第44話 同じ玉葱なのに値段が違う理由を聞いたら、安い方が得とは限りませんでした
中央市場の野菜売り場へ足を向けたアマリリアは、先ほどから気になっていた二つの店の前で、今度は通行の邪魔にならない位置を選んで立ち止まった。
どちらの店にも玉葱が並んでいる。見た目だけなら、それほど大きな違いはない。片方は少し小ぶりなものが多く、もう片方には大きさの揃った玉が綺麗に積まれている程度だ。色も極端に違うわけではなく、少なくともアマリリアの目には、価格へ大きな差が出るほど品質が違うようには見えなかった。
だが、値札を見ると明確な差がある。
「こちらが一籠で銅貨七枚。隣が十枚」
アマリリアが小声で確認すると、隣のライルも二つの値札を見比べた。
「三枚違う」
「ええ。一籠単位なら小さいですが、毎日購入する店や食堂なら積み重なります」
「安い方が売れそうだけど」
「普通に考えれば、そうでしょうね」
「普通に?」
ライルが横を見る。
アマリリアはすぐには答えず、先ほど検査所で書き込んだ手帳へ一度目を落とした。
原因は一つとは限らない。誰か一人を悪者にしても解決しない。つい先ほど、自分でそう書いたばかりだ。
「先ほどまでの私でしたら、安い方は利益を少なくして客を集め、高い方は利益幅を大きく取っているのではないか、と最初に考えたと思います」
「今は違う?」
「その可能性もあります。でも、まだ決めません」
「じゃあ聞く?」
「その前に、もう少し見ます」
ライルが小さく笑った。
「慣れてきたな」
「何に?」
「君のやり方。最初より待てるようになってる」
アマリリアは一瞬だけライルを見た。
また、こういうところで気づく。本人は何でもないように言うが、自分の変化をきちんと見ている。
「殿下」
「何?」
「市場です」
「今は何も言ってないだろ」
「念のためです」
「警戒されてる」
「日頃の行いです」
少しだけ笑い合ったあと、アマリリアは改めて店先を観察した。
銅貨七枚の店は、店主らしい五十代ほどの男が一人で切り盛りしている。玉葱以外にも人参、芋、葉物野菜が雑多に並び、客が自分で品を選び、店主へ声をかけて量ってもらう形式らしい。
一方、銅貨十枚の店は若い夫婦らしい二人が店に立っていた。野菜は種類ごとに木箱へ分けられ、玉葱も大きさがある程度揃っている。客が選ぶというより、既に一籠ごとに量を整えてあり、そのまま持ち帰れるようになっていた。
「……一籠の量も、まったく同じとは限りませんわね」
アマリリアが小さく呟くと、ライルも気づいたように目を細めた。
「ああ。値札だけ見てた」
「私もです」
「量れば?」
「勝手にはできません。それに、大きさを揃える手間も価格へ入っている可能性がございます」
「選別?」
「ええ」
「じゃあ、やっぱり聞くしかないな」
「はい」
今度は迷わなかった。
アマリリアはまず、銅貨七枚の店へ向かった。
「少しよろしいです?」
「買うのかい?」
店主は玉葱を手にしながら、アマリリアとライルを順に見た。
「買うかどうかは、その……」
アマリリアが一瞬言葉に詰まる。
市場へ来てから二度目だ。
話だけ聞いて何も買わないというのも、商売をしている相手へ失礼なのではないか。その迷いが顔に出たらしい。
「何だ。勉強か?」
「……分かります?」
「さっき果実水の婆さんと話してただろ」
「見られておりましたの?」
「市場じゃ珍しい客はすぐ分かるよ」
店主は笑った。
お忍びとして本当に大丈夫なのだろうか。
身分までは知られていないが、「何か普通とは違う若者たち」という程度には既に認識されているらしい。
「一つだけ聞きたいのです」
「一つで済む顔じゃないな」
店主がそう返した瞬間、横でライルが吹き出しかけた。
「殿下」
「まだ笑ってない」
「絶対笑うところでした」
「少しだけ」
「最近、皆様本当に正直すぎますわ」
その言い方まで可笑しかったのか、店主も肩を揺らした。
「まあ、客が来てない間ならいいぞ」
「ありがとうございます」
アマリリアはすぐに玉葱へ視線を戻した。
「こちらは一籠七枚ですが、隣のお店は十枚でした。理由をご存じです?」
「ああ。そりゃ、うちと向こうじゃ物が違う」
「品種ですの?」
「それも少し違う。だが一番は、入ってきた時間だな」
アマリリアの手が止まる。
「時間?」
「うちのは昨日の午後に入ったやつだ」
「では、昨日売れ残ったもの?」
「そういうこと」
店主は隠す様子もなく頷いた。
「傷んじゃいないし、まだ十分食える。でも、今朝入ったもんと同じ値段じゃ売れんだろ。だから安くしてる」
「保管は?」
「夜は裏の倉へ入れる。今の時期なら一晩くらい何ともない」
「夏はどうなさいます?」
「もっと下げるか、早めに料理屋へまとめて売るな」
アマリリアは手帳へ書き込む。
『安値=品質不良とは限らない。入荷時刻・在庫日数による値下げ』
「料理屋へまとめて売る場合は、さらに安く?」
「量によるな。こっちも残すよりはいい」
「廃棄は出ます?」
「出るよ」
店主の表情が少しだけ現実的なものになる。
「どのくらい――」
そこまで尋ねて、アマリリアは自分で止まった。
「……平均をお聞きしようとしました」
「分かるなら聞くなよ」
「すみません」
「いや、本当に勉強しに来たんだな」
店主はむしろ面白がっているようだった。
「変な嬢ちゃんだ」
「今日は二回目です」
「何が?」
「変わっていると言われたのが」
「まだ増えるぞ」
「困りますわね」
「顔は嬉しそうだけどな」
横でライルが完全に笑った。
「殿下」
「ごめん。でも、本当に楽しそうだから」
「しております」
今度は否定しない。
それだけで、ライルはまた少し嬉しそうな顔をした。
「で」
店主が玉葱を一つ手に取る。
「隣が高いのは、朝一番で入った上に選別してるからだよ。大きさを揃えて、傷のあるのを抜いて、一籠の重さも大体同じにしてる。料理屋なんかはそっちを好む」
「なぜ?」
ライルが尋ねた。
「調理しやすいからさ。大きさが揃ってりゃ切る時間も読める。何十人分も作る店なら、ちょっと高くても手間が減る」
アマリリアは手帳へ書こうとして、一度ペンを止めた。
安いか、高いか。
それだけではない。
誰が買うかによって、価値が変わる。
「家庭で少量買う方なら?」
「うちで十分だろ。大きさが違ったって、味は大して変わらん」
「料理屋なら、隣を選ぶ場合もある?」
「そういうことだ」
アマリリアは、その言葉を確かめるように頷いた。
「同じ玉葱でも、誰が買うかで得な方が変わるのですね」
「そういうこと」
店主は何でもないように答えた。
アマリリアは少し大きめの文字で手帳へ残す。
『安い方が必ず得とは限らない。価格だけでなく、買い手側の手間・目的まで含めて価値が変わる』
「殿下」
「何?」
「面白いです」
「顔で分かる」
「今は許します」
「今日何回目?」
「分かりません」
「俺は分かるかも」
「数えないでくださいませ」
◇◇◇
せっかく比較するなら実物もあった方がいい。
ライルがそう言い出したことで、結局二人は両方の店から玉葱を一籠ずつ買うことになった。
「なぜ殿下が決めておりますの?」
「比較したいんだろ?」
「そうですけれど」
「なら買えばいい」
「持って歩きます?」
「護衛に持たせると不自然だよな。じゃあ俺が持つ」
「殿下が?」
「普通の青年なんだろ?」
昨日から自分が何度も思っていたことを本人に使われ、アマリリアは一瞬黙った。
「それ、便利に使っております?」
「少し」
「殿下」
「玉葱くらい持てるよ」
「それは存じております」
ライルは本当に二つの籠を受け取った。
片方を右手に、もう片方を左手に持つ。
普段なら王宮の侍従が持つような荷物を、今日は第一王子本人が何でもない顔で提げている。それだけなのに、アマリリアの目にはますます「普通の青年」に見えた。
「また見てる」
「見ておりません」
「見てた」
「……普通の青年に見えると思っただけです」
「いい意味?」
アマリリアは少しだけ迷ったが、ここで誤魔化す方が余計に意識しているような気がして、素直に頷いた。
「はい」
ライルの口元が少し緩む。
「嬉しい」
「玉葱を持っていることが?」
「そっちじゃない。君が俺を王子じゃなく見てる感じ」
その言葉だけが、市場の喧騒の中で少し近く聞こえた。
アマリリアはすぐに返事ができなかった。
最初に出会った時、ライルは第一王子でしかなかった。利用できる立場の人間。その次は偽装婚約者になり、やがて正式な婚約者になった。
けれど今、目の前にいるのは、玉葱の籠を両手に持って立つ十八歳の青年だ。
王子ではない。
ただのライル。
そう見えることを、アマリリアは嫌だと思わなかった。
むしろ。
「殿下」
「何?」
「今は玉葱のお話をいたしましょう」
「逃げた」
「市場見学です」
「はい」
ライルが笑う。
アマリリアも少しだけ笑い返した。
少し後ろでは、その光景を見ていたハロルドが明らかに不機嫌そうな顔をしている。
「旦那様」
ゼインが声をかける。
「何だ」
「殿下が玉葱をお持ちです」
「見れば分かる」
「非常に庶民的ですね」
「何が言いたい」
「お嬢様が楽しそうで何よりです」
ハロルドはすぐには答えず、娘と第一王子の背中をじっと見た。
「……分かっている」
「では?」
「分かっているが、何で玉葱を持っているだけであんなに楽しそうなんだ」
「若いので」
「お前まで市場の店主みたいなことを言うな!」
その声がまた前まで届いた。
アマリリアが振り返る。
「お父様! 声が大きいです!」
「私は普通に話している!」
「普通ではございません!」
近くの店主がまた笑った。
「今日、あの親父さんよく怒られてるな!」
ハロルドが黙る。
アマリリアは恥ずかしさに少し俯き、隣ではライルの肩が明らかに震えていた。
「殿下」
「無理」
「まだ何も申し上げておりません」
「絶対、笑うなって言うだろ」
「分かるなら!」
結局、ライルは笑った。
アマリリアも数秒だけ耐えたものの、店主まで楽しそうに笑っているのを見て、少し遅れて口元を緩めた。
◇◇◇
二つの店を見比べたあとも、アマリリアは野菜売り場をゆっくり歩いた。
同じ玉葱でも、価格は七枚と十枚だけではない。六枚まで下げている店もあれば、八枚や九枚、十二枚をつけている店もある。
「全部聞く?」
ライルが少し心配そうに尋ねる。
「しません」
「本当?」
「私を何だと思っております?」
「気になったら全部確認する人」
アマリリアは返事に詰まった。
「違う?」
「……今は少し違います」
「成長した?」
「多分」
「じゃあ何軒?」
「あと二軒です」
「やっぱり聞くんだ」
「二軒だけです!」
「はいはい」
一軒目は、王都近郊で採れた玉葱を扱う店だった。
「近ければ輸送費も安くなります?」
アマリリアが尋ねると、店主は肩をすくめた。
「運ぶ金は安いよ。でも王都の近くは土地が高い。仕入れまで安いとは限らん」
「なるほど。輸送費だけでは決まらない」
二軒目はかなり遠方から運ばれてきた品だった。
「では、こちらが高いのは運送費の影響です?」
今度はライルが尋ねる。
「それだけじゃないね」
店主は箱の底から一つ取り出した。
「こいつは日持ちする品種なんだ。遠くから来ても傷みにくい」
「保存性が高いのですね」
アマリリアがすぐに反応する。
「そう。倉庫へ入れても持つから、値段を急いで下げなくてもいい」
「売れ残りの損失が出にくい?」
「嬢ちゃん、変な言葉知ってるな」
「そうです?」
「普通の客はそんなこと聞かねえよ。どっかの商家か?」
「そのようなものです」
大きくは間違っていない。
多分。
「じゃあ、もう一つ教えてやる」
店主は少し面白がったように三つの玉葱を並べた。
「安いのが一番儲からないとは限らんぞ」
「え?」
「どういう意味です?」
アマリリアとライルがほとんど同時に聞いた。
「一個あたりの利益が少なくても、どんどん売れりゃ儲かる。逆に高いのを置いたって、三日売れなきゃ倉庫代が掛かるし、傷んだら終わりだ」
「価格だけでは利益が分からないのですね」
「そういうこと」
アマリリアは手帳へ書いた。
『売価-仕入値だけでは不十分。回転率、保管費、廃棄率も見る』
書き終えて顔を上げると、ライルがこちらを見ている。
「何です?」
「すごい楽しそう」
「かなり」
「今日はもう隠さないな」
「隠す必要がありませんので」
そう答えると、ライルは少しだけ嬉しそうに笑った。
◇◇◇
野菜売り場の端にある日陰へ移動し、アマリリアたちは一度情報を整理することにした。
ライルが持っていた玉葱の籠は、近くの護衛の一人が「市場見学の資料」として受け取った。さすがにこの先もずっと第一王子へ二籠持たせたまま歩かせる必要はない。
「絶対あとで王宮へ持ち帰るの?」
「当然です」
「食べる?」
「捨てる理由がございません」
「じゃあ料理してもらう?」
アマリリアは少し考えた。
「比較するのでしたら、同じ料理にしていただくのがよいかもしれません。味や食感の差も確認できますから」
「市場見学が夕食まで続くな」
「よいではございませんか」
「いいけど。じゃあ、今度一緒に食べよう」
今度はアマリリアが黙った。
「何?」
「殿下、それは……市場見学の続きです?」
「半分」
「残り半分は?」
「デート?」
「殿下」
「疑問形だから」
「便利に使わないでくださいませ!」
少し離れた場所にいるハロルドがこちらを見た。
アマリリアは反射的に声を落とす。
「お父様に聞こえます」
「聞こえてないだろ」
「分かりません」
「じゃあ、後で決めよう」
ライルはそこで追及をやめた。
「嫌?」
「嫌では……ございません」
「そっか」
それだけだった。
無理に答えを求めない。待つ。
また、そのやり方。
アマリリアの胸の奥が少し温かくなる。
「殿下」
「何?」
「一つ……」
「増えた?」
アマリリアは言葉に詰まった。
「好きなところ?」
「今は市場です!」
「増えたんだ」
「知りません」
「絶対増えた」
「手帳を見ます!」
アマリリアは誤魔化すように手帳を開いた。
けれど、本当に市場で得た情報もかなり増えている。
最初はただ、「同じ玉葱なのに値段が違う」としか思っていなかった。
今は違う。
入荷時間、産地、選別、重量、保存性、輸送費、倉庫代、売れ残り、廃棄、買い手、調理の手間。それぞれが少しずつ価格へ繋がっている。
「……資料で、市場価格の平均を見たことは何度もございます」
「うん」
「ですが、平均では今見た違いが全部消えます」
ライルの表情も少し真面目になった。
「七枚も十枚も?」
「八枚も十二枚も。全部まとめれば、一つの数字です」
「でも実際は、値段が違う理由も店ごとに違う」
「ええ」
アマリリアは手帳へ新しい一文を書いた。
『平均価格だけでは、価格差が生まれる理由は見えない』
「これ、ミハイルが言ってたことに近い?」
ライルが手帳を覗き込みながら尋ねる。
「数字だけを見るな、という意味でしたら、多分」
アマリリアは市場の向こうを見た。
父が警戒している商人。
まだ本人を信用したわけではない。
けれど、その手紙に書かれていた意味だけは少しずつ分かり始めている。
「ミハイル様が、なぜ市場を自分の目で見てほしいと書かれたのかは、少し分かってまいりました」
「会いたくなった?」
「まだです」
「まだ?」
「本人を信用したわけではございませんから。でも、話を聞いてみたいという気持ちは少し強くなりました」
「そっか」
ライルはそれ以上促さなかった。
また、急がない。
「殿下」
「何?」
「殿下はミハイル様へ会ってみたいです?」
「俺?」
「はい」
ライルは少し考えた。
「会ってもいいと思う」
「理由は?」
「君に手紙送った人だから」
アマリリアが黙る。
「それだけじゃないよ」
ライルはすぐに続けた。
「市場の話も直接聞いてみたい。それと、君をどう見てあの手紙を書いたのかは少し気になる」
「なぜです?」
「王子としてじゃなく、婚約者として」
「殿下」
「何?」
「今、それを言う必要はございました?」
「正直な方針」
「皆様、本当に便利に使いすぎです!」
ライルが笑い、アマリリアも呆れたように息を吐いた。
それでも。
嫌ではなかった。
◇◇◇
「そろそろ移動するか?」
少し後ろからハロルドが声をかけてきた。
今度は周囲へ響かない、適切な声量だった。
「お父様」
「何だ」
「今の声量、とてもよいです」
「何の評価だ」
「お忍びとして」
「娘に声量を評価されるとは思わなかった」
「先ほどまでが大きすぎたのです」
「もう分かった」
ハロルドが少し不機嫌そうに返した。
「それで、玉葱だけで何が分かった?」
「かなりございます」
「玉葱だけで?」
「玉葱だから、ではございません」
アマリリアは一度情報を整理し、父へ向き直った。
「入荷時刻、産地、輸送費、保存性、選別、保管、廃棄、売る相手。それらで価格が変わります。同じ価格でも店ごとの利益が同じとは限りませんし、安い品が買う側にとって常に得とも限りません」
「なぜだ?」
「料理屋のように大量に扱う場合、大きさが揃っている方が調理の手間を減らせるためです。価格差以上に、人件費や時間を減らせる場合があるのでしょう」
ハロルドは少し目を細めた。
「ちゃんと見たな」
「褒めております?」
「かなり」
アマリリアは一瞬だけ返事を止めたが、すぐに小さく笑った。
「ありがとうございます」
素直に受け取った娘を見て、ハロルドの表情も少し柔らかくなる。
「何です?」
「いや」
「お顔が」
「殿下みたいに言うな」
「便利ですので」
「本当に全員使うようになったな」
少しだけ笑ったあと、ハロルドは市場の奥へ視線を向けた。
「それで、次は?」
「荷車広場へ行く前に、もう少しだけ価格を見たいです」
「まだ?」
ライルが聞く。
「先ほど、朝に入った玉葱が高いと伺いましたでしょう?」
「うん」
「なら、朝の検査待ちが長くなれば、店へ並ぶ時間も遅れます。その結果、価格へ影響する可能性があるのではないかと」
ライルの目が少し大きくなった。
「最初の荷車と繋がった」
「ええ」
「確かめる?」
「はい」
「どうやって?」
「入荷時間が遅れた日に、価格を変える店があるか聞きます」
ハロルドが少し笑った。
「やっと繋がったな」
「お父様は気づいておりました?」
「可能性は考えた」
「なぜ言わないのです?」
「自分で見たいんだろう?」
また、それだった。
「分からなければ聞きますのに」
「今は分かったじゃないか」
「そうですけれど」
「悔しい?」
ライルが横から尋ねる。
「少し」
「でも楽しそう」
「かなり」
「どっち?」
「両方です」
アマリリアは今度は迷わなかった。
「先に気づかれていたのは悔しいです。でも、自分で繋がった瞬間は楽しいです」
それを聞いたライルの表情が少し柔らかくなる。
「そっか」
「殿下、何ですそのお顔」
「君が楽しそうで嬉しい」
アマリリアは言葉に詰まった。
「市場だから大丈夫?」
「大丈夫ではございません」
「小声だよ」
「そういう問題では……」
言い返す声が、さっきより少し弱い。
アマリリア自身にも分かる。
この市場では、誰も自分たちを第一王子とその婚約者だと知らない。
普通の青年と。
普通の令嬢。
そんなふうに見られていることへ、少し安心している。
「殿下」
「何?」
「……あとで」
「何が?」
「何でもございません」
「また?」
「今は市場です」
「じゃあ待つ」
その答えを聞いて、アマリリアは少しだけ笑った。
そして、野菜売り場の奥へ歩き出した。
◇◇◇
入荷の遅れが価格へ影響するのか。
その質問へ最初に答えてくれたのは、葉物野菜を扱う女性店主だった。
「そりゃあるよ。朝一番で来るはずの荷が昼前になったら、午前中に売る分がないだろ?」
「では、前日の在庫を?」
「残ってれば出す。でも古いから安くする」
「新しい荷が来たら?」
「値段を戻すよ」
「同じ日に価格が変わることもあるのです?」
「珍しくないね」
アマリリアは少し驚いた。
これまで見ていた資料では、一日の平均価格が記載されている場合が多かった。けれど実際の市場では、同じ日の中ですら価格が動いている。
「検査待ちで荷が遅れた場合も、影響します?」
「あるだろうね。ただ、店には理由なんか分からないよ。荷が来なきゃ、来ないだけさ」
アマリリアの表情が変わった。
「理由は分からないのです?」
「御者から聞く時もあるけど、毎回じゃないよ」
「では、市場入口で何が起きているか、店側は知らないこともある?」
「そりゃそうさ。店を空けて見に行けないだろ?」
その言葉で、先ほど検査官から聞いた一言が再び頭へ浮かんだ。
『誰も全体を見ていない』
入口で検査が止まる。
荷車の到着が遅れる。
店へ商品が来ない。
けれど、その途中で理由が伝わらない。
「殿下」
「何?」
「また繋がりました」
「検査官の人が言ってたこと?」
「ええ」
アマリリアは店先から少し離れ、手帳へ矢印を書いた。
『検査待ち → 入荷遅延 → 午前の品不足 → 前日在庫の値下げ/新入荷後に価格変更』
さらに下へ、
『店側は遅延理由を知らない場合あり』
と付け加える。
「資料なら」
アマリリアが小さく呟いた。
「何?」
「『午前中、一部野菜価格が上昇』。それだけで終わっていたかもしれません」
「でも実際は、御者も検査官も店の人も、その一行の中にいる」
「ええ」
アマリリアは市場を見渡した。
荷車。
御者。
検査官。
店主。
買い物をする客。
数字の向こうにいる人。
ミハイルの手紙に書かれていた意味が、ようやく実感を伴って胸へ落ちてきた。
「アマリリア」
「何です?」
「どうした?」
「少し……来てよかったと思っております」
「さっきも言ってた」
「先ほどより、もっと」
「そっか」
ライルは市場の奥へ目を向けた。
「じゃあ、次も見よう」
「はい」
「急がず?」
「ええ。一つずつ」
「君の言い方、便利だな」
「殿下、私のを取らないでくださいませ」
「便利だから」
「また!」
二人が笑う。
少し離れたところにいたハロルドは、今度は会話へ割り込まず、娘と市場を交互に見ていた。
「旦那様」
ゼインが小さく声をかける。
「何だ」
「ご安心されました?」
「何にだ」
「お嬢様の市場見学に」
ハロルドはしばらく黙ったあと、少しだけ肩の力を抜いた。
「市場見学についてはな」
「では、殿下との距離は?」
「それは別だ」
「そうですか」
「何だ、その顔」
「何でもございません」
「お前まで!」
ゼインが僅かに笑い、ハロルドは深くため息を吐いた。
ただ、その表情は市場へ入った時ほど険しくはなかった。
◇◇◇
中央市場を離れる前、アマリリアは最初に買った二種類の玉葱をもう一度確認した。
安い方と高い方。
一見すれば、どちらもただの玉葱だ。
けれど今は、同じようには見えない。
入荷した時間。
選別。
保管。
買う人。
使い方。
その一つ一つが価格へ繋がっている。
「殿下」
「何?」
「今日の夕食ですが、もし本当に比較するのでしたら、同じ料理へしていただく必要がございます」
「うん。一緒に食べる?」
アマリリアは言葉を止めた。
「……比較するのでしたら、です」
「だから一緒に食べようって」
「殿下」
「何?」
アマリリアは周囲を確認した。
父は少し離れているものの、確実にこちらを気にしている。
「お父様が見ております」
「いるな」
「見ております」
「じゃあ、後で決めよう」
ライルはそれ以上押さなかった。
また待つ。
そのことに気づくと、アマリリアの胸が少しだけ温かくなる。
「殿下」
「何?」
「一つ……」
「増えた?」
すぐに聞き返され、アマリリアは黙った。
「好きなところ?」
「市場です!」
「はい」
アマリリアは少し頬を熱くしたまま歩き出した。
今度は明確に否定しなかった。
ライルも気づいたかもしれない。
けれど何も言わず、ただ隣へ並ぶ。
それがまた、少し好きだと思ってしまう。
市場見学はまだ半分も終わっていない。
それなのに、市場で知ることと、ライルの好きなところが、同じように増えていく。
「アマリリア?」
「何でもございません」
「そっか」
その返事を聞き、アマリリアは小さく笑った。
やがて一行は中央市場の出口を抜け、次の目的地である荷車広場と倉庫区画へ向かう。
そこは、今見た価格よりもさらに前――品物が市場へ並ぶ前に何が起きているのかを知るための場所だった。
ところが、荷車広場へ到着したアマリリアたちが最初に目にしたのは、効率よく荷をさばく巨大な倉庫でも、ミハイル・フォードが整えたという荷車の共同利用の仕組みでもない。
広場の隅にある受付窓口の前で、一人の若い農夫が困り果てた様子で立ち尽くしていた。
手には何枚かの書類を握っている。
窓口で何かを言われては書類を見直し、別の窓口へ向かい、また戻ってくる。その動きを既に何度か繰り返しているらしく、額には薄く汗が滲んでいた。
「殿下」
「うん」
「あの方」
アマリリアは青年の手元を見た。
紙の端に使われている欄の配置。
品目記載欄の位置。
先ほど検査官から聞いた内容と一致する。
「古い様式ですわ」
ライルの表情も少し変わった。
「さっきの話に出てた?」
「ええ」
市場で見つけた問題が、そのまま次の場所へ続いている。
アマリリアはすぐに駆け寄らなかった。
まず、青年が何に困っているのかを見る。
それから聞く。
そして考える。
もう、その順番が少しずつ自然になっていた。
「参りましょう、殿下」
「うん」
二人は歩調を合わせ、荷車広場の中へ入っていった。




