↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/46

第45話 古い書類で困っていた農夫を助けようとしたら、制度を変える前に届いていない理由を知る必要がありました



 中央市場を抜けて荷車広場へ足を踏み入れた瞬間、アマリリアは、先ほどまでとはまるで違う種類の騒がしさに包まれた。


 中央市場では、店主たちの威勢のよい呼び込みや客同士の会話、値段を巡る交渉の声が絶えず飛び交っていた。対してこちらでは、人の声よりも荷車の車輪が石畳を削る音や、木箱を積み下ろす鈍い響き、馬を誘導する御者たちの掛け声の方が強く耳へ届く。


 広場の周囲には大小いくつもの倉庫が並び、その前を荷物を抱えた人々が忙しなく行き交っていた。積み荷を降ろしたばかりの荷車もあれば、別の品を積み直してこれから市場や王都各地へ向かおうとしているものもある。中央市場より空間そのものは広いはずなのに、動いている物の大きさが違うせいか、こちらの方がずっと窮屈に感じられた。


 アマリリアは通行を妨げない位置へ寄り、広場全体へ視線を巡らせる。


「市場より広いのに、こちらの方が詰まって見えますわね」


「人じゃなくて、荷車が多いから?」


 隣に立つライルも、広場を見渡しながら尋ねた。


「それもあると思います。荷車は、人一人が歩くよりずっと広い範囲を使いますもの」


 一台が方向を変えるだけでもかなりの空間が必要になる。そこへ荷下ろし中の車、順番を待つ車、空荷で広場から出ていく車まで混ざっているのだから、広場そのものが広くても流れが滞って見えるのは当然なのかもしれない。


 もっとも、今のアマリリアが一番気になっているのは、広場全体の動きではなかった。


 少し先に、簡素な屋根のついた受付所がある。その前で、一人の若い男が書類を握りしめたまま、何度も同じ場所を行き来していた。


 年齢は二十代前半ほどだろうか。日に焼けた顔に、まだ土の汚れが残る作業着。近くに停められた荷車には麻袋が十数個積まれており、袋の口から乾燥豆らしきものが覗いている。


 男は一度受付窓口へ向かい、職員から何かを説明されると頷いた。そのあと少し離れた別の窓口へ行ったものの、そこでも何かを言われたらしく、困った顔で書類を見直しながら再び最初の窓口へ戻っていく。


「……三回目ですわね」


「数えてた?」


「気になりましたので」


 ライルが少し笑ったが、アマリリアは青年から視線を外さなかった。


「先ほど見えた書類ですが、古い様式だと思います」


「分かるの?」


「品目欄の位置と、荷主記載欄の形式が先ほど検査官の方から教えていただいた旧様式と一致しております」


「一瞬見ただけで覚えたの?」


「当然です」


「やっぱり普通じゃないな」


「殿下」


「褒めてる」


「でしたら、ありがとうございます」


 以前なら反射的に否定していたかもしれないが、最近は褒められた時にそのまま受け取れることも増えた。もっとも、今はそんな自分の変化より、困っている青年の方が気になる。


「すぐ聞きに行く?」


 ライルが尋ねた。


 アマリリアは一度だけ青年を見たあと、すぐには動かなかった。


「もう少しだけ見ます」


「何で?」


「私たちが、原因を分かったつもりになっている可能性があるからです」


 古い書類を持っている。そのせいで手続きが進んでいない。


 そこまでは、おそらく間違っていない。


 だが、なぜ古い書類を持ってきたのかまでは分からない。本人が新様式への更新を怠ったのか、誰かから古い用紙を渡されたのか、そもそも制度が変わったこと自体を知らないのか。それによって、問題の意味は大きく変わる。


「昨日までだったら、もう行ってた?」


 ライルが小声で尋ねる。


「多分」


「助けるために?」


「ええ」


「今は待つんだな」


「少しだけですけれど」


「俺の影響?」


 その問いに、アマリリアは一瞬だけ隣を見た。


 ライルは軽い調子で尋ねているように見えるが、どこか期待するような色が表情に混じっている。


「……あると思います」


「本当?」


「何です、その嬉しそうなお顔」


「いや。君に影響を与えているって言われると、ちょっと」


「殿下」


「何?」


「市場です」


「はい」


 ライルは素直に口を閉じたが、表情まで隠せてはいない。


 少し後ろにいるハロルドがそんな二人を見て眉を寄せたものの、今回は大きな声を出さなかった。


 どうやら父も、少しずつお忍びというものを学習しているらしい。


          ◇◇◇


 若い農夫は四度目に最初の窓口へ戻ったところで、とうとう困り果てたように頭を下げた。


「すみません。本当に、どこを直せばいいんでしょうか」


 受付に座っていた職員も、決して追い払おうとしているわけではない。むしろ何度説明しても解決できないことに困っているようだった。


「ですから、この様式では受け付けられないんです」


「でも、村でこれを渡されて……」


「それは分かります。ただ、今はこちらなんですよ」


 職員が新しい用紙を差し出す。


 農夫は受け取って内容へ目を落としたが、すぐに顔を強張らせた。


「……全部、書き直すんですか?」


「申し訳ありませんが」


「荷主の証明も?」


「必要です」


「それ、村長なんです」


「でしたら、村長の署名をいただかないと」


「村、ここから半日以上かかるんですけど……」


 今度は受付職員が黙った。


 アマリリアの表情も変わる。


「殿下」


「うん」


「行きます」


「俺も?」


「当然です」


「よかった」


「何がです?」


「君、一人で集中し始めると周りが見えなくなる時あるから、置いていかれるかと思った」


「……」


「違う?」


「少しだけ」


「今日は素直だな」


「最近の方針です」


「便利」


「取らないでくださいませ」


 二人が受付へ近づくと、ディーンとゼインも少しだけ距離を詰めた。ハロルドは今回は先に口を挟まず、少し離れたところから様子を見守っている。


「失礼いたします」


 アマリリアが声をかけると、農夫と職員が同時に振り向いた。


「何でしょう?」


 職員の顔には僅かな警戒が浮かんでいる。中央市場の検査所では簡易許可証を見せているが、こちらではまだ何者なのか説明していないのだから当然だろう。


「先ほどから、少しお話が聞こえてしまいまして。こちらの方がお持ちになった書類は、旧様式なのですよね?」


 職員が一瞬驚いたように目を瞬いた。


「ご存じなんですか?」


「中央市場の検査所で、様式が変更されたことを少し伺いました。差し支えなければ、なぜ旧様式では受付できないのか教えていただいても?」


 職員は一度農夫を見る。


「構いませんか?」


「俺は別に」


 農夫も疲れた様子で頷いた。


 職員は書類を机の上へ広げ、旧様式と現在のものを並べる。


「旧様式だと、荷主と運送者の責任区分が今の規定に合っていないんです。以前は荷主の署名だけで通せる品目もありましたが、今は運送者側が途中で荷を積み替えたかどうか、どこで保管したかも書くようになっています」


「なぜ変更されたのです?」


「去年、途中で荷を積み替えた際に品目が混ざった事故が何件かあったんです。どの段階で間違ったのか分からなくなってしまって」


「つまり、責任の所在を分かりやすくするため?」


「そう聞いています」


 職員は少しだけ強く頷いた。


 制度が変わり、現場の手続きが増えた。


 それだけなら面倒な規則にも見える。


 しかし、変更されたこと自体には明確な理由があった。


「正式に変わったのはいつです?」


「三月前です」


「三月……」


 アマリリアの眉が僅かに寄る。


「この方の村には、変更の通知が届いていないのでしょうか」


「そこまでは、こちらでは分かりません」


 職員が困ったように首を横へ振ったため、アマリリアは今度は農夫へ向き直った。


「失礼ですが、どちらからいらしたのです?」


「王都から南東へ半日ちょっと。ルーデ村ってところです」


「搬入書類はどなたから受け取りました?」


「村の共同倉庫です」


「新しい様式については?」


「今日、ここへ来て初めて聞きました」


「村の他の方々も?」


「少なくとも俺は聞いたことないです」


「この三月の間にも、村から王都へ荷は出ています?」


「出てると思います。ただ、大きな商会にまとめて渡すことが多いんです。俺みたいに自分で王都まで持ってくる奴はあまりいません」


 そこで、アマリリアの中に一つの可能性が浮かんだ。


 普段は商会側が荷をまとめて受け取り、必要な書類も商会が作成しているのだとしたら、村の共同倉庫に古い書式が残っていても問題が表面化しない。


 実際に本人が使う機会がなければ、古いと気づくことすらないのだ。


「今回は、なぜご自身で?」


「豆がいつもより多く採れたんです」


 農夫は後ろの荷車を指した。


「普段持っていく商会が全部は引き取れないっていうから、余った分だけ自分で売ってみようと思って」


「王都へ来るのは初めて?」


「自分で荷車を引いてきたのは初めてです」


 少しずつ、話が繋がっていく。


 規則は変わった。


 王都から通知も出ているはずだ。


 しかし、それが制度を直接使わない者のところまで本当に届いているとは限らない。


「新しい用紙へ書き直すだけなら、ここではできないんですか?」


 ライルが尋ねた。


「一部はできます」


 職員が答える。


「ただ、この荷物は荷主証明が必要なんです」


「荷主は本人じゃない?」


「村の共同倉庫名義です。村の収穫物をまとめて扱っている形になっていますので」


 アマリリアも改めて書類を見る。


 確かに荷主欄に個人名はなく、共同倉庫の名前が記されている。


「村長の署名が必要なのは、そのためです?」


「はい」


「でしたら、この方が今ここで書けないのも当然ですわね」


「そうなんです」


 職員の顔には苛立ちよりも申し訳なさが浮かんでいた。


「俺だって通してあげたいんですよ。でも、ここで勝手に通したら、あとから何か起きた時に誰が責任を取るんです?」


「あなたですわね」


「そうです」


「だから、規則を無視することはできない」


「はい」


 職員が冷たいわけではない。


 農夫が怠けたわけでもない。


 新しい規則にも理由がある。


 それなのに、今目の前では一人の人間が困っている。


 問題は、その間にあるらしい。


「アマリリア」


 ライルが小さな声で呼んだ。


「何です?」


「今、すごい顔してる」


「どのような?」


「考えてる顔。いつもよりかなり」


「……」


 アマリリアは手帳へ目を落としかけたが、まだ書かなかった。


 先に、もう少し聞く。


「新しい様式は、どのように各地へ通知されました?」


「市場管理局から各領主府と登録商会へ送られています」


「村へ直接ではない?」


「通常は領主府から各村へ回るはずです」


「通常は、ですか」


「はい」


「ルーデ村が属する領地は?」


 農夫が答える。


「グレイス男爵領です」


 その名前を聞き、アマリリアは自分の記憶を探った。大きな領ではなかったはずだ。王都近郊でもなく、行政を担う人員も決して多くない。


「お父様」


 少し離れた場所から見ていたハロルドを呼ぶ。


「何だ」


「グレイス男爵領について、行政の規模をご存じです?」


 ハロルドは農夫と書類へ一度目を向けてから答えた。


「小さい領だ。領都と呼べるほどの町もない。文官も多くはないはずだ」


「では、通知がどこかで止まっている可能性は?」


「ある」


「どこでしょう」


「分からん」


 ハロルドは迷わず言い切った。


「市場管理局から領主府へ届いた時点かもしれない。領主府から村へ回したあとかもしれないし、村役場までは届いていたのに共同倉庫へ伝わっていないのかもしれない。あるいは倉庫側が知っていても、古い用紙を使い続けた可能性もある」


 父はアマリリアをまっすぐ見た。


「また、一つに決めるな」


「分かっております」


「ならいい」


 短い言葉だった。


 だが、今のアマリリアには必要な言葉でもあった。


「では」


 ライルが農夫へ視線を戻す。


「今日、この荷はどうなるんです?」


「それなんです」


 農夫の表情がまた曇った。


「村まで戻って署名をもらってたら、今日のうちには売れません」


「荷物の保管は?」


「倉庫を借りればできます。でも、余計に金が掛かります」


「豆なら一日で傷みはしませんよね?」


 アマリリアが確認すると、農夫は頷いた。


「豆は大丈夫です。でも俺の宿代も馬の餌代も掛かるし、村まで一度戻れば道中の費用もまた必要になります」


 制度変更を知らなかった。


 たったそれだけのことが、王都へ売りに来た一人の農夫へ新しい時間と費用を発生させる。


 アマリリアは一度考えたあと、受付職員へ視線を戻した。


「例外手続きのようなものはございませんの?」


「あります」


「あるのです?」


「緊急時用ですが、荷主へ別の方法で確認が取れれば仮受付できる場合があります」


「別の方法とは?」


「領主府からの証明や、登録商会を通した照会ですね」


 農夫が勢いよく顔を上げる。


「それ、俺でも使えるんですか?」


「あなたの場合は……」


 職員はもう一度書類へ目を落とした。


「村の共同倉庫が、領内の登録集荷所になっていれば可能です」


「多分そうです」


「多分では手続きできなくて……」


「分からないです」


「ですよね」


 職員も困ったように額へ手を当てた。


 また、必要な情報が届いていない。


「確認はできます?」


「時間は掛かりますが、領主府へ照会を出せます」


「今日中に返事は?」


「早ければ来ます。遅ければ明日になるかもしれません」


 農夫の肩が少し落ちる。


「それでも村へ戻るよりは……」


 そう言いながらも、完全に安心した様子ではない。


「待っている間も、お金は掛かりますものね」


 アマリリアが呟くと、ライルが小さく頷いた。


「制度上は助かる方法がある。でも、それを使うにも時間が掛かる」


「ええ」


 アマリリアは周囲へ目を向けた。


 規則を守らなければならない受付職員。


 荷を今日中に売りたい農夫。


 荷物を預かる倉庫。


 照会を受ける領主府。


 制度を作った王都。


 皆が、それぞれの位置では間違ったことをしていない。


「殿下」


「何?」


「十九個目を思い出しました」


「同じ場所でも、立場で見え方が違う?」


「ええ」


 アマリリアは静かに頷いた。


「この方から見れば、書類が変わったせいで困っている。受付の方から見れば、規則を守らなければ自分が責任を負うことになる。そして王宮から見れば、そもそも事故を防ぐために作った制度です」


「全部間違ってない」


「はい」


「でも、今この人は困ってる」


「そうです」


 二人の視線が農夫へ向いた。


 アマリリアは少し考える。


「今できることと、今後直すべきことは分けた方がよさそうです」


「今、この人を助けることと、制度全体を変えること?」


「同じではございません」


 アマリリアは受付職員へ向き直る。


「でしたら、まず照会手続きを進めていただくことはできます?」


「できます」


「その間、この荷車はどこかへ移せますか?」


「一時待機区画があります。最初の二刻までは料金も掛かりません」


「でしたら、そちらを利用していただければ」


 農夫が少し驚いたようにアマリリアを見る。


「いいんですか?」


「私が決めることではございません。利用できる制度があるのでしたら、使えばよいと思っただけです」


 職員も頷いた。


「今なら空きがあります。案内しますよ」


「お願いします」


 農夫の表情に、ようやく少し安堵が戻った。


 職員も立ち上がり、近くにいた別の係員へ声をかける。


 目の前の問題は動き始めた。


 けれど、アマリリアはそれを「解決した」とは思えなかった。


 今日は、たまたま照会できることが分かった。一時待機区画にも空きがあった。


 ならば、同じように困っている人が他にもいたらどうなるのだろう。


          ◇◇◇


 農夫が荷車を待機区画へ移す間、アマリリアたちは受付所の脇へ移動した。


「助かったな」


 ライルが言う。


「まだです」


「照会が通るか分からないから?」


「それもございます。でも、今日見つけたのはこの方一人でしょう?」


「うん」


「同じことがどれだけ起きているのか分かりません」


「調べたい?」


「はい」


 今度は迷わず答えた。


「旧様式で持ち込まれる件数。どの地域から多いのか。どの段階で通知が届いていないのか。それから、例外手続きを利用した場合の平均待ち時間も――」


「増えた」


「何がです?」


「質問」


「……」


「十八じゃないよな?」


「現地へ来れば増えるのは当然です」


「今何個?」


「数えておりません」


「怖い」


「殿下」


「冗談」


「半分?」


「少し」


「皆様、本当にその返答がお好きですわね」


 アマリリアは呆れた声を出したものの、口元には少し笑みが浮かんでいた。


 そこへゼインが静かに近づいてくる。


「お嬢様」


「何です?」


「先ほどの農夫の方について、一つ気になることがございます」


「何でしょう」


「旧様式の用紙を村の共同倉庫でもらった、と仰っていましたね」


「ええ」


「でしたら、古い用紙そのものがまだ大量に残されている可能性もございます」


 アマリリアの目が少し大きくなる。


「使い切るまで、そのまま?」


「あるいは制度変更を知らず、旧様式を新しく複製し続けている可能性もあります」


「……なるほど」


「十九個目だな」


 ライルが言う。


 アマリリアもすぐに意味を理解した。


 ゼインはベスター伯爵家の実務も知っている。書類や備品の管理、古いものを廃棄して新しいものへ切り替える作業を身近に見ているからこそ、アマリリアとは違うところへ目が向いたのだろう。


「ゼイン」


「はい」


「ありがとうございます。私には出なかった視点です」


「お役に立てたのでしたら何よりです」


 ゼインが静かに一礼したところで、少し離れていたハロルドが口を開いた。


「私も考えていた」


「お父様」


「何だ」


「今、ゼインと張り合いました?」


「違う!」


「声」


「……」


 ハロルドが口を閉じる。


 本当に少しずつ学習しているらしい。


「旦那様」


 ゼインが落ち着いた声で告げた。


「何だ」


「お忍びですので」


「分かっている」


「よろしい声量です」


「お前まで私を評価するな!」


 結局、少しだけ声が大きくなった。


 アマリリアが無言で目を細めると、ハロルドもそれへ気づいたらしい。


「何だ」


「何も」


「言え」


「お忍びです」


「分かった!」


 隣でライルが肩を揺らした。


「殿下」


「ごめん。でも、伯爵も頑張ってるなと思って」


「何をです?」


「普通のお父さん」


 アマリリアは一瞬だけハロルドを見る。


 伯爵であり、領主でもある。


 けれど今、市場の人から見れば、娘のことを心配して少し声が大きくなる父親くらいにしか見えないのかもしれない。


「まあ」


「何?」


「少しだけ分かります」


 ハロルドは意味が分からないらしく眉を寄せた。


「何がだ?」


「秘密です」


「リリア!」


「声」


「……」


 また黙った。


 今度こそライルが堪えきれず笑い、アマリリアも少しだけ口元を緩めた。


          ◇◇◇


 しばらくすると、先ほどの農夫が戻ってきた。


 荷車を待機区画へ移したらしく、今は書類だけを手にしている。


「助かりました」


 青年はアマリリアたちへ頭を下げた。


「まだ照会は終わっておりませんでしょう?」


「はい。でも、馬を道でずっと待たせなくていいだけでも助かります」


「そうですか」


 先ほどより少し明るくなった表情を見て、アマリリアの胸も僅かに軽くなる。


「一つだけ、伺っても?」


「まだあるんですか?」


 農夫が驚いた。


「申し訳ございません」


「いや、もう何個でも」


「本当です?」


「え?」


「お嬢様」


 ゼインがすぐ横から口を挟んだ。


「今のは冗談かと」


「……」


 危ない。


 少しだけ本気にしかけた。


「一つです」


「はい」


「村へ戻られたら、新しい書類へ変わったことを他の方にも伝えていただけます?」


「それはもちろん」


「それから、もし覚えていらしたら、古い用紙がどこから出てきたのかも確認していただけませんか。共同倉庫にまだ残っているのか、それとも今も複製しているのか」


 農夫は少し考えた。


「多分、倉庫の棚に束でありますよ」


「束で?」


「かなりあった気がします」


「どのくらい――」


 そこまで聞きかけて、アマリリアは自分で止まった。


「……いえ。今は分からないですよね」


「はい」


「村では、あの用紙がまだ正しいものだと思っている?」


「多分。少なくとも俺はそう思ってました」


 アマリリアの表情が少し変わる。


「では、今日あなたがここで困らなかったら、村ではまだ変更に気づかなかった可能性がある?」


 農夫はゆっくりと頷いた。


「そうかもしれません」


 制度が変わって、三月。


 それでも、その変更が届いていない場所がある。


 そして問題が起こるまで、届いていないという事実そのものに誰も気づかない。


「殿下」


「うん」


「制度を作ることと、それが届くことは別なのですね」


 ライルの表情も真面目になる。


「王宮で通知を出せば終わりじゃない」


「はい。届いたか、意味を理解できたか、実際に使える状態になったか。そこまでいかなければ、現場では変わったことになりません」


 二人の間へ少しの沈黙が落ちる。


 その会話を聞いていたハロルドが、今度は静かな声で口を開いた。


「リリア」


「何です?」


「領地でも同じだ」


 アマリリアが父を見る。


「命令書を出した。村長へ通知した。それだけで終わったと思いたくなることはある」


「ええ」


「だが、実際に読む者が内容を理解できるか。必要な人間へ回るか。現場でその通りに動けるかは別だ」


 ハロルドも、農夫が持っている旧様式の書類へ目を向ける。


「紙を送っただけでは、届いたとは言えない」


 アマリリアはゆっくり頷いた。


「お父様も、そのような経験が?」


「ある」


「どのような?」


「今話すと長くなる。また今度だ」


「逃げました?」


「時間は有限だ」


「王妃様の言葉を取らないでくださいませ」


「便利だからな」


「お父様まで!」


 ライルが吹き出し、何の話か分からない農夫までつられるように笑った。


 少しだけ重くなっていた空気が、それで柔らかくなる。


          ◇◇◇


 照会結果が出るまではもう少し時間が掛かるらしく、農夫は受付近くの待機所で待つことになった。


 アマリリアたちも、そこで一度区切りをつけ、荷車広場の奥へ向かう。


「助けなくていい?」


 歩き始めたところで、ライルが小さく尋ねた。


「何をです?」


「あの人。最後まで見届けなくても」


 アマリリアは一度だけ後ろを振り返った。


 農夫は新しい様式の用紙を受け取り、受付職員から書き方を教わっている。先ほどまでとは違い、今はアマリリアたちがいなくても手続きが進み始めていた。


「今は、私たちがいなくても進められております」


「うん」


「でしたら、任せます」


「そっか」


「以前の私でしたら、最後まで確認したかもしれません」


「今は?」


 アマリリアは少しだけ考えた。


「全部を自分で終わらせなくてもよいと思えるようになりました」


 口にしてから、自分でも僅かに驚く。


 以前、ライルから褒められた変化でもある。


 自分が嫌だからと先回りして全てを消さない。


 助けるとしても、全部を背負おうとしない。


「アマリリア」


「何です?」


「それ、すごくいいと思う」


「……」


「何?」


「また、そういうことを急に仰る」


「本当だから」


「市場です」


「知ってる」


「人も多いです」


「小声だよ」


「そういう問題では……」


 言いながらも、アマリリアは少し笑ってしまった。


 もう、以前ほど本気で怒ることはできない。


「殿下」


「何?」


「一つ増えました」


 ライルがすぐにこちらを見る。


「何が?」


 一瞬だけ、言葉に詰まった。


「……市場で分かったことです」


「そっち?」


「なぜ残念そうなのです?」


「別に」


「お顔が」


「君もそれ使うじゃん」


「便利ですので」


「それで、何が増えたの?」


 アマリリアは手帳を開き、新しい一文を書き込んだ。


『制度変更は、決定・通知・理解・利用まで届いて初めて現場で機能する』


 そして少し考え、もう一つ続ける。


『届かなかった時は、誰が悪いかではなく、どこで止まったのかを見る』


「これです」


 ライルが横から手帳を覗き込んだ。


「なるほど」


「殿下は?」


「俺?」


「今の件で、何が一番気になりました?」


 ライルは少し考えた。


「救済手続きかな」


「例外対応?」


「うん。あるのに、あの人は知らなかっただろ?」


 アマリリアの目が少し大きくなる。


「職員の方から言われるまで……確かに」


「困った人が自分で探さないと使えない制度なら、使える人と使えない人が出るんじゃない?」


「……殿下」


「何?」


「とてもよいです」


「褒められた」


「今は普通に受け取ってくださいませ」


「ありがとう」


 あまりにも素直に返され、今度はアマリリアが少し止まった。


「何?」


「慣れるのが早いです」


「君が慣れろって言ったんだろ?」


「そうでしたわね」


 二人で小さく笑う。


 アマリリアはさらに手帳へ書き加えた。


『救済制度は存在するだけでなく、困っている人が知り、実際に使える状態か確認する』


「また増えた」


「質問ではございません」


「観察項目?」


「学びです」


「分類まで増えたな」


「必要ですので」


「最初の十八個って何だったんだろう」


「……もう意味がございませんわね」


 自分で認めてしまい、二人はまた笑った。


          ◇◇◇


 荷車広場の奥へ進むと、今度は先ほどとは違う光景が広がっていた。


 大きな屋根の下で、複数の商人から集められた荷物が行き先ごとにまとめられている。木札には区域名や市場名が書かれ、一台の荷車へ異なる商会の箱が次々と積み込まれていた。


「これ、昨日伯爵が言ってたやつ?」


 ライルが足を止める。


「荷車の共同利用ですわね」


 アマリリアもすぐに分かった。


 父から聞いた、ミハイル・フォードの商会が広げた仕組み。


 一つの商会だけでは荷車を満載にできない場合、複数の商人の荷をまとめて運び、空荷を減らす。その代わり、仕組みを管理する側は仲介料を取る。


「ミハイル様……」


 アマリリアが小さく名前を漏らすと、ライルが横を見る。


「ここにいる?」


「そうではなく、仕組みの方です」


「ああ」


「本人がここにいなくても、既にこれだけ影響があるのですね」


 荷車は今も目の前で動き続けている。


 誰かが作った仕組みが、その本人の姿などなくても、多くの商人や御者の日常へ組み込まれている。


「会いたくなった?」


 またライルが尋ねた。


「殿下、昨日からそれがお好きです?」


「気になるから」


「何が?」


「君がどう思ってるか」


 少しだけ真面目な顔だった。


「別に、会わせたいから聞いてるわけじゃないよ」


「分かっております」


 アマリリアは一度手帳を閉じる。


「前よりは、会ってみたいと思っております」


「そっか」


「ですが、今日すぐではございません」


「何で?」


「まだ自分で見たいからです。ミハイル様のお話を先に伺ってしまえば、その方の見方に引っ張られるかもしれませんでしょう?」


 アマリリアは広場全体へ視線を向けた。


「ですから先に、私自身の中へ現場を入れておきたいです」


 ライルは数秒黙ってから、小さく頷いた。


「いいと思う」


「殿下」


「何?」


「また一つ……」


「増えた?」


「……」


「好きなところ?」


「違います!」


「今、間があった」


「気のせいです」


「絶対あった」


「市場です!」


 アマリリアは顔が熱くなるのを誤魔化すように少し早足になった。


 ライルは笑いながら追いつき、また自然にこちらの歩調へ合わせる。


 そのことにも気づいた。


 けれど、今度は言わない。


 今日はもう、増えすぎている。


          ◇◇◇


 荷車広場の中央では、ちょうど一台の大型荷車へ複数の荷物を積み込んでいるところだった。


 アマリリアがしばらく眺めていると、責任者らしい男が木札と箱を何度も照合し、商会名と行き先を確認している。


「荷が混ざらないようにしているのですわね」


「多分」


 ライルも同じ作業を見る。


 異なる商会の荷を一台へまとめれば効率は上がる。しかし一度でも荷を取り違えれば、先ほど中央市場で聞いたような品目混在や申告違いへ繋がる可能性もある。


「効率を上げると、確認するものも増えますのね」


「便利になるだけじゃないんだな」


「ええ」


「それでも使う」


「得られるものの方が大きいからでしょう」


「問題が出たら?」


「直します」


「また別の問題が出たら?」


「また直します」


 ライルが少し困ったように笑った。


「終わらないな」


「人の暮らしですもの」


 口から自然に出た言葉に、アマリリア自身が少し驚いた。


「どうした?」


「今、少し王妃様のようなことを申し上げた気がします」


「かなり影響受けてるな」


「ええ」


「俺からも?」


「……」


「そこは?」


「市場です」


「逃げた」


「違います」


「じゃあ」


「殿下」


「はい」


 二人が笑っている少し後ろで、ハロルドはその様子を眺めながら深く息を吐いた。ただし、今度は大声で割り込んでこない。


「旦那様」


 ゼインが声をかける。


「何だ」


「市場見学は順調ですね」


「ああ」


「お嬢様も楽しんでいらっしゃいます」


「ああ」


「殿下も」


「……ああ」


「でしたら、よろしいのでは?」


 ハロルドはしばらく黙っていた。


「市場見学はな」


「はい」


「それ以外は、まだ判断しない」


「お二人は既に正式婚約されておりますが」


「ゼイン」


「はい」


「今それを言うな」


「失礼いたしました」


「全然そう思っていないだろ」


「少しは」


「お前まで!」


 思わず上がった声に、近くの荷運び人が何人かこちらを見る。


 前を歩いていたアマリリアもすぐに振り返った。


「お父様!」


「何だ!」


「声です!」


「分かっている!」


 ハロルドが今度こそ口を閉じる。


 隣では、ライルがまた笑っていた。


「殿下」


「無理」


「今日は何度目です?」


「数えてない」


「私もです」


 とうとうアマリリアまで笑ってしまった。


          ◇◇◇


 昼前。


 荷車広場を一通り見終えた頃には、アマリリアの手帳は朝よりずっと重くなったように感じられた。


 実際に紙の枚数が増えたわけではない。文字や矢印、補足の書き込みが余白まで埋め尽くし、最初に用意していた十八の質問など、もうどこまで消化したのか分からないほど新しい情報が増えている。


「十八」


 ライルが手帳を見ながら言う。


「まだ仰います?」


「今何個?」


「数えないでくださいませ。質問と観察項目と学びが混ざっておりますので、もう単純には数えられません」


「完全に予定崩れてるな」


「現場へ来た結果です」


「嫌?」


「まさか」


 アマリリアは迷わず答えた。


「むしろ、予定通りにいかなくてよかったです」


 ライルが少し目を瞬く。


「前の私なら、事前に決めた十八項目を全部確認することへ拘っていたと思います」


「今は?」


「現場で気になったことを追う方がよいと思います。ただし、全部追えば今日中には終わりません」


「それはそうだな」


「ですから、荷車広場はここまでにいたします」


「次は職人街?」


「その前に昼食です」


 ライルの顔が明らかに嬉しそうになる。


「何です?」


「いや。ちゃんと休むんだなと思って」


「王妃様とお父様から、必ず休憩を入れるよう強く言われましたので」


「自分では?」


「必要だと思います」


「本当?」


「……少し疲れました」


「素直」


「最近の方針です」


「便利」


「殿下」


 笑うライルを見て、アマリリアも少し笑った。


 実際、思っていた以上に疲れている。


 歩いて、人を見て、話を聞き、頭の中で整理して手帳へ残す。一つ一つは難しいことではないのに、それを繰り返すだけで想像以上に頭を使うらしい。


 それでも、嫌ではない。


「殿下」


「何?」


「市場見学、来てよかったです」


「今日三回目くらい」


「今回は意味が違います」


「どう違う?」


 アマリリアは少し考えた。


「知らないことが多いと分かったことです」


 ライルは何も言わず続きを待つ。


「以前の私でしたら、知らないことは少し怖かったと思います。でも今は、知らないのでしたら知ればよいと思えます」


 ライルの表情がゆっくり柔らかくなった。


「それ」


「何です?」


「好き」


「……」


「考え方が」


「殿下!」


「先に言っただろ」


「今、一瞬違う意味かと!」


「違う意味でも好きだけど」


「市場です!」


「もう昼休みだよ」


「そういう問題ではございません!」


 アマリリアの顔が一気に熱くなった。


 少し離れた場所にいたハロルドが、明らかにこちらを見ている。


「……殿下」


「何?」


「お父様に聞こえたかもしれません」


「多分」


「……」


 案の定、ハロルドがこちらへ歩いてくる。


「殿下」


「はい」


「昼食は私も同席します」


「伯爵、まだ何も――」


「昼食です」


「はい」


「市場見学です」


「分かってます」


「そのあとも――」


「お父様!」


 アマリリアが割って入った。


「何だ!」


「今は昼食のお話でしょう!」


「だから言っている!」


「お父様も殿下も少し落ち着いてくださいませ!」


 近くを歩いていた荷運び人が、堪えきれないように笑った。


「兄ちゃん、大変だな!」


 ライルまで完全に笑ってしまう。


「殿下!」


「俺、何もしてない!」


「しております!」


「何を?」


「色々です!」


 アマリリアは頬を赤くしたまま、先に休憩場所へ向かって歩き出した。


 少し遅れてライルが隣へ並ぶ。


「アマリリア」


「何です?」


「怒った?」


「少し」


「ごめん」


 すぐに謝る。


 しかも、今度は本当に反省した顔だった。


 それがまた少しずるい。


「殿下」


「何?」


「少しだけです」


「そっか」


「それと……嫌ではございません」


 今度はライルの足が止まりかけた。


「何が?」


「……言いません」


「今の流れなら分かるだろ」


「言いません!」


「じゃあ待つ」


 また、その答え。


 アマリリアは困ったように少し笑い、そのまま隣を歩いた。


          ◇◇◇


 昼食のために利用することになったのは、荷車広場と職人街の間にある小さな食堂だった。


 王宮側が事前に貸し切っているわけではなく、今日は本当に普通の客として利用する。護衛の一部は外へ残り、ディーンとゼイン、それにハロルドだけが同じ店内へ入った。


 中には御者や職人らしい客が十人ほどいたが、アマリリアたちが入っても特別大きな注目は集めなかった。それが少しだけ心地よかった。


「何食べる?」


 ライルが壁に掛けられたメニュー板を見る。


「おすすめは何でしょう?」


 アマリリアが近くの店員へ尋ねると、女性は迷わず答えた。


「豆と燻製肉の煮込みだね。今日は豆がたくさん入ったから安いよ」


「豆……」


 アマリリアは反射的に入口の方を振り返った。


「どうした?」


「いえ」


 先ほどの農夫も豆を運んできていた。


 この食堂の豆と直接関係があるかは分からない。それでも、広場に荷が入り、どこかで売られ、それが店の値段へ繋がっているのだと思えば、今まで別々だったものが少しずつ一つの流れに見えてくる。


「それにいたします」


「俺も」


「私もだ」


 ハロルドまで同じものを頼み、ゼインとディーンも続いた。


 席へ着くと、アマリリアは早速鞄から手帳を取り出そうとした。


「休憩」


 ライルがすぐに止める。


「見直すだけです」


「休憩」


「少しだけ」


「アマリリア」


「何です?」


「頭も休めないと」


「……」


 正しい。


 非常に。


「五分」


「短い」


「では十分」


「食べ終わるまで」


「殿下」


「市場見学」


「……」


 自分の言葉を利用された。


「分かりました」


 アマリリアが素直に手帳を鞄へ戻すと、ハロルドが少し驚いた顔をした。


「素直だな」


「何です?」


「いや」


「お父様も休んでくださいませ」


「分かっている」


「その手に持っている地図は?」


「これは――」


「休憩です」


「……」


 今度はハロルドが黙った。


 ライルが楽しそうに笑う。


「伯爵も一緒だな」


「殿下」


「何でしょう」


「今は妙な同盟を組まないでください」


「何の同盟だ?」


 ハロルドが眉を寄せる。


「リリアを休ませる同盟なら組むぞ」


「お父様!」


「必要だろう!」


「分かっております!」


 隣の卓にいた職人らしい男が声を上げて笑った。


「娘さんに弱いな、親父さん!」


 ハロルドの顔が固まり、アマリリアは思わず俯く。


 ライルの肩は完全に震えていた。


「殿下」


「ごめん」


「まだ何も申し上げておりません」


「無理」


 結局、アマリリアまで少し笑ってしまった。


 普通の食堂で、周囲には自分たちの正体を知らない人しかいない。


 ここでは第一王子でも、伯爵令嬢でもなく、娘を心配する父と、その娘と、婚約者。


 その程度にしか見えていないのかもしれない。


 しばらくすると、注文した煮込みが運ばれてきた。


 深い器から立ち上る湯気には、豆と燻製肉、香草の濃い香りが混じっている。


「美味しそう」


 ライルが素直に言った。


 アマリリアはそんな姿を見て、また少しだけ不思議な気持ちになる。


「殿下」


「何?」


「今は、本当に普通の青年にしか見えません」


 言った直後。


 しまったと思った。


 また言ってしまった。


「本当?」


「何です、そのお顔」


「嬉しい」


「食堂です」


「知ってる」


「お父様もいらっしゃいます」


「聞いている!」


 向かいのハロルドが即答した。


「お父様!」


「私は何も言っていない!」


「お顔が!」


「お前までそれを使うのか!」


 周囲でまた小さな笑いが起こる。


 もう諦めたアマリリアも笑いながら、煮込みを一口食べた。


 豆は柔らかく煮込まれており、燻製肉の塩気が染みている。王宮で出される繊細な料理とは違うが、歩き回った身体にはこちらの方が合っているように感じた。


「……美味しいです」


「普通に?」


「普通に」


「よかった」


「ですから、なぜ殿下が嬉しそうなのです?」


「君が楽しそうだから」


 また、何でもないことのように言う。


 アマリリアの顔が少し熱くなったが、今度は怒らなかった。


「そうですか」


「うん」


「でしたら」


 一度息を整えてから、アマリリアもライルを見る。


「私も、殿下が楽しそうで嬉しいです」


 今度はライルが止まった。


「……」


「何です?」


「仕返し?」


「違います」


「本当?」


「本当です」


「そっか」


 ライルの耳が少し赤くなる。


 その様子を見て、今度はアマリリアが小さく笑った。


 向かい側では、ハロルドが深いため息をついている。


「市場見学……」


「お父様?」


「何でもない」


「何です、その遠い目です?」


「何でもない!」


 また店内に笑いが起こった。


          ◇◇◇


 昼食を終えて外へ出る頃には、午前中より陽射しが少し強くなっていた。


 次は職人街入口の小規模市場を見る予定だ。


 だが、アマリリアの頭には先ほどの農夫のことが残っている。


「殿下」


「何?」


「職人街へ向かう前に、農夫の方の照会結果だけ確認したいです」


「全部、自分で終わらせないんじゃなかった?」


「……」


 言われた。


 確かに、つい先ほど自分でそう言ったばかりだ。


「確認することと、手続きを私が最後まで進めることは別です」


「なるほど」


「何です、そのお顔」


「うまく使い分けたなって」


「成長です」


「自分で言う?」


「今日は言います」


「楽しそうだから?」


「かなり」


「そっか」


 二人は再び受付の方へ戻った。


 そこには先ほどの農夫がいて、今度は明らかに表情が明るい。


「どうでした?」


 アマリリアが尋ねると、青年はすぐに笑った。


「通りました」


「照会が?」


「はい。共同倉庫、ちゃんと登録されてたそうです。仮受付してもらえて、今日中に売れることになりました」


 アマリリアの胸が少し軽くなる。


「よかったです」


「本当にありがとうございました」


「私たちは何もしておりません」


 いつものように否定しかけたが、農夫は首を横へ振った。


「いや。待機場所とか照会のこととか、俺一人だったら知らないまま村へ戻ってたかもしれないです」


「……職員の方からは?」


「最初は、新しい用紙へ書き直してって言われました」


「救済手続きについては?」


「嬢ちゃんが聞くまで、俺は知らなかったです」


 近くにいた受付職員が申し訳なさそうに頭を下げる。


「すみません。本来なら、こちらから事情をもっと聞くべきでした」


「なぜ謝るのです?」


 アマリリアはすぐに尋ねた。


「普段、旧様式の方が来た場合は?」


「基本的には新しい用紙へ書き直してもらっています」


「例外手続きは、事情がある方だけ?」


「はい」


「でしたら、その事情を詳しく聞かなければ条件に当てはまるか分からない?」


「……そうなります」


 また一つ、問題が見えた。


 悪意はない。


 けれど窓口は忙しく、一人一人の事情を最初から細かく聞く余裕がない。


「殿下」


「うん」


「救済制度を知っているだけでは足りないのですね」


「窓口側が、使える人を見つけないといけない?」


「ええ。それと、利用する側も、自分が困っている理由をきちんと言える必要があるのかもしれません」


 アマリリアは手帳を開き、新しく書き加えた。


『救済制度があっても、窓口で事情を拾えなければ利用されない』


 農夫が少し不思議そうに二人を眺める。


「本当に、何してる人なんです?」


「勉強中です」


「何の?」


 アマリリアは一瞬だけ詰まった。


「人の暮らし?」


 横からライルが言う。


「殿下」


「違う?」


 アマリリアは少し考えた。


 市場。


 流通。


 制度。


 数字。


 けれど、その最後には必ず人がいる。


「……違いません」


 農夫が声を立てて笑った。


「変な二人だな」


「今日何回目でしょう」


「数えない方がいいんじゃない?」


 ライルも笑う。


「殿下」


「何?」


「市場です」


「はい」


 いつものやり取りに、農夫はまた笑った。


 そして最後に、今度は少しだけ真面目な顔になってアマリリアを見る。


「でも、本当にありがとう」


 今度。


 アマリリアは否定しなかった。


「どういたしまして」


 そう答える。


 それだけのことなのに、自分がまた少し変わったような気がした。


          ◇◇◇


 受付を離れ、今度こそ職人街へ向かう道へ入る。


 中央市場の喧騒とは少し違い、前方からは金属を叩く音や木を削る音が断続的に聞こえていた。


 歩きながら、アマリリアは手帳を一度だけ開く。


 荷車の検査待ち。


 書式の不統一。


 古い様式。


 通知の届かなさ。


 救済制度。


 窓口の忙しさ。


 市場価格。


 入荷時間。


 買い手ごとの価値。


 平均値では消えてしまう差。


 そして、誰も全体を見ていないという問題。


 朝には知らなかったことばかりだった。


「また考えてる?」


 ライルが尋ねる。


「ええ」


「何を?」


 アマリリアは少しだけ歩調を緩める。


「制度を変えるというのは、きっと簡単ではございません」


「今日だけでも分かるな」


「ええ。ですが、変える前に」


 一度手帳を閉じる。


「届いていない理由を知る必要がございます」


 ライルも少し真面目な顔になる。


「新しい書類にしたこと自体が悪いわけじゃない」


「はい。ルーデ村の方々が悪いとも、受付の方が悪いとも言い切れません」


「じゃあ、どこで止まったか?」


「まず、それを知りたいです」


 アマリリアがそう答えると、ライルは静かに頷いた。


「いいと思う」


「殿下」


「何?」


「今日は、そればかり仰いますわね」


「何が?」


「いいと思う、です」


「駄目?」


「いいえ」


 アマリリアは少し笑った。


「嬉しいです」


 今度はライルが僅かに歩みを止めかけた。


「……」


「何です?」


「今の」


「何もございません」


「嬉しいって」


「市場です」


「逃げた」


「逃げておりません」


「じゃあ――」


「殿下」


「はい」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 その後ろではハロルドも何か言いかけたようだったが、今回はやめたらしい。


 それを見ていたゼインが静かに声をかける。


「旦那様」


「何だ」


「今日は随分とお静かになりましたね」


「市場だからだ」


「なるほど」


「何だ、その顔」


「何でもございません」


「絶対何かあるだろ」


「旦那様」


「何だ」


「お忍びです」


「……分かった」


 ついに普通の声量で返した。


 ゼインは僅かに笑ったものの、ハロルドもそれへ気づきながら何も言わなかった。


 どうやら父も、本当に少し慣れてきている。


          ◇◇◇


 職人街の入口が近づくにつれて、空気に混じる匂いが大きく変わっていった。


 炭の煙。


 機械油。


 削ったばかりの木材。


 なめした革。


 熱された金属。


 中央市場で漂っていた果実や香草、焼きたてのパンとはまるで違う。


「ここも、資料では分かりませんわね」


 アマリリアが深く息を吸うと、ライルも周囲を見渡した。


「匂い?」


「ええ。『炭の匂いがする』と文章へ書くことはできますけれど、実際にここへ立った時の感じまでは分かりません」


「今日、それ多いな」


「何がです?」


「見ないと分からないこと」


「ええ」


「ミハイルの手紙」


「分かった」


「ミハイルの手紙」


「……ええ」


 アマリリアは少しだけ歩調を緩めた。


 あの手紙には、市場へ行けとも、特定の商人へ話を聞けとも書かれていなかった。ただ、数字の向こうにいる人々を自分の目で見てみるとよい、という趣旨の言葉があっただけだ。


 最初に読んだ時は、随分と回りくどいことを書く人だと思った。


 今でも、その印象が完全に消えたわけではない。


「少しだけ、分かった気がいたします」


「何が?」


「ミハイル様が、なぜ答えではなく『見てみればよい』というような書き方をなさったのかです」


 アマリリアは前方へ目を向けた。


 職人街の入口には小さな露店がいくつも並び、その奥には工房らしい建物が密集している。開け放たれた扉の向こうでは火が揺れ、金属を叩く乾いた音が一定の間隔で響いていた。その隣では木材を削る職人がおり、さらに少し先では革製品を吊るした店が客と何かを話している。


「答えを先に教えられていたら、私はその答えが正しいかどうかを確認するために市場を見ていたかもしれません」


「今は違う?」


「何があるのか分からないまま来ましたから、色々なものが気になります」


「検査待ちも、玉ねぎの値段も、古い書類も?」


「ええ。それに、今はこの匂いも気になります」


「匂いまで?」


「馬鹿にしていらっしゃいます?」


「してないよ」


 ライルは笑いながら首を横へ振った。


「君が本当に楽しそうだから」


 また、そんなことを自然に言う。


 アマリリアは少しだけ視線を逸らしたが、今度は「市場です」と返さなかった。


 代わりに、自分の胸の中へ浮かんだものを少しだけ確かめる。


 楽しい。


 確かにそうだった。


 朝から歩き続けて疲れているし、聞けば聞くほど分からないことは増えている。それでも、不思議と早く帰りたいとは思わない。


「……楽しいです」


 素直に認めると、ライルが少し目を見開いた。


「本当に?」


「先ほども申し上げたでしょう?」


「言ったけど、今のは何か違ったから」


「何がです?」


「分からない。でも、嬉しそうだった」


 アマリリアは何か言い返そうとして、やめた。


 自分でもそう思うからだ。


「殿下」


「何?」


「今日は、分からないことが増えるほど楽しいのかもしれません」


「朝と言ってること変わったな」


「ええ」


 以前の自分なら、分からないものは早く整理したかった。


 原因を特定し、必要なら排除し、問題を終わらせる。曖昧なまま残しておくことは、どちらかといえば苦手だった。


 けれど今日、中央市場から荷車広場まで歩いてきて、すぐに答えを出さない方がよいことを何度も知った。


 検査待ちには複数の原因があった。


 同じ玉ねぎに見えても、値段が違う理由はいくつもあった。


 古い書類を持ってきた農夫も、本人が怠けていたわけではなかった。


 知らないということは、失敗ではない。


 まだ見ていないというだけなのかもしれない。


「でしたら」


 アマリリアは職人街の入口を見ながら、小さく息を吐いた。


「ここでも、先に決めないようにいたします」


「何を?」


「何が問題なのかを、です」


「問題がある前提でもない?」


 ライルの問いに、アマリリアは少し驚いて彼を見た。


「……そうですわね」


「何?」


「今、私より一歩先へ行かれました」


「え?」


「私は『問題を決めない』と考えました。でも殿下は、『問題があると決めない』と仰ったでしょう?」


「ああ」


「それ、大事です」


 アマリリアは反射的に鞄へ手を伸ばしかけた。


 けれど、途中で止める。


「書かないの?」


「昼食の直後ですので」


「偉い」


「子供扱いしていらっしゃいます?」


「してない」


「本当です?」


「半分くらい?」


「殿下」


「冗談」


 アマリリアは呆れたように息を吐いたが、すぐに笑ってしまった。


 そのまま二人で職人街の入口へ足を踏み入れる。


 中央市場とも荷車広場とも違う一日が、そこでは動いていた。


          ◇◇◇


 職人街入口の小規模市場は、中央市場ほど広くはなかった。


 並んでいる品も食料品より、日用品や加工品が多い。木製の器、革紐、簡素な靴、鍋、包丁、農具、小さな金具、染め布。完成品だけではなく、加工途中らしい木材や革の端切れ、金属片まで売られている。


 アマリリアは最初、商品の値札を見ようとした。


 けれど、すぐに別のものが気になった。


「殿下」


「何?」


「あれ」


 視線の先では、一人の女性が鍋を手に取り、店主と話していた。


「もう少し安いのはない?」


「あるけど、そっちは底が薄いよ。毎日使うなら俺はこっちを勧める」


「でも銀貨二枚も違うじゃない」


「三年使うつもりなら、そのくらい出した方がいい。安い方は一年半くらいで底が歪むかもしれん」


「一年半?」


「火の当て方にもよるけどな」


 女性は二つの鍋を見比べている。


 中央市場でも価格の違いは見た。


 けれど、こちらは少し違う。


「高い方を売りつけようとしている?」


 ライルが小声で尋ねた。


「まだ分かりません」


「さすが」


「今日はもう、それを徹底いたします」


 二人は少し離れた位置から様子を見た。


 店主は高い鍋ばかりを勧めているわけではなかった。


「週に二、三回しか使わないなら安い方で十分だぞ」


「毎日使うよ」


「なら、こっちだな」


「本当に?」


「疑うなら向こうの店でも聞いてこい。多分、同じこと言う」


 店主が顎で示した先には、別の金物屋がある。


 女性は少し悩んだあと、高い方の鍋を買った。


「面白いですわね」


「何が?」


「売る側が、安い方を選ぶ条件まで説明しております」


「信用してもらった方が次も買ってくれるから?」


「それもあるかもしれません」


 アマリリアは今度こそ手帳を取り出した。


 昼食は終わった。


 もう止められる理由はない。


「嬉しそう」


「殿下」


「はい」


 アマリリアは手帳へ書きながら、先ほどのやり取りを思い返した。


 値段だけなら、高い鍋と安い鍋がある。


 だが、実際には耐久性や使用頻度、買い替えまでの期間が関わっている。


 市場で見た玉ねぎと似ている。


 同じように見えるものでも、同じ価値とは限らない。


「職人の方にとっては、価格だけではなく、どれだけ使えるかも商品の一部なのかもしれません」


「聞いてみる?」


「ええ。ただし、あの方がお客様への対応を終えてからです」


「了解」


 少し待ってから、アマリリアたちは金物屋へ近づいた。


「失礼いたします。少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」


「ん?」


 店主は四十代ほどのがっしりした男だった。日に焼けた腕には細かな火傷の跡があり、腰には厚い革の前掛けを巻いている。


「何だい。鍋が欲しいのか?」


「それも少し興味はございますが、今日は市場について勉強しております」


「市場?」


「はい」


 店主はアマリリアとライルを交互に見たあと、少し笑った。


「変わった若夫婦だな」


「違います!」


「婚約者です」


「殿下!」


「何?」


「なぜ毎回訂正なさるのです!」


「大事だから」


 店主が声を上げて笑った。


「婚約中か。そりゃ悪かった」


「いえ……」


「で、何が聞きたい?」


 アマリリアは気を取り直した。


「先ほど、お客様へ二種類の鍋をご説明されていましたでしょう?」


「ああ」


「高い方が長持ちすると」


「するな」


「何が違うのです?」


「底の厚みと、鉄の打ち方だ」


 店主は二つの鍋を並べた。


 見た目だけなら、アマリリアには大きな違いが分からない。


「こっちは安い鉄を薄く延ばしてる。軽いし、作るのも早い。こっちは材料も少し良いし、底を厚くして何度も打ってる」


「何度も打つと?」


「歪みにくくなる。熱も偏りにくい」


「その分、手間が掛かる?」


「そういうことだ」


 アマリリアは鍋を見比べた。


「材料費だけではないのですね」


「当たり前だろ」


 店主は笑った。


「鉄の値段だけで鍋の値段が決まるなら、俺たちみたいなのはいらん」


 その言葉に、アマリリアの手が止まる。


 今日、中央市場では、商品の値段の中に運送や保管、検査待ち、傷みの危険まで含まれていることを知った。


 ここでは、そこへさらに人の技術と時間が加わる。


「一つ作るのに、どのくらい違うのです?」


「物による。安い方なら下ごしらえ済みの板から半日もあれば何個か作れる。高い方は一個にもっと時間を使う」


「その時間も価格へ?」


「入れなきゃ飯が食えないからな」


 あまりにも当然の返答だった。


 それなのに、書類の中では「加工費」という一行で終わる。


 加工費。


 その文字の中に、熱い炉の前へ立つ時間も、何度も鉄を打つ腕の動きも、失敗する可能性も、身につけるまでに掛かった年月も入っている。


「……また増えましたわ」


「何が?」


 ライルが笑う。


「見ないと分からないことです」


 店主が不思議そうに二人を見る。


「兄ちゃんたち、本当に何の勉強してるんだ?」


「人の暮らしです」


 ライルが今度は迷わず答えた。


「殿下、それ気に入られました?」


「結構」


「まあ、間違ってはいませんけれど」


「だろ?」


 店主はよく分からないまま笑っていた。


          ◇◇◇


 金物屋を離れてからも、アマリリアは職人街の店を一つずつ眺めていった。


 革製品の店では、同じ大きさの鞄でも縫い目の細かさや革の厚さで価格が違う。木工品の店では、同じ椅子でも乾燥に掛けた時間によって歪みにくさが変わるという。染め布を扱う店では、染料の産地だけでなく、その日の気温や水の状態によって仕上がりが変わることまで教えられた。


 話を聞けば聞くほど、値札に書かれた数字が単純な数字には見えなくなっていく。


「朝、玉ねぎを見た時」


 アマリリアが歩きながら言った。


「高い、安い、というところから入りましたでしょう?」


「うん」


「今は、鍋を見ても最初に値段を見なくなりました」


「何を見る?」


「なぜこの値段なのか、です」


「同じじゃない?」


「少し違います」


 アマリリアは近くの店先へ並んだ革靴を見る。


「高いか安いかは、私から見た評価です。でも、なぜこの値段なのかを考えるなら、作った方や運んだ方の事情も見なければなりません」


「十九個目?」


「ええ」


 同じ市場を見ても、立場が違えば見えるものが違う。


 朝、自分で追加した観察項目が、ここへ来てますます大きくなっている。


「買う人から見れば銀貨何枚か」


「作る人から見れば?」


「材料と時間と技術。それから、売れなかった時の負担もあるでしょうね」


「運ぶ人から見れば、荷物」


「倉庫から見れば、場所を使う品物」


「王宮から見れば?」


 ライルの問いに、アマリリアはすぐには答えなかった。


 少し前なら「税収」や「流通量」と答えていたかもしれない。


 だが、今は違う。


「……暮らし、でしょうか」


「俺と同じになった」


「殿下の影響かもしれません」


「本当?」


「何です、そのお顔」


「今日はよく言われるから」


「では、少し控えます」


「それは困る」


「なぜです?」


「嬉しいから」


 アマリリアは一瞬黙り、それから小さく息を吐いた。


「市場です」


「戻った」


「便利ですので」


 二人で笑う。


 少し後ろを歩いていたハロルドは、今度は何も言わなかった。


 ただ、アマリリアには分かった。


 父も店を見ている。


 娘と第一王子の距離ばかりを気にしていた朝とは違い、今は職人が並べた品や、荷の出入り、客とのやり取りへも視線を向けている。


「お父様」


「何だ」


「何か気になりました?」


 突然尋ねられたハロルドは少し驚いた顔をした。


「革だな」


「革?」


「ああ。午前中に見た荷車の共同利用では、行き先が同じ荷をまとめていた」


「ええ」


「だが、革や染料は保管条件が違う。何でもまとめればよいわけではない」


 アマリリアは目を瞬いた。


「なるほど」


「湿気を嫌うものもある。匂いが移れば価値が落ちる品もある。荷車の効率だけを追えば、別の損が出る」


「……お父様」


「何だ」


「今日はとても頼りになります」


「今日は?」


「普段もです」


「今、付け足しただろう」


「気のせいです」


「リリア」


「市場です」


「それは殿下に使う言葉ではなかったのか?」


「便利ですので」


 ライルが横で笑い、ゼインまで僅かに口元を緩めた。


 ハロルドは何か言いたそうにしたが、結局はため息だけで済ませた。


 声量については、完全に学習したらしい。


          ◇◇◇


 職人街入口の市場をさらに進んだところで、アマリリアは一軒の小さな木工店の前で足を止めた。


 店頭には木皿や匙、箱、小さな椅子などが並んでいる。


 その中に、同じ形の木皿が二つあった。


 片方は銀貨一枚。


 もう片方は、その半分ほど。


「また値段?」


 ライルが尋ねる。


「ええ。でも、今度はすぐ聞きません」


「見る?」


「はい」


 二つの皿をじっくり比べる。


 高い方は木目が整っている。


 安い方には、小さな節がいくつかあった。


 それ以外は、ほとんど同じに見える。


 店主らしい年配の女性が、そんなアマリリアへ気づいた。


「気になるかい?」


「はい。こちらは、なぜ値段が違うのです?」


「木が違うよ」


「種類が?」


「同じ種類。ただ、こっちは乾燥させるのに長く置いた木だ。安い方は若い木で作ってる」


「使い心地も違うのです?」


「最初はそんなに変わらない。でも若い方は、水を吸うと少し反りやすいね」


「では、高い方が長く使える?」


「ちゃんと手入れすればね」


 まただ。


 鍋と同じ。


 今の見た目だけでは分からない差が、時間の中で現れる。


「ただね」


 女性は続けた。


「安い方が悪いってわけじゃないよ」


「違うのです?」


「子供が使うなら、私は安い方を勧める」


「なぜ?」


「落として割るし、すぐ大きくなるからさ」


 女性が笑う。


「いい物を長く使うのが得な時もある。でも、今必要な物を安く買う方が助かる人もいる。客次第だよ」


 アマリリアはしばらく何も言えなかった。


 中央市場で玉ねぎを見た時にも似た話を聞いた。


 安いことが正しいわけではない。


 高いことが正しいわけでもない。


 誰が、何のために買うかによって価値が変わる。


「殿下」


「うん」


「今日、同じことを何度も違う形で教えられている気がいたします」


「立場で違う?」


「ええ。それと」


 アマリリアは二枚の皿を見る。


「一つの数字だけでは、良い悪いを決められない」


「平均も?」


「そうです」


 市場全体の平均価格。


 平均待ち時間。


 平均運送費。


 それらは必要だ。


 けれど、平均だけを見ていれば、今日出会った農夫のような一人は消えてしまう。


 三月前に制度を変更した。


 大半の地域には届いている。


 もし報告書にそう書かれていれば、問題がないように見えるかもしれない。


 だが、一つの村に届いていなければ、その村の人にとっては届いていないのと同じだ。


「……怖いですわね」


 思わず漏らすと、ライルがこちらを見る。


「何が?」


「数字が」


「君、数字好きだろ?」


「好きです。今も好きです」


 アマリリアはすぐに答えた。


「だからこそ、怖いのかもしれません」


「どういうこと?」


「数字は、とても分かりやすいです。比較できますし、増えたか減ったかも見えます。でも」


 一度言葉を切り、店先に並ぶ木皿へ視線を落とす。


「分かりやすいからこそ、それだけで分かった気になってしまいそうです」


 ライルは何も言わずに聞いていた。


「平均価格が下がった。待ち時間が短くなった。通知率が九割を超えた。そう書かれていれば、改善したと思うでしょう?」


「うん」


「でも、残った一割の中に今日の農夫の方がいるかもしれません」


「……」


「だから、数字を見ないのではなく」


 アマリリアは顔を上げる。


「数字の外へ落ちたものがないか、時々見に来る必要があるのだと思います」


 ライルはしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり笑った。


「やっぱり、君はこういう仕事に向いてると思う」


「またです?」


「うん」


「まだ一日目です」


「一日目だから言ってる」


「なぜ?」


「知らないって分かった時に、知ったふりをしないから」


 アマリリアは返事ができなかった。


 褒められたことが嬉しかったからだけではない。


 少し前の自分なら、本当にそうできていただろうかと思ったからだ。


 自分は賢い。


 少なくとも、そう評価されることには慣れていた。


 学べば大抵のことはできたし、必要なら人を動かすこともできた。


 だからこそ、自分が分かっていないと認めることは、思っていたより難しかったのかもしれない。


 けれど今は、知らないなら知ればいいと思える。


 その隣には、一緒に考えると言ってくれる人がいる。


「殿下」


「何?」


「ありがとうございます」


「うん」


「それだけです」


「分かってる」


「何も足さないでくださいませ」


「まだ何も言ってない」


「お顔が」


「君も本当にそれ使うようになったな」


「便利ですので」


 二人で小さく笑う。


 その時だった。


 少し離れた工房の方から、何かが床へ落ちる大きな音が響いた。


 続いて、男の声が飛ぶ。


「違う! そっちの鉄じゃない!」


 アマリリアたちが振り向くと、開け放たれた工房の入口で二人の職人が慌ただしく動いていた。


 一人は床へ落ちた金属材を拾い、もう一人は積まれた材料の札を確認している。


「どうしたんでしょう」


 ライルが言う。


「まだ分かりません」


 アマリリアはそう答えてから、自分でも少し笑った。


「何?」


「いえ」


「何で笑った?」


「今日、何度目でしょうね。この言葉」


「『まだ分からない』?」


「ええ」


 朝なら、それは少し不安になる言葉だった。


 けれど今は違う。


 まだ分からない。


 ならば、見ればいい。


 話を聞けばいい。


 それでも分からなければ、持ち帰って調べればいい。


「行く?」


 ライルが尋ねる。


 アマリリアはすぐには歩き出さず、工房の様子を数秒だけ見た。


 職人たちは怒鳴り合っているわけではない。落ちた材料を確認しながら、何かを照合している。


 急いで助けに入る必要はなさそうだ。


「少しだけ見てからにいたします」


「了解」


「殿下」


「何?」


「今度は、理由を聞かないのですね」


「分かるようになってきたから」


「何が?」


「君が、先に決めたくないんだろ?」


 アマリリアは一瞬だけ黙った。


 そして、ゆっくり頷く。


「ええ」


 たった一日の市場見学で、自分が何か大きく変わったとは思わない。


 それでも。


 少なくとも朝よりは、少しだけ待てるようになった。


 少しだけ、知らないことを怖がらなくなった。


 少しだけ、自分以外の人が見ている景色を知りたいと思えるようになった。


 職人街の奥から、また金属を打つ音が響く。


 炭の匂いが風に混じり、革を扱う店からは客の笑い声が聞こえてきた。


 アマリリアは手帳を胸元で閉じたまま、工房の方を見る。


 今日知ったことは、もう最初に用意した十八の質問へ収まらない。


 市場の入口で止まる荷車。


 同じ玉ねぎについた違う値段。


 三月前に変わったはずなのに、村では今も使われていた古い書類。


 存在していても、知らなければ使えない救済制度。


 材料だけでは決まらない職人の品の値段。


 どれも、報告書へ書こうと思えば一行や一つの数字へまとめられる。


 けれど、その一行の向こうには人がいる。


 荷を運ぶ人。


 規則を守る人。


 作る人。


 売る人。


 買う人。


 そして、制度を作る側の人間もいる。


 その全てを一度に理解することなど、きっとできない。


 だからこそ。


「殿下」


「何?」


「帰りましたら、調べたいことがございます」


「ルーデ村?」


「まずはそこからです」


「何を調べる?」


「新様式の通知が、どこまで届いたのか。市場管理局からグレイス男爵領へいつ送られたのか。領主府ではどう処理されたのか。そして、村へどのような方法で伝えられたのか」


「制度を変えるんじゃなく?」


「まだ変えません」


 アマリリアは迷わず答えた。


「今日一人の方が困っていたからといって、すぐ制度全体を変えるのは違うと思います。まず、どこで止まったのかを確認いたします」


「そのあと?」


「同じことが他でも起きているか調べます」


「それで?」


「必要なら直します」


「誰と?」


 その問いに、アマリリアは一瞬だけライルを見る。


 少し前なら、自分が調べる、自分が考えると答えていたかもしれない。


 けれど今は、もう答えが違った。


「殿下と」


 ライルの目が僅かに大きくなる。


「それから、必要な方々と一緒に」


「……そっか」


「何です?」


「いや」


「また嬉しそうです」


「嬉しいから」


「市場です」


「知ってる」


「職人街です」


「もっと細かくなった」


 アマリリアは笑った。


 ライルも笑う。


 少し後ろではハロルドが聞こえていないふりをしていたが、その口元が僅かに緩んだのをゼインだけは見逃さなかった。


 そしてアマリリアたちは、先ほど大きな音がした工房へ向けて、ゆっくりと歩き始める。


 制度を変えるのは、そのあとでいい。


 答えを出すのも、そのあとでいい。


 まずは見る。


 話を聞く。


 違う立場から見えるものを比べる。


 そして、届かなかったものがあるのなら。


 なぜ届かなかったのかを知る。


 今日のアマリリアには、それが何より大切なことに思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。