第41話 市場を自分の目で見たいと申し上げたら、父まで同行すると言い出しました
翌日の午後、アマリリアが王宮の小応接室へ足を踏み入れると、昨日まで机の上を埋め尽くしていた祝い状や贈答品は、すっかり片づけられていた。
代わりに中央の大きな机へ広げられているのは、王都の簡略地図である。王宮と主要貴族街を中心に、その南側には商業区が広がり、さらに外縁へ向かって倉庫街、荷車広場、職人街、大小幾つもの市場区画が細かく書き込まれていた。普段の王妃教育で使う外交儀礼書や行事予定表に比べれば、随分と実務的な資料に見える。
けれど昨日、ミハイル・フォードから届いた手紙について話したばかりのアマリリアには、この地図が何のために用意されたのか考えるまでもなかった。
「ごきげんよう、王妃様」
「いらっしゃい、アマリリアさん」
いつものようにソファへ座っていたセレーネへ礼をしたあと、アマリリアはすぐには自分の席へ向かわなかった。机へ近づいて地図を端から端まで見渡してから、ゆっくり王妃へ顔を向ける。
「……本当にご用意なさったのですね」
「何を?」
「市場見学の準備です」
「昨日、自分の目で市場を見たいと書いたでしょう? なら、見ればいいじゃない」
セレーネは何でもないことのように紅茶を一口飲んだ。そのあまりにも軽い調子に、アマリリアは地図へもう一度視線を落とす。
「簡単に仰いますわね」
「難しくする必要もないでしょう?」
「ございます」
「あら、どこに?」
そう聞き返されると、アマリリアもすぐには答えられなかった。
昨日、自室でミハイルへの返書案を書いた時、確かに自分の手でこう記した。
『いつか私自身が市場について学ぶ機会を得た際には、自分の目で確かめたうえで考えたいと思います』
けれど、あの時の「いつか」は、もう少し先の未来を想定していた。王妃教育がさらに進み、必要な知識を蓄え、しかるべき機会が訪れたなら、その時には見てみたい。そういう意味だったはずなのだ。
それが一晩経っただけで、王都の地図まで用意されている。
「王妃様」
「何?」
「行動が早すぎません?」
「あなたにだけは言われたくないわ」
「なぜです?」
セレーネは指を一つ立てた。
「黒装束。夜中。第一王子脅迫」
「王妃様、三つを一息にまとめないでくださいませ」
「全部事実でしょう?」
「昔の話を便利に使うのはおやめください。精神的には随分昔のことです」
「まだ一年も経っていないでしょう?」
「それでも昔です」
セレーネが楽しそうに笑う。その横では、今日は最初から王妃教育へ呼ばれていたらしいライルが、地図を覗き込むふりをしながら肩を揺らしていた。
「殿下」
「何?」
「笑っております?」
「少し」
「最近、皆様それを隠さなくなりましたね」
「君の影響」
「私のせい?」
「正直に言う方針」
アマリリアは眉を寄せた。
「それは、自分の感情を必要以上に隠さないという意味です。私をからかう時に便利に使うための方針ではございません」
「でも便利」
「殿下」
「はい」
ライルは素直に口を閉じた。ただし、目元には笑いが残ったままである。
アマリリアは小さく息を吐いたあと、ようやく自分の席へ腰を下ろした。改めて地図を見れば、南部の商業区には赤や青の小さな印まで付けられている。思いつきで置かれた資料ではなく、既にある程度の下調べまで済んでいるのは明らかだった。
「それで、本当に市場へ行くのです?」
「ええ」
「いつ?」
「早ければ二日後」
「二日後ですの!?」
今度はさすがに声が大きくなり、室内の端で書類を整理していた侍女が一瞬だけ顔を上げた。アマリリアはすぐに気づき、少し恥ずかしそうに声量を落とす。
「王妃様、それはいくら何でも急ではございません?」
「市場は毎日開いているわ」
「そういう問題ではございません」
「では、何が問題なの?」
再び問われ、アマリリアは地図へ視線を落とした。
行きたい。それ自体は本当だった。
価格表や報告書の数字だけではなく、その向こう側にいる商人や御者、職人たちを実際に見てみたい。昨日ミハイルの手紙を読んだ時に生まれた興味は、一晩眠ったからといって消えていない。むしろ父ハロルドから六年前の街道崩落と市場価格の話を聞いたことで、さらに強くなっていた。
ただし、本当に行くとなれば話は別である。
「まず護衛です」
「もちろんつけるわ」
「第一王子殿下も同行なさるのでしょう?」
「俺も行く」
間を置かず答えたライルへ、アマリリアは半眼を向ける。
「即答ですわね」
「昨日も言った」
「覚えております。でも、殿下が行くからこそ問題が増えるのです」
「何で?」
「第一王子が市場へ行けば目立ちますでしょう?」
「変装する」
その言葉を聞いた瞬間、アマリリアの眉が僅かに動いた。嫌な予感というより、妙な既視感がある。
「殿下、まさか……お忍びです?」
「多分」
「……」
「何、その顔」
「いえ。私、お忍びという言葉に最近少々敏感でして」
「何かあった?」
「別に」
「絶対あるだろ」
「ございません」
「顔に出てる」
「見ないでくださいませ」
隣で聞いていたセレーネが、とうとう口元を手で覆った。
「アマリリアさん、ライルと市場へお忍びで行くのが嫌なの?」
「嫌ではございません」
考えるより先に答えてしまい、セレーネの目が細くなる。
「あら、即答」
「そこは違います。目的は市場見学ですから、デートではございません」
アマリリアが真面目な顔で言うと、今度はライルが目を瞬いた。
「俺、まだ何も言ってないけど」
「でもお顔が」
「君もそれ使うじゃん」
「便利ですので」
「ほら」
言い返され、アマリリアは一瞬黙った。悔しいが、完全に自分の言葉である。
セレーネの笑い声につられ、ライルも楽しそうに笑う。アマリリアも最後まで真顔を保てず、結局口元を緩めた。
◇◇◇
「まず決めたいのは、どこを見るかよ」
セレーネが地図の中央へ指を置くと、それまで少し緩んでいた空気が自然に引き締まった。
「王都の市場といっても一つではないわ。貴族や富裕層向けの高級品を扱う区画、一般市民向けの食料市場、職人街へ繋がる道具市場、地方から入った荷が最初に集まる卸売区画もある。全部を一日で見るのは無理だから、最初は三か所に絞りましょう」
セレーネが地図上の印を順番に指した。
一つ目は、王都南部でもっとも人通りの多い中央市場。二つ目は、そこから少し外れた荷車広場と倉庫区画。三つ目は、さらに南東へ進んだ職人街入口の小規模市場だった。
「まず、買う人がいる場所が中央市場。次に、物が入ってくる場所として倉庫と荷車広場。最後は?」
セレーネに視線を向けられ、アマリリアはすぐ答えた。
「作る人がいる場所ですわね」
「そういうこと」
アマリリアは三つの印を順番に見つめた。
胸の奥に、先ほどまでとは違う感覚が生まれている。地図の上で物流の経路を目で追っているだけなのに、頭の中では既に幾つもの数字が動き始めていた。
「これなら、同じ商品の価格がどう変わるのか追えます」
「価格?」
ライルが横から地図を覗き込む。
「例えば同じ小麦でも、地方から王都へ入った時の価格と、中央市場で一般家庭へ売られる時の価格、それから職人が加工してパンや菓子として売る時の価格では違うでしょう?」
「全部違うのは分かるけど、その差って何が入るんだ?」
「運送費、倉庫代、人件費、税、損耗、仲介料、加工費、それから利益です」
ほとんど考える間もなく返すと、ライルが少し目を見開いた。
「やっぱり詳しいな」
「一般的な範囲です」
「絶対一般的じゃない」
「商業の基礎です」
「俺、王子だけどそんな細かく即答できない」
「それは殿下が王族だからでは? 王家へ報告が上がる頃には、個々の費用より最終的な集計や傾向としてまとめられていることが多いのでしょう」
言われたライルは、しばらく考え込んだ。
「……多分、合ってる」
「だからこそ、私もまだ数字しか見ていないのだと思います」
アマリリアは地図の倉庫区画へ指を置いた。
「費用項目も知っていますし、割合も資料で見たことがございます。でも、実際に荷車一台を王都まで運ぶために何人が関わるのか、倉庫へ入れない間に御者はどこで待つのか、雨の日には何が起こるのか、売れ残った食料が最後にどうなるのか。そこまでは知りません」
「だから見たい?」
ライルの声が少しだけ柔らかくなった。
アマリリアは迷わず頷いた。
「はい。三か所で十分です。むしろ、それ以上増やすと一つずつを見る時間が減ります」
「そう言うと思ったわ」
セレーネが満足そうに笑う。
「分かっていたのです?」
「あなた、一度気になり始めると細かいでしょう?」
「褒めております?」
「かなり」
「では、ありがとうございます」
以前なら、褒められたこと自体を疑ったかもしれない。今は、そのまま受け取れるようになっている。それもまた、ここ最近の変化なのだろう。
「ただし、行くだけでは駄目よ。何を知りたいのか、事前に整理しておくこと」
「質問を作るのですね?」
「そう」
その瞬間、アマリリアの目が僅かに輝いた。
ライルは見逃さない。
「楽しそう」
「そう見えます?」
「かなり。嬉しい?」
少し前なら誤魔化したかもしれないが、アマリリアは素直に頷いた。
「少し」
ライルの表情も柔らかくなる。
「俺も楽しみ」
「市場見学を、ですよね?」
「当然」
「本当に?」
「まだお忍びに引っかかってるの?」
「少し」
「デートって言えば怒るだろ」
「怒りません」
「え?」
今度はライルの方が驚いた。
アマリリアは少し考えてから、真顔のまま続ける。
「市場見学をきちんと終えたあとでしたら、その後どうするかまでは否定いたしません」
ライルが固まった。
「……今、終わったあとならデートしてもいいって言った?」
「そこまでは申し上げておりません」
「でも、市場見学を邪魔しなければ?」
「まあ、その程度なら」
「それ、かなり前向きじゃない?」
言われてから、アマリリア自身も気づいた。
確かに以前なら、市場見学とデートを同じ日にするなど、自分から可能性すら残さなかったかもしれない。
「王妃様」
「何?」
「今のは忘れてくださいませ」
「無理ね。私も聞いたもの」
「殿下だけで十分です!」
「母上」
「何?」
「二人で行くから」
「分かっているわよ」
「何でそんなに嬉しそうなの?」
「親だから」
「便利すぎる!」
今度はライルが額を押さえ、アマリリアはとうとう声を出して笑った。
◇◇◇
話が具体的になるにつれ、アマリリアは一つ気になることを思い出した。
「王妃様。ミハイル様へ、市場見学のことはお伝えになります?」
その問いに、セレーネの表情が少し変わった。ライルも地図から顔を上げる。
「あなたはどうしたい?」
「……最初は、伝えない方がよいと思います」
「理由は?」
「ミハイル様に案内していただけば、悪意がなくても、ミハイル様が問題だと思っている場所や、私へ見せたいものを中心に回ることになるでしょう。それでは、私自身の目で見るという意味が薄れます」
セレーネは満足そうに頷いた。
「正解。もちろん王宮側の警備責任者と、市場を管理する者には必要最低限伝えるわ。第一王子が訪れる以上、本当に誰にも知らせないのは危険だから。でも、一般の商人や店主へ事前に大々的な告知はしない」
「それならよいと思います」
「変装は?」
ライルが尋ねる。
「必要でしょうね」
「どの程度?」
「第一王子だと分からない程度」
「それ、無理じゃない?」
アマリリアはライルをじっと見た。
「殿下、ご自分をどれほど有名人だと思っております?」
「有名だろ」
「王都の全員が殿下のお顔を正確に知っているわけではございません。式典や肖像画で見る姿と、普通の服で市場を歩く姿とでは印象も違います」
「でも、このままだと分かる人には分かると思う」
「でしたら、髪型を少し変えればよろしいのでは?」
「髪?」
アマリリアは無意識にライルの前髪へ視線を向けた。
「少し下ろして、普段より整えすぎないようにすれば」
「触る?」
「なぜそうなりますの!?」
「見てるから」
「見ただけです!」
セレーネが横で笑っている。
「ライル、楽しそうね」
「違う。市場見学だよ。仕事だから」
「ええ。でもアマリリアさんに髪を触ってもらいたそう」
「母上!」
今度こそ室内の侍女が小さく笑い、ライルの耳が赤くなる。アマリリアも頬が熱くなるのを感じた。
「王妃様、本当に授業へ戻してくださいませ」
「今しているでしょう?」
「途中から明らかに違いました!」
「では戻すわ」
セレーネは本当に一瞬で真面目な表情へ戻った。
「二人とも、質はよいけれど王家やベスター家と分かる意匠のない服を使います。市場で逆に安物を着れば不自然だから、裕福な商家か下級貴族程度に見えるものがいいでしょうね。護衛は目立たない形で六名。二人の近くに二名、残りは少し距離を取って配置するわ」
「六名ですのね」
「少ない?」
「いいえ。お忍びとはいえ、安全まで削る必要はございませんもの」
「その認識で正しいわ」
「ゼインは同行できます?」
「もちろん。本人の意思も確認してね」
「ディーンも連れていきたい」
ライルが言うと、アマリリアは少し首を傾げた。
「殿下、ディーン様へ市場見学の仕事を押しつける気です?」
「押しつけない。俺だけじゃ分からないこともあるだろ」
「それは……確かに。でしたら、同行いただいた方がよいかもしれません」
そこまで言ってから、アマリリアは少しだけ口元を上げた。
「ただし、市場見学後にデートへ切り替える場合は、ディーン様を解放して差し上げてくださいませ」
「まだ決まってない!」
「でも否定はなさらないのですね」
「アマリリア」
「何です?」
「君も楽しんでない?」
「少し」
素直に認めると、ライルが「絶対だ」と笑い、セレーネも楽しそうに肩を揺らした。
◇◇◇
王妃教育を終えたあと、その日は学園へ戻る必要がなかったため、アマリリアとライルは王宮の別室を借りて、市場見学で確認したい項目を整理することになった。
窓の外では午後の陽射しが少しずつ傾き、遠くに見える王都の屋根が淡い金色へ染まり始めている。机の上には先ほどの地図、新しい紙、筆記具が並べられ、二人は向かい合わせに座った。
「まず何から?」
ライルが尋ねた。
アマリリアはすぐには答えず、頭の中へ浮かんでいる疑問を順番に並べ始める。聞きたいことはいくらでもあったが、このまま全部持っていけば市場見学ではなく尋問になりかねない。
「アマリリア?」
「何です?」
「今、質問百個くらい考えてない?」
「失礼ですわね」
「違う?」
「……四十くらいです」
「ほら!」
「まだ整理前です」
「多いって。十個くらいにしよう」
「少なすぎます」
「十五」
「二十」
「間を取る気ある?」
「では十七か十八」
「それ俺が言うところじゃない?」
「では十八で」
「本当に間取ったな」
ライルが声を上げて笑う。アマリリアも少しだけ口元を緩めながら、紙の一番上へ最初の項目を書いた。
「一つ目。地方から品物が王都へ入るまでに、どこでもっとも時間がかかるか。二つ目は、荷車一台あたり、王都へ入るまでに必要な費用です」
「税とか?」
「税、検査、保管、仲介などです。それから三つ目は、食料品の売れ残りがどうなるのか」
「廃棄?」
「値下げ、加工、施し、廃棄。恐らく複数の方法があるはずです」
ライルはしばらく紙を見つめたあと、感心したように呟いた。
「君、本当に向いてるかも」
「何に?」
「こういうこと。国の仕事」
アマリリアの筆先が止まった。
「殿下、急に話を大きくしないでくださいませ」
「でも、まだ市場へ行ってもないのに、もうそこまで考えてるだろ。興味があるからじゃないの?」
否定できなかった。
アマリリアは紙へ視線を落としたまま、少しだけ沈黙する。
「アマリリア」
「何です?」
「将来、俺と一緒にこういうことを考えるのは嫌?」
その問いは、思っていたより深く胸へ入った。
将来、ライルと一緒に国を見る。
これまで将来の話が出る時は、婚姻や夫婦という言葉ばかりを意識していた。そのたびに恥ずかしくなって、まだ遠い未来の話だと思おうとしていた。
けれど、今聞かれているのは少し違う。
隣へ立つだけではない。同じ問題を見て、一緒に考える未来だ。
「嫌ではございません」
アマリリアは慎重に、けれどはっきり答えた。
「ただし、殿下へ全部任せるのも嫌です。私が分かることは私が考え、殿下が分かることは殿下が考える。それでも分からなければ、二人で調べればよいでしょう?」
ライルの表情がゆっくり柔らかくなった。
「それ、好き」
「……」
「その考え方」
「先に言ってくださいませ!」
「最後まで聞いてから怒るなよ」
「今、一瞬違う意味かと思いました」
「違う意味でも好きだけど」
「殿下!」
「小声!」
「そういう問題ではございません!」
顔が熱い。
アマリリアは誤魔化すように紙へ視線を落とし、少し乱れた字で次の項目を書いた。
『現場で一番困っていること』
「これ、かなり広くない?」
「広いです。でも、こちらが予想できる問題だけ聞いても、私たちが知らない問題は出てこないでしょう? ですから、最後は自由に話していただく方がよいと思います」
ライルの目が少し変わった。
「ああ、なるほど。じゃあ俺も一個考える」
ライルが紙を引き寄せ、自分で書こうとする。
「何です?」
「『王家へ言いたいことはあるか』」
「今回は身分を明かさない予定です」
「あ」
「殿下」
「忘れてた」
アマリリアが呆れたように見ると、ライルは少し考え直して別の表現を書いた。
「じゃあ、『今の決まりで一番困るもの』は?」
アマリリアはその文章を見つめたあと、素直に頷いた。
「よいと思います」
「本当?」
「ええ」
「褒められた」
「殿下、昨日まで昔の自分を褒められても困っていたではございませんか」
「今の俺は慣れてきた」
「早すぎません?」
「君が慣れろって言っただろ」
確かに言った。
アマリリアは少し笑う。
「では改めて。よい質問だと思います」
「ありがとう」
今度は普通に受け取った。
それを見て、アマリリアも少し嬉しくなった。
◇◇◇
市場見学用の項目をどうにか十八まで絞り込んだ頃には、窓の外の空がすっかり夕暮れ色へ変わっていた。
「終わった……」
ライルが椅子へ深く背を預ける。
「殿下は七つしか考えておりませんでしょう?」
「君が十一個先に出したからだろ」
「もっと出してもよろしかったのですよ?」
「絶対増やすと思ったから止めたんだよ」
ライルが笑う横で、アマリリアは完成した一覧を見直した。
物流、価格、待ち時間、検査、保管、損耗、売れ残り、人手、荷車、職人、露店、現在の制度で困っていること、変えてほしい仕組み。全部で十八項目あるが、すべてを全員へ聞く必要はない。場所ごとに必要なものだけを選べばいい。
「これは明日、王妃様へお見せします。それから、お父様にも」
ライルの表情が僅かに曇った。
「今、嫌そうなお顔をなさいましたね?」
「だって、絶対反対するだろ」
「反対はしないと思います。昨夜も『勝手に行くな』としか仰っておりません」
「それ、ほぼ反対じゃない?」
「条件をつけるつもりなのでしょう。護衛、同行者、時間、場所。それから多分、殿下についても何か仰ると思います」
「俺が条件になるの?」
「第一王子ですので。それに、私の婚約者ですから」
ライルが止まった。
「何です?」
「最近、それ普通に言うようになったな」
「そうです?」
「うん。嫌じゃないけど」
「でしたら問題ございません」
「むしろもっと言って」
「調子に乗らないでくださいませ」
「今の流れならいいだろ!」
二人は顔を見合わせ、結局また笑った。
◇◇◇
その夜、予想していた通り、ハロルドは市場見学そのものには反対しなかった。
正確には、最初に一度だけ「分かった」と答えた。
ただし、そのあとが長かった。
「護衛は?」
「王宮から六名です。ゼインも同行します」
「少ない。八にしろ」
「なぜ増えるのです?」
「市場だぞ。人が多い!」
「市場なのですから当然です」
「第一王子殿下も行くんだろう!?」
「ですから王宮側の護衛がおります」
「殿下の護衛とお前の護衛は別だ!」
夜の書斎へハロルドの声が響き、アマリリアは額へ手を当てた。
「お父様、落ち着いてくださいませ」
「落ち着いている!」
「声が大きいです」
ちょうどその時、書斎の扉の外を通りかかった侍女の足音が一度止まった。
二人とも黙る。
「……聞かれております」
「お前が余計なことを言うからだ!」
「声を大きくしたのはお父様です」
「それより、ミハイルには知らせたのか?」
「知らせません。少なくとも事前には」
「それならいい」
あまりにも即答だったため、今度はアマリリアの方が少し目を細めた。
「お父様、そこまで警戒なさいます?」
「する。人を見る男だと言っただろう。お前が市場へ行くと知れば、絶対に何か考える」
「何か、とは?」
「何かだ!」
「曖昧です」
「分からんものは分からん!」
「正直ですわね」
「お前の影響だ!」
「最近皆様、何でも私のせいになさいますね」
ハロルドは一度大きく息を吐いた。それでも、しばらくすると声が少し落ち着く。
「だが、市場を見ること自体は悪くない」
その言葉に、アマリリアの表情が変わった。
「本当に?」
「何で驚く。危険な場所へ勝手に行くなら止めるが、帳簿だけを見て分かった気になるより、一度現場を見る方がいいこともある」
ハロルドは少し昔を思い出すように視線を落とした。
「雨が降れば、紙には『輸送遅延』と一行で書かれる。だが実際には、荷車が泥にはまり、馬が疲れ、御者が濡れ、荷が傷む。宿へ泊まれば人件費も増えるし、その日の便が遅れれば次の荷まで詰まる。そういうものは、現場を一度見た方が早い」
アマリリアの胸が少し動いた。
ミハイルだけではない。
父もまた、数字の後ろにいる人間を見ている。
「お父様」
「何だ」
「一緒に行きます?」
「……え?」
今度はハロルドが完全に止まった。
「市場へです。お父様も詳しいでしょう? それにミハイル様とも直接お会いしたことがございます。もし偶然お会いすることがあった場合にも――」
「待て。なぜ会う前提だ」
「偶然と申しました」
「絶対会う流れだろ!」
「まだ決まっておりません」
「物語みたいに言うな!」
「お父様?」
「何でもない!」
ハロルドは頭を抱えた。
だが、しばらくして顔を上げる。
「……行く」
「まあ」
「何だ、その反応」
「お断りになるかと」
「お前と第一王子殿下を二人だけで市場へ行かせられるか!」
「護衛がおります」
「そういう問題ではない!」
アマリリアは少し目を細めた。
「では、デート監視?」
「違う! 市場見学だ!」
「殿下と同じことを仰いますね。殿下も市場見学だと強調なさっておりました」
ハロルドの目が急に細くなる。
「リリア」
「何です?」
「まさか、そのあと何かあるのか?」
「……市場見学です」
「今の間は何だ!」
「お父様」
「デートか!?」
「まだ決まっておりません!」
「まだ!?」
言った直後、しまったと思った。
ハロルドが完全に固まっている。
「……聞かなかったことにしてくださいませ」
「まだ決まっていないということは、可能性はあるのか?」
「……」
「リリア!」
今度こそ、扉の外から侍女の小さな咳払いが聞こえた。
「聞かれております」
「今それどころではない! 市場見学には私も行く。絶対行く!」
「先ほどからそう仰っております」
「終わったあともだ!」
「そこまで?」
「当然だ!」
「それではお忍びの意味がございません」
「私は少し離れる!」
「監視ですわよね?」
「護衛だ!」
「伯爵が?」
「父親だ!」
言い切った瞬間、アマリリアは目を丸くし、そのあととうとう笑ってしまった。
「ついに認めましたわね」
「何をだ!」
父は本気である。かなり本気だ。
少し前なら、こうして何かにつけて心配されることを面倒だと思ったかもしれない。今も多少は面倒なのだが、それだけではなくなっている。父が心配している理由も、以前より少し分かるようになった。
「分かりました。お父様も同行してくださいませ。ただし、一つだけお願いがございます」
「何だ」
今度はアマリリアも少し真面目な表情へ戻った。
「市場では、まず私が自分で見たいです。お父様が先に全部説明するのではなく、最初は自分で見て考えさせてください。分からないことは、そのあとでお聞きします」
書斎から大声が消えた。
ハロルドはしばらく娘を見つめていた。やがて、先ほどまでの勢いを少しだけ抑えた声で答える。
「分かった」
「ありがとうございます」
「ただし、危ないと思ったら私が止める。それは譲らん」
「分かりました」
「第一王子殿下もだ」
「それは殿下へ直接仰ってくださいませ」
「お前から言え」
「なぜ?」
「私が言うと角が立つ」
「今さらです?」
「今さらとは何だ!」
結局、最後にはいつもの父へ戻った。
アマリリアもまた、小さく笑った。
◇◇◇
自室へ戻ったあと、アマリリアは机の上へ市場見学の質問一覧を広げた。
十八項目。
ライルと二人で決めた上限である。
それでも父と話したあとで、一つだけ追加したいものができてしまった。
アマリリアはしばらく紙を見つめ、それからペンを取る。
『同じ市場を見た時、立場が違えば何が違って見えるのか』
書き終えると、自然に今日の会話が頭へ浮かんだ。
第一王子。
伯爵令嬢。
伯爵。
側近。
護衛。
商人。
御者。
職人。
客。
全員が同じ市場へ立っても、おそらく目へ入るものは違う。
ライルなら制度や王家へ上がる情報を意識するかもしれない。父なら領主として輸送や価格の安定を見るだろう。ゼインや護衛は、まず人の流れや危険な場所を確認するはずだ。商人なら利益と客の動きを見るだろうし、毎日荷を運ぶ御者なら、道路や待ち時間の方が重要なのかもしれない。
そして自分は、何を見るのだろう。
それをまだ決めたくなかった。
市場へ行く前から「私はこれを見る人間です」と決めてしまえば、目の前にある別のものを見落とす気がしたからだ。
「……十九個になってしまいましたわね」
アマリリアは小さく呟き、紙を見つめる。
十八まで。
そう決めた。
きっとライルへ見せれば、「増えてる」とすぐ言われるだろう。
少し考えた末、アマリリアは十九個目の横へ小さな文字を書き足した。
『これは質問ではなく、観察項目』
「これでよろしいですわ」
誰もいない部屋なので、当然反論する者はいなかった。
アマリリアは満足そうに一覧を閉じ、机の端へ丁寧に置いた。
二日後、市場へ行く。
ミハイル・フォードが見ているもの。
父が見ているもの。
王宮の資料には書かれていないもの。
そして、自分には何が見えるのか。
考えれば考えるほど知らないことは増えていく。それでも、知らないから怖いという感覚より、知らないから見てみたいという気持ちの方が、今はずっと強かった。
人付き合いは相変わらず面倒だと思う。
市場もきっと、数字だけでは割り切れないことばかりなのだろう。
けれど、面倒だから知りたくないとは、もう思わない。
アマリリアは窓の外へ目を向けた。夜の王都はここからでは見えないが、その先には二日後、自分が初めて「第一王子の婚約者として用意された席」ではなく、自分の足で見に行く市場がある。
少しだけ楽しみだった。
ただ、この時のアマリリアはまだ知らなかった。
二日後の朝、王宮で用意された地味な外出着へ着替え、髪型まで普段とは少し変えたライルを目の前にした瞬間。
第一王子という肩書きを薄くした彼が、想像していた以上にただの十八歳の青年に見えてしまい、アマリリアが本当に数秒間、何も言えなくなることを。
そして、そんな娘の表情をすぐ隣から見たハロルドが、市場へ到着するより前から、
「やっぱり私は同行して正解だった」
と、心の底から確信することになるのを。




