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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第46話 間違った鉄が届いた理由を追ってみたら、荷物をまとめる便利な仕組みにも見落としがありました


 職人街の奥から聞こえた大きな音に、アマリリアたちは自然と足を止めた。


 開け放たれた工房の入口近くでは、床へ落ちた金属材を拾い上げる若い職人と、その横で荷札を確認している年嵩の男が慌ただしく動いている。先ほど響いた「違う、そっちの鉄じゃない」という声は、どうやら口論というより、作業中の取り違えに気づいた時のものだったらしい。


 工房の中には赤く熱された炉があり、そこから流れてくる熱気が通りまで届いていた。金槌を振るう音はいったん止まり、奥で作業していた数人の職人たちも手を止めて入口の方を見ている。


「少し様子を見ます?」


 ライルが小声で尋ねた。


「ええ」


 アマリリアは頷いた。


 朝から何度も繰り返したことだ。


 見えた一部分だけで結論を決めない。


 工房の中へすぐ入ることもせず、通行の邪魔にならない場所へ寄って、まず何が起きているのかを確認する。


「これ、三番倉から来たやつだろ?」


 年嵩の男が荷札を見ながら言った。


「はい。いつもの荷と一緒に運ばれてきました」


「でも、こっちは硬すぎる。農具用じゃない」


 若い職人が床へ落とした金属材を持ち上げる。


 見た目は、アマリリアにはどれも同じような灰色の鉄にしか見えない。


「分かるの?」


 隣のライルも同じことを思ったらしい。


「私には分かりません」


「俺も」


「でしたら、聞く価値がございますわね」


「その前に?」


「もう少しだけ」


 ライルが笑う。


「今日は本当に徹底してるな」


「学習したのです」


「良いことだと思う」


「またです?」


「だって本当にそうだから」


 アマリリアは少しだけ口元を緩め、工房へ視線を戻した。


 年嵩の男は今度は積まれている別の鉄材を手に取り、表面を爪で擦ったあと、近くにいた職人へ何かを指示した。


「こっちの札も持ってこい。今日の搬入分、全部見るぞ」


「全部ですか?」


「混ざってるなら一個だけじゃ済まん」


 その一言で、工房の空気が少し変わった。


 先ほどまで作業へ戻ろうとしていた職人たちも、今度は何人かが材料置き場へ集まってくる。


「一つだけではない可能性」


 アマリリアが小さく呟く。


「また出たな」


「何がです?」


「原因は一つとは限らない」


「ええ」


 市場入口で聞いた話と同じだった。


 一つの鉄材が違っていた。


 それだけなら、誰かが手に取る箱を間違えたのかもしれない。


 けれど、工房主らしき男は「今日の搬入分を全部見る」と判断した。


 何か、過去にも似た経験があるのかもしれない。


「話を聞きます?」


「今なら」


 アマリリアは頷いた。


 工房側も作業を中断し、材料確認へ切り替えている。少しだけ尋ねても邪魔になりにくそうだった。


 アマリリアたちは工房の入口近くまで進んだ。


「失礼いたします」


 年嵩の男が顔を上げる。


「何だい?」


「少しお話を伺ってもよろしいでしょうか。先ほど、鉄が違うと仰っていたので」


「客か?」


「今日は市場と職人街を見学しております」


 男はアマリリアとライルを見て、少しだけ首を傾げた。


「商家の人間?」


「そのようなものです」


 もう何度目か分からない答えだった。


 大きくは間違っていない。


 多分。


「何が知りたい?」


「まず、先ほどの鉄がどう違うのかを」


 男は手にしていた金属材をアマリリアへ見せた。


「見ただけじゃ分からんだろ?」


「はい」


「これは刃物向きの硬い鉄だ。うちで今日使う予定だったのは、農具用のもう少し粘るやつだ」


「硬い方が良いのではないのです?」


 ライルが尋ねる。


「何にでも硬けりゃいいってもんじゃない」


 男は笑った。


「鍬や鋤は、石に当たった時に欠けるより少し曲がる方がいい場合もある。刃物みたいに硬くしすぎると、衝撃で割れることがある」


「用途で違う」


「そういうことだ」


 アマリリアはすぐに手帳を開いた。


「同じ鉄でも?」


「種類はかなりあるよ。混ぜる炭の量、叩き方、熱の入れ方でも変わる」


「では、見た目が似ていても用途が違うのですね」


「職人なら触ればある程度分かる」


「荷を運ぶ方は?」


 その質問に、男が少しだけ黙った。


「……そこが今日みたいなことの原因になる時はある」


 アマリリアのペン先が止まる。


「詳しく伺っても?」


「いいけど、今のが運び手の間違いかはまだ分からんぞ」


「ええ。決めません」


「変わった嬢ちゃんだな」


「本日、何度か言われました」


 男が笑った。


「じゃあ、そのまま聞け」


 工房主は近くの台へ二種類の鉄材を並べた。


「こっちがうちの注文した方。こっちが間違って来た方だ。札を見ろ」


 アマリリアとライルが近づく。


 木札には品目名と工房名、数量らしき数字が書かれていた。


「違いが」


「少ない?」


「ええ」


 ライルも目を細める。


 片方には『農具用・中硬』。


 もう片方には『刃物用・中硬』。


「中硬が同じ」


 ライルが言う。


「ええ。それに最初の文字も似ております」


「荷札の大きさも同じ」


「書いた方の癖まで似ていますわね」


 工房主が頷いた。


「同じ倉庫で付けた札だろうな」


「では、倉庫で取り違えた可能性?」


「ある。でもまだ分からん」


 工房主はアマリリアの言葉をそのまま返すように言った。


 アマリリアは少しだけ目を瞬き、それから笑った。


「お気に召したようですね、その考え方」


「悪くないと思っただけだ」


 ライルが横で笑う。


「増えたな、仲間」


「何のです?」


「先に決めない人」


「それは増えてよいです」


 アマリリアも少しだけ笑ってから、再び工房主へ向き直った。


「今日の荷は、どこから届いたのです?」


「北側の第三共同倉庫だ」


「共同倉庫」


「商会ごとに一つずつ荷車を出すと無駄だから、ここらの工房はまとめて運んでもらうことが多い」


 アマリリアとライルは同時に顔を見合わせた。


「荷車広場で見たものと同じですわ」


「ミハイルの仕組み?」


「おそらく」


 工房主が眉を上げる。


「フォード商会の共同便の話か?」


「ご存じです?」


「知らない奴の方が少ないだろ。あそこが始めた仕組みを、今はいくつかの商会も真似してる」


「こちらの荷も、フォード商会が?」


「今日のは違う。第三共同倉庫の運営は別の商会だ」


 アマリリアは手帳へ書きながら頷いた。


 ここでも、一つにまとめてはいけない。


 共同利用という仕組みそのものと、特定の商会。


 発案者と運営者。


 同じではない。


「共同便にしてから、便利になりました?」


 ライルが尋ねる。


「かなりな」


 工房主は迷わず答えた。


「前は工房ごとに荷を取りに行くか、少量でも一台頼むしかなかった。今は同じ地域へ来る荷をまとめてくれるから、運賃が下がった」


「では、良いことの方が多い?」


「今のところはな」


「取り違えは?」


「たまにある」


 その答えに、アマリリアが顔を上げる。


「たまに?」


「月に一度あるかないか。全部が大事故になるわけじゃない。今日みたいに作業前に気づけば、交換して終わりだ」


「気づかなかった場合は?」


 工房主の表情が少しだけ真面目になる。


「それが困る」


 炉の向こうで、若い職人が材料を並べ直している。


「加工を始めてから違うと分かったら、時間も燃料も無駄になる。完成してから気づけばもっと面倒だ」


「販売後なら?」


「最悪だな」


 短い言葉だった。


 けれど、その意味は十分だった。


 アマリリアは手帳へ書く。


『共同輸送=運賃低下、空荷削減。反面、集約時の取り違えリスク』


「確認工程は?」


「増えた」


「先ほど広場でも、荷札を何度も照合していました」


「そりゃそうだ。まとめるってことは、間違える場所も増える」


「……」


 また同じ構造だ。


 便利になる。


 その代わり、別の確認が必要になる。


 制度を一つ変えれば、全てが楽になるわけではない。


「お嬢さん」


 工房主が手帳を覗く。


「そこだけ書くと、共同便が悪いみたいになるぞ」


 アマリリアの手が止まった。


「……確かに」


「運賃が下がったおかげで助かってる工房は多い。うちもそうだ」


「では」


 アマリリアは書き加える。


『問題は共同利用そのものではなく、集約時の識別・確認方法』


「こうでしょうか」


「それなら近い」


「ありがとうございます」


「本当に何の勉強なんだ?」


「人の暮らしです」


 ライルが即答した。


 工房主が一瞬黙る。


 アマリリアも横を見る。


「殿下」


「何?」


「もう完全に定着しておりますね」


「気に入ったから」


 工房主が大きく笑った。


「まあ、間違ってないな」


          ◇◇◇


 工房の職人たちが今日届いた鉄材を一つずつ確認していく間、アマリリアたちは邪魔にならない位置からその作業を見せてもらうことにした。


 十数本のうち、違っていたのは最初の一本だけだった。


「全部ではなかったですね」


 ライルが言う。


「ええ」


「じゃあ、一個だけ誰かが間違えた?」


「まだ」


「分からない」


「よくできました」


「褒められた」


「普通に受け取ってくださいませ」


「ありがとう」


「本当に早いですわね」


 二人が小さく笑っていると、若い職人が工房主へ何かを差し出した。


「親方、こっちの札」


「何だ?」


「裏に別の印があります」


 工房主の顔つきが変わる。


 アマリリアたちも少しだけ身を乗り出した。


「見ても?」


「ああ」


 札の裏側には、小さな赤い印が押されていた。


「これは?」


「第二倉庫の印だ」


「でも、今日の荷は第三共同倉庫から?」


「そうだ」


「では、途中で一度別の倉庫を通った?」


「かもしれん」


 工房主は少し考える。


「最近、北側の道路を直してるだろ。荷が迂回してるって聞いた」


「道路工事?」


 アマリリアがすぐ反応する。


「普段は第三へ直送の荷も、第二でまとめ直してるのかもしれん」


「その情報は工房側へ?」


「細かい経路までは来ない」


「また」


 アマリリアの胸の中で、何かが繋がる。


 中央市場で、店側は荷が遅れた理由を知らないことがあると聞いた。


 荷車広場では、村の農夫が制度変更を知らなかった。


 ここでは、工房側が荷の途中経路を知らない。


「誰も全体を見ていない」


 小さく呟くと、ライルもすぐに意味を理解した。


「また出てきたな」


「ええ」


 工房主が二人を見る。


「何の話だ?」


「市場入口の検査官の方が、仰っていたのです。城門は城門、市場は市場、検査は検査、倉庫は倉庫で、それぞれ自分の仕事をしているけれど、全体を見ている人がいないことがある、と」


「……ああ」


 工房主は少しだけ考えたあと、頷いた。


「分かる気がする」


「こちらでも?」


「工房から見れば、荷が届けばいい。倉庫から見れば、間違えずに送ればいい。運送屋から見れば、指定された場所へ運べばいい」


「でも途中で経路が変わると」


「全員が少しずつ知らないことが増える」


 ライルの言葉に、工房主が頷いた。


「今日の一本がそれかは、まだ分からんけどな」


「はい」


 アマリリアはその点も忘れず、手帳へ記した。


『第二倉庫印あり。道路工事による経路変更の可能性。原因確定ではない』


「偉い」


 ライルが言う。


「何がです?」


「ちゃんと『可能性』って書いた」


「殿下」


「何?」


「子供扱いしていらっしゃいます?」


「してない」


「本当です?」


「半分?」


「殿下」


「冗談」


 工房主が笑った。


「仲いいな、あんたら」


「婚約者ですので」


 ライルが即答する。


「殿下!」


「間違ってない」


「そうですけれど!」


「ならいいだろ」


「良くは――」


 言いかけて、アマリリアは止まった。


 良くないのか。


 正式な婚約者なのは事実だ。


 しかも今朝から、普通の青年に見えるライルを好ましく思っていることも何度も自覚している。


「……まあ」


「何?」


「間違ってはおりません」


 ライルが少し驚いた顔をした。


「今日は本当に素直だな」


「市場見学の成果です」


「それも?」


「多分」


 工房主がまた笑った。


          ◇◇◇


 鉄材の確認が終わると、工房主は若い職人へ交換依頼の書類を作るよう指示した。


「交換?」


 アマリリアが尋ねる。


「ああ。違う鉄は返して、注文した方を持ってきてもらう」


「費用は?」


「原因による」


「倉庫側の取り違えなら?」


「向こう持ち」


「工房側の注文違いなら?」


「こっちだ」


「途中の運送で?」


「契約次第だな」


 アマリリアはまた手帳へ書きかける。


 だが、その前に工房主が続けた。


「だから、原因が決まるまでは揉めない」


「……」


「昔は先に怒鳴り込む奴も多かったがな」


「今は違うのです?」


「共同便が増えてから、誰のところで間違ったか分からんことも増えた。先に怒鳴って外したら、次から仕事しづらいだろ」


 アマリリアはゆっくり瞬いた。


「それは」


「何だ?」


「とてもよい考え方です」


「急に褒めるな」


「本当ですので」


 横でライルが笑う。


「取られた」


「何をです?」


「俺の言い方」


「便利ですので」


「君も使うじゃん」


「皆様が使い始めましたので」


 工房主はよく分からないまま笑っていた。


 だが、アマリリアの中では別の意味で印象に残った。


 誰か一人を悪者にしない。


 それは優しさだけではなく、現実的でもある。


 複数の人や組織が関わる仕組みでは、先に責任を決めつけることが、かえって問題を大きくする場合もある。


「殿下」


「何?」


「市場入口で伺ったことが、ここでも同じです」


「誰か一人を悪者にしない?」


「ええ」


「でも責任は調べる」


「そこは必要です」


「怒らないことと、調べないことは違う?」


「はい」


 ライルは少し考えたあと、頷いた。


「それ、大事だな」


「ええ」


 アマリリアは手帳へ一つ書き足した。


『責任を決めつけないことと、責任の所在を確認しないことは別』


「また増えた」


「学びです」


「もう本当に何個あるんだろう」


「数えない方が幸せです」


「怖い」


「殿下」


「冗談」


 二人がまた笑う。


 少し離れた場所から見ていたハロルドは、今度は口を挟まなかった。


 ただ、工房主とアマリリアのやり取りを聞きながら、何か考えているようだった。


「お父様」


「何だ」


「何かございます?」


「ある」


「何でしょう」


 ハロルドは鉄材と荷札を見た。


「共同輸送が増えれば、荷札の標準化が必要になるかもしれない」


「標準化?」


「商会ごと、倉庫ごとに書き方が違えば、それだけ見間違える」


 アマリリアはすぐに二枚の荷札を思い出した。


 文字の配置も、札の大きさも似ていた。


「今は統一されていない?」


 工房主が答える。


「最低限の項目は決まってるが、色や印までは倉庫ごとだな」


「では」


 アマリリアは少し考える。


「用途ごとに札の色を変えるだけでも?」


「分かりやすくはなるだろうな」


 工房主は頷いたが、すぐに続けた。


「ただ、色付きの札は金が掛かるぞ」


「……」


「出た」


 ライルが小声で言う。


「何がです?」


「改善すると別の費用」


「ええ」


 アマリリアも苦笑した。


「簡単ではございませんわね」


「だから面白い?」


「かなり」


 即答すると、ライルが嬉しそうに笑った。


          ◇◇◇


 工房を離れたあと、アマリリアたちは職人街の中をさらにゆっくり歩いた。


 午後の陽射しは少し強くなっているが、工房の軒が連なる通りにはところどころ日陰ができている。開け放たれた扉の奥からは金属音、木を削る音、布を織る音が絶えず聞こえ、中央市場とはまるで違うリズムで街が動いていた。


「さっきの件」


 ライルが言う。


「何です?」


「道路工事が原因だったら、かなり離れた話だな」


「ええ」


「職人街の鉄の取り違えなのに」


「始まりが道路かもしれない」


「それで倉庫が変わって」


「荷をまとめ直して」


「札が似てて」


「取り違えた可能性がある」


 二人で順番に繋げていく。


 ただし、最後にアマリリアは付け加えた。


「まだ可能性ですけれど」


「分かってる」


「慣れました?」


「君のやり方に?」


「ええ」


「かなり」


 ライルは少しだけ笑った。


「前は、君が答えを早く出すのを見てる方だった」


「今は?」


「一緒に待ってる感じ」


 その言葉に、アマリリアは少し黙った。


 一緒に待つ。


 考える。


 調べる。


 以前なら、自分一人でできることを増やす方が安心だった。


 けれど今は、隣に誰かがいることを不便だとは思わない。


「殿下」


「何?」


「それ、好きです」


「……」


 今度はライルが止まりかけた。


「何が?」


「一緒に待つ、という言い方です」


「そっちか」


「なぜ残念そうなのです?」


「別に」


「お顔が」


「君も本当にそれ使うな」


「便利ですので」


 アマリリアは笑った。


 それでも少しだけ、胸の内に残った言葉がある。


 一緒に待つ。


 それは、今の二人の関係によく似ている気がした。


 何でもすぐ決めない。


 無理に急がない。


 必要な時は隣で考える。


 恋愛だけではなく、これから先のことも。


「……」


「アマリリア?」


「何でもございません」


「本当?」


「今は市場です」


「職人街」


「細かいです」


「君がさっき言った」


「覚えておりましたの?」


「当然」


「……また一つ」


「増えた?」


「市場で分かったことです」


「嘘っぽい」


「殿下」


 二人のやり取りに、少し後ろを歩いていたディーンが小さく咳払いした。


「殿下」


「何?」


「そろそろ、お二人とも前をご覧になった方がよろしいかと」


「前?」


 ライルとアマリリアが同時に顔を向ける。


 すると、十歩ほど先で、先ほど見かけた十二、三歳ほどの少年がまた大きな木箱を抱えて通りを横切ろうとしていた。


 しかも今度は、先ほどより箱が重そうだった。


 少年は身体を少し傾けながら歩いている。


「危なくない?」


 ライルの表情が変わる。


「少し」


 アマリリアも少年を見る。


 けれど、すぐに駆け寄ることはしない。


 少年の歩き方は不安定に見えるものの、本人は慣れているようでもある。周囲の職人も特に慌ててはいない。


 そこへ、一人の年配職人が声を飛ばした。


「フィン! 重いなら二回に分けろ!」


「これくらい平気!」


「平気な奴はそんな歩き方しねえ!」


「あと少しだから!」


 少年は言い返したが、年配職人はため息を吐き、結局近づいて箱の片側を持った。


「ほら」


「一人で持てたのに」


「落として中身割ったら、お前の一日分どころじゃ済まねえぞ」


「……分かった」


 二人で箱を運んでいく。


 アマリリアはその様子をじっと見ていた。


「怒られてる感じじゃないな」


 ライルが言う。


「ええ」


「助けてもいる」


「はい」


「じゃあ問題ない?」


 アマリリアは少し考えた。


「まだ分かりません」


「だと思った」


「ですが」


「何?」


「最初に見た時より、少しだけ違って見えます」


「どう?」


「無理に働かされている子供、とは今のところ見えません」


「徒弟?」


「可能性はございます」


 少年が消えていった工房の上には、小さな木製の看板が掛けられていた。


『ヴェルク木工房』


 先ほどの箱には、薄い木板らしきものが入っていた。


「聞く?」


 ライルが尋ねる。


「ええ」


 アマリリアは頷いた。


「ただし」


「分かってる」


「何がです?」


「子供が働いてるから悪い、って決めない」


 アマリリアは少しだけ目を細めた。


「本当に慣れましたわね」


「褒めてる?」


「かなり」


「ありがとう」


「……やはり早いです」


 二人は笑い合い、それからヴェルク木工房へ向かった。


          ◇◇◇


 木工房の中は、先ほどの鍛冶工房とはまるで違う匂いに満ちていた。


 乾いた木材の香り。


 削り屑。


 植物油。


 奥では大きな板を削る職人がおり、別の作業台では小さな木箱へ金具を取り付けている。


 先ほどの少年――フィンと呼ばれていた――は、運び込んだ箱を床へ置き、中身を一枚ずつ棚へ移していた。


「こんにちは」


 アマリリアが声をかける。


 近くにいた年配職人が振り向いた。


「客かい?」


「少しお話を伺いたくて」


「何について?」


 アマリリアは少年を一度見た。


「こちらの方は、工房で働いていらっしゃるのです?」


「フィンか?」


 職人は少年を呼ぶ。


「おい、客だぞ」


「俺に?」


 少年が驚いた顔でこちらへ来る。


 近くで見ると、やはり十二、三歳ほどだ。


「失礼ですが、おいくつです?」


「十三」


「こちらで働いて?」


「二年目」


 アマリリアは少しだけ目を瞬く。


「十一歳から?」


「うん」


「学校は?」


 ライルが尋ねた。


 少年ではなく、年配職人が答えた。


「午前の読み書き教室には週三で通わせてるよ」


「工房の仕事と両方?」


「ああ」


「義務なのです?」


 アマリリアが尋ねる。


「徒弟を取る工房は、読み書きと計算を覚えさせる決まりになってる。職人組合の規則だ」


「徒弟」


 アマリリアが小さく繰り返す。


「やはり」


 ライルが言う。


「何です?」


「予想当たった」


「まだ全部ではございません」


「はい」


 年配職人が笑う。


「何の話だ?」


「こちらの話です」


 アマリリアは気を取り直した。


「フィンさんは、なぜこちらへ?」


「俺?」


 少年は少しだけ考えた。


「父ちゃんも木工だから」


「家業ですの?」


「村で家具直したりする仕事。俺はもっとちゃんと習いたくて、ここに来た」


「ご自分で?」


「父ちゃんが親方に頼んだ」


 年配職人が補足する。


「うちの親方と知り合いなんだ。住み込みで技術を覚えてる」


「賃金は?」


 アマリリアが尋ねると、少年が少し驚いた。


「嬢ちゃん、すごいこと聞くな」


「必要かと思いまして」


「少しはもらってるよ」


 年配職人が答える。


「食事と寝床は工房持ち。徒弟手当も少額だが出る」


「労働時間は?」


「お嬢様」


 後ろからディーンが僅かに声をかける。


 アマリリアが振り向く。


「何です?」


「少し質問が続きすぎております」


「……」


 その通りだった。


「申し訳ございません」


 アマリリアは少年と職人へ頭を下げた。


「つい」


「気になるの?」


 フィンが笑う。


「ええ」


「変な人」


「今日何回目でしょうね」


 ライルが横で笑う。


「数えない方がいい」


「殿下まで」


 アマリリアは少し息を整えた。


「では、一つだけ」


「まだ聞くんだ」


「フィンさん」


「うん」


「先ほど、とても大きな箱を一人で運んでいらっしゃいましたでしょう?」


「あれ?」


「危険ではございません?」


 少年は一瞬、何を言われているのか分からないような顔をした。


「いつもやってるけど」


 年配職人がすぐ横から口を挟む。


「いつもやってるからって、あれは重すぎた」


「でも持てた」


「持てるのと持っていいのは違う」


「……」


 少年が少しむっとする。


 そのやり取りを見て、アマリリアはまた少し考えた。


 働いている。


 本人も望んでいる。


 教育も受けている。


 それでも危険がないとは限らない。


「重さの基準などは?」


 ライルが職人へ尋ねる。


「徒弟に一人で持たせていい荷の?」


「細かい決まりはないな」


「では、親方や職人が判断?」


「そうなる」


「忙しい時は?」


 アマリリアが尋ねる。


 年配職人が少し黙った。


「……見落とすことはあるかもしれん」


 少年が口を挟む。


「今日は俺が勝手に一人で持ったんだよ」


「そうなのです?」


「早く終わらせたかったから」


「なぜ?」


「終わったら、午後は削り方教えてもらえる」


「なるほど」


 アマリリアは少し笑った。


 無理を強いられていたわけではない。


 むしろ、本人が早く仕事を終えたくて無理をしていた。


「でも」


 ライルが少年を見る。


「怪我したら、削り方も習えないだろ?」


 フィンが黙る。


「……そうだけど」


「さっきの人も同じこと言ってた」


「兄ちゃん、親方みたいだな」


「え?」


 ライルが目を瞬く。


 アマリリアが吹き出した。


「殿下」


「何?」


「親方だそうです」


「初めて言われた」


「お似合いです」


「本当に?」


「少し」


「それ便利だな」


「皆様がお使いになりますので」


 フィンと年配職人まで笑う。


          ◇◇◇


 木工房を出たあと、アマリリアはすぐには手帳を開かなかった。


 先ほどの少年の話を頭の中で少し整理する。


「どうだった?」


 ライルが尋ねる。


「最初に見た時とは、かなり違いました」


「悪い工房じゃなかった?」


「少なくとも、今聞いた範囲では」


 アマリリアは慎重に答えた。


「徒弟として技術を学び、読み書きも教わり、食事と寝床もあり、手当も出ている」


「でも危ない作業はある」


「ええ」


「本人が無理することも」


「ございます」


「じゃあ問題?」


 アマリリアは少し考える。


「問題というより、確認したいことが増えました」


「何を?」


「徒弟制度全体です。年齢、教育、労働時間、危険作業の扱い。それから、工房ごとの差がどの程度あるのか」


「今日調べる?」


「いいえ」


 アマリリアは首を横へ振った。


「一軒で全体を決めません」


「慣れたな」


「殿下もでしょう?」


「かなり」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 そのあと、アマリリアはようやく手帳を開いた。


『子供が働いている=即問題とは限らない。徒弟制度・教育・本人の意思・安全管理を分けて見る』


 少し考えて、さらに加える。


『本人が望んで無理をする場合もある。保護は強制を止めるだけでは足りない』


「……」


 ライルが覗き込む。


「それ、難しいな」


「ええ」


「やりたいことを止めすぎても駄目?」


「多分」


「でも怪我はさせたくない」


「そうです」


「どうする?」


「今は分かりません」


「そっか」


「ですが」


 アマリリアは手帳を閉じる。


「帰ったら調べます」


「また増えた」


「かなり」


「楽しそう」


「かなり」


 即答すると、ライルが笑った。


          ◇◇◇


 職人街の入口から見学を始めて、どれくらい経っただろう。


 午後の陽射しが少し傾き始め、建物の影が通りへ長く伸び始めていた。


 朝から中央市場を見て、荷車広場を歩き、昼食を挟んで職人街へ来た。


 当初予定していた三つの場所は、これで一応すべて見たことになる。


「今日はここまでにするか?」


 ハロルドが静かな声で尋ねた。


 今度は本当に、周囲へ響かない声量だった。


「お父様」


「何だ」


「完璧です」


「何の話だ」


「声量です」


「もういい!」


 それでも前ほど大きくない。


 ゼインが少しだけ笑った。


「旦那様、かなり上達されました」


「お前まで言うな」


「褒めております」


「最近それで何でも済ませていないか?」


「便利ですので」


「全員同じことを言うな!」


 今度はアマリリアもライルも笑った。


「それで?」


 ハロルドが娘を見る。


「まだ見るのか」


 アマリリアは一度、職人街の奥を見た。


 気になるものは、まだいくらでもある。


 別の工房。


 別の徒弟。


 染色。


 革。


 木材。


 共同輸送。


 倉庫。


 道路工事。


 旧様式の通知。


 救済制度。


 数え始めれば終わらない。


「……今日は、ここまでにいたします」


 そう答えると、ハロルドだけでなくライルまで少し驚いた顔をした。


「本当に?」


「何です、その反応」


「いや」


「殿下」


「止めるの大変かと思ってた」


「私を何だと思っております?」


「気になったら全部見る人」


「朝と同じではありませんか」


「でも今日は自分で止めた」


「成長です」


「自分で言う?」


「今日は言います」


 アマリリアは少し笑った。


「見れば見るほど、今日一日で全部分かるわけがないと分かりましたので」


 それは、朝にはなかった感覚だった。


 最初は、見学に来れば答えが増えると思っていた。


 実際には逆だ。


 答えより、問いの方が増えた。


 けれど、それを失敗だとは思わない。


「殿下」


「何?」


「今日一番分かったこと」


「何?」


 アマリリアは少し考えた。


「分かったと思った時ほど、もう一つ先を見る必要があることかもしれません」


 ライルは数秒黙った。


「難しいな」


「ええ」


「でも」


「何です?」


「君となら、やれそう」


 その言葉に、アマリリアは少しだけ息を止めた。


「……殿下」


「何?」


「今、それを仰います?」


「今だから」


「市場です」


「もう終わりだろ?」


「……」


 返せない。


 確かに見学は一区切りついた。


 つまり。


 朝から何度も逃げ道に使っていた言葉が、もう使えない。


「アマリリア?」


「何です?」


「市場、終わったよ」


「知っております」


「じゃあ」


「殿下」


「はい」


「今から帰ります」


「その前に?」


「何がです?」


「デート」


「……」


 来た。


 朝から何度か話題に出ていた。


 市場見学のあと。


 もし時間があれば。


 少しだけ。


 デート。


 アマリリアは反射的に父を見る。


 ハロルドは、もう既にこちらを見ていた。


「……」


「……」


 視線が合う。


「お父様」


「何だ」


「そのお顔は」


「何も言っていない」


「言っております」


「顔では何も言えん」


「十分です」


 ライルが笑う。


 ゼインは完全に他人事の顔をしている。


 ディーンに至っては、少しだけ空を見ていた。


「殿下」


「何?」


「皆様が見ております」


「じゃあ、聞かない?」


「……」


「嫌ならやめる」


 その一言で、アマリリアの胸の中にあった慌ただしさが少し落ち着いた。


 また。


 押さない。


 待つ。


 市場見学で何度も見た、ライルの好きなところ。


「嫌ではございません」


 アマリリアは小さく答えた。


「本当?」


「はい」


「じゃあ」


「ただし」


「何?」


「長くは駄目です」


「伯爵?」


「お父様もですけれど」


 アマリリアは少しだけ笑った。


「今日は、少し疲れましたので」


 ライルの表情が柔らかくなる。


「分かった」


「それと」


「うん」


「玉ねぎ」


「覚えてた?」


「当然です」


「じゃあ夕食?」


「それは王宮へ戻ってから相談いたします」


「半分勉強、半分デート?」


「……」


「アマリリア?」


「少しなら」


 言った瞬間。


 ライルの顔が明らかに明るくなる。


「殿下」


「何?」


「お顔」


「嬉しいから」


 その返事を聞き、アマリリアも少しだけ笑った。


 すると、後ろから深いため息が聞こえた。


「市場見学は終わったんだな」


 ハロルドだった。


「お父様?」


「なら、ここからは私も父親として判断する」


「何をです?」


「デート時間だ」


「なぜお父様が決めるのです!」


「護衛兼父親だからだ!」


「関係ございません!」


「ある!」


「ありません!」


 職人街の近くにいた人々が、また何人か笑う。


「また親子喧嘩してるぞ」


「兄ちゃん頑張れ!」


 朝から何度聞いたか分からない種類の声が飛ぶ。


 ライルが肩を震わせる。


「殿下!」


「ごめん、でも」


「笑わないでくださいませ!」


「無理」


 アマリリアも結局、少し遅れて笑った。


 朝より疲れている。


 手帳は書き込みだらけだ。


 分からないことも、朝よりずっと増えた。


 それでも。


 来てよかった。


 その気持ちは、もう揺らがなかった。


          ◇◇◇


 職人街を出る前、アマリリアは一度だけ振り返った。


 鍛冶工房からは、もう金槌の音が戻っている。


 間違って届いた鉄材は交換手続きへ回され、今日の作業は別の材料で続けるらしい。


 木工房では、フィンが今度は小さな板を一枚ずつ運んでいた。


 先ほど助けに入った年配職人が何かを言い、少年も不満そうな顔をしながら頷いている。


「見てる?」


 ライルが隣で尋ねる。


「ええ」


「何を?」


「今日見たものを、忘れないように」


「手帳に書いてるだろ?」


「それだけでは足りません」


 アマリリアはゆっくり職人街から視線を戻した。


「書類には、きっと整理して書きます」


「うん」


「でも、整理したら消えるものもございます」


「音とか?」


「匂いも。表情も。困っていた農夫の方の顔も」


 ライルは少しだけ黙った。


「なら、また来ればいい」


「……」


「一回で全部覚えなくても」


 アマリリアは横を見る。


「殿下」


「何?」


「それも、よいです」


「褒められた?」


「かなり」


「ありがとう」


「本当に慣れましたね」


「君も」


「何がです?」


「頼ること」


 アマリリアは一瞬だけ言葉に詰まった。


 けれど今度は、否定しなかった。


「……そうかもしれません」


「そっか」


 二人は並んで歩き出す。


 その少し後ろを、ハロルドとゼイン、ディーンが続く。


 市場見学は、今日で一度区切りになる。


 けれど。


 その結果として増えた問いは、ここから先へ続いていく。


 ルーデ村へ届かなかった新しい書類。


 救済制度を知らない人。


 共同輸送で生まれた取り違えの可能性。


 道路工事による経路変更。


 工房ごとの徒弟制度。


 平均や報告書の外へ落ちるもの。


 どれも、すぐに答えを出す必要はない。


 まず調べる。


 比べる。


 必要なら、変える。


 その時は。


 一人ではなく。


「殿下」


「何?」


「帰りましたら、今日の内容を一緒に整理していただけます?」


 ライルが少しだけ驚いたあと、すぐに笑った。


「もちろん」


「かなり量がございますけれど」


「知ってる」


「途中で嫌にならないでくださいませ」


「ならないよ」


「本当です?」


「君とやるなら」


 また。


 そういうことを言う。


 アマリリアは少しだけ頬を熱くしたものの、今度は「市場です」と逃げなかった。


「……では、お願いいたします」


「うん」


 その返事が、思ったより嬉しかった。


 そして一行が職人街を離れようとした時。


 後方から、急いで駆けてくる足音が聞こえた。


「すみません!」


 振り返る。


 先ほどの鍛冶工房にいた若い職人だった。


 手には、あの間違って届いた鉄材の荷札を持っている。


「さっきの話、まだ気になりますか?」


 息を整えながら、職人が尋ねる。


 アマリリアはライルと顔を見合わせた。


「ええ」


「だったら」


 若い職人は荷札を差し出した。


「これ、交換先を調べたら、同じ間違いがもう一軒出てるそうです」


 アマリリアの表情が変わる。


 一件だけではない。


「どちらの工房です?」


「この先の刃物工房です。向こうには逆に、うちが注文した農具用の鉄が届いてる」


「……」


 ライルもすぐに意味へ気づいた。


「入れ替わった?」


「多分」


 職人が頷く。


 アマリリアは荷札を見る。


 偶然一つ混ざっただけではない。


 もし二つの工房の荷が逆に届いているなら、途中のどこかで一対一の取り違えが起きた可能性が高い。


 そして。


 それなら、調べる場所も少し絞れる。


「殿下」


「うん」


「市場見学」


 一度区切ると決めたばかりだった。


 だから。


 アマリリアは少しだけ迷う。


 けれど、すぐに首を横へ振った。


「今日は戻ります」


 ライルが少し驚く。


「いいの?」


「はい」


 アマリリアは荷札をもう一度見てから、職人へ向き直った。


「ただ、その情報だけお借りしてもよろしいでしょうか。帰ってから確認いたします」


「もちろん」


「ありがとうございます」


 若い職人が戻っていく。


 ライルはその背中を見送ったあと、アマリリアへ視線を戻した。


「追わないんだ」


「追いたいです」


「うん」


「かなり」


「うん」


「でも」


 アマリリアは少し笑った。


「全部今日やる必要はございません」


 ライルの表情も柔らかくなる。


「成長したな」


「自分でもそう思います」


「自分で言った」


「今日は言います」


 二人で笑う。


 けれど。


 手帳には、また一つだけ新しい項目が増えた。


『鉄材取り違え:二工房で相互入替の可能性。共同倉庫・第二倉庫経由を後日確認』


 市場見学は終わった。


 だが。


 今日一日で見つけたものは、王宮へ戻ってからの方がむしろ大きく動き始めるのかもしれなかった。

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