違っても大きな問題にはなりません」


「では」


 アマリリアは少し考える。


「王宮の厨房なら、高い方を買う意味がある?」


「一概には申し上げられません」


 料理長は慎重に答えた。


「量が多い日、宴席、仕込み時間が短い日は揃ったものが助かります。ただし煮込みへ使うだけなら、形が不揃いでも問題はございません」


「……」


 また。


 一つの答えではない。


「アマリリア」


「何です?」


「嬉しそう」


「ええ」


「なんで?」


「また一つ増えました」


「質問?」


「条件です」


「分類がさらに増えた」


「仕方ございません」


 セレーネが笑う。


「結局、どちらが良い玉ねぎなの?」


 その問いに。


 アマリリアは少し考えたあと。


 笑った。


「使い方によります」


「よろしい」


 セレーネも笑う。


「朝のあなたなら?」


「高い方が良い理由を探したと思います」


「今は?」


「何に使うかを先に聞きます」


 その変化を。


 自分で言葉にすると。


 少しだけ不思議だった。


 ほんの一日。


 市場へ行っただけ。


 それなのに。


 ものの見方が。


 少し。


 変わっている。


「殿下」


「何?」


「この夕食」


「うん」


「デートとしては、どうなのでしょう」


 ライルは周囲を見る。


 王妃。


 ハロルド。


 ディーン。


 ゼイン。


 料理長。


 全員いる。


「かなり特殊」


「やはり」


「でも」


「何です?」


「楽しい」


 アマリリアは少しだけ笑った。


「私もです」


「本当?」


「ええ」


「じゃあ成功」


「随分判定が簡単ですわね」


「デートってそれでいいんじゃない?」


 その言葉に。


 アマリリアは少しだけ考える。


 市場見学も。


 デートも。


 もしかすると。


 思っていたより単純なところがあるのかもしれない。


 完璧に計画しなくてもいい。


 想定通りに進まなくてもいい。


 相手と一緒にいて。


 楽しかった。


 また行きたい。


 それなら。


 十分。


「では」


「何?」


「成功ですわね」


 ライルが嬉しそうに笑った。


「うん」


 向かい側で。


 ハロルドが深いため息をつく。


「私は認めた覚えはない」


「お父様」


「何だ」


「今、玉ねぎを三回もおかわりなさいました」


「比較だ」


「どちらがお好きです?」


「……安い方だ」


「理由は?」


「甘い」


 アマリリアは少し笑った。


「それでよいと思います」


「何がだ」


「人によって価値が違うことです」


「今、私で学ぶな」


 食卓へ笑いが広がった。


          ◇◇◇


 夕食が終わる頃。


 ディーンのもとへ、一枚の簡易報告が届いた。


 封を確認したディーンが中身へ目を通し、僅かに眉を動かす。


「殿下」


「何?」


「本日依頼していた、市場側からの速報です」


 アマリリアの意識がすぐにそちらへ向く。


「鉄材です?」


「一部だけですが」


「読んでいただけます?」


 ディーンは一度ライルへ確認し、許可を得てから読み上げた。


「本日、第二共同倉庫を経由した荷のうち、職人街向け鉄材二件について交換申請を確認。農具工房向けと刃物工房向けの荷が相互に入れ替わっていたことは事実」


 やはり。


 二工房。


 入れ替わっていた。


「原因は?」


「現時点では未確定です」


 アマリリアはすぐに続きを待つ。


「ただし、二件はいずれも道路補修に伴い、通常の第三共同倉庫直送ではなく第二共同倉庫で再仕分けを受けております」


「……」


 昼間の推測と一致する。


 ただ。


 まだ。


「再仕分けしたから間違えた、とは限りませんわね」


「はい」


 ディーンが頷く。


「第二共同倉庫側では、同日処理した同種の荷について追加確認を始めたとのことです」


「他にも間違いは?」


「今のところ報告なし」


「では」


 アマリリアは少し考える。


「明日、記録だけ確認できます?」


「手配可能です」


「現場へ直接行く必要はございません」


「承知しました」


 ライルが横から尋ねる。


「ルーデ村の方は?」


「そちらも照会を出しております。ただ、領主府側の記録確認は明日以降になるかと」


「急がなくていい」


 アマリリアが言う。


 自分で口にしてから。


 少しだけ笑う。


「何?」


 ライルが尋ねる。


「いえ」


「何で笑った?」


「以前の私なら、今すぐ確認できないことに少し苛立っていたと思いまして」


「今は?」


「明日でよいです」


「本当に?」


「ええ」


 今日一日。


 十分に見た。


 十分に聞いた。


 そして。


 十分に増えた。


 問いが。


「今夜は」


 アマリリアは手帳を閉じる。


「もう調べません」


 ライルが驚く。


「本当?」


「何です、その反応」


「すごい成長」


「殿下」


「褒めてる」


「でしたら」


 一度。


 少しだけ笑う。


「ありがとうございます」


 セレーネが満足そうに頷く。


「では、今夜は休みなさい」


「はい」


「手帳も閉じる」


「閉じました」


「部屋へ戻ってから開かない」


「……」


「アマリリア?」


「努力いたします」


「開くわね」


「少しだけ」


 全員が笑った。


「お嬢様」


 ゼインが静かに言う。


「何です?」


「明日の朝まで手帳をお預かりしましょうか」


「嫌です」


 即答だった。


 ライルが吹き出す。


「そこは譲らないんだ」


「手帳は私のものです!」


「開かない?」


「……」


「アマリリア」


「寝る前に一度だけ」


「王妃様」


 ライルがセレーネを見る。


「没収した方が」


「殿下!」


 また笑いが起こる。


 その中で。


 アマリリアも笑った。


 市場見学は。


 終わった。


 けれど。


 調べることは、まだ山ほどある。


 ルーデ村へ届かなかった新様式。


 救済制度の利用状況。


 第二共同倉庫で起きた鉄材の取り違え。


 時間帯ごとの検査待ち。


 職人たちの価格。


 徒弟制度。


 ミハイル・フォード。


 そして。


 今日知ったことを。


 これから何に繋げるのか。


 急がなくていい。


 一つずつでいい。


 分からなければ。


 調べればいい。


 その時には。


「殿下」


「何?」


「明日」


「うん」


「今日の続きを、一緒に整理していただけます?」


 ライルは迷わなかった。


「もちろん」


「かなりございますよ」


「知ってる」


「途中で逃げたら」


「逃げない」


「本当です?」


「一緒にやるって言っただろ」


 その言葉に。


 アマリリアは少しだけ目を細めた。


「そうでしたわね」


「うん」


「では」


 手帳を胸元へ抱え。


 今度こそ。


「明日にいたします」


 今日得た問いを。


 今夜のうちに答えへ変える必要はない。


 そのことを。


 ようやく自然に思えるようになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。